言葉はいらない
七雨ゆう葉
伝う温度
「いってらっしゃい。頑張って」
よれたスーツを整え、ネクタイに手を掛ける妻。
「行ってきます」
「あっ」
「ちょっと待って
ドアノブに手を掛けた、その直後だった。
「紗代?」
そっと、包み込むように。
突如紗代が腕を回し、胸元に頬を摺り寄せる。
「少し、冷えてる。大丈夫?」
「あ、ああ。うん、別に大丈夫だよ」
「そっか」
「うん。じゃあ行ってくる」
こうしてこの日もまた、駅へと歩を進め、満員電車に揺られるルーティンの渦の中へ。
けれど今週からは、少し違う。
和哉は新たなる新天地へと向かった。
「あの……すみません」
「ココ、なんですけど……」
「ああ、コレね」
「ええっと、これは~」
「さっきも言ったんだけど――」
「……はい」
初めての転職、まだまだ慣れない環境下で。
月曜の初日から数えて、この日で五日目。
ようやく金曜の週末を迎えたものの、一週間がどれだけ長いことかと、和哉は常時嘆息が止まなかった。
そして……。
「さっきも言ったんだけど」という、そのセリフ。
――ホント、苦手だ。辛い。
おそらく先輩に悪意はなく、自然に発したであろう一言。とは思いながらもつい気にしてしまい、業務とは別の意味でドッと疲労感を覚える。
言葉に対し過敏症になってしまっていると自覚しつつ、和哉は何物にも言い難いささくれだった感情を蓄積させる日々を送っていた。
解決するには、乗り切るしかない。
とにかく、今は励まないと。
紗代も応援してくれている。それに、家庭を築いてまだ間もない。
和哉は心中で大きくかぶりを振り、業務に勤しんだ。
◆
「――では、宜しくお願いします」
「はい。こちらこそ、今後とも何卒宜しくお願い致します」
けれど、一ヶ月後。
得意先との折衝を無事終え、一礼と共に安堵で笑みが零れる。
踏ん張って良かった。あれから和哉は一通り仕事も覚え、さらに前職での経験も後押しし、徐々に単独で業務を
「ふぅ」
ようやく慣れて来た。
その後デスクに戻ると、自販機で購入した缶コーヒーを手にし、一息つく。
だが。
そう思ったのも、束の間。
「もしもし、第二営業部です」
「あのさぁ」
内線からの一報。相手は社内の工場管理からだった。
「んなもん、こんな短納期でできる訳ねーだろうが!」
「そうは言いましても……前回の会議で納期表は配布しておりまして。その際ヒアリングの機会も設けさせて頂きましたが、特に日程に対し、問い合わせは無かったと思うのですが」
「あの時と今とは別だっての。現場は日々、状況が変わるんだよ!」
「これだから、最前線の現場を知らない者は。じっと座ってキーボードカタカタしてる奴とは違うんだ」
「だから納期調整、頼んだぞ」
工場側の明らかな確認ミス。それでも自分がまだ入って間もない事もあってか、高圧的に
「はぁぁ。ホント、勝手なことばっか言いやがって……」
「だし、そんな言い方しなくても」
言葉はある意味、狂気であり凶器。得意先との交渉事よりも、社内調整のほうが高負荷。
心底理不尽だと実感しつつ、和哉は渋々ダイヤルに手を掛けた。
見積もりも結構溜まってるし……。
今日はもう、徹夜だな。
「ごめん紗代」
「多分今週は、徹夜続きになると思う」
「そう、なんだ」
「だから先に寝てて。待ってなくていいから」
「うん、ありがと」
忙殺の中での、ささやかなやりとり。
そして、毎朝恒例のハグ。
「少し、熱いかも」
「え? そう……かな? でも別に、熱はないから」
「じゃあ行ってきます」
正直ストレスは溜まっている。感情もざわついたまま。蓄積していたそれを、できたら毎晩紗代に吐き出したい、そんな衝動にも駆られていた。
でも、仕事と家は完全に切り分けたい。持ち込みたくはない。
それに愚痴をベラベラ語るのも、男としてどうなのか。
負の言葉の羅列は、それはそれで聴く側の生気をも吸い取りかねない。
言葉には力がある。
和哉はグッと堪え、黙殺に努めた。
それからの数日間。
和哉は半ば無心で、業務に向き合い続けた。
新規でトラブルが発生しようとも常に自制に努め、感情を殺し、それらに対処する。
できるならもっと、妻との時間を過ごしたい。
夕飯だって一緒に、笑顔で団欒しながら摂りたい。
始まったばかりの紗代との家庭を、もっと――。
ただその一心で、和哉は手を動かし続けた。
そうして迎えた週末、金曜日。
「はあ! 終わった!」
見積もりも納期調整も片付き、大きく伸びをする。
時刻は午後七時。これから退社すれば、八時には帰れるだろう。
和哉は急いでパソコンを閉じた。
「ただいま」
「あっ、おかえりなさい」
ドアを開けてまもなく、夕食の仄かな匂いと共に紗代の温容が顔を覗かせる。
「和哉、今週もお疲れ様」
「ああ、うん。思ったより早く帰れて良かったよ」
言いながら和哉が靴を脱いだ、その瞬間。
「さよ?」
紗代がクイっと体を寄せ、「そう」と零しながら手を握ってきた。
「ささくれは、もう治った?」
「え? ささくれ? ささくれって?」
「別にささくれなんて、元々無いけど」
「それを言ったら紗代の方こそ。いっつも家事、やってくれてるから」
「手、大丈夫?」
和哉は握り返し、紗代の細い手を眼前へと持ち上げる。
「ううん、そうじゃなくて」
「えっ?」
「じゃあ、どういういっ――」
バサッッ!
すると朝の如く。
紗代がエプロン姿のまま、胸元に飛び込んできた。
「この中にあったささくれ」
「もう、消えたみたいだね」
「紗代?」
「だって――」
「こんなにも優しくて、温かいから」
そう言って埋もれる紗代。
シャンプーの華やかな香りが鼻腔から全身へと包み込む。
「……紗代」
妻はずっと、気づいていた。気づいてくれていた。
言葉にせずとも、自分の中に堆積していた、その感情を。
(もう、なんだよそれ)
何だか一本取られた気分。嬉しさと恥じらいが絶妙に交わる。
朝と同じようで……けれど、違う。
そんな抱擁の中。
妻は安堵し、嬉しそうだった。
「これが体験できるなら――」
「ささくれの一つや二つ、いくらでも」
「ん、なに?」
漏れ出た妻の言葉を遮るように、抱き寄せた身体。
――言葉なんて、いらない。
強く。
そして、優しく。
和哉は「ううん、何でもない」と言うと、そのまま紗代を胸の中に閉じ込めた。
了
言葉はいらない 七雨ゆう葉 @YuhaNaname
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