「絶対に開けてはいけない箱」を異世界の聖女が元の世界に戻ろうとする俺に渡してくる

黒上ショウ

「絶対に開けてはいけない箱」

「この箱は、あなたの世界に帰っても、絶対に開けないでくださいね」


姫様は、宝石が散りばめられた箱と鍵を、笑顔で俺に差し出してきた。


王家の紋章が刻まれた宝箱は、蓋を開けるまでもなく美しく輝いて、貴重なアイテムだとわかる。


「ありがとう。でも俺はこの世界に来てから、姫様にいつも優しくしてもらい楽しく過ごしていました。豪華な贈り物などなくても、俺はあなたとの冒険の旅を一生忘れることはないでしょう」


姫様に向かって、俺は長い時間をかけて敬礼し、感謝の気持ちを伝えた。


箱の受け取りはお断りしたい、という気持ちも伝わっているといいのだが……。


「ああ……なんて謙虚なお方。竜魔王ペンタメローネを倒し、ベルデ火山を乗り越え、地底世界に潜む冥府の邪神アミースにも打ち勝ってこの世界に平和をもたらしてくださったのに、何も受け取らずに元の世界にお帰りになるのですか?」


いや、俺は謙虚でもなんでもなかった。


宝石や黄金をもらえるなら、袋に詰められるだけ詰め放題して、持ち帰りたいくらいだ。


でも、俺の元の世界のお約束的な問題で、この「開けてはいけない箱」を持って帰るのは回避したかった。


「そんなあなただからこそ、わたくしはこの箱を贈りたいのです」


残念だが、俺の気持ちは伝わっていなかった。


「王家の紋章が刻まれたこの箱を、わたくしがあなたに贈る意味をわかってくださいますよね……?」


姫様は、上目遣いで照れた表情をして俺を見つめてくる。


普段はいたずらっぽい姫様のストレートな可愛い姿に、心が揺らいだ。


「わたくしはまだ婚礼の儀を執り行えません。けれど、あと2年聖女の修練を重ねれば、次の王妃として夫を迎えられます」


赤く染まった頬で、俺と目を合わせたまま姫様は続ける。


「あなたが元の世界に戻ってしまうとしても、わたくしはこの婚礼の儀の箱を、あなたにお渡ししたいのです」


直球で気持ちを言葉にして、姫様は両手で箱を俺に差し出した。


ここで、いいえ受け取れません、と言うほど俺は野暮でも鈍感でもない。


「ありがとうございます。俺も姫様と同じ気持ちです。この箱、謹んでお受けいたします」


俺は手を伸ばし、姫様から箱を受け取った。


差し出された姫様の手と俺の指先が触れ合い、姫様の瞳が俺の瞳をさらに強く深く捉える。


「俺はどうしても元の世界に戻らなければなりません。けれど、あなたのお気持ち、優しい心、可愛らしい性格、美しい瞳、二人で過ごした思い出すべてをこの箱の中にしまって、持って帰らせていただきます」


だいぶカッコつけたセリフになってしまったが、俺の本心だ。


元の世界に姫様を持って帰れるものなら持って帰りたいが、姫様は国を背負う女王としての責務が待っているし、俺は姫様は好きだが、国を背負うほどの器も覚悟もないし、元の世界でやり残したこともある。


やり残したことの内容が、シリーズ物のゲームの最新作や漫画の続刊なのは黙っておくが……。


箱を胸に抱えた俺を見て、姫様は満ち足りた表情で目を閉じた。


そして、いつも戦闘のときに使っていた聖女の杖を両手で持ち、初めて出会ったときに聞こえた呪文の詠唱を始める。


姫様の足元に浮かんだ青紫色の光の魔法陣が、俺の足元へと移動してくる。


俺の身体が、召喚されて転生した時と同じ、光の粒に包まれるような感覚に染まっていく。


姫様と目が合う。


「元の世界に戻っても、お元気で。その箱、絶対に開けないでくださいね。開けたら、私の気持ちがあふれ出して大変なことになっちゃいますから」


姫様の目元には少し涙が浮かんでいたが、いたずらっぽく微笑んで、呪文の詠唱を再開する。


俺は、結局受け取ってしまった箱を抱えながら、それ以上は何も言わずに、姫様の最後の詠唱を目に焼き付けていた。



現実世界に戻って1年が経った。

シリーズ物のゲームの最新作はクリアしてしまったし、結末が気になって仕方がなかった漫画もあっさりと完結してしまった。満足のいくエンディングだったが。


朝起きて、学校へ行き、授業をなんとなく受けて、放課後に友達と遊んだり、新しく連載が始まった漫画を読みふけりながら、日々が過ぎていく。


俺は選択肢を間違えたのだろう。


あの時、勇気を出して異世界に残る決断をするべきだった。


今、俺が過ごしているのは、変わらない日々のノーマルエンド。


安心な生活と安全な娯楽はあるが、きっと異世界で体験した、命と情熱を剣に込めた、おとぎ話のような大冒険に遭遇することはきっともうない。

姫様のように心の奥底まで通じ合える女性と会うことも。


そんなことを考えていたら俺の手は、勉強机の一番下の引き出しにしまっていた、あの箱へ自然と伸びていた。


両手の上に乗るくらいの小さな、けれど宝石と姫様との思い出が散りばめられた箱。


1年間が過ぎても、見るたびに色褪せない思い出をよみがえらせてくれる箱。


箱を机の上に置いて、黄金の小さな鍵を右手で弄ぶ。


「絶対に開けないでくださいね」


婚礼の儀式に使う箱を、さっさと元の世界に戻ろうとする男に渡した姫様はどんな気持ちだったのだろうか。


思い出すと、自分の勇気のなさが情けなくなる。


「開けたら、わたくしの気持ちがあふれ出して大変なことになっちゃいますから」


今の俺は、箱を開けて何が起こったとしても、姫様の気持ちに触れたかった。


右手に持った金の鍵が、箱に近づいていく。


コツン、と箱の鍵穴に鍵がぶつかると、異世界のアイテムの手触りがリアルに感じられて、吸い寄せられるように鍵は穴の奥へと入っていき、俺は覚悟を決めて鍵をひねった。


箱の蓋がゆっくり開き、暗い闇のような内部から、白く濁った煙があふれ出してきた。


その煙には見覚えがあった。

召喚の魔法陣の周りに立ち込めていたあの──。



「この箱は絶対に開けないでください、と言いましたよね?」


目を開けると、異世界の召喚の間の石畳と、楽しそうに笑みを浮かべて小さな箱を手に持つ姫様が俺の目に映った。


俺は何も言えずに、久々に見る姫様の瞳をじっとみつめる。


「元の世界でやり残したことは、終わりましたか?」


姫様はいたずらっぽく俺に微笑みかけてくる。


「あー……うん。はい」


俺は気まずい気持ちを抱えながらも、姫様の目をしっかり見ながら答えた。


「そんな顔をしないでください。わたくしもこの箱にいたずらを仕掛けてあなたに渡したんですから」


「開けたときに召喚の魔法陣が浮かんできたのは……」


「はい。婚礼の儀に使う大事な箱ですが、この世界に訪れる意志を持った者が開けたら魔法陣を展開するように大改造……いえ、ちょっとしたいたずらを仕掛けていました」


悪びれることなく笑顔で説明する姫様。


「あなたが元の世界に戻ってから、婚礼の儀の準備は進んでいません。わたくしがサボっているのもありますが、儀式で使う指輪の片方が箱ごと消えてしまって、聖騎士団が国中を捜索中ですからね」


俺の足元を見ると、魔法陣があった場所に姫様が持っているの同じデザインの、宝石が散りばめられた箱が転がっていた。


俺はその箱を大事に手に取り、姫様に向き合った。


「一緒にお父様とお母様のところへ行って怒られてくれますか? わたくしの騎士として」


いたずらっぽい聖女の笑み。

これが見られる場所に、俺は居たい。


「はい。喜んで」


国王と王妃がどのくらい怒っているかわからないが、俺は先立って石畳の上を歩き始め、姫様のために召喚の間の扉を開いた。

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