【KAC20243】妖精の棲み処

有明 榮

妖精の棲み処

 僕は小さい頃、家で熱帯魚を買っていた。きっと多くの人に経験があるだろう。


 冬休みの直前だったか、魚図鑑を学校の図書館から借りてパラパラめくって、これ綺麗だから飼いたい、なんて話を父にしていると、じゃあ買いに行こうか、という話になった。


 僕は大層驚いた。何しろ僕の父親は子どものわがままをすべてどこ吹く風と受け流すような性質だったのだ。そのせいで話をするにまるで聞き入れてもらえず、子どもの頃は何にしても我慢させられたものだ。その父が乗り気だったのが、僕には少し可笑しかった。


 僕はその図鑑の中で、いくつかの魚が気になっていた。ネオンテトラ、ブラックファントムテトラ、グッピー、コリドラスあたりは、画室の荒い図鑑の写真でもわかるほど不思議な魅力を放っていた。


 家から車で三十分ほどかかる、温室のような寂れた熱帯魚屋の、苔と地衣が隙間で陣取りをしているコンクリートの地面には、水垢で白く汚れた巨大な水槽が所狭しと並んでおり、またその壁際には、古い机の上に巨大な水槽が並べられている。僕たちからしてみると狭すぎる、しかし彼らからすると住むには十分な箱庭の中には、極彩色の魚たちが輪舞曲を踊っている。


 一際目を引いたのはグッピーだった。ベタな品種ではあるが、僕は当時、この目で熱帯魚を見た経験が殆どなかったのだ。あったとしても、それは僕が嫌いな歯医者の待合室に置かれていたやつで、そこを泳いでいたのは黒とか茶色とか、地味な色で、寧ろその色も相まって水の悪魔みたいに見えていた。


 だから逆に、青とか赤とか、個体によってまったく異なる印象を与えてくれる魚たちが、背鰭と胸鰭とひらひらとまるでスカートのように翻してゆったりと泳ぐさまは、僕にはお伽の国の妖精たちのように見えていたのだ。


 父は生来凝り性だったので、適当な水槽を用意して、ろ過装置とか水草を買いそろえただけで終わるはずがなかった。やれヌマエビだの、やれ流木だの、やれレイアウトがどうだのと、僕が口を出す間もなくあれやこれやと箱庭に手を加えてしまった。もはや父による父のための妖精の棲み処になってしまっていたこと以上に、僕が何も自分の手を加えられなかったことが、僕の何よりの不満だった。


 ある冬の朝、僕が震える身体を力ずくで布団から引っ張り出した時、父が玄関先で憔悴した顔をしていた。水槽の水替えは始めのころは僕の仕事だったが、父が手を加え始めてからは僕の出る幕はなくなっていた。水槽に入れてあるはずのヒーターを取り出した父が、じっと水槽を見つめている。


 胸騒ぎがして、僕は、何かあったの、と聞いた。


 視界の端では、既に真っ白になった沢山の魚と、真っ赤になったエビの死骸が、水面に浮かんでいた。


 僕の箱庭が、僕の手を離れて、ひと月もたたない間の出来事だった。

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