ささくれ鳥

犀川 よう

ささくれ鳥

 どうしようもなく強い風が吹いていて一刻も早く家に帰りたい日だった。葉と枝先を失って生命の力強さを感じることのできない枯れ木が並ぶ道路。下向きに往来する黒や灰色のコートの人々。どんよりとした重々しい空。そんなどこにも明るい彩のない、グレースケールの写真に納まっているような冬の日だ。

 わたしもそんな世界の一員としてそそくさと家に向かっていた。立ちふさがる冷たい風に眉をしかめながらも、足を止めることなく家路へと急いでいた。ここで足を止めてしまったら意地の悪い寒風に吹き飛ばされて、居たくもない会社に連れ戻されてしまうのではないかという恐ろしさを感じながら足を動かしていた。

 つきあたりの交差点の信号を仕方なく見上げると、電柱に架かる電線が鞭のようにしなっていた。あんな鞭で叩かれるのは会社の上司だけで十分と思わせるような、不快でそれでいながら目の離せない、いやらしい動きをしていて、わたしの気持ちをさらにどんよりとさせていった。


 そんな耳が風に切り刻まれような寒さの中、突然何かがわたしの肩に乗ってきた。どこからやってきたのかはわからない。驚きながらそれを見てみると、冬の沈んだ景色には似つかわしくない水色、黄色、黄緑のパステルカラーを纏った一羽の鳥であった。サイズ的にはオウムよりは小さく、インコよりは大きいくらいだろうか。

「こんにちは。お嬢さん」

 何よりも特徴的なのは、その鳥はしゃべるのである。他人の声と聞き間違えたわけでも電線が震えた風音でもない。優しいのに凛とした高貴さを漂わせた声でわたしに挨拶をしてきたのだ。幼い頃に母が降り注いでくれたような、わたしをひどく安心させてくれるような声であった。

「こんにちは鳥さん。あなた、お話ができるのね」

「ええ、あなたにだけですけどね」

 わたしは鳥について詳しくはないけれど、おそらく人間でいえば肩を竦めているような仕草をしているように見えた。リラックスしているのか、お腹あたりの毛がふっくらとしているのに、肩の部分の南国の海のような水色の羽毛だけが、ふわっと上に向かったようなように見えたのである。

「わたしにだけ?」

「そう、あなたにだけ。何故ならば、私はささくれ鳥だからです」

 どう見ても上下にしか動きようのなさそうな嘴から出てくる言葉は丁寧でそれでいてよくわからないことを正確にわたしに伝えていた。言葉の内容については聞き返したくなるが、言葉そのものはきちんとして、この濁った寒空の中であってもキラキラとして透明感があった。

「そう。で、は、わたしに何の用なのかしら?」

「きまっているではないですか。あなたにあるに入りにに来たのですよ」

 ささくれ鳥は伸ばしていた足を屈め、わたしの肩で眠るような体制をしてから、ひとつひとつを言い聞かせるような声色でゆっくりと話した。それでいながら、説明しているにはあまりにも似つかわしくない、今にも寝てしまいそうな恰好をしていた。この押しつぶされそうな冬景色の中には何一つ溶け込むことのできない、アンバランスなものがわたしの肩に張り付いていた。わたしはそんな光景をしばらく見ていた。時折周りを見ると、通り過ぎる人々にはどうも見えないらしい。誰もわたしやささくれ鳥に目を向けることがないのだ。もしかしたら、わたしすら認知されてはいないような無関心さで、交差点を渡る人たちは足早にやってきては去っていくのだ。

「わたしには、どんながあるのかしら?」

 周囲にもささくれ鳥にも観察するのに飽きたわたしは、そう問いかけてみると、ささくれ鳥は本格的に寝てしまったようであった。頭を身体の中に埋め、楕円体のようになった。あまりにも完璧すぎるその楕円体を見て、わたしは楕円体の公式が頭に浮かんだ。非常に丁寧で粗のない美しい形をしていた。そこには輝かしい夏のかたまりがあるように見えた。強風に晒されながらも羽毛は何一つ乱されることなく、この世から隔絶された天国があるような尊い形を維持していた。

 わたしはささくれ鳥が肩から落ちないよう、できるだけ静かに歩いて家に向かった。ささくれ鳥が眠る左肩だけは、脱臼してでも平和を守らなければならないという律儀な使命感を帯びて、北風と戦いながら帰宅したのであった。


 家と呼ぶには申し訳ないくらいに小さい独身者用のアパートのドアを開けた。あいかわらずささくれ鳥はわたしの肩であの楕円体のまま眠っていた。わたしはささくれ鳥を起こさずにここまで来られたことに酷く安堵すると、コートを脱ぐことなく、母の遺品である三面鏡の椅子に座って鏡に映るわたしを見た。

 最初にわたしの顔を見ると、泣いていた。理由は自分でもわかっている。強風の寒空で目にゴミが入ったわけではない。わたしは――になってしまった。上司に捨てられただけではい。わたしのお腹の中にいた春を待つ希望も失ってしまった。それはあまりにも突然であっけないほどの喪失であった。ただ、もう二度と子どもを産むことができないという事実だけを、診察椅子に座って聞かされただけであった。わたしはその言葉が間違いであることを望んでの上司の顔を見た。上司はたくさんの慰めの言葉を口にしたが、その瞳には悲しみの色はなかった。ただこの冬空のような無機質で乾いた黒色がふたつ、ぼんやりと浮かんでいるだけであった。――安堵の想いを必死で隠して。

 次にささくれ鳥を見た。わたしが泣いて肩がひどく揺れていても、ささくれ鳥は眠ったままだった。楕円体を崩すことなく、正確で隙のないフォルムのまま、ただ眠っているだけであった。

「わたしのささくれを、取ってくれるわけではなかったの?」

 立ち上がり乱暴にコートを脱ぐと、ささくれ鳥はその形のままわたしの身体を這うように転がり落ちていった。そして下腹部まで来ると、あの美しい楕円体は、吸い込まれるようにわたしの一部となって、消えていった。驚いて生命の源のある個所に手をあててみると、あの懐かしい母の声が伝わってくるような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ささくれ鳥 犀川 よう @eowpihrfoiw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ