奏太
幼い時から母親の影響でピアノを弾くのが好きだった。
しかしある日を境に俺のピアノに対する感情が変わった。
それは、母親が再婚をした時のこと。お相手は日本を代表する歌手だった。
二月、もう高校一年生も終わりそうだという時期だ。他の月とは比べられないぐらい寒く、毎日体を小さくして歩く日々だ。
そんなある日の放課後、職員室で部活の退部届を顧問に提出して、家に帰ろうとしたときに担任の三山先生にばったり出くわす。
挨拶だけで済まそうと思ったが、先生は話があると言い出した。
「
ピアノ、確か一週間前あたりに卒業式の伴奏者の立候補者が誰もいなく困っていると言っていたのを思い出す。
高校に入ってから一度もピアノを弾いていないのに、どうして知っているのだろう。
「弾けますけど、どうして知っているんですか」
「さっき裕介くんに聞いたんだよ」
裕介という名前が出てきて一気に気持ちが下降する。
俺は江口裕介という奴が苦手だった。
小学生のころ、卒業式歌の伴奏を巡ってオーディションを受けた。そのとき選ばれたのは俺の方で裕介は納得いかない様子だった。
オーディションはクラス全員の前で行ったため、裕介はクラスメートに必死に何かを訴えた。俺の方が相応しいと。
最初は俺の方が上手かった、そう何度も繰り返していた。
正直そのとき誰も彼に耳を傾けなかった。先生も早く席に戻れと言っていた。しかし裕介は戻らず、ずっと一人で喚いていた。
そしてこんなことを言い出した。
『奏太の親が
その一言で一気にクラスがざわついた。先生は慌てた様子で「静かに」と何度も言っている。
当時、岩津淳一は人気アニメの主題歌をいくつも歌っていて若い世代には特に人気だった。そんな歌手の息子がクラスに! そうみんな盛り上がってしまった。
しかしそれと同時に、岩津淳一の息子だから先生が気を遣ったんじゃないか、そう考える人が何人もいた。それは波紋のように広がり、クラスを超えて学年全体に広まってしまった。
「奏太くんって岩津淳一の息子らしいよ」
「でも苗字は別だよねー、芸名なんだよきっと」
「奏太ってよく伴奏してるけど、岩津さんの息子だから先生も気にしてるのかもよ」
「奏太って名前だし、音楽のために生まれてきたんだろ」
「奏太って岩津淳一がつけたんじゃない?」
「奏太は岩津淳一から名前をもらったんだよ」
根拠のない予想はやがて真実を隠す。
本当は、奏太という名前は死んでしまった父親がつけたらしい。岩津淳一にはなんの関係もないのに……
いちいち説明する気力がなく、ただ噂を放っておいていた。
岩津淳一は基本仕事で家にいることは滅多にない。毎週どこかの音楽番組に出演している岩津淳一は45歳とは思えない美的な容姿でどの年代にも人気がある。
歌は本当に上手いし、ギターも間奏に入ると音色がどの楽器よりも輝いて聞こえる。
海外ツアーも検討していると母と話しているのを最近聞いた。日本だけでなく世界に目を向けるなんて驚きべきだと思う。
岩津淳一が家族だなんて羨ましい、そんなことは耳にたこができるくらい聞いている。本音を言えば、俺は家族になりたくなかった。ただの憧れの人でよかった。
おとうさん、なんて一度も呼べたことがない。スターが一気に下降する様な気がした。
俺が音楽をする理由は岩津淳一の息子だから、ピアノの実力を認めない理由は岩津淳一の息子だから、先生がひいきをしている。そんなセリフは何度も聞いた。
ただ静かに音楽をやりたいのにいつも何処かで岩津淳一の名前と音楽が聞こえてくる。
そんなの、もううんざりだ。
「それで、奏太くんに伴奏をしてもらいたいんだけど、どうかな?」
三山先生に圧は感じない。俺の意思を尊重してくれるようだ。
「やりません」
「そっかー、じゃあ他に誰が弾けるとか知ってる?」
「裕介が弾けますよ」
先生は目を丸くして俺を見据える。
「さっき弾けないって言われたんだよ、それで断られちゃって」
弾けない、違う、本当は誰よりも伴奏者になりたいはずなのに、俺がいるから変な嘘までつく。意味がわからない。
「それじゃあ、霧矢とかどうですか? 小学生の時に何年かピアノを習っていたと言っていたので。霧矢もピアノ上手ですよ」
「霧矢か、後で聞いてみるね。それより、どうして奏太くんはピアノを弾かないの?」
先生の純粋な疑問に少しだけ戸惑う。今までどんな扱いを受けてきたのか先生に説明するのは面倒だ。だけど先生を納得させる嘘も思いつかない。
「奏太くんって、中学の卒業式のとき伴奏してたって聞いたんだよ、それに今までも何回か合唱のたびにすごい演奏をしていたって祐介くんから聞いたよ」
祐介が、へぇー……
本当はそんなこと思っていないくせに……
「学年のために僕としてはやってほしいんだけど、どうかな?」
先生はぎこちなく笑いながら手を合わせてくる。
そんな先生を見たくなかった。祐介に振り回されてるのを見るのが辛い。可哀想だと思う。
「やりません」
「そっか、分かった、ありがとうね」
先生は無理に笑って元気なふりをした。罪悪感で胸が痛い。
先生から解放されて早歩きで廊下を歩いていると前から女子が二人歩いてくる。
さっと横によけるが肩だけが当たる。
「あ、ごめん。でさ、美月が裕介にあんたはいつもーー」
裕介という単語が聞こえてきた余計にイライラする。
名前を聞くだけでこんなにイライラしてしまう。本当に嫌なやつだ。
放課後、最寄駅を降りてまっすぐ家に向かっていると後ろから「奏太ー」と名前を呼ぶ声がする。
振り返ると、そこには幼馴染の『
「今日部活は?」
「さっき辞めてきた」
「そっか辞めて、、はぁぁぁ?」
一気にボリュームが上がって耳が痛い。鼓膜が切れたらどうするんだよ、心の中でそう思いながらも口にはしない。
「なんでよ、奏太言ってたじゃん。一年生なのに選抜メンバーに選ばれたって。まだ大会先でしょ、どうして今辞めちゃうの」
必死になっている塁に微笑み返しながら言葉を探す。
理由と言われても、裕介しか思いつかない。高校はまさかの一緒。本当にショックというか言葉が出てこなかった。
裕介は最初、軽音楽部に入ると言っていたのに、俺が吹奏楽部に入部した途端後を追うように入部してきた。あいつが入部届を出してから入るべきだったと後悔した。でも裕介なら退部届を出して、吹奏楽部に来るような気もする。本当に嫌なやつだ。
流石に楽器は重ならなかったけど、あいつは周りの人に岩津淳一の息子だと嫌がらせのように広めて、周りからの質問は日に日に増えるばかりだった。
特にテレビ番組に岩津淳一が出た後が一番ひどい。静かで集中できる朝練を好んでやっているのに、朝から音楽室に人が集まって質問攻めになる。
対応が本当に疲れて、選抜メンバーに選ばれたがこのまま続けるのは困難となった。
それに、昨日あんなことを言われたら……
「成り行きかな」
「意味わかんない」
ぷんぷん怒り出す塁は何だか小さい子供のようで可愛らしい。
「部活辞めたから塁と帰れる日も増えて、俺はそれが嬉しいんだよ」
すると塁は慌てた様子で俺の肩をバシバシ叩いてくる。
「痛いって、やめてよ」
「そういうこと言わないで、調子狂う」
ぼそっと呟く塁は俯いていて、表情が見れない。
可愛い……そう心の中で呟く。
できればずっと塁の隣にいたいと思う。彼女が喜んでくれるならなんだってするし、どんな犠牲も厭わない。それくらい、俺にとって塁は大切な人だ。
「まぁ、一緒に帰れる日は帰りたいなって」
「ふーん、まあいいよ」
「ありがと」
「いーえ」
しばらく、無言になる。それでも居心地は悪くない。ただ二人並んで歩いているだけ。
ちらっと塁を見つめる。人よりも身長は低いがその分動きが大きくて可愛い。大きな目に長いまつ毛、少し日焼けをしていて邪魔にならないよう短く切ってあるショートカット、一見ボーイッシュに見えるが、中身は可愛い女の子だ。
そこでふと、塁の頬が薄っすら赤く腫れていることに気がつく。
「塁、ほっぺどうした?」
「あ、これ。昨日ヘッドスライでやっちゃったの。みんなは気が付かなかったのに奏太はよく見てるね」
手で頬を隠す塁。その時、手の甲に絆創膏が貼られていることに気がつく。
「手もやったのか?」
「あ、うん。昨日はちょっと怪我多め。だけど大丈夫だよ、野球なんだからこのくらい普通だよ」
明るく笑って見せるが、俺には無理に笑っているようにしか見えない。
塁は四人姉妹で長女だ。そして野球が大好きな母親、子供にどうしても野球をしてもらいたかったらしい。それなのに生まれてくる子供は全員女子。
塁という名前は母親がつけたらしい。母はどうしても子供に野球をやらせたくて娘たちに強要し続けた。だんだん我慢できなくなった妹たちはクラブ活動をサボるようになり、母から責められる毎日だった。
そんな時、塁は妹たちの分まで頑張るから許して、そう母を納得させて今も部活ではなく放課後のシニアに通い続けている。
妹たちのために頑張る塁は本当に優しいと思うし、母親のことを悪く言わない塁は俺とは違っていて尊敬もする。
俺が塁だったら、ふざけるなって怒鳴ってすぐにやめるだろう。それでも塁はやめずに母親を納得させるまで野球を続けるらしい。
全て妹のため……
「無理すんなよ、この後も練習なんだろ」
「無理なんかしてないよ、全然余裕だよ」
塁は本当に頑張っていると思う。小さい時からずっと妹思いで本当に優しい。だから無理をして笑顔を絶やさない、誰からも心配をかけないように。
「ありがとうね、私は大丈夫だから」
こうやっていつも大丈夫と言われて終わる。
やっぱり、どこか壁が感じられる。彼女は俺に弱音も愚痴も何も吐いてくれない。
家では父親に少し言っているかもしれないけど、母親がいるからあまり長々と話せない気がする。
学校に友達に言っているのだろうか。気が合ういい子はいるのだろうか。クラスが別だから何もわからない。
できれば学校でも塁と話していたいが、高校に入学したときにあるお願いをされた。
『学校では話しかけないでほしい。もし話す機会があるときは名前で呼ばないで』と。
その意味は知らないがとりあえず守っている。
高校から俺と塁の距離はなんだか遠い、それがなんだか悲しく辛い。
塁は高校生になって大人っぽくなったと同時に、どこかミステリアスな雰囲気があった。
「あ、そうだ奏太」
別れ際、塁が振り向いて声をかける。今日初めてしっかり塁の瞳に俺が映る。
緊張で指先に力がこもる。
「鏡の話、忘れてほしい」
***
家に帰ると見慣れない靴が一足あることに気がつく。
「おかえりー」
奥からいつも通り母の声が聞こえる。母の靴は基本しまってあるから、この靴は……
嫌な予感がする…
「おかえり、奏太」
やってきたのは岩津淳一だった。俺の父親で大人気の歌手だ。
お風呂に入っていたのか髪は濡れていて首にはタオルをかけている。
一週間くらい埼玉でライブをしていて今日帰ってきたらしい。正直ずっとどっかでライブをしてくれた方が助かるのに。
「ただいま、ライブお疲れ」
「うん、いやぁ疲れたよ。あ、お土産あるけどいる?」
「え、物による」
「絶対気にいるぞー」
岩津淳一は基本ニコニコしていて、お土産を渡す時の岩津淳一は楽しそうで母も同じだ。暖かい家庭だと思う。
やっぱりテレビに出ている有名歌手が自分の父親だという実感がない。生で見る岩津淳一は人間だ、特別な生き物でもなんでもない。一緒に暮らしているとよくそう思う。
テレビに映る人間は自分とは違う生き物だと勘違いしそうになるが、そんなことはなく普通の人間なんだ。
そして岩津淳一はただのスターでもなく一人の父親なんだ。
「奏太、手洗ってないでしょ、もうご飯にするから洗ってきなさい」
「はーい」
「あぁごめん。俺が帰ってきてすぐに呼んじゃったから」
えへっと言わんばかりの表情、思わず睨んでしまったが、ふっと笑いが溢れてしばらく二人で笑い合う。
岩津淳一を10年見ていたが、いい父親だと思う。俺が悩んでいる時もすぐに察して話を聞こうか? と聞いてくれる。ゲームも一緒にしてくれたし、外遊びもたまにしてくれた。
結局周りに岩津淳一のファンが集まって、遊ぶどころではなくなるんだけど。
いい父親だと思う。仕事の時間を削って家にいる時間は確保しているし、母とも仲が良く喧嘩をしても普通に次の日には仲良くなっている。
それでも、岩津淳一が父親であることが俺は許せない。
「奏太ー、カレーに温泉卵のっけるか?」
岩津淳一の呑気な声で現実に戻された。
「のっけてー」
「あーい」
こんな会話、ファンが聞いたら思わず発狂するんじゃないかって思う。普段はクールな曲を歌いこなす彼が家だとこんなにのんびりしているところを見たら、ファンは一気に燃えて推すだろう。
多分、俺も同じだ。本当はずっと発狂していたい。大好きな歌手が家でくつろぐ姿を見て、興奮して暴れたい。誰かと一緒に共有して盛り上がりたい。
大好きなのに、素直になれない。
「奏太、最近部活とかどうなんだ?」
唐突に聞かれて、思わず舌を噛む。
「っつ……」
「だ、大丈夫か?」
慌ててコップを渡してくれる。俺はすぐに水を飲んで一回息をしっかり吸って吐く。
「大丈夫、ごめんごめん」
「奏太はね、コンクールの選抜メンバーに選ばれたのよ」
隣で母の悪気のない明るい声。心臓がドクンと大きく音を鳴らす。思わず拳をギュッと強く握りしめる。
「そうなのか、すごいじゃないか」
「えぇ、一年生で選抜メンバーなの奏太だけらしいの」
「やっぱり奏太は音楽に愛されているんだな。まだ先なら仕事を休んで見に行きたいよ」
案の定、すごく喜んでいる。退部したことを口にしようとしたが、彼の満面の笑みを見てお言葉が喉に詰まる。
「あら、そうして。確かコンクールは来月の5日よ。私コンクールの日どうしても外せない仕事があるの。お父さんが見に行って動画撮ってきてほしいわ」
母の発言には一切悪気がない。そりゃそうだ。退部は母に一度も相談せずに決めたのだから。いつか言おうと思っていたけど、まさか今日こんなことになるなんて思ってもいなかった。
「任せとけ、ちなみになんの曲やるんだ?」
こんなに嬉しそうな表情、見ていられない。さっさと退部したことを言えばいいのに、複雑な感情が絡まりすぎて言葉が出てこない。
「奏太?」
「あ、あのさ、お腹いっぱいだからもう風呂入る」
「え、わかったわ」
不思議そうな目で見られて、反射的に目を逸らす。感情を誤魔化すように早歩きで自分の部屋に行き寝巻きを取る。
お風呂に行こうとしたが足が止まった。
このままじゃダメだと思う。やっぱり退部したことを言わないと。でも理由を聞かれてなんと答えたらいいか分からない。岩津淳一が父親でそのせいで周りと人との関係が面倒臭い、そんなことを言ったらどうなるんだろう。
そんなのどうでもいい、と呆れられるだろうか。それともそんなのけしからんって言って学校に文句をつけに行くだろうか。
やっぱり最初から部活なんか入らなければよかった。変えることのできない過去を強く恨む。
あぁぁ、やり直したい。
やっぱり今日裕介にあんなことを言われたから調子が狂うんだ。いつもなら退部したことをさらって言えたのに。
「奏太」
扉の向こうから岩津淳一の声がする。
扉を向けて顔を上げる。岩津淳一は190センチと高身長で、学校でも身長は高い方なのにこの人と会うと上には上がいると痛感させられる。
「一緒に風呂に入らないか?」
「……は?」
「いいじゃないか、たまにはさー息子と入りたいんだよ。風呂も大きいし、いけるって」
「いやいや、さっき入ってたじゃん、もう一回入るの?」
「さっきはシャワーな。次は風呂! さ、行こうか」
父は俺の意見を聞かずにそのまま風呂場の方へ行ってしまう。
嘘だろ……そう声が漏れる。憧れの岩津淳一と、お風呂だなんて、明日死ぬんだろうか。
意識が遠退いていく……しかしすぐにほっぺを強く叩いて目を覚ます。
しっかりしろ、大丈夫。俺は成長したし、俺の息子もそこそこ成長したから笑われることはないだろう。
緊張するがゆっくり風呂場の方へ歩いていく。
幼い時はちょうどデビューした時期で今よりずっと余裕がなかった。家にいる時間も本当に少なくて、最初はあまりコミュニケーションを取れずにいた。
だから一緒にお風呂に入るのは多分これが初めてだと思う。
俺が中学生の時には家にいる時間が確保できるようになっていた。しかしお風呂に入ろうだなんて発想がなかった。
父は先に風呂に入っているみたいだ。俺も服を脱いで一回深呼吸をする。
そして扉を開ける。中には湯船に浸かる岩津淳一の姿がある。首だけが水面から出ていて俺を見るなり笑顔になる。
岩津淳一と、お風呂……やっぱり無理かもしれない。
「体洗って早く入れよー」
「っうす」
俺は無心で石鹸で体を洗っていく。その間、ずっと無言だった。
ひたすら自分の心臓の鼓動の音が聞こえる。岩津淳一とお風呂……邪心を払うように乱暴に水を自分にぶっかける。
ポタポタと滴る水をぼんやり眺め、しばらく止まっていた。
やっぱり、家族っていいのかもしれない。一緒にお風呂に入っても咎められることはないし、これってやっぱり最高なんじゃないかって思う。
横目で彼を見るとリラックスした様子で天井を見ている。
今から一緒にお風呂に……
「奏太ー終わったなら早く入れよ」
「っふぁい」
声が裏返って恥ずかしさのあまり顔面の温度が上昇していく。
あぁ、穴があったら入りたい。
「奏太ー、やっぱり舌噛んだの痛いのか」
この人が天然でよかった、心の底から安堵した。
「あ、いや大丈夫」
そう言ってからゆっくり湯船に浸かる。この家は全体に大きくお風呂も大の大人が二人入ってもそこまで窮屈ではない広さだ。
岩津淳一とお風呂……
「奏太って名前、お前に本当に似合ってるよ」
突然喋り出す。
奏太、正直この名前のせいで散々嫌なことを言われてあまり好きではない。
今日も裕介に……
『お前は岩津淳一から奏太って名前をもらったんだろうが。一生奏でる義務があんだろ、吹奏楽部を辞めるなんてゆるさねぇよ。岩津淳一の息子なんだからしっかりしろよ。勝ち逃げなんてダッセェよ』
一生奏でる義務、そんなの知るか。それは自分が決める。うるせぇ。俺は好きで奏でてる。こんな名前がなくたって。
「センスいいよな。奏でるって字は俺が一番好きな漢字だから、嬉しいよ」
「歌手だから、自分の名前に奏が入ってたらってよく思うの?」
「歌手だからとかじゃなくて、この漢字が好きなんだよ。別に、音楽をしてなくったって俺は奏って字が好きだ」
意味がわからず首を傾げると彼はおもしろそうに笑う。
「奏って、奏でる意味だけじゃねぇんだよ。俺が好きなのは『成し遂げる』っていう意味。この意味知った時、音楽やって成し遂げる、これが全部繋がって『奏』になるんだなって思ったんだよ。これは俺の生き様かもって思ってさ、しっくりきて大好きなんだよ」
屈託のない笑み、底なしの明るさ。自然と心がゆっくり開いていく。
「別に音楽じゃなくてもいい。人生かけて何かを成し遂げられる子、そんな意味の籠った名前だって俺は勝手に決めてるよ。人生長いんだから、気楽にやんな」
音楽じゃなくてもいい、気楽に……
今日は岩津淳一の言葉がスッと胸に入ってくる。
自然と口が開いて喉の奥から言葉が出る。
「俺、吹奏楽部退部した」
「……」
「けどっ、やっぱりもう一度やる! 俺は音楽が好きで、やれるだけやりたい! 岩津淳一の息子だからとかどうでもよくて、俺がやりたいようにやりたい!」
モヤが一気に晴れていく気がした。心が澄んで、さっきよりも父親がはっきり見える。
目の前の父は朗らかに微笑む。
「それでいい。奏太は奏太だ、俺のことなんか気にすんな」
親指を上に向けて歯を見せて笑う。
俺は照れながらも、親指を上に向けて笑って見せた。
***
次の日、俺は退部届を取り下げた。先生も安堵の表情を浮かべていた。
あとは問題の裕介だ。
昼休み、俺は裕介のクラスに向かう。教室を覗くとすぐに目があった。不機嫌そうな表情のまま裕介が廊下にやってくる。
「あんだよ」
「俺、退部しないことにした」
すると裕介は目を大きくして驚いて見せたがすぐに睨んできた。
「なんだよ、昨日散々やめるって言い張ってたのに、所詮その程度か」
「ごめん、やっぱり俺音楽好きだからやめたくない。裕介とももっと競いたい」
そう言うと、さっきよりも目を見開いて俺をまっすぐ見る。
「ピアノのオーディション、一緒に受けよう。俺お前の演奏下手くそだなんて思わない。吹奏楽部で打楽器の時のピアノ、めっちゃ好きだしかっこいいって思う。めっちゃ練習したんだなって伝わる。確かに俺は岩津淳一の息子だけど、勝負に親は関係ないだろ。真剣にもう一度戦いたいんだよ」
言いたいことを全部言って、息を大きく吸って吐く。裕介は言葉を失っていた。ただいつもの貶すような目ではなく真剣に俺のことを見ていた。
裕介は確かに小学生の時の演奏は酷かった、何度も止まって不快な音が定期的に鳴って、聞く人全てに不快感を与えた。
それでも高校でしっかり彼のピアノを聴いて、俺は感動した。ただ弾いているのではなく、曲の雰囲気が指に伝わるよう丁寧に洗練された指使い。それはかなりの練習量が必要だと思う。あんなに下手くそだったのに、ここまで上達するなんて本当にすごいと思う。
だからこそ、真剣に戦いたい。親が歌手とか関係なく、俺を見て戦ってほしい。
「お前、そんなに喋れるんだ」
ポツリと発した裕介の声、息を吐くような掠れた声だった。
俯いていて、表情が隠れてしまう。初めての彼の態度に流石に困惑する。
「裕介? 大丈夫?」
「大丈夫じゃねぇよ」
「え、、」
そう言って裕介は体を回転させ俺に背中を見せる。
しばらく無言でクラスメートたちの声だけが聞こえる。そんな中、裕介の声はまっすぐ俺の耳元に届いた。
「オーディションでな」
そう言って自分の席に行ってしまう。席について他の生徒と話している。
数秒経って、やっと意味が理解できて自然と笑顔になる。
「うん」
誰にも聞こえないボリュームでそう呟いた。
教室に戻る途中、塁のクラスの前を通った。
なんとなく中を覗いて塁を探す。しかし塁はどこにもいなかった。
「誰か探してるの?」
近くにいた女子生徒が声をかけてくれる。
「あ、えっと塁って今日休み?」
するとその子は少し表情を曇らせる。
「塁って誰? 別のクラスの人じゃないの?」
……え? いない? 思考が止まりそうだがなんとか動かし質問を変える。
「じゃあ名雲は?」
するとさらに眉間にしわを寄せて、面倒くさそうに話す。
「名雲さん、昨日引っ越したらしいよ」
……は? 頭に強い衝撃が走る。
「もういい?」
不服そうに俺を睨む生徒、俺は声が出ずに頭を下げてゆっくり教室から離れてく。
塁がこのクラスなのは間違いない。なんで塁がわからないんだ。苗字は伝わったのに。
それに、引っ越しって。一度もそんなことを聞いていない。引っ越す気配も一切感じなかった。上手く俺に隠して塁は引っ越してしまった。
多すぎる情報と塁が俺に引っ越しのことを隠していた事実が、俺の心を内側から蝕んでいく。涙が溢れて言葉も出ずにその場にうずくまる。
その後のことは覚えていない。
ただ塁の笑顔がずっと頭の中に浮かんでは消えてしまう、そんな夢ばかり見続けた。
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