第18話 天秤に心臓を乗せる日(後編)
「あの、ソリアさん」
翌々日、彼女は真夜中に私の上にのしかかってきた。こっちはぐっすり寝ていたというのに、忙しいやつだ。
「何?」
目脂を指先で取りながら、不機嫌に言葉を返す。
「明日でお別れだから、話したくて」
ナタリーは落ち着かない様子だった。明日には殺されるのだから当然だろう。
「もしかしたら、私が死んでも弟が解放されないんじゃないかって不安で」
「なら、逃げるか、自分が魔術師であることを誰かに明かすかすればいいんじゃないですかね」
死ぬことを選んだのは、ナタリー自身だ。命を賭けても利益が見込めないのなら、もっと上手い使い方をするべきだろう。
「できません。私は、死ぬことが最善なんです」
それは、自分に言い聞かせているかのようだった。
「ふざけんじゃないですよ。命を賭けるなら、もっと堂々とかけてくださいよ。そんなお気楽に命を捨てる奴のこと、私は絶対許せない」
命を賭けるということは、それに付随する可能性を捨てるということだ。私は命を捨てる立場だが、命を安いとは思っていない。だからこそ私は誰かの命を踏み躙ろうとしているのだ。
「命の価値を理解して初めて、命を賭けることに意味が生まれるんです。それを、軽んじるな!!」
私は一回ぶん殴ってやろうと、拳を握りしめた。しかし私の拳が振り上がることはない。ナタリーが私の右腕をへし折ってきたからだ。
「いっっ!!!」
身をよじろうにも、馬乗りされているので暴れることすらできない。
私が睨むと、ナタリーは自らの服を軽く破いて、右手を胸元に寄せる。胸元に爪を突き立てて、ナタリーは中から赤黒い何かを取り出した。
「な、何して……」
どばどばと、私の身体に濁流のような血がかかる。
「本当はいけないことなんですけどね。術式って、他人に移せるんですよ」
ナタリーは半笑いになりながら、暴漢のように私の服を剥く。
「術式は血に宿りますから、臓器を移植すればいいんです。私はこれでも、連合国じゃエリートだったので、はは、きっと上手くできる」
どうにか逃げようともがいたが、押しても引いても、ナタリーの身体は大樹のように動かない。私とナタリーでは、生き物としてのスケールが違っていた。
「わ、私の鮮血術式の八割を、ソリアさんに移植します。だから、弟が本当に開放されるのか、生きているのかを……確認してきて欲しいんです」
「や、やりませんよ、私は。やる理由がない」
術式があれば奴隷の身分から解放されはするだろう。しかし、ナタリーが今胸元から抜き取ったのは、自分の心臓だ。そんなものを他人に預けたら、ナタリーはどうなる。
死ぬのか。いや死なないと思っているから、こんなことをしているのか。
「ソリアさんは、全部を壊したいんでしょう?それなら、貰うべきです。この力があれば、まあ、きっといっぱい殺せますよ」
私の身体に垂れた血液が、奇妙な紋様を描きながら私の胸元に集う。私の脈打つ心臓が、ナタリーの心臓に応答する。私の体が、自分のものじゃなくなったみたいだった。
「でも、自由のために使うのなら、誰かに知られちゃダメですよ。奴隷の身分から解放されたとしても、もっと酷いことになりますから」
大きく息を吸ったときのように、肺が大きく膨らむのがわかった。いいや、膨らんでいるのは肺だけではない。私の体内にある全てが、膨らみ、広がり、裂け、空間を作っていく。私はいつの間にか、屠殺中の豚のように体内の臓器を取り払われていた。
「か、かは、くへ」
いらないと跳ね除けたいのに、肺がないから言葉を吐けない。そんなものなくたって、私は自力でどうにかできる。そんなものに生かされなんて屈辱だ。命しか賭けられるものがないのに、その命すら自分のものでないなんて嫌だ。
「自分の選択が間違ってるって、私、本当は知ってるんです。弟がいないって、もう知ってる。それでも生き方を変えることはできなくて、私、逆らえなくて」
ナタリーは泣いていた。この期に及んで、彼女は被害者ぶっていた。
泣くくらいなら、それほどまでに悔やんでいるのなら、今から全部壊せば良いじゃないか。まだ間に合うのに、どうして諦めてしまうんだ。
「でも、ソリアさんなら、違う生き方ができる。正しく力を使えるあなたなら、あなたが答えを教えてくれるなら。私の……使い潰されるだけだった私の人生に、きっと、きっと」
体が作り変わっていく。徐々に意識が遠のいていく。
ナタリーの命が、私の中に巡っていく。最後に彼女は、私の頬にキスをした。ごめんなさいと呟いて、私から離れていった。
目覚めた時には、もうナタリーはいなかった。
「勝手なやつ……」
せっかくの睡眠時間が台無しだ。まだ明るいが、そろそろ日が暮れる。労働時間は、もう間近に迫っていた。
オークションは確か、ちょうどこれくらいの時間に開催されるんだったか。今から追えば、間に合うだろうか。
魔術というものの使い方が気になって、私は軽く力を込めながら、鉄格子に触れてみた。まるでバターみたいに、格子はぐにゃりと曲がった。
滑稽だった。今まで仕返しのやり方を考えてきた自分が、間抜けみたいに思えた。
「こんな力があったら、簡単に逃げられるじゃないですか」
執行官も、所詮は一人の魔術師だ。この身体能力があれば、国外に逃げることなんて容易いだろう。それなのにナタリーは勝手に絶望している。私よりもずっと多くのことができるのに、諦めてしまっている。
許せるはずがなかった。こき下ろしてやろうと思った。
だから私は、オークション会場に駆けた。
「ナタリー!」
競売はもう終わっていた。奪い取った落札記録には、彼女の名前が記されていた。だから私は裏口に回って、保管所を探した。
いない。いない。いない。
一言言ってやりたいのに、どこにもいない。
会場の舞台裏から女の声が聞こえて、藁にもすがる思いで私はそこに飛び込んだ。
「あ……」
ナタリーと一瞬目が合った。ほんの一瞬だ。彼女は目の前に佇む女に触れられ、幽霊のように消えてなくなった。着ていた白い服だけが、ひらりと地面に落ちた。
何が起きたのか分からなかった。
「こんにちは。見ない奴隷だけど、逃げ出してきたのかしら」
気づけば、目の前にグラースの巨体が迫っていた。五メートルは離れていたはずなのに、一瞬でここまで移動したのだ。
「い、今、な何を……」
情報の処理が追いつかず、私は声を震わせた。グラースはまるで太陽のように微笑みながら、私の口角を摘んで無理やり上げる。
全身の毛が逆立つような、そんな悪寒がした。
「なかったことにしたのよ。あなたも理解できるような言い方をすると、安楽死させた、というところかしら」
「な、なんで」
血の匂いがした。その異臭が血液に由来していると、私はすぐにわかった。
こいつは、ヤバい。明らかに、野に放たれていていい存在ではない。
「人生が苦しいのなら、今、消し去ってあげるわよ。脱走奴隷なら殺してしまっても言い訳が効くし……望むならその命、解き放ってあげるわ」
「ふ、ふざけないでください……!私たちの命は、同情で消されてやるほど無価値ではありません」
私は後退って、彼女の手から離れる。この手に長く触れていてはいけないと、私の第六感が叫んでいた。ナタリーに預けられた心臓が、逃げろと私に叫んでいた。
「あら残念。生きようとするのを止めれば、苦しみもなくなるのに」
しかし、グラースは私にゆっくりと歩み寄る。後退る速度を上げれば、それに歩速を合わせてくる。背を向けて走り去ることはできない。そんなことをしたら私は死ぬだろうと、確信が持てた。
「ふふ、元の場所に送り届けてあげましょう!アルマのところの奴隷でしょう?」
「さ、触らないで!」
伸ばされたグラースの手を、思い切り跳ね除ける。ナタリーから貰った力のことも忘れて放ったので、バチんと嫌な音が鳴ったが、彼女に痛がる様子はなかった。仕舞いには私は両腕を掴まれて、万力のような圧力で締め付けられる。
「うーん、元気なのは良いけど、あなたじゃ私に勝てないわよ。魔術師の世界に、人間は立ち入れないもの」
蟻はゾウに勝てないのよと、子供に言い聞かせる親のようだった。私だって魔術を預かったのに、いや、この場でその力を使ってみせたのに、グラースは気づいてすらいないようだった。
魔術の練度に、差があり過ぎる。今の私では逆立ちしてもグラースには勝てないと、嫌でもわからされる。
訳がわからなかった。昨日まで一緒にいた友人を殺したと言われて、しかもそれが意味のわからない理由で、更には私の生殺与奪の権すら奪われて、全くもって意味不明だった。
引きづられるように、私はアルマのところまで連れて行かれた。彼は私を見て、ため息を吐いて、グラースに謝礼を払った。グラースは私を買いたがったが、彼はやんわりと断った。
「苦しみの果てで、また会いましょう。あなたが絶望に沈む時、私は必ず迎えにいってあげるわ」
悍ましい言葉を残して、グラースは出て行った。悪意のない彼女は、悪魔そのものだった。
「あれに買われたくないなら、真面目に働くことだな」
震える私の頭を、アルマは二度叩いた。私は娼館に送り返され、仕事に戻るよう命じられた。叱責は避けられなかったが、営業時間手前に帰ってきたので、そう長くはかからなかった。
私は放心状態で、その日の仕事は、されるがままだった。本物の理不尽を見せつけられた私は、アルマにしてやるつもりだった仕返しのことすら忘れた。
意味がなくなってしまったからだ。私がアルマを失脚させたところで、グラースがあぶれた奴隷を買い取って、理不尽に殺すだけだからだ。
日が昇る頃、少し広くなった牢屋に私は帰ってきた。残された毛布を広げてみると、他人の匂いがした。毛布はシワだらけで、丁寧に畳まれたことがないようだった。
———殺さなければならない。何としてでもあの女を、殺さなければならない。ナタリーを死に追いやった全てを殺し尽くさなければならない。
「本当は全部、滅茶苦茶にしてやりたかったんでしょ、ねえ」
返事なんて返ってくる訳がない。でも、彼女は少なくとも、理不尽を憎み苦しみながら死んでいった。
その心臓を私に託して、死んでいった。
私の命はもう、私だけのものではなくなってしまった。私は魔術を手に入れ、手札は何倍にも増えてしまった。それなら、今日までの計画は白紙に戻さなければならない。
なあに、難しいことではない。報復の対象が少し増えただけじゃないか。
私たちに不自由を押し付けるアルマを、ナタリーを理不尽に殺したグラースを、卑怯にもナタリーの家族を人質に取り奴隷に貶めたエヴァイン家を、塵一つ残さず粉砕してしまえばいいのだ。
大丈夫だよ、ナタリー。私があなたの間違いを証明してあげるから。あなたが憎んだ世界の全ては、私が破壊してあげるから。
たとえ何を犠牲にしても、誰を欺くことになっても、絶対に、成し遂げてみせるから。
———心臓の鼓動が聞こえる。
楽しくなるね、ナタリー。
♢
アルマが私を置いて、奴隷達と共にカリア領に帰って行く。客室に残るのは、私と新領主のアリオト、そして騎士のユリアナだけだ。
「エヴァイン家が教会への影響力を取り戻すには、枢機卿の排除が不可欠なんだ。今日から君には、それが成し遂げられるまで働いてもらうことになる」
ナタリーの言っていた通り、私は彼女の任務達成を報告しただけで、エヴァイン家に買い取られた。ナタリーと同室で惨劇の目撃者である私は、弾劾裁判の証人として利用されるらしい。
「とはいえ、枢機卿を失脚させるだけでは意味がない。聖女を教会中枢から排斥したのは、彼女自身ではなく派閥そのものだからね。自主解任される前に、その罪を聖女に暴いてもらう必要がある」
車椅子に座ったまま、アリオトは自分の計画を並べ連ねる。治癒魔術の権威であるエヴァイン家長子が片端とは格好がつかない話だが、しかし彼は自慢げだった。
「ただ、それをするはずの母さんは死んでしまった。聖女を継承するリアも引きこもってしまっている。だからどうにかリアを励ましてもらいたいんだけど、どうかな。娼婦なら籠絡するのは得意だろう?」
とんでもなく無遠慮な物言いだった。しかし私は怒りを堪えて頷く。
「そうですね。人よりは、得意かもしれません」
この男、まだかなり若いが、根本が腐り切っている。奴隷を使うことに罪悪感がないどころか、その命が予定通りに失われた現状に喜び勇んでいる。自己利益しか考えない彼は、純然たる悪人だった。
「できれば、リアが枢機卿排除のために動くように誘導もしてほしい。でも、ナタリーのことは内緒にしてよ。あの子は正義感が強いから、大義のためだとしても生贄なんて容認しないだろうから」
次期聖女リアンシェーヌのことは、よく知っている。私を見る度に、態とらしく憐憫の表情を浮かべて、たまにアルマに怒って歯向かって、自分はいい人ですよとアピールする、偽善者だ。
しかし、同じ偽善者でもリアンシェーヌとアリオトでは次元が違う。前者は欺瞞を口にする程度だが、後者はナタリーの死を大義のものとしている。そんな偽善は、絶対に許容できない。
「かしこまりました。……ところで、ナタリーの弟は、今どちらに」
不快げに、アリオトは片眉を上げた。
「弟ねぇ。ナタリーが言ったのかい」
「は、はい。自分の代わりに、元気な姿を見てきてほしいと」
「それは無理だ。生きてはいるけど、ナタリーの血統を証明する重要な資料を動かすわけにはいかない」
見透かしたようにアリオトが笑う。
ああ、そうか。つまり。
「枢機卿に魔術師殺しの罪を被せるためだけに、ナタリーを送り込んだんですか」
殺人は、被害者の身分によって罪状が変わる。奴隷殺しの罰則は規定されていないが、平民相手の殺人と貴族相手の殺人では刑罰が大きく異なる。この国において、貴族とは術式を保有するもの。つまり、魔術師の奴隷を殺したのなら、殺人罪が適応できると考えたのだろう。
あまりにも非人道的で無謀な作戦だった。
「話を戻すけど、仇討ちを理由に勧誘するのはダメだね。リアの正義は教義に従ったものだから、報復は行動の理由にならない。友人を助けてほしいとか、そんな言葉の方が響くはずだ」
アリオトは笑って誤魔化しながら、話題を転換する。質問に答える気がないようだった。
今にでも胸ぐらを掴んで問いただしたい気分だったが、そんなことをしては計画が台無しだ。だから私は唇をかみながら言葉を絞り出す。
「かしこまりました」
話はそれで終わりだった。もう少し、いろいろと相談をした気がするが、覚えているのはここまでだった。私の頭の中は、殺意でいっぱいだった。
でも、まだいけない。この力を使うのは、誰もが最悪だと思う、その瞬間でなければならない。
今はただ、耐えなければ。
エヴァイン邸のベランダで、灯りもない部屋を見つめる。リアンシェーヌをどう口説き落とすか、そんなことを考えながら、私は柵を乗り越えた。
用意した設定はこうだ。友達を助けるために命懸けで脱走し、リアンシェーヌに助けを求めにきた奴隷。そういうことにした。見捨てれば私も友達も酷い目に遭う、そんな状況を作り出すのだ。
アルマのことも彼女は嫌っているみたいだし、彼の悪事を引き合いに出すというのもいいだろう。幸い、悪事の証拠ならある。単なる落札記録だが、ある程度の効果は発揮するはずだ。
窓から窓に飛び移って、彼女の部屋の前まで移動する。強い風が吹いていて、気を抜くと落ちてしまいそうだった。
カーテンの隙間から、毛布にくるまった彼女が見える。とんとんと叩いたが、なかなか反応が返ってこない。寝てしまっているのだろうかと、私は不安になった。
「開けてください。お願いです」
私は必死に、横たわる彼女に呼びかけた。
「だ、誰?」
「あなたに助けていただいた奴隷です」
リアンシェーヌが、ゆっくりと起き上がる。窓はまだ開かない。その声色には、微かな怯えがあった。
……私が助けを求めたとして、彼女にそれをする余裕があるのだろうか。私には、見ず知らずの誰かを助けてやりたいなんて思ったことはない。そんな人間が、ここにいて欲しくなかった。
計画を実行すれば、絶対に彼女は割りを食うことになるだろうから。
「無礼は承知ですが、頼みがあるのです。引き受けてくださるのなら、あなたが望むものを一つ、私は用意することができます」
「私が望むもの……?」
「アルマグループの不正の証拠です。リアンシェーヌ様は、あの娼館の在り方に憤りを覚えていると感じたので」
私はこれが、リアンシェーヌの望んだ言葉ではないと知っていた。それでも私は、彼女の偽善が偽善であると最初に確認したかった。彼女がこの提案に興味を示さないのなければ、何の憂いもなくこの家を破滅に導ける。
リアンシェーヌは答えない。ずっと、ずっと、黙ったままだ。
「……そうですね。つい最近までは、そうだったんですけど」
歌を一つ歌えるくらいに長い沈黙の後、彼女は答える。ああ、やっぱりと、見限る準備をするその間際。
カーテンがめくれて、目が合った。不健康そうな肌に、金色の髪。その表情には影があったが、月光で彼女は照らされていた。
「いえ、引き受けます。入って、ソリアちゃん」
どこかで名乗っただろうか。リアンシェーヌは窓を開け、私の名前を呼んだ。しっかりとした会話をしたのは、初めてのことだった。
彼女は思った以上に騙されやすく、無知で、愚かで、善良だった。
無駄な確認なんて、しなければよかった。
私はきっと、堪らなく不快だった。
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