夕暮れは手をつないで

西しまこ

そのあとを舐めて

 タケルの指のささくれをぷちっと取った。

「いてっ」

「痛かった?」

「ちょっと」

 血がじわりと滲むのを見て、サユミはタケルの血を舐めた。

 それから、その人差し指も舐める。サユミは舐めながら、血の味と皮膚の味を確認し、それから爪の形を舌でなぞった。


 三月中旬の、暖かい日。遠くで鳥の音が聞こえた。風が街路樹を渡る音も聞こえる。


「もう春だね」

 サユミはタケルの人差し指を堪能し、指の間にも舌を這わせた。

「サユミ」

 タケルは空いている方の手でサユミのおとがいに手をかけ、自分の方を向かせた。


 ぬるい体温が溶け合い混ざり合い、熱い吐息が重なり合い、白い梅の花が雪のように祝福のようにひらひらと舞った。昼間の青い空は、既に薄い青ではなく暖かみのある力の強い青で、白い月がぷかりと浮いていた。


 遠くで電車が行く音が聞こえる。遠くで自転車がブレーキをかける音が聞こえる。遠くで誰かの話声が聞こえる。それは何もかも幸福な音に聞こえた。


 休日に誰かを楽しいどこかまで乗せて行く音。大好きな人に会うために急いでペダルを踏んで、赤信号にぶつかり残念ながらもブレーキをかけるけど、どこか期待に胸が弾んでいるような音。会話にはしばしば笑い声が混じり、まるでやわらかく雪解けをさせる太陽の光の波のような音。


 古い音楽が聞こえた。

 懐かしい、あの曲。


「ねえ」

 それだけでサユミの言いたいことはタケルに伝わった。

「うん、懐かしいね。あの頃、よくいっしょに聞いたよね」

 古い音楽があのときの二人を連れて来た。そのときの気持ちも色も高ぶりも匂いも夢も、何もかもが音符の洪水となって、狭い部屋に広がった。


 サユミはタケルのささくれのあとを指でそって撫でた。

「もう痛くない?」

「うん、痛くない」

 もう一度、ぺろりとそのあとを舌でなぞって、サユミはそのままタケルにもたれかかった。


 古い音楽はもう聞こえなくなっていた。だけど、その余韻みたいなものが、ほんの少し気の抜けたソーダ水のように甘く切なく、そこに確かに存在していた。

 ふたりはその余韻の中で、静かで途切れることのない波のように会話をした。

 昼間の陽はいつの間にか傾いて、斜めに入った光が濃い影を部屋の中に作り出していた。


 誰かが帰って行く足音が聞こえた。鳥も風に乗って巣に帰るのだろう。おしゃべりの代わりに、どこかで夕はんの準備をしている音が聞こえた。あたたかなおいしいかおりが漂ってくるようだった。


「お腹、空いたね」

「何か食べに行こう」

「何、食べたい?」


 世界を橙色に染め上げ、手をつなぐのが似合う、夕暮れ。




    了

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夕暮れは手をつないで 西しまこ @nishi-shima

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