第21話 夜は燃えていますか
リコという女の半生について、語るべきことは少ない。亡国の末両親と共にアズレアに辿り着いたところまではいいものの、職を得ることができず奴隷となった。彼女の人生は、ただそれだけであった。
転換点があるとすれば、それはほんの十分前のこと。
「奴隷なんだから、人間様に奉仕するのは当然だろ?なあ」
───やけに汚い半裸の男が、私に覆いかぶさっていた。血走った目は暴力性に溢れていて、今日は楽には眠れないのだろうなと、ぼんやり思った。
「何だよその目は」
男が声を荒げる。食いしばった奥歯から、血が滲み出た。こんな一晩の娯楽のために、私は踏み潰されるのかと。
ああ、神様。もしもいるのなら、願いを一つ聞いて下さい。
救いはいりません。今日まで与えられなかったものに、期待なんてしませんとも。ですからせめて、罰だけは。罰だけは平等に与えてください。この男よりも私が善いと、そう思ってほしいのです。
「それが客に向ける態度かよ」
男が拳を振り上げる。私は目をつむり、次に来る痛みを待った。
しかし来ない。来るべき衝撃も、罵声も、いつまで立ってもやって来ない。重たいものが私に寄りかかってきて、ほんの少し不快だった。
目を開ける。男が私の腹部に頭をうずめている。頭からどくどくと血が流れていて、周辺に飛び散っていた。
絶句する。理由もわからず辺りを見渡すと、一人の少女が立っている。見覚えがあった。名前は確か、ソリア。少し前に貴族に買い取られたはずだが、いや、そんなことはどうでもいい。
「あなたが、これを?」
彼女の手にはナイフがある。誰が誰を殺したのかは明白であったが、しかし、それが実行可能であるとは考えがたかった。一撃で、音も立てずに殺すなんて神秘の領域だ。
「ええ。あなたたちを助けに来たんです。あとは自由に、逃げるでもなんでもしてください」
簡潔に答えて、ソリアは去っていく。助けに来た、という割には、彼女は私に興味がなさそうだった。
「あ、ありがとうございます?」
ソリアは振り向かない。残ったのは私と、生温い死体だけだった。
頭を掴んで、死体を腹からどける。その重さは人間1人分でこそあったが、抵抗がないので、それは人ではなく物であった。
姿見の前に立つ。毎日私たちが磨いているので、汚れ一つもない。
頬を撫でる。少し、老けただろうか。まだそんな年齢ではないはずなのに、肌の衰えが気になる。
人生の半分以上をここで過ごしてきた。故郷の景色は遠く、遠く、その残影すら瞼に映らない。決して、戻ってくることはないだろう。
無心で、廊下に出る。死体が転がっていた。私に罰を与えたもの、私を弄んだものが、ゴミのように転がっている。
個室の扉が、すべて開いていた。赤い足跡が入り口に残されていて、中を覗いてみると死体がある。先に逃げ出したのか、同僚はいなかった。
恐れるべきではない。私が望んだことであるのだから、この震えは歓喜によるものでなければならない。一欠片の同情も、くれてやるわけにはいかなかった。
出口へと続く階段に進むと、同僚たちが集まっていた。聞けば、ソリアはもう館から出ていったそうだ。何人かはその背中を追い、多くが残った。そういう話らしかった。
私が階段を降りると、一人の奴隷が言う。同室の、多少は気の知れた子だった。
「ここで待ったほうがいいよ。逃げてもすぐに、捕まっちゃう」
「どうせこの店はおしまいですよ。残っても、別の場所で同じ日常が繰り返されるだけです」
「逃げたって捕まるんだよ!奴隷紋がある限り、絶対、逃げられない……」
やってみないとわからないだろうと、そう言いたくなる気持ちもある。しかし事実、逃げればそうなるだろう。この肉の内側に刻み込まれた紋章は、居場所を永遠に協会に発信し続けるのだから。
私ではこれを取り除くことはできない。息苦しいからと、肺を取り出せないのと同じことだ。
「じゃあ、契約書を燃やしてしまいましょう」
この国の奴隷の数は膨大だ。いかに紋章によって身分を判別しようとも、追うべき型番がわからなければどうしようもない。
「ここの契約書を燃やしても、協会はきっと探しに来るよ。写しもあるんだし……だから、だからさ。やめようよ」
怯えた表情で、同僚は卑しく笑っていた。その姿は、自分が動かない理由を必死に探しているかのようだった。
言葉の意味を理解しているのだろうか。ここに残るとはつまり、あの生活を、屈辱を永遠に味わい続けるということだ。
「じゃあ、奴隷協会を燃やせばいいじゃないですか。探す手段が消せないのなら、探す人間を消せばいい」
同僚たちの反応は微々たるものだった。私は建設的な意見を口にしているのに、どうも、空気が冷たい。
まあ、いいだろう。それならば一人でやってみせよう。一階には業務用の油がある。家を燃やすには少々心もとないが、何も無いよりはいい。
火打石もあった。機能性のない小さなポケットに、入るだけ入れた。
協会は空いていて、表には二人の従業員しかいなかった。だから、邪魔が増えないうちに、入口に油をまいた。
油に沿うように炎の道が広がって、私は愉快でたまらなかった。
上手く言ったという確信があった。奇妙な全能感があった。
「は、はは!」
ああ、やってやった。全くもって、難しいことではなかった。
あとは逃げるだけだと、身体を翻した瞬間。
───ドン!
頭部に重い衝撃が走った。
遠くで声が聞こえる。
ぱちぱちと、音が聞こえる。
怒声、悲鳴、唸り声。どれもどれも、聞き慣れた音だ。
痛い。痛い。いたい。
痛みが私を殺しに来ている。
もう少しだったのに。
ああ、どうして———
♢
「みんな、死んでくれないんだろう」
記憶の再生が終わる。情報の濁流に、手が震える。少し潜りすぎたのか、□は一瞬自分の名前を忘れた。
……ここで我を失えば、すべてが台無しだ。一度術式を展開してしまった以上、治療の中断はできない。できるが、また一からとなれば私/彼女は死んでしまう。
『修復術式展開』
心を無にして、魂から複製した古い肉体情報をリコに転写する。かき混ぜた水面が鎮まるように、魂の構造に合わせて肉体が変質していく。
外傷の復元、完了。脳機能の復元、完了。記憶領域の置換、完了。
これで元通りだ。なんの不足もない。
「……」
蘇生の次に困難とされる頭部の治療に成功したというのに、感慨はない。
驚きこそしたが、悲しくはなかった。記憶の再生とはつまり、体験の共有だ。感動という熱を持った情報に、悲しみは抱けない。記憶は、感情の奴隷であるのだ。
しかしそれでも、リアンシェーヌという人格は、その感情を許せない。自分を保つのは、倫理ではなく論理。貴族としての義務に背くことはできないと、私は私の異常を頭の中から消し去った。
疑問は尽きない。なぜ、私を置いてこんな強硬策に出たのか。どうして貴族でもない彼女が魔術を使えるのか。検診術式を今日まで何度も使ってきたのに、どうして彼女の秘密に気がつけなかったのか。
買い取ったソリアは、本物ではなかった……?しかし、契約時には兄も、奴隷紋の有無を確認しているはずだ。偽物であったとは考え難い。いやしかし、本物のソリアがあんなことをするはずがない。
リコを脇道に寝かせて、呼吸を整える。
私はのそりと立ち上がり、火傷を負った職員たちを治療することにした。検診術式は使用しない。この程度の傷であれば略式の治癒魔術で十分に修復できるし、そもそもこれ以上の記憶の受け入れは耐えられない。
数が多いが、この程度ならばそう時間はかからないだろう。残りの人たちもみんな……
「助ければいいというものではないでしょうに」
聞き覚えのある、甘ったるい声。耳元にかかるその息を、私は思い切り振り払った。
「グラース……!」
「睨まれる覚えはないわよ。責任を問うている途中に逃げ出したのは、むしろあなた達じゃない」
傷口は完全に塞がっていて、破けた修道服から彼女の生肌が見えた。
わざわざ元気に追ってきたのか。かなりのハイペースで私達は走って来たのに、グラースは息を上げてもいない。
「この子はもう幸せにはなれないわ。弱者の罪人なんて、もうどうしようもないもの。殺してあげたほうが世のためよ」
気絶しているリコを見下ろして、グラースは無表情に言った。
「償いは、生きていなければできません」
罪を犯したものには、罰はあって然るべきだろう。しかしそれは死によってではなく、社会への献身であるべきだ。殺してしまうという選択は、いかなる状況においても正解ではない。
「でもその子、放って置いたら人を殺してしまうかも知れないわ。私なら彼女に人道的な死を与えてあげられるのだけど、譲ってはくれないかしら」
「あなたにその権利はありません。裁くにしても、それは憲兵の仕事です」
確かに彼女が、再び罪を犯す可能性はあるだろう。しかしそれは、周りの支援で立て直すことができるかもしれない。
私がグラースを見上げると、彼女は口元に手を寄せる。
「それでもやるわ。眼の前の不幸を消し去ること、それこそが私の正義だもの」
グラースは、何をとち狂ったのか、自分の指先を噛みちぎった。
『葬礼術式展開』
血液が飛び散り、その指先が、奇妙に揺らぐ。
見覚えがあった。魔力が揺らいでいる。その作用は私の使う治癒魔術と全く同じはずなのに、濃度がまるで違う。
指先が、横たわるリコに向けられる。
───あれは、だめだ。
触れれば死ぬ。
そう確信させるものが、そこにはあった。
咄嗟に私はリコに覆いかぶさった。思考は頭の外にあった。
漂白された意識の中、私は目を瞑り迫りくる死に怯え───
「なにお嬢様に手を出そうとしてるんですか」
唐突に、中断される。
目を開けば、そこには煤を被った赤髪の女騎士が立っていた。グラースはその腕を篭手によって押さえつけられていた。
「誤解よ、ユリアナちゃん。私は、目の前の奴隷を殺そうってだけで……」
折れている。掴まれたグラースの腕は、あり得ない向きにへし折られていた。平然を装っていたが、額には汗が浮かび声色にも余裕がない。
グラースの指先に宿っていた魔力の渦は、もう感じられない。しかし、それはグラース自身が術式を閉じただけだ。再び展開されれば、おそらく彼女であろうとも、死は免れない。
無論、ユリアナも不覚は取らないだろう。彼女には術式が展開される前に、グラースを殺せるだけの能力がある。
緊張が走る。
先に動いたほうが死ぬだろうと、戦闘において素人の私ですら理解できた。
その致命的な状況で、動くものが一人。
「───っ!」
いつ意識を取り戻したのか、リコが飛び起き走り抜けた。
ユリアナの意識が僅かに逸れる。その隙をグラースは見逃さず、即座にユリアナの腕を振り払った。
「あーあ、逃げちゃった」
折れた腕を修復しながら、グラースは呟いた。
私を庇うように、ユリアナは腰元の剣に手を置き構えている。
「何逃がしてるんだ!あいつは、建物に火を放ったんだぞ!」
膠着状態を破ったのは、またしても第三者だった。先程の小太りの男が、イライラとした様子で二人の間に入る。その危険性をまるで理解しないままに。
するとグラースは二歩、男に近づいた。
「な、なんだ」
「いえ、少し気になって」
グラースが、男の首元に手を添える。その魔力の集積に、まさか殺してしまうんじゃないかと、一瞬私は焦ったが。
『修復術式展開』
グラースが使用したのは、何の変哲もない治癒魔術だった。
「……なっ」
男が目を見開いた。目に見えた外傷はなかったが、男の反応からして、きっと怪我は修復されたのだろう。
それからグラースはくるりと半回転して、治療を待っている職員に近づき、ひとりひとりの頬に触れる。私にはわかった。一秒にも満たない僅かな時間で、やけどや外傷の修復を行っているのだと。
礼を言うものがいた。しかしグラースは返事もせずに、てくてくと私に近づき、通り過ぎる。
「どこに行くんですか」
「捕まえて、消し去るわ」
誰をと、聞くまでもない。今に逃げたリコを、彼女は殺そうというのだ。
「どうして、殺すという選択をとるのですか。あなたには他のやり方ができるでしょう」
否定のための質問ではない。正しいことをしている姿を見せられたものだから、余計に不思議でたまらなかった。
「救う意味があるのは、豊かさを持つものだけなのよ。治療しても貧しさは変わらない。貧しい人は盗むし、殺すし、裏切った挙げ句に飢えて死んでいくわ」
「だから殺すのですか。その人生に価値がないと決めつけて」
「救いがないから消し去る、それだけよ」
矛盾している。救えないのと、自分から殺すのでは全く意味が違う。
それは誰も望んでいないことだ。幸福を増やすのではなく、不幸を減らすだけの消費を、どうして正義と呼べるのか。
「ねえ、あの煙」
グラースが空を見上げる。遠くでも、煙が上っていた。
向こうは方角的に、貧民街になるはずだが、一体何が起きているのだろう。
「……あの場所。もしかして」
グラースは、向かおうとしていた路地ではなく、大通りへと進行方向を切り替えた。
「叔母として、一応教えておいてあげるけれど……ソリア・ゾラはあちこちで奴隷を開放して回っているみたいよ。リアちゃんはどうするのかしら」
一瞬立ち止まって、グラースは私に尋ねた。
救うことのできない弱者が、あそこにいるのだと反論するように。殺すべき悲劇が、そこにいると言いたげに。
「友人としてソリアさんを止めます」
あえて、言い切る。ソリアが偽物であるなどという希望は、今抱くべきものではない。
「話し合いで解決できる次元じゃないわよ」
「……そうかもしれませんね」
結論は出ない。
ことここにおいて、ソリアを助けるべきだと私は口にできなかった。命を尊いとするのなら、それを奪う者こそ、抹殺すべきであるはずだから。
「でも、私は彼女の友達なので」
だから、理論で正当化することを私は諦めた。教義が、責務が私を否定したとしても、ただ友人として、やるべきことをしたかった。
「……似てないわね。ネメジスに」
グラースは、走り去った。燃え盛る貧民街に向かう。
きっと、ソリアはあの先にいるはずだ。だから私もその背を追おうと───
「そちらには誰もいませんよ」
ユリアナが私の手を掴んだ。篭手が熱で高温になっていて、私は顔をしかめる。
ユリアナは慌てて手を離し、申し訳ありませんと頭を下げた。
彼女の手には焦げ付いた一枚の紙が握られている。
「もしかしてそれ」
「はい。ソリアさんの奴隷契約書です。これを使えば、彼女の居場所は突き止められます」
ソリアの奴隷契約書。この一瞬で、燃え盛る協会の中から探し当てたというのか。いや、エヴァイン邸の警備を一人で任せられるほどに信頼されていたのだから、これくらいは容易い仕事であるのかもしれない。
「では、案内してください。急ぎま───」
私がユリアナを催促しようとした、その瞬間だった。
トン。
首元に、軽い何かが振り落とされる。
「お許しください。お嬢様をお守りしながらソリアさんを始末するのは、少々骨が折れそうなので」
気づけば私は、ユリアナに抱きかかえられていた。首から下の感覚がなく、力が一切入らない。
「すべては、エヴァイン家のために」
今度は、みぞおちに蹴りが入れられる。
それがとどめだった。私は痛みという感覚を得る暇もなく、一瞬にして意識を刈り取られ───
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