第2話

 あくる日、僕は朝一で脳神経外科の外来診療を受けた。大きな病院だから専門的な診察が必要と医者をたらい回しにされることはまずないだろう。

 窓口が開く前の病院で老人達が行列をなしているのを通勤中によく見かけたけれど、僕もその仲間入りをするとは思わなかった。まだ日の高くないうちからたくさんの人が待合室のベンチに座っていて、みんなどこか頭がおかしいらしい。そのことにおかしくなる。そんな僕も頭がおかしい中の一員だ。

 あずにゃんは今日はいない。おうちで大人しくお留守番だ。あずにゃんが具体的にどこにいるという意識があれば、その認識に迎合する形であずにゃんも視界に現れなくなるようだった。

 その代わり、家を出てから頭痛がぶり返していた。あずにゃんが見えている間は痛みはなく、あずにゃんがいないと痛み出す。そういう相関関係にあるのは間違いなさそうだ。

 顔をしかめながら言うのもなんだが、病院には慣れていない。何せ普段が健康そのものだから、ひょっとすると大した病ではないのに大騒ぎしているのではないか、医者に一笑に付されるのではないかという恐れを拭いきれず、場違いな気分になる。

 しかし問診票を書き進めていくうちに、そんなこともないかなと考えを改めた。出来上がったイエスノーチェックの結果は、素人目に見ても異常者のそれだったのだ。

「今日はどうされました」

 診察室に入り、医師にすすめられるがまま背もたれのない回転椅子に座った。担当の先生はいかにも脂ののった四十代、全体的にがっしりとした体格で団子鼻の男性だった。学生時代はラガーマンと言われたらなんとなく信じてしまいそう。

 あずにゃんにのめりこんで一週間アパートから一歩も出なかったこともある僕とは根本的に違う人生を送ってきた感じだ。

 彼のような人間にはあずにゃんはきっと必要ない。

「頭痛がするんです。のっぴきならない頭痛が」

 のっぴきならない、なんて言ってみせたのは自分が病人なのだとアピールしてしまうことへのささやかな抵抗だ。のっぴきならない頭痛に苦しんでいる本人はそんな表現をまず使う余裕がないから。けれど医師には子供くさい言動を意に介する様子はない。

「なるほど。どのような痛みですか?」

「ひしゃげるような、しめつけるような」

 ボールペンを走らせながら医師は頷く。

「ふんふん。いつ頃から」

「昨日急にです。それまで頭痛は久しくありませんでした」

「何か頭を強くぶつけただとか、そういう覚えはありますか」

「ありません。あの、それとですね」

 定型的な質問に流されて肝心なことを切り出せなくなりそうで、慌てて僕は口を挟んだ。

「はいはい、なんでしょうか」

「その、ですね。幻覚が見えるんです」

 医師は幻覚という単語に反応はしながらもさほど驚いた様子はない。やっぱりこの仕事、変なものが見える人の相手は日常茶飯事なんだろうか。

「幻覚。どのような内容です」

「女の子です。その……マンガのキャラクターなんですが。等身大で、マンガからそのまま抜け出してきたような説得力があるんです」

 が、この説明を聞いた医師は表情を険しくした。

「一応伝えておくと、そのキャラクターは〈けいおん!〉というマンガの中野梓という女の子で、僕の空想じゃなく実在する作品が元になっています」

「あずにゃんですね」

 おや。おやおや。僕の最愛の人の名前を彼が知っているだなんて。ふうん、へええ。これで意外と休診日は撮り溜めた深夜アニメを消化するのが趣味だったりするんだろうか。なんだか無性にそわそわする。本当に僕の家であずにゃんが留守番をしているような気がしてしまいそうだ。

「ご存じなんですか」

「もちろん」

 そう言って医師は右目の下を人差し指で左右になぞった。考える時の癖なのか。表情には陰が差し、いかにも厄介な問題に直面したという顔。正直な人のようだ。

 何度か頷きながらボールペンを弄んでいた医師は、やおらカルテに向かっていた体を引き起こし僕の方へ向き直った。

「CTスキャンで脳に異常がないか調べさせてもらいます」

「え。そういうのって予約が必要なんじゃ」

「ご心配なく。数分で終わりますから」

 何かを察したらしい医師に促され、なし崩しに脳の検査を受けることとなった。してもらえるに越したことはないけれど、こういう画像診断は重病の疑いありということ。気は重くなる。

 十数分後、結果が出たというので診察室へと戻ると、医師は先ほどにも増して渋面を顔に刻んでいた。

「お待たせしました。お座りください。これが先ほど撮った頭の写真なんですが、ここ、影ができているのがわかりますか」

 医師は回転椅子をくるりと回し、貼り付けられた脳内の画像を指した。脳の断面を見たっていまいちよく分からないのだけれど、それでも、明らかに白く膨らんだ異質な影が脳の真ん中にあるのを認めた。

「はい」

「悪性の脳腫瘍の疑いがあります」

 間髪入れずに医師は告げた。やはり正直者なのだろう。僕としても迂遠な言い回しをされるよりは分かりやすくていい。

「なるほど」

「MRIでより精密な検査をしてみないと正確な診断はできませんが」

「脳腫瘍だと」

「その恐れは大であると言えます」

 症状が症状だけに重い病だろうと予想はしていたからショックはあまりなかった。ただ、どこまでも他人事のように思えた。

 再度検査するため今度はMRIを撮り、結果が出て三度診察室に呼ばれた僕に医師はこう告げた。

「〈創造性脳腫瘍〉です」

 とうとう病名が出てきた。僕が見ているあずにゃんの本名と言うべきか。

「マンガの幻覚が見えるとおっしゃいましたが、それが〈創造性脳腫瘍〉の症状の最たるものです。フィクションのキャラクターに並々ならぬ愛着を持ち、新しい一次情報、たとえばマンガの原作であったり、そういうが発信されなくなってから大体十年以上経っても空想を続けていた方が発症する病気で、精神状態が脳に負荷をかけ変化を起こすのが原因と考えられています」

 あずにゃんとの馴れ初めを医師に語った覚えはない。人生を見透かされているようだった。

「大脳基底核部に小さい腫瘍ができています。ドーパミンという神経物質を生み出すのですが、これが過剰に分泌されると幻覚を生じさせます。〈創造性脳腫瘍〉になる方は、そういった症状が比較的現れにくく、結果自覚しないストレスがかかり変異を助長するのです」

「想像妊娠のようなものですか」

 彼の説明から連想したことを口にすると、医師は微笑した。

「厳密には異なりますが、そのように捉えられても差し支えはありません。頭痛と幻覚は腫瘍が肥大化して正常な部分を圧迫しているのが原因です」

 なるほど。要するに負担のかかり方の微妙な違いで頭痛になったりあずにゃんになったりするということか。しかし、肝心な話がまだだ。

「えっと、その、治らないんですか」

「ご安心下さい。創造性脳腫瘍は摘出手術となりますが、術後の五年間の生存率は九十パーセント以上、予後は極めて良好な部類に属しますから」

 その言葉に素直にほっとした。最初の頭痛からこっち、余命宣告までは覚悟していたのだ。いやはやこれで一安心、と思いきや。

「ただ」

 緊張が弛緩したところにこれだった。

「なにか、問題が」

「後遺症として、好んでいたキャラクターや登場する作品に対する興味を失う症例が数多く報告されています」

 これだった。

「…………」

「当然、放置すれば命に関わりますから、すぐに入院して摘出手術を行わなくてはなりませんが」

 どういうことですか、と確認する気にはならなかった。

「分かりました。入院の期間はどのくらいになりますか」

 なんだか体が自衛の為に僕の意思を飛び越えて入院手続きをはじめてしまったようだ。ちょっと待ってほしい。考える時間が必要だろう。なんで僕は即答しているんだ。

 やめてくれ。僕はそんなこと望んじゃいない。僕の意思じゃないんだ。

 だって、それっていうのは。

 あずにゃんの余命宣告だろう。


 一週間後の入院が決まり、診察料金とともに予約を終え帰宅した僕をあずにゃんは待っていた。頭痛はない。

「おかえりなさいです」

「ただいまー、あずにゃん。どうしたの、立ち上がって」

 自宅のドアを開けると、あずにゃんは居間に立ちつくしていた。

「どうでした、病院は」

「あんまり愉快じゃなかったね。並ぶなら遊園地の方がいいや」

 その言葉に彼女は苛立ちを隠さず眉根を寄せた。怒りっぽいな、ちゃんとカルシウム摂ってるかい。

「そうじゃなくて」

「ごめんよ。冗談だよ。分かるだろ、あずにゃん」

 そうとも。君なら僕のジョークが笑えないことも知っているはずだ。

「手術だってさ、入院だってさ。まいっちゃうよねえ、あずにゃん」

 なんてことない口振りの僕をあずにゃんは冷ややかに見つめていた。いやだなあ、あずにゃん。君の蔑むような視線には愛がなくちゃ。

「愛してますよ」

 心を読むあずにゃん。ぺたぺたと足音を立てて僕に近づいてくる。ご都合主義もここまでくると素直に受け取ろうという気になってくる。

「愛してくれていたんですから」

 それは言わないで欲しかったんだけどな。

 あずにゃんは靴を脱いだ僕を押し倒すと、ベルトを外し、ファスナーを下ろした。小さな手がそれを柔らかく包み込むと、僕の体中をたぎるような熱が駆け巡った。

 あずにゃんはゆっくりと握った手を上下し始める。

 たどたどしい動きだったけれど、氷のような無表情という珍しいあずにゃんとのギャップでむしろこみあげるものがある。

 何かの本で読んだけれど、性行為による快感というのはほとんどが錯覚によるものらしい。刺激の量が同じでも、感情によって比較にならないほど感覚は増減する。

 大好きなあずにゃんに主導権を奪われ、無表情ながら心底見下した目が僕を突き刺す。

 理想的なシチュエーションだった。

 全身の毛穴から汗が噴き出しそうだ。今すぐにでもあずにゃんを抱きしめて攻守逆転を図りたいところだが、理性が邪魔をする。我慢、我慢。虚空をさまよう左手は行き場をなくしてしまった。くくった髪をほどいで、つややかな髪に手を差し込んで手触りを確かめたかった。

 僕は諦めて、いやに無口なあずにゃんにされるがまま、快楽を享受した。フローリングに無理な姿勢で横たわったものだから骨がぶつかってきついのだけれど、だんだん気にならなくなっていった。

 嬌声もなく、聞こえるのは荒い息遣いだけ。時々、衣擦れの音も聞こえてくる。

 三十歳になって女子高生に手コキ。それも真面目そうな小柄な女の子でアンバランスさがそそる。我がことながら信じられなくなりそうだが、今は信じなければならない。でなければとてつもなく情けない思いを味わうことになる。

 今はこのまま。

 撫で回すようなあずにゃんの指の動きは緩やかながら時々こそばゆい刺激をもたらして、そのたびにぐっとこらえる。このせつなさに浸っていたい。もうちょっと、後少しでいいから。

「ねえあずにゃん」

 意味もなく呼びかけると、手は止めずにあずにゃんは顔を上げた。幼い顔にあだやかさを垣間見せる彼女に、頭が真っ白になる。

「あずにゃん、あずにゃん、あずにゃん」

「わたしはここにいますよ」

「うん」

 あずにゃんはここにいる。それを確かめさせてくれ。

 下半身がぞくぞくして、潮時と悟った。ぎゅっと、あずにゃんが手に力を入れて締め付けてくれた。

 これなら死んでもよかったかな。そう思いながら、僕は果てた。

 そのままの姿勢で仰向けになって、息を整える。狭い廊下には一人分の呼吸音だけだ。

「ありがと、あずにゃん」

 返事はない。頭の割れるような痛みで我に返った。目の前には床に飛び散った精液だけだ。

 あずにゃんがいないことを確認して、安堵の溜息をつく。

 これが現実だ。

 医師は言った。腫瘍を摘出しなければ僕は死ぬ。腫瘍を摘出すれば僕の頭の中のあずにゃんが死ぬ。

 二者択一の中でこうも性質の悪い問題を突きつけられたのは久々だった。そしてなにより、即座にあずにゃんを切って自分が生き残ることを選んだことがショックだった。

 自分でも信じられないことだった、あずにゃんを失ってまで生きていたい理由を僕は持ち得ないのに、本能が拒絶した。その浅ましさに、生き汚さが自分に内包されていることに愕然としたのだ。

 なかば自分を失い、どうやって運転したのかも分からないまま帰り道をひた走った。道中、思いがけずむらむらしてきたのであずにゃんの手を借りて処理することをひらめいた。そうして、突拍子もなく訪れた途方もない現実に向き合うため、帰るやいなや僕はズボンを下ろして自慰をした。

 節っぽくざらざらした感触の右手をあずにゃんの白いおもちのような繊細な手に置き換えることには完全に成功した。あずにゃんの幻を見たことで、夢想と現実の境界線が曖昧になって、現実離れした光景を現実のものと歪んで受け止めることができたのだ。

 脳がエラーを吐き出しながらの自慰行為は、目論見通り猛烈な快感をもたらした。

 悲しみの涙にしろ、アルコールの過剰摂取で気持ち悪くなって嘔吐するにしろ、吐き出すという行為は精神を納得させ、落ち着かせる。それは射精でも同じことだ。出せばすっきりする。

 思惑は外れず、僕はあずにゃんに支配されるという理想を成し遂げることで満足し、あずにゃんのいない世界を取り戻した。目の前の白濁液とぶり返した頭痛が、先刻まであずにゃんとまぐわっていたことの証明だ。

 そしてそれはどこまでいっても白昼夢。

 冷静になって考えると、病気が重いことに生存本能が揺り動かされ、性欲に連動したのかも知れない。そうすると、何から何まで本能の意のままということになる。

 いいや、違う。あずにゃんにしてもらおうと思ったのは、僕の意思だ。そうでなくてはならない。あずにゃんを性処理のはけ口としたことに逃げ道を用意してはならない。

 足首のところで丸まっていたズボンを脱いで、下半身裸のまま洗面所へ向かった。ズボンは洗濯かごに放り投げて、石鹸で念入りに手を洗う。薄汚れた雑巾を水ですすいでから固く絞り、廊下に戻って床を拭いた。

 僕はいくらなんでもこれはあんまりだと思って、めそめそと泣いた。こぼれた涙も雑巾で拭きとった。

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