第17話 天秤に心臓を乗せる日(前編)

 夕方目覚めて、体を洗って、男たちの相手をして、掃除や洗濯をして、眠る。それが私の日常だった。

 どんなに苦しい生活も、長く続けば順応する。きっとその精神状態は、絶望と呼ぶべきものなのだろう。

 私は従順では無かった。かといって反抗的でもなく、だらしなく、ただ最低限の熱量で生きていた。あまりサボると折檻をされるから、それだけを避けた。

 人生が変わったのは、私が娼館で一番の人気になった時だろうか。自由が与えられたわけではない。多少の褒賞はあったが、苦しみに見合ったものでは無かった。それならばなぜ変われたのか。チャンスがあったからだ。

 私は定期的に店の外に連れ出され、健康診断を受けさせられるようになった。それはつまり、脱走の機会が生まれたことを意味する。しばらく忘れていた自由に、私は焦がれた。

 馬車に乗せられ、エヴァイン邸へと向かったその日の帰り、私は隙を見て逃げ出した。治療を受けたばかりだったので、体が自由に動いた。どこまでも行けると、そう思ってしまったのだ。

 奴隷の肉体には、契約時に身分と居場所を探知する術式が刻まれている。だから、脱走にはあまり意味がない。どんな街にも執行官はいるので、脱走の届出が出された時点ですぐに捕まってしまうからだ。国外にでも逃げない限り、真の自由は訪れない。しかし私は、それでも逃げ出した。どうせ今が最底辺なのだから、僅かな希望にでも縋るべきだと、そう思ってしまった。

 私は民家に逃げ込んだ。農夫の家だった。まだ若い、独り身の男の家だった。彼は親から譲り受けた奴隷を働かせ、自分は一日中寝て過ごすという、碌でもない男だった。しかし、私が彼の家から食べ物を盗もうという時、彼は私に食事を振る舞った。

 彼は、畑仕事を手伝うなら匿ってやってもいいと私に言った。運が巡ってきたと思った。彼には明らかな下心があったが、それだけだった。だからそれなりに、楽しく過ごした。今までの生活と比べたら、そこは楽園だったのだ。

 もちろん、そんな生活は長くは続かない。私が彼の奴隷と一緒に働いている時、執行官がやってきた。かなり濃い見た目をしていたから、奴のことは今でもよく覚えている。純白の制服に身を纏った、道化師のような化粧をした男だ。

 私は再び、逃げようとした。農夫は私の怯えようを見て、私の所有者は自分であると執行官に言い張った。すると執行官は、路傍の石を退けるかのように農夫を殴る。たった一撃で、しかし、農夫は私のせいで死んだ。

 カリア領へ連れ戻される最中、私はきっと、絶望はしていなかった。これからのことではなく、死んだ農夫のことを考えていた。気の毒だと思ったわけではない。罪悪感も、それほどあったわけではない。

 奴隷の私が守られ、人間の彼が死んだ。

 生きていても希望はないのに、私を苦しめるもののために、世界は私に生きろという。そしてその苦しみは、あの農夫の命よりも価値あるものだという。

 カリア領に連れ戻された私は、以前のような罰を受けなかった。所有者であるアルマに呼び出され「脱走歴がつくと、真っ当な買い手がなくなるぞ」と、よくわからない説教をされただけだった。娼館の管理者は私を殴ったが、痕が残ると言うほどでもない。

 売り物である私は、その価値が損なわれない限り安全を保証されていた。

「ふざけるな……」

 私は怒りのままに、拳を握りしめる。そんな世界は間違っていると、唾を吐いて否定してやりたかった。

 しかし、この拳を誰かに振り下ろすことはできない。そんなことをしても、なんの解決にもならない。

「———本当に?」

 やろうと思えば、できるじゃないか。それをしたら、安全が保証されなくなるからできないだけだ。私の価値が下がるからできないだけだ。

 しかし、それで困るのは私じゃない。あいつらを殴って、私が殺されると言うのなら、それはきっとあいつらにとって大きな損失だ。

 奴隷に与えられたお情けの保証なんて、私から投げ捨ててしまえばいい。こんな世界を生きるなら、心だけは高潔でいよう。最後には、きっと抗ってみせるさ。

 無様に死んだ農夫の顔を思い浮かべながら、何もかもを踏み躙ってやると決めた。

 それだけで、この苦しみにも意味があると思えた。

 ♢

 ある時、ナタリーという奴隷が娼館にやってきた。ひどい暴行跡があって、そのせいで不細工だった。エヴァインの貴族に逆らったせいで、顔を治癒魔術で滅茶苦茶に修復されたせいらしい。だから彼女は、とんでもなく安売りされた。頭に袋を被せられ、毎日何十人も相手にした。

 ナタリーは、よく脱走をする奴隷だった。私と違ってタイミングを気にしないので、すぐに捕まって殴られていた。私は身体が売りなので殴られないが、彼女はよく殴られた。

 私はナタリーに興味を持つようになった。彼女はすぐに捕まるが、逃げ出す才能はあった。私たちは牢屋暮らしで、脱走を狙えるのは仕事がある夜間だけのはずなのに、彼女は日中に逃げ出すのだ。だから、いつかに起こす反乱のために、私は彼女に粉をかけることにした。

 私は娼館の管理者にあれこれ言って、ナタリーと同室になった。彼女はいじめられっ子だから守ってあげたいとか、そんな嘘を言ったのを覚えている。

「ありがとうございます。私のこと庇ってくれたって、オーナーから聞きました」

「気にしないでください。前のペアが嫌いだっただけなので」

 ナタリーは、辛気臭い女だった。口を開けば後ろ向きなことを言って、私を退屈にさせた。なんでも彼女には弟がいるらしく、その子のことが気がかりであるらしい。

 知るかと、思う。私にだって、家族や妹がいる。だから、彼女の話は不快だった。

 だが、不思議とナタリーに厳しくすることはできなかった。彼女の話には、どうも親身になってしまう。きっと、彼女が辛気臭いせいだろう。

「どうしても家族に会いたいなら、私が手伝ってあげましょうか?」

「手伝うって、どうやって?」

 ナタリーは、あまり真剣ではなかった。私のそれを戯言だと思っているようで、穏やかに笑っている。私に視線を向けたまま、ごろんと彼女は横に倒れた。

「近いうちに私は、この店で殺人を犯そうと思ってるんです」

 だからあえて私は、計画をそのまま話すことにする。彼女に脱走癖があるのなら、それに役立つ情報を言いふらしたりはしないと思った。

「そんな事件が起きたら、店中が大パニックになるでしょう?あなたが逃げる隙は、確実に作れます」

 私の第一目標は、この街にできるだけ大きな損害を与えることだ。客を殺すことで店の信頼を落とし、奴隷を脱走させて資産を削る。それなりの権威がある貴族を殺せれば、人権派が奴隷制廃止を再び叫び出す契機にもなるだろう。

 結果を生きて確認することはできないが、アルマが煮湯を飲まされることになるのは間違いない。店のオーナーに至っては、廃業すらあり得るのではないだろうか。

「そんなことしたら、ソリアさんが殺されちゃいます」

 心の中でほくそ笑んでいると、ナタリーが起き上がって私に迫ってきた。彼女ならこの時点で賛同してくれると思ったのだが……情に厚いのは、さっきの会話からもわかることか。

「あいつらに媚び売って生き存えるくらいなら、一発やり返して死んだ方がずっといいです」

 少なくとも、真面目に働いていた時よりは、今の方が楽しい。どんな苦しみを与えられても、その分を返す日を夢想すれば、どんな罵倒も愉悦に変わった。

「そんなの悲しいですよ」

「悲しい……?いいや、これほど楽しいことはありませんね。逃げればそりゃ、自由はあるでしょうが、ここにいる奴らものうのうと生きていくんでしょう。それなら!偉そうにするばかりの奴らの頭を、肥溜めの中にぶち込んでやりたいじゃないですか!!」

 どれだけ屈辱的な死を奴らに与えてやるか、それこそが重要だ。だって、私はすでに底の底にいるのだから、これ以上落ちぶれることはない。誰もできないような破壊が、私にはできるのだ。

「貴方もそう思うでしょう。あいつらが許しを乞う姿を見たいと、それを踏みつけたいと、そう思ったはずです!」

 痛みの中で、私達の友人となってくれるのは憎しみだけだ。苦しみの中で生まれる感情は、絶望か憎しみのどちらかでしかない。

「私には、そんな勇気ありません。みんなのこと、怖くて仕方ないので」

 ナタリーは私の叫びに目を伏せた。しかしそこにはわずかな虚構が見える。彼女の瞳に、憎しみという名の希望が見える。

「でも、逃げ出す勇気はあるじゃないですか。何度も捕まって殴られたのに、貴方は服従よりも逃亡を選び続けている」

 私はナタリーの手を取り、彼女を励ました。同じものを感じたのだ。

 理不尽に逆らうものの覚悟は、何よりも尊いと、私は信じていた。

「ナタリーは勇気の人です。そう、私たちは勇気の向かう先が違うというだけなんです。だから、私と一緒にやり遂げませんか?破壊を、復讐を!」

 少し押せば通る、そんな確信があった。ナタリーの瞳に葛藤が見えた。

「遠慮しておきます。私は、弱虫なので」

 長い長い思索の末、ナタリーは私の提案を断った。陰気な表情で、彼女はボロ布にくるまった。情けないと、私はナタリーを見損なった。

 ———それから、数時間してのことだ。

 ナタリーは、朝になるとやはり牢屋から出ようとした。彼女は私が眠ったと見るや否や、鉄格子を曲げて外に出て、元通りに戻して、どこかに去っていった。

 ナタリーは、日が沈む頃、滅茶苦茶に殴られた上で部屋に帰ってきた。腕は変な向きに曲がっていて、明らかに骨折していた。しかし彼女は弱音を吐かなかった。その日は普通に仕事を受けて、朝にはピンピンした様子で帰ってきた。

 これもまたあり得ないことに、骨折が治っている。それは、この世界で最も一般的な魔術、身体を作り替える鮮血魔術の作用そのものだった。

「ナタリーは、魔術師なんですか?」

「魔術師が奴隷になるわけないですよ」

 ナタリーは、私の質問に笑って誤魔化した。全ての奴隷は術式の流出防止のため、契約時に血液検査を受ける。だから、奴隷が魔術を使えるはずがない。しかし、彼女が魔術師でないのなら、怪我が治っている理由が説明できない。

「気づいてないだけで、ナタリーの血には特別なものがあるのかもしれません。血液検査を頼んでみませんか?」

「嫌ですよ。何を馬鹿なことを言ってるんだって、蹴られて終わりです」

 すべての魔術師は国に保護され、特権を与えられる。それは奴隷であっても同じことだ。もし私の見立てが正しいのならば、ナタリーは貴族の仲間入りをすることだってできるはずだった。

「でも、鉄格子を曲げるなんてこと、普通はできません。ねえ、やっぱりあなた」

「黙っていてください」 

 最後に、ナタリーはそう付け加える。私の想像を馬鹿にするのではなく、黙っていろと。何か隠しているのは明らかだった。しかし、ナタリーには事情を明かす気がなさそうだった。

「幸せになる手段があるなら、何がなんでも使うべきです。それが欲しくても手に入らない人間が、世の中にどれだけいると思っているんですか」

 私が彼女の立場なら、絶対に力を隠したりなんてしない。よしんば隠したとしても、より多くに報復を与えるために使うだろう。こんな場所に蹲って、意味もなく耐え忍ぶなんて、苦しみを強いられた者たちへの侮辱にしかならないから。

「ソリアさんは優しいですね」

 ナタリーは私の怒りに気づく様子もなく、的外れなことを言った。彼女は不貞寝してしまって、それ以降は何も言葉を返さなかった。

 ああ、なんて、情けない。

 ナタリーは性懲りもなく、夜になると定期的に牢屋から逃げ出した。そして態々、捕まって帰ってきた。よくよく思えば、彼女が魔術を全力で使ったのなら、こんなに早く戻ってくるはずがない。彼女が何をしたいのか、まるでわからなかった。

「私、売られることになりました」

 とある日、ナタリーは震えながら言った。脱走癖が問題視され、いっそのこと売ってしまおうという話になったらしい。

「あなたみたいな子、買い手がつくとは思えませんが」

 冗談めかして私は言った。励ましたつもりだった。どうせ、ここに戻ってくることになるって。

「いいや、絶対に買われます。この街のオークションに売れ残りは出ません。どんなに粗悪な奴隷でも、安ければ枢機卿は絶対に買う」

 ナタリーは、目を見開いていた。恐怖に満ちた表情だった。毛布にくるまっていたのに、ぶるぶると震えていた。

 枢機卿の噂は私も知っている。眉唾物だが、買い取った奴隷を殺すのが趣味であるらしい。まあ、そりゃ、嫌だろう。

「もし怖いなら、アルマのところに連れて行ってあげましょうか。顔見知りですし、あなたの体質を知ったら、彼はきっと」

「ダメです!」

 食い気味に、ナタリーは私の提案を断った。

「どうして?」

 私が聞くと、ナタリーは少し躊躇う。

「弟が待ってるんです。私が枢機卿に殺されたら、解放してやると、そう言われてここまで来ました。だから私は、死なないといけない」

 一体なんでそんな間抜けなことをさせられているのか、甚だ疑問だ。

 しかし彼女は、震えているのに覚悟が決まっているようだった。誰かのために死のうと、本気で言っているらしかった。

「馬鹿らしい。自分の命は自分のために使うべきです。怖いと思うくらいなら、貴女は生きるべきですよ。弟を犠牲にしてでも」

「そんな無責任なことはできません」

 無責任ではない。命の価値に差はない。誰かを犠牲にした命もまた、価値あるものなのだ。

 前に私のために死んだ農夫は、愚かだった。ナタリーにそうなって欲しくはない。

「なら、私、アルマに告げ口しちゃいましょうかね。ナタリーが魔術を使うところを見たって」

 術式保管の理念のもと、魔術師は国の管理下に置かれなければならない。奴隷が魔術師であった場合、術式の存在が発覚した時点で国に受け渡す義務が発生するので、私がアルマに言えば、ナタリーはひとまずは生きながらえることになる。

 保護された魔術師がどうなるのかは知らないが、保護を謳っている以上、ここよりはマシな生活を送れるだろう。それなら、そうするべきだ。私には取れない選択肢があるのだから、使うべきだ。

「……優しいんですね」

 困ったような表情で、ナタリーは言った。

「でも、告げ口されては困りますし、ここは取り引きをしませんか」

「取り引き?」

「貴女をこの娼館の外に送り出す手段が、私にはあります」

 それは、魅力的な提案だった。何が何でも逃げ出したい私にとって、断る理由のない提案だった。

「ソリアさん、エヴァイン邸によく連れてかれてるじゃないですか。だから、そこで、私がちゃんと枢機卿に買われたことを伝えてください。……きっと、エヴァインの領主が、貴女を買ってくれます。貴女は枢機卿の悪事の証人になるので、大事にされるはずです」

 信じてみる価値はあると思った。ナタリーがエヴァイン家に所有されていることは裏付けが取れていたし、エヴァイン家の聖女と枢機卿が対立関係にあるのも有名な話だ。

 もしこれが出鱈目だとしても、彼女の提案を飲むことにデメリットは一切なかった。

「引き受けられませんね。私には、自由よりも欲しいものがあるので」

「じゃあ、見逃してください。私たちは向かう先こそ違いますが、信念のために戦っているんです。だから、邪魔しないでください」

 ナタリーは変にしたり顔だった。しかし、一理ある。

 私が逃亡よりも叛逆を選んだように、彼女は弟の命を優先しようとしている。それは間違いなく勇気の行動で、私が否定するべきことでもなかった。

「そうじゃないと……私はソリアさんを殺さないといけなくなってしまう」

 ナタリーの手の震えが止まる。本気の脅しなんだと、無理に格好つけているのが分かった。

「そうですか」

 それだけの覚悟があるのなら、否定するのも失礼か。何より私にも、まだ生きてやることがある。

「それならもう、止めはしませんよ」

「ありがとうございます」

 ナタリーは泣いて喜んだ。どうにも気持ちが悪くて、今日ばかりは私が先に不貞寝した。ナタリーが前に、私に悲しいと言った理由が、少しだけ分かったような気がした。

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