あずにゃんヘデイク

@heynetsu

第1話

 頭痛とは縁遠い体なので、最初の痛みがどれほどのものか、自分の体のことなのにぴんとこなかった。

 その後すぐ、頭の中を万力でぎりぎりと挟まれるような痛みが絶え間なく訪れた。痛みの形がはっきりして、放置すれば後に響く類のものだとはっきり分かった。

 職場の事務所の壁にかけられたアナログ時計は五時五分前を指していた。終業時間が近い。手洗いにこもってひとまずやり過ごそうと腰を上げたら、足の踏ん張りが利かず椅子に尻餅をついてしまった。加減せずに体重がのったからスプリングの跳ねる音が事務所に響き、同僚の視線を一斉に集めてしまった。

 どうするべきだろうか。容態が思わしくないのは分かっている。それでもまだ見積もりが甘かったからよろけることを予見できなかったのでは? ここは意地を張らずに体調不良を訴えてさっさと切り上げるべきなんじゃないか。

 しかしもうすぐ定時、タイムカードが切れる時間にわざわざそんなことを伝えたら余計な勘繰りをされるのは間違いない。やっかいごとはできうるならば自分の中で完結させたい。

 そう考えて、僕は座ったままこれみよがしに大きく伸びの姿勢をとった。大げさに凝りをほぐそうとしたら勢い余ってずっこけて、照れ隠しに大げさなポーズをとっている。そのように納得してもらえればと思っての小芝居だ。成功したかどうかはともかく、わざわざ声をかけて何事かと訊ねる者はいなかった。

 治まらないから痛みの輪郭がはっきりしてきた。脳の真ん中がブラックホールになって周囲を世界ごと折り曲げて吸い込むようだ。いっぱいいっぱいで、痛みを客観的に分析でもしないと髪をかき乱して床を転げてしまいそうだった。

 今できるのは、卓上の書類の角を揃える風を装って時間を稼ぐことぐらい。

そうしているうちに皆が席を立ちタイムカードの前に並んだ。時間が来たらしい。もはや時計を確認するのも億劫になっていた。

 同僚が少なくなったのを見計らってタイムカードを切る。

 まだ残っている面々に足のふらつきを悟られないようにしながら上司の下へ向かい、体調不良のため明日は欠勤する旨を伝えた。

 いかにも好々爺然とした初老の上司は、おいおい大丈夫かと顔を覗き込んできた。傍目にも僕の顔色は悪くみえるらしかった。

 医者に見てもらって点滴でも打ってもらいます、となけなしの力を振り絞って愛想笑いを浮かべ事務所を後にした。

 そこまではよかった。単なる急病に過ぎなかった。

 僕は観音開きの玄関扉を押して出た。すると、目の前に人影があった。

 ところどころひび割れたコンクリートのたたきを降りたところにブレザーを着た女の子が立っていたのだ。

「あずにゃん」

 存外呟きが大きかったのかもしれない。彼女は僕を認めると嬉しそうに微笑んだ。

 小柄な体もあいまって年齢以上にあどけなさを残す顔立ち。流れるような長髪は両脇でくくっていて、ところどころ毛先が跳ねているのが固い髪質であることをうかがわせる。猫のように大きな目は細められていて、その表情は本当に僕を待ちわびていたのだとうったえていた。

 彼女はあずにゃんだった。

 他の誰かと見間違えるものか。マンガで見た、アニメで見た、まごうことなきあずにゃんの笑顔。中野梓の笑顔。そのままだ。

 平面で構成された絵の中のキャラクターが立体化して異質に映らないはずがないのに、僕にはあずにゃんに違和感を覚えることができなかった。

 あずにゃんは桜高のブレザーを着て、ちっちゃな体で、トレードマークのツインテールは艶やかで。一体何の冗談なのだろうと僕は思った。

 アイドルの熱狂的なファンがばったりアイドルと鉢合わせして、アイドルが笑いかけてきたら、飛び上がらんばかりに驚喜するだろう。

 僕も内心はそんな感じだった。あずにゃんがいる。夢に見たどころではない、毎日夢に出ているあずにゃんがとうとう現実にまで出てきた。

 素直に喜べないのは理性がまだ真っ当に働いているからだ。それに気付いて少し安心する。

 だってあずにゃんは架空の女性だから。存在しない女の子なのだから。

 ひどく現実味のない現実。理性の機能は確認できた、では認識をつかさどる脳の一部分が壊れてしまったのか。

 そもそも、このあずにゃんは凶悪な頭痛が見せた幻覚なんじゃないか。そう考えるのがむしろ妥当だ。前触れもなく現れたあずにゃんと頭痛。これを偶然の一致として片付けてしまうほど僕は楽天家ではなかった。

 ということは、このあずにゃんは頭痛と同じく病魔の表現であり、言うならばあずにゃんの姿を借りた死に神といったところか。大鎌を持っていれば分かりやすいのに。もし両サイドに細く束ねられた二対のツインテールを鎌に見立てているとしたら僕は憤慨する。

 いやいや、これは早計だ。お迎えがあずにゃんというのは悪くないんだけれど、それにしたって唐突だ。

 そう、僕はそれほど冴えていない。死の宣告にせよなんにせよ、説明が与えられてしかるべきじゃないか。

「もう、どうしたんですか? 早く帰りましょう」

 思案しながら立ち尽くしていた僕に焦れてあずにゃんが催促した。一緒に帰ることがさも当然のような口ぶりだったから、僕は曖昧に頷いてしまった。

 話す声もいまや押しも押されもせぬ人気声優の竹達彩奈さんが、まだ駆け出しの頃に演じたあずにゃんと同じで、なんだかドキドキする。幼子が背伸びして大人ぶるような声。

 同伴を肯定したわけじゃなかったけれど、訂正するタイミングを逸してしまい、僕はあずにゃんと肩を並べて裏手にある駐車場へ歩き出した。

 あずにゃんの背中には大きなギターケースが背負われていて、小さい歩幅の一歩一歩で小刻みに揺れていた。

 僕の右隣を歩くあずにゃんには存在感があって、右肩があずにゃんに温められるかのようにじんわりとする。女性と親しげな距離で歩くなんて何年ぶりだろう。こんな感じは久しく忘れていた。

 たかだか数十歩の距離を歩くだけでもぎこちなくなってしまうんだ。僕は上手にできているのだろうか。この気持ち、あずにゃんには分からないだろうけれど。

「ねえあずにゃん」

「なんですか」

「君はなんだい」

 あずにゃんがなにかを告げるそぶりを見せなかったから、僕は目下最大の問題について単刀直入に訊いた。説明がないのなら質問で埋め合わせてもらおう。

 突然何の前触れも脈絡もなく現れたあずにゃん。

 それは頭痛も――あずにゃんを目にしてから痛みが消えていた――同様で、これが僕の幻覚であるならばその返答によって判断できるはずだ。僕は僕なりにあずにゃんを見てきた。今目の前にいるあずにゃんが何者か見定めるくらいはできる自信があった。

 あずにゃんにとっては突拍子もない問いかけだっただろう。きょとんとした顔をしたけれど、すぐにくすくす笑って、

「あずにゃんはあずにゃんだよ、って言われたことありましたね」

 なんて懐かしそうに言う。

「それは唯センパイが言ったんだよ」

「そうでしたか? もう忘れちゃいました」

 君がいったいいつのあずにゃんなのか見た目からでは判断できないけれど、唯センパイが卒業していたとしてもそんなに時間は経っていないはずだよ。ちょっと前のことを忘れるほど薄情者じゃないよね、あずにゃん。

 このやりとりだけで確信が持てた。破綻が見え隠れしている言動。あずにゃんらしさを取り繕ったあずにゃん。

 あずにゃんがいて嬉しいのは本心だ。でも心のどこかで彼女を冷ややかに見る自分がいる。

 恐らく彼女は僕の空想の産物だろう。そのあずにゃんが僕にも分かるほどに明確に歪んでいるということは、僕の頭がおかしくなっているということに違いない。

 駐車場に停めていた自動車に乗り込む。イギリスの大衆車を継承したデザインの海外車で、安月給の僕にとっては高い買い物だった。車に本来こだわりはない。購入の際にあずにゃんが好きな車はこういうのかなと選んだらたまたまこいつだったというだけ。

 そういえばあずにゃんはロンドンに行ったことがあるはずだけれど、劇中にこいつは登場していただろうか。車中で訊いてみよう。卒業旅行に行く前のあずにゃんだったら僕は予言者になれるな。

 エンジンをかけるとカーオーディオのスピーカーから高音が印象的なヴォーカルのギターポップが流れ出した。一時停止されていたCDが再生をはじめたのだ。

 放課後ティータイム。あずにゃんのいたバンド。

 このアルバムが音楽業界の不況のさなか二十五万枚以上売り上げたビッグタイトルだということをあずにゃんは知らない。

 ああ、もう。

 なにもかも、あずにゃんは知らないのだ。それがいちいち気になって仕方がなかった。

「は、恥ずかしいですよ」

 あずにゃんは慌ててオーディオを弄ろうとしていたけれど、どうせ幻覚なので再生ボタンに触ることはできないだろう。あずにゃんの世界で、放課後ティータイムはカセットテープに録音した音源しかない。それが商業パッケージのCDになって僕の手元にあるのを、彼女の中ではどの様に処理したのだろうか。

 まったくもって都合のいい女の子だ。

 シートに座る際にあずにゃんがギターケースをどこに置いたものかと悩んでいたので、後部座席に置いていいよと促してあげた。実際に存在しないギターケースの中には、実際には存在しないキャンディアップルレッドのムスタングが収められているのだろうか。

 あずにゃんがちっちゃな手を伸ばしてギターケースを押し込めている間に、グローブボックスからCDを取り出して適当な洋楽に差し替えた。Creamはあずにゃんの好みだと思うんだけれど。

 その際、CDを持った右手にツインテールの毛先が触れてくすぐったく、色々な意味で明日の朝を無事に迎える自信がなくなった。 


 あずにゃんこと中野梓は十年ほど前に人気になった四コママンガ作品のキャラクターだ。もとは知る人ぞ知るマンガだったのだが、アニメ化で一気に注目が集まった。

 ほとんどの人はあずにゃんとアニメではじめて出会ったことになるだろう。

 彼女は女子高の軽音楽部に入部した後輩部員で、先輩たちの演奏に魅せられて彼女たちのロックバンド〈放課後ティータイム〉に加入した。ギターが上手で上昇志向も強いあずにゃんはあのライブアクトとは裏腹な軽音楽部の腑抜けぶりに憤慨するのだけれど、紆余曲折を経てその雰囲気にとけ込んでいき、すっかり牙を抜かれてしまうのだ。

 僕は頑張り屋さんのあずにゃんのことが好きだった。

 はっきり物を言うけれど場の雰囲気に流されやすく、真面目なのにどこかとぼけた少女。よくばりだから小さい体でほしいものにせいいっぱい手を伸ばそうとする。

 そんな彼女を心の底から尊敬し、愚昧さを軽蔑し、愛おしく思っていたのだ。

 だから僕は、あずにゃんとあずにゃんを取り巻く世界を僕は自分の生活が立ち行かなくならない範囲でできるだけ集めてきた。マンガ、アニメの映像ディスク、映画版、音源、ポスター、フィギュア、などなど。

 拾った物をこぼさないように。ごうつくばりのあずにゃんのように。

 そうして思い続けた。あずにゃんが架空の存在なのだと分かってはいる。けれど虚構ではなかった。お嬢さんに恋をして身分違いで引き離された男が二度と会えぬ女性を想い続ける、というのはロマンチシズムが過ぎるだろうか。

 アニメシリーズが劇場版で大団円を迎え、原作の連載が終わり、ブームそのものが下火になって当時熱狂したファンのほとんどがあずにゃんのことを忘れた後も僕はずっと彼女を追い続けた。

 大学を出て地元のシステムキッチン製作の企業の事務に就職し、大きな事件事故に巻き込まれることもなく、縁談の話もないまま一人暮らしであずにゃんのことを考えて考えて、あっという間に三十歳。世間一般の成功とは縁遠いのかもしれないが、おおむね幸福な前半生を過ごしてきたと思う。

 三十歳になったらあずにゃんが僕の部屋に来た。これは幸福なことなのだろうか?

 ドライブの相手をほっぽり出すわけにもいかなくて、僕はあずにゃんを自宅である単身者用の賃貸マンションに連れ込んでいた。

 僕にしか見えないだろうと推測はできても、万一がないとは限らないので近所の目がないかどうかには神経を尖らせた。制服を着た女子高生というのは信管の安全ピンが取れた爆弾なのだ。

 1LDKの手狭な我が城にソファなんて気の利いたものはないから、押入れから座布団を出して座ってもらった。あずにゃんは足をくの字に曲げていわゆる女の子座り。物珍しそうに部屋の中をきょろきょろ見回していた。断わっておくが、あずにゃんのポスターは壁に貼られていないし、古めかしい装丁の洋書と並べて〈けいおん!〉の単行本をしまってもいない。こういうこともあるかな、と備えだけはしておいたのだ。

「晩ご飯作っちゃうから、あずにゃんテレビでも観ていてよ」

「なんかすみません。ごちそうになるなんて」

「気にしないでよ。誰かに食べてもらう方が張り合いも出るんだ」

 人様に自信を持って振舞えるような大層な料理は作れないけれど。冷蔵庫の中身を確認して、今日の献立を組み立てていく。メインは豚肉のしょうが焼き、汁物にわかめとじゃがいものみそ汁。付け合せに作り置きのほうれん草のおひたし。

 大学に進学して一人暮らしを始めた頃は毎食ごとにレシピ本とにらめっこしながらだったけれど、十年経てば塩梅やさじ加減はなんとなくでも失敗しない。ふと居間に視線を向けると、あずにゃんがじいっと僕の手さばきを眺めていた。気恥ずかしい。

 夕食が出来上がって、居間のローテーブル、というかちゃぶ台に二人分の料理を配膳する。手伝ってほしかったが、無理は言うまい。来客用のお茶碗を前にして神妙な面持ちのあずにゃん。

「いただきます」

「いただきます」

 みそ汁をすすり、しょうが焼きに箸を伸ばす。しっかりよく噛んでから飲み込む。やはり食事は人間の根幹だと思う。大げさなことではない。人はパンのみにて生くる者にあらずと言うけれど、翻って言えばパンがなければ精神的満足を感ずる余裕もないのだ。

 そういう意味では、食事に手をつけないこのあずにゃんは肉体も精神もないのだと分かる。

 幻覚が質量を持ったごはんを食べることはできないと分かっていたけれど、あずにゃんの分を作らないのは気がとがめた。

 意地悪をしたのではないと言い訳するつもりだったが、あずにゃんは意に介さず日常の出来事を僕に話していた。

 車中での会話もそうだったんだけれど、あずにゃんの話は僕の思い出と〈けいおん!〉でのあずにゃん本人の出来事とがないまぜになった内容だ。

 海に行った話はあずにゃんの思い出。山に行った話は僕の思い出だ。スキーで転んで唯センパイと頭をぶつけたなんて冗談めかして言うけれど、それは中学校のスキー合宿での僕の経験だった。話の盛り方膨らまし方まで僕のやり口を踏襲していて、僕がいかに不誠実な喋り方をしているかを突きつけられているよう。相槌を打つ僕の笑顔はこわばっていたかも知れない。

「ところで、明日はどうします?」

 会話の接ぎ穂にあずにゃんが訊いてきたことで、僕は頭痛の存在を思い出した。休みを取って、明日は病院。すっかり忘れていた。あずにゃんが現れたせいで目先のことにすっかり気をとられてしまっていた。

「明日は病院に行ってくるよ。あずにゃんには留守番してもらえると嬉しいな」

「分かりました。気をつけてくださいね」

 ころころ笑うあずにゃんはやっぱりかわいい。この子を好きになったのは間違いじゃなかった。目の前にいる彼女が存在しないのだとしても、あずにゃんと歩んできた人生はあるのだから。その結果が幻として現れたあずにゃんであるなら、なおさらそうだろう。

 茶碗のふちに残ったご飯粒を煎茶ではがして、ずずっとすする。ごちそうさま。目の前には空になった食器と、手付かずのまま冷めてしまったご飯と豚肉とみそ汁。あずにゃんの分はラップして冷蔵庫にしまって、明日の朝食にしよう。

 食器をシンクに運びながら、なんだかあずにゃんの分は仏前のお供え物みたいだなと思った。

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