ささくれ

もと

ささくれ

 朝から母さんの機嫌が最悪だった。玄関を出て一歩、靴紐がほどけた。自転車の鍵が一発で入らなかった。今のところ信号は全部、赤。くだらない事で苛つくのは『テメエはまだまだ子供』だと思い知らされてるみたいで、なんというか、もう。

 早く大人になりたい、というか早く一人暮らしがしたい。卒業から一週間で部室に遊びにきた先輩、大学に行かないで就職した先輩はキラッキラしてた。スゲえ羨ましかった。寝る時間も気にしない、好きな物を好きな時に食べる、働いたら働いた分だけ遊ぶ金がある。スゲえ世界だ、なんで誰も教えてくれなかったんだろう。

 もう俺も受験勉強なんかしない。ほらアスファルトの白線がキラキラし始めた。学歴なんか無くたって生きていける、電線越しの青空が眩しい。そういう人って今はゴロゴロいるじゃん、次の信号は青。多様化ってヤツなんでしょ、イイ時代に生まれたよなー、なんて横断歩道のど真ん中、トラックがいた。

 トラックがいた、というか、トラックが目の前に、いや、ヘンな気配がして横を見たらトラックがいた、これぐらいが正しい。

「あ、死んだかも」いざという時って、こんぐらいしか出てこないもんなんだな。

 あー、俺のキラッキラの未来が。

 思い付いたばっかりの、未来が……――


「あれ? 死んでない?」ビックリし過ぎると、こんぐらいしか出てこないもんなんだな。

 あー、良かった。

 んー、あんま良くないかも?

 耳が変だ。なんも聞こえない。「あー、あー」自分の声は聞こえる。目も変なのかも知れない、ゴシゴシしてみる。自転車から降りる。前後左右、一応、空と地面も確認。なんか薄い? というか薄っぺらい? 変だ。

 だって誰もいない。

 あんなに、熱まで感じるほど近くにいたトラックもいない。それどころか見渡す限りの道路に、車道に、横断歩道の真ん中なのに車やバイクは一台も無い。一緒に信号を渡りだしたはずの小学生も、前と後ろに子供を乗せたママチャリも、こっちに渡ろうとしてたスーツの人もいない。コンビニに入ろうとしてた人も、中で立ち読みしてた人も、店員もいない。

 朝の空気のまま誰もいない。

 あ、コレって死んだのかも。 だってあれだけトラックが近くにいて俺が生きてる可能性って超低いと思う。なんだ、そうかもな。そっか。結構、だいぶ想像と違うな。

 一瞬でもキラキラして見えた青空、もう眩しくもない。

 とりあえず……ウチに帰ってみようか。自転車に、あ、自転車も無い。歩くか。なんとなくアチコチ見てしまう。誰かいないかなって、なんか落ち着かない。ふと振り向いたらコンビニが消えてた。横断歩道も、街路樹も家も、真っ白じゃないけど無いのは分かる。その代わりなのか、見てる方向にいつもの通学路が出てくる感じ。なるほど、俺を中心に丸く世界がある。それって多分、何も無いのと一緒だと思う。

 これが死んだ後? 角を曲がると思い出したように道と景色が生まれる。

 結構アレだな、想像と違う。雲の上に花が咲いてて暖かくて明るくて、羽根とか生えて頭に輪っかがあるヤツになるのかと思ってた。でもまあ日本人だし、純和風な天国行きなら手を合わせてれば御釈迦様か仏様のいる所に着くのかも、とか。後は異世界に転生とか、いやせっかくトラックに轢かれたっぽいし、あるかなって。

 今のトコそんな気配、全く無い。

 次の角を左に行けばウチが出てくる、もう出現して出てるかも知れない。きっと誰もいなくて……あ、もしかして、ここって地獄? かも? いや、なんか多分だけど地獄じゃないかな? だって静かだし、静か過ぎるし、ひとりって、永遠に一人ってコト? あれ? 俺なんか悪い事したっけ? なんもしてないよな? あ、何もしてないから地獄に来ちゃったとか?

 体温はあるらしい。片手じゃ震えて上手く開けれなかった玄関、両手で開けようとしたらビックリするほど冷たくなってた指先、鍵は開いてる、誰かいるかも、誰もいないだろ、誰か、誰かというか、母さん……鍵は、開いてた。

「……ただいま」

 いやー途中で死んじゃったみたいだから帰ってきたよー、とは言えなかった。背中でドアが閉まる気配、ガチャンともウンともスンともいわない、聞こえない、「おかえり」も、「なにしてんの」も、何も聞こえなかったから。

 短い廊下、リビングへ。

 中は特に何も変わってない。ソファーもあるし、テーブルも、リモコン、あ、テレビあるじゃん、うん、つかないよな、うん、そうだと思った。

 物を置いてもテーブルを叩いてみても音はしない。「あー」自分の声はある。ソファーに飛び込んでもボフッとかいわない、聞こえない。

 ……なんだこれ? 何もかもがココ地獄かも説を後押ししてる。朝メシ食ったばっかだったし腹が空いてるかは分からない。眠くはない。エロ動画を脳内再生、ピクリともしない。

 参ったな。見慣れた天井、見慣れた壁、俺の家。

 いつまでこんな、ずっと一人で? 終わりがいつかも分からないのに? 終わらないかも知れないのに? 死んだの? やっぱり? 死にたいなんて一言も、なんだよあのトラック信号無視じゃん、やりたい事がまだ、なに死んでんだよ、これから俺スゲえ大人になったかも知れんのに、まだ、なんなんだよ、マンガ借りパクしちゃってるし、今年でやっと三年になって部室で偉そうに出来んのに、来週みんなでカラオケ行こって、父さん日本代表のチケット取れたって、母さんに、なんで今日に限って、ちゃんと朝メシ「ごちそうさま」って言えば良かったじゃん、俺バカみたいに不貞腐れて、そりゃ母さんも不機嫌になるよなバカ息子が朝からムスッとしてさ、こんな、こんな所で何すりゃイイのさ、ふざけんなよ、まだ、まだ――クソが! なんだよ?! なんなのマジで?!


「あれ? また死んだ?」まばたきの一瞬で天井が変わった。真っ白に明るくて、なんだよ? 家の天井どこ? 今度はどこ? ココどこ? おっと? これって起死回生ってやつ? 病院じゃね? 音が、心電図じゃね、ドラマみたいじゃん、ヤバい聞こえる音が足音とか車とか人の呼吸みたいなコレ俺の息の音か、ヤバい外がある、救急車の音じゃん、生きてんじゃん生きてるかも痛いし俺生きてるヤバい俺、生きてる!

 ――よし、まずはせっかくだし落ち着いて生きよう。俺に気付いてもらえるまで結構待った。テンション爆上げのまんまで、左横の窓が黒から灰色になって紫になってうっすーい水色になって白く明るく青くなるのを見てた。朝じゃん。朝来たじゃん。

 目が合って「あっ」とかビックリした看護師さんが走った。「おお?」って呼ばれてきたお医者さんと、まばたきで会話。ちょうど一週間寝てたらしい。そっか、地獄じゃ一週間があんな一瞬だったのか、ヤバいな。目を閉じるのが少し怖いってのは伝えられなかった。閉じて開けたらまた地獄とかイヤじゃん。でも、なんとなくこんだけ体中痛かったら大丈夫な気がする。もう、死なない。もう、あんな地獄には行かなくて済んだんだと思う。

 しばらくしてからスッ飛んできた父さんと母さんには「よっ、ただいま」って言いたかった。泣くなよって。二人の手握るの、ていうか触るのすら何年ぶりだろうね。駐車場とかで手を繋いでくれてたのは小学生までだったかな。父さんの手、小さくなった。母さんの手、ガサガサじゃん。そっか、そりゃ機嫌も悪くなるよな。こんな手で朝メシ作って洗い物してたら。指先、皮までめくれて痛そうだな。ごめんって、こっちがゴメンナサイなんだけどな。なるべく良い息子になるよ。ちゃんとイタダキマスとゴチソウサマが言えるぐらい素直に、正直に、後悔しないように頑張るからさ。

 ……だから、だからさ、寝たきりって何、なんの、誰の話してんの? 嘘だよね? 冗談でしょ? それって年取った人が、おじいちゃんとかおばあちゃんの話でしょ? 俺じゃない、やめてよそんな話、だっておかしいでしょ生きてるのに起き上がれないなんて指は動くんだから声は出ないけど思ったようには出ないけど足は動かないけど触られても分からんけど生きてるだけで奇跡とか頭おかしいんじゃないの動けなかったらどうすんの、ねえ、ねえってば、俺どうすんの、どうなるのさ?!


 ――……アッチは誰もいなくて、何もなくて、無音の世界。

 コッチは家族と友達がいて、何も出来なくて、うるさい世界。

 アッチでは痛いトコも無くて、コッチでは体中が軋んでて、アッチでは見れなかった顔が、コッチではみんながみんな初めて見るような表情で、アッチは死んでるけど死ぬほど静かで、コッチは聞きたくない事も聞こえるぐらい騒がしくて、アッチとコッチで、どうせなら行ったり来たりして、アッチコッチあっちコッチアッチコッチアッチコッチあっちコッチアッチコッチこっちで行ったり来たり行ったり来たり行ったり来たり行ったり来たり行ったり行ったり行ったり出来たらイイけど練習してる。

 「ごちそうさま」って言う練習、してる。




 タイトル

 『人が腐るなら背中からだろうって実感してる』

 おわり。

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