二.三人の王子

 仕え人たちが、それぞれの役職に応じて割り当てられた天幕に寝床を確保しているのを確認して回り、私用にあつらえられた天幕に向かった。

 昔から王族も魔物狩りの大きな戦や騎士たちの遠征についていくことがあり、野宿のためにこうした天幕は常から用意されている。成人前の王子のための天幕は今回久しぶりに引っ張り出されたらしく、いささかほこりっぽい匂いがした。

 内には赤い敷物の上に簡易な寝台、白い布団が置いてあり、旅の荷物が運び込まれていた。アリーセとモニカ、エーミールにはそれぞれ家に帰るか王都に宿をとれと言ってある。支度をしてくれたのは丘に残った侍従たちで、私は彼らに丁寧に礼を言ったが、身支度などの世話は断った。皆不安な中過ごしているのに、己でできることをしてもらうわけにはいかん。

 近衛たちにも休むよう告げて、代わりにここを任された騎士隊長を呼ぶ。中年の茶が混ざったような金髪の男で、疲れた顔をしていたが目はしっかりしていた。

「夜の間皆が怖がらぬよう、見張りを立てていることを見せてやってくれ。それから、近衛たちを夜の間休ませたいゆえ、夜番の者をよこしてくれるか」

 命じると、騎士隊長ははっ、と短く返事をして、すぐに行動してくれた。

 日が落ちて魔物の近寄らぬよう火をく。丘の一番高いところにある天幕から出て、天幕の群れの中心にある赤をながめていると、若い侍従が煮込みの皿を持ってきた。まだ十五、六か。

 着ている服は王宮の侍従たる証としてあつらえたものではなく、旅装に近い。ほとんど野宿させているようなものであるし、何かあろうともすぐに動ける服装なのは合理的だ。ダーフィトの指示だろうか。

「ありがとう」

 礼を言って受け取ると、少年は控えめに照れたような笑みを見せて鍋を抱えたまま他の天幕に歩いていった。帰る場所のない者には、若すぎる者もいるのだ。

 温かい料理は美味しくて、誰が作ったものかと問いたくなる。料理人も留まっているのだろうか。

 別の、今度は年寄りの侍従が皿を回収しにきた。

「お前はどうしてここに留まることにしたのだ?」

 問うてみると、彼はしわの間の目を細めて、

「事情のある子どもたちが留まらねばならなくなっておりますから、彼らを助けとうございまして。どうせなら新しい王の誕生をこの目で見たいとも思うております」

 そういう理由もあるのか、と深くうなずく。

「お前のように考えあるものが留まっておれば子らも安心だろう」

 老人はかくしゃくとした足取りで去っていった。

 疲れを残したまま明日を迎えるのは得策とは思えなかった。さっさと寝巻に着替えて布団にもぐり込む。簡単に眠れるとは思わなかったが、気づかぬ間に眠りの闇の中にいたようだった。


 その代わりか夜明け前に目を覚ました。乗馬服に着替えて天幕を出ると、王宮へと連なる丘々の向こうに、白み始める空が見えた。天幕の群れを見下ろすと、焚き火は消されすべてが薄青に染まっていた。

 少し待つと、侍女が朝食代わりのパンを持ってきた。固いパンで申し訳ありません、と言う。保存のきくものなのだから、となだめてやって受け取る。

 私自身は気にせぬが、ずっとこんな食事が続いてはただでさえ暗い空気なのに気落ちする者が出そうだ。料理人を探し出すのを急務としよう。食べ終えて少し待っていると、近衛たちが歩いてきた。

「おはよう、カスパー、テオフィル、ドミニク。少しは眠れたか」

 微笑んで見せるとカスパーは疲れのとれぬ顔でうなずく。

「ええ、騎士は休む時には休まねばなりませんから」

 強がりだろうと指摘してしまうのは簡単だが、私の騎士の気づかいを無下にすることになろう。私は彼らにうなずき、

「丘を見回るぞ。ついてこい」

 命じると、近衛たちははっ、と短く答えて軽く頭を下げた。


 私の天幕は頂上付近に設けてあったため、草を刈って道にしてあるところに沿って下る。仕え人たちはそれぞれの天幕の内やその傍に留まっているようで、私たちを見ると一礼してあいさつした。声を返しつつ歩いていく。

 カスパーやテオフィルと同じくらいの年の者たちが、食事の後片付けを担っているらしいのを見かけ、声をかけた。

「ひとつ聞いてもよいか?」

「殿下⁉ はっ、はい、もちろんですとも」

 若い侍従が焦った顔で振り返り、うなずいてくれる。

「ここで食事を作ってくれているのは誰かな? 昨夜から気になっていたのだが」

 問うと青年は笑顔を見せて、

「ああ! それは、王宮の料理長殿ですよ。丘に留まってくださっているのです」

「料理長が?」

 私は目を丸くした。

 さて、私は王子として彼に会いに行ったことはなかったはず。だが、このような時にそんな些細な話をしてはおれん。

「彼に会えるか? 今どこにいるか知っておらぬか」

 聞けば彼は目を輝かせ、

「存じております。丘の裏手の川に近い方に天幕を張ってありまして、そこに料理人の方々がいらっしゃるのですよ」

 と答えた。ありがとう、とだけ告げてそちらに向かうことにする。

 他より大きい天幕からは、かちゃかちゃと食器の鳴る音が聞こえてきた。

「ここで待っていてくれ」

 騎士たちに命じてそっと天幕の中をのぞく。ここは宮の厨房とは程遠く、人も少ないが、いつもと変わらず料理人たちが忙しく立ち働いていた。

「少しいいか?」

 顔見知りの青年を見つけて声をかける。

「坊ちゃん⁉ ああ……そうですよね、えっと」

 なぜか少し慌てる彼に苦笑する。未だに本当の身分を彼らに面と向かって明かしたことはないのだ。それも先王の後宮では使用人にわざわざあいさつするなどおかしなことだとされていたからだが。もはや公然のことになっているし、もう言ってしまってもいいような気もするが、王子が訪ねているのだなどと言って大仰なことにはしたくないものだ。

「料理長はいるか?」

「ええ、おりますよ。おおい、料理長を呼んでくれ!」

「はいはい、料理長! 坊ちゃんが呼んでますよ!」

 青年が呼びかけると奥で作業していた女性が料理長に声をかけてくれる。間もなくばたばたと仕事を放って小太りの男が現れた。

「坊ちゃん。……大変なことになってしまいましたなあ」

 料理長は小さな青い目をきらりとさせて微笑んだが、眉を下げた困り顔だった。私もつられるように苦笑いしてしまう。

「そうだな。だが、貴方たちのようにこんなところに来てまで我らを助けてくれる者たちもいるのだ。私は幸運だよ」

 言うと料理長は微笑んで、

「そうおっしゃっていただけるとは、ありがたい限りです。私どものような無学者だと、坊ちゃんや一の君を応援いたしたくとも、この程度のことしかできませんから」

 この程度? とんでもない。私は首を振った。

「まさか、貴方たちがいてどれほど助かっているか。本人ばかりが知らぬのだな、こういうのは。こういう状況でも温かい食事ができるというのは、大いに皆の不安を和らげておるのだぞ?」

 くつくつと笑うと、彼は頭巾の上から頭をかいて、

「いえ、本当に……」

 と恥ずかしげに笑う。

「実を申し上げれば、料理に火のまじない石を使わせていただいているのです。貴重なものですのに、よろしいのかと」

「何を言う? このまま皆に火の通った食事をさせてやってくれ。それがどれだけ皆をなぐさめるかは、貴方が一番わかっていると思うがな」

 冗談めかして笑って見せる。はい、と料理長はうなずいた。

「精一杯務めさせていただきましょう。坊ちゃんもお気をつけて」

 わかった、と笑んで天幕を出る。きちんと立って待っていた近衛たちを見回し、

「ダーフィトのもとへ行くぞ」

 と告げる。我が信頼する料理長がいるとわかったので、食事事情は私が心配すべきことではなくなった。気を配るべきは全体のことだろう。

 すれ違う者たちと声をかけ合いながら、丘を登る。ダーフィトと文官の何人かが、頂上付近の天幕の入り口を開けて、人々の注文などを受けつけていた。

「問題ないか? どうなのだ、皆の様子は」

「これは殿下。今はおおむね問題はございません。ですが、やはり急なことですから不足するものもありまして……お恥ずかしい話です」

 とダーフィトが豊かなひげをひねる。

「そうか。……私だけ何もしないというのも手持ち無沙汰でな。何か手伝えることはあるか?」

 言うと、ダーフィトは疲れた顔に嬉しげな微笑みを浮かべた。

「殿下がご無事な姿を見せてくださるだけで臣民は安心するものでございますよ。どうか丘を回り、皆に声をかけてやってくださいませ」

「そういうものか?」

「そういうものでございます」

 文官には頼られぬ己に苦笑したが、文官長はもっともらしくうなずくので、提言に従うことにする。馬は使わず、ゆっくりと歩いて仕え人たちの間を回っていると、やはり丘に留まっている者たちはまだ年若い者や、お世辞にも豪奢とは言えぬ服を着ている者ばかりであった。

 皆私を見るとあいさつしてくれるので、忙しくはなさそうな者には応えて短い会話を試みる。聞けば、皆王宮の洗濯や掃除など雑用を担当している者たちだ。

 どうして丘に留まったのだ、とそれとなく問うと、金が足りないのだということが何となくわかる。若い者は特に、帰る場所もなくまだ働き始めであったり、故郷に仕送りをしていたりする者も多く貯金が足らず、王都の宿に泊まるとなると金がかかりすぎるということであるらしかった。安宿もあるそうだが、この状況で都に足止めをくらった商人などが泊っていて満室ということもあるそうだ。

 雑用とはいえ、皆王宮に仕えてくれる大事な者たちだ。私はいつだったか、ヘマに王宮の玄関を掃除してくれている者たちは技術も誠意もあるといったことを言った覚えがある。こんなことがなければ会話もせずに終わっていた者もおろう。この機に礼でも言っておこうかと、長年掃除をしてきて最早職人だとうそぶく男に感謝していると告げると、彼は涙ぐんだ。

 確かに王子たる私に声をかけられるというのは、この不安な時には安心材料になり得るようだ。暗い顔をして下を向いている者たちも、私と少し話をすると、笑顔になって少しは気力を取り戻してくれる。

 王族、という身分は、これほどの力を持つものなのだな。

 普段から仕え人たちの私に頼む様子を見てきて、また外に出ても身分を明かせばほとんど常に敬意を示される経験をしてきて、わかっていたはずだった。だが、それだけではないのだ。私たちの姿を見たこともない者でも、王族を頼りに思い、日々を生きている。

 私のような子どもでも、しっかりと歩き、会話をし、笑ってみせているというだけで、彼らは力をもらうということも、あり得るのだ。

 ——ならば王という存在はどれほどか。

 王が民に不安を与える存在であるなど、決してあってはならぬことだろう、こう考えれば……。

 あやつが王の器ではない、と私が思うゆえんは、単にあやつが狭量だとか、威圧感ぐらいしかないとかそういうことではない。あやつは王という称号に執着しているだけだ。あやつが民のことを真剣に考えているなどと、誰がどうして言えようか。


 丘をぐるりと大まかに回り、裾の魔道具が置かれている場所へ下りてしまった。結界が張られているという境界線に、衛士や騎士が立っているのが見える。

 近づいていくと彼らは私に向かって軽く頭を下げるので、微笑んで返した。真面目に職務を遂行している者たちに無駄に話しかけるほど私は世間知らずではないし、彼らは私の励ましなどなくとも立派に我らが王の民を守ろうと努めるだろう。

 それにしても、こうも全ての兵士に礼をされると目で会話している気分になる。カスパーたちを連れて歩いていくと、星姫様から預かった魔道具の前で何やら調整をしているらしいまじない師たちに出くわした。

 フードのついたマントを被り、髪が乱れるのも構わず魔道具の調整に没頭している彼らを見ると、やはり王宮仕えのまじない師は研究職だろうなと思う。

「結界は順調なのか?」

 声をかけると、まとめ役らしい三十前後の茶髪をくくった男が顔を上げた。

「はい、殿下。さすがは星姫様の、ユーズのまじない師の魔道具でございます」

 と目を輝かせている。

 こんな状況下でまじないの技術の方に興奮しているとは、豪胆なのか鈍感なのか。だが、この性質あってこそ助かっているのも事実だ。

「根を詰めすぎずに励んでくれ。この結界はもっとも長い場合、明日の夜明けまで持たせなければならぬのだからな」

 腕を組んで結界がおおっていると思われる空を見上げる。効果のほどはよくわからぬが、力は感じる。あの森で聞いたような魔物の吐息のようなものも聞こえない。昨夜も騒ぎ一つなかったようだ。

 かしこまりました、と彼がうなずいてくれたのでその場は任せて再び丘を登る。

 王宮から見ると丘の裏側にあたる面へ回ると、人もちらほらといるくらいになる。小さな子の手を引いた父親の姿があった。聞けば、一家揃って王家に仕える庭師の下働きをしているらしいが、家族以外に身寄りがなく、子どもの教育費を貯めるために王都に留まる選択はできなかったらしい。母親が体調を崩し休んでいるので、父親が娘を連れて散歩に出ているそうだ。

「じきに宮へ戻れる。母君が具合を悪くしているのなら、きちんと侍従長に言うのだぞ。我が君のために苦労をかけている者に、調子がよくないのに働くのを強いるのは忍びない」

 麦色の髪を三つ編みにした少女は、よくわかっていないような顔でうなずく。父親の方は少し安心した表情で、私に感謝を述べた。

 私には医術の心得も治癒の術もない。大切な者が体を悪くして心配している者にも、こうして声をかけてやるくらいしかできん。

 わずかななぐさめにしかならぬだろうが、無視して通り過ぎるよりは幾分かましなはずだ。

 さらに足を進めると、ふと、風が気になる音を運んできた。女性の高い声、それから……男の低い声?

「……誰か争っておるのか?」

 私は足を速めた。ついてくる近衛たちが、小さな茂みを回ったところで緊張した様子になる。

「どうした?」

「殿下、あれを」

 問うとテオフィルが前方を差した。見れば小柄な少女のものらしい乱れた長い茶の髪と、男のものらしい黒いマントが向こうの茂みに踊っている。

「——いや! やめなさいマルク、それはわたしの……やめて!」

「いい加減にしろ! 誰のせいでこんなことになったと思ってやがる!」

 少女の悲鳴と、男の怒鳴り声。理由はわからんがいさかいを起こしているようだ。この状況で周りへの迷惑もかんがみずにいさかいを起こすとは……。

「テオフィル、行け!」

 命じた瞬間若い騎士は駆け出した。見る間に男が取り押さえられ、私たちが歩き着く頃には、すっかり大人しくなっていた。

「何の騒ぎだ?」

 わざと低い声をつくる。胸元を抑えた少女が肩を震わせた。……怯えさせたいわけではないのだが、と思って少女の方にかがむと、服が破かれているのが目に入る。

 思わず顔をしかめた。何のいさかいだったか知らんが、戦う手段のない女性に手をあげるとは。

 すっとドミニクがひざまずいて、自身のマントを少女にはおらせた。彼女は目を丸くし、安堵したように息を吐き出す。

「ありがとう……ございます」

「何があったのだ?」

 今度は優しく問いかけると、少女はうつむく男の方をちらりと見やり、

「あの者が……わたしの、首飾りを売るのだと言うので、耐え難く、このような……申し訳ありません」

 と頭を下げる。

「どういうことだ?」

 男を取り押さえるテオフィルに顔を向けると、彼は首を横に振った。

「殿下、僭越ながら、この二人を裁かれる必要はないかと」

 ふむ、と私は立ち上がって二人を見下ろした。テオフィルのいうことも一理ある。先ほど聞こえたところでは、名を呼び合っていたようであるし、原因が痴話喧嘩だとしたら子どもにすぎぬ私の出る幕はなかろう。

「テオフィル、ドミニク、二人を文官長のもとへ連れて行ってくれ。私はカスパーともう少し見回ってから行こう」

 かしこまりました、と近衛たちはうなずき、丘の頂上の方へ二人を引き連れて行った。

 それを見送り、軽くため息をつく。カスパーが私を見るのがわかるので、仕方なく笑った。

「皆どうにも明るくはおれぬな。あと少し、と思えばかえって気が急くものか?」

「……そうかもしれませんね。上の方へ戻りませんか、ヴィン様?」

 私の騎士の私を呼ぶ声は温かい。ざっと見回しても他に人影は見えなかったので、そうだな、とうなずいた。


 人の多い頂上付近へ戻ると、何やらざわめきがしていた。

「何だ?」

 呟き辺りを見回すと、丘の中腹に人垣ができている。背の方から吹いてくる風に逆らい風を手繰り寄せると、声が一斉に押し寄せてきた。

「煙が」

「あれは二の王子の軍か?」

「都は無事なの……?」

「速いぞ……何かあったのでは」

 はっとして幾重もの丘の影の向こうを見やる。わずかに見える白い壁と、そこへ向かうように動く土煙。

 ——第二王子の軍だ。

 思わず目を見開いてその煙を注視する。策戦は上手くいっているのか。兄上は?

「神よ、水の豊神よ、我が君をお守りください」

「どうか……どうか」

「大丈夫よ、きっと一の君は騎士様が守ってくださっているわ」

「もし……何かあったらどうしよう」

「そんなことを口にするな、不安なのは皆同じだ」

「どうして。……こんなことに……」

「空の女神よ、ご加護を」

 様々な声が耳に届く。

 皆、兄上の無事を願い、自らの先をうれいて祈っている。行き場のない不安に揺れる声が、それでもじっと耐えようとする声たちが、何かしなければと私の胸をいっぱいにさせた。

「ヴィン様……」

 すぐ後ろからカスパーが気づかう声をかけてくる。私は首を横に振り、すうと息を吸い込んだ。

「皆の者、うろたえるな」

 風に声を乗せる。ざわざわと声を交わしていた人々が、次々に私の方をふり返った。

「煙が見えるな。心配だろう、我が君と我らの命運の行方が。だが、案ずるな」

 声をかけるのは、この人々のまとまりにではない。困り顔に眉を下げ、唇を引き結び、目に涙をたたえ、手を組み祈るそれぞれに目を合わす。

 これが兄上の見る景色か。

 そう思った。自らを頼りにし、一心に見つめてくる、一個の人間が、大勢集まり、その束ねられた視線が、自らに注がれる。

 ——重い。

 表情も、視線も、指の先、足を向ける方へ至るまで、全てが彼らに影響を与える。私が見られることが問題なのではない。私の全てが、彼らにどう思われるか、それにどこまで考えが至るかが重要なのだ。

 兄上はこれを背負っているのだ、いつも。今は私が兄上の名代。兄上を慕い、宮のために働き、家族や兄上のためを思いこの環境にも留まった者たちに、応えぬわけにはいかん。

 私は唇に微笑みを浮かべた。

「見ろ、ここに私が立っていることが何よりの証拠だ。兄上は決して私をお見捨てになるようなことはしない。絶対に迎えに来てくださるだろう」

 人々は私を見上げ、目を見交わす。

「だから、落ち着いて待ちなさい。お前たちが今すべきことは騒ぐことでも、泣くことでもない。ただ——我らが王を信じるのだ」

 口を閉ざすと人々はやはり、それぞれの反応を示した。

「三の君のおっしゃる通りだ。今はただ、ご無事を祈るのみ」

 心を定め、神々に祈りを捧げる者も。

「殿下もああおっしゃっているのです。きっと一の殿下はわたしたちのもとへいらしてくださいますよ、さあ、涙を拭いて」

 笑ってみせて、自分より幼い者をなぐさめようとする者も。

「そんなことを言われても、もう終わりだ……あんな大軍が来るなど聞いとらん」

 弱音を吐く者もいたが、

「嘆いても解決しないぞ。お前は第一王子殿下の慧眼を信じないのか」

 ただ、兄上を信じてくれている者もいると知った。

 ふうと息をついて眼下の群衆を見下ろす背後で、ふいに場違いなほど明るい声が響く。

「昼食ですよ、皆さん。お腹が空いていては元気も出ませんからね、さあ、順番に装いに来てください」

「料理長……」

 私は目を丸くし、次いで細めた。湯気の立つ大なべからは空腹を誘ういい匂いが漂ってきて、食欲もなさそうにしていた者でさえ振り向かせそうだ。

 年少の者から優先させて食わせてもらっているようで、木皿にスープを装ってもらった少年は、ほっとしたような笑みを見せた。やはり、温かい料理が出てくるのはいい。誰か私の慧眼もほめてくれてもよいのだがな。

「カスパー、私の分ももらってきてくれないか」

「私ですか? わかりました、動かないでいてくださいね」

 カスパーは侍従の真似事をさせられ不思議そうな顔をしたが、素早く仕事に移った。

 土煙はもう薄くなっている。王都の壁にたどり着いたのだろうか。王宮への丘はすでに登られたか、まだか?

 いずれにしろ、玉座の間へたどり着くのはあやつとあと数名ぐらいであるべきだ。それがこの策戦の終着点。

 冷たい風が首筋をなぜる。前に切った時より少し伸びた髪を、ふわりとさらっていく。

 煙の行方を見定められないかと、私はじっとかすむ白壁に目を注いでいた。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 籠城から二週間。食料も心許なくなり、主の手によって同僚に刃を振り下ろされた兵たちの緊張は極限まで達しており、四日前に王宮へ通じる道だけ包囲が解かれた時、出兵に反対する者は一人もいなかった。

 その他に道がない。それ以外の言葉が思いつかない。

 三日間、夜は公道の外の闇にぼやりと浮かぶ松明の火に囲まれ、迫りくる魔と敵の気配への怯えの中で野営をして、道を進んできた。その間中もここから逃げる術はないものかと頭を捻ったが、何の考えも浮かばない。

 彼の王に仕えると決めた時、自らの頭脳を売り込んだ大言壮語は何であったのかと、フェリクスは頭を抱える。

 父親は太った体で必死に小馬にしがみついて、行軍に半泣きになっているし、半分狂ったまじない師はどこかへ姿を消した。どいつもこいつも役に立たない。

 彼を含む兵たちを率いる第二王子は、常に彼らの方はふり返らず、前を行くのみだ。その横顔から何の考えも読み取れず、フェリクスは声をかけるのを毎度ためらった。

 ゲレオンの疾駆する愛馬に言葉もなく従っていくだけの日が重なり、とうとう王都を囲む外壁が見えた時、フェリクスは覚悟を決めた。

 これは罠だ。

 しかしどのような罠かは、実際にかかる直前までゆかねばわからない。なれば己が先に立って歩き、如何なる罠が仕掛けられているのか身をもって確認し、己の王だけでも逃がす。逃亡は恥ではない。この追い詰められた状況から抜け出せば、挽回の目は幾らでもあるはずだった。

 第二王子の軍を羊の群れのように追い立てる牧羊犬の如き第一王子側の軍勢が、公道の両側を騎馬で走っている。夜に魔物に怯えねばならぬのは彼らも同じはずなのに、一向に疲れが見えない。圧倒的に優位に立っていると思われているのだ。

 ゲレオンの騎馬を追い、フェリクスはヤネッカー候を連れて王都に駆け込んだ。

 都の家々や店々は全て戸を閉ざしていた。大通りに人影の一つもない。子どもの声どころか、浮浪者の汚らしい姿さえ。窓は閂をかけられ、戸には鍵がかかっていた。

「くっ……」

 悔しさから顔を歪める。第一王子の命には、この街までも従うと言うのか。

「行くぞ」

 フェリクスの内心の嫉妬は気にもかけず、ゲレオンが口角を上げて命じる。彼の見上げる先には陽光に煌めく白壁の王宮があった。

 ゲレオンの足が速められる。フェリクスは自身の騎馬の腹を軽く蹴り、速度を上げるよう指示した。そのまま宮へ丘を登っていく。

 後ろを気にする余裕はなかった。彼の王が危険も顧みず、誰よりも速く進んでいくために。

 王宮へ入ったときに異変に気づいた。兵が誰一人としてついてきていない。忠実な臣たるフェリクスと、必死に置いていかれないようしていたために息も絶え絶えになっている侯爵を除いては。

「殿下! 兵がおりません。お待ちください!」

 ゲレオンはさっさと馬を降り、大股に宮へ踏み入ろうとしている。背後をふり返って心配そうに叫ぶフェリクスにも、にやりと笑んで、

「後から来るだろう。ついてこい」

 と命じるばかり。

 迷ったが、主を一人で行かせるわけにはゆかず、フェリクスも馬を降りゲレオンを追った。

「ま、待ってくれ、息子よ……父を置いてゆく気か」

 候も焦った声を出してよたよたとあとを追ってくる。

 王宮の中も一切の人気がなかった。しん、と不気味なほど静まり返った豪華な建物。常に埃一つなく磨かれていた床に塵が積もっており、廊下の鏡は曇っている。

「……誰もいないのでしょうか」

 フェリクスは眉根を寄せて辺りを見回す。

「いや、いる」

 ゲレオンの答えは明快だった。

「待ち構えておるわ、不敬にも謁見の間に陣取ってな。わずかばかりの人数でこの俺に対抗できるとでも思っておるようだ。よいか、フェリクス」

 名を呼ばれ、第二王子の忠実な臣下は背筋を正す。

「はい、ゲレオン様」

 信頼に溢れた名の呼ばれ方の響きに、ゲレオンは満足げに片頬を歪め、腰の剣に手を当てた。

「あやつを捕えればそれでしまいだ。心していろよ」

「はっ」

 フェリクスは軽く頭を下げる。びくびくと息子の注意を引こうとする候は完全に無視されていた。

 ゲレオンの歩みは留まることがない。後ろをついて歩くのさえ一苦労だ。ほとんど無人の王宮を、我が物顔に闊歩する主を見て、フェリクスは何事もなく戦が終わり、玉座に座る主の姿を幻視した。

 真っ直ぐ客間の廊下を抜ければ、突き当りに大扉。玉座の置かれる間にふさわしい飾り立てられた扉を、ゲレオンは筋肉の浮き出る両腕でゆっくりと押し開いた。

 蝶番の軋む低い音が、合図だった。

 彼らは対峙した。

 第一王子は玉座に腰を下ろしていた。白い礼服と輝く鞘の剣が金の玉座に映え、大窓から差し込む光が金の髪と緑玉の瞳を煌めかせている。玉座の横には宰相が立ち、足元にはジークベルトを筆頭とした近衛兵たちが並んでいた。彼らの瞳も鋭く輝き、強く敵を睨み据える。

 第二王子は早速腰の剣に手をかけ、第一王子だけを見据える。フェリクスは眼鏡の奥の青い目を細め、玉座の間から逃げ道のあるかと全体を俯瞰する。ヤネッカー候は情けなく息子の影に隠れながらも、宰相の座をねめつけていた。

「何故玉座に座っている? それは父上の椅子だ。そして俺の椅子となるべき場所だ! 貴様の薄汚れた手で触れていいものではない」

 ゲレオンが黒い目に好戦的な光を輝かせて言う。アレクシスは感情を示さぬ落ち着いた声で応じた。

「玉座を私にお譲りくださると、星姫様が言われたからだ。お前が直接会いたいと言うからこうして場を設けてやったというのに、そちらから出向くことすらこうも遅くなるとは無礼がすぎぬか、二の王子よ」

 大きな声でも、低められた声でもないのに、肌が粟立つような恐怖を感じる。フェリクスは思わず己の腕を掴んだ。

戯言ざれごとを! 俺の呼び出しに応じもせず、こちらから出向かせた無礼者こそ貴様ではないか、アレクシス! 俺の権利を横取りしたくせに、まだ王太子のふりをしているのか?」

 ゲレオンは兄の声に怯える様子もなく、彼を指差す。近衛たちが殺気立って剣に手をかけるが、構いはしない。

「確かに、私は王太子の地位を返上した者だ。だが、お前も隣国への対応や、先王に与えられた騎士団長の地位まで捨てて、義務を果たさなかったことをどう説明する気だ?」

 アレクシスも近衛を止めることも、弟の無礼に憤ることもしない。

「よいか、これが最後の機会なのだ。今これまでの醜態を詫び、私に降り、私のもとでただの騎士として生きると言ってくれるなら、謹慎だけで済ませてやろう。これまで何度も言ってきたことだが、こうなっても従わぬとあらば、私とてお前を捕らえねばならん」

「御託はいい、さっさと俺に玉座を渡せ! 王太子の座を返してなお王宮にしがみつき醜態を晒してきたのは貴様ではないか。貴様に情けをかけられる謂れはない!」

 互いに譲らぬ、嚙み合わぬ言の応酬は、第一王子の鋭い宣言により崩された。

「——星姫様はお前よりは私の方がましだと判断を下されたぞ」

「とっととそこからどけ、盗人が!」

 ゲレオンが止める間もなく駆け出す。

 ジークベルトが振りかぶった剣を抜いた刃で受け、玉座まで駆け上がる。はっと息を呑んだフェリクスが、呻き声に目を見開くと、第一王子が玉座から振り落とされ、床に両膝をついているのが見えた。

「玉座も宮も、父上から受け継ぐのは俺だ!」

 ゲレオンが金の椅子に手をかける。フェリクスの目には彼の王の姿しか映らなかった。さっとマントを翻し、ゲレオンが玉座に腰かける。

 直後、悲鳴が響き渡った。

「っがああぁああ!」

 玉座に、壁にかけられたカーテンの向こうから白い光が放たれる。雷に打たれたかのようにゲレオンの体が痙攣し、手から剣が落ちた。

「ゲレオン様⁉」

 手を伸ばし駆け出したフェリクスの腕を、何者かがつかむ。慌ててふり返れば、いつの間にか背後に回っていた近衛騎士が、もう一方の手を捻り上げていた。

「くっ、放せ!」

 叫ぶが、既に侯爵は両手を縛り上げられ、気をしっかり保つことすらできていない。力の抜けた第二王子の体が、金の椅子から滑り落ちるのを見て、フェリクスは泣き出しそうに短く息を吸う。

 ジークベルトの手を借りて身を起こしたアレクシスは、瞳に憐みを浮かべながら、冷静な声で命じた。

「投降しろ、フェリクス・ヤネッカー。貴様らの兵は都で止められている。助けはない」

「誰が……」

 身をよじるフェリクスだが、近衛兵の銀に光る刃が気を失ったゲレオンの首筋に当てられているのを目にしては、為す術もなかった。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 第二王子に従い籠城していた兵たちは、王都の人気のない大通りに立ち尽くしていた。一応忠誠を誓った主について行軍してきたものの、知らぬ間に主の姿を見失い、とにかく王都から抜け出そうとしたところ、

「どうするんだ、これ……」

「第二王子殿下もいなくなってしまったし、侯爵も……」

「無理だろう、これは……」

 全軍が侵入した王都を、第一王子側の軍勢に囲まれているのが発覚したのだ。彼らは皆ヤネッカーの騎士団員や、給金につられて志願してきた傭兵だったが、長年厳しい戦闘訓練を受けてきたわけでもない、即席の第二王子のための兵だった。元が魔物の大群に対抗するための大層な戦略も、貴族や他国に反抗するための戦術も考えてこなかった、ただ領内の治安維持をして家族や近所の仲間たちを護るためにのみ戦ってきた兵士たち。

 王都の建物は全てが門を閉ざしていたため、頑強な抵抗にあうことが予想できた。それを力づくで破ってまで、彼らの信じる神々の教えを損ない、人々を手にかけ、第二王子のために生き延びようなどと、考える彼らではない。

 王都を囲んだ約三倍の第一王子についた諸侯と王家の騎士団の軍勢は、彼らに投降を呼びかけた。

「馬から降り、武具を捨て、一人ずつ正門から出てくるのだ。大人しく命に従えば、悪いようにはしない、命はとらないとの一の君の仰せだ」

 しばらくは話し合いがあったが、誰かが最初に鎧と剣を放り捨て田舎生まれの小馬の手綱をひいて正門に丸腰で向かうと、皆ぽつぽつと従った。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 黒いローブを頭から被った男が、ある地下道で身を震わせていた。

 闇の中でなお輝く髪、白い衣、足もとまで白いサンダルの女が、彼を見下ろして言う。

「あの方はお願いを聞いてくださったわね。もう逃げ場はないわよ」

「た、頼む……見逃してくれ、このままじゃ、こんなじゃ死ねねぇんだよ、こんな、何も完成させてねぇままじゃ……」

 男は額を冷たい土にこすりつけて懇願する。

「お前はね、人を傷つける魔術をつくったの。まじない師としてあるまじき行為、私としては見逃せない。でも、お前の力には興味がある……私しか知らないはずの、星と同じまじない石のつくり方を成し遂げたわね、独力で」

「ひっ……頼む許してくれ、何でもする、殺さないでくれ、まだ見てねぇんだ、見るまでは死ねねぇんだ……!」

 必死に頼み込む男に、女は暗闇の中で薄く微笑んだ。

「足を差し出しなさい。お前が逃亡しないと誓えるまで足を縛っておきましょう。私たちの実験に協力なさい、死ぬまで。いつかお前が望むものも見られると思うわ」


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 冷たい風が吹いていた。

 多くが都の方を見つめている。天幕にこもる者も、空を仰ぐ者も、祈りたい気持ちは同じだろう。

 私はただ立っていた。もう土煙は見えない。乱は終わったのか、それとも。

 何人もが私に話しかけにきた。私も近づいてくる者には話しかけた。気を紛らわすだけの会話だと、互いにわかっていたが、それ以外にするべきことも見つからない。

 ゆっくりと太陽が西に傾いてゆき、立つ影が伸びてゆく。

 そして、馬蹄の音が聞こえた。

 橙色の光を背に、背の高い馬に乗った堂々とした影。金の髪がきらめくのを見て、息を呑んだ。

 わっと一隊に人々が近寄り、我が王よ、万歳、と声をかける。

「皆、待たせたな」

 待ち望んだ、凛とした声が響いて、しばらく声を忘れた。安堵とこれまで見て見ぬふりをして抱えてきた恐怖とが、言い得ぬ感情になって私を押し流す。

 兄上の顔がこちらを向いたと思ったとたんに、足が勝手に動いていた。駆けていって、背の高い胸に飛び込んだ。

「兄上!」

「ヴィンフリート」

 兄上の嬉しそうな声が降ってくる。見上げると兄上は愛おしげに目を細め、微笑んでいた。

 ——ああ、終わったのだ。

 そんな言葉が浮かび、ほっと息がつけるようになる。

「……ご無事で——ようございました」

 それだけ言って強く抱きしめる。温かい。力強い心音が聞こえる。こんなに近くに寄れたのもいつぶりか。

 応えるように、兄上も私を両手で抱きとめてくださった。

「お前も、よく無事でいてくれた」

 ぞろぞろと文官たちも出てきて、兄上に微笑みかけられると感極まったようにくずおれる者や、勢いよく最上礼をしてみせる者もいた。

「我が君、よくぞお帰りくださいました」

 ダーフィトなんぞはそうあいさつして、涙ぐんでいる。兄上は笑って、

「王宮へ帰るぞ。今夜を過ごすのは丘ではなく、宮でだ」

 いたずらっぽい声音に、皆それぞれに声を上げて応じ、騎士たちに護衛されて王宮の丘まで歩き出した。

 私は兄上の横に馬を歩ませ、兄上が官や騎士たちに命を出すのを見ていた。言いたいことはたくさんあったけれども、それはあとでいいと思った。生きて再び会えることが、ここまで嬉しいと思ったのは初めてだ。

 全員が宮に着いたのは夜も遅く、片付けもそこそこに眠ることになったが、兄上におやすみなさいと言えて、久々に己の寝台で眠れて、それだけですぐに眠りに落ちることができた。

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