【KAC20244】ささくれ

八月 猫

ささくれ

 世は昭和から平成に移り、世間では人面犬がブームとなり始めた頃。ある町ではそれと同じように囁かれている都市伝説があった。

 それは、夜道を一人で歩いていると急に後ろから肩を掴まれ、振り向くと白い着物を着た、長い髪で顔を隠した人物が立っているのだとか。

 そしてソレは一言――「違う……」。

 それだけ言うと、すうっと暗闇の中へと消えていくとのだという。

 何をするというわけでもないその怪異は、その掴んできた手に無数に見えた特徴から、その怪異を――


 妖怪『逆裟苦霊ささくれ


 そう呼ぶようになった。



 冷たい北風が通学中の女生徒二人に吹きつける。

 弘美ひろみはその風の冷たさに軽く身震いすると、厚い手袋をした手でマフラーの首元を器用に締め直す。


「ねえ、アレって本当にいると思う」

 それまで昨日観た歌番組のアイドルの話をしていた江津子えつこが、何かを思い出したかのようにそう言った。


「アレって何」

「アレよアレ。逆裟苦霊ささくれって奴」

「ああ、あのお化けの話」

 江津子の言う『逆裟苦霊ささくれ』の事は、弘美も他のクラスメイトが話していたのを聞いたことがあった。


「お化けじゃないわよ。妖怪よ、妖怪」

「一緒じゃない」

「全然違うわよ」

 弘美があまり興味を示さなかったのが気に入らないのか、江津子はぷいっと横を向いてしまう。


「ごめんて。でも、どっちにしてもオカルトでしょ。今は人面犬が流行ってるから、誰かが似たような怪談を考えて広めたのよ」

「もう、弘美は夢が無いんだから」

「怪談に夢とかあるの?」

「あるわよ。夢も浪漫も盛りだくさんよ」

 そう言いながら、江津子は両手をぱあっと広げて、その場でくるっと回転した。


「でも本当にいたとして、実際に出遭ったら怖いでしょ」

「そうかな。私は凄く会ってみたいわ。だって、別に何もされないみたいだしね。あーあ、私の前に本当に出てこないかなあ」

 江津子は本当に逆裟苦霊ささくれに会いたいと思っていると感じさせる口調で、弘美はそれには苦笑するしかなかった。



 その日の放課後。

 時刻は午後六時を過ぎたところだったが、日はすでに落ち、月は雲に隠れ、弘美が学校を出る時には辺りは夜の色に染まりきっていた。

 人通りの無い道を街灯と家からこぼれてくる明かりを頼りに家へと向かう。

 朝にも増して寒さが強くなってきており、時折吹く向かい風に身を縮こませながら、少しでも早く帰ろうと早足で歩いていた。


 家までの道のりで最後の曲がり角を曲がる。

 すると普段あるはずの街灯の明りが無く、近所の家の室内も暗く、両脇にある家の壁に囲まれた道が、まるで闇の世界へ続いているかのように見えた。


 その暗さに恐怖を感じた弘美は一瞬回り道をすることを考えたのだが、その時吹いてきた風のあまりの冷たさが恐怖を上回り、意を決してその暗闇へと向かって歩き出した。


 どこまでも真っすぐに続いているかのように感じる白い壁。

 暗闇の中、弘美の歩く靴音だけが響いている。

 そして違和感は少し経った頃に襲ってきた。

 あまりにも静かすぎる。今までにこれほどまでに自分の靴音が聞こえることなんてなかったはずなのに、と。

 それに、この道は家までこんなに長かっただろうか、と。


 どれだけ歩いても家に辿り着くことは出来ず、よく見ると両脇の壁が途切れることなく延々と続いているように見えた。

 その事に気付いた弘美は形容できない恐怖に襲われ、慌ててその場から引き返そうとした。その時――


「ひっ――」


 振り返ろうとした弘美は、右肩を誰かに掴まれた感覚がした。

 その一瞬で全身に鳥肌が立ち、あまりの恐怖に悲鳴を上げることも出来なかった。

 誰かが、いや――ナニカがいる。

 そう直感的に感じた弘美だったが、それが何なのか確かめる勇気は無かった。

 逃げなければ――頭の中では分かっているのだが、全くといって身体が動かない。

 そうしているうちに、そのナニカは弘美の右手に嵌めてあった手袋を脱がし、直接その手を握ってきた。

 その手の感触は外気よりも遥かに冷たく、ガサガサとした肉厚の感じないものだった。


 振り返ることも出来ずに恐怖に震え、そのまま触られるがままで立ち尽くしていると――


「見つけた……」


 弘美の耳元で掠れたような女の声がした。

 その声に呪縛が解かれたかのように反射的に振り向く。

 そして、を見てしまったことを激しく後悔した。


「嫌っ……」


 振り向いたすぐ目の前にいたのは、長い黒髪で顔を隠した女と思われるナニカ。

 前髪の隙間から見えた顔は青白く、ところどころの皮膚が剥がれて腐敗したような浅黒い肉が見える。

 血の気が無く乾燥した唇が僅かに笑ったような動きをしたかと思うと、弘美の右手首を掴み、その手の平を顔の前まで持ち上げる。

 老人のような瘦せこけた指の先には、ひび割れた爪と無数のささくれが見える。


「や、やめて、離して――」

 何とか逃げ出そうと掴まれていた手を力の限り引き寄せたが、その手はまるでびくともしなかった。

 それはまるで人の世の理から外れた力で掴まれているような感覚。


逆裟苦霊ささくれ


 今朝の江津子との会話が思い出され、目の前にいる怪異こそがそれなのだと確信した。

 そして逆裟苦霊ささくれは「見つけた」と言った。確か噂では「違う」と言う話だった。


 ――ああ……そういうことなんだ。


 弘美はその時全てを理解した。

 自分はのだということを。


 全身の力が抜け、その場に膝から崩れ落ちるようにへたり込む。

 逆裟苦霊ささくれは掴んでいた弘美の人差し指にあった「ささくれ」を、その枯れ枝のようにしおれた指先で抓む。


「つっ――」

 ささくれを引っ張られ、指先に軽い痛みが走る。


――べり べり べり


 ささくれはそのまま指に沿って剥がされていく。

 簡単に第一関節を越え、第二関節に向けて真っすぐに。


「嫌……止めて……」

 弘美は震える声でそう懇願する。

 しかし皮を剥がす手は止まることなく、手の平から手首へ、そして腕へと剥がされていく。徐々に徐々にその幅を広げながら……。


――べり べり べり


 痛みがあったのは最初だけ。

 その事が余計に弘美に恐怖をもたらしていた。

 どんどんと皮を剥がされていく自分の右手を、ただ震えながら見つめる。


「嫌あぁぁぁ――」

 肩の辺りまで剥がされた時、ようやく弘美は大声で叫ぶことが出来た。

 その時、それまで髪に隠れていた目が弘美の視界に映った。


 落ち窪んだ両の眼底の奥に眼球は見えず、ただ深い闇が広がっていた。

 そして口を大きく開け、その黒い瞳を歪ませながら不気味な笑みを浮かべると――


――べりべりべりべりべりべりべりべり……




「おはよう」

 江津子は前を歩いていた弘美を見つけると、いつもの様に小走りで駆け寄ってきて挨拶をする。


「おはよう。今日も元気ね」

 厚手の手袋にマフラーという自分に比べ、江津子は手袋だけという恰好。

 誰が見ても寒そうな首元が制服から露わに見えている。


「ねえねえ、見て見て」

 江津子は右手の手袋を脱ぐと、広げた手の平を弘美に見せつけるように突き出す。


「綺麗な指ね」

「そうじゃなくて、これよこれ。人差し指のところ」

 そう言って顔の前まで指を更に近づけてくる。


「ささくれ出来たのよ。これで私も妖怪逆裟苦霊ささくれね」

 と、意味の分からないことを得意げな顔で言い放った。


「へえ……。立派なささくれね……」

「何よ。もっと興味持ってくれても良いじゃない」

 あからさまな弘美の社交辞令に口を尖らせる江津子。


「ごめんごめん。全然興味が無いわけじゃないのよ」

 弘美は江津子のささくれを見ながら――



必要ないかな――って思っただけよ」




【了】

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