第3話

 入院前にすることは案外少なかった。職場に休職届けを出し、田舎に住む両親へ連絡しただけ。

 どちらもひどく驚かれ、特に電話口で母親は目に見えるように動揺した口ぶりしていたが、手術さえすれば大丈夫だということを繰り返し説明して、どうにか納得してもらえた。それでも手術当日は東京へ出てくるという。術後の書類手続きや身の回りのこともあるし、何より母が気が気でなくなるだろうから、ありがたく世話になることにした。

 上司も僕が欠けることに難儀した様子だったが、休みのうちはどうにか回してみせるから心配するな、ちゃんと治して戻ってこいと言ってくれた。仕事をおろそかにしたことはないがほとんど何とも思っていない職場だったが、いい上司に恵まれていると感じた。

 そうとも。僕は現実に戻ってこなくてはならない。

 あずにゃんがいなくなった後、せめて義務くらいは果たさなければならないだろう。

 それから入院日まではいつも通り暮らした。頭痛は処方された薬で散らすことができ、当座の生活に支障が出ることはなかった。職場近くの昔ながらのトンカツ屋でひれカツ定食を食べて、切らしていたシャンプーの詰め替えパックを買い足して、スーパーファミコンを引っ張り出して子供の頃やりこんだゲームをやり直して過ごした。残念ながらファミコンは実家に置きっぱなしだった。折角の機会だし、母に頼んで持ってきてもらおうか。

「あっさりわたしを切るって決めましたね」

 パズルゲームをプレイしている最中、画面上の落ちてくるブロックをボタンで回転させているのを横でぼんやり眺めていたあずにゃんがそう呟いたのには驚いた。でも、不思議なことではない。今までこのあずにゃんは脳腫瘍が産んだ副産物だと考えてきたけれど、脳腫瘍という形でこの世に現れたあずにゃんの精神体、身体の延長と捉えることもできるのだ。

 でも、弁解しなくてはならない。ちょっとニュアンスが違う。コントローラのスタートボタンを押してポーズし、あずにゃんの方を向いた。

「あずにゃんを切ろうと思ったわけじゃないよ」

 僕が切るのは脳腫瘍と、あずにゃんへの思いだ。あずにゃんそのものじゃない。

「でも結果としてはそういうことになりますよね」

「そうだね。君というあずにゃん、僕の中のあずにゃんを切るって意味では、そうだ」

「わたしだって、自分にメスが入るから不満だなんて言っているわけじゃないですよ」

 くすくす笑うあずにゃんに屈託はない。

「心配してるんですよ。わたしなしでこの先、生きていけるんですか」

「あずにゃんに心配されるようなことじゃないよ。あずにゃんがいたら僕は生きていけない。そういうことらしいから、そうするしかないんだよ」

 そうせざるを得ないのだから、四の五の言われる筋合いは、たとえあずにゃんであってもない。僕の未練をかきたてるようなことは言わないでほしかった。

「そうですか? そうかもしれないですね」

 あずにゃんの態度に少しいらついて、言うまいとしまいこんでいたことをうっかり漏らしてしまう。

「あずにゃん、きみは僕のことを名前で呼ばないね」

「気付いてました?」

 涼しい顔で指摘を受け止めた。僕とあずにゃんとは対等な関係のはずなのに、どうも彼女が一枚上手であるような気がしてならない。

「最初から気付いていたよ。まあ、そりゃあそうだよね。自分の名前を自分で呼ぶ大人はいない」

 僕は最初から彼女が本物のあずにゃんではないと分かっていた。空想の産物、歪んだあずにゃん。では、一体何によって歪められたのか。そこがポイントだ。すなわち、あずにゃんを歪めたのは脳腫瘍じゃなく、僕のあずにゃんに対する自己投影だ。誰からも愛されるあずにゃんが僕と同じように考えたり笑ったり、そうであれば素敵だなと夢見たことは何度もあったから、実際にそんな幻が現れればすぐに分かる。僕が見ているあずにゃんはいかにもインチキめいている。派手な飛び道具にだまくらかされるほど間抜けではないのだ。

「センパイとでも呼んでほしかったですか」

「そのくらいのサービスはあってもよかったかな。ぼくが君のことをあずにゃんって呼ぶ理由も分かっていたくせに」

「あずにゃんであってほしかったんですよね。わたしが」

 僕が分かっていることは彼女も分かっている。僕と彼女は同じなのだ。あずにゃんでないと知りながら彼女をその名で呼び続けた理由はただ一つ。自分の中で膨らんだあずにゃんが、このまま現実のあずにゃんになってしまえばいいと願ったから。

 僕の人生なんかあずにゃんに明け渡せるならしてしまいたかったはずなのだ。その千載一遇のチャンスが目の前に訪れたというのに、僕は死を選べなかった。

 あずにゃんには、自分には、誠実でありたかったのに。

 そのはずだったのに、どうしようもなく、生きることを求めてしまった。

 よしよしとあずにゃんが僕の頭をそっと撫でる。その感触は幻だし、あずにゃんの影を使って自分で自分を慰めているだけだ。それでも気持ちはずっと楽になった。

「わたしと一緒に死んでくれないなんて。あーあ」

 口を尖らせていかにも冗談めかしてそんなことを言う。あずにゃんは優しいなあ。

「ごめんねえ」

「いいんですよ。謝ることなんて本当は何もないんです」

 あずにゃんはすべてを許してくれる。すると、あずにゃんはいいことをひらめいたと僕に一つの提案をした。

「そうだ、じゃあ、遺書を書いて下さい」

「死なないのに?」

「そんなことないです。わたし気付いたんです」

 思いつきに心なしか興奮した様子で目を輝かせるあずにゃん。

「どういうこと。説明してよ」

「わたしを愛してくれたあなたは、わたしといっしょにいなくなるんですよ、間違いなく。それ、いっしょに死ぬってことじゃないですか。何も問題はなかったんですよ。遺書を書いて、あなたとわたしがいってしまったことを証明すれば、それでいいんです」

 そうか。そういう考え方もあるのか。

 あずにゃんと添い遂げることに、必ずしも物理的な死を伴う必要はない。僕のあずにゃんが幽霊みたいなものなら、僕も魂だけを差し出そう。わずらわしい肉体はおいていけばいい。

 僕が死んだら涙を流す人たちには、僕の抜け殻をあてがえばだれも悲しむことはない。

 つらい思いをするとすれば、残された僕ぐらいだろうが、それなら「僕」の心は痛まない。

 素敵な考え方だ。

「ありがとう。そうだね。いっしょに死のう、あずにゃん」

「はい」

 僕とあずにゃんは見つめあって、目を閉じて、ついばむようなキスをした。


 入院当日。書類手続きや入院前検査を済ませ、病棟に移った。

 出入り口には洗面台と消毒用のアルコール。手を洗って入る。何年か前にインフルエンザの院内感染があったらしく、再発防止のために制限が厳しくなったのだというが、これから手術を受ける人間にとっては、略式化された清めの儀式のように思えてならなかった。

 僕はナースステーションの角を曲がって突き当たりの病室に入った。

 日の高い内から寝間着に着替えて、パイプベッドにもたれかかる。いかにも病人という感じで、すっかり頭痛はおさまってしまっているというのに、なんだか具合が悪くなったような気さえする。暢気な患者というやつだ。

 日がな一日ごろごろしていても何の気兼ねもないし、放っておいても食事が出る。これから心身ともに疲れると分かっていても、休暇気分は拭いきれなかった。

 その後、回診にきた主治医に手術の説明を受けるが、なんというか、ありきたりなものだった。何時から絶食です、明何時に手術開始、麻酔の方式、云々。

 僕がなんと言おうと手術にオプションが用意されているわけでもなし、俎上の鯉にこれからどう料理するかを説明するようなおかしさがあった。

 しばらく何をするでもなくのんびりとうたた寝していた。途中、看護士に呼び出されて点滴と繋ぐ針を事前に刺されたぐらい。子供の頃はご多分に漏れず注射がいやでいやで、予防接種のお知らせを見るたびに顔を真っ青にしていたのを覚えている。

 今は注射針に対する恐怖はない。死にはしないと分かっているからだ。恐怖とは死の可能性だと思う。

 この手術自体も少し怖かった。

 でもあずにゃんが隣に寄り添っていてくれる。それだけで恐れはするするとほどけていった。

 夕食を済ませると、今後は水を含めて絶食と看護士に説明された。とうとう何もすることがなくなってしまった。

 あずにゃんは見舞い客用の椅子に座って、窓から見える夜空を眺めていた。

「月が見える?」

「はい。綺麗なお月様ですよ」

 僕の位置からだと月は見えない。けれど、あずにゃんがそういうんならそうなんだろう。

 遺書は病院には持ってきていない。内容も僕以外が見たって理解できまい。唯一、窓辺に座るあずにゃんだけが僕が死ぬことを知っていた。何を書いたかは二人だけの秘密だ。僕たちが知ってさえいればいい。

 あずにゃんは僕に微笑みかけてくれた。それきり何も言わなくなって、僕も眠りについた。

 朝になって、回診や血圧測定やらがあって手術前の時間は瞬く間に過ぎていった。母からは連絡があって、新幹線の都合で到着は遅くなるそうだ。せっかくなので僕の部屋によってあるものを持ってきてほしいと言付を頼んだ。

 時間がきてストレッチャーに乗って手術室まで運ばれた。しかし、あずにゃんが見えるだけで最早頭痛すらしない僕がこんなものに乗せられるなんて変な感じだ。

 手術台の上に横たわるともう後戻りはできない。じわりじわりと恐れが染み出てくる。

 もう何を言えばいいのかも分からない。完全な欠損が後には待っている。部分的な無の到来。頭を切り割って、僕を取り出してしまう。切り口を縫いつくろって見た目には前と変わらず、けれど頭の中は空っぽだ。

 もしうまくことが運んで、術後もあずにゃんを愛する気持ちを失わなかったとしたらどうだろう。あのあずにゃんは見えなくなるだろうけれど、あれは一時の幻、僕はこれからも本物のあずにゃんと生き続ける。

 あまりに不誠実だと思った。遺書まで書いたのなら、僕はあの偽物のあずにゃんと逝かなければならない。ある意味で、本物のあずにゃんは偽物のあずにゃんに僕を寝取られたようなものだ。ごめんねえ、あずにゃん。

 ここのところ幻のあずにゃんにかかりっきりで、僕が最初に好きになったあずにゃんのことはすっかりほったらかしになっていた。彼女とのお別れは済ませてなかったな。失敗した。

 心残りはそのくらいだな。本当にあずにゃん以外は何もない人生だった。

 吸入器を口に取り付けられて、麻酔医に大きく深呼吸するよう指示される。吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 そこにいるのかな。手をつないでほしいな、あずにゃん。

 十秒も経たずに深い眠りにつくと説明を受けていた。もう目をつぶって考えるのをやめてしまおうか。ふと視線を逸らすと、緑色の手術着に身を包んだ医師たちの傍らにあずにゃんが経っていた。紺色のブレザー、長いツインテール、にこやかに笑う。届かないはずの手は、それでも確かにあずにゃんのあたたかな手に触れた。

 意識が薄らいでいく。眠りに誘われる中、最後の最後、声には出さず唇を動かしてあずにゃんに伝えた。

 あずにゃんにゃんにゃん。あずにゃんにゃんにゃん。

 これはねえ、唯センパイが考えていたあずにゃんへの歌なんだよ。あずにゃんにあったら教えてあげようと、ずっと思っていたんだよ。でも、僕の中のあずにゃんはそれも知っているのかな。

「知りませんでした」

 そっか。

 そうだよねえ。最後に話せてよかった。

 いっしょにさよならだ、あずにゃん。


 目が覚めると集中治療室のベッドの上にいた。頭部に違和感がある。固定バンドでベッドに完全に拘束されていて身動きが取れないから確認しようがないが、頭部になんらかの挿入管が通されているようだった。

 よくよく見渡してみれば体中に管が繋がれている。鼻には血抜き用と呼吸用のチューブが二本、腕には投薬用の点滴針、心電図も貼り付けられていて、既に尿道カテーテルが挿さりおむつを履かされていることだろう。全て必要な処置であるとは言え、至れり尽くせりもここまでくると冗談みたいだ。

 ふとすすり泣く声がして、動かせる範囲で顔を声のする方向に向けると、傍らに付き添っていたらしい母が、ハンカチで目頭を押さえながらよかったよかったと繰り返していた。目覚めるまで見守ってくれていたのだろうか。

 この歳にもなると、母の愛というものが素直に受け止められるようになっていて、ありがたい気持ちとすまない気持ちになる。しかし、それで心はいっぱいにはならない。

 生きていた。

 起き抜け早々年老いた母に泣き顔をさせておいて申し訳ないとは思うけれど、僕の心にもっとも大きく陣取ったのは、なんともいえぬ白けた気分だった。

 たしかに見かけ上は生きている。けれど僕の内側で、女の子が死んだんだ。よく似た、けれどどこか違う、ツインテールの女の子が。

 おや、と僕は気付いた。ちゃんと、あずにゃんのことを、覚えているじゃないか。

 あずにゃんは失われたはずだ。少なくとも、脳腫瘍の摘出によって発生すると予言されたあずにゃんへの一切の感情の喪失は、まだ訪れていないようだった。

 顔にチューブが突き刺さっているので声を発することができない。母の言葉に頷いてやり、ひとまず無事であることが伝わったのか、母はいくぶん力が抜けたように背を丸めた。

 すると母は、思い出したかのようにしゃがみこんだ。体の動きから、床に置いたバッグからごそごそと何かを取り出そうとしているようだ。

 むくりと起き上がった母が両手に捧げ持ったものは、人形だった。僕の部屋から持ってくるよう頼んでおいたもの。

 ねんどろいど中野梓。

 それがかつて「僕」だった男にとってどんな価値を持っていたのかは覚えていた。実感がない。夢からさめた後のように、すてきな夢を見た、おそろしい夢を見た、夢の世界をどう感じたかは覚えているのに、結局幻で、目が覚めていくと共に失われていくあの感覚。

 記憶があるのに興味が失われるという説明がようやく理解できた。まるで全部別世界の出来事のように、フィクションのように、現実から欠落していく。

 僕は、「僕」と「あずにゃん」と「僕の中のあずにゃん」、三人を見送るためにここにいる。

 「僕」っていうのはずるいやつだ。両手に花で歩いていくのを指をくわえて見ていろと言う。いいさ、行ってしまえ。後のことは僕が勝手にやるさ。それが「僕」の望みであるなら、このまま当たり前のように生き続けよう。遺書の内容は僕も知っていた。それが遺言ってことでいいんだろう?

 三人は見えなくなっていく。それとともに、見えている世界の彩度が低くなっていくようだ。色あせた退屈な光景。ただ生きるだけの舞台だ。

 起きていてもなにもすることがなかったから、再び目をつむった。

 頭の痛みはない。あずにゃんが持ち去ってしまった。

 あずにゃんも見えない。苦しみは感じなかった。

 僕はこのまま眠りについて、何の夢も見ることはない。

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あずにゃんヘデイク @heynetsu

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