第20話 会場にて

 契約書は簡素なものだった。用意されたいくつかの書類にサインと血印をすれば、それだけで終わるそうだった。

「改めて、彼女の健康状態について」

「必要ありません。彼女のことは、よく知っています」

 私は競売人の言葉を遮り、卓上の契約書を手前に引いた。確認するべきことは少なく、内容に不足はない。

 眩しいだろうに、サラはだらんと口を開けて灯りを眺めている。自分が置かれている状況を、まるで理解していないようだった。

「その契約書は、このように対応する奴隷紋に引き寄せられるという魔術特性を持っています。再発行にはそれなりの費用がかかりますので、紛失、盗難にはお気をつけください」

 確かに、手の中の契約書はサラの宿す奴隷紋に近づこうと、火を通した肉のように反り返っている。悪趣味な仕組みだ。

「そうですか」

 ユリアナは後ろで、私を待っていた。

 わかっている。こんなことをしている場合ではない。

 私はすぐにグラースを追わなければならない。ソリアなんて私に愛想を尽かして、彼女を止めに行ってしまった。

「奴隷の解放手続きというのは、今すぐにできるものですか」

 それでも私は、競売人に話を続けた。

 サラという、私に殺された亡霊を弔う義務が、私にはあった。

「三時間とかかりません。奴隷紋の切除ができる魔術師は限られていますが、ここは奴隷産業で栄えましたからね。金貨五枚で、奴隷協会の魔術師が切除をしてくださるはずです」

 彼女を奴隷のまま殺すわけにはいかない。奴隷紋がある限り、奴隷は奴隷だ。奴隷紋の識別器官は体内にあるため、市民に戻すためには外科的に奴隷紋を切除する必要がある。 

「ちなみに私が切除してしまうというのは」

「リアンシェーヌ様には容易いことでしょうが、協会の許可なしで切除すると法令違反になってしまいます。どうか、彼らにお任せください」

 奴隷協会に金を落としたくはないが、仕方がない。エヴァイン領に帰る前に、どこかで彼女の解放手続きをすることにしよう。

「買ったばかりだというのに、もう捨てるのですか?」

 ユリアナが、私に嫌味を言った。その視線に、僅かばかりの怒りが見えた。

「捨てるわけではありません。ただ、私には彼女の面倒を見る責任があります」

「連れて帰るのなら、奴隷のままの方がいいでしょう。庶民を屋敷に住まわす理由はありませんから」

 目を閉じる。最近の兄は、領主として冷徹な判断を下すことが多い。もし許可が降りなければ、サラは路頭に迷うことになる。

「兄さんは、私が説得します」

 目を開ける。買い取った以上、責任は取らないといけない。これは、私の因縁であるのだから。

「左様でございますか」

 不服そうにしてはいたが、ユリアナは一歩引いた。

 何はともあれ、契約は締結した。まだ聞きたいこと、サラに対してやるべきことはいくつか残っているが、本分を忘れてはいけない。

「すみません、少し席を外します。彼女を受け取る前に、済ませなければならない要事があって」

「では、こちらで預かりましょう。要件が済んだら、表のスタッフにお声がけください」

 珍しい申し出でもなかったのか、競売人は快く返事をした。我ながら半端なことをしてしまっているが、しかし、放っておくよりはいい。

 オークションが終わってから五分。彼女の購入した奴隷の数を思えば、まだ契約書を書いている段階のはずだ。

 彼女が買い取る奴隷を横取りできなかった以上、力技でグラースを止めることになるが……背に腹は変えられない。私が立ち上がり、この部屋を後にしようとした、その時。

「ネコザさん!大変です、会場で死人が」

 一人の若者が息を荒げながらやってきた。

 死人が出た。それが意味することはつまり———

「死人……?グラース様のことであるなら、今に始まったことでは」

 愕然とする私を置いて、ネコザと呼ばれた競売人は若者に尋ねた。

「マ、マイロが死んだんです!ま、まずはこちらに来てください」

 そう叫びながら、若者はネコザの手を引っ張った。

「———どうやら非常事態のようですね。皆様方、こちらでお待ちいただいてもよろしいでしょうか」

「私も行きます。まだ息があるなら、私が治せます」

 すかさず私は意思を示した。

 奴隷ではなく職員が命の危機に瀕しているということは、グラースの趣味とは別件の事件が起こったということだ。

 落胆するにはまだ早い。

「そうですか。それはどうも」

 駆け足で会場裏へと向かう。グラースのところには、ソリアもいる。私の脳裏に、最悪の事態が過ぎった。

 その先には、血溜まりの中で座り込むグラースと、その膝の上で眠る男が見える。男は血だらけであったが、特に目立った外傷はない。

「マイロは、大丈夫なんですか」

 一足先に、若者がグラースに駆け寄った。

 するとグラースは、男を膝の上から降ろし、横向きに寝かせる。回復体位だ。

「まだ判断はできないわね。蘇生自体は成功しているけれど、検診術式なしで治療を行ったから記憶に欠落が出る可能性が高いわ。ごめんなさい」

 グラースは申し訳なさそうに、若者に頭を下げた。

 見ればグラースの胸元には裂傷があり、修道服は真っ赤に染まっている。返り血の類ではない。内側からじんわりと、血液が広がっている。

 裏にある牢屋に奴隷はいない。あちこちに血痕があり、壁の一部は抉れている。どうにも、争いの痕跡がある。

 情報量が多すぎるがあまり、全く状況が読み取れない。

「その怪我は?」

「奴隷に襲われたのよ。彼も、ね」

 訝しい話だが、自作自演ではあり得ない傷跡だった。背中側にはあちこち穴があって、滅多刺しにされたのだろうという事が読み取れる。あの不自然な染みは、背中から刃物が貫通したことでできたものだったのだ。

 しかし、傷は殆ど塞がっている。流石は元聖女と言ったところだろうか。

「殺そうとなんてするからです。反撃をされるのは、正当防衛ではないでしょうか」

 大方、グラースが趣味の殺人をしようとしたところ、不意打ちを喰らったのだろう。奴隷が見当たらないということは、買い取られた子たちにも逃げられたんじゃないだろうか。

「鈍い子ね……私を襲ったのは、今日買い取った子じゃないわよ。その子達の魂は既に導いてあげているもの」

「———え?」

 世界が傾く。

 貧血を起こした時のような、崩れる眩暈が私を襲う。

 全部、殺した?この短時間で、そんな簡単に?

「なんでそんな」

「その話はもう十分したでしょう。これは私の持つ正当な権利よ。文句を言われる筋合いはないわ」

「正当な権利……!?意味もなく殺された彼女たちに同じ言葉が吐けるんですか」

「───ねえ、リアちゃん。貴方がさっきまで連れていた侍女は何処に行ってしまったのかしら」

 連れていた侍女というのは、ソリアのことだろう。ああ、そうだ。私より先にグラースを追ったはずの彼女が、どこにもいない。ここにあるのは、いくつかの血痕と、片付けられていないボロ布くらいだ。

「そ、ソリアさんがどうしたって」

 グラースが人差し指を私の唇にくっつける。その笑みには奇妙な妖艶さがあって、ひどく下品だった。疑問に答える気がないらしい。

 まさか殺したのかと、私は激昂しかけたが、どうやら違う。

 グラースは私から目を逸らし、横たわる男に意識を戻している。

「おっと、お目覚めのようね。大丈夫?自分の名前はわかる?」

「な、名前……?俺は……」

 のそりと彼は起き上がり、眠たげに周囲を見渡す。どうやら意識が回復したらしい。

 グラースは男の手を取り、耳元に口を近づけた。

「『貴方はマイロ。このオークション会場で警備として働いていましたが、運悪く殺されてしまった』思い出せたかしら」

「な、何を当然なことを言っているんだ」

 グラースの奇妙な物言いに、マイロは顔を顰める。それは私も同様だったが、グラースは気にも留めなかった。

「それでは証言をしてください。貴方を殺した人間が誰であるのかを」

「ま、待ってくれ。急なことで、何が何だか……殺されたって、俺がか」

 マイロは全く状況を読み込めていなかった。挙動不審にそれぞれの顔を見て、説明を求めている。

「襲撃者は、どんな服を」

 しかしお構いなしに、グラースは質問を繰り返す。その剣幕にマイロも押され、彼は引き気味に口を開いた。

「め、メイド服を……」

 メイド服。ここまで説明されれば、嫌でも状況が理解できた。そんな格好でこの街を彷徨いていた人間は、この街に来てから一人しか見ていない。

「とのことよ。まあ、私も被害者の立場であるわけだし、この件についてはエヴァインの殺人未遂として———」

「待ってください!おかしいですよ、そんなの。所属を見せびらかしながら暗殺者を送り込むはずがないじゃないですか」

「でも動機なら充分でしょう?リアちゃんは私の善行を止めるために、今日ここに来たんだから」

 私の反論に、グラースは涼しい顔をしていた。

 悪寒が止まらない。考えがまとまらない。

「お嬢様。奴隷協会に向かいましょう。今すぐに。協会から契約書の写しを発行してもらえば、ソリアさんの居場所を探知できます」

 ユリアナがソリアを探しに行こうと提案する。確かに、彼女のことは心配だ。

 しかし、しかしだ。

 グラースが言っている事はおかしい。動機があれば、なんでも実行できるわけではない。ソリアがそんな短慮を起こすなんて、私には信じられない。

「ちょ、ちょっと。まだ話は……って、きゃっ!」

 ユリアナが私の腹を掴み、無理やり抱えてくる。気づけば私は、お姫様抱っこをされていた。

「ネコザさん!あの奴隷はしばらく貴方に預けます!任せましたよ!」

 ユリアナが叫び、跳躍する。一瞬で景色が移ろい、私たちは市街へと飛び出した。

「離して!自分で歩けますから!」

「こっちの方が早いです。それより、ソリアさんが行方不明になっているこの状況は不味い。すぐに捕まえないと、最悪なことになります」

「今の話を信じるんですか?グラースは鮮血魔術師なんですよ。あんな風に怪我を負うはずが」

「わざと食らったのでしょう。おかげで私たちは犯罪者です」

 ユリアナが冷や汗を流している。抱えられた腹部が、締め付けられて痛い。

「で、でも、グラースが法に裁かれるのは時間の問題なんです。ソリアさんがそんな強行手段を取るはずが」

「お嬢様だって、全財産をグラースへの嫌がらせに使おうとしていたじゃないですか」

 それは、納得できる答えだった。

 私だって今日に生まれる犠牲を許容する気持ちなんてなかった。ソリアもそれは同じで、しかし彼女には私と違って、財力も権力もなかった。だから、一番単純で確実な手段を取ろうとしたのだ。

 知っていたはずだ。聞いていた。たとえ助けたかった友人がもういないとしても、ソリアはグラースを止めに来たと、知っていたのに。

「わ、私は……何なんですか」

 約束は果たせず、助けたかった人々は死に絶え、敷かれたレールの上を走ることすらできない。何もできていない。

 こんな愚鈍な人間が、世界に存在していていいものなのか。

「後悔しても仕方がありません。さっさと見つけて、執行官に突き出しますよ。こうなった以上、ソリアさんを抱え込んだままではいられませんから」

「それはダメです……そんなことをしたら、ソリアちゃんは」

 確実に処刑されるだろう。誰も死ななかったとはいえ、貴族に危害を加えたのだから。

 ユリアナは答えない。私を説得なんてしなくても、彼女には身一つで目的を達成する手段がある。

 そして私には、それを止める道理も力もなかった。

「何だってこんな時に」

 ユリアナが急に立ち止まる。勢いで、私の内臓は飛び出しそうになった。奴隷協会はすぐそこだが、まだ距離がある。どうしたのかと顔を上げると、ユリアナの顔が赤い。

 もう日は沈んだというのに、彼女は赤に照らされていた。

 ———パチパチ。パチパチ。

 まばらな拍手の音が聞こえる。

 鼻の奥に焦臭さを感じた。

「炎……?」

 燃えている。煙を上げて、建物が燃えている。

 嫌な予感がした。

 呆然とするユリアナの胸を押し、私は強引に彼女の腕から飛び降りる。

「ちょっと、お嬢様」

 制止するユリアナを置いて、私は走った。燃えている建物が何であるのか、もう私は理解できていた。あれはカリアの中でも特別大きな建物だ。

 道を一つ曲がれば、大通りに出る。燃える家屋の周辺には、野次馬が集まっている。どうやら建物内部が燃えているようで、窓の中から炎が吹き出していた。

 ———奴隷協会が燃えている。

 建物の向かいでは、火傷を負った人たちが教会の魔術師から治療を受けていた。中には刺し傷を負っている人もいて、何かしらの事件が起きたのは明らかだ。皆苦痛に顔を歪めていたが、命に別状はないようだった。

 人集りを押し退けて、入り口に近づく。倒れ込んでいる人間が見えたからだ。

 奴隷だった。この距離では判別できないが、身なりからして、そうだろう。どうも扇情的な格好をしていて、街を出歩くには相応しくない。

 しかし、こんなに炎の近くにいては危険だ。意識不明ということは、煙でも吸ったのだろうか。

 とにかく、助けないといけない。そう思って私は彼女たちの元に近づく。

「大丈夫ですか」

 返事はない。頭には鈍器か何かで殴られたような傷があって、どくどくと出血している。

 脈はあったが、かなり危険な状況だった。

『検診術式展———」

「待て!」

 私が術式を展開しようとした瞬間、小太りの男が割って入ってきた。奴隷協会の人間だろうか、胸元にペンダントをつけていて、高い役職についている事が察せられる。

「治すな。協会に火をつけたのは、こいつだ」

 私の手を掴み、男が言う。

 目の前の少女は、今にも死のうとしている。

「近くの娼館で暴動が起きたらしい。そいつは脱走奴隷だ」

 私が言葉に悩んでいると、小太りの男はさらに情報を付け加える。

「罪を問うにも、死んでしまっては元も子もありません」

「治療するなら、うちの従業員を頼む。十分な報酬を約束しよう」

 治療を続行しようとした私を、男は再度引き留めた。この男の言っている理屈はわかるが、しかし、今治さなければこの子は必ず死ぬ。

「では、この子の治療が終わったら向かいましょう」

「私の従業員より放火魔が大事だって言うのか」

 小太りの男が声を荒げる。

 反論はできなかった。事実確認はできていないが、もし事実なら、彼女を治す行為に意味はない。だが、しかしだ。

「聖職者が治す相手を選んだら、おしまいです」

 私が言い返すと、男はたじろいだ。

 いつしかの、母の言葉を思い出す。救う人間を選ぶとき、そこに物差しを用意しなければならないのだと、母は私を諭した。

 母はその物差しを財と定めたが、それは論理の道であり、私が目指す場所ではない。

『リアンシェーヌ。あなたがなりなさい。私を越えて、誰よりも正しく、誰からも認められる存在に』

 それならば、その一切を見捨てることはできないだろう。私は正しい物差しを、自らの心の中に作り出さなければいけないのだ。

「でも、誰にも苦しんでほしくない」

 単純な答えだ。これはきっと、正解ではないのだろうが、しかしそれでも、自分を納得させるには十分だった。

『検診術式展開』

 治癒魔術には、治療箇所への深い理解が必要だ。頭部の治療となれば、略式の魔術を展開するわけにはいかない。

 目の前の少女の情報が、濁流のように流れ込んでくる。陰鬱な感情と凄惨な光景を、強制的に追体験させられる。

 しかし、目を逸らすわけにはいかない。これを善とするのであれば、目を背けるのは道理が叶わない。

 静かに私は、記憶の波に身を浸した。

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