本当に偶然だった。いや、あるいは運命かもしれない。


 俺がそろそろ婚活でも始めようかと思って31歳の誕生日を迎えた次の日、地元の大通りを歩いていたら、目の前に見覚えのある横顔を見つけた。

 気のせいかもしれない、それでも俺の腕は彼女の肩を掴んでいた。

 驚いた目で俺を見つめる彼女はやっぱり塁だった。

 俺を見るなり罰悪そうに俯く塁。

 やっぱり最後の別れを気にしているのかもしれない。確かにあんな急な別れは俺だって悲しかったし許せなかった。

 だけど、まさか会えるだなんて思ってもいなくて、喜びが昔の感情なんて消し去った。

「久しぶり! 塁だよね」

 そういうと塁は目をまんまるくして驚愕していた。それはただの驚きではなく少し怯えているようにも見えた。

「久しぶり、だね。元気?」

「あぁ、元気だよ、どうしてここにいるの? てか塁全然変わらないね、なんか大人びてずっと綺麗になった気がする」

 塁は昔とは違い髪が伸びていた。伸びていると言っても肩につくくらいの長さで毛先はふんわり巻いてある。すっかり肌も白く、純白の雪のようだった。雰囲気は昔とはだいぶ違うが、すぐに誰だかわかった。

「久々に会ったんだし、時間あるなら話さない? ほら、そこの駅前のカフェとか。隣がパン屋さんの、俺らカフェもパン屋も通ってたよね。すぐそこだから行こうよ」

「うんいいよ」

 軽く了承してくれた塁はやっぱり綺麗だと思った。

 二人で駅の横にあるカフェに入る。店内には人が転々といて、そこまで混んでいるようではなかった。

 窓際の奥の席に対面で座る。

「私カフェオレ、奏太は?」

「コーヒーで」

 店員が離れてやっと会話を進める。

「マジで久々じゃん、成人式に会えるかなって思ったんだけど塁はいなかったじゃん。もう会えないかと思ってた」

「私もそうかもって思ってた、ごめんね」

 ふっと笑う塁は昔のままだった。懐かしくて、なんだか昔の記憶が溢れ流れてくる。

「そういや、隣のパン屋さんのお兄さんによくパンをタダで食べさせてもらってなかったっけ。おばちゃんにいつも怒られててさ。塁はいつもみかんパン食べていたよね」

「みかんは大好きだからね。それにタダで食べていたのは小学生の時でしょ、中学からはしっかり払っていたもの。今もあの人いるのかしら。あの時お兄さんだったから今はお爺さんかもね」

「後で行ってみようよ」

「時間があればね」

 話しかたもどこか大人びている。全体的に大人っぽくなって少しだけ緊張する。塁はというと穏やかに微笑んで緊張をしているようには見えない。

「そういえば、どうして今ここにいるの。まさかこっちで暮らしてるとか」

「えぇ、夫と三歳の娘と三人暮らし」

「え?」

 乾いた声が口から漏れた。

「お待たせしました。コーヒーとカフェオレです。注文は以上になります」

 店員がやってきても俺は塁から目を離さなかった。

 店員に頭を下げる塁。いなくなると塁は寂しそうに微笑んだ。

「私、結婚したんだ」

「……そう」

「喜んでくれないの?」

「そりゃ、喜ぶよ……」

 切なそうに目を細めてカフェオレを口にする塁。よく見たら左手の薬指ひかるものがちゃんとあった。

 純粋にショックで言葉が何も出てこない。ずっと塁だけを追ってきていたのに、あっさり別れてさらに再開できたと思うと既に結婚していて……小学生からだから、約20年も片思いだったのか。

 それなのに別れはこんなにも儚く散ってしまった。目が乾燥して涙が出てくる気配はない。虚しいな俺……

 その時、別れというので思い出す。

「そういや、最後どうして鏡のこと忘れてって言ったんだ? それに行った瞬間走って逃げたのはどうしてだ?」

「あぁ、あの時はちょっとね。ただ非現実的なものを勢いで話しちゃって、絶対に困るよなって思ったの。忘れたほうがいいだろうって反省したのよね」

「そうか。でもあの時さ、使わないって言ってただろ。非現実的だし記憶消えるとか怖いから絶対に使わないって。怖いなーってくらいの認識で、だから俺は言われるまで忘れていたぞ」

 そういうと塁は顔を下げて口を閉じてしまう。

 その時、嫌な考えが頭をよぎる。

 塁は俺と目を合わせてくれない。真実を明確にするため俺は質問した。

「まさか、使ったことあるのか?」

「……うん」

「何回?」

「あれを言った日からずっと……今日も名前変えてるよ」

 結婚以上に強い衝撃が頭にくらう。

 今日までずっと? あの時は16歳。本当の名前を名乗った日数を超えたらって……単純計算したら32歳の時には記憶が消えるってことじゃないか。

 ってことは来年にはもう……

「何やってんだよ馬鹿じゃないのか!」

 店内に俺の声が響いて店内の人からの視線が一気に集まる。怪訝そうに見るものもいればびくびく震えている小さな子供もいる。

 俺はすぐに何度も頭を下げてから塁を見る。塁は疲れ切った目で俺を見据えていた。

「知ってるよそんなの、あの鏡がどれだけ危険か何度も父さんに言われてきたんだから、それでも私は自分の名前が嫌いなの。何が野球のベースでかっこいいだよ、私が気にいるかまで考えたのかよ、ふざけるなっ……野球なんてやりたくなかった、奏太と一緒に吹奏楽部で色々したかった、名前を変えれば野球野球って母さんは言ってこないの。なら使うに決まってるでしょ? 本当はダメってことくらいわかってる、でも止められなかった……」

 爆発するのを抑えるように何かを溜めながら話しているのが伝わる。

 一番辛いのは塁自身だろう。それでもやっぱり相談してくれなかったことに対する悲しみと怒りがごっちゃになって感情の整理が追いつかない。

 お互い、何もいえずにただ時間が過ぎる。

 そして太陽が沈んで暗くなり、ようやく店を出た。結局パン屋には行かなかった。

 二人で歩く夜道は本当に久々だ。しばらく歩いて塁が足を止める。

「私こっちだから、もう帰るね」

「あ、うん」

 暗くてよく塁の表情が見えない。すぐに背中を向けて歩き出す。

 寂しそうで頼りなくて守ってあげたくなるそんな背中。俺は何か伝えたくて、必死に言葉を探す。結局、何も考えずに「塁!」とだけ言葉が突っ走る。

 塁は暗闇の中で振り返る。もう完全に見えない。

 必死に言葉を探してやっと出てきたものを伝える。

「もう、名前変えないでほしい! 記憶消さないでほしい、俺はお前と過ごした思い出、全部忘れられるの嫌だから、ずっと覚えていてほしい!」

 静かな通りに俺の声は真っ直ぐ塁に届いただろう。塁が今どんなことを考えているのかわからない。それでもただ伝わればいいと思った。

「奏太、ありがと」

塁の小さな声、語尾が震えていて鼻をすする音が聞こえる。そして息を吸う音に変わる。

「私は大丈夫だから」

 残酷にも15年前と同じ別れ方だった。

 

   ***


 そしてちょうど三年過ぎる。

 教員という職について、忙しさに追われる毎日。そんな時に母親からの電話が俺の心境を一気に変える。

 母は最初、今付き合っている人はいるのかと、結婚の話から始まった。そして、途中懐かしい名前が出てきた。

『そういえば、霧矢くん結婚してたでしょ、相手がついに分かったの』

 霧矢、その苗字をどこかで聞いたことがあったが俺は思い出せない。

「へぇ、そうなんだ」

『あら、反応薄いわね。覚えていないの? 部活一緒だった子よ』

 霧矢、そんな奴いたかな……? しばらく考えてから霧矢慎一という部員を思い出す。ピアノが上手だった爽やか少年だった。

「あー、あいつか、俺あんまり喋ってことないよ。部活一緒だっただけ」

『あら、そうなの。てっきり聞いてるものかと思ってたわ。で、お相手の子があんたとよく帰ってた女の子だから知ってるものかと。なんだったかしら、名前が出てこないんだけど野球やってた子よ。野球ってのだけ覚えてるの』

 ドクン……心臓が嫌な音を鳴らす。次第に鼓動が速くなり背中に熱が伝わる。

 野球でよく一緒に帰ってた子 そんなの塁じゃないか。

 霧矢と結婚? あいつらに接点なんかあったのか?

 別に話しているところとか見たことがない。俺の知らないところで仲良くしていたのか……悔しくて、なんだか自分が情けない。

「その子って塁だよね、俺が一緒に帰ってたの、そうだよね?」

『え、塁? そんな子いたかしら。もっと可愛らしい名前だったと思うんだけど』

 そこでハッとなる。塁はずっと名前を変えていたという。あの話を聞く限り他の人には決めたはずの名前として伝わるはずなのに、俺はずっと塁と呼んでいる。

 だから塁は学校で俺と話したくなかったのか、クラスの女子に塁いる? って聞いてもわからないと答えたのはそういうことなんだ。

 なるほど、やっとわかった。

 そして疑問がもう一つ。なぜ俺は塁だとわかるんだ……?

 逆に塁が名乗っていた名前がわからない。

 探すのは相当大変だ。それでも理由が知りたい。

 なんとなく塁はその理由を知っているような気がした。

 しかし、現実はそんなにうまくいかない。どこに引っ越したのか聞いて置けば良かったと後悔する。

 最初は手当たり次第家の表札を見て探していた。でも霧矢なんて苗字は見つからない。

 10年何もなければ次第にあれは夢だったんじゃないか、ただの理想で出来上がった少女だったんじゃないかと思い込んで諦めてしまった。

 婚活どころではなくそのまま生きていたら気づけば40代に突入していた。

 そしてもうすぐ50代。あとは成るように任せて適当に生きよう、そう思って教師を続けた。

 そんな時、1日だけ名前が変わっている生徒を見つけた。


   ***


「それが霧矢凪だ」

 先生の過去の話から一気に現実に引き戻された。

「ってことは、私の母親は先生の好きな相手だったんですね」

「あぁ、その通りだよ。正直お前を見るのが複雑だ」

 先生の苦笑いを見る限り、本心だとわかる。

「正直、顔も似ているから余計にそう感じる」

 その言葉がスッと体に入ってきた。

「……私と顔が似てるんですか?」

「あぁ、親子って感じ」

 先生は私が母に見えているのか、優しく微笑んだ。

 今までずっと誰の子供かわからなくなりそうだった。もちろん梓さんとは顔が似ていないし、父さんともそんなに似ているわけではなかった。

 だったらこのうちにいる人は私の家族ではないかと疑った。疑ってしまうほど私は孤独を感じていた。二人の子供ができると言ってあんなに喜ぶ二人は初めて見た。

 その時、私はこの家にはいけないような気がした。だから愛莉で生きていこうと思った。凪は家族には入れない。誰も愛してくれない。それでも愛されていたい。

 先生に顔が似ていると言われて本当に心が落ち着いた。私にはちゃんと母親がいるのだと心の底から安心した。私は一人ではないんだと、そう思えて思わず胸を撫で下ろす。

「霧矢、大丈夫か?」

「え?」

 先生が驚いた様子で私を見ている。

 その時、頬に熱い涙が流れる。それは一筋だけでなく、溢れて何滴もスカートに落ちる。

「霧矢……?」

「ごめんなさい、あの、なんか色々考えてたら、嬉しくなって……」

「……」

「家だと、邪魔なんだろうなってずっと感じていて、昨日も二人に子供ができるって聞いて。その時ずっと味方だと思ってた父も本当に嬉しそうで私が泣いても気がついてくれなかった」

 先生は黙って聞いてくれる。真剣な目で私を見ている。言いたいことを全部言っていいよと、目だけで伝えているみたいだ。そんな先生に私は甘える。

「でも、愛莉の世界なら二人とも優しさはあって、たとえ偽物なのかもしれないけど形状は受け取れるんです。だから凪なんていなくなればいいって思ってました。もう愛莉で生きていこうって……でも、ちゃんと母親はいるんだって思えて、なんだか安心して」

「塁は、絶対にいい母親だよ」

 先生がはっきりそう言った。

 優しく笑って先生はハンカチを渡す。

「会いにいかないとね」

 私は強く頷いた。


   ***


 次の日、私は凪で過ごした。

 梓さんは何か言いたげな様子だったが何も言わず、気まずい時間が流れていた。

 そして父さんが帰宅する。

「ただいまー」

「おかえりー」

 梓さんの表情が明るくなる。

 私は立ち上がってすぐに父の元に向かう。

「おかえり」

「ただいま」

「お父さん、明々後日の放課後さ学校に来れる?」

「え、急だな。面談か? 面談なら梓でいいだろ」

 父さんは気が向かないようだ。

 それでも、私はとっておきの言葉を告げる。

「母さんの知り合いの人が呼んでいるの、歌代奏太って人」

 その瞬間、父さんの動きがピタッと止まる。

「進路の話か?」

「んーん、私の家族の話」

 何も言わず、静止している。

 奥から梓さんの足音が聞こえると、父さんはネクタイを緩めて私の顔を見ずに言う。

「詳細は後で聞くからな」

「うん」

 父さんはそれだけ言って梓さんの方へいってしまう。

 父さんは先生とやっぱり認識があるようだ。あの様子から、ただの友達とは違うような気がする。

 それも全部、明かして見せる。

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