第2話 お茶、しませんか?

時刻は夕方五時前。定時が五時十五分だから、退社まであと少しの時間帯。

布目ぬのめは定時退社に命を賭けている。理由はただ一つ。それが自分のルーティーンであるからだ。

……とはいえ、布目も企業勤めの一介のサラリーマンだ。仕事の状況によっては残業をせねばならない日もある。そんな日はストレス発散のために多少の夜更かしを自分に許しているが……夜更かし自体も、布目にとってはルーティーンを崩す一因となってしまう。なるべくなら残業などしたくない、残業手当を貰える事は確かに美味しいが、かといって無理をしてまで金銭を得る理由も持っていない。ならば残業手当<定時退社だ。布目はそれなりに仕事ありますよ、という振りをしつつ、時計の針が五時十五分を指すのを今か今かと待っていた。


会社固有の、独特なチャイムが鳴った。布目は我先にとパソコンの電源を落とし荷物を小脇に抱え、「お疲れ様でした!お先に失礼します!」とわざとらしく宣言し、小走りにエレベーターホールへ向かった。

布目は勤続年数が長い。故に、上司も同僚も後輩も、布目の性格は既に勝手知ったるといった様相だった。


「布目さんの定時ダッシュは相変わらずですね~」

「最初こそなんだコイツって思ってたけど、ほんとにピンチな時は助けてくれるしなぁ……」

「実際仕事も抜け目ないですし、なかなか文句の付け所がないのが厄介ですよねぇ」

「まぁ社内に一人くらいこういう人がいてもいいんじゃない?今時ってやつ?」


布目が退社したあとの部内ではこんな会話がささやかれるが、もちろん布目本人はこれらの評価を知らない。いや、関心が無い。どう思われようと正社員という座は、相応に問題を起こさない限りはく奪されない居心地のいい地位だ。布目がサラリーマンを選んだ理由もそこにある。ほどほどに業務をこなしておけばそう簡単に奪われない席……これは布目にとって、これ以上ない「変化のない椅子」だった。


布目がエレベーターを使い階下に降りようと箱の到着を待っている時。

背後から聞き覚えのある声色で「布目、さん?」と声が掛かった。

途端、布目の全身に寒気が駆け巡る。これは、この感覚は、覚えがある。今朝体験したばかりだ。

いやだ、後ろを振り返りたくない……と思いつつも、布目はゆっくりと背後を振り返った。そこには予想通り、今日入社したばかりのそよぎさくらの姿があった。


「お疲れ様です」

「お、お疲れ様……あ、の。一日目、どうでした……?」


これは布目の、先輩としての精一杯の虚勢だった。雑談。これは雑談だ。特に変なところはないはず……布目はコントロールの効かない心臓の跳ねに意識をもっていかれそうになりながらも、なるべく平静を装ってさくらに話しかけた。


「まだ一日目ですから、皆さんのお役には立てていないとは思うのですけど……でも皆さんとても優しくして下さって、ここなら私やっていけそうです」


にこ。さくらの微笑みは柔和で温かなものだった。それは第三者目線から見れば、であるが。

布目はさくらの笑顔が怖くて仕方がなかった。脇からはタラリと汗が流れている。額にもじわじわと冷や汗が滲んできた。なんなんだ。なんで俺はこんなに梵に拒否反応が出てしまうんだ――


チン。


エレベーターの到着音が鳴った。いや、布目にとっては「鳴り響いた」に等しい音量で耳に届いた。

これ幸いと思った布目は、さくらと距離を取るために「じゃあ、」と話しを区切ってそそくさとエレベーターに乗り込んだ。


「あ、私も乗ります」


あぁそりゃそうだ。そうだよな。今から帰るんだもんな……。

布目は自分の見通しの甘さに辟易しながらも、逃れる術もなく、さくらと共にエレベーターに乗り込んだ。

――エレベーターってこんなに長かったっけ――

布目はいつまでも階下につかない速度に焦りを感じていた。一分、いや、一秒でも早くこの梵さくらと離れたい。しかしそんな理由も分からない拒絶感を彼女に悟られるわけにもいかない――布目がひたすら「早く早く」と祈るうちに、再びチンと目的の階に到着した音が鳴った。

布目は先にさくらを降ろすべく、「どうぞ」と先を譲った。さくらもまた、「ご親切に有難うございます」と素直に厚意を受け取り、エレベーターを降りてくれた。


良かった、これで今日一日が終わる。さっさと駐車場に向かって車で家に帰って……今日はもう自炊する元気もないし途中で飯でも食って帰るか――などと考え始めた布目の前に、一筋の影が落ちる。


あぁ、なんで。


「布目さん、このあと少し時間あります?良かったらお茶だけでもしていきませんか?」

「え、いや、あ、このあと約束が……」

「 な い で す よ ね ? 」


ドグ、心臓がひと際強く脈を打つ。

体験したことのない衝撃に、布目は思わず「ぅぐ、」と声を漏らした。

さくらはただ、微笑んでいる。


「私の歓迎会、今度部の皆さんでやって下さるそうなのですけど……その前に、布目さんとちょっとお話したいなぁって思ってて……突然ごめんなさい。ちょっと気持ち悪いですかね?」


ごめんなさいなんて言いながら、絶対にそんな事思っていないだろう!

布目は内心で毒づきながらも、喉を絞められたように言葉が出てこない。

パクパクと、まるで餌を欲しがる金魚のように唇を動かす布目を見て――さくらはウットリとした表情で、「かわいい」と声もなく言った。


ぐるぐると、さくらの声が頭を回る。

かわいい。かわいいですね。とてもかわいい。布目さんって、とてもかわいいですね。


ハッと気づいた時には、街中にいた。会社に近い、小規模の繁華街の道すがら。

営業時間を過ぎたアパレルショップのガラスに反射して、今の自分の状態を把握する。布目はさくらに手を引かれながら夜道を歩いている。ぐるぐると、目が回るような感覚が正常な思考を外に追いやっていた。


「ここにしましょう」


さくらが布目の手を引いて入ったのは喫茶店だった。チェーン店ではなさそうだが、それなりに客足は入っているようだった。

店員とのやり取りはさくらが全て行ってくれた。布目さん、ブラックコーヒー飲めます?うーん、飲めなさそうなので……メロンソーダひとつと、ミルクティーください。あ、ホットでお願いします。


そうして運ばれてきたメロンソーダを前に、俺はただただ黙ることしか出来なかった。

さくらはひたすら、ミルクティーの中に砂糖を流し込んでいた。

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