ささくれれれ(KAC20244用)

Tempp @ぷかぷか

ささくれ

 ただの肝試しのつもりのその場所は、ホラースポットだって神津こうづの街アプリに書いてあった。FM神津の街ネタでも紹介されたことがあるらしい。だからその噂はまことしやかに流れていた。だから3日前に友達と行ったんだ。

 常城町つねしろまちには神津こうづ旧道に繋がる道がある。神津旧道は既に封鎖されていて誰もたどり着けないはずの場所だ。けれどもその神津旧道に入ることができれば、そこは辻切が丘つじきがおかの下を通る旧道トンネルに繋がり、そこから黄泉の国に繋がっているという妙にファンタジー味のある噂だ。

 正直なところ俺は、信じていなかった。


 その日はたまたま新年会を兼ねた高校の同窓会で、辻切の煉瓦坂れんがざかのバルで飲んでいた。

 みんな就職して3年ほどのタイミングだ。話題の大凡はそれぞれの会社の愚痴で、その時意気投合した、というよりたまたま隣に座ったのは武仲たけなかという男だ。高校のときはそれほど親しくなく、話した記憶も特にない。けれど武仲は俺と同じように、いや、俺以上に酷く落ち込んでいて、重いため息をついていた。

「武仲、飲み過ぎじゃない?」

「飲みたい気分」

「まあ、正月だからね」

「さっきまで仕事してて、逃げてきた」

 武仲の会社はいわゆるブラック企業らしい。本来正月は休めるはずだったが、実際は三が日の夕方の先ほどまでずっと会社に詰めていたそうだ。そして明日も当然仕事。

「やってらんねぇ」

「そう、だな」

 俺の会社もたいがいだが、聞いた話、武仲の会社ほどでは全然ない。明日と昨日が仕事なのは同じだが、今日は一日休みだった。……他のホワイトな奴らに比べるとおそらく俺と武仲は五十歩百歩で両方とも酷いブラックなのだろうが、そこに立ってみれば差分の五十歩は果てしなく大きい。

 だから酷く顔色が悪い武仲に同情的だったのは否めない。

「もう帰って休んだほうがいいんじゃない?」

「休みって何なのさ。今寝たら朝起きればまた会社じゃんく。だから一回リセットしたい。そうじゃなきゃやってられるか」

 武仲はそう吐き捨てた。

 気持はわかる。ブラック企業に休みなんかない。おそらく本来、武仲もこの休みのはずの時間でもやるべき仕事を持ち帰っている、はずだ。俺の鞄にも資料が入っている。だからこそ、忘れたくて来た。帰れば寝る時間はないかもしれない。それでも俺は今日の昼間寝ることができた。


「気分転換、か」

「このまま異世界転生でもしたいな」

「俺も。チート無双したい。武仲は?」

「俺? 俺はもふもふ農業スローライフ」

「いいね。フェンリルとか」

 武仲から再び深い溜め息が漏れた。農業がしたいわけじゃない。ここじゃなければどこでもいいんだ。ここじゃないどこか、か。

坂巻さかまき、肝試しでもいく?」

「肝試し?」

「そう。幻の神津旧道。こっから近い」

 神津旧道はこのあたりの子どもなら一度は探したことがある場所だ。そしてこの煉瓦坂から神津旧道があった場所までは直線距離で徒歩15分ほどのはずだ。たどり着けるのなら。


 新年会が終わって二次会に行く気もなれず、かといってすぐに帰ろうとも思わなかった。帰ったら仕事をしないといけない気になるはすだ。もう少しだけ気分転換がしたい。冷たい木枯らしが吹く中一体何をしてるんだろうと思いながらフラフラと散歩して気がつけば、武仲と二人で神津旧道に立っていた。いつのまにか見知らぬ路に立ち入っていたらしい。そうして目の前に古いトンネルが現れてようやく、そこが神津旧道じゃないかと思い至った。たどり着けるとは思っていなかった。

「まじかよ」

「ここを潜れば異世界に行けるのかな」

 武仲の声を少しだけ夢見がちに感じた。

「崩れそうだから帰ろうぜ」

「でもさ、坂巻。ここにはもう二度とこれないかもしれない」

 そもそもここは都市伝説の場所だ。武仲の言うことはわかる。ここに来たなんていうのも眉唾だ。けれども眼の前に広がるトンネルの奥は、何の光も差し込まない身震いのするような闇だった。当然電灯なども点いていない。こんな中を歩くなんて正気の沙汰じゃない。けれども武仲は一歩を踏み出す。

「おい」

「何もなければ帰ってくるだけだよ」

「そりゃそうだろうけど、危ないぜ」

「今以外いつ行けるっていうんだよ」

 吐き捨てるように振り返った武仲の瞳は僅かな星明かりをキラリと反射した。それは時間という意味でも、場所という意味でも当てはまる。きっと武仲はこの闇よりも暗いところにいるんだろう。俺よりほんの少しだけ闇深い場所にいる武仲を放っては置けず、気づけばその後を追っていた。

「うわっ暗っ」

「おい、スマホのライト消せよ」

「なんで。転んだら危ないじゃん」

「光が見えなくなる」

「光?」

「早く」

 しぶしぶライトを消したが、真っ暗闇だ。光など何も見えない。自分がまっすぐに立っているのか不安になる。

「ちょっと武仲。何も見えないんだけど」

「このずっと先がほんの少しだけ明るくなっている」

「どこだよ」

 武仲が俺の手を取り歩き始める。

「すごく小さい光だ」

 目を眇めても、光など見えない。

 カツカツと革靴が硬い石を叩く音は次第に周囲のトンネル壁に反射して拡散し、奇妙な唸りとなって耳に戻ってくる。進むにつれ、自分の吐く息さえもハウリングしている気がした。石に囲まれたこの場所はじめじめと冷たく、足元から冷気が立ち上る。つなぐ手だけが暖かい。

「武仲、帰ろうぜ」

「もうすこしだ。そろそろお前にも見えるだろ」

 そう思って顔を上げ、目をこらして初めて、闇の中で白くぼうとした光を見つけることができた。

「出口かな」

 見えてしまえばそこからは早く、少しだけ早足になる武仲に慌ててついていき、そして闇が切れた。困惑した。そこはとても暖かかった。春のようだ。たくさんの木々が実をつけ、花が咲き乱れている。

「なんだここ」

「桃源郷感があるな。まじで異世界?」

 武仲の声は心持ち嬉しそうだ。

 そう思えるほど、植生が何かおかしい。一番手前に実っているのは桃や山葡萄で、少し先には林檎やバナナ。椿とひまわりが咲き、奥に行くほど見たことがない植物が花や実をつけている。そして俺はここをとても気持ち悪く感じた。けれども武仲はそうでもないらしく、すたすたと先に進み見たことのないオレンジ色の実をもぎ、止めるま間なくかじりつく。

「おい武仲! 吐き出せよ! 毒かもしれないぞ?」

「坂巻、めっちゃ美味いよ。お前も食べてみたら?」

「いや、遠慮しとくわ。それより早く帰ろうぜ」

「嫌だ」

 武仲はきっぱりとそう述べ、なんでもないことのように手近にあった緑色の実を追加でもぐ。

「おい、やめろよ」

「どうせ1つ食べたら2つも3つも同じだよ」

「なあ武仲、俺は早く帰りたい。ここはなんだか嫌だ」

「こんなに温かいのに?」

「暖かい?」

 改めて思い至る。ここはとても暖かい。トンネルの外よりもずっと。それに花や木々は綺麗だ。でもそんなことよりここは不自然だ。冬と夏の花が同時に咲いているから? 秋と春の実が同時に実っているから?

 違う。そんな目に見えた不自然さじゃない。心の底からここは気持ち悪かった。

「坂巻。先に帰れよ」

「お前一人おいてけないだろ」

「大丈夫だよ、トンネルは一本道だったから、振り返らずにまっすぐ帰れば戻れる」

「振り返らずに」

「そう、帰るときはトンネルを出るまで振り返っちゃ駄目なんだよね、多分」

 武仲の呂律はなんだか少し怪しかった。放ってはおけない。そう思ったけれど、ここに居続けることは生理的に無理だった。

「必ず帰れよ!」

 そう言い捨てて振り返る。トンネルはすぐ近くに見えた。

 何故だか濃くなった草木を掻き分ける途中、左指の人差し指に痛みを感じた。思わずそちらを向けばヒバのような木が生え、その表面は樹皮がひび割れささくれていた。それがきっと、指に刺さったのだろう。急いでトンネルに飛び込めばその先に光が見えた。そのことに違和感を感じたが、最早一秒でもここにいたくはなかった。光に向かって一目散に駆け、トンネルから出た時、街灯の青白く冷たい光にほっと胸をなでおろした。そこは正しく寒く、コートの襟をたてれば背後から生ぬるい風がふいてきてうなじに触れる。

 思わず振り返りそうになり、思いとどまる。

 振り返ってはだめだ。武仲のその言葉は棘のように心に突き刺さっていた。チクリとした痛みが指先をおそう。改めて電灯の下で見てみれば、指先にトゲが刺さっていた。思いの外、深そうだ。あのヒバに触れた時に刺さったのだろう。

 武仲のことが気になりながらもアパートに戻り、ピンセットで棘を抜いて絆創膏を貼る。俺の指先もささくれていた。


 翌朝、やけに重だるい気分で起床し、左人差し指が熱をもっているのに気がつく。ひょっとしてバイキンでも入ったのかと思っておそるおそる絆創膏をめくってみれば、指先は赤く腫れていた。消毒液をかければわずかに染みた。

「坂巻、昼に病院行って来い」

「え?」

「倒れて労災になると面倒くさいんだよ」

 俺のデスクを覗き込む部長が実に嫌そうに呟いた。

 昼に病院に行けば混んでるし、飯が食えないじゃないか。ぼんやりとした頭でそう思えば、視界が霞んだ。体を動かすのが随分と億劫だ。それでも少し先の病院の待合室に座り、もうすぐ昼休みが終わるから戻らなきゃと思ったタイミングで呼ばれた。

「棘が刺さってますね。それが炎症を起こしています」

 初老の医者が目をしょぼしょぼとさせながら指を見る。

「昨日、抜いたんですけど」

「奥の方が残ってたんじゃないですか。中で折れたり砕けて破片が残って、それが芯になって魚の目になったりもしますからね。すこしちくっとしますよ」

 医者は無理やりピンセットをつっこみ、痛さに思わず叫びそうになる。からりとトレイに茶色い小さな木の破片が投げ入れられる。

「これ、何の木ですか」

「そりゃわかんないよ、こんなにちっちゃいんだもの。消毒しとくから安静に」

 昨日見た時と比べて随分とささくれていた指先に消毒液はやはり染み、じくじくとした痛みに会社に戻って残業に突入する。いつもより酷く効率が悪く、頭の中はなんだかぼんやりしつつ、武仲のことを思い出す。

 武仲はちゃんと帰れただろうか。武仲に電話しようと思って、番号も何も聞いていなかったことを思い出す。そんなことをうっすらと考えつつ、気づけば明るくなっていた。


「おい坂巻。昨日泊まったのか」

「……そうです」

「昨日より酷くなってるぞ」

 部長に言われて見た左人差し指は、包帯の上からでも明らかにわかるほど膨れ上がっていた。

「おかしいな、昨日棘は抜いてもらったんですが」

「棘?」

「そうです」

「それ、まだなんか刺さってるんじゃないか」

 そう言われて、ズキリと指先が痛くなる。包帯を剥がしてみても腫れ上がっていてよくわからない。

「ちゃんと病院いったのかよ」

「行きましたよ。ちゃんと包帯してるじゃないですか」

「変な病気なんじゃないだろうな」

 じろりと睨まれて居心地が悪くなる。俺だって好きで具合が悪いんじゃない。

「昼休みに別の病院に行ってこい」

 また昼飯抜きか。そう思うとうんざりしてくる。指先を見た。まるで桜桃のように腫れているが、今日は不思議と痛みがなかった。そうして午後に別の病院に行き、首を傾げた。

「棘が刺さっています」

「棘……でしょうか。昨日別の病院に行って抜いてもらったところなのですが」

「そんなこと言っても影が見えるもの」

 モニタのレントゲン画像を見れば、素人の自分にもわかるほどくっきりと細長い棒が指のシルエットの中に埋まっている。

「切開して取るけど、いいよね?」

「はい」

 手術自体はすぐに終わり、再び指に包帯を巻かれ、処方された抗生物質と痛み止めをぼんやりと受け取る。取り出されたのはやはり細い木の棘だ。5ミリほどの長さだろうか。昨日別の医者で抜いてもらったものより随分長い。

 けれどもやはりその翌朝。


「んだよ坂巻、気持ち悪ぃな」

「あ、部長?」

 ぼんやりと目を開ければ、部長が俺の左手を指さしていた。目を移せば、包帯が茶色く変色している。不思議と痛みは全くなかったが、指先に触れてもあまり感触がない。そもそも麻痺しているのかもしれない。あたまが随分重たい。

「すいません、棘を抜いてもらったんですが」

「棘? それお前から生えてんじゃねぇの?」

 部長の嫌そうな顔にいたたまれず、消毒液と包帯をもって洗面所にいく。ひどくあたまがぼんやりとふらつく。包帯をほどき、奇妙なことに気がついた。腫れ上がりささくれだった指先は茶色く変色していて、その表面に木の棘のような突起が突き出していた。いや、突起なのか変色して固くなった指のささくれなのかはよくわからない。けれどもどうみても悪化している。

 この棘はいったいどこで刺さった。一昨日からずっと包帯を巻いている。何かが刺さればわかるはずだ。一つだけ、思い当たることがあった。だから確かめるためにその日は病院にいかなかった。


 きつく包帯を巻いた翌日、ぼんやりと目を開ける。

 会社の天井の電灯はつけっぱなしで昼か夜かわからないが、窓の外をみれば明るい気がした。酷く目が霞む。そうして左手に目を移せば、包帯の隙間から棘が5ミリほど飛び出ていた。その先端をつまみ、力をかける。棘を抜くときに抵抗を感じ、指の奥が刺すように痛んだ。ささくれをつまんでむいたときのような痛み。恐る恐る包帯をはがせば、指先は茶色く硬いささくれでごわごわしていて、それはあのヒバのような木の皮を連想させた。

 お前から生えてんじゃねえの。

 部長の言葉が浮かぶ。そんなはずはない。 けれども何度思い返しても、他に何も浮かばなかった。この指の原因は、そしてこの棘の正体はあのヒバ以外考えられなかったからだ。

 武仲は帰ったのかな。どっちみちあの木のところにいかなければしようがない。そんな気持ちが心の中を占めていた。まだ誰も出社していない。神津旧道は会社からもそんなに遠くない。だからみんなが来る前に戻ってくれば、問題ない。そう思って起き上がろうとしてふらりと膝が傾く。

 道も覚束ないままよたよたと歩き、朦朧としつつもいつのまにか神津旧道のトンネル前に出ていた。そしてヂヂヂという音で見上げて、街灯が点いているのに気がついた。

「あれ? なんで夜なのに」

 思わずそう呟いて、昼のようにうす赤い空に更に明るい星が点々とまたたいているのが見えた。そうしてトンネルの奥を覗き込めばやけに明るい。そして以前ほどその中が恐ろしくは感じなかった。足を一歩踏み入れればずっと先に光を感じた。このあいだ武仲と入ったときは真っ暗闇で何もみえなかったのに。

 おそるおそるトンネルの中をしばらく歩き、あの草木が生え広がっている場所につく。ふと後ろを振り返れば、先程まで明るかったトンネルの内部は闇に満ちていた。


「武仲? 武仲いる?」

 なんとなく、武仲が近くにいる気がした。おそるおそる奥に進めば、声が聞こえた。

「あれ? 坂巻? 帰ってきたの?」

「お前は帰らなかったのか?」

「ああ。久しぶりに休んだ気分だよ。ここの果物はどれも美味い」

 そうして俺はようやく声の主を見つけ、慄いた。

「坂巻もここの食べ物を食べたの?」

「いや」

 食べてはいない。けれども棘が刺さった。

「じゃあ振り返った?」

 それはまだトンネルに入る前、ヒバのような木のほうをむいた。あのヒバは後ろにあったのだろうか。わからない。

「棘がささったんだ。これを抜いてほしいんだ」

「棘? もうここにいれば? 快適だよ」

「そんなわけにはいかないだろう。戻らないと」

「なんで」

 何でって。俺は何であんなところで働いているんだ。ずっと働いていて、給料も安い。ただ、毎日を消費しながら生きている。

「ここは食べ物には困らなさそうだよ」

 たわわに生い茂る果物。けれどもここは人間がいてはいけない場所だ。だから、武仲はすでに人ではなくなっている。武仲の体からはところどころ枝が生えていた。そのうちきっと、完全に木になるんだろう。そして新しい実をつける。このままでは俺も同じように木になるのかもしれない。ぶるりと背筋が震えた。

「俺は嫌だ」

「そう? 楽しいよ」

「嫌なものは嫌だ」

「何で」

「……怖い」

「なってみれば悪くない」

 そう呟く武仲はどことなく幸せそうだった。

「考えても見ろよ、ブラック企業で馬鹿みたいに働いてたって、過労死するだけだぞ」

「それは……でもここはなんだか嫌なんだ」

 それは理屈ではなかった。この暖かい楽園のような場所はとても気味が悪く、今もすぐに逃げ出したい……気分でもないことにも気がついた。俺の左指先。すでに木になりたがっている部分はここを心地よく感じている。それを未だ人の俺の脳が激しく拒否する。

「棘を抜きたい。持って帰るつもりはなかったんだ。ただ、刺さって」

「……そう? どうしてもっていうなら刺さった木に謝ったら良いんじゃない? ここの木は嫌なことはしないよ」

 嫌なこと。たしかに木が俺に刺さるように近づいたわけでもないのだろう。俺が先に触れたんだ。武仲が実をもいだときのように。どれが俺のヒバの木かはすぐにわかった。左指先と繋がっている木だ。その前まで歩き、正面に見る。多分、ヒバの木。確かに敵意は感じない。ただ、俺ではないと感じるだけだ。

「先日は触れてすみませんでした。俺からこの棘を取り除いてくれませんか」

 ざわざわと風もないのに木が揺れる。心臓がドキリと揺れる。恐ろしくはない。それはすでに俺の指がこの木になりかけているからかもしれないし、やはりそもそも敵意はないのかもしれない。包帯を解けば、指先から1センチほどの長さに棘が突き出ていた。ささくれたヒバの表面に触れれば、奇妙な感覚とともに棘が引き抜かれる感覚がした。そして俺の指の表面のささくれもまとめて引き剥がされ、思わず叫び声を上げた。みれば左人差し指は血まみれで皮が剥がれ、ぽたりぽたりと血が流れている。

 けれどもこれで、棘が抜けたと感じた。何故ならこの奇妙な世界が少しだけ薄暗くなったからだ。あとは振り返らずに帰ればそれでいいはずだ。

「武仲。俺は帰るよ。じゃあな」

「本当に帰っていいの?」

 わからない。けれどもこれに返事をしてはいけない気がした。今度は何にも触れないようにトンネルに急ぐ。トンネルの出口が明るく四角に浮かんでいる。急ぎ足で駆け抜ける。そうしてあと一歩であの街灯の下に出ようとする時、急にあの武仲がいた場所が遠ざかったのを感じた。

 ここはもとより都市伝説の場所だ。あと一歩踏み出せば、おそらく二度とここにたどりつくことはできないだろう。そんな予感がした。

 暖かくすごしやすそうで、食べ物に困らず働かなくていい場所。けれども人が住めない場所。その中で武仲は幸せそうだった。けれども人がいるべき場所じゃない。そう強く思っている。今でも。けれども武仲は人であることをやめたのだ。俺と武仲との間になる五十歩。それが俺と武仲の世界を分けたのかも知れない。それで、幸せになれたのだろうか。

 様々な記憶が去来する。楽しかった学生時代。なんで生きているのかわからない今の暮らし。

「本当に良いの?」

 耳元で武仲の声が聞こえた、気がした。


Fin

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