親不孝者の脱却

佐倉満月

「痛ッ……」

 指先に走った鋭い痛みに顔を顰める。見れば、親指にできたささくれから血が滲んでいた。大方、服か髪の毛に引っかけてしまったのだろう。

 絆創膏を貼ってもいいが、せっかくネイルサロンで綺麗に装飾してもらった爪が隠れてしまう。高い金を払っているのだ、なるべく多くの人に見せびらかしたいではないか。

 ささくれが出来ると親不孝だ、なんて眉唾じみた話を耳にしたことがある。理由は水仕事が出来なくなるから、なんだとか。昔は掃除洗濯は全て手作業で行うために手に傷があるとまともに手伝えず、親に負担をかけてしまうことから親不孝だと言われるようになった、という雑学をテレビで聞き齧った。

 また同じ番組で紹介していたが、ささくれが出来る原因の一つに、栄養状態もあるらしい。生活習慣が乱れ、食生活も偏ると指先にまで栄養が充分に行き渡らず荒れてしまうのだ。大概の親は規則正しい生活で健康に過ごすことを望んでいるだろうから、どちらにせよ親不孝なのは間違いない。

 親不孝といえば、自分も当てはまるだろう。彼氏との結婚を母親に反対され、家出同然に彼の家に転がり込んだ。父を早くに亡くした母子家庭だったために、母は過保護気味だった。束縛してくる母を疎ましく思った私は実家の電話番号や母の連絡先を全て消去し、携帯電話も買い替えて番号を変えて縁を切った。

 しかし同棲生活は長くは続かず、彼とは結局別れてしまった。同棲していたマンションから追い出された私は今更実家に帰るだなんて言い出せず、夜の仕事で糊口を凌ぐ日々。母が私の今の生活を目の当たりにしたら卒倒するだろう。

 ささくれはじくじくと脳に痛みを訴えてくる。親不孝者だと咎められた気分になった。

「最悪……」

 指先だけならず心もささくれ立った私は、苛立ちに任せて皮を引っ張った。絆創膏は貼りたくないし、爪切りを使ったところで根元までは切れずにまた引っかけてしまうだろう。何度も痛みに煩わされるよりは、今だけ我慢して一気に引き千切った方が楽だった。

 早々に千切れると見越していたささくれは、親指の付け根まで続いた。まだ切れる気配はない。下から覗く赤い肉はまだ柔らかく、皮膚にすらなっていない。

 痛かったのは最初だけで、新たに血が溢れることもなく皮はどんどん捲れていく。私は怖くなった。このままでは全身の皮が剥がれ落ちてしまうのではないか。しかし皮を剥く手は止まらず、恐怖に慄きながらも皮膚をべりべりと剥ぎ取っていく。腕だけに留まらず、胴や足、顔までも。

 今まで私の全身を覆っていた皮は既に不要な老廃物と成り果てたと脳が思い込み、必死に取り除こうとしている。やめて。そんなことはないのに。嫌だ。この皮を全て脱ぎ捨ててしまった時、私はいったいどうなってしまうのか――

 ずるり。

 未練がましく最後まで繋がっていた皮を爪で千切る。ヒトの形をした抜け殻がフローリングに落ちた。露わになる、傷一つないまっさらな体。気分は蛹から羽化した蝶だ。赤い肉は真新しい皮膚へと変貌する。

 私は古い皮を細かく切ってゴミ箱に捨てると、簡単に荷物を纏めて家を出た。もうここには帰らない。帰るべき場所は決まっている。

「ただいま」

 数年ぶりに実家に帰宅すると、母は零れ落ちんばかりに双眸を見開いて、それから優しく抱きしめてくれた。

「お帰りなさい。もう親不孝はやめたのね」

「うん、今までごめんなさい。私生まれ変わったの。これからは親孝行するね」

 親不孝の象徴は指先からいなくなった。私は古い皮を脱ぎ捨て、母の望む私に生まれ変わったのだ。

「そう。楽しみだわ」

 母は嬉しそうに笑った。

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