第3話 お願いがあるんです。

 いつも通りの一日のはずだった。

 自分で決めたルーティーンに従って出社して退社して、家に帰ってタスクをこなして決まった時間に寝て――


 それがどうだ。目の前には今日から中途入社してきた社員が砂糖たっぷりのミルクティーをちびちびと飲み、俺は氷が溶けてゆくばかりのメロンソーダを前に何も言う事が出来ていない。


 そもそもこの社員――そよぎさくら。彼女とは初対面のはずだ。今日一日を振り返ってみても、彼女と特段話した記憶はない。挨拶をした程度の仲、いや、仲とすら言えない距離感であるにも関わらず、彼女は退社後の俺を無理に喫茶店へ引っ張りこんだ。なんだ。なんなんだ一体。アレか?何かの勧誘とか?いや、俺に限ってそんな事はないはずだ……自分で言うのもなんだが、カモられやすい風体はしていないと思う。長い人生、一度くらいは勧誘に遭った事はあるが、秒で切り捨て帰ってきた。この女……いや、この女という言い方は失礼か、ええと、梵さんは一体何の目的で俺を?そもそも俺はなんでこの人について――


「熟考は終わりましたか?」

「え、」


 さくらの風鈴の音のような声に引かれて顔を上げると、彼女の手元にあるティーカップの中身は空になっていた。


「お茶一杯分。しっかり飲み切るまで、布目さんが落ち着くのを待ってみました」

「落ち着くって……」

「強引な手段に出てしまってごめんなさい。それだけは先に謝らせてください」


 彼女は言うが早く小さな頭を下げ、もう一度ごめんなさいと口にした。

 こうなってしまうと俺も彼女を責めづらい。何か……きっと今日一日だけでも何か彼女に心境の変化があったのだと自分に言い聞かせて腹に渦巻くモヤモヤを奥底に押さえつけ、俺は口角を上げた。俺なりに精一杯の友好を示したつもりだった。


 さくらは俺の反応を見るとわざとらしくホッと息をついた。その流れでホールを歩く店員を呼び止め、もう一度ミルクティーを注文した。店員は俺にも目配せをしたが、軽く首を左右に振るとそのまま下がっていった。


 二度目の注文で届いたミルクティーにさくらは再び砂糖を流し込みながら話を始めた。


「実は引き留めた理由は大したことじゃないんです。……私、兄がいまして」

「話が唐突だな。あ、いや、唐突……ですね」

「布目さんの方が先輩なんですから、気軽に話して頂いて大丈夫ですよ」

「……なら、お言葉に甘えて。兄がいるから何?」

「ふふ、良いと言ったら冷たくなるんですね。そこも兄に似ています」

「やりづらいな」

「すみません。……それで、兄なんですけど……私が子どもの頃に両親が離婚して、今は苗字が違うはずなんです。あ、まあ、結婚してたりしたらまた違うのかな……」

「その辺はいいからさ。それで?」

「すぐ話が逸れちゃってごめんなさい。それで、その、兄の名前……苗字も、布目さんのお名前も……あっお名前は社員証を拝見しました。それらが兄と全く一緒で」

「あー、所謂同姓同名ってやつね」

「そうです。それで見た目も……離れ離れになった時わたしはまだ小さかったので事細かに覚えているわけではないのですけど……布目さんを見た瞬間、直感で兄だって思ってしまったんです。でも、違いますよね。こうして話していると明らかに反応が……ですもんね……」


 一人で語りだして、一人で落ち込むさくらの姿を見て、俺は重いため息を吐いた。

 俺は一人暮らしこそしているものの、家族は全員健在だし、下には弟がいるだけだ。妹がいた、ましてや親が実は離婚していたなんて事は一切聞いた事がない。すべてはさくらの勘違いと暴走で、こうして今俺が理不尽に拘束されているのも、無意味な事だった。


「自分で気付いたならまだ頭は大丈夫そうだな」

「あっ随分失礼なことを言いますね!」

「だってそうだろう。初対面の人間に兄だと思いこまれて、知らない店にまで引っ張り込まれたわけだから、嫌味の一つでも言いたくなるだろう」

「うっ……すみませんでした。新しい環境で、もしかしたら兄に会えたかもと思ったら舞い上がっちゃって……」

「……まあ、生き別れたお兄さんに会いたいって気持ちはバカにはしないよ。それだけ梵さんにとって家族は大切なものなんだろ」

「……はい」


 さくらは少しだけ潤んだ瞳の端を自分の指で拭って、それから伝票に手を伸ばした。


「こんな事をしておいて図々しいですけど、よかったら今度はちゃんとしたご飯、奢らせてください。お詫びです」

「いや、いい。俺は俺の生活スタイルがあるから。仕事の相談も出来れば業務時間内に頼む」

「ふふ、ほんとうに、兄とはちがいますね」


 さくらが立ち上がったので俺も荷物を手に席を立った。

 なんとも災難な時間だった、明日からはなるべくさくらとは距離を置こう――そんなことを考えていた矢先、さくらが「あ、」と小さく声を零した。


「指輪がない」

「はぁ?」


 さくらは再び席に戻り、ガサゴソと鞄をひっくり返し始めた。なし崩し的に俺も席に戻り、目の前であたふたしている様子のさくらを無の心で見つめる。

 優しいやつだったらここで「どうした?」なんて気遣いの言葉をかけるだろうが、聞いたところで俺に何が出来る。無駄に他人の事情には首を突っ込まない。これは理不尽な社会を生き抜く初歩的なすべだ。


 ある程度鞄の中身をひっくり返したところで、さくらはガクッと分かりやすく肩を落とした。そして誰が何を問うたわけでもないのに、彼女は言い出す。


「指輪がないんです。小指につける小さな指輪……どこかで落としちゃったみたいで……」

「はぁ。指輪。そのうち出てくるんじゃないか」

「駄目です!」

「うおっ」


 さくらはバンと机に両手をついて大きな声を出したかと思えば、すぐにしゅんと体を縮めて椅子に座り直した。周りからの視線が痛い。


「さっき……私は家族を大事にしているって言いましたよね……」

「え?あ、まぁ……」

「母からもらった大事な指輪なんです。ピンキーリングで……お守り代わりにって……」

「えぇ……」

「たぶん、会社のトイレで手を洗う時に外してそのまま忘れちゃったのかな……今日すごく緊張してたし……どうしよう…‥」

「それなら明日、遺失物届でもなんでも出せば、」

「今からもう一度会社戻ります!!守衛さんに話せば中に入れてくれるかもしれませんし!!布目さん、慌ただしくてごめんなさい!失礼します!!」

「え、あ、ちょ、」


 さくらはキチンと伝票片手に、嵐の如く勢いで店を飛び出していった。

 取り残された俺はしばし呆然としながら時計を見て――今日のタスク消化をすべて行うのは無理かもな、と頭を抱えた。


 店を出てから。嫌々なはずなのに、足取りはさくらの後を追い始めていた。


 これが運命の分かれ道だったとは知らずに。

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