想いを燃やす社
@Shirohinagic
想いを燃やす社
人里離れた山奥に今日も煙があがっている。
旅人は、鬱蒼と茂る木々の頭上に、もうもうとあがっていくそれを見ながら山道を辿り、やがて小さな空き地に出た。
侘しい鳥居に朽ちた石畳。奥にはこれまた古い祠。
寂れた境内の隅で、妙齢の神主が焚き火をしていた。
「お焚き上げですか?」
旅人は尋ねた。長髪の神主は目線のみを投げてよこし、再び足元の火になにかを焚べながら返した。
「左様。報われなかった想いをね、こうして供養しておるのです」
「……想いを?」
足元を見た。
無数の枯れ葉が彼の足元に積もっていた。
「それくらいしか、できることがないもので」
焚き火のはぜる音が、続いた。
旅人は暖を取るのにも一層火に近付いてみた。
火に照らされて、神主が燃やしているものが足元に浮かび上がっている。
やはり枯れ葉だ。
一見して何の変哲もない。
しかし、神主は何も言わず、それらを大事そうに集めては火に焚べている。
旅人はぼんやりと火を眺めながら続けて尋ねた。
「……ほう。と、言いますと……ここに積んであるものは人の想いである、と?」
単に枯れ葉ではないか、というのは憚られて、そのように言った。
そしておそらくそれは正しかった。
「左様。言の葉などと申されますように、私には人の想いが凝縮され、顕現した結晶のように見受けられるので、ささやかながら、こないにして集めては供養しておるのでございます」
言いながら神主は生気の無い黒い瞳で脚元の枯れ葉を眺め、一枚手に取ると、火にかざして告げた——。
「例えば……これは恋文」
「恋文……あぁっ」
旅人は目を疑った。
——すると、ぼんやりとした焔のゆらめきに混じり、中空に、蜃気楼のように何か、浮かび上がってきたのだ。
「恋文……ですって? しかし、これはまた……いえ。確かに見える。何か見えはしますが、やたらと拙く、そして実に歪んでいるように見えるのですが……?」
「左様。かろうじて体裁を取り繕うてはおりますが、私事に歪み、稚拙で、粗雑……まるで、そう、童の描いた絵のように混沌としておりますな。しかし、それは書いた本人が誰よりも痛切に理解しておられること。未熟なことは承知の上、理解しておられながら……それでも、伝えたかった」
「伝えたい……?」
「左様。何事も都合よく訪れるものではございませぬ。私たちは常に試され、その時々において持ち得る手札を切り尽くす他ないもの……よく、ご覧ください。一見して稚拙に見えても……私にはその精一杯さが滲んで、そしてとても素直に、実に生き生きと、その魅力が推し描かれているように見えてなりませぬ」
自分にはそこまではっきりと、文章や言葉のようには視えない……しかしながら、そう言われて葉の陰を具に眺めてみれば、なにか必死な……あれもこれもと自分ではまとまりもつかないままに想いの端から一つ残らず寄せ集めたような……ああ、そうだ。
これこそが恋だ。想い、煩うということそのものだ。
雑然として一つ事に収められない気持ち、焦がれると同時に憎みもして、そんな自分をも醜く想い、苦悶する。しかし、その中心には常にあなたがいるのだと。
全てあなたのせいなんだと。
この押し寄せた感情のたぎりの全てを、ぶつけたい。
まさに純粋な恋心そのものの形が、その情景には浮かんで見えるようだった。
抽象的で正誤のない、はたまた何が幸いになるかもしれない、人格の評価という難題において、己に尽くせる在らん限りを振り絞って、素直な表現をする。それにどれだけの勇気がいるだろう。
良い点も悪い点も洗いざらい描き起こして『あなたはまさしくこうだ、そしてそんなあなたのことが、この上なく好きだ』という気持ちを形に起こしているようだった。
それだけに旅人には懸念があった。
「……でも、報われなかった?」
「左様。先ほど旅の方、あなたが仰られたように歪み、拙さ、混沌、それら一面的な事柄のみが額面通りに評価されたのでしょう。この文は、ついぞ、受け止められることはございませんでした。不器用さは不細工なままとして、その筆触に秘められた切なる想いに返答はなく、行方知れず。宙をただ、漂うこととなったのでございます」
「……だから、供養する」
「左様……」
神主はそう言って枯れ葉を火に投げ込んだ。
水気のなくなった葉は立ち所に燃え盛り、灰となり、残る部分が煙に混じり、空へ逃れるように立ち昇っていった。
旅人はすこし腑に落ちた。
不思議なことではあるが、この神主にはそうした、つまり、報われなかった人の想いが、枯れた言の葉になって見えている。あるいは、ただの枯れ葉にそのような投影をうつして、共に燃やすことができる。
まさしく供養だ。
届かなかった言葉の供養。
報われなかった想いのお焚き上げ。
「伺ってもよろしいでしょうか?」
旅人は尋ねていた。
神主から言葉としての返答はなかったものの、ゆっくりと首を下げたので、それを返答として受け取り、旅人は続けた。
「他にはどんなものがあるのですか?」
旅人が尋ねると、神主はやはりまた答えの代わりに一枚拾い上げて、火にかざした。すると、旅人にも見えてくる。
こ……これは、大きい。
先ほどとはまるで違う。遥かに大きく、力強い光……地上をあまねく照らす太陽のようにすら、見えた。
「こ、これは……」
「これは……無念。彼にはまだまだやるべきことがあった。やりたいこと、そしてやらなければならないことが……あまりにも多く、あった」
「亡くなった方の想い……ですか」
「左様。病気や、不慮の事故などで己が見据えたはずの天命を全うできずに仏になられますると、かように想いだけが、遺り、彷徨う。しかし、大抵の場合、灰となってもそれを継ぐ者が必ず現れますな。彼らの灰を受け取り、煙を浴び、そうして想いをつなげる者らが……そういう意味では、報われない、ということでもないという気が致しますが……当人の心は当人のみぞ知り、またそれだけ望まれた者の想いであるならば、まさしく当人の心から発せられたそのものを見聞きしたかっただろう……」
「……だから、供養」
「左様……」
神主はそう言って枯れ葉を火に投げ込むと、それはやはりすぐに燃えさかり、煙となって天へと昇っていく。
あたかも魂が昇天するように見えて、これはそれそのものではないか、と旅人は思った。
「最も純粋なものをお見せしてしんぜよう」
神主はこう言うと、枯れ葉の中から一枚を抜き出し、やはり同じように火にかざした。
旅人は困惑した。
今度は一見して何も見えないように思われたのだ。
しかし、よくよく目を凝らしてみると、ようやく、形にもならないものが木枯らしの中心のような儚さで、うっすらと感じ取れてくる。
そうして中心を覗き込んでみるうち、旅人はふと足元が覚束なくなった。とたんに重たく感じられた。
まさに……これは、重力だ。そのような力場が情景の中心に渦巻いて、目に映るのならきっとこんな色形をしている……それでいて、対照的に、木枯らしのように形を持たない。
気付かず、通り過ぎてしまうような。
「これは……これが、最も純粋な……言葉……」
「左様。これが最も清く、澄んだ人の想い……言葉の源泉、すなわち、憚られた想いです」
「憚られた……おもい……」
神主は言葉の代わりに一つ首肯して続けた。
「人は伝えようとすれば伝わるものではないことを自ずから悟って生きております。ゆえに、このような言葉にすらならなかった言葉が声もなく顕れる。言おうとして、しかし、言わない方が良い。言っては駄目だと。そのような気遣い、思いやり、また別の想いによって遮られたために、ついぞ言われることのなかった言葉が、人の世には無数に、無限に存在する……これは人だけのものです。動物にはこれができない。私は、しかし、この言葉が最も好きだ」
まさか、とは思いながらも、旅人は神主が初めてわずかに表情を緩めるのを見た。
まるで慈しむように言の葉を眺めている。
「言いたくても言えなかった。書いたが、消した、その一文節。そこにね、そこにこそね、私は、何よりもの人が、人として生きている呼吸というような、意義を覚えるのです。本能とも、理性とも、つかぬ行為ではありませんか? 健気で、奥ゆかしく、不器用で、無軌道。いじらしく、ありのままの本性が字体ではなく、声も存在もなしに顕れる……何某かを配慮したか、それらを排除してまでも言おうとした、伝えようとした、しかし消した。踏みとどまったか、行動や文脈の理解に懸けたか……このためらい、はたまた決心こそが、その人の真の愛であり、姿であり、言葉なのです。これほどに純粋で尊い言葉は他にない。方向性が正であれ、負であれ、それらは然したる問題ではない。そしてついに産まれるにも産まれ出でることのできなかった儚き心の揺蕩い……なんとも、可愛らしい」
神主はすると、葉を持たないもう一方の腕をあげ、枯れ葉の一枚一枚を指差し、続けた。
「……あれは伴侶に対する言の葉。あれは真実を追求できない政治家の。理想と誠実さを渇求する国民たち、信者たちの。友人間の不信や、あるいは理屈を超えた信頼。愛情」
「……愛情」
「言葉とはね、かようなもの。不思議でしょう。それは自分の口を衝いて出たその瞬間から、自分自身の手をも離れ、まったく誰のものでもなくなる……そのことを理解しておられるのでしょうね。だから、本当に、本当に大切な想いだけは、誰にも解釈されたくない。ゆえに、言おうにも、言えない。言葉にできない。私だけの心に秘め、そして、ささやかながら冥福を祈るのです。成就することのなかった想いを想い……ためらい、迷い、そして秘める事、この苦しさが、愛でなくてなんでしょう?」
「……だから、あなたが供養している」
「左様。この儚きを慮っては、せめて、成仏せよ、と。祈る他、我々にできることがありましょうか?」
「…………」
神主はそう言ってまた一枚、言の葉を火に焚べた。
葉は一枚一枚、焚べられた端から燃えさかり、灰となって煙となって、空に上がっていく。
「あなたは……あなたは、ずっと、こうして、一人、人の想いを見送ってきたのですか?」
「この苦しみに寄り添い、切々と胸を傷ませる時間が、私は好きなのです。届かなかった想い。果たせなかった想い。そして、産ますことのできなかった想いを想い」
神主は答えた。
「私は、ここでしか生きられない。俗世は、私には煩すぎる。あれらは、言葉ではない。信号であり、その周波数帯は私にとっては雑音のようで、耳を塞ぎたくなってしまうのです」
神主は慣れないように顔を綻ばせると、困ったようにそう言いながら笑った。
生きる時代を間違えている。
その繊細さの片鱗を窺い知るうち、そんな風にも思ったが、それは言わないでおくことにした。
帰り道、山の麓に出た私の前に一枚の枯れ葉が落ちていた。
ふと思い立ち、拾い上げ、茎を指に挟んでくるくると回してみながら、私は神主を思い出す。
境内を降りようとした私に、神主は最後にこう声をかけた。
「旅の方。目に映るものだけを追いかけなさるな。それはまやかし。ゆめゆめ器官に頼ってはなりませぬ。目には見えず、耳にも聴こえず、しかし確かにそこに在る本当の言霊を……言葉に込められた想いをこそ見通せ、聴くことのできる、心なる目と、耳を、どうぞゆるりと養ってくださいませ。そして——……」
私たちは、きっと、大いなる勘違いしている。
言葉は相互理解のためにあるのではなかった。
もともとそれもなく理解しあえていた私たちを分断し、軋轢を生じさせるため、神々が与えた呪いの器官が、言葉だ。
神主に信号と称された言葉を用いて、現に今、私たちは他者を罵倒し、卑下し、中傷し合い、仲違いや誤解を招き、広める道具として、あるいはむやみやたらと歯の浮くような褒め言葉や美辞麗句を並べ、心無い同調を募ったりと、言葉の持つ毒のような側面ばかりを機能させているようではないか。
しかし、かつて、そんな神々のはかりごとを嘲笑うかのように、ならばと戯れ、愛に友情にと謳い、使いこなしては、それを文化に変えて親しみ、自然と共存せしめた人たちがいた。
自負ではなく想うのは。
神々と決別し、敵対することを選択した西欧やそれに連なる文化圏と比べて、彼らが最も違う存在、特異だったのはそこだ。
彼らはかつて史上最も神に近しく、親しい存在だった。
八百万といって、生活の随所に神を住まわせ、まるで隣人のように、共に暮らしていたのは地球広しと言えども、彼らだけだ。
神々や精霊たちはきっと彼らが好きだったし、彼らの謳うのを傍に見にきたり、聴いたりするのが好きだったし、彼らもまた神々の隣で苦楽を共に生きながら謳い返し、この苦しい生を乗り越えるのに手を取り合っていたに違いない。
彼らは今、どこへ行ってしまったのか。
その子孫たちは……。
神主は続けた。
「どうかご自愛ください。今こそ自分のそんな部分をいたわり、愛しめられることがあるとすれば、ひょっこり、彼らもまた戻ってくることもあるかもしれない。なぜって。それはいつだって、私たちの血の中に眠っているだけの、はずなのですから」
私は枯れ葉をくるくると回しながら、足取り軽く、その山を後にした。
山奥には今も、煙が上がっている。
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