第19話 少女は、悪意を希望と呼んだ
不意打ちという一度きりのチャンスを掴めなかったソリアは、これ以降の戦いに勝ち筋がないことを十分に理解していた。
ソリアの手札は、そう多くない。エヴァイン家で仕入れた禁術の情報と、限られた時間で修練した魔術。どちらも付け焼き刃で、実戦レベルのものではなかった。
目の前の女を見つめる。さっきの強襲でグラースの修道服は血に染まり、ナイフを貫通させた胸元付近は赤黒く染まっていた。裾部分からはポタポタと血が溢れていたが、受けた傷の割には出血量が少ない。おそらく、魔術で修復してしまったのだろう。
『葬礼術式展開』
グラースがソリアに、第一関節が切り離された指先を向ける。放たれるのは、血液の水鉄砲。付与された魔術効果は、生命の回帰。触れた人間を一瞬で消滅させる力を持った、必殺の一撃だった。
ソリアはそれを脅威的な動体視力で確認し、ナイフで受けることにした。真っ直ぐに振り上げられたナイフは噴出された血液を真っ二つに切り裂き、まるでソリアを避けるかのようにあらぬ方向に着弾する。
ソリアの両腕が、びりりと痺れた。
「困ったわね……暴力は私の流儀に反するのだけど」
「これは暴力じゃないってんですか?ええ?」
眉を顰めるグラースに、ソリアは喧嘩腰で返した。反面その足は、ジリジリと後ろに下がっている。近づけば葬礼術式を回避できず、即死するからだ。
グラースも遠距離戦は望むところではなかった。血液に葬礼術式を付与し、鮮血魔術によって血液を飛ばすという二段階の術式展開は、手間と労力がかかる。
『鮮血魔術:律動』
グラースが鮮血術式を体内に巡らせ、肉体を最適な状態に整える。筋肉量を上昇させ、神経を研ぎ澄まし、脳のリミッターを取り外す。グラースは距離を取ろうとしたソリアに、一秒と掛からず肉薄した。
『葬礼』
ソリアの頭にグラースの剛腕が迫る。その一瞬の出来事に混乱したソリアは、回避でも反撃でもなく回避を選ぶ。
必殺の一撃を防御しようと、体が勝手に動く。
『鮮血術式擬似展開!!!!』
勝機に戻ったソリアは、即座に術式を展開した。避けるためではない。回避は間に合わない。
頭を庇った腕に、グラースの手が触れた。葬礼術式が発動し、その身体を消滅させようとソリアの肉体が変質する———その間際。ソリアの鮮血術式が、それを上回る速度で自らの肉体を変質させた。
ソリアが即座に反撃し、グラースの腹部を突き刺す。しかし、浅い。鮮血魔術によって作り変わったグラースの肉体は、安物のナイフでは切り裂けない。
仕方なく、ソリアは飛び退いた。
「一か八かでしたが、案外うまくいくものですね」
肩で息を上げながら、ソリアはグラースを見下ろした。
リアンシェーヌがアリオトの治療に失敗したように、他者からの魔術作用を鮮血魔術は拒絶する。これは、エヴァイン家の禁書からも裏付けが取れていたことだ。
しかし、理屈の上では可能でも、リハーサルなしでやるとなると流石に冷や汗が流れる。戦闘が長引けば、ソリアは近いうちに術式の中和に失敗して死ぬだろうと確信した。
「な、何をしているんだ君たち!」
騒ぎに気づいた警備の男が、裏口へと入ってくる。血だらけのグラースとナイフを持ったソリアを見た彼は、焦った様子で二人の間に割って入った。ソリアが魔術師であると知らない彼は、体格差でナイフを取り上げられると、そう判断してしまったのだ。
「見ての通りですよ」
ソリアはそう呟き、警備を足払いで転ばせ首を切り落とした。ただの人間の首など、彼女にとってバターも同然だった。
「な、なんてことを」
唖然とするグラースを尻目に、ソリアは死体の頭を勢いよく蹴飛ばした。
「勝てないのなら、せめて嫌がらせをするのが私の流儀なんです」
ソリアは、勝負を放棄することを決めた。この一瞬のやり取りで、自らの手で殺してやることを諦めた。
「こんなことしたら、あなたの主人は」
「大変なことになるでしょうね。奴隷産業の中心地で、エヴァインの奴隷が殺人を犯したんですから」
絞り出すようなグラースの説得に、ソリアは失笑する。そのために彼女はここまで来たのに、背中を押すようなことを言うなんて、笑うしかなかった。
「それじゃあ、また、近いうちに」
故にソリアは、翻って逃げる。鮮血魔術で身体能力を全力で引き上げながら、大通りへ走る。
「ま、待ちなさい」
手を伸ばしながらも、グラースは追わなかった。治癒魔術のエキスパートである彼女は、聖職者である彼女は、目の前の死体を放っておくことができなかった。
葬礼術式を使うのは適切ではない。これは、不幸を無かったことにするための魔術であるからだ。正しく生きた人間の人生を無かったことにするのは、グラースの美学に反する。
治療を、施さなければならない。
「て……『転生術式展開』」
頭が切り離された以上、完全な形で治療を施すことはできない。この世界に完全な蘇生魔術は存在しない。死者の魂は即座に劣化し、情報を失っていくからだ。
故にグラースは、別の何かで、欠損した魂を保管する。偽りの魂を、少しずつ構築していく。会場の外で起きる惨劇にも気づかず、ただ一人、滑稽に、彼女は美学に従っていた。
───ソリアは、人の波をかき分けながら走っていた。多くの人間にぶつかり、怒号を浴びながら、ただ一つの目的地を目指していた。
散々と輝く街頭の先に、少し古びた、しかし広く大きなホテルが見える。施設名は『インスタント・エンジェル』。長らくソリアが勤務した、アルマグループで最も安価で、最も蔑まれ、しかし最も多くの客を集める娼館であった。
入り口には、順番待ちをする三人組が塞ぐように立っていた。まだ営業が始まったばかりだというのに、待合室は満員で、彼らは外で待たされていた。
この三人組、うち二人は好色であったが、最後列に立つダズという男は、実のところ娼館に興味がない。上司と同僚である二人が、どうしても来いと、金なら出すというので、仕方なくである。
しかしダズは、結局娼館に入らなかった。
彼は死んだからだ。胴体を真っ二つにされて、痛みを感じながら死んだ。同僚たちに血飛沫がかかる。あまりに突然のことで、悲鳴すら上がらない。
「ただいま帰りました!この店一番の売れっ子が、今帰ってきましたよ!!!」
一週間ぶりに娼館にやってきたソリアが、声高々に宣言した。
男の楽園として作られたはずのインスタント・エンジェルは、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄に早変わりした。
♢
ソリアは客と従業員を惨殺しながら、早足で廊下を歩いていた。一つずつ、一つずつ扉を開けて、客を殺していった。
荒くれ者、太った者、老人、興味本位でやってきただろう若者。全員殺した。慈悲をくれてやる理由が、何一つ存在しなかったからだ。
ソリアが殺すと、その客を相手していた奴隷は、皆悲鳴を上げた。怯えた表情で、ソリアを見上げた。
「助けてあげます。どうぞ、好きに自由に逃げてください」
ソリアは怯える奴隷全てに、同じことを言った。長く説明している暇はなかった。客に逃げられては目的が遠ざかるし、ここまで大規模に暴れた以上、執行官がすぐに出動するはずだからだ。
反応はさまざまだった。怯えて言葉を失うものや、お礼を言って逃げるもの、ソリアの非道を責めるもの。ソリアはその全てに、粗雑に対応した。
彼女が娼館三階に着く頃には、何人かの客が騒ぎを察して部屋の外に出ていた。しかし、この建物に階段は一つしかない。奴隷が逃亡できないように窓には格子がついているので、ソリアを避けて逃げることはできない。
ソリアは全ての客人を、たった一振りで切り捨てる。術式を持たない彼らに、死から逃れる手段はない。
トマトみたいに、みんなみんな、弾けて死んだ。
呆気ないものだ。彼女を虐げてきた全ての人間は、彼女に絶望を与えはずの世界は、なんの苦労もなく崩れ去った。肌に張り付く返り血を、手の甲で拭う。
足元には、死があった。
「ざまあみろってんですよ」
半裸の死体を蹴飛ばして、ナイフをしまう。なかなかに気分がいいような、そんな気もした。
振り返れば、何人かの奴隷がソリアを離れた場所から眺めている。唐突に訪れた脱走の機会に、困惑しているようだった。
「逃げないのですか」
冷めた表情で、ソリアが尋ねる。
「逃げて、どうなるのですか。執行官に見つかって帰ってくる羽目になるのは、分かりきっているではないですか」
「だから、留まると?一生ここで使い潰されたほうがマシだって、そう言いたいんですか」
ソリアの剣幕に、奴隷たちが震える。助けられた彼女たちの目からしても、ソリアは殺人鬼だった。
「そ、それは、違いますけど……でも、こんなやり方、正しくない」
先頭に立つ奴隷が、勇敢にもソリアに反論した。するとソリアは、唐突に腹を抱えて笑い出す。反論した。するとソリアは、唐突に腹を抱えて笑い出す。
「はは!奴隷の正義は主人への従属ですよ。正義に従う限り、私たちに自由も幸福もありません」
誰かを救う行為を、全体の利益となる行為を、人は正義と呼んでいる。
反抗も逃亡も正義ではない。奴隷は主人の利益のために存在しているのだから、与えられた仕事に従うのが道理である。
つまり、そんなものに従う義理はソリアになかった。
「でも、逃げても何もないじゃないですか。私たちに自由は……」
「自由とは、他人に支配されていない状態を指す言葉ではありませんよ。自らの意思に従い選択すること、それこそ自由です」
再びの反論に、ソリアは言葉を被せた。
「自ら反逆を選ぶなら、その瞬間にあなたは奴隷ではなくなります。たとえ報われなくても、絶望の中死ぬことになったとしても、私たちは本物の人間になれるんです」
ソリアは跪き、目前の奴隷の手を握る。彼女はそれが誰もを不幸にする理屈だと知っている。
しかし、それでも良かった。正しいことをして絶望するくらいなら、間違った希望の道を進んで欲しかった。
「抗いましょうよ。負けるとしても、救いがないとしても、心だけは自由であるべきです。希望を求めて進み続けるべきです」
ソリアは立ち上がり、奴隷たちを置いて階段を下る。
着いて来いとは言わない。それは自らを正義に位置付ける行為だからだ。
「どこに行くのですか」
「他の娼館ですよ。あなたたちだけに自由を与えるのは不公平でしょう?死ぬまでやりますよ、私はね」
振り返らずに、ソリアは呟いた。
ほとんどの奴隷は、呆然とその背を眺めた。彼女を追ったのは、たった一人だ。
「ついていっても良いですか」
一人の少女が、ソリアの服を引っ張った。リニアという名の、赤毛の少女だった。彼女はこの中で誰よりも勇敢で、またしても一番に、ソリアに声をかけた。
「足手纏いを連れていく趣味はありません」
リニアは苦い顔で俯いた。するとソリアはリニアの顎を掴み、目線を無理やり合わせる。彼女は余った手でナイフを取り出し、手の上で遊ばせた。
「しかし、戦う意思を持つものは皆気高い。あなたに、ナイフを貸してあげます」
ソリアは勢いよく手首を切った。そしてすぐに鮮血魔術で血液を凝固させ、ナイフを作ってリニアに投げ渡す。切れ味も強度も酷いものだが、人を殺すことはできるくらいの出来栄えのものだ。
「自由には、魂が宿ります。叛逆の道を選ぶなら、あなたが見捨てられることはないでしょう」
リニアは瞳を輝かせていた。
太陽に焼かれるかのように、ソリアを見つめていた。
「あなた自身が、自らの味方になるのですから」
その言葉を最後に、ソリアは消えた。手すりから乗り上げて、一気に一階まで下りたからだ。
残された奴隷たちには、選択肢だけが与えられた。戦うか、残るか、逃げるか。
どれを選んだとしても、彼女たちが報われることはない。破滅のための反乱に、幸福はありえない。恐怖からの逃避に安息はない。従属に報酬が与えられる日はない。
しかしそれでも、選択の機会はここにある。
彼女たちは今、この街の中で誰よりも自由だった。
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