第14話 枢機卿
グラース・エヴァインは先々代の聖女である。戦時下に発症した精神病によってその座を退いたが、模範的な聖女として評判だった。
模範的な聖女と呼ばれたグラースに対し、後任であるネメジスの教会内での評価は散々だったそうだ。教会での医療行為に顔を出さないどころか、儀式にすら参加しない。象徴としての役職であったはずの聖女は、その当時前線に駆り出されていた。ネメジスは軍医・戦士として幾つもの戦果を上げたわけだが、その酷く暴力的な栄光は、皮肉にも聖女という役職の輝きを失わせたのだ。
病から回復したグラースは、その責任をネメジスに追求し、聖女の座の返上を要求した。教会を二分した激しい論争の末に要求は棄却されたが、そこで多くの味方を得たグラースは、聖女以上の権威である枢機卿にまで上り詰めている。
「そう難しい顔をしないで頂戴。妹から何か言われているのかもしれないけれど、私たちまでいがみ合う必要はないわ。家族なんだから」
自分の代理として働いた妹を糾弾してまで権力にしがみついた女が、何を言っているのだろう。嫌味の一つでも送ってやりたい気分だった。だが、そんな気持ちではいけない。私はこれからする全てを、正義としなければならないのだから。
「言い争いをしようとは私も思っていません。ただ、どうしても話しておきたいことが、いくつかありまして」
兄からはグラースに対し、奴隷の返還と血液検査を要求するだけでいいと言われている。奴隷殺しをどれだけ糾弾しても、それが裁判の結果に影響することはないからだ。
しかし、それは傲慢が過ぎると私は思う。非道によって正義を為すのなら、せめて心だけでも高潔でなければならない。そうでなければ、私達もただの人殺しだ。
私は高鳴る心臓を押さえつけ、グラースに向き直った。
「単刀直入にお聞きします。あなたは定期的に奴隷を購入し、死なせていますよね」
グラースの頭が傾き、前髪が斜めに垂れる。
「ええ。そうね」
表情ひとつ変えずに、グラースは頷いた。
どうして平然としていられるのか、私にはわからなかった。
「何故、そのようなことをするのですか」
声が震えないように、ゆっくりと、力強く呟く。そんな私に、グラースは瞼を細めた。
「可哀想だからよ。あの子たちはその身分に落ちてから社会に自ら復帰する手段を持たず、搾取されるしかない存在なのよ。だから、救いを与えているの」
子ともに言い聞かせるように、グラースは言う。大袈裟に腕を動かして、簡単なことでしょうと言いたげに。
「……は?」
間抜けな声が漏れた。
意味がわからなかったのだ。
その行動も、動機も、態度も、明らかに破綻していた。
「さ、殺人は戒律によって直接禁じられている行為です。それに、そのような手段が救いになる筈がありません!」
「法律上、奴隷は人間として扱われていないのだから、これは殺人に当たらないわ」
返答が早過ぎる。グラースは不快感を隠すことなく、ため息を吐いた。
私の後ろにはソリアもいるというのに、気にする様子もなかった。
「そんなものは詭弁です!私たちと彼女らに、一体どれほどの違いがあるというのですか。人から生まれ、同じ姿をし、同じように考えることができるというのに!」
「教会の公式な見解を否定するのは感心しないわね。奴隷が人間として扱われていないのは、つまりその仕事が穢れているからよ。聖典は、人間と他の生物の違いを、社会階層で区別しているということね」
つらつらと、よく喋る。
確かに以前の教会会議で、奴隷制が聖典の教えに背くと主張された時、教会はそのような声明を出している。しかしそれは、評議会からの圧力によって無理やり正当化されただけだ。
積極的に肯定するような内容ではない。
「奴隷たちは望んで仕事をしているわけではありません。穢れているのは、その仕事を命じる側でしょう」
「あら。リアちゃんは性奴隷の定期検診をして稼いでいると聞いていたけれど、そんなこと言っていいのかしら。あれはアルマくんの商売を持続的なものにするための検診でしょう?」
一瞬、言葉に詰まる。私は、彼女たちがどんな仕事を命じられているか知った上で、アルマの依頼を引き受けてきた。奴隷産業の発展に一助したと言われれば、否定はできない。
「そ、それは……論点のすり替えです。私の問題を指摘したところで、あなたの間違いが肯定されるわけではありません」
褒められた行為ではないかもしれないが、しかし、殺すよりは良い選択だったはずだ。死んでしまったらそこで終わりだが、生きていれば可能性が生まれる。希望がある。
「とにかく、命を奪っていい理由にはなりません。グラース卿のそれは、単なる暴力行為です」
殺せばそれ以上の不幸はない。そんな結論は思考放棄に過ぎない。人は不幸から逃げるために生きているのではなく、幸せになるために生きているのだから。
「生きている状態であることって、そんなに重要なのかしら。死んだ方がマシだと、そう思う存在はいるわ」
「生に希望が見えれば、生きようとするはずです。私たちがやるべきことは安楽死させることなどではありません!希望を指し示してあげることです!」
机に手をついて身を乗り出し、私は熱弁する。
否定したかった。間違いを認めさせたかった。教義を盾にした粗雑な救済を、容認するわけにはいかなかった。
「何も実現できていない人間が、偉そうに……」
私は答えない。それは私の課題だが、弱気になる理由にはならない。
「はぁ。まあ、理想はそうなんでしょう」
長い長いため息の末、グラースは私を睨む。
「そろそろ本題に入らない?アルマくんと話していたことは、もっと別のことだったじゃない」
明らかにやる気がなかった。部屋に入ってきた時の明るさが嘘のようだ。
「まだ話は終わって———」
「先に答えておくけれど、リアちゃんが探している奴隷はもう天に導いたわ。だから術式が流出する心配はないわよ」
私の言葉を食うようにして、グラースは話題を切り替える。口論で勝ち目がないと悟ったのかもしれない。
冷水を浴びせられた気分だった。
チラリと、ソリアを見る。無表情だった。
予想されていた答えだったが、殺されたと直に言われると、どうも虚しい。当初の目的はもう叶わない。それに気づけば、グラースに追い打ちをかける気も失せた。
「……魔術師殺しを認める、ということですね」
用意された言葉を、予定通りにグラースにぶつける。なまじ口論に勝ってしまったせいで、返す言葉がなかったからだ。
「そうね。でもあなたたちの責任問題でもあるし、私にばっかり文句を言うのも筋違いじゃない?」
不貞腐れて、グラースは天井を見上げた。まるで他人事だった。
「ど、奴隷虐殺の件も含めて、この件は大教会と執行官に報告させていただきます。どんなに言葉を並べても、あなたが間違っていることに変わりはありません。あなたのシンパも、この件を知ったら離れていくでしょうね」
枢機卿派閥の信徒は、グラース個人を支持しているわけではない。位よりも、儀式や聖典の記述を重視しているだけだ。グラースの凶行が知られれば、彼女を持ち上げる者もいなくなるだろう。
教会会議で奴隷制度を取り上げたのも、そもそも枢機卿派閥の人間だったはずだ。本質的に彼らは人権を重視しているのだから、グラースの行いを容認するはずがない。
「好きにすればいいんじゃない。裁判でも何でも、やってやれないことはないもの」
グラースは呟いた。ソファに寄りかかって、ジロリと私を見下ろす。
「でも、報われない話ね。ネメジスは魔術しか取り柄のない子だったのに……母の名誉を踏み躙ってまで、私を殺したいのね」
それは、意味のわからない皮肉だった。
意図はわかる。母にありもしない汚点を被せて、グラースを貶めるための道具にした。ああ、確かに非難されて然るべきことだろう。
だが、グラースはその名誉を踏み躙り続けてきた女だ。教義を都合よく解釈し、裏で奴隷を虐殺し続けてきた、狂人だ。それを顧みることすらせず、どうして私を非難できるのだろう。
気づけば私は、グラースに掴み掛かっていた。
「何被害者ぶってるんですか!あなたは苦しむ人間に道を示さず、意志を無視し、尊厳を踏み躙った上で人間を殺しているんですよ。あなたみたいな人間が教会の上層部に立っていることが、汚らわしくて仕方がない!」
怒りが抑えきれなかった。私は周囲の目を気にすることもなく、唾を飛ばしながらグラースを罵倒する。
思い切り掴み掛かったせいで、ソファが傾き、後ろ向きに倒れた。
「暴力は禁じられているわよ。法律でも、戒律でも」
冷めた目で、グラースが私を見上げる。笑いが込み上げてくるほどの白々しさに、言葉が出なかった。
「もう話すことはありません。出ていってください。話していると、気分が悪くなる」
言葉というのは、人と分かり合うためのものだ。グラースのような、人でなしに向けても、なんの意味もない。
「そう」
グラースは片手で、馬乗りになった私を払い除けた。すごい力だった。私よりもエヴァインの血が濃いから、身体構造が違うのだろう。
護衛のユリアナが間に入って、よろけた私を支える。
「なんだか思ってた内容と違ったわね。ネメジスは政治が下手だったから……こういう搦手がくるなんて想像もしてなかった」
ドアノブに触れながら、グラースは呟く。
「正しいことだけでは、世界は変わらないのよ。リアちゃんは、まだそれがわかってない。この世界の理不尽を、理解できていない」
その内容は、少なからず私にショックを与えた。行動理念が、兄と同じだったからだ。兄の理念に賛同したわけではなかったけれど、私はそれに納得し、今日ここにいる。
だから、不快だった。同じ穴の狢だと、誰かに言われているようだった。
「やっぱりリアちゃんは、聖女に相応しくないわ」
最後にグラースはそう吐き捨てて、姿を消した。
気持ち悪い。
興奮と苛立ちは治らず、私はしばらく、息を荒げていた。
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