【短編】現代社会の魔物

竹輪剛志

本編-現代社会の魔物

 魔物がいた。ああ、魔物さ。それは影の中にいる。

 暗い暗い部屋のなか、ベッドで眠る僕に話しかける。


「少年よ、何か一つ、願いを叶えてやろう」


 魔物は笑い、影の中に口が開く。はじめはそれが恐ろしくてたまらなかった。布団の中から怯えながら影の魔物を見る。けれど、だんだんと時間が経つうちのその恐怖は薄れていき、恐る恐る魔物に対して口を開く。


「何でもいいの?」


 その問いに対して魔物は「ああ」とだけ返す。


「だったらここからいなくなって」

「そんなつまらない願いで良いのか?」


 その問いに対して僕は「うん」とだけ返す。

 すると魔物は怪しげに笑って姿を消し、ただ最後に一言だけ残す。


「また来るぜ」


 魔物のいなくなった部屋は嫌に静かに感じられて、何だか魔物がいた時よりも不気味だ。その日は中々寝付けなかった。そして、窓から陽が昇るのを見た時にこれが夢では無いと理解したのだ。

 それから数日、僕は願いについてずっと考えつづけた。億万長者になろうとは思わないし、悠久の時を生きたいとも思わない。もし本当に何でも叶うとしたら僕は何を願えばよいのだろうか。


「……ちゃん、今日も塾の時間ですよ。準備して」


 家に帰ると母親はいつもこう言う。塾への車の中、僕は母に訊いてみた。


「もし願いが何でも叶うとしたら、何を願う?」


 すると母親は溜息をついて


「馬鹿な事を言うんじゃありません。あんたにはしっかり勉強して一流の大学に入ってもらうのよ」


 とだけ返した。

 母親は僕が言う事を聞いている時は機嫌が良く、逆に勝手な事をすると怒る。それで、母親は僕に勉強を頑張って欲しいらしい。だから、僕は勉強を頑張る。良い大学に入るとか、ましてや学びたいものがあるとかでは一切無い。

 それから長い時が経って、再び魔物は俺の後ろに現れた。


「青年よ、何か一つ、願いを叶えてやろう」


 影の中、記憶に鮮烈に刻まれていた声がする。朝で一人の自習室、他に誰もいない。


「志望校に受からせてよ」


 その願いに対して魔物は問いかける。


「何故そんなことを願う?」

「お母さんが望んでいるんだ」


 その答えに魔物は乾いた笑いで更に問う。


「そんなつまらない願いで良いのか?」


 その問いに対して俺は「ああ」とだけ返す。

 それから数か月後、俺は大学に受かった。母親は大いに喜んでくれた。


「将来は医者になって、お父さんの病院を継ぐのよ」


 数年後、私は大学を卒業し国家試験にも無事合格。母親の望み通りに病院を継いでいた。すると母親はこんな事を言うようになった。


「そろそろ孫の顔を見たいわね」


 妻はおろか彼女すらいたことのないこの身。どうしようかと思ったその時、魔物は再び私の後ろに姿を現す。


「壮年よ、何か一つ、願いを叶えてやろう」


 魔物は変わらぬ調子で言った。


「家庭が欲しいな」


 その願いに対して魔物は問いかける。


「何故その様なことを願う?」

「母さんが望んでいるんだ」


 その答えに魔物は乾いた笑いで更に問う。


「そんなつまらない願いで良いのか?」


 その問いに対して私は無言で頷く。

 それから程なくして、私は家庭を持ち妻は子供を二人産んだ。母親は孫の顔を見て喜び、私は一応の満たしを得た。そして数年後、母親は死んだ。老衰だった。

 通夜の帰り、夜。私は魔物と再会した。


「中年よ、何か一つ、願いを叶えてやろう」


 私は考えた。胸に穴が空いたような空虚の中、一つの願いが心のうちに湧きだした。


「……お前はいつもつまらない願いだと言う。だったらお前の思うおもしろい願いとは何なんだ? それだけ教えてくれよ」


 車を走らせながら私は問う。すると魔物は笑いながら答える。


「それはお前が一番良く知っていたんじゃないか? もうお前を縛るものは無いんだぜ」

「……そうだな。でも、もう遅すぎる。もう、何が欲しいのか分からない」


 欲求は全て、母から与えられた。僕は俺の本心という名の魔物を押し殺し、私になった。

 すると魔物は言った。


「満たされた状態で欲求は生まれない、違うか?」


 当然だ。人は足りないからこそ欲求を感じる。金を持って、妻と子供もいて、何一つ不自由の無い生活を送る私に欲求なんで生まれる筈が無い。

 たとえそれが与えられた欲求と結果とはいえ、私の心は満たされていた。けれど、満たしたモノが違う。麦酒で満たされたかった器は、ワインで満たされていた。だからこそ、欲求を得たいという欲求は永遠に満たされない。ならば……


「ありがとう、僕の魔物。そしてよろしく、私という名の魔物」


 車は自宅の前に、妻と子は今いない。今しか出来ない。

 私は私の心にたまったワインを吐き出すため、家に火をつけた。全てを失った心で、新たな欲求を得る為に。

 そうして、私は遂に魔物へと変貌したのであった。

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