凪
父さんの再婚相手の梓さんは、前の旦那さんとあることをきっかけに大喧嘩し離婚したという。元旦那さんの名前は
そして私の名前は
私の名前を知った時には、結婚の話は決まっていた時だったらしい。
高校生ながらも、毎朝父親が部屋に来て起こしてくれる。
ちょうど仕事に向かう時間が私の起きる時間で、小学生の時からずっと起こしてもらっている。
帰りが遅い父さんと過ごせる時間は朝の数分だけだから、この時間が私にとっては何よりも大切で、寝起き姿が恥ずかしいとかそういうものは一切なかった。
それなのに、梓さんの一言で一変する。
それは珍しく父さんが早く帰宅して三人で夜ご飯を食べている時だった。
梓さんは父さんが早く帰ってきたのが嬉しいようで、私と二人きりの時より明らかにテンションが高かった。
正直私は梓さんが苦手だった。元旦那さんと名前が一緒なのが嫌なようで、私の名前を極力呼ばないようにしているにしているのがバレバレだった。
名前が一緒なだけなのに出会った当初から距離を置かれ、会話も必要以上しない。それでも父さんがいる時だけ別人のように明るくなり、私と一切目が合わなくなる。
父さんはいてほしい、それでも梓さんのあからさまな対応の差も見たくなく、家での居心地は微妙だった。
だから二人きりになれる朝の時間だけが私にとっては幸せだった。
……それなのに。
「話変わるんだけどさ、もう高校二年生になったでしょ、だから毎朝起こすのはやめてあげたらどうかな。多分恥ずかしいと思うの、女子だからよく分かるんだよね」
いきなりそんなことを言い出す梓さんに父さんは少し戸惑っていた。
梓さんがやってきた当初、同じようなことを言われ父さんは私の目の前で「これは大切な時間だからやめないよ」と言っていた。それは小学三年生の時だった。それ以来何も言ってこなかったのに……梓さんに対する怒りで思わず箸を強く握った。
すると私が言葉を発するよりも先に父さんが先に口を開いた。
「確かに、もう高校生だから嫌かもしれないね。梓のこと考えられてなかったよ」
「えっ、そんなことない。いいよ、朝起こしてくれて。私はそっちの方がいい」
すぐに否定をしたが父さんは困ったように笑っていた。
「でも、確かに僕は男子だし、女子高校生の気持ちは一切わからない、でも梓がそう言ってるなら、そっちの方がいいような気もするんだ」
「そうよ、ちょっと言いづらかったと思うけどそうした方がいいと思うの、そうしましょ」
嬉しそうに微笑む梓さんに私は純粋に憎いと感じた。次々と浮かぶ感情が言葉になって吐くように綴った。
「なんで梓さんに言われたからやめるの、私はやめてなんて一言も言ってないのに、ひどいよ。梓さんにずっと思ってたんだけど、父さんの前だけ私のことを知ったようなふりをするのとか、父さんの前だけいい子ぶろうとするのと本当にやめてよ。気持ち悪い」
初めて、梓さんに向かって言いたいことをはっきり言った。
少しモヤモヤが晴れた気がして気分は軽くなった。しかしそれは刹那に過ぎなかった。
梓さんを見ると、言葉を失った。
梓さんは大量に涙を浮かべて泣いていた。何も言えずただ梓さんを見ていると、父さんが席を立ち上がり梓さんの背中に手を当てて何度もさする。
「凪、今のは言い過ぎじゃないか?」
ショックで気を失いそうだった。一瞬視界がぶれて大好きな父さんの顔も揺れてしまう。
父さんは、私の味方じゃないの? どうして、泣きたいのはこっちなのに、どうして梓さんの方に行くの? 悲しさと虚しさと嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。
私は衝動的に立ち上がって、走ってリビングから飛び出すことしかできなかった。
「凪っ!」
父さんの声にも振り向かずそのまま二階へ上がって自分の部屋に入って鍵を閉める。
一人になった途端、体の力が抜けてその場に座り込む。
目は乾燥していて涙が出る気配がない。
私だって泣きたかった。泣けるものなら泣きたい。でもそうしたら父さんが心配するから……ずっと泣くのを我慢していたのに、あんなにあっさり泣くなんて、信じられない。
一人でただ座っていると、一階から梓さんの泣きじゃくる声が聞こえてきた。
何を言っているのかはわからないが、ただ喚いていることだけはわかる。あんな幼稚園児みたいに……38歳の大人が何をしてるんだか。
梓さんともうすぐ10年間一緒にいることになる。今後もずっとあの人と一緒に暮らすとなると耐えられるか分からない。
天井を見上げてふと考える。
ーもし、私の名前が『凪』じゃなかったら愛されていたのだろうかー
そんなのもうわかるはずもない。仮にそうだったら、なんて今まで何度考えたことか……
枕元に置いてある手鏡を手に取って自分の顔を見つめる。梓さんとは全く顔が似ていない、それに父さんとも似ていないのが地味にショックだった。
きっと母親と似ているのだろう、これは憶測に過ぎない。なぜだか分からないが父さんは母さんの話を一切話してくれない。
私は母さんの顔がはっきり思い出せない。写真も仏壇も置いていないので、多分離婚だと思う。母との記憶は曖昧で、些細なことしか思い出せない。
父さんと仲が悪かった気がしない、喧嘩をしていた記憶もない。仲良く三人で夕飯を食べている記憶が一番鮮明に思い出せるかもしれない。笑顔が絶えない仲の良い家族だったと思う。
だけど、突然母さんは消えた。
そしていつの間にか梓さんが母さんの代わりとなった。
私は梓さんを一度も母親と思ったことはない。むしろ父の恋人? みたいで子供なんか必要ないと思っていそうだ。梓さんも私のことを娘と思ったことはないだろう。
邪魔者としか思っていない。私にとって梓さんが邪魔者だ。
お互い嫌っているなら都合がいい、無理に話さなくてもいい……
それでも時々切実に願ってしまう。
『凪』じゃなかったらよかったのに……
鏡の中に映る自分は一体誰の子供なんだろう。梓さんの娘なのだろうか。梓さんなら私にどんな名前をつけるのだろうか。凪以外だったらなんでも良さそうだな、そう思って鏡に向かって呟いた。
「霧矢、
誰からも愛されますように、そう願いがこもった名前。そして愛梨は響きが好きだから。
何をやってるんだと冷静になり鏡を乱暴に置いた。名前がこうだったらとか、どうにもできない話なのに……
夢見てんじゃねぇよ、そう自分に言い聞かせて目を閉じた。
今日もノックの音で目が覚める。
いつもは父さんの声で目が覚めるのに、どうしてノックなんだろう。そう思ったが昨日部屋の鍵を閉めたことを思い出す。
正直父さんにも顔を合わせづらい。いつもと違って足が重い。それでも扉の前まで歩く。いざ、鍵を開けようとしたら手が震えてしまう。
あんなに梓さんのことを悪くいって、もしかしたら怒られるかもしれない……初めて父さんに対して怖いと思った。
しかし、そんな私とは真逆で明るくいつも通りの父さんの声が扉の向こうで聞こえる。
「愛莉、朝だよ、起きなさい」
……え? 違和感。
愛莉って誰? ここって私の部屋だよね。もしかして外にいるのは父さんじゃない人とか。
混乱で思考が止まらない。どうして、どうして、愛莉って、確か昨日思いついた名前……
しばらく部屋から出れず考えていると、別の人の足音が近づいてきているのに気がつく。
「愛莉ちゃん、体調悪いの? 大丈夫?」
梓さんの声が聞こえて胸がどきりとする。梓さんまで愛莉って呼んだ。
もしかして、もしかして、いやそんなことない。何度も首を横に振っては頭を抱える。
こんなに名前を間違えるってことある? やっぱり別人が私を呼んでるとか。
怖いけど確かめたいという感情の方が圧倒的に大きく、ドアを恐る恐る開いた。ゆっくり視線を上に向けると、そこには父さんと梓さんがいた。二人は心配そうに私を見据えてた。
初めて梓さんが私をしっかり見ていた。それが新鮮でなんだか胸の奥が暖かくなる。
「愛莉ちゃん、制服のまま寝たの?」
自然に私の頬に手を当てて顔色を窺う梓さん。驚いて声が出ない。
その後も、おでこに手を当てて熱がないか確かめてくる。
「やっぱり体調が悪い? 熱はないみたいだけど大丈夫?」
「ええと、ちょっと疲れてるから午後から学校行ってもいい?」
すると梓さんはやさしく微笑んで私の頭に手を置いた。
「いいわよ、制服のまま寝るなんて、何か思い悩んだことでもあったの? 話したくなったらいつでも一階に降りてきてね。今日はずっと家にいるから。あ、でも鍵は閉めないでね」
歯を見せて笑う梓さん、新鮮すぎてやっぱり現実感がない。でも胸の奥で空いた穴が塞がるような気がした。
「わかった、じゃあ父さんはいってらっしゃい」
「あぁ、無理するなよ」
父さんはそういって一階に降りていく。梓さんもそれに続いて下に行っていく。
扉を閉めた途端、私はその場に座り込む。
心臓がドクンドクンと音を鳴らしている。私は部屋を見渡して隅に置いてある学校用のリュックを見つけて、近づいて中をあさる。
まず最初に取り出したものは学生証だ。
そこには信じられないが『霧矢愛莉』と書かれてある。他にもノートや教科書を取り出して一つ一つ確認していく。
全て『霧矢愛莉』と書かれている。
「嘘でしょ……」
自然と声が漏れてしまう。次にほっぺを強くつねる。途端に痛みが頬を走りすぐに手をはなす。ベットの上に置いてある鏡で確認すると赤く腫れている。
これ、現実? ものすごく凝ったドッキリとか? いやでもそれはないか。
長い思考の末、原因はこの鏡なんじゃないかと思う。
鏡の中の自分は何一つ変わっていない。でも名前だけ変わってしまった。もし前夜みたいに『霧矢凪』と発したら名前は元に戻るのだろうか。
試してみようと鏡に顔を綺麗におさめ、口を開く。
でも、言葉は喉に引っかかってうまく出てこない。最初の『き』すら発せない。さっきから頭にチラつくのは梓さんのあの優しい笑みだ。
あんな表情、初めて向けられた。私は純粋に嬉しいと感じてしまった。
初めての母親という生き物。あんなに暖かくてずっとそばにいたいと思えるものなんだ。
今の私には、鏡を使う選択肢はなかった。
学校には昼休みから合流した。
恐る恐る教室を覗いて中を見回す。すると後ろから「愛莉ー!」と声をかけられた。
振り返るとそこには結衣と杏奈がいた。二人の手にはパンとパックに入った飲み物が握られていて購買帰りだと分かる。
そして何より、当たり前のように『愛莉』と呼んだ。やっぱり、凪じゃなくて愛莉なんだ。やっぱり慣れないから無視してしまいそうで怖い。今日は愛莉に反応しないと。
「昼休みからなんてどうした?」
「珍しいね、一年生の時は無遅刻無欠席だったのに。寝坊か?」
「まぁね、ちょっと昨日夜更かししすぎちゃってさ」
「まじかー、うける」
三人で笑いながら教室の中に入る。
周りのクラスメートが私の方を見てくるが特に何も言わない。できればいろんな人に名前を呼んでもらいたい。
「愛莉おはー」
自分の席には美香が座っていた。いつも自分で作っているというお弁当を人の机に広げて美味しそうに食べている。
私も近くの席に座り、他二人も席に座ってパンを食べ始めている。
「珍しいね、毎朝愛パパに起こしてもらってたんじゃないの」
この四人には私の家族の相談をよくしている。相談といってもほぼ愚痴だけど。
「まぁ、今日はちょっと起きれなくて」
「愛パパ目覚ましダメなら一生起きれないじゃん、やばいやん」
杏奈が馬鹿にするように笑うが、すぐに結衣が杏奈の頭をこつんと叩く。
いつもは凪パパと呼ぶが今日は愛パパになっている。あの鏡のせいで名前が完全に変わった? それって最高なんじゃないか。
これからずっと愛莉でいけば梓さんに避けられることもなく普通に暮らせるんじゃないか。
「ま、そろそろ一人で起きれるようになったほうがいいと思う」
「美香もそう思うだろー、ほら結衣、美香も叩きなよ」
「杏奈は笑い方が不快」
「ひっどい」
いつも通りの日常に新鮮な『愛莉』。ここには『凪』という人が消えている。
少し寂しさを覚えながら、変に思われないよう空気を呼んで笑って見せる。
「あ、話変わるんだけどさ明日オフじゃん、駅前のカフェそろそろ行こうよ」
「行きたい!」
真っ先に反応したのは結衣だった。目をキラキラさせて、満面の笑みで杏奈を見ている。
「結衣って本当に可愛いー」
杏奈が結衣の頭に手を置くと、気分を悪くしたのかその手を乱暴に叩く結衣。
「いった、なんだこの猫やろう」
「気安く触んな、あと可愛いっていうな」
二人でギャーギャー騒いでいるのを見ているとふっと笑いが溢れる。
いつもの日常に何も変わりない。結衣と杏奈が騒いでいるのを見て面白がる私と美香。名前以外、何も変わっていない日常だ。
「杏奈声大きい」
バシッと頭を叩く結衣。
「やめて馬鹿になっちゃう」
そんな会話で昼休みは埋め尽くされた。
確かにうるさいなと感じるが、全然気分は悪くならない。家の方がよほど気分が悪いからだろうか。
でも、梓さんがマシになったから、そうじゃなくなるかも……
夜、今日は父さんの帰りは遅かった。梓さんと二人きりでも全然気まずくない。無言じゃない食卓ってこんなに楽しいんだ。
今まで嫌だった夕食はいつもよりずっと美味しく感じる。
「愛莉ちゃんさ、明日は学校行けそう?」
「うん、今日ゆっくり休んだから。それに明日はクラスの子とカフェに行くんだよね」
すると梓さんは体を机に乗り出してニヤッと笑う。
「もしかして、男の子?」
「え、違うけど」
「えー、じゃあ一体誰と行くのよ」
あからさまにテンションが下がる梓さん。気分屋なのは以前と変わっていないようだ。
「友達だよ」
「誰よ?」
「美香と杏奈と結衣だよ」
「その子たちと仲良いの?」
「仲良くなかったら行かないよ」
梓さんの質問は止まらずに流れる川のようにやってくる。
そこまで干渉しなくてもいいのに、少し不満が募ってイライラしてくる。
「その子たち、悪い子じゃないわよね」
「悪い子なわけないじゃん、もう質問禁止」
少し声を張り上げると梓さんは傷ついた表情で私を見据える。
「そんなこと言わないでよ、母親なんだから心配なのよ」
「母親でもそんなに聞かなくても良くない?」
「いいえ、そういうわけにも行かないわ、あと何時に帰ってくるのか聞いていないわ」
「時間は分からないよ」
するとさらに増して表情が曇る。
「時間がわからないってどういうこと、暗くなるかもってこと? それなら向かいに行くから、場所教えて」
流石に面倒臭過ぎて「いらない!」と大きな声を出す。
梓さんの動きが止まったかと思うと、鼻を啜る音が聞こえる。
驚いて振り向くと、梓さんは昨日の晩のように泣いていた。驚きというか呆れて何も言葉が出ない。
すると、タイミング悪く玄関の音がした。
「ただいまー」
いつもの父さんの朗らかな声を聞いて初めて焦ってしまう。
「梓さんっ、父さん帰ってきた、泣き止んでよ」
必死に梓さんに話しかけるが、泣き止む気配がない。
焦りが次第に苛つきに変わっていく。小さく舌打ちをしてから声を荒げる。
「もういい加減にしてよ!」
私の苛立ちはまっすぐ梓さんに伝わって、梓さんはピタッと動きが止まる。
かと思うとさっきよりも大きな声で泣き出した。
「愛莉、何してんだ? 梓はどうしたんだ?」
慌てた様子でリビングに駆け込む父さん、心配そうに私を見据えるが先に梓さんの方へ行ってしまう。
その時感じた。今、私じゃなくて梓さんを優先した。
父さんを見ると、背中をさすりながら必死に喋る梓さんの話を聞いている。
その様子の吐き気がした。大の大人が旦那さんに子供みたいに泣きじゃくる様子を信じられなかった。
やっぱり梓さんは梓さんなんだ。
「愛莉、梓は愛莉のことが大事だから必死になっただけなんだよ。優しさなんだから素直に受け止めなさい」
昨日の晩と同じで梓さんを庇う父さんにも吐き気がする。
父さんは娘の意見を聞いてくれないの? 梓さんには真っ先に行って話を聞いてあげるのに、娘には寄るどころか意見も聞いてくれない。
「愛莉、聞いているのか?」
愛莉に変えて些細なことは変わったけど、本質は何も変わらなかった。やっぱり名前を変えなくてもいいような気がして、すぐに自分の部屋に向かう。
「愛莉っ」
「るっさいな」
乱暴に言い残してリビングから去った。最低な娘なんじゃないかと思ったけど、向こうがさらに最低な両親だと思うから絶対に謝ろうとは思わなかった。
部屋についてすぐに鏡を手にする。そして鏡の中の自分をじっと見つめる。
私は一体誰の娘ならよかったんだろう。大好きな父さんでさえ今は嫌いになりつつある。梓さんも一時はいい母親みたいと思ったけど、やっぱりダメだった。
鏡の自分を真剣に見つめる。誰の娘ならよかったんだろうな……
「霧矢凪……」
そう呟いて再び目を閉じる。
***
目が覚めた時、いつもより部屋が暖かく感じた。ゆっくり体を起こすと、ベッドから見る景色がいつもと変わって見えた。
部屋の中が明るい、太陽の光ってこんなに入っていたっけ。
そこであることを思いつく。咄嗟にスマホを開いて時間を確認する。
10:46 普段ならもう授業の時間。そして今日の曜日を確認する。
水曜日……
最悪。急いで洗面所に向かい顔を洗う。そのまま髪を一本にまとめて制服に着替える。
今日はみんなで出かけるから学校に行かないと、学校の最寄りのカフェは最近オープンして美味しいと評判がいい。今日は部活がなく早めに帰れるからバレー部のみんなと行こうとしていたのに。
そこでやっと2日前のことを思い出す。
梓さんがもう起こすのをやめようと言っていた。それを父が間に受けたことに気がついて一気に気持ちが下降する。
これは、あの日の続きになっているんだ。凪という世界の続きになっている。
どっちの名前になっても明るい明日はやって来ないって分かっていたんだから、どっちでもいいか。
リュックを背負ってリビングに行くと机にお弁当が置かれていた。
あんなことがあってもいつも通りお弁当は作ってくれるんだ、まあ父さんの弁当のついでだと思うけど。
自分でそう思いながら虚しくなる。可哀想だな、アホらしい、そんな言葉がずっと頭の中に浮かんでいる。
高校に着いた時、三時間目の前だった。運よく休み時間に教室に着いたのでそこまで目立たずに入れた。
「遅刻とか珍しくない? 凪パパに起こしてもらってたんじゃないの?」
前の席に座っている美香が髪を指に巻き付けながら煽り気味に話しかけてくる。
「父さんには起こしてもらえなくなった」
「えーなんで、そんなんじゃ毎日遅刻じゃん」
「本当にそうだよ。梓さんがさ、高校生にもなって父さんに起こしてもらうのは恥ずかしいんじゃないかって急に言い出してさ、別に私は嫌じゃないのに父さんは間に受けちゃって。梓さんって父さんの前だと私のこと知った被るけど実際そんなことないし、あぁなんなのあの女」
「普通に草」
私が一方的に話すと美香は特に深入りもせずに聞いてくれる。興味の有無ではなく、ただひたすらに言いまくる私の愚痴を聞いてくれる。
家族に本音を言えない私にとって美香は必要な存在だ。
「梓さんどっか行ってくれないかなー」
「無理っしょ、凪の話だと凪パパのこと大好きでしょ」
そこで授業開始のチャイムがなる。クラスメートが着席していると扉が開いて先生が入ってくる。
「早くすわれー。始めるぞ、今日欠席は?」
教科は数学で他のクラスの担任をしている
40代後半らしいが見た目は30代に見えてもおかしくないくらい若く、多くの生徒に人気な人だ。みんなから『うたしー』と呼ばれていて、そこそこ顔も良く女子からの人気が強い。
「霧矢休みです」
前の席の人が言うと私の周りの席の子がざわつく。
まあ遅れてきたわけですから、そうなるよね。
「凪は遅刻でーす、今いますー」
美香が大きな声で言うと前の席の人の視線が集まる。居た堪れずに視線をそらして「遅刻でーす」と笑って見せた。
「じゃあ霧矢、放課後居残りな」
クラスにドッと笑いが生まれる。
「え、なんでですか?」
「遅刻してきたのに先生に言ってこなかったから。それに今生徒指導週間だぞ。みっちり生徒指導してやる」
歌代先生はニヤッと微笑んで見せると女子から「こわーい」と甲高い声があちこちで聞こえてくる。男子は「霧矢に何するんですかー?」と笑いながら聞いてくる奴もいる。
「指導してやるんだよ、おら、さっさと授業始めるぞ。今教科書机にでてない奴チェックしたからな、授業前に準備は済ませとけって言ったろ。後で指導ー」
「はぁ、嘘だろ?」
ここでも笑いが生まれる。一人の男子生徒が頭を抱えて俯いる。その様子を見てケラケラ笑う先生は「嘘」と言う。
男子は拳を掲げて「っしゃぁぁ」と騒ぐ。
「うるさい、本当に指導するぞ」
「す、すみません」
男子生徒のテンションの起伏があまりにも面白く教室が笑いに包まれた。
「はい、じゃあ授業をするからなー、前回の続きの34ページ開け。あ、言い忘れた。霧矢は変わらず指導だから、忘れないようにな」
「え、」
「凪お疲れー」
美香の棒読みがまっすぐすぎてクラスに再び笑いが生まれる。
家とは違い、この空間にいると何度も笑いに出会う。正直学校の方が家より好きだ。あんなに窮屈な場所よりも、みんな優しくて笑っていられるこの場は本当に居心地がいい。
放課後、存在をできるだけ消してホームルームを迎える。
「凪なんか静かやん、どうしたー」
美香の悪気のない大きな声に小さく突っ込む。
「静かにっ、先生の視界に入らないようにしてるだけ。指導なんて絶対に嫌だし、みんなと早くカフェ行きたいし」
「へぇー、凪今日カフェ行くん? じゃあ先帰るね」
さらっと言った返事に違和感を覚える。
「え、美香と杏奈と結衣と行くって昨日話したでしょ」
「そんなこと言ったっけ。そんな話記憶にないけど」
「え、だって、あ。あぁー、なんでもない」
やっと今日は2日前の続きになっていることに気がつく。昨日学校でカフェに行こうと言う話になっていた。それは愛莉の世界だ。
「あ、じゃあ来週の水曜日、四人で駅の横のカフェ行かない? 美味しいって人気じゃん」
「あー、パン屋の隣のカフェね。いいよ、後で二人にも行っておく」
思いつきで言葉にしたが美香は嬉しそうに微笑んでいる。こうやってたまに感情を表情に出してくれるから可愛いなって思う。
「今日は指導頑張りー」
「いやだからうまく隠れるって。絶対捕まらないから、美香も協力してよ」
「えー、うたしーと二人きりってよくね、最高やん」
「んー、てかなんであの先生って人気なの、あの人40代で独身でしょ。普通にキモくない? 独身だよ、子供いないんだよ、家に帰ったら一人なんだよ、女子に対して変なこととか想像してたりさ、ありそうじゃん」
「あー、それは、、、後ろ……」
美香が笑いを堪えた表情で私の頭の上を指さす。
不思議に思い振り返ると、そこには歌代先生が爽やかな笑みを浮かべて立っていた。やっぱり40代には到底見えない。とっても素敵な笑みだから感情が読み取れない。
しまった……今日一番の失態だと思う。
「先生……?」
「ホームルーム後、すぐに生徒指導室にくるように」
爽やかな笑みの奥に潜む先生の本音を想像するだけで怖い。
「はい……」
美香はニヤニヤ笑って私を見るだけだった。
ギリギリ美香は私のことを肯定しなかったから、呼び出されることはないのか。
「美香ぁぁ」
「許せ凪、明日アイス奢ったるから」
「あざっす」
アイスにだけは敵わない。仕方がないから美香を許した。
「はい、遅刻の話はここまで。で、誰がキモいって?」
遅刻の話は一分程度だった。
やっぱり本題はこっちなんだ、緊張で目を合わすことができない。
「人の感じ方はそれぞれですので、一般的に見たら先生は人気ですよ」
「霧矢は俺のことをキモいって思ってるんだな」
先生の笑顔が絶えることはない。ずっと爽やかな笑みを浮かべながら話す先生は逆に怖い。
「悪口言ってすみませんでした」
素直になって頭を下げると先生は声に出して笑いだす。
「別に、何人かの生徒がそう思ってることは知ってるし、全然気にしてないよ。実際自分が一番キモいって思ってるし」
「え、やっぱり先生ってキモイんですか?」
「霧矢ぁ?」
「すみません」
会話のテンポが面白くて、この人との会話は基本楽しい。梓さんもこんな感じに明るかったらいいのに。
「でも先生ってやっぱりキモイんじゃないかと思うんです」
「あ、そう。はっきりそこまで言われると心が痛いよ」
そこで初めて先生は指先をいじって落ち込んでいる。そんな先生を無視して畳み掛けて私は意見を押す。
「だって、こんなにおじさんでもイケメンに見えるってことは若い時はもっと宝石みたいに美しかったんでしょうね、それなのに結婚してないってことは性格が終わっているか、キモイの二択だと思うんです」
そこで先生は初めて切なそうに目を細める。そして微笑んだ。今までの笑みとは違って寂しそうな影がチラチラと先生の頬を掠める。
言ってはいけないことを言ったかもしれない、そう後悔して焦って口をパクパクしていると先生は静かに笑う。
「確かに、霧矢の考えは合っているよ。性格が終わっていて、キモい。両方俺に当てはまってるんだよ」
静かな口調は先生には似合わない。いつも元気溌剌な先生とは全く真逆な姿に見える。
「でもやっぱり、あんな風にはっきり言われると俺は辛い」
先生は辛いを強調してしゃべった。
わざとらしくしゅんとした様子を見て、いつもの先生に戻っていることがわかる。
「すみません、以後はないようにします」
「あぁ、頼む」
二人でおかしくなって笑い出す。先生も人間なんだと実感した。先生も同じ人間で、私と同じように傷ついて悩んで悲しんで。そして先生は何かに後悔している。
そんな先生を少し知りたいと思った。
「じゃあ、今日は終わり。とにかく遅刻すんなよ」
「はーい、なんか昨日に続いて朝起きるの辛いんですよね。昨日も学校遅れたじゃないですか、朝起きるのがなんか疲れちゃっててー」
適当に笑っていると、先生は真剣な眼差しで私を見ていることに気がつく。
今までで一番先生に真っ直ぐ見られたかもしれない。
緊張で言葉がうまく出てこない。先生が先に口を開く。
その言葉を聞いて頭が真っ白になる。
「お前、やっぱり名前変えたろ」
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