博士の黒い箱

高野ザンク

微積分と相対性理論

 昨日、誠一に買ってもらった惣菜パンを朝食として食べた後、未知子は歯を磨きながらぼんやりと考えていた。果たして、彼にどこまで自分のことを話そうか。


 私のいた世界ではあなたは四十過ぎのオジサンで、私はその姪なのだ。


 そう言って、彼は信じてくれるだろうか。むしろ、突き放されてしまうのではないか。私の願いはただひとつ。元の時代に戻ることだ。そのためには今のところ誠一に頼る他ない。彼がいなくなってしまったら、私は無一文だし、寝泊まりするところだってないのだ。それに親戚である誠一は(その未来の姿を知っていることもあって)赤の他人より信頼できる。しかし、どういう風に自分に起きたことを説明すればいいのやら。



「じゃあ、つまり時野さんは別の世界から瞬間移動してきたってこと?」


 誠一が眼鏡の奥の瞳をまんまるにして訊ねる。


「そう。こことは違う世界の、でもここと同じ街からやってきたの」


 未知子は自分に起きた現象を、ではなくとして説明した。へ行くことと、に行くことは現象として似ているし、自分の世界の如月誠一と知り合いということにしておけば、この世界の彼を知っていてもおかしくはない。じゃあ、この世界の未知子はどこにいるのか、と聞かれれば、今は東京に引っ越してしまっているとでも言えばいい。

 これなら誠一に未来の自分について根掘り葉掘り聞かれることは回避できるし、元の時代に戻る方法を一緒に考えてもらえる。ただし荒唐無稽な話であることには違いないが。


「私の言ってること、やっぱり変だと思うよね」


 未知子が誠一の顔色をうかがいながら訊ねると、彼は首を大きく横にふって否定した。


「いや、ありうるね。だったら時野さんが急に檻の中から現れた説明もつくし」


 未知子はホッとして思わず笑顔になった。誠一が素直に信じてくれたことが嬉しく、また心強かった。とはいっても、状況が好転したわけではない。二人はしばらく黙って、炭酸飲料を飲んでいた。


「時野さん」

 悩んだ末に、といった様子で誠一が切り出した。

「すごく力になってくれそうな奴を知っているんだけど、キミのことをそいつに話してもいいかな」

 未知子は瞬間的にうなづいてしまった。その時の誠一の声は、大観衆の前で手品を披露している時の叔父の声のように堂々として説得力があったのだ。



 アパートを出て、自転車を二人乗りして行く。快晴の下、夏の日差しは強いが、どこか柔らかで痛さは感じない。懸命にペダルを漕ぐ誠一に身を任せて、未知子の心はどこか晴れやかだった。


 目的地は街の中心にあるマンションの一室だった。エレベーターで5階にあがり、504の部屋のチャイムを鳴らす。表札には「敷島」と書いてあった。しばらくしてドアを開けたのは、誠一と同じぐらいの男の子だった。


 奥の部屋に通されると、そこはPCが2台置かれ、「サイエンスなんとか」やら「なんとかジオグラフィック」やらという雑誌が数多く散乱していた。


「敷島、女の子が来るってのにこの部屋、片付けたりしないのか」

 誠一が呆れた声を出す。

「女の子が来るからって急に片付けるほうが不純だろ。俺はそういうのを気にしないの」


 彼は敷島たつる。高校2年で誠一の同級生だという。


「敷島は物理やら化学にやたらと詳しい。時には先生も言い負かすほどの天才だ。だから僕らの間では“博士”と呼ばれている」

 そのわりに誠一が、彼を名前で呼んでいるのがちょっと面白かった。


「ただ、相当の変人でもあるけどね」

 声を顰めて、誠一が耳打ちをした。


「変人で結構。っていうか、手品に命をかけてる如月もずいぶんな変人だと思うぜ」

 PCデスクの前に腰掛けて、敷島がそう言った。

 未知子には二人の距離感が、親友というほどにはみえないが、こうやって憎まれ口を叩けるほどの仲ではあるのだろうと思った。もっとも“博士”と呼ばれるにしては、スポーツマンのように色黒で、はっきりした顔立ちをしている。どちらかといえば誠一の方が眼鏡で華奢なので“博士”っぽい。


「で、なんか相談があるんだって?」

 誠一と未知子の顔を交互に見比べながら、敷島が言った。



 未知子が自分の身に起きたことを(パラレルワールドに置き換えて)話し、その補足を誠一がすると、黙って聞いていた敷島が考え深げに答えた。


「面白い。とても面白い」


 口元には微笑みを湛えている。


「瞬間移動はもうどこかで実現できていると思ってたけど、まさか別世界から移動してくるなんてね。それは俺でも考え付かなかった」


「瞬間移動、って、それならできるの?」

 未知子が訊ねる。


「うん。瞬間移動は微分と積分の応用で理論的には説明可能なんだ」


 敷島がそう言いながら、手近にあったレポート用紙に何か数字や文字を書きながら説明してくれたが、未知子にも誠一にもさっぱりわからなかった。ただ、“博士”が堂々と言うのだから、それは不可能なことではないのだろう。


 二人が理解していないことがわかったのか、敷島は途中で説明を止め、


「如月。お前が今取り組んでる大脱出の仕掛け。あのトリックを俺が考えるとしたら空間移動装置になるんだよ」

 こう言えばわかるだろ、という口調で誠一に言う。


「敷島のその考えはすごいと思うけど、僕はそういうもので手品をしたいわけじゃないんだよ」

 口を尖らせて誠一が反論した。


「じゃあ、俺がもうその装置を作った、と言ったらどうだ?」


 その言葉に、誠一も未知子も驚きを隠せなかった。その表情を見て、敷島は得意げに微笑んだ。スッと椅子から立ちあがると、二人を隣の部屋に促す。彼の後について部屋に入ると、その中央に人が一人入れるような黒い箱がどんと置かれていた。その箱は、未知子が大脱出の時に入った箱とほぼ同じものだった。


「この箱に入ると、スイッチひとつで人を瞬間移動させることができるんだ」

 冗談とはいえない表情で敷島は言う。彼が箱を開けて指差した先には、未知子が未来で(彼女にとっては現代だが)入れたのと同じ形状のレバーがあった。


「この箱に入った人はどこへ行くんだ?」

 誠一が訊ねると、敷島は黙って首を振った。


「それはわからない」


「わからない?!」


「実はこの装置はまだ未完成なんだよ」

 敷島はバツの悪そうな表情をした。


 人を移動させる、というかそこから消すことは(彼曰く)簡単なのだが、その人がどこへ行ってしまうか、ということはまだコントロールできないらしい。


「そんなおっかない装置、手品に使えるわけないだろ!」

 誠一が本気で怒鳴ったので、敷島はますます申し訳なさそうな顔をした。微分は楽勝なんだけど、積分で戻すのが難問なんだよ、などとぶつぶつ言っている。

 未知子は二人のやりとりがなんだか可愛く思えた。私の周りの男子高校生ってこんなに純粋ピュアだったっけ……


「でも、未知子ちゃんがこっちの世界に来た答えに近いと思わないか?」


 敷島の反論に、未知子も誠一もハッとした。


「彼女がこれと同じような装置で、ではなくてに移動する、というのは十分考えられるんだ」


 敷島と誠一が同時に未知子の顔を見つめる。


「実は私……」

 未知子は言うべきか一瞬迷ったが、ここまで来たら、この二人にはできるだけ本当のことを話そうと思った。


「これとほとんど同じ装置を使った」


「やっぱり!」

 敷島は嬉しそうに声をあげる。


「でも、その時は時間……じゃなくて世界を飛び越える装置だなんて思わなかったから」


「じゃあ、なんのためにこんな箱に入ったの?」

 誠一は素朴に訊ねてきたが、大脱出の手品のため、と言ってしまうのは憚られた。


「かくれんぼ……してた……かな」


 思いついた答えがそれだった。


 沈黙の後、誠一が吹き出した。

「時野さん、かくれんぼだなんて。僕らと同じ高2だったよね?そんな子供みたいなことしてたの?」

 その態度に未知子は腹を立てた。本当はアンタの手品が元凶なんだよ!と言ってやりたい気持ちを必死に堪える。黙って、何も知らずにクスクス笑う誠一を睨みつけた。


 険悪になりそうな状況を察してか、敷島が箱のドアを閉めながら残念そうに言った。

「未知子ちゃんがここに来てしまったヒントにはなったけど、元に戻る解決策にはならなそうだね」


 その言葉で、状況を察したように誠一も笑いを止めて、押し黙った。


「ただ……」

 未知子は重苦しい雰囲気をかき消すように言う。

「二人のおかげで、ひとつ前進したと思う。どういう手段で私がここに来たのかはわかったんだもん」


 全てはあの箱の仕掛けが始まりだったのだ。あの箱が目の前の箱と同じものかはわからない。ただ、誠一の同級生の敷島が作った箱なのだから、間違いなく彼の箱が関係しているのだろう。元に時代に戻る方法は、この箱にしかないと、未知子は確信していた。



 箱の部屋を出る時に、敷島が未知子に話しかけた。

「さっき、時間が……とか言いかけたよね」

 敷島の耳の良さと勘の鋭さに少し動揺したが、ちょっと言い間違えたんだ、と誤魔化した。敷島は一応は納得したようにうなづいた。


「でもさー、あの装置に一般相対性理論を応用すれば、タイムトラベルも可能なはずなんだよね」


 未知子の耳がぴくりと動く。今度は動揺を隠しきれそうもなく、彼女は敷島の顔を見ることができずに、ただ床に散乱した科学雑誌の山をじっと見つめていた。

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