宇宙船はささくれ立った心が分からない

魚野れん

ささくれの解釈違いと宇宙船

 セーレンはプラハトの涙を衣装の袖で拭った。

「セーレンは、優しいのですね」

「あなたの方こそ、人間を愛することを覚えたんだから優しいよ」


 今のプラハトは、どこか壊れてしまった人形を思わせる虚ろな目をセーレンに向ける。

「私、不思議だったんです」

 セーレンの手をそっと握り、彼の指先を丁寧になぞる。

「外殻に擦れた傷ができたみたいな、変な気持ちがしていたんです」


 セーレンの指先にあるささくれをぴり、と剥き始めた。ちりちりとした痛みがセーレンに届く。痛い、と彼女に伝えることは簡単だったが、プラハトが出す結論が気になってしまい、言い出す気になれない。


「ささくれ立った心って、こういうことなんでしょうか?」


 ズレた考えの宇宙船に、セーレンは首を横に振った。あれだけ長い時を人間と共に生きておきながら、人間を理解しようとしていながら、彼女はまだ人間を理解しきっていない。

 人間という存在が難しすぎるのか。それとも彼女たちを含めたアンヘンガー同調する者という種族の始祖を太古の人間がプログラムした生み出したからか、セーレンには判断しがたいところだった。


「……残念ながら、視点が違うよ」

「ですよね。“ささくれ立つ”は刺々しい態度をとることですし」


 うんうんと頷く彼女だが、セーレンのささくれを剥く手は止まらない。剥きすぎた部分から血がじわりと滲む。


「不思議です。ささくれができたら気になるだけなのに、他者を傷つけやすい状態を比喩するなんて」


 プラハトはセーレンのささくれを引きちぎった。ぷち、と皮膚の切れる音がする。


「でも、荒れた指は他者を傷つけますから、あながち間違いではないのかもしれませんね」


 プラハトの手で作られた窪みが小さな赤い池を生み出した。しばらく水に触れるたびにしみるだろうな、とセーレンは内心苦笑する。


「さっきのあなたのように、私の肌を傷つけないように配慮する優しさがない状態のことを、言うのかもしれませんね」


 プラハトはセーレンがどうして衣装の袖で涙を拭ったのか、気づいていたらしい。だから彼女はセーレンに「優しい」と言ったのだ。


「私のささくれは、あなたたちを傷つけてしまうんでしょうね」


 プラハトが何を言わんとしているのか、セーレンは何となく分かってきた。だが、少し足りない。


「私、レープハフトの最期のお願いを聞いてあげられなかったんです」

「うん……見たよ」


 レープハフトは、死んだら埋葬してくれと言った。だが、彼女はそうしなかった。永遠の別れが惜しかったのだろうと、セーレンは思う。


「あれから私の心は、きっと……ささくれ立ったままなんです」


 プラハトはセーレンの指先をちゅうっと吸った。アンヘンガーという宇宙船と一対で存在する種族は、人間の生体エネルギーを主食としているらしい。

 だが、宇宙船に搭乗する人間の生命力、精神力といったものを糧とする彼らの捕食行動は、こういった形ではなかったはずだ。

 得たばかりの知識を整理しながら、セーレンはプラハトの行動を見守る。


「セーレンは、今の私をどう思いますか?」

「……今のプラハトは、闇の乙女だね」


 セーレンは、彼女の問いに慎重に答えた。外してはいけない、と直感が言っている。

 プラハトは少し考えるそぶりを見せ、再び口を開いた。


「ささくれ立っているからですか?」

「ううん。違うよ」


 プラハトが考えている外郭の傷、それは錆のようなものだ。そしてその錆は深くまで侵食してしまっている。この錆は、レープハフトという存在を失ってから “愛”に気づいてしまったプラハトの“絶望”だ。

 人間的な感情がプログラムされている彼女のバグ、とでも言えば良いのだろうか。プラハトに“絶望”は存在しないはずだった。同じく“特定の個体への愛”も。

 薄桃色の唇が、セーレンの血を滲ませて赤く色づいている。


「プラハト、今のあなたはただ、悲しいだけ。長い間、ずっとレープハフトを心の中で弔い続けているだけ」

「弔い続けている、ですか」


 プラハトはぱちぱちと瞬いた。瞬きする都度、彼女の目に光が戻っていく。

 元の彼女に、戻るのだろうか。セーレンは小さな希望を胸に、言葉を重ねた。


「プラハトは、ささくれ立っていないよ」

「そうなんですね」


 プラハトは再びセーレンの指先を口に含む。彼女の舌が、ささくれがあった部分を執拗に舐める。ぴりぴりとした刺激がセーレンをざわつかせた。

 セーレンが考えていたものと、違う結末が待っている気配がする。


「私はささくれ立っていない。人間を傷つけようと、していない……」


 セーレンの放った言葉を咀嚼するように、プラハトは繰り返す。

 痛かったはずの指先が痛くない。不思議に思ったセーレンが己の指先を見れば、傷口は消えていた。こんな機能、アンヘンガーにあっただろうか。

 セーレンが疑問を抱いていると、セーレンがよく知る明るい声が飛んでくる。


「ありがとうございます、マスター」

「僕はマスターじゃないよ」


 セーレンの返しに彼女は笑む。何だか会話がうまくかみ合っていない気がする。不穏な何かを感じながら、セーレンは困惑した。


「いいえ。セーレン。あなたは先ほど、フロイラインのマスターとして登録されました」

「え?」


 プラハトは過去にセーレンが見せられた映像記録に映っていた時の顔をしている。幸せそうな、あの笑顔だ。

 セーレンは理解した。

 彼女は自分との対話を望んでいるのではなく、己の背後にいる存在との対話を望んでいるのだ。


 この船にいるのは、レープハフトのDNAをトレースし、様々な人間と組み合わせて作り上げた結果、成長したイチ種族である。セーレンほどレープハフトに似た見た目の人間は、いない。プラハトは、彼のクローンをつくることを良しとしなかった。

 自然発生した第二のレープハフトを求めていた。レープハフトを埋葬せず、この船に取り込み、保存したことから察するべきだった。


「六百五十七番目の、あの人の分身。セーレン=レープハフト・ドルファー」

「プラハト、僕は彼にはなれないよ」


 セーレンは、聞いてくれないだろうなと思いつつ、プラハトにそっと告げる。


「分かっています。でも、きっとあなたの存在が、私を導いてくれる」


 きらきらと目を輝かせた彼女から、再び雫が落ちる。セーレンは指先で彼女の涙を拭った。


「おかえりなさい。マスター」


 人間以上に人間らしい表情で、少女の姿をした宇宙船が笑う。

 幻の最愛を見つけ、光の乙女が帰ってきた。

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宇宙船はささくれ立った心が分からない 魚野れん @elfhame_Wallen

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