制服は脱がない

壱ノ瀬和実

制服は脱がない


 箱嶌はこしま一華いちか、十五歳。彼女にはあだ名があった。


 自分は他人との壁を必要以上に作る人間だと自覚しているし、できることなら誰とも関わらずひっそりと生きていたいとも思っているが、しかしどうにも世の中というのはそれができないようにできているらしく、彼女は一人、腐れ縁ともいうべき相手と共に生きていた。

 一華は幼い頃から、その人物をデミオというあだ名で呼んでいる。

 彼は男であるにもかかわらず、その名前はどこをどう見ても女の子のものであり、それを一華が可哀想と思ったかどうかは憶えていないが、一華は彼にデミオというあだ名を与え、以後、他の誰も呼びはしないが、一華だけは彼をそう呼んでいた。

 デミオはそれを不服に感じたのか、一華にもあだ名を付けると言いだした。

「名前の『一』と箱嶌の『箱』を取って、ワンボックス、ってどうだ」

 一華は不満だった。

 自分はなかなかセンス良くあだ名を付けたのに、どうして名字と名前を入れ替えたのか、そのロジックに腹が立った。

「ボックスワンじゃ駄目なの?」

 と聞くと、デミオは、

「それじゃ語感が悪い」とだけ言って却下した。

「そんなことないでしょ」と反論をしたが、デミオは意にも介さない。

「ワンボックスがいい。絶対にだ」

 何とか抵抗しようと、一華は言った。

「長すぎる」

「長すぎるだと?」

 デミオは腕を組んで「うーん」と唸りだした。

「じゃあ、正式なあだ名はワンボックスだけど、呼ぶときは略してワンボにするよ」

「あだ名に正式も略もあるの?」

「あだ名は何でもアリだ。だから、アリだ」

 年上のくせに随分と幼稚だなと思うのは、当時もそう思ったのか、今振り返るからそうなのか、今となっては分からない。


 一華は目抜き通りを歩いていた。

 車通りはそこまで多くないが、人通りはもっと少ない。

 平日の昼間に高校に行かず、黒いブレザータイプの制服姿で歩くことに、背徳感を覚えることはもう無くなった。慣れもあるし、そもそもさほど罪悪感を抱いてもなかったというのも大きい。

 ただ、制服を脱ぐという選択肢はなかった。自分が何者であるか、これ以上分かりやすい名刺はない。それが枷になるときもあるが、補ってあまりある鎧でもあった。

 五、六歳くらいの少年が、道路脇の歩道で泣いていた。

「どうしたの」

 声を掛けると、少年は声にもならない声で、

「パン……落とじちゃっだぁ」

「パンを落とした? 家からもって来たの?」

 少年は首をブンブンと振って、ひっくひっくと泣いている。

 持ってきたということではないのなら、誰かからもらったか、すぐ近くにあるパン屋で買ったものだろう。近くに親の姿も見えない。買い物だった場合はおつかいということになるが、だとしたらそれらしい装いをさせるものだ。財布を入れておく鞄を持たせるくらいは、親がさせるに違いない。

 となれば、

「もしかして、パンを落としたんじゃなくて、買ったパンを入れたリュックをなくしたんじゃない?」

 少年は肩を上下に揺らしながら頷いた。

 少年はおつかいでパンを買った。パンをリュックに入れて、それをなくした。だとしたら、彼はそれを落としたのでも、なくしたのでもなく――。

「わたしが一緒にさがしてあげる」と言って、一華は涙と鼻水で濡れた少年の手を優しく握った。

 少年はずっと泣いている。あまり話しかけることはしなかった。一華はただ手を包み込んで、少年の歩幅に合わせて、パン屋へと歩いて行く。

 着くまでに三分と掛からなかった。少年が一人でおつかいに来るくらいだ。近くないはずがない。親と何度も来ているか、おつかいだって一度や二度じゃないのだろう。

 思った通り、少年のリュックはパン屋の店内、レジカウンターの前の床に置かれたままだった。

 会計をするために背負っていたリュックを床に置き、買ったパンをリュックに入れ、それを背負うことを忘れて店を出てしまったのだろう。

「あったよ」と言ってリュックを手に取り、しゃがんで少年に手渡すと、少年はリュックをぎゅっと抱きしめた。

「ありがと」鼻水を流しながら、涙声で少年は言った。

 家まで送ろうか、と言いかけたが、やめた。これは彼のおつかいなのだ。一人で帰ることに意味がある。一華は小さく手を振って、少年を見送ってから店を出た。何かパンを買っていけば良かったと、出てから思った。

 この世界は、一人では生きていけないように作られている。

 無視することはできた。

 素知らぬ顔で、通り過ぎてしまえば良かった。

 でも、そうはしなかった。

 自分が一人で生きていけないなら、他の誰かだって、きっとそうなのだ。

 箱嶌一華は制服という鎧を纏っている。今の時代、あの子を何の迷いも無く救えるのは、この鎧を纏った自分くらいしかいないのだ。

「よう、ワンボックス」

 店の前で声を掛けられた。

 一華をそう呼ぶのは、あの男しかいない。

「……長い」

 男は呆れたように息を吐いて言い直す。「ようワンボ」

「……なに」

「珍しいな。人助けか」

「珍しくない。人助けでもない」

「人助けだろ。あの子を助けた」

「助けることがその人のためになるとは限らないでしょ。だから、人助けじゃない。助けになったかどうかは相手が思うことだから」

「……そうか。お前らしいな」

 一華は黒いスニーカーで、コン、と軽く男のすねを蹴った。

「わたしらしさを勝手に決めつけないでくれる?」

「自分らしさなんて自分で分かるもんでもないだろ。俺がお前のその行動をお前らしいと思ったんだ。別に間違いじゃない。助けずにはいられなかったんだ。ワンボックスらしいじゃないか」

 スーツを着た銀髪の彼の名は、かなで実桜みお。女の子みたいな名前だが、随分と背の高い男だ。昔馴染みで、今でも何故か連んでいる。

 一華は制服のスカートを手で整えた。鎧であり枷でもあるそれを、自分の納得いく形に。けれど、今は少し、制服が重い。脱いでしまえたら良いと、時々思ったりもする。

「行くよ、デミオ。仕事は終わったんだから」

 一華は歩き始めた。デミオ――奏実桜もそれに続いて、大きな歩幅で、すぐに一華の隣に並ぶ。

「折角ならパン買ってこりゃ良かったのに。俺も食いたかったし」

「デミオにわたしがパンを奢るなんて、そんなの癪でしょ?」

「相変わらずケチくせぇな」

 二人は共に歩く。

 一人では生きていけないからではなく、きっとこういう生き方が、性に合っているから。

 目抜き通りを脇に逸れ、少し歩いた先にある目立たない一角。二階建ての面白味のない建物の二階。

 掲げられた看板は、シルバー&ブラック探偵事務所。

 銀色デミオと黒色ワンボックス。

 二人の探偵は、そこにいる。

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制服は脱がない 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam

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