第5話 窓を開けて
眠っては起きて、目を瞑り、よくない夢ばかりを見る。
あの日、あの泣き声、うめき声、血が噴き出る音が、私の耳に酷く残る。検診術式を通して見た母の記憶が、悪夢となって私の枕に立っている。
母のお産を担当した侍女たちは処罰された。六賢を殺した罪人として。
私が部屋に篭っている時のことだった。何か嘆願でもすれば助かったのかもしれないが、気づいた時には殺されてしまっていた。
私は多くの人の命を助けるために力を使うべきだと、周囲に強要してきたわけだが、結局のところ、身内の命一つ救えない口だけの女でしかなかったわけだ。
それに気がついてしまうと、もう六賢を目指すなんて夢は抱けない。いや、母の代わりに六賢としての仕事を果たすなんて、母からすれば屈辱極まりない思想を未だに持っているなんて、許されてはいけない。そんな考えは決して正しくない。
妊娠中の時くらい、優しい言葉をかけて上げればよかったのに。変に正義感に駆られて、何をやっていたのだろう。もっと、やるべきことがあったはずだ。魔術の修練を、もっともっと、行うべきだった。そうすれば母も兄も、今も元気に過ごしていたはずだ。聖女の代理に思うような仕事がないのなら、自分から領地に赴いて慈善活動をすればよかった。少しくらいなら、時間も捻出できたはずだから。
何をしているんだろう、私は。
最近は喧嘩ばかりだった。いや、母は言い返してこないから、私が悪口を言っていただけか。昔は母のことが大好きで、魔術や勉強や、昔話なんかを聞いていたはずなのに。その在り方に憧れて、みんなを助けようと思ったはずなのに。
後悔をするなら、こんなところで寝転がっている場合ではない。せめて、最後の言葉くらい守りたかった。しかし、どうしても、このベッドから出られない。寒いのだ。凍えてしまいそうなほどに、寒くて動けない。
「ごめんなさい……」
笑っていた。母は最期に、笑っていた。おかしな話だが、それがとても恐ろしい。だって、それはつまり———
「アルマ伯爵が明日に来る事になっている。大切な仕事だ。彼のエヴァイン家の再興への尽力は知っているだろう」
扉越しに、ノックもなしに父が言う。相変わらず、自分の言いたいことしか言わない男だ。
「……リアンシェーヌ。いつまでもその調子では困るぞ。そのように部屋に引き篭もることを、ネメジスも望みはしないだろう。その死に報いる術があるとするなら、その職務を正しく引き継ぐことだ」
部屋の扉が、やけに遠く感じる。隙間から明かりが漏れていて、影が伸びているせいだろう。
「お前はそれができる人間だと思っていたのだがな。残念だ」
父の足音が去っていく。二度、私は歯軋りをして、しかし返す言葉もないので、頑張って、部屋から出ようと、頑張って。
「おえっ」
私はみっともなく、ベッドの上に嘔吐した。何も食べていないので、透明な、水のような吐瀉物だった。私は使えなくなったシーツを床に放り投げて、その日は震えて眠った。
♢
「もう伯爵がお見えだ。早く出てこい」
ドンドンと、父が扉を叩く。その音で目を覚ました私は、飛び跳ねるように体を起こした。
「……はい。わ、わかりました」
「何か言ったらどうだ、リアンシェーヌ!」
返事はしたつもりなのだが、しばらく何も飲み食いしていないせいで、声が出なくなっているらしい。だから、もう仕方がないので、体を這わせながら扉の前に立つ。
あれほど部屋の外に出るのに苦労したのに、いざ目の前に動かざるを得ない理由を用意されると、案外歩ける。私は、動悸と吐き気を堪えながら、ドアノブを握った。
「お、おお、お待たせしました。すみません。すみません……」
私が顔を上げると、父は怪訝な表情で私を見下ろす。
「……大袈裟なやつだ」
父は不快げに吐き捨て、数秒言葉に悩み、もう一度口を開く。
「ちっ。今日は寝ていろ。そんな無様な顔を伯爵に見せるわけにはいかないからな」
スタスタと、父が去っていく。使用人の一人が憐憫の表情を私に向けたが、「しゃんとしろ」と父が怒鳴るので、私は結局一人に戻った。不思議なことにショックではなく、安堵がここにある。
私は一体、いつからこんなに怠惰になったのだろう。これではいけない、いけないのに……
最近は、時間の感覚がおかしくなっているのか、日が落ちるのが早い。カーテンを閉め切っているので、外が暗くなって行っても気が付かないのだ。
ビューっと、風が吹いている。あまりにも強い風なので、ガタガタと窓が揺れて、眠れなかった。
「開けてください。お願いです」
ガタガタと揺れる窓から、女の声が聞こえた。月明かりで人の形の影がカーテンに映されていて、物怪のようだった。
「だ、誰?」
私が尋ねると、女は黙る。一体彼女はなんなのだろうか。強盗の類にしては、随分と間抜けな立ち振る舞いだったが、そうでなければ目星がつかない。
「あなたに助けていただいた奴隷です」
その言葉で、ようやく窓の向こう側に見当がついた。この冷たい声色には、確かな聞き覚えがある。
「無礼は承知ですが、頼みがあるのです。引き受けてくださるのなら、あなたが望むものを一つ、私は用意することができます」
「私が望むもの……?」
そう言われても、欲しいものなんてない。あえて一つ挙げるなら、休息であるのだが、生憎それは間に合っている。
「アルマグループの不正の証拠です。リアンシェーヌ様は、あの娼館の在り方に憤りを覚えていると感じたので」
思ってもみない提案だった。もっと、私自身のためになるようなものを想像していたので……いや、そういえば私は、それがいちばんの不満だったはずだ。あんな商売の片棒を担がされることが、たまらなく不快だった。
「……そうですね。つい最近までは、そうだったんですけど」
今は、特に何も感じない。全てを放り投げているからだ。だから、断ろうかと思った。
カーテンの向こう側の影が微かに動き、罪悪感が胸を指す。
『あなたがなりなさい。私を越えて、誰よりも正しく、誰からも認められる存在に』
母の言葉が脳裏をよぎる。せり上がってくる胃液を、私は必死に抑え込んだ。
「いえ、引き受けます。入って、ソリアちゃん」
カーテンを捲ると、器用に壁に掴まった少女がそこにいる。相変わらず肉付きの悪い不健康そうな見た目をしていて、今日の仕事をサボタージュしたことを思い出した。
もし今日来た子達が病気で死んでしまったら、それは私のせいになるのだろうか。
「なんて顔をしてるんですか」
ソリアは間の抜けた表情で、私に尋ねる。そういえば父にも、同じようなことを言われた気がする。
「私はいつもこんな顔ですよ。さあ、入って」
私は窓の鍵を開けて、彼女を部屋へと招く。明かりをつけて、椅子を用意して、私はできるだけ気丈に振る舞ってみせた。
「どうしてこの部屋がわかったんですか?」
「アリオト様とお話する機会があったので……その時に伺いました。リアンシェーヌ様なら、もしかしたら私の助けになるかもしれないと」
主張からして、今日のアルマの相手は兄がしてくれたのだろう。兄は治癒魔術の才能はからっきしなので、きっと苦労をかけたはずだ。体調だって悪いだろうに、申し訳が立たない。
「それなら、呼んでくれればよかったのに。これじゃあ、脱走と変わらないでしょう」
「ご心配はいりません。アルマ様は奴隷を使い潰す人ではありませんから、掴まったとしても、少々折檻を受けるだけでお許しいただけるでしょう。私はこれでも、売れっ子の部類らしいですからね」
にこやかに言ってのけるが、折檻というのが耐え難い激痛を伴うものであると、私は彼女の記憶越しに知っている。だから、彼女の覚悟がわかった。
「……頼みがあるのでしょう。聞かせてください」
胸を張って、私はソリアの手を取った。それが最も、正しいことだと感じたから。
「アルマグループは、使えなくなった奴隷をある人物に売りつけています。そこに売られた奴隷は、一月も待たずに享楽のために殺され、野に捨てられると聞きます。売られてしまった友人を、どうしても助けたいのです」
「それは……」
すぐには頷くことができなかった。奴隷を殺すことは、この国では何の法にも抵触しないからだ。アルマグループがどのように奴隷を売買し、取り扱っていたとしても、私に辞めさせる権限はなかった。
「彼女は普通の奴隷ではありません。連合国の出ではありますが、その血に術式を保有しています。奴隷のまま死んでいい存在じゃないんです!」
ソリアが涙ぐみながら、私の胸を叩く。軽い腕だったが、私も体力が落ちているので、振動で胃袋が揺れた。
「王宮の血液検査を受けられれば、国からの保護を受けられます。だから……人にお願い事をできるような立場ではないのはわかっていますが……お願いします」
縋り付くソリアの、燻んだ茶髪は、安っぽい香水の甘い匂いがした。きっと、断るべきなのだろう。私にはこの子の願いを叶える義理なんてないし、叶えられる保証もない。
「わかりました。できる限りの手を尽くしてみましょう」
それでもできると言ってしまう。こんなところに一人でいたら、頭がおかしくなってしまうから。
「本当ですか!ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
ソリアの顔は、汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。しかし、ありがとうと、心からのお礼を言われて、私の胸の奥がギュッと締まる。
「泣かないで。あなたの話が本当なら、すぐにでも助けに行かないといけません。その子達は一体、何処に売られてしまったのですか」
弱気になってはダメだ。私には人を助けられる力と、余裕がある。それならやってやるしかない。どんな悪人が相手だとしても、次期聖女として私が衆人の目の前に引き摺り出してやろうじゃないか。
「教会です」
ソリアは急に泣き止んで、私を見上げる。
「マリエル大教会。そこで枢機卿を務める女が、恥じることもなく奴隷を買い漁る姿を、私はこの目で見ました」
「そう、ですか……」
ソリアの瞳は、黒く濁っていた。なぜか責められているような気分になって、私は誤魔化すように笑みを浮かべる。
「教会のことであるなら、尚更放ってはおけませんね」
みんなを助けるように、そう言われたんだ。聖女になると、私は約束してしまった。
だから今は、せめてそれに報いたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます