第4話 あなたが人を殺す日
少しでも時間がある時、私は兄の寝室を訪ねる。看病のため、魔術の修練のために。
シーツを捲ると、肥大化した兄の両脚が露わになる。黒い血がドクンドクンと脈打っていて、ひどく不気味だった。
『検診術式展開』
目を瞑って、手のひらから兄の全身に魔力を循環させる。肉体の情報を収集していく過程で、様々な記憶が、私の中を通り抜けていく。血、血、死体、死体、剣。兄が私の知らないところで何をしていたのか、暴力的な情報が駆け巡っていく。血に混ざった魔力が邪魔をしているのか、ソリアほど精彩に記憶を辿ることはできない。まるで白昼夢を見ているかのような気分だった。
兄の記憶に従って、肉体の状態を少しづつ元に戻していく。過度に膨れ上がった筋肉の密度を下げ、神経の配置を人間本来のものに近づけていく。そこまでは、何の問題もなく上手く魔術を通すことができた。
「やっぱり、このやり方じゃダメか……」
手を離し、魔術を解除した瞬間だった。治したはずの両脚が、望まれた姿に戻ろうと蠢き始める。
私の治癒魔術で肉体を逆行させても、兄の鮮血魔術が体を最適化させるために勝手に作動してしまう。全身の身体構造を丸ごと修復すれば或いは上手くいくかもしれないが、禁術指定に抵触するし、そんな危険を冒せるほど私は驕ってもいなかった。
「ごめんなさい、兄さん。この病を治すには、まだかかりそうです」
「いいさ。こうしてリアが会いに来てくれるだけで、安心できる」
私が言うと、兄は力無く笑った。
最近の兄は、多くの時間、この部屋に閉じ込められている。護衛も兼ねて、兄の側仕えには新しくユリアナが任命されたのだが、彼女はあまり話す方ではないし、侍女として教育を受けたわけでもないので、兄はかなり苦労しているらしい。
「大丈夫です、私が必ず、治してみせますから」
父も母も、すぐに諦め過ぎなのだ。ここで兄を六賢候補から外せば、兄が今まで努力してきたことは本当に全て無駄になってしまう。
「いいのかい。僕の病が治ったら、リアは六賢になれなくなるかもしれない」
「身内の問題一つ解決できないような人間が、大きなことを成し遂げられるはずもありませんからね。治しますよ、必ず」
私は兄に微笑み返して、シーツをかけ直した。あまり一度に魔術をかけすぎると、兄の体に負担がかかる。今日はここまでが限界だろう。
「そうかい。じゃあ、待ってるよ」
兄は手を振って私を見送る。出ていく寸前に、少し寂しそうにしているのが見えたので、私も手を振り返した。
♢
母のお腹はみるみる膨らみ、あっという間に臨月になった。それに伴い、私の生活も大きく変わる。母の聖女としての仕事は私が引き受けることになり、教会や他家で治癒魔術を披露する機会が増えた。
それは私が求めた弱者救済のための仕事であるはずだったが、私の前に現れるのは、皆、豪華な服で着飾った者ばかりだった。半日かけて領地を渡り、そこの領主の腰痛を治して帰る。そんな、無駄の多い仕事ばかりだった。教会の祭典に呼ばれた日なんかは、渡されたスピーチの原稿を読まされ、治癒魔術すら使わずに一日が終わった。無駄、無駄、無駄ばかりだ。結局教会に、弱者救済の信念など存在していないのだろう。
尤も、悪いことばかりではない。聖女代行の仕事は一応私の収入になる。やろうと思えば、アルマに虐げられた奴隷を買い取ることもできるくらいだ。もし、彼女たちの状況が改善されないのであれば、保護をするというのも選択肢の一つだろう。
母が仕事の進捗を聞きたがるので、私は毎夜報告するのだが、自然と愚痴ばかりになる。私がこうするべきだと言っても、子供だからと、誰も聞いてくれないと。立場のある母が、何か言ってやるべきだと。私は言った。
「私は子供の頃、お医者さんになりたかったのよ。怪我や病気で苦しむ人は、世の中にたくさんいるでしょう?治す力を持って生まれたのだから、それが天命だと思っていたわ」
少し膨らんだお腹を撫でながら、母は私を見た。
「でもね、疲れちゃって。義務感で始めたことって、そう長くは続かないのよ。誰も助けてくれないし、それどころか、無意味なことだって言われてしまう」
母は弱っていた。食事も睡眠も十分にとっているはずなのに、瞼は暗く重く、肌も荒れている。
「助けた命が、何かを成し遂げてくれると、そう信じているけど。その結果に興味が持てないの。世界なんてどうでもいいし、見たい未来もない」
「それは……身勝手です!私たちは少なくとも、今を生きることに困ってはいません。恵まれた立場にいて、平民よりもずっと強い力を持っています」
「ええ。リアが正しいわ。私よりも、ずっとずっと正しい」
母は、私と目を合わせようとはしなかった。お腹の上で指遊びをしていて、落ち着きがない。
「でもね、逆なのよ。人を助けられるのは弱さを知る人だけなの」
部屋の隅には、母が軍医時代に愛用していた短剣が飾られている。エヴァーシャインの象徴は、傷ひとつなく輝いていた。
「痛みを知らない人間が、誰かの怪我を気遣えるのかしら。才能があるから、強いから、弱き者を助けないといけない。そんなふうに考えていたら……私は人間が嫌いになってしまった」
母は腹の中の子をいたわることを止め、飾られた剣を見上げた。母は剣士としても優秀であったと聞くが、剣を振るっているところなんて見たことがないので、あまり想像できない。
「あなたは弱さを知っている。だからきっと、私よりも聖女にふさわしい人間になれるはずよ」
「お母様、私は別に、聖女になりたいわけでは……」
「あなたは人を愛しなさい。身体ではなく、心を癒やしてあげて。人に寄り添い愛することができたのなら、きっと自分を好きになれるから」
私の言葉を食うように、母は道を示した。その言葉の裏にどれほどの重みがあるかはわからない。しかしそれでも、母が自分の人生を嫌っていることは見て取れる。
前にもこんなことがあった。この家のあり方に納得できなくて、母の部屋を尋ねたことがあった。私は好き勝手に自分の思うことを言ったけど、あの日、母はどうしていただろうか。
ああ、そうだ。
泣いていたんだ。
「言われるまでもないですね。私ほど人間が大好きな人は、そうそういませんよ」
悔いる必要はない。間違っていることを見ないフリするのは、それこそ間違っている。でも、この人のことを、これ以上傷つける意味も感じなかった。
「お母様ができなかったことは、私が代わりにやってあげますよ」
せめて安心させてあげようと、啖呵を切ったら母は笑った。私の物言いがツボに入ったらしい。しかし、それも一瞬のことで、母は急に背筋を正し、表情を失う。
「……生まれそうです」
「え!ひ、人を呼んできますね」
いきなりのことだったので、私は取り乱し、返事も待たずに廊下へ出る。産婆は入り口に控えていて、呼ぶまでもなかった。
産婆は使用人にあれこれ指示を出し、お産の用意を進めていく。少しでも母の役に経ちたくて、私はベッドに寄り、膨らんだお腹に手を寄せた。
『ーー修復術式展開』
単に傷を治すだけの魔術。それでも気休めになるだろうと思っての行為だった。
すると母が、血相を変えて私の腕を振り払う。
「今は、だめ。この子に負担がかかる」
息も絶え絶えだが、意図は理解できた。
治癒魔術は人体を正常な状態に戻す力だ。妊婦の身体を無理に修復しようとすれば、内側の異物がどうなるかは明白だ。
「ご、ごめんなさ」
「わかってる、大丈夫よ」
頬から汗を垂らしながら、母は私の頭を撫でる。
「手を握っていてくれないかしら。今日はお父さんもお仕事だから……」
「はい、任せて下さい」
妊婦が力む時の握力は凄まじいと聞く。剣士としても一流だった母となれば、私の手なんて一瞬で粉々にできるだろう。
でも、それでもいい。なんでもいいから、母の力になりたかった。
夜が更ける。静寂に包まれた室内では、母の呻き声が絶えず繰り返されていた。
「頑張って、お母様」
「んー!んんー!!」
万力のような圧力が、私の手にかかる。骨が軋む音が聞こえて、今にも涙が出そうだった。それでも、声は出さない。今は、母を安心させたかった。
その時だった。赤子の足が、母の股ぐらから姿を表した。
「逆子です」
産婆がそう言う。誰もが息を呑んだ。
「奥様、この子は産めません。万一産めたとしても、致命的な障害が残ります。治癒魔術をお使いください」
「それなら、き、切り裂いて頂戴。私なら、自力で治せるわ」
母がものすごい剣幕で産婆を睨んだ。
「そういうわけにもいきません。我々に執刀の経験はないのです。そもそも道具がありません」
「天剣を……天剣アルファルドを使いなさい。あれは、世界一切れ味のいい、私の愛刀……」
視線の先には、母が何度も戦場で振るってきた名刀があった。確かに、あれならば執刀はできる。
「この子の名前はメグレス。ラグレイス家の形式に則って星の名前を授けます……この子なら、きっとお父さんの夢も叶えてくれるでしょう」
母は、死を覚悟しているようだった。そうでなければ、こんなタイミングで名付けを行ったりはしない。
「お母さん、大丈夫、大丈夫だから」
「ええ、そうね。私は大丈夫よ」
優しく母が微笑みかける。握る手のひらからはびっしょりと汗が吹き出していた。
「リアンシェーヌ。必ずあなたが、聖女の座に座りなさい。努力を怠ってはダメよ。よく学び、よく励み、たくさんの人と関わりなさい」
吸い込まれるような黒い眼差し。こんな風に改まった説教をされるのは久しぶりのことだ。
「あなたは平和な時代に生まれたのだから、誰もが幸福に、笑顔でいられるように、その力でみんなを助けなさい」
「……うん」
頷くしかなかった。これが最後かもしれないと思ったら、恐ろしくて言葉が出なかった。
「約束して」
「約束します」
母の願いを飲み込む前に、私は反射的に返事をする。重みも、優しさも理解せぬまま、ただ縋った。
「それなら、安心ね」
母が、私の手を離した。産婆が母の前に割って入り、私は少し遠くで、母の覚悟を見守る。
「本当に、よろしいのですか」
「ええ、お願いね」
年長の産婆が母の腕を押さえつけ、若い産婆が天剣を握った。まるで処刑人のような構えで、私は彼女が何の技術も持っていないことを悟った。
「ーーいっ!い!!!」
血が吹き出る。母の叫声が室内に響く。あんなに血が出ているのに、若い産婆は急ぐ気配もなく、ゆっくり、ゆっくり、瞳孔を震わせながら縦に切り込みを入れていた。
とても見ていられるものではなく、私は母から目を逸らす。ただ時がすぎるのを待つ。
母のところから、わずかに聞こえるうめき声。それが徐々に小さく、呪詛のこもったものへと変わっていく。
聞きたくない、聞きたくない。
「おぎゃあ!おぎゃあ!」
鳴き声が聞こえた。母のものではなかった。
産婆は熱心に、母に語りかけていた。無茶なやり方をしたものだから、気を失ってしまったようだった。
「リアンシェーヌ様!治癒魔術を!」
急に名を呼ばれて、私はたじろいだ。しかし、母が意識を失ったのなら、あの切り裂かれた傷口を治せるのは私しかいない。
「わ、わかりました」
そうだ。私が治せばいい。そうすればきっと、母も安心して私にこの家を任せることができる。
死なせない、絶対に、死なせはしない。
「ひっ……」
こぼれた臓器と、血まみれのベッドを見て、私は後退した。臭いが、色が、死を私に教えてくるのだ。
「大丈夫、私が治すから」
揺らいだ決意をもう一度固めて、血に染まった母の腹部に触れる。
『ーー修復術式展開』
検診術式を展開する時間はない。魔術というのは、元来生物の在り方を変質させる術である。生命活動が停止している存在に対しては、極端に魔術の効き目が悪くなる。
精細な治療は不可能だ。大雑把になるとしても、まず傷を塞がなければならない。
「治って……」
治癒魔術で怪我を治すことは、難しい処置ではない。再発の可能性がある病と違って、怪我の場合は怪我を負った直前の状態に戻すだけでいい。
問題があるとしたら、それは。
「お願いだから……!」
母は直前まで、このお腹の中に赤ん坊という異物を抱えていた。肉体を単純に逆行させようとすれば、胎内はぐちゃぐちゃになってしまう。
いや、この際、それでも呼吸さえ戻るなら……
「死なないで……」
上手く修復できない。どうにも母の肉体構造は、今まで私が治してきた人間と大きく異なっていた。兄と同じように、鮮血魔術によって変質した肉体は、手癖で治すということを許してくれない。
失敗した。失敗した。
母が鮮血魔術を使うということは知っていたのだから、検診術式を先に発動させて、段階を踏むべきだった。今からで間に合うか、間に合わない。
間に合わない。
間に合わない。
ああ……
気づけば、母は死んでいた。
その口角は歪に持ち上がり、まるで道化師のようだった。
赤ん坊の泣き声が、遠くで繰り返されていた。
夜は深く。室内は死の香りで満たされていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます