テパー・シーユー
櫻 友幸
プロローグ
『アナタの望む毒、作ります』――――テパー・シーユー
倫理も道徳もかなぐり捨てたようなキャッチコピーと、小洒落た店名。
ショップカードに綴られた細い筆記体は、きっと、彼女の直筆だろう。
「こんなにも幼く、可愛らしい子まで、我の毒を欲するとは。……魔女として、何百年生きようとも、なにが起こるかわからぬものだね」
キミのことだよ、ポリュート・ペリッシュ。そう言い、店主は長い爪で、ボクを指す。
わかっている。ただ、ボクを幼いと言う彼女自身も、一見幼く、可愛らしい少女。発言と、見た目年齢のギャップに、戸惑いを隠せなかった。
小学六年生のボクと、彼女の背丈に差はない。やや彼女が勝っているが、誤差程度。
幼さとともに、可愛らしさを引き立てるのは、その髪型と仕草だろう。紺色の長髪で作られたふわふわのツインテールを揺らし、黒いジャンパーの袖をぶらぶらと振っていた。
アナタも充分、幼いですよ。言おうとしたがやめた。店主様の機嫌を損ねたくない。
「では、確認していこうか。キミの名前は?」
「ポリュート・ペリッシュです」
「年齢は?」
「十二歳です」
「家族構成は?」
「祖母と、二人暮らしでした。……今はもう、ひとりです」
「…………そうかい。では、合言葉をお願いできるかな?」
合言葉、そんなものもあったか。ボクはショップカードを裏返すと、直筆で書かれた単語を読み上げた。
「『
ご機嫌な笑みを浮かべ、上がった口角を隠すように、彼女は頬杖を突く。
熱烈な視線も相まって、ラブストーリーに登場するヒロインを連想しそうになるが、ハイライトも無く、ぐるりと渦巻く紫色の瞳に凝視されては、『獲物を睨む蛇』のほうが言い得て妙な気もしてしまう。
「あぁ、合っているよ。面倒で申し訳ないね。毒の取引故、こういうのを用意しておかないと公安の
店のこれらも、犬が悪臭を嗅ぎつけないためのものだよ。と、棚に並んだ香水をひとつ取り、魔女は愛おしそうに頬をこすりつける。話を聞く限り、表向きは香水店らしい。
しかし、ボクの目的は香水じゃない。その思いは伝わっているようで、彼女は香水と話題を、元の場所へと戻した。
「さて、ポリュート。最後の確認だ。この魔女――――アナ・フィラキシーに、どんな毒を造ってほしいのかな?」
木造りの机を挟み、向き合うボクたち。三毛柄のマグカップに注がれたキャラメルラテをすすると、彼女は人差し指をくいくいと曲げる。
「ほら、言ってごらん」
甘い香りを漂わせ、甘い口調で返事を急かす。子供っぽさを塗りつぶす妖艶さが、ボクの胸をどくどくと鳴らす。恥ずかしさか、緊張か、恐怖か……あるいはすべてを孕んだ心拍なのか。
同じ三毛柄のマグカップを持ち上げ、ボクは白色のソレを口に運ぶ。
人肌に冷めたミルクで口を潤おすと、深呼吸をし、魔女の問いに答えた。
────「楽に死ねる毒を、造ってほしいんです」
***
「ポリュート。お前は、幸せ者だな」
橙色の夕陽が、十字架の掘られた墓石と、喪服の集団を照らす。
祖母の墓を前に、泣き崩れるボクへかけられる言葉は、震えるほど冷たかった。
「この世界には、天寿を全うできない人なんて山ほどいる。看取れない人だってだ」
「だから、ボクは、幸せなの? 大好きな人と、もう会えないのに?」
「別れは必ずやってくるもの。綺麗なお別れができたんだ。もう、泣くんじゃない」
こんなにつらいのに、ボクは幸せなの?
こんなに苦しいのに、泣いちゃダメなの?
何度尋ねても、答えは変わらない。皆、ボクを不幸だとは言ってくれない。
――――誰かの不幸よりマシな不幸。人々はそれを、「幸せ」というらしい。
葬式が終わり、お墓には、喪服姿のボクひとりだけ。
墓石の群れが、夕陽によって、影を伸ばす。
例外はなく、ボクの影もまた、墓の影とともに背伸びをする。
それが、とても悲しかった。
一歩、大人になったことを知らされているようで、たまらなく悔しかった。
押しつけられた幸福論が、神様にさえ、正解だと言われているみたいだったから。
***
一ヶ月では割り切れない、負の感情。
暗い顔を洗い流すために、ボクは洗面台に立った。鏡には、よれたグレーのティー シャツとカーキの長ズボン。そして、泣き腫らした顔が映る。みっともない、弱虫の顔だ。
出の悪い水道をひねり、弱々しい水で顔を洗う。タオルで拭うと、赤くなったまぶたが、すこしひりつく。
「もう、泣くなよ」
洗濯機にタオルを投げ入れ、冷えた廊下を裸足で歩く。行先は、祖母の部屋。
扉を開けると、部屋の中には、眩い朝陽が差し込んでいた。
姿見やドレッサーは緩衝材に包まれ、遺品用の段ボールたちは、フレームだけとなったベッドの上に積まれていた。
もうここには誰もいない。目に入るすべての情報が、そう訴えかけてくる。
段ボールをひとつ開く。中には、祖母が愛用していたモノがぎっしりと詰まっていた。
祖母が気に入っていた私服に、パジャマ。趣味だった旅行関連の雑誌と、小さなアルバム。開いてみると、若い頃の祖母が、大盛りの海鮮丼を食している写真や、雷門の前でピースをしている写真など、日本文化を堪能していた過去が綺麗に残っていた。
「いっぱい日本のこと教わったけど、結局、一緒に行けなかったなぁ」
ふと、首が痒くなり、爪を立てる。くっきり残った縄の痕をごりごりと掻きむしる。赤く腫れ、点々と血がにじみ出る。それでも尚、掻き続けた。
「……そっちに逝けなくて、ごめんね」
祖母はそんなこと望まない。ボクが一番わかっている。でも、ひとりぼっちよりはマシだ。
だから、ボクは首を吊った。……でも、結局怖くて、苦しくて、今も生きてしまっている。
後悔が涙となり、袖を濡らす。ひとしきり泣き、声も嗄れた。しゃっくりを鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がる。
歩み寄ったドレッサーには、緩衝材に包まれた写真立てが置かれていた。
無垢材でできたそれには、祖母の名が刻まれている。唯一無二の、オーダーメイド品だ。
「実はこれ、床屋代をこっそり貯めて買ったんだよ。……黙ってて、ごめんね」
写真に写るのは、ボクと祖母の二人だけ。うなじまで伸びたボクの黒髪を、彼女の細い手が撫でている。微笑む祖母の美しさを助長するのは、静止した紙の中で揺れる、真っ白な長髪。
思えば、容姿や言動から、あまり老いを感じない人だった。いつも元気で、褒めるときも、叱るときも常に本気で、どこにそんなエネルギーを蓄えているのか、疑問に思うほどだ。
だからこそ、彼女が眠るように息を引き取ったときは、涙を隠し切れなかった。
「手をパッと開いて、
写真の中の祖母へ、小さく手を振る。教えてもらった、お別れの言葉とともに。
再び写真立てを包もうと、緩衝材を巻いたそのとき、指が留め具に当たってしまった。
かちり。不穏な音が鳴った。次の瞬間、写真立てが分解され、中身が裏版とともに落ちていく。鈍い衝突音を鳴らし、写真立ては床に寝転がる。傷はついてしまったが、壊れてはいないようだ。木製でよかった。
安堵し、写真を拾い上げる。
すると、写真の裏からもう一枚、紙がひらひらと舞い落ちた。
「なんだろ、これ」
不思議に思い、そのざらついた上質紙を拾い上げる。
『あなたが望む毒、造ります』
テパー・シーユー
名刺、いや、ショップカードだ。テパー・シーユーは、どうやら店名らしい。店の住所や電話番号などが、細い文字で綴られている。
なぜ、こんなものを祖母が持っていたのか。
望む毒を造るとは、一体どういうことなのか。
疑問は、いくらでも浮かんでくる。
なのにボクの頭は、謎を謎のまま、あまりに都合のいい解釈を膨らませる。
「…………楽に死ねる毒って、造ってくれるのかな」
得体の知れない。真偽もわからない。そんなものにまで縋ろうとするのだ、自殺願望とは、斯くも怖ろしく、
妄信するのも仕方ない。ほかに、信じられるものなんてないのだから。
***
「楽に死ねる毒となると……『
「本当、ですか?」
「毒に関して、我は嘘を吐かないよ」
それはよかった。と、胸を撫でおろすにはまだ早い。真偽もそうだが、問題は料金だ。
祖母が残していてくれた、大切なお金。……それで足りるかどうか。
「では、早速料金の精算をしよう。先に言っておくが、前払いしか許さないからね」
「わかりました。ただ、あまりお金がないので、もしかしたら……」
「計算するから、そう焦るんじゃない。金額を見てから決めればいいさ」
アナはそう言い、店の奥へと入っていく。
ひとり残されたボクは、落ち着かず、きょろきょろと店内を見渡した。
見れば見るほど、魔法使いの家のようだ。隅に並ぶ棚には、等間隔で香水が置かれている。赤に黄に、青に紫。店内を彩るカラフルな瓶たちを、窓から差し込む夕陽が照らし、黒い絨
毯を虹色に染める。電光はいらない。そう言いたげにぶら下がる、配線の切れた白熱電球が、
非日常の世界に足を踏み入れてしまったことを感じさせる。あの店主によく似合う、妖しくも、
どこか胸躍る雰囲気だ。
年季の入った電卓を片手に、魔女が帰ってくる。向かい合うように座ると、彼女は慣れた手つきで電卓を叩きながら、独り言のように呟いた。
「しかし、まさかメリアの孫が直々にやってくるなんて、想像もしていなかったよ」
「こちらこそ、祖母が魔女と知り合いだったなんて、すごく驚いてます。そんなお話、一度も聞かされなかったもので」
「言いにくいだろうさ。友達に毒の売人がいるなんて話。孫には特にね」
かちかちかち。心地の良いタイプ音が鳴る。この音が多ければ多いほど、不安は募っていく。
どうか、払える額であるようにと、ボクはテーブルの下で祈るように指を組んだ。
「メリアには、この店の名前を決めてもらった恩があるんだ。手をパッと開いて、
「お別れの挨拶として、教えてもらいました。テパー・シーユー……って、もしかしてそこから取ってきたんですか?」
「関係、感情、命、人生、様々なモノに別れを告げる毒薬店には、ぴったりの名だろう?」
別れの言葉が、まさか、新たな出会いに繋がってしまうとは。なんと皮肉な話だろうか。
だけど、不快じゃない。むしろ、喜ばしく思った。祖母のことを語り合える存在と、出会えたからだろうか。
それからしばらく、ボクとアナは、メリアという女性について、楽しくお喋りをした。
語れば語るほど、彼女が祖母をどれだけ好いていたかが伝わってくる。口数とともに、アナへの印象が、比例して上がっていく。
そして同時に、不安の種がひとつ生まれた。
「その、咎めたり、しないんですか?」
「おや、なにを咎められたいんだい?」
「いえ、別に、咎められたいわけでは……」
「メリアの孫が
魔女はくすりと笑い、ボクは必死に首を横に振る。もしそうなら、楽な死に方など求めていない。
帳簿をめくり、記された材料の値段を、電卓に打ち込む作業。
合間合間に、彼女はボクへ視線を向ける。蛇のような毒々しい瞳で、ちらちらと。
「祖母の金で自殺とは何事か。……とでも言って欲しいのかい?」
「だから、言って欲しいわけじゃないんです。ただ、言われてもおかしくないなと」
ボクの不安を聞き、アナは目を細め「きひひ」と嘲笑した。
「生憎、我はいい人間ではない。死にたがりを生かす偽善も、悪人の首を刎ねる正義も持ち合わせちゃいない。我はただ毒を売り、人の苦しみを貪っているだけの、ただの魔女さ」
彼女が自称する『魔女』という言葉。それには、どんな意味があるのだろう、
毒薬を造る存在を表す言葉なのか。悪い人間であることへの比喩なのか。その両方なのか。
ただ、後者であるなら否定の余地があった。
本当に悪い人間なら、祖母はきっと、親しくなろうとはしなかったと思うから。
「なにより、善人は子供に毒を売らないだろう? ほら、ご確認を」
差し出された電卓に示された、「楽に死ぬなんて不可能」という現実。
何万ドルという桁の数字に、ため息を漏らし、封筒の中身を確認する。
「ごめんなさい。やっぱり足りないので、やめておきます」
「そうかい? なら、すこし割り引いてやろう」
「いえ、数パーセントの割引でどうにかなるものでは……」
諦めた目で、電卓の数字を見つめる。仮に桁が一つ減ったとしても、まだすこし足りない。ただ詐欺に出会っただけと割り切って、新しい自殺方法を探すほうがいいだろう。きっと、怖くてまた躊躇ってしまうのがオチだが。
「さて、と。少々、割引させてもらったよ」
イコールキーが押された瞬間、そこにあった膨大な数字が、ゼロになった。
「…………どういう、ことですか?」
状況を理解するのに時間が掛かった。
しかし、何度見ても、このゼロという数字が答えだ。
「言っただろう? メリアには恩があると。彼女亡き今、この恩は孫に返すのが道理だと思った。それだけのことだよ」
「本当に、本当に……いいんですか?」
「うん。お金は、いらないよ。ただ、無償というわけにもいかない」
一体、なにを支払えと言うのか。ボクが訊くより先に、アナが答えた。
「我の助手として、働いてくれないかい?」
「は……………………んぐッ!」
あんぐりと開いたボクの口に、アナは突然、唇を重ねる。
くちゅり、くちゅり。長い舌が粘膜を愛撫し、舌を嬲り回す。
言葉にならない声で喘ぎ、ぽたぽたとよだれをこぼす。唾液で滑る舌を絡め、吸いつき、離してくれたのは、掛け時計の分針がひとつ進んだときだった。
脈が跳ね上がり、ふらつくボクをアナは優しく抱き包む。熱い吐息を吐きかけながら、耳元で囁く。熟れた声は、どろり、と脳へ流れ込んだ。
「愛情表現が下手でごめんよ。勉強中なんだ。許しておくれ」
言葉の意味が、意図が、まるでわからない。蕩けた脳では、余計に。
尋ねる余裕もなく、ボクはただ彼女の両腕に包まれ、控えめな胸元から鼓動を聴く。
あやすような手つきで、魔女が、ぼさついた髪を梳く。背中をさする。
突拍子のない行動の数々。……しかし、なぜだろう。嫌な気はしない。
「働いてくれたなら、ちゃんと毒を用意しよう。一日三食、寝床も付ける。これ以上の好条件、ないと思うが?」
なぜ、ここまでするのだろう。ボクにはさっぱりわからない。
祖母への恩だけでは、理由としては足りない気がする。しかし、真意を尋ねる余裕などない。跳ねる心臓を鎮めるのに必死だから。
「それともキミは、親戚の家を転々とするほうがお望みかい? キミを幸せ者だと言った者たちと、死ぬまでずっと暮らしていくことになる未来が」
嘲笑というより、慈愛を孕んだ声で、彼女は語る。想像しうる中で、的確に、最悪な未来を。
息が上がる。汗がにじみ出る。これは、恐怖だ。魔女が語り聞かせる地獄への恐怖。
血の気が引き、赤い顔が青ざめていくのを感じる。
嫌だ。そんな未来、死んでも嫌だ。
息を荒げ、口元を覆い隠すボクを横目に、アナは口に溜まったよだれを飲み込む。空っぽになった口をかぽりと開き、見せつけてきた。
冷めたはずの顔が、沸騰するほど熱される。様々な感情に振り回され、机に伏すようにへたり込むと、彼女は自分のラテをボクへと差し出した。
「魔女ともに、不幸を貪る『地獄』。己が不幸を、否定され続ける『地獄』。そして、苦しみの果てに死ぬ『地獄』。キミの選択肢には、どうしたって地獄がついて回るだろう」
アナの手が、ボクの頬を撫でる。手つきといい、向けられる視線といい、可哀想な子猫を相手しているようだ。
憐れなボクの選択を、魔女はすでに知っている。
自信満々のにたり顔が、その証拠だ。
――――「選ぶのはキミだ。好きな地獄を選びなよ」
テパー・シーユー 櫻 友幸 @Sakura_Tomoyuki
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