ラビット・ホール
草森ゆき
ラビット・ホール
オリバーは死を覚悟していた。馬乗りになられて口の中にライフルの銃口を押し込まれている今の状況では、殺されない方が難しかった。上にいるロベルトの目は完全に据わっていた。長い黒髪が乱れて、白いワイシャツの上に散っている。ゴムがどこかへ飛んだらしいがロベルトに気にした様子はない。
逆に冷静になっていたオリバーは、ふと笑みを向けられた。
「いい子だね、オリバー」
ロベルトは穏やかに話し、銃口を更に奥へと押し込んだ。
「おとなしくしていれば、撃たないよ」
「うぐ……」
「でも、このままじゃ何もできないな……」
ロベルトは据わった目のまま、怪しい呂律で呟くように話す。オリバーは身動きしないよう努めながら、もしかして、と生命の危機以外の窮地を感じる。
案の定、銃口を外したかと思えば、銃身を勢いよく振ってオリバーの側頭部を殴り付けた。痛かった。衝撃で数秒目が眩み、もう気絶しようかなと諦めかけたが、
「おいで、オリバー。遊び方を教えてあげるよ」
そうさせて貰えるわけもなく、襟首を掴まれてずるずるとソファーへと引きずられていく。
オリバーは側頭部の痛みに耐えながら、なんとかしなくてはと、焦った。
この男、ロベルト・ブラックは完全に酔っている。
なぜこんな状態になったかと言えば、グレイソンが悪かった。
数時間前の話だ。オリバーとロベルトは、ロベルトの愛犬であるアレスを交えて、昼下がりのリビングルームで寛いでいた。
何事もない、平和な時間だった。完全な休日という貴重な一日だ。近頃殺しの依頼が多く、オリバーもロベルトも多忙だったため、今日は本当に何もせずに過ごそうとロベルトが提案した。
オリバーは喜んで飲んだ。普段ならば朝から発砲されている。訓練を怠れば死ぬだけだよと穏やかに脅され、広い庭の中を常に狙いをつけられながら逃げ回る羽目になっていた。
そうして二人がだらけているところに、グレイソンがやって来た。
「よう、お二人さん! 暇そうだな〜」
ここでロベルトが一発撃った。ライフルではなく、腰元のベレッタを引き抜き頭を狙った。
グレイソンは難なく弾き返した。おっかねーな! と笑いながら言って、更に撃とうとしたロベルトにワインボトルを差し出した。ロベルトは引き金に指をかけたまま眉を寄せた。
「なんだい、それは」
「見ればわかんだろ、ワインだよ」
グレイソンは歯を見せて笑い、
「お礼だってよ! 俺じゃなくて、親父からな」
と続けた。
オリバーは合点がいった。以前、グレイソンの父親であるジークから依頼を受け、オリバーとロベルトは完遂した。その礼ということだ。
もちろん、ロベルトも納得した。
「なら、受け取ろうかな」
「ん、でもそういやあ、お前はともかくそっちのワンちゃんは未成年か」
グレイソンに視線を向けられ、オリバーは頷いた。しかし断るようなことでもない。ロベルトが悩む前にと、先に自分がボトルを受け取った。
「確かに渡したぜ。じゃあな、お二人さん!」
本当に手土産を渡す用事しかなかったため、グレイソンはすぐに帰って行った。オリバーは胸を撫で下ろし、ソファーの上で寛いだままのロベルトに、ワインボトルを手渡した。
そこで、そう言えば、と思いつく。
「おれ、ロベルトが酒飲んでるとこ、見たことない」
「おや、そうだったかな」
「うん。……飲めるの?」
「もちろん。キッチンから適当なグラスと、冷蔵庫のサラミでも持ってきてくれるかい」
オリバーは頷き、言う通りにグラスとサラミを持ってきて、ソファー前のテーブルに置いた。手招きされたためロベルトの隣に座って、更にその隣へと飛び乗ってきたアレスを撫で、ロベルトがワインを飲み始める様子を眺めた。
アルコールと葡萄の強い匂いが鼻をついた。どんな味がするのだろうと、少しだけ興味を持った。ロベルトは平然とした顔でグラスを傾け、サラミを口に運んでいた。
ここまでは良かった。オリバーはアレスにせっつかれ、庭に出てちょっと遊んで来るとロベルトに言い残し、ボールを持って外へ出た。夕方前の、ほんのりと暗くなり始める時間帯だ。キャッチボールはアレスが飽きるまで行われた。
その間に日が暮れた。オリバーはアレスを連れて室内に戻り、餌をやってからソファーにいるはずのロベルトを探した。
いなかった。テーブルには空になったワインボトルが転がっていた。寝に行ったのだろうか、と、思った瞬間に背後から襲われた。
銃床で後頭部を殴られ、オリバーは一瞬ぐらついた。どうにか踏み留まり身を翻したが、同時に繰り出した回し蹴りはあっさりと掴まれた。そのまま引き倒され、銃口を口内に捩じ込まれた。
ロベルトが、据わった目でオリバーを見下ろしていた。
そこからの今だった。
ロベルトはオリバーをソファーの上へ放り投げると、全く躊躇いのない様子でワイシャツを脱ぎ始めた。オリバーはぎょっとした。もしかしてヤる気か? と気が付き、汗が噴き出した。
「ま、待て、ロベルト! おれはその、そういうのしたことねえし、」
濁しつつ伝えるが、ロベルトはあまり聞いていない顔でオリバーのジーンズを脱がそうとし始める。まずい、と更に汗が出た。
万が一事に及んでしまえば、なかったことにはできない。酔いの醒めたロベルトがどう出るかわからないし、下手をすれば隠滅のために消されるかもしれない。
そして、このような形で貞操を失いたくはない!
「っ……ごめん、ロベルト!」
オリバーは素早く腕を伸ばし、テーブルにある空いたワインボトルを掴んで振った。ロベルトは当然避けたが、ボトルの底が顎先を僅かに掠った。懐からベレッタが引き抜かれる。
発砲の瞬間に、オリバーは上半身を捻ってギリギリで銃弾を躱した。同時にどうにかロベルトの下から這い出して、飛ぶように転がり距離を取る。
向き合うと即座に銃口を向けられた。だがロベルトは、オリバーが弾を見てから避けるとわかっている。そのため、撃たずに走った。縛られていない黒髪が夜のように広がった。
銃を鈍器代わりに振る動きは躊躇いがなかった。オリバーは腕の側面で受けたが骨に響く程度には重かった。続けて足払いがかけられ、飛び退いて避ける。再度距離を取るも素早く詰められ、肘打ちを上半身の動きのみで避けるが、失敗だった。
ロベルトはぐるりとその場で回った。不可解な動きに思えたが、長い髪が目を掠って思わず瞼を閉じた瞬間に、しまったと防御の体勢を取った。ロベルトは回転の遠心力を乗せて蹴りを繰り出した。両腕で受けるがよろけてしまい、顔を上げると額を真っ直ぐに狙う銃口がすぐ目の前にあった。
オリバーは息を止めて、銃口ではなく引き金にかかる指を見た。それが僅かに動いた瞬間に膝を折り曲げ脱力した。放たれた弾丸は、オリバーの髪を多少削っただけだった。
瞠目したロベルトに掴み掛かった。再び謝りながら、全力の頭突きを食らわせた。ふらついたロベルトの頭をダメ押しでもう一度殴り、床に崩折れそうになった体は慌てて抱き留めた。
二人は数分静止した。ロベルトの寝息が聞こえてきたところで、オリバーは心底の安堵の息を吐き出した。
這々の体で、ロベルトを寝室へ運び込んだ。ベッドに寝かせたところで力尽き、そのままロベルトの部屋の床で寝た。
翌朝は発砲音で目を覚ました。オリバーは飛び退くように起き上がり、ライフルを手に微笑するロベルトを恐る恐る見上げた。
「ロベルト……その、昨日の記憶は、っ!」
肩口を乱暴に踏み付けられた。額の中央に冷えた銃口を押し当てられて、オリバーは素早く両手を見せた。
「オリバー」
「う、うん」
「昨夜は何もなかった、そうだね?」
オリバーは何度も頷いた。ロベルトも一度深く頷き、銃を退けるとリビングの方へと歩いていった。
二度とあいつに酒を渡さない。ロベルトの後ろ姿を見送りながらオリバーは強く決意した。
成人後のオリバーが酒で似たような失態を見せ、ロベルトに制圧されるのはまた別の話である。
ラビット・ホール 草森ゆき @kusakuitai
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