【KAC20244】お題:ささくれ

かごのぼっち

愛しい手

 結婚してもうすぐ三十年。


 僕と妻は専門学校で出会って、五年の交際を経て結婚した。


 恋愛結婚だった。


 新婚旅行の時、僕は彼女の綺麗な手を取って、彼女を幸せにする事を約束した。


 初めは2LDKのマンション暮らしで、少しずつお金を貯めて一戸建ての家を買った。


 初めは共働きでお金を貯めていたけれど、一戸建てに引っ越してから、僕は仕事の帰りが遅くなった。


 僕が家事をあまり手伝えない為に、彼女は正社員を辞めて家事とアルバイトを両立する事になった。


 途中、僕の身体の不調で、仕事を転職することになり、家計の不安もあったけれども、彼女の支えもあって何とかやって来れた。


 もちろん、数え切れないくらいの喧嘩もしたし、離婚だ何だと修羅場もあった。


 僕が仕事ばっかりで家にいる時間が取れずにいて、家事は妻に任せっきりだった時、僕は酷い事を彼女に言ってしまったんだ。


「僕は遊んでいるんじゃない、仕事をしてるんだ。 家事くらいしてくれたって良いだろう?」


 これはイケなかった。


 僕は仕事で疲れてストレスが溜まっていたのもあるが、妻に言ってはイケない事を言ってしまった。


 だけど妻も同じだった。


 仕事で疲れているところに家事も押し付けられて、帰りの遅い僕の食事を作って待っていてくれたんだ。 もちろん他の家事だって彼女任せだ。


 僕も彼女も疲れきっていた。


 そこにそんな言葉を吐いたものだから、彼女はとても怒って、そして……


 泣いた。


 僕はそれを見て、はっと我に返り、とんでもない事を彼女に言ってしまったと、猛省して彼女に謝って許してもらった。


 色んな事があり、色んな楽しみも、色んな困難も、ずっと二人で分かち合って来た。


 それから、


 お互いに歳を重ねて、もう若いとは言えない歳になった。


 ある日、


 妻が顔を真っ青にして、今までに見た事もないほどに苦しそうに顔を歪めて、


 倒れた。


 倒れた原因は貧血だったが、原因は子宮筋腫だった。


 しかし、問題は子宮筋腫ではなかった。


 検査をした時に、同時に見つかった、


 癌だ。


 彼女は抗癌治療は受けたくないと言った。


 苦しい思いをしてまで長生きしたくないのだそうだ。


 僕は……


 反対した。


 それは僕のわがままだと言う事は理解していた。


 そして、その先に彼女を襲う苦しみが待っている事も理解していた。


 だからこれは、


 僕のわがままだ。


 彼女は初め、断固として受け入れてくれなかったが、僕があまりに情けなく泣いて頼んだものだから、


 折れてくれた。


 抗癌治療は想像を遥かに超えて苦しいものだった。


 めまい、吐き気、抜け毛、ホットフラッシュなどの自律神経失調症の数々。


 彼女は何度も挫けそうになったけれど、必死に闘ってくれた。


 その間、僕は仕事と家事を両立しながら、彼女の身の回りの世話をした。


 数年が過ぎて、彼女の面影はすっかりと変わっていた。


 目は落ち込み、肌の張りもなくなり、関節が骨張って見えた。


 僕は彼女の隣に座り、すっかりと細くなった肩を寄せて、彼女の手を取った。


 新婚旅行の時、とても綺麗だった彼女の手は、ささくれ立っていて、力無く僕の手を握り返した。


 僕はそんな彼女の手のささくれを撫でて、口をつけた。


 ずっと、僕を支えて来てくれた、


 愛しい手。


 こんなにもささくれてしまったのは、


 僕のせいだ。


 僕がわがままで、彼女をこんなにしてしまった。


 僕はその手を握りしめて、


 泣いた。


 泣いてしまった。


 もう、彼女の前では泣かないと決心していたのに止め処なく、


 涙が溢れた。


 だけど、


 だけど僕は、


 一分一秒だって長く、君と一緒にいたいんだ。


 もう少しだけ、


 あと少しだけ、


 僕と一緒にいてくれるかい?


 そう言うと、


 彼女は目元に深い皺を寄せて、





 にっこりと微笑んでくれた。

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