少し先のお話

lager

少し先のお話

「痛っ」

「どうなされました」


 長い長い巻子を読み込んでいた家康公が、顔を顰めて指を揉んだ。

 慌てて駆け付けた家臣に、ひらひらと掌を振って苦笑いを浮かべる。


「いや、なに。この目器がちょっとな」

「目器でございますか」


 目器――今でいうところの、老眼鏡である。

 家臣がそれを検めてみれば、鼈甲製の縁の一部がひび割れてささくれ立っている。

 皺の寄った家康公の人差し指に、ほんの少しだけ血の珠が浮いていた。


「直ぐに侍医を呼んで参ります」

「やめよ、やめよ。この程度で煩わしい。軟膏でも塗っておくわい」


 健康オタクでもあった家康公、すぐ手の届く場所に一通りの常備薬は置いてあった。

 

「そろそろ寿命かの」

「殿。縁起でもない」

「儂のことじゃないわ。目器じゃ、目器」

「ははっ。失礼致しました」


 平伏する家臣に、目器を手渡す。


「殿。この程度であれば修理も可能かと存じます」

「うむ。買うと高いからのう」

「しかればこそ、殿がお使いになるに相応しい品かと存じます」

「しかしじゃ。ようやく武家諸法度も作り終えた。しばらくは大きな戦も起こるまい。自然と長生きする者も出てくるであろう。儂のように目が悪くなる者も増えるであろう。もう少し安価に手に入る目器がないものか」

「素材が貴重でございますからな」


 鼈甲は、いつの時代のどの国でも貴重品であった。

 TR90素材のメガネが五千円で買えるようになるのは、まだ大分先の話である。


「それに、使う時に片手が塞がるもの面倒じゃ。外つ国の連中は耳にかけて使っておるというのに」

「はあ。奴らは山のように鼻が高く、谷のように目が落ちくぼんでございますからな。我らが同じように使っても、崖から滑落するように目器がずれ落ちてしまいます」


 平たい顔族である日本人の顔に合うように、鼻パット付きのメガネが鯖江で開発されるのは、徳川の世が終わってから。やはりまだ先の話である。


「まあ、そうは言うてもじゃ。これをかけたままでは書物は良う見えるが周りが見渡せん。かけっぱなしにするにはやはり不便よの」

「そうでしょうな」

「こう、蝶番を上につけて、箱を開けるみたいに枠が持ち上がるようにしてはどうじゃ。それなら、書物を読んでおるときに声をかけられたとき、かけっぱなしのままだけ上に持ち上げることができるじゃろう」

「ははっ。職人たちに打診しておきましょう」


 いわゆる跳ね上げ式メガネが日本に届くのも、もう少し先の話である。


「しかし、それでもひと手間かかるのには違いない。そのもうひと手間を省くにはどうするのがいいであろうか」

「殿。私めに妙案がございます」

「申してみよ」

「一枚のの中で、力を分けて入れるのでございます」

「ほう」

「人が書物を読むとき、自然と目線は下を向きまする。なれば、丸いを半分に分け、上半分はただの、下半分に力の入ったを用いれば、一々つけたり外したりしなくとも、周りも手元も楽に見えるのではないでしょうか」

「ほほう。それは妙案じゃな。して、そのようなをどうやって作るのじゃ」

「皆目、見当も尽きませぬ」


 遠近両用メガネはいずれアメリカ人が開発することになるが、日本に届くのは、やはりまだ先の話である。


「しかし、そのような目器ができれば、もうお早うからおやすみまで目器を身に着けたまま生活ができることになる」

「さようでございますな」

「外出したときには、が光って眩しいやもしれぬな」

「そうですな。それに、動き回るとなると、不意に落としてしまったとき、が割れてしまいますな」

「うむ。割れにくいを作る必要があるのう」

「加えて言うならば、外にお出になるのであれば、に色が入っていると良いやもしれませぬ」

「ほう。外つ国の寺院にあるという、色付きのか。確かに、夏の日差しが目に堪えるようになってきた」

「しかし、屋内ではあまり役に立たなくなるでしょうな」

「ふむ。屋内では色が抜け、屋外では色がつく、妖術のようながあればのう」


 光の干渉を利用した反射防止コートも、衝撃に強いプラスチック製レンズも、紫外線に反応して変色する調光レンズも、歴史に現れるのは、やはりまだまだ先の話なのであった。


「夢が広がりますな」

「そうじゃなあ。目に効くという薬も療治も試し尽くした。そろそろ道具の開発に手をつけてみてもいいやもしれぬ」

「殿の御下命とあらば、職人たちも奮起いたしましょう」

「うむ。決めたぞ。儂もそろそろ隠居をしたい。戦の世はもう終いじゃ。老後のQ.O.L充実した人生のために、本朝の目器に革命を起こそうではないか」

「ははーっ」

「さしあたって、この目器のささくれを直してきてくれ」

「お預かり致します」



 ◇



 当時の大名としては異例の長寿であった徳川家康が愛用していた老眼鏡は、今でも静岡県の博物館に保存されている。彼がどこまで新時代のメガネ開発に力を入れたかまでは、残念ながらどの歴史書にも記されていない。


 

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