愛莉
目の前にいる先生は何も言わない。
私が何か言うのを待っている。今は凪のままだけど、昨日の時点で違和感に気がついたってことだろうか。
それでも、他の人には当たり前のように愛莉と呼んでいたのに。どうしてこの人は気付いたんだろう。
「お前、霧矢凪だよな」
私はその質問に頷くことができない。私は1日だけ愛莉を過ごした。梓さんは私の名前を呼んでくれるようにはなったが、性格は何も変わっていなかった。
それなら凪のままでもいいような気がしたが、やっぱり名前を呼ばれたことは嬉しかった。いつも「ねぇ」とか「あのさ」と呼ばれて名前を呼んでくれない。
それが私にはたまらなく悲しかった。家では名前を消されてしまったんじゃないかと錯覚して、毎日息苦しかった。
でも、私は凪だ。適当につけた名前なんかいらない。
だからもうあの鏡は使わない。もう鏡のことは知らない。
「先生、これって生徒指導ですか?」
「いや、単なる疑問だ」
「じゃあ帰ります」
「おいっ、霧矢っ……霧矢?」
急に先生の声のトーンが下がる。おかしいなと思い先生を見ると私を幽霊でも見たような目で見ていた。
流石に私も戸惑う。急にそんな目で見るなんてどうしたのだろう。
「お前の父親名前なんだ?」
いきなりどうしてそんなことを聞き出したのか分からない。先生の様子からして尋常じゃないことはわかる。
「霧矢、
その瞬間、先生はその場に崩れ落ちる。地面に這いつくばり、頭を床につけている。
「先生! どうしたんですか!」
先生のもとに駆け寄るが、先生はぴくりとも動かない。どうして、父さんの名前を言っただけなのに……
「父さんのこと知ってるんですか?」
「あぁ、何年振りかな……多分18年振りにその名前を聞いたよ」
18年、そんな昔。あまりの年月に言葉を失う。
先生はゆっくり体を起こしてその場にあぐらをかく。
「じゃあ母親の名前は?」
先生は怯えた様子で指先を震えさせながら私に縋りついてくる。
「先生っ、落ち着いてください」
先生から距離を置いて少し離れたところに移動する。
「すまない霧……俺はその苗字が嫌いなんだ」
「え、なんでですか」
「それより、母親の名前は……」
先生は私と目を合わせてから、口を開く。
「塁か……?」
塁? 拍子抜けというか、私は聞きなれない名前に混乱する。
それに加えて、塁という名前が妙にしっくりきた。今から口にする名前がなんだか違うような気がして余計に頭がこんがらがる。それでも私は伝える。
「母親は、美月です。でも、母は幼い時にいなくなって、今は梓さんという女性が母親です」
刹那、先生は安堵の表情を浮かべる。しかしすぐに何かを悟った表情になり、再び頭を床につける。
「いなくなったってどういうことだ?」
「いや、あんまり覚えていないんです。ただ急にいなくなって、それで何年か経って梓さんがやってきて。何も説明されないまま今に至ります」
先生は顔をばっと上げて呆然としている。
「先生、大丈夫ですか?」
「頼みがある、俺を慎一に合わせてくれないか」
「え、でも仕事が忙しくてほぼ家にいないんです」
「じゃあ、俺が学校に呼ぶ。俺の名前は一切出すな、今プリント作ってくるから連れてこい」
いつもより乱暴な口調で先生らしくない。
それでも、母のことを知れるチャンスと思い私は強く頷いた。
今までずっと隠されていた母。名前は美月、それだけしか知らない。顔ははっきり思い出せない。
だけどそれが知ることができる、そんな気がして私はいてもたってもいられなかった。
「ただいまー」
父の朗らかな挨拶が家に響くと梓さんの表情が一気に明るくなる。駆け足で玄関に向かう梓さん。その隙に私はソファーに置いてあったプリントを手に持って待ち構える。
すると奥から「やったな梓! 嬉しいよ!」「私も!」
わっと盛り上がる二人、いつもと少し様子が違うことに気がつく。一人で立ち尽くしていると、父が走ってダイニングにやってくる。
今までに見たことがないくらい父は喜色満面で「やったぞ凪!」と大きな声で言う。
「お前はお姉ちゃんになるんだぞ!」
衝撃が心を襲う。手からプリントが抜け落ちる。
脳天に一撃攻撃をくらったかのような気がして、眩暈がする。
目の前にいる父さんは梓さんと抱き合ってはぴょんぴょん跳ねて喜んでいる。梓さんも弾けるような笑顔で一切こちらに顔を向けない。
「やったわ、やっと二人の子供がやってくるのよ」
二人の子供という言葉が胸にグサリと刺さった。今更子供を作るなんて信じられない。
「本当に嬉しいな、名前はどうしようか、女の子、男の子どっちだろうね」
「私は女の子がいい、女の子だったら可愛らしい名前にしたいわ、たとえばー、愛莉とか!」
全身が震える。驚異に近いものを感じる。
「確かに! 愛莉か、かわいいね、女の子だったらそうしようか」
目の前の二人が歪んで見えて、すぐに殴ってやるたい気分だ。私を見ずに、ただ二人の世界にどっぷり浸かり込んでいて、気持ち悪い。
この場に立っていることが耐えられなくなり衝動的に私は2階へ駆け込む。
階段の途中で足を止めて後ろを振り返る。二人は楽しそうに笑っていて私がいなくなったことに気がついていない。
それが虚しく思わず頬に涙が流れる。自分からいなくなったくせにこんなに寂しいだなんて、どうかしている。
愛莉……まさかその名前を聞くことになるなんて思ってもいなかった。
梓さんの好みを私はわかっていたのだろうか。そんなミラクルいらないのに……
あぁぁ、馬鹿らしい。久々に流れた涙がこんな形で出てくるなんて。
やっぱり、愛されていなかったんだな。あんなに喜んでいる梓さん、初めて見たもん。そりゃ、父さんと自分の子供だもん。血のつながらない子供よりつながっている方がいいに決まっている。
それでも、どうしてだろう。やっぱり悲しい。
涙がはらはらと崩れて、光の糸を曳きながら流れる。こんなに泣いているのに誰も私に声をかけてくれない。
ゆっくり立ち上がって足を引きずりながら自分の部屋に戻る。そしてベッドに力を抜いて倒れる。
左手を動かして鏡を捕まえる。自分の顔を見ずに震える唇を動かす。
「霧矢、愛莉……」
そう言って目を閉じる。目頭と目尻から溢れる涙が溢れていく。
枕に頭を伏せて一人声を殺して泣き続けた。
「おはよう愛莉ちゃん」
「おはよう梓さん」
朝、梓さんはお弁当を詰めてくれている。
昨日のことは凪の世界だから、愛莉のままなら子供なんてやってこない。もう一生愛莉でいてやる。子供は私一人でいい。梓さんは愛莉という女の子が欲しいと言っていた。なら私がなってやる。
「梓さん、お弁当ありがとうね」
少し不思議そうな目で見るが、柔らかく微笑んだ。
「いいのよ。今日はオムライスにしたから」
「やった、ありがとうね」
梓さんにこんなにはっきりお礼を言ったことはない。新鮮だと感じながら私は少し照れ臭くて顔を隠す。そしてそのまま洗面所に向かう。
鏡に映る自分は霧矢愛莉だ。
凪はもういない。さっさと消してしまおう。このままいい子で梓さんを満足させればいい。私以外に子供なんか、いらない。
「愛莉おはよう」
洗面所にやってきたのは父さんだった。
「おはようお父さん。あ、そうだ、梓さんってなんのお菓子が好きか知ってる?」
「んー、あ、梓は抹茶が好きだぞ。抹茶のチョコとか特に、なんだプレゼントでもあげるのか?」
「うん、いつもありがとうってね。あ、もちろんお父さんにもあげるから、お父さんの好きなものはしっかり確認済みだから」
「そうか、嬉しいな。愛莉は本当にいい子だよ」
えへへ、と笑ってみせる。心の奥で何かが満たされていく。じわじわと体を全部蝕んでいくような気がする。自分ではない何かが覆い尽くす、そんな気がした。
それでも構わない。私は愛されていたい。愛莉って名前なら私は愛される、ならもうこの名前でいい。凪はもう捨ててやる。
朝、いつも通り登校する。廊下を歩いて教室に入る。
「愛莉おはー」
前の席の美香はいつものように挨拶をしてくる。
「おはよう、今日の時間割ってなんだっけ?」
「んーっと確か生物、地理、文学国語、現代国語、でー最後が英語コミュニティー。今日の教科ガチだるいわ」
数学がないから歌代先生と会わなくて済む。ほっと安心して胸を撫で下ろす。
多分名前を変えたこと怒ってるだろうな。昨日のプリントもどっかで無くしたし。母のことは知りたかったけど、もうどうでもいい。今は私の居場所を確保する方が最優先だ。
「愛莉おっはよー」
「美香おはー」
「おはよー」
「おはー」
結衣と杏奈がやってきて一段と騒がしくなった。
いつもの日常、名前以外は変わらない。こっちの世界の方が素晴らしいじゃないか。名前なんてどうでもいい。
「はーい席についてー」
担任が入ってきてみんな自分の席につく、今日はなんとか歌代先生に見つからないようにしよう、そう思っていたのに……
「霧矢生徒指導室に来い」
放課後、これから四人でカフェに行こうとしていたのにわざわざクラスにやってきた歌代先生。
「あ、ごめんなさい、今日はこれから帰るので」
「生徒指導だ」
冷たく言い放つ先生はいつもとは別人だった。
多分、今日は愛莉ってことがバレている。直接呼んでいるところを聞かなくても、既に霧矢凪と書かれていたものを見つければ霧矢愛莉に変わっていることに気がつくだろう。
この感じ、相当怒っている。こんなに冷たい視線を浴びたのは久々だ。
周りの美香たちにも異常な状況というのが伝わっているようで、どうしたらいいか困っている。
いつもの彼女たちなら先生に「用事あるんで帰りまーす」みたいに軽く言えるだろう。
しかし、いつもと違って相当キレている先生、流石の美香も何いも言葉が出ないようだ。
「美香、ごめん今日私行けないや、行ってくるね」
「え、あ、うん」
「ご無事で」
「おい馬鹿」
結衣は杏奈の頭を叩くが、笑う余裕がない。
先生は無言で生徒指導室に向かって歩き出す。私はそれに続いて無言でついていく。
後ろから小声で「がんばれー」と聞こえたが振り返れなかった。先生の背中から伝わる圧にやられてうまく体が言うことを聞かない。
生徒指導室に着くと先生は椅子に座り、私も座るように促した。
静かに座り、しばらく沈黙の時間が流れる。緊張で冷たい汗が額にポツポツ浮かんでいる。
「昨日のプリント親に渡したか?」
不意を突かれて思わず体がビクッとなる。体を沈めさせてから私は喋る。
「……いいえ」
先生の表情が曇る。この人は感情がすぐ表に出るからわかりやすい。
「私、もう何もしないです、関わらないでください」
「どうしてだ、昨日は知りたがってたじゃないか」
先生は必死になっているが私にはもう何も響かない。
「母なんてどうでもいいです、私は今の家族でいいんです」
その瞬間先生は私を鋭く睨む。少し椅子を引いて先生から距離を取る。
「じゃあ名前を変えたのはどうしてだ?」
「もうあんな名前いらないんです。愛莉の方が愛されるんです。凪は愛されないんですよ」
「お前の母親は凪を愛していたはずだ」
その時の先生は怒りというか、なんだか切なそうに目を細めていた。それになんだか腹が立ってしまう。
「先生に何がわかるんですか。母とどんな関係があったか知りませんが、私には関係ないですよね。勝手に父と会ってください。私はもう面倒なことは嫌なんです、こっちの名前の方がずっと都合がいい、凪は消えた方がいいんですよ!」
「ふざけるな! 世の中全部都合が悪い、面倒だからって全部から逃げるんじゃない! そんな生き方どこかで苦しくなるに決まってる! それに名前の代償を考えたらやめるべきだとわかるだろう」
先生は私よりも勢いよく力を込めてそういった。
確かにそうだと思う。一生逃げられるわけがない、世の中都合が悪いことだらけだ。だから逃げちゃダメ。それはわかってる……
でも、名前の代償に引っかかる。
「あの、名前の代償ってなんですか?」
「え、あ、いや、えーと……」
先生は俯いて頭を抱えてしばらく何か考えている。
先生は顔を上げないまま話し出す。
「これは、俺の昔の同級生の話なんだが、その子は自分の名前が大嫌いでずっと悩んでいたんだよ。そしたらある日父親がある鏡をくれたらしい。女の子は『名無しの鏡』って呼んでた。その鏡を使うと好きな名前に世界が順応してくれるんだよ。だけど名前を変えているもの同士には効き目がないらしい。ま、とりあえず元からその名前であったかのような錯覚を起こす。一見良さそうって思うかもしれないけど実はそうじゃない。名前を変えた日数が元の名前で過ごした日数を超えた時、記憶が全部消える」
記憶が消える……思わず鳥肌が立つ。先生が嘘をついているようにも感じられない。
でも、信じられない。記憶が消えるなんて。でも既に愛莉が世界に順応しているからあり得ない話ではない気がする。
「その鏡は、先祖代々受け継がれている鏡らしい。名雲家が守らないといけない鏡だそうだ」
名雲、どこかで聞いたことのある苗字。記憶を辿っても何も思い出せない。そんな様子を見た先生は寂しそうに微笑んだ。
「霧矢の母の旧姓は名雲なんじゃないか? 名前は美月。本当の名前は名雲塁、俺の初恋相手だよ」
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