装甲車と花

われもこう

装甲車と花


 薄れていた意識が、遥か彼方からやってくる。雨音を連れて、やってくる。雨滴うてきがくだける、音がする。遠いところで、あるいは、近いところで。

 うっすらと目蓋をひらく。うす暗い寝室の中、やはり雨の音がする。朝からたびたび、こんなことを繰り返している。まるで布団ごと、雨音の中に沈むようだ、などと思いを巡らせながら。

 熱が出ていた。昨夜から前兆はあったので、驚きはしなかった。スマホで時間を確認して、上体を起こし、ベッドから降りる。家中のカーテンを開けていく。寝室、奥の部屋、最後にリビング。


 窓の外は灰色、時は昼下がり、外光が入り込む室内は、ぼんやりとした白銀の光を湛えている。まるでこの部屋の内側から、おのずと発光するかのように。やわらかな光のなか、包まれている僕たち。固く冷たい床、氷のような硝子窓、オブジェのようなカーテン、沈黙を並べるだけの食器棚、枯れてゆくダージリン。灰の積もるテーブルと、汚れていく珈琲豆トラジャ。時は水晶のように透き通る。包まれている。やわらかな光に。


 体はまだ、すこしだけ怠かった。床に座りこむ。人差し指に出来てしまった、ささくれに目を落とす。根本はほんのりと赤く、反り返った先端は、骨のように白い。ささくれをさする。僕の心の中には、幾千もの針がある。心が傷がつく度に、増えていく。それは誰も知らないこと。本当の感情は、いつだって丁寧に、幾重いくえにも丁寧に折りたたんで、隠してあるから。

 あるいはそれを、殺意ともいう。僕は、針先の目をそっと塞いでいる。見境なく何かを傷つけようと、機微をうかがう針先の、まなこを隠している。そうしてあやしているのだ。“大丈夫だよ。早く寝なね。起きたときには、気分もよくなっているだろうからね。”


 雨はだんだんと小降りになる。雨滴の音が変化する。僕は立ち上がり、コートを羽織って、靴を履き、傘をさして出掛ける。ほてる鼓膜に、心地よく響く雨の音。肌に触れる、水の冷たさ。排ガスの混じった、雨の匂い。温かいお茶を買って帰る。傘を畳んで、滴を払って、家に入る。僕の肌からは、冷気が消える。たちまちに、部屋の空気と混ざりあって、ぬるくなる。

 買ったばかりのお茶を、ごくごくと飲む。先ほど目にしたものたちの、残像がゆらめく。雨の中、公園にいる少年たち、愛想のいい店員、ゆっくりと羽を畳んだ、マットな質感のカラス、雨の中、ひときわ鮮やかな花びら。色彩を洗い流していく雨。


 ペットボトルは空になった。僕はふたたび座って、人差し指のささくれに目を落とす。僕の針は、ますます成長していくばかり。針先は、心の膜を破って、皮膚から突き出ている。僕はそれを摩りながら、けっして変えられない現実を、部屋の底から受け入れている。

 雨は静かに上がりはじめる。日は暮れる。どっぷりと。閉じた瞼の裏、ゲーセンで取ったマグロが泳ぎ出す。ぱりん、と音をたてて、水晶が割れる。赤く腫れる指を握りしめ、僕は息を吐き、ひとりきり念じる。針先よ、覚えていろ、行き場のない、この痛みと、この痛みたちの怒りを、この熱を、お前だけは覚えていろ。

 心に撒かれた種が、発芽する。針は、どんどんと増えていく。すべての針先に、血が滲む。痛い。悲しい。痛い。悲しい。

 “はやく寝なね、はやく寝なね。”

 遠くから響く子守り唄。僕はか細い息を吐き出しながら、ひとりきり、歯を食いしばって、幾千もの針先をあやしている。

 “眠れ、眠れ、いつまでも。”

 目を閉じていよう。世界が動きをとめる、その日まで。僕らは目を開いてみせる。忘れ得なかった、幾千もの目蓋こころと共に。


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装甲車と花 われもこう @ksun

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