三.断罪、その果て
翌日から片づけが始まった。
まず星の丘の仕掛けを取り除く。再びの使用も適うよう魔道具の研究、保管を任されたまじない師たちは興奮気味だ。丘に残してきた天幕など、急ぎで設営したものも騎士以下兵士たちが回収している。
一緒に星の丘に残っていた仕え人たちも揃って王宮に引き上げ、いち早く自身の部屋で眠ることができたようだ。
王都に囲われていた第二王子の兵たちは昨夜のうちに投降者の保護、武具の回収が終わったようだ。兄上は脅威は去った、門戸を開けと民たちに命じた。すぐに街の営みが再開し、店が開き、笑顔の者たちが踊ったりなどもあったようだ。我らがユースフェルトの民は強い。
一度空にした王宮に普段通りの業務をさせるにはさすがに手間がかかるようで、最初に王都に避難していた文官たちが戻り、次第に他の近場から帰参してくると、元のような活気を感じられるようになった。
地方に移動していた文官や、姫たちの母君の実家には王宮に戻ってもよいという報せが向かった。一週間もすれば戻ってくるだろう。
私は、文官たちの政務の滞りを解消しようとする中に混じるのも、仕え人たちの宮の掃除や日々の生活を整えようと忙しなく立ち働くのの中に入るのもじゃまになるかと思って、できる限り兄上のお傍にいてついて回った。
兄上は文官たちと放置されていたこの一週間ほどの政務を片づけ、騎士たちを労わり、と一ところに留まることも少なく立ち働いている。カスパーとジークは振り回されて困っているかもしれぬが、兄上の凛とした導き手としての姿を見ているのは……こういってはなんだが、おもしろい。興味深い、というべきか。
この慌ただしい時に近衛の再編など面倒であろうから、帰ってからもカスパー、ドミニク、テオフィルの三人に私の護衛を担ってもらっている。しかし私の護衛任務から離れた時も、近衛騎士団長たるヘンドリックに、王宮騎士団長バルタザールからの仕事だと、何かしら巻き込まれているらしい。大方虜囚となったヤネッカーの兵たちの処理だろうが……。ちゃんと休息もとってほしいものだが、我らが王が働きすぎなほど動いているからか、騎士たちもむやみに休む気は持たぬようだ。主従揃って真面目なことよ。
「ヴィンフリート、虜囚の扱いについて学んでおきなさい」
兄上は私がついて回るのをとがめはせず、むしろ普段王宮で過ごしているだけでは気づけないことに気づかせようとしているようだった。
捕虜となった元第二王子の兵たちは、王都と王宮の騎士団の施設の一角に押し込められてはいたが、自分から投降したためだろう、悪くはない待遇を与えられているようだった。数人ごとに小部屋に入れられているが、固く狭いものではあるだろうが寝台もあり、時間制で風呂や厠を使用することもできるらしい。暴れたり抵抗を見せたりした者は独房のごとく一人部屋に押し込められているそうだが、そのほうが居心地がよいのではないかと少々疑問だ。彼らの家のものとは違い味気ないだろうが、食事もきちんと出されているから死のうとしたり脱走したりという者はいないだろう。処分は元主たる第二王子とヤネッカー候父子の処遇が決まってから言い渡されるそうだ。多分、多少の時間はかかっても、家族のもとへ帰れるだろう。
私も兄上も、王族に命じられるということの重さも、二の王子に逆らうことの困難も、よくわかっている。ましてや一領主主導の反乱だ。家族や大切な人を人質にとられたようなものだろう。抒情酌量の余地は大いにある。
三日ほどして、アリーセが戻ってきた。王領に住む親戚の家にいたらしい。身近な使用人たちがいなかったので、他の仕え人たちの手をわずらわせるのもと思い風呂の仕度や掃除以外のことはできるだけ自分でやるようにしていた。アリーセがいてくれるなら、細かいことの手配は任せられるし、気が楽だ。
「よく戻ってきてくれた」
「わたしが貴方様付きの侍女である限り、宮が、ヴィン様のお傍がわたしの居場所でございますから。どうぞ何なりとお申しつけくださいませ」
そうアリーセが微笑むので、私も頬がゆるむのを抑えられなかった。
「よろしく頼むぞ、アリーセ」
モニカとエーミールはまだ戻らんが、二人は王領の外の家族のもとへ返したので、戻ってくるのはもう少し先であろう。これも一種の里帰りだと思って、楽しんでほしい。すでに私は安全なところに戻ったのだから。
段々と宮が日常の姿を取り戻していく。
兄上は毎日、必ず一つの報告を聞いていた。朝執務室へ行って一番に、夜内宮へ引き上げる際に、必ずといっていいほど、
「獄の塔の様子を報告せよ。……何者も侵入しておらず、誰も死んだりしていないだろうな」
問う声が低く、感情を見せないのがかえって怖い。問われる騎士は毎度わずかに肩を揺らしていた。兄上は獄の塔に放り込まれた主犯格どもが、他者によってだろうが自らの手によってだろうが害されるのをひどく警戒しているようだった。
——私にもわかる。あれの仲間とやらはともかく……あれは、何をしでかすかわからぬところがあるから……。
何より、王宮内に地下牢の一つも造っていないのが問題なのかもしれんが、同じ建物内に此度の原因が揃っているのだ。警戒するに越したことはないし、——早く片をつけるべきであるとも、思う。
第二王子の一派を捕えてから五日目。兄上が正式に宣言した。
「明日
「参列は各自の自由でございます。が、騎士の指示には従うように。——また、希望なさった領主の名代もいらっしゃいます。無礼のなきよう」
隣に立つオイゲンが宰相の顔をして追加の連絡をする。
書棟に揃って、耳を傾けていた者たちはざわざわと話し合い出した。滅多にない、あってはならない王族が裁判にかけられる事態だ。文官たちは後学のためとか、兄上の決断を見届けるためなどと言って、出席する者が多いだろう。文官は貴族の二番目以下の子どもであることも多い。実家に結果を報せるため参列する者もいよう。
騎士たちは、虜囚の裁判とはいえ王に仇なした者の裁判ゆえ、王族以下参列者の護衛に立つ。任にない者たちは……どうだろう、結果にしか興味のない者もいるかもしれない。
また、此度のことを解決するために諸侯の力も借りた。新しき王となる兄上の下す判決をその目で見るためか、この騒動の結末を見届けるためか、裁判に臨みたがる者がいるのも理解できる。一方で領主が普段暮らす地は大概王都から遠く離れている。そのために王都周辺にいる一族の貴族が名代としてくるのも。
「兄上、その……妃様方や、姫たちの到着は待たずともよいのですか。彼女たちも今度のことでは渦中におりましたでしょう」
内宮の居間で紅茶を片手に、何やら考えているらしい兄上に問いかけた。兄上はふっと眠りから覚めるように瞳に光を灯し、私を見て、
「いや、彼女らには見せたくないのだ。幼い姫たちには特に、自らの半分とはいえ血のつながった兄が、罪人として裁かれる様など」
そうでございますか、とうなずく。私とて、ジルケやアルマに二の王子が己がしたことの責を負わされる瞬間をわざわざ見せたいとは思わない。後宮を出るものと言われてきた年齢にも達していない彼女たちに、これ以上の重荷を持たせたくはない、が。
「では、私は……」
どうなのだろう? 成年にも満たぬ子どもには見せられぬと言われたら終わりだ。だが、私は最後まで見届けたく思う。私たちが袂を別った、その結末を。
兄上は困ったように眉を下げて、苦笑した。
「お前は出なさい、ヴィン。ここまでよく私についてきてくれた。それに報いずとあらば私の方が咎められるべきだろうね。しかし、安全なところにいてくれ。五日も何の行動もなかった故、こんな警戒は滑稽かもしれぬが……お前のことを失いたくはないのだ」
「っはい、兄上」
私は力強くうなずいた。兄上は色々なものをお一人で抱えてしまうことが多いが、私たち弟妹を守るためにというものが根底にはあるのだろう。それを押しても、私を信頼してくださるというなら応えねば。
何度も言ってきたが、私は兄上をお支えしたいのだ。判決を下すことは、私にはできん。兄上がどのような結論を出されたのかも知らない。それでも、私は兄上を信じている。
鐘が鳴る前にぞろぞろと貴族たちが丘を登ってきた。今回は夜会のための陽気さではなく、王族による王家への反乱という気の乗らぬ出来事に関する裁判に伴う陰気さをまとって。
希望する者には昼食なども出されていたようだが、招待されてきたわけではない客たちは礼をわきまえている者が多かった。それは結構だが、我らが文官たちの中にも、自分が裁かれるわけでもあるまいに緊張して食事をとれないなどと抜かす者がおる。
厳正な裁きの場で腹が鳴るほうがよほど恥ずかしいのではないかと私は思ったがどうだろうか。私はいつもの通りに昼食をとったが、兄上は先に謁見の間へ向かい一人であったため、静かなものであった。
オイゲンに促されて大広間へと向かう。すでに広間は大扉から玉座へと通じる一本道を開けて、その周りは文官たちに貴族たち、警護の騎士と兵士たちでざわついていた。
兄上は平服で、金杖を片手に帯剣して玉座に座られていた。ジークと数名の近衛たちが足もとに控えている。その傍らに何となく開かれた空間に、オイゲンは私とハルトをつれて立った。背後にはカスパーらが控える。裁きの場には準備が整っていた。
「連れてこい」
兄上が黒いベストを着た騎士に命じる。はっ、と短く応じ、騎士が部下らしい若い騎士に命令を伝達すると、若い騎士はどこかへと消えた。少しして、大扉が開かれる。
「静粛に!」
オイゲンが声を張り上げた。天井の高い謁見の間では、風の魔術を使わずとも声が響く。しん、と代わりに静寂が音を立てそうなほど、空気が引き締まった。
「これより王の裁きが明らかとなる。被告者は先王が第二王子、ゲレオン・ユースフェルト。参列する者は王に誓いを立て発言するものとする」
宰相の口から滑らかに定型句が紡がれる。
「これより開廷」
兄上の凛とした声と同時に、金杖が床を叩く甲高い音が響く。
「被告者を前へ」
命令に、黒のベストの騎士二人が両手を背に回して縛られた焦げ茶の髪の男を引きずってくる。大扉から玉座へ引かれた人垣の道を半ばほど進んだところで、騎士たちの動きに伴って両膝をつかされる。王にする最敬礼の姿勢。
「ご苦労。——面を上げよ」
騎士たちを労わった兄上が、咎人に命じる。立ち上がり圧をかけるように体の両側に立つ騎士たちの間で、のろのろと顔を上げた男は、だらしなく垂れ下がった前髪の下から、呪詛にでも囚われていそうなよどんだ茶の目で兄上を見上げた。
これが反乱を起こした第二王子の成れの果てか。
冷たい光を宿した緑玉の瞳で、私と同じことを思ってか兄上は第二王子を見下ろし、
「被告者の罪状を告げる。異論ある者は宣告を終えてから発言することを求める」
罪人に対する一方的な裁きの始まりを告げた。
「被告者は第一に、諸侯に諮った王位継承の議決に対する反乱を企て、実行した。その言い分は、先王が第一王子たる私が、国際裁判の合議に基づき王太子の地位を自ら返上したことにより、己に王位継承権第一位の座が移ったということである。しかし、これは明白な間違いである。一国の決まりごとよりは国際裁判の決議が優先されることは、トールディルグの大地に連合する人間の諸王国の協定。私はこの定めによって、王太子の座を一度白紙に戻し、新たに次なる王を定める審判を、諸侯の会議と、次代の王の選定者たる星姫様に託すこととした。継承権順位に変更はない」
私の隣に立つハルトが、その通りだと言いたげに深くうなずいてみせる。ハルトはオイゲンの弟子であるから、法の知識においても長けているだろう。異論は出ないはずだ。
「また国際裁判によって先王の政務遂行が不可能となったため、先王陛下には玉座を退いていただき、私が継承権第一位の王子として国王代理となって立ち、職務を果たすこととした。文官長以下王宮の文官たちと、王宮騎士団長以下騎士たちの協力を得たことを王宮の総意と解釈する。この間、私は国王代理の名のもとに被告者に帰都を命じたが、被告者は乱の企てのため、意図的に帰都を遅らせたと第六騎士団から報告が上がっている」
己の部下の裏切りが宣告されても、二の王子は表情を変えない。無表情に近い淀んだ瞳が、兄上を見ているだけだ。
「国王の即位には三人以上の星を持つ者の同意に基づく調印式がなされねばならん。調印式を執り行うため、私は諸侯を招き国王選定会議を開催した。会議において被告者は反論を行わず同意とみなされる言動をとったにも関わらず、その後決議に反すると宣言した。さらに、人命を盾にとった脅迫を行い、騙し討ちを企てた。そのため私は被告者の第六騎士団長の地位と星の剝奪を命じた」
そういえば、と見やれば、第二王子の手に星の指輪が見当たらない。とうとう剥奪されたか。
兄上がすらりと長い指を立てる。
「被告者は選定会議の裏で二重の罪を犯していたことが確認されている。その一つは、人を傷つけるための魔術の使用。詳細は星姫様の領分であるので詳しくは述べぬが、まじない石を使いまじないによって人を傷つける呪いをつくり出し、使用した。この件に関与したまじない師を捕えており、自白がとれている」
⁉ 捕らえられておったのか。それは喜ばしいことだ、あのようなまじないを平気でつくる者が野放しにされていては困る。
もう一本、指が立てられた。
「次に、その魔術で狙った相手が王族であったこと。第一王女ジルケが炎の魔術に害されかけ、私自身被告者との話し合いのため星の丘に向かった際、風の呪いに近衛を傷つけられた。人の命を狙ったのみならず、一族をその手にかけようとしたことは未遂とはいえ重罪にあたる」
まったくその通りだ。今度は私も先のハルトのように深くうなずく。幼い実の妹を手にかけようとしたこと、私はこの先も決して許すまい。敵対する者を手っ取り早く暴力で排除しようとするその愚かさも。
兄上の発言に貴族の聴衆がどよめく。これまでは余計な混乱をさけるために秘されてきたことだ、衝撃も大きいだろう。
「この策に失敗した被告者は協力者たるヤネッカー候とその子息の兵を用い、王家に対する反乱を実行に移した。ここで王家と言うのは、その時点で私は宰相を任命しており、星姫様に玉座を認められ正当な王位の継承者と認められていたためである」
ああ、私の件は公にはしないでくださるのか。
少し安心する。すでに地に還った母の実家のごたごたのために、兄上が優秀な宰相を失うようなことがあってはならぬからな。
星姫様の権威は絶対にほど近い。玉座の正当性を主張された貴族たちは、第二王子に対する暗い目をより鋭くした。
「加えて、被告者は私が国王代理の権に依って開いた豊穣祝祭における再三の話し合いの要求にも応じず、兵と力に訴えた。被告者の行動が国のため民のためのものであると言えようか。被告者に従ったヤネッカー候とその子息も同様である」
ここまで罪を重ねてまだ罪状のあるこの男。ため息をついてやりたい気分だ。ハルトも若葉の目を見下げ果てたような色にしてしまっている。それに比べて兄上もオイゲンも、兄上の足もとに控えるジークも顔色を変えんな。内面が読めない。が、この場では当然のことだ。私やハルトが未熟なのだろう。
「乱に際し、被告者は旧砦を占拠し、見張り番の兵士とその飼い犬に暴行を加え、降伏勧告に出向いた私の使者が文書を伝達した己が部下を斬っている。人の命を何とも思わぬ行動を見るに、被告者に王位継承の権利はないと言っていいだろう」
再び聴衆がどよめいた。
仮にも魔物や敵国の兵から国民を守るために組織された騎士団の長に一度は任命された者が、それほど人の命を軽んじるのか、と。そう言いたいのだろう。
「被告者は騎士団長の地位を失ったにも関わらず王宮に帯剣のまま侵入し、あまつさえ玉座を力尽くで奪おうとした。現在、星姫様のお力により、その体は厳罰を受けておる」
そういうことか、と頭の中で考えが閃く。
星姫様のお力とはまた遠い言い回しをなさる。実際は王宮の星の力だ。私は一度その力を目の当たりにしている。兄上がこやつを玉座の間におびきよせればよいと言った時から、予想はついていた。兄上の言っていた、星に拒まれるという現象が本当になったわけだ。
『痛みか、力を失うか、魔力の制限を侵したらそうなるというがな——』
あの男は痛みを受け、力を失ったのではないか。だからあのようによどんだ力しか感じられぬのだ。
「罪状はこれで全てだ。参列者に発言を許す。疑問あるいは異論があるか」
兄上が問う。
皆口を閉ざした。これほどまでにユースフェルトの領主層の一族としてあるまじき罪を重ねたと聞かされて、厳罰が下されることをじゃましようと思う者はいないらしい。
「では、被告者に発言を許す。異論があるか」
ぴり、と空気が一時に緊張をはらんだ。
第二王子が未だに反駁を示す濁った眼で兄上を見上げる。しかし、開いた血色の悪い唇から出てきた言葉は、否定ではなかった。
「何も」
たった一言、己の犯した罪の数々を認めてしまう。
参列者がざわめいた。認めた、肯定した。この男は間違いなく罪人だ。風が人々の口々に言う無責任な感想を運んでくる。
だが、そうだ。この目の前の力を失くした若い男は、神々とユースフェルトの人々の定めた人の法に触れた咎人なのだ。
「——では、判決を言い渡す」
カン、と金杖の底が冷たい床を叩き澄んだ音を出す。兄上の感情を見せぬ低い声が告げた。
「被告者から第二王子の敬称を剥奪し、その王位継承権を未来永劫否認する。被告者はもはや王族に非ず。最北の地への追放を命じる」
「⁉」
誰が息を呑んだ音か。隣のハルトだろうか、前に立つオイゲンだろうか。後ろで真面目な顔をしているであろうカスパーか。それとも聴衆の誰かか、あるいは様々な人々の声だろうか。
「ヤネッカー候とその子息には、毒酒による自死を命じる。新たなヤネッカー候の選定は私自身の手で行う。また、ここに報告する。先王陛下は自らお手をかけ育てた二の王子の行く末を案じ、その生に幕引きを終えておられなかった。全ての終わった今、先王陛下は全ての責をとり、ご一存で最期の選択をなさるそうだ」
続けて衝撃的な報告がなされるが、誰もきちんと聞いてはいないのではなかろうか。人々がざわめき出し、低い声で会話が交わされる。どれも整ったものにはなっていない。
皆信じられぬのだろう。これほどの罪人に、最重刑の自死を命じられぬことが。
私は動じなかった。
兄上のお考えは誰より理解できる。今この場にいる誰よりも。
兄上は、生きる目的を失くした先王が第二王子の終わりと同時に自らの人生に幕を下ろすことも、王権に逆らい乱を起こした貴族に自死を命じることも、王たることの責任として受けとめるおつもりでおられるのだろう。
先王には私も兄上も、別れを済ませてきた。私たちの母を想うこともない、遠くに暮らす男が、勝手に死を選ぼうとも私たちの重荷にはならぬし、なってはならぬのだ。
身分の序列にひびを入れる反乱の主犯格を許すこともあってはならない。貴族たちに王の権威を示すことができぬのでは、これからの兄上の治世に影響を及ぼす。
しかし、あやつだけは。
同じ男の血を引いた、同じ時に同じ宮で育ってきた兄弟で。兄弟殺しを自らの言葉で命じるほど堕ちるには、兄上はお優しすぎる。
選ばれたのは追放だ。王族ではない咎人が、何の保護もなく国の最果ての地に放り出される。どうしようとやつの自由だし、どうされようとも王家は関与しない。ある意味では自死を命じるより冷酷な罰かもしれなかった。
だが、——何より、あやつに与える罰としては、死などぬるすぎる。
判決を言い渡され、誰より呆然としているあの光の消えた瞳を見ればわかる。あやつは終わりを望んでいるのだろう。それに与えられる、自らを育てた無二の父親も、従順な部下も、全ていなくなった後での生。死より重い罰を、と兄上は言われたのだ。
私に異論は全くない。
自身でもわかるほど冷たい目で第二王子の反乱の果ての残骸を見据える。私を振り向いたハルトが、目に不思議な色をたたえるのが目に入った。
「静粛に! 静粛に!」
宰相がまた呼びかける。ざわめきは収まらない。
兄上とあやつは、聴衆の真ん中で泥と緑玉の目を見交わしているようにも見えた。兄上がすっと金杖を持ち上げる。
「では、これにて——」
言いかけられた宣言は、大扉の方から聞こえた悲鳴で途切れた。
「きゃあ!」
「な、何だ貴様は!」
「何をしている⁉ やめろ!」
叫び声。何事だ⁉
勢いよく振り返った大扉の方の人垣から、黒色の風のかたまりのようなものが目にも留まらぬ速さで走ってくる。
止める間もなかった。
咎人の左胸を、一瞬にして銀色の刃が刺し貫いていた。
「……は」
声にならぬ声が己ののどからした。
目の前で、男の胸から刃が生えた。それが引き抜かれ、鮮血が噴き出し、男の白いシャツと侵入者の黒い衣を赤に染めるさまが、やけに遅く、ゆっくりと見える。
どっ、と男が血の海に沈むのを見てとった時、反射的に叫んで飛び出していた。
「——二の兄上!」
オイゲンの脇をすり抜けて、風の力を借りて跳ぶように駆け出す。誰も私を止められはしなかった。異常にゆっくりと動く世界の中で、赤に濡れた剣を持った覆面の侵入者が、私があやつの方へ向かうよりも速く玉座の方へ走っていくのが見えたが、気に留めることもできなかった。背後で刃同士がぶつかって鳴る甲高い金属音がする。
やつは自身の胸からあふれ出す血溜まりの中に沈んでいた。その傍らに膝をつく。ごふ、と聞くに堪えぬ音がして、のどからも血があふれ出る。
「……っくそ!」
周囲は恐慌状態だ。怒号と悲鳴と、この場から逃げ出そうとする者と助けを求める者と、交錯して己の声もはっきりとは聞こえない。それをいいことに毒づく。
とっさに首に巻いた白いタイを解いて、胸の刺し傷に当てた。すぐにじわりと赤がにじみ、あっという間に染まる。まるで役に立たない。私の手ににじみだした赤がつく。
背後でガキン! と重い打突音。
私は傍に立っていた朴訥そうな文官の青年に怒鳴った。
「医師を呼べ!」
「え? え?」
「医者を呼んでくれ! 聞こえたら走れ、早く!」
もう手遅れなのはわかっている。わかっているがすがらずにいられない。青年はこくりとうなずいて大扉の方を見たが、人々が殺到していてすぐに出られそうになかった。
玉座の方で捕らえろ、などと騒いでいるのが聞こえる。他人の声などどうでもいい。
また彼が血を吐く。乱れた前髪の下の瞳が揺れている。
「おい! しっかりしろ!」
どうにもならないと知っているのに、怒鳴りかからずにはいられない。
「刺客にやられた程度で貴様の人生をあきらめるつもりか⁉ 死ぬことまで勝手をする気か!」
言っている途中でじわりと涙がにじんで視界を白くした。彼のにごった瞳しか見えない。努めてまばたきをして、にじむ視界を払う。
「兄上が……私たちが、どんな思いであの選択をしたかさえ知らないで……!」
声が詰まる。彼が私を見た。目が合う。
「——ゲレオン!」
兄上の声。どんな状況でも凛と響くそれが、荒れきった音におおわれた空気を切り裂いて、私の耳に届いた。剣が揺れる音、駆けてくる足音。乱れた息が頭上に来た時、つと茶色の瞳が上方を向いて、彼は、——ふっと笑った。
がくりと頭が落ちる。
あ、と思わず呟いた。
は、は、と短い数呼吸の後、絞り出すような声が吐き捨てた。
「——この……馬鹿者めが……!」
めったに他人を貶めるようなことさえ言わない、あの兄上が。
全てを凝縮したかのような一言の罵倒に、私は兄上が彼に抱いてきた何もかも、わかってしま ったような気がした。
◦◦◦◆◆◆◦◦◦
ああそうか、と男はささやいた。
外からの空気は格子を通ってしか入ってこない、半年以上を過ごしたその牢獄で、老人のように白がかった細い金の髪を伸ばした男は、背を向けた廊下に立つ影にうなずいて見せる。
「よく報せに来てくれたな。お前はあれにはつかないで、最後まで私のものだった」
「……私は腑抜けた馬番とは違いますから」
影は抑揚のない声で答える。
男は低く笑った。
「そうだな、お前こそ我が影、私の耳にして目。よく役目を果たした。私もここで終わる。ここを去ったら好きにせよ」
「……は」
影は短く応じるのみ。男は小さな卓の上にのせられた、並々と暗い酒が注がれた豪奢な金の
「世は最後まで私を見はしなかったな」
呟くと喉を鳴らして杯を飲み干す。乾いた唇を赤い舌がなぞる。
あの子のことも、と唇だけがささやいたのを最後に、男の手から金の杯が落ち、毒酒の雫が石畳の床に零れ落ちた。
◦◦◦◆◆◆◦◦◦
暗い格子の壁の向こうの闇に、金色の小さな杯が二杯差し出される。中身は得体の知れぬ黒い液体だったが、その場にいる誰もがその正体を知っていた。
「……許されはしませんか。まあ、当然でしょう」
フェリクスは冷たい石の床に背筋を正して座り、格子の内側に置かれた杯を見つめる。
その後ろの闇で、ぶくぶくと太った不摂生の象徴のような体をした侯爵は、肉をぶるぶると揺らして毒杯の恐怖に震えていた。
「い、嫌だ、何故私が! わ、私はあの男に脅されただけだ、何故誰も聞いてくれぬのだ? 嫌だ、死にたくない、死にたくないぃいい……」
ぶつぶつと頭を抱えて呟き続けるだけの肉のかたまりに、杯を置いた黒いベストの兵士は呆れた目を向ける。
「ご自分のなさったことに目を向けていただきたいものだ。陛下のご判決は最重刑の実施。お覚悟を決めていただきたい」
仮にも貴族と思ってか、平民生まれの兵士は元侯爵に敬意を表す情けを見せる。
話が通じるかもしれない。フェリクスは兵士に声をかけた。
「これを飲むことに異議は唱えません。ただ一つだけ、主がどうなったか聞かせてはいただけませんか」
「主?」
「第二王子殿下のことです」
それに鈍い金髪の青年兵士は目を瞬かせ、
「そうか、主か。だが、俺にそれを告げる権限は……」
と首を振ったところで、背後に立った気配にばっと振り返った。
「何者だ!」
他に人のない湿気った地下牢に、兵士の
「ワタシ、はいい。我が、雇い主の、伝言ダ。道を過った子どもの始末、は、つけるト」
ユースフェルト人の発音ではない。傭兵だろうか。
腰の剣に手を添え警戒して見上げる兵士とは反対に、フェリクスは格子の方へ身を乗り出し、目を輝かせた。
「それは、まことですか。あの方は、終わりを見つけられたのですか?」
「そうダ」
影のきっぱりとした返事に、黒髪の青年はほうっと息をついて青い目を閉じた。
「ああ……やはり貴方様の王国は、地上にはないのですね」
何を言ってやがる、と若い兵士は虜囚をねめつけて眉根を寄せる。フェリクスはもう他人のことなど気にはしない。姿勢を正すと、まるで神酒をいただくように丁寧に小さな金杯を持ち上げ、
「約束通り、わたくしは天上であろうと地の下であろうとお供いたします。今参ります、愛しいゲレオン様……」
そうささやくと、杯を傾けた。
それを見た兵士は肩から力を抜く。どさり、と重い音がして、青年の体は石畳に倒れ込んだ。
「……フェリクス?」
震える声で侯爵が問いかける。返事はない。あるはずもないのを確かめただけだ。
「う、嘘だ。何故、こんな、むすこよ、どうして」
男の体ががたがたと震える。
「貴方も飲むんだ」
兵士が彼をじっと見て言う。男はひっ、と短い悲鳴を上げると、頭を抱えて牢の奥へ引っ込んだ。
「い、嫌だ、いやだ、むりだ、あ、あぁ、ああああぁ……」
意味のない母音を垂れ流すだけになった男に、兵士はため息をつく。
「狂っちまうのか。いっそ死んだ方が身のためだぜ。死に方くらい格好いいのを選べばいいのになぁ」
兵士の独白を聞き終えた影が一層酷く揺れる。
「あ、待て!」
剣を抜くと同時に立ち上がり、一閃。手ごたえはなく、影は消えていた。ああ、始末書もんだ、と嘆く兵士を一人暗闇に残して。
◦◦◦◆◆◆◦◦◦
物言わぬ抜け殻となった男の体を前に、血にぬれた両手を持ち上げて見つめた。
ばたばたとやっと医師が到着する。騎士団付きの医師は、血の海に束の間顔を強張らせた後、ためらわずに男の体に触れ、亡くなっています、と淡々と告げた。
何と、軽い。
あまりにも軽く、彼の命は私の両手の隙間から零れ落ちていってしまった。それが彼の
「……姫に何と詫びればいいと思ってる」
届きはしない文句を口にする。
床に手をついて立ち上がると、磨き抜かれた床に血の跡がついた。
振り返ると玉座の足もとで刺客が両腕を背中で捻じり上げられてジークたちに抑え込まれていた。
抜き身の宝剣を下げていた兄上が剣を鞘に戻し、振り返りざまに問いかける。
「貴様、誰の命で我が判決に異を唱えた」
人々も恐慌状態からは戻ってきたようで、かなりの人数が広間の外へ逃げたようだが、残っている者たちがざわざわと話し合いながら様子を見ている。
刺客は暴れる様子はなく、捕らわれた身ながらきっとこちらをにらんで口を開いた。
「我が——は、血のつながる者のしくじりは血と——るじの命でつけるとおっしゃった」
皆がその言葉に首を傾げる。私は目を丸くした。
「セゼム語?」
「ヴィン、わかるか」
言ったとたんに兄上に聞かれる。判断がお早い。
「彼の主人は、親戚、いえ、身内の不始末は自身と、これの命で片をつけるとおっしゃった、と言っているようですが」
これ、と足もとに転がる憐れな残骸を見下ろして眉をしかめる。
「……ウィルマー候か」
と兄上も唇を引き結ぶ。片手を振って外を示され、
「連れていけ」
「処分は如何様に」
とジーク。
「法に
殺人の現行犯だ。最重刑に決まっているが、誰も直接的なことは口にしなかった。この惨状を見てそれを口に出せるとしたら考えなしか狂人ばかりだろう。
侵入者が連れ出され、兄上は額に片手を当てて疲れたように言った。
「……ウィルマー候の侯爵位を剥奪。その身をもってこの罪、償わせるべきところだろうが……あの口ぶりでは既に自ら命を絶っていような……」
あのしゃんとした老人が。そう思うと同時に納得もする。
自身の決断に絶対の自信を持ち、違えることをしない人なのだろう。孫の犯した罪に対して、ここまでのことができようとは。
兄上は手を下ろし、血溜まりを見下ろすと命じた。
「騎士たちよ、ここを片づけてくれ。彼の体は安置所に。参列した者たちにも、希望する者がいたら護衛をつけて帰っていただこう。文官は業務に戻りなさい。ヴィンフリート、」
はい、と見上げる。
「下がりなさい。私が戻るまで後宮にいること」
はい、とうなずくしかできない。
ちらりと兄だったものを見下ろして、きびすを返そうとした時、兄上が呟くのが届いた。
「……結局、私の王道も血に濡れたか……」
その暗い声に思わず振り返った。乾いた血のこびりついた手だったと思い出して直前で止まったが、その手をつかもうとして。
驚いた顔で私を見た兄上に、目を合わせて言い切る。
「それは違います、兄上」
「ヴィン」
何でもないよ、戻りなさい、とでも言いたげに緑玉の瞳が揺れるのを無視して告げた。
「貴方様の道が血ぬれたとて、私もその隣を歩いているのをお忘れにならないでください」
兄上は一瞬目を見開き、次いで細めると、一つうなずいて少し柔らかくなった声で、
「……そうだな。戻りなさい」
と優しく言った。
裁判は閉廷、乱は終息したと伝えよ、と貴族たちに命じる兄上の声を背に、後宮へ足を向ける。
オイゲンとハルトは混乱を収めに出ていったと見え、カスパーだけが王族用の出入口の傍に立っていた。
「ヴィン様」
私の手についた血を見て体を固くする私の騎士に苦笑して見せる。
「私のものではないよ」
広間を出ると、侍従たちが心配顔でこちらをうかがっていた。おろおろしている若い侍女の一人に声をかける。
「すまぬが、アリーセに湯の用意をと伝えてきてくれぬか」
はいっ、と少女は内宮へ駆け出していく。
自室へ戻ると、アリーセが勢いよく扉を開けた。
「ヴィン様! お帰りなさいませ」
さあそこへ座って、手を出して、と息つく間もなく言われて大人しく言うことを聞く。盥に湯を張って、血を溶かしてきれいにしてしまうと、アリーセはタオルの上から私の両の手を包んだ。
「ヴィン様。……大丈夫ですか?」
ふいに、生前の母上に叩かれた時も、侍従長がこうしてくれたのを思い出す。あれからずいぶん色々なことがあって、全てが変わってしまった。
今、一つのことが何はともあれ終わったのだ。私は、……何を思うべきなのだろう。どうにもぼんやりとして、心が激しい反応を見せない。普段は怒りだの愛しさだのに、すぐに弾けそうなほど激しく反応する私が。
初めて間近に人の死を見た。
悲しいとは、思っていない、気がする。少し悔しいような気がする。
私はあれほど考えたのに。兄上はずっと悩んでいらしたのに。彼の願いの方が叶ってしまった。それがどうにも悔しいような気がする。
「……わからん。が、その……」
どう言ったらいいものか。兄上のことは心配だし、ジルケとヤスミーン様が気がかりでならない。私自身衝撃を受けたのだろうか、いつもと違うのは否めない。
だが、
「少なくとも、お前たちを無事で守れたことだけは、よかったな」
私の大切な仕え人たちも、兄上も妹姫たちも、誰も欠けなかった。小さく困り顔に笑ってみせると、アリーセも同じように眉を下げて微笑んだ。
「ありがとうございます、ヴィン様。いつ何時でも仕え人を想ってくださる主をもって、わたしたちは幸せ者です」
扉の向こうに控えているカスパーが勢いよくうなずく気配がする。それについ噴き出してしまって、ああ、あんなに抗った私ですら彼の死を悲しめないのは悲しいな、と思っていることに気がついた。
アリーセたちを下がらせ、ぼうっとソファに座り遠いざわめきに耳を傾けているうちに時が過ぎる。夜の帳が下り、夕食の時間だと開いた扉を礼儀正しく叩いた侍従が報せた。
目の奥から血の色が消えないような気がして、食べられるかな、と思ったけれども、本当に私は図太いというか、一口食べてみるといつものように料理長の優しい味がして、もう一口、と匙を口に運んでいたら、いつの間にか食べ終えていた。
王家の居間を独占して兄上の帰りを待つ。兄上は遅くになって帰ってきて、疲れた顔をして居間の一人掛けのソファに沈んだ。
夕餉は済みましたか、と問うとまだだと言う。
「少しでも食べたほうがようございます」
と私は兄上を食堂へ追いやった。すぐに気づかいのできる侍従たちが簡単な食事の皿を運んできてくれる。お前も容赦がないな、とカラトリーを手にとって兄上は言った。
「……あまり人死には見たくないのだ。食事ができなくなる思いをする。初めて戦場に立った時は、私は騎士にはなれぬと思った」
珍しく弱音を吐いてくださった。
私は兄上の目の前の席に座っていたので、身を乗り出してその手に触れた。
「そう思える貴方様だからこそ、王にふさわしいのです」
「そうかな」
そうだといいがな、と兄上は言って、眉をしかめつつまた匙を持ち上げた。死をもたらす
寒い季節が巡ってきていた。布団にもぐって目を固く閉じている間に、知らぬうちに朝が来たようで、どうにも眠った気がしない。
翌朝から宮は全くの通常営業に戻り、一連の騒ぎが起こる前と何ら変わらないように見えた。
兄上は宰相や文官長と政務に取り組み、私は資料室で勉強をしてわからないところを聞きに行く。文官たちは書類を作るのに忙しそうで、騎士たちはそれぞれの当番に従い、王宮を警備したり護衛したり鍛錬したりしている。
ヤネッカー候領の兵士たちは、保釈金をヤネッカー候領から払ってもらうことで釈放となった。稼ぎもせず家族のもとへ帰るなんて、家で待つ者たちから何と言われるか、などと言い合いながらぞろぞろと帰っていくようだった。こっそり武棟の横で聞き耳を立てていたのは秘密だ。
ヤネッカーの地は王都よりも北方にあり、冬は厳しい。王都もじき雪におおわれるだろうが、ヤネッカーではすでに雪の下にある街や村もあろう。秋のうちに稼いでおくつもりがほとんど借金を背負って帰るようなものだ、愚痴を言いたくなる気持ちもわかる。
新しいヤネッカー候には先代の息子を任命する、と兄上は宣言なされた。子どもはあの冷たい目をした黒髪眼鏡の若い男だけなのかと思っていたら、もう一人兄上の知る者があるらしい。今は返事を待っている状態だ。
はっきりとは聞いていないが、先王とヤネッカー候父子は自死を受け入れたようだ。
兄上は先王の死を公表し、宮に喪中を宣言した。だが咎人となり囚われの身となっていた先王の死を厳格に悼むことはむしろ新しい王に無礼だと皆考えているようで、形式上の喪中だ。
心配なのはウィルマーだが、報告によるとヤスミーン様とジルケは昨夜は道中で宿に泊まっており、あれの死の報告を受けたそうだ。明日の夜には着くそうだが、無事なのかどうか、心配するだけの己がもどかしい。
つまり当主の決定は子どもにも特に告げられずになされたものということになる。王宮が確認をとると、兄上の予想通りウィルマー候は自室にて薬をあおって眠るように亡くなっていたという。高齢なこともあり、昼寝を所望するようなことはよくあったようで、家人も気づくのが遅れたということだ。現在はヤスミーン様の兄君である、嫡子で父の政務を手伝っていた者が、侯爵代理を務めていると聞く。
一族を上げて一族の血を引く王子の責をとるのではなく、誇り高い当主の手による独自の犯行だったと見える。兄上はそれを否定する気はないようで、このまま行けばその男が新しいウィルマー候になるだろう。
文官が報告にくる際、堂々とした顔をして立っていれば案外つまみ出されないことを発見した。これまでの非常事態ゆえに私が執務室に入り浸っていたのを、常のことと解釈してくれる者が増えたようだ。これは便利。
その日は何事もなく暮れたが、翌日、日暮れに兄上が見当たらぬとちょっとした騒ぎになっているのを耳にした。心当たりがあったのではないし、ただの勘だ。それでも同じことを思っていたのか、私が一人資料室を出て足を向けた先に、果たして兄上はお一人で夕陽を浴びてたたずんでいた。
「兄上」
後ろ姿に声をかけ、玉座の間に踏み入る。
「ヴィンか」
ちらと振り返るその足もとは、他と変わらず磨き抜かれた床で、夕陽の橙を反射していた。
そのタイルに、赤い色をちかりと幻視する。
どこを見ていたのか、何を見ていたのかも、聞かずともわかっていた。
兄上の隣に静かに立ち、同じ場所を見つめる。思い返せばすぐに目の前によみがえってくるようだった、あの男の最期、自らを貫く刃に抵抗もせず、死神の手招きにも抗わず、一度だけ笑ってみせて消えていった。
なぜ、と心の奥が疑問を呈する。
頭ではわかっている、知っているのだ。彼が終わりを望んでいたことも、彼の祖父がその誇りゆえに全ての罪を被って逝くことを選んだことも、それでも。
傍らに立つこの方が。どれだけ悩んで、どれほど考えて、この兄弟の別った道の先が片方の死などという単純なもので決着をつけられないようにと、彼を死なせないようにと、思って……、
「ヴィン」
声をかけられて、涙が頬を伝っていたのに気づく。
「……っ」
声が出なくて息を呑む。兄上の腕が伸ばされて、温かい胸に抱きしめられていた。
「……泣いてくれるのか? あれのために」
静かな問いに、いいえ、と首を振る。
「何もかも……全て、兄上のお気持ちさえ考えることもなく捨てた男のために、流す涙などございませんから……!」
無理やり拳で涙をぬぐう。
そうか、と静かな声が降ってくる。抱きしめられていると顔が見えず、だけれどそれでも兄上の腕の中にいることが、答えだと思った。
「ただ、悔しいのです……私たちは何のために、どうして戦ったのでしょう? 彼を見捨てるのでもなく、対峙することを選んだ意味も……彼は考えもしなかったのでございましょうか? 何一つ理解しようともしないで、彼は……」
兄上の胸に添えた手が震えて、衣をつかんだ。
「こんなところで、死ぬべきではなかった……そんな定めではなかったはずなのに……!」
背に回された兄上の手に力が込められる。
「そうだな。……馬鹿な子だ、最後まで……」
ささやいた声が、誰もいない部屋に広がって消えていった。
それきり互いに何も言わずに、温もりを触れ合わせていた。
橙色の光が尾を引いて薄れ、夜の闇が空をおおう。暗くなった広間に、兄上が身を離した。
「迎えに行こうか、ヴィン」
誰を、とは言うまでもなくわかっている。はい、と一つうなずいて大扉を開く。客間の並ぶ廊下を抜けて玄関に立ち、衛兵の並ぶ外をのぞけば、星空の下に丘を登ってくる馬車が見えた。
門を駆け抜けてきた馬車がぴたりと玄関前に停まり、会いたかった少女が姿を見せる。暖かそうな上着にくるまった旅装をして、長い焦げ茶の髪を解いている。彼女に泣いた後の顔で会うのは気恥ずかしかったけれど、跳び降りてきた彼女の目の周りが赤いのを灯火の明かりだけでも見てとれてしまったら、どうでもよくなった。
「ヴィンフリートお兄様!」
「ジルケ、」
駆けてくる彼女に手を広げると、腕の中に飛び込んでくる。
「——おかえり」
「ただいまもどりました、お兄様……ごぶじで本当によかった……!」
高い声が感極まったように震える。その意外に力強い抱擁に、同じくらいの力で応えた。
馬車からもう一人、背の高い女性がゆっくりと降りてくる。それにさっと兄上が手を差し出し、その手につかまって地に足をつけたヤスミーン様ははかなげに小さな声で礼を言った。
「よく戻ってきてくださいました」
「わたくしも、まだここの主の一人ですもの」
兄上はヤスミーン様の返答に、情けなさそうに眉を下げる。
「……申し訳ありません。叶いませんでした」
貴方の息子を捕えてみせることが、と私には聞こえた。
「謝らないでくださいませ」
ヤスミーン様はかすれた声で告げる。
「あの子の罪です。あの子の選択でございます」
報せを受けてから、この母娘は二人でどれだけ泣いたのだろう。ここに着いてからはもう泣かないようにと、二人きりで泣くことを決めたのだろうか。
言葉が出なくなった。言葉に表すと違うものに変わってしまいそうになる想いというのも時にはある。私の腰に両手を回して抱きついたジルケの肩を抱く。
「話さねばならぬことがございます」
兄上は覚悟を決められた声で言うと、二人の侍女には荷物を運ばせ、護衛を三人残して解散させると、私とジルケも連れて客間の一つへ入った。
人払いをし、衛士も扉の外に待機させて、ヤスミーン様の対面に座られた兄上が口を開く。
「ゲレオンの遺体のことです」
手をつなぎ合わせて一人掛けに二人して座った私たちは、手の力を強めた。そういえば、反逆者の元王族の遺体をどうするのかなどとは、聞いたことがない。
「確かにあれは反乱を起こし、私に捕らえられ、王家を名乗ることを許されなくなった罪人です。咎人ではありますが、こちらの不手際で正しく処罰されなかったと言ってもいい。死者に鞭打つようなことは許されません。……埋葬くらいは、遺族の希望を聞いてもよいかと、皆暗に進言してくれています」
——死体を埋める場所くらいは。私は目を伏せた。
「先王もその生を終えられました。どちらも王家から出た咎人故に、秘密裏に王家の墓とは異なる墓地へ埋葬されることに違いはありません」
兄上の声は優しい。兄上は死者を貶めるようなことはなさらないのだろう。
「……二人を隣に埋めてやりますか。どうなさりたいでしょうか」
兄妹の中で唯一、父親に育てられた男を、同じ時に幕引きを迎えた父の隣に。膝の上の妹姫を見やると、ジルケは薄紫の瞳を揺らして、一心に母君を見つめていた。
ヤスミーン様は娘と同じ色の瞳に、しばし複雑な色を浮かべて、それから、諦めたようにも安堵したようにも聞こえるため息を一つ、ついた。
「そうしていただきたく思います。わたくしは最後まで、あの子の母にはなれませんでした。父の隣で眠れるなら、あの子の苦しみの一つだけでも……晴らしてやれるでしょうから……」
「承知しました」
ではそうしましょう、と手を組む兄上に、ジルケが顔を向ける。痛いくらいに握りしめられた手に、
「どうした?」
問いかけると、彼女は私の手を放し、己のスカートを強く握って兄上を力強い瞳で見すえた。
「アレクシスお兄様、お願いがございます」
「……何だ?」
兄上はすっと目をすがめる。それは怖いものではなかったけれど、並の者なら恐れをなすかもしれない。しかしジルケは私同様兄上を知っているから、怯まなかった。
「あの男に会わせてはいただけませんか」
「……会いたいか? 死装束は着せることを許したが、花を手向けることもできぬぞ」
言うことは厳しいが、声はむしろ幼い妹を気づかっている。ジルケはきっぱりと、
「はい。最後まで文句一つも言えないまま、別れるなど許せませんの」
そうか、と兄上がまとう空気をゆるませ、
「……まだ棺は留めてある。ついてきなさい」
と庭へ通じる大窓を開けた。
四人で月光が降り注ぐ中庭を抜け、武棟に回廊から入る。こちらだ、と先導する兄上の声に導かれて、燭台の明かりが揺れる入り組んだ廊下を進み、辿り着いた暗く冷たい廊下の先に、音のない暗く寒い部屋があった。
「安置所だ」
兄上が壁から燭台をとって、部屋を照らす。中心に置かれた黒い棺に、目を閉じ茶色の殉職した騎士の衣をまとった死体があった。
「咎人に葬式はなされない」
王宮の慣例を、兄上はどうしようもないと言いたげに口にする。
「見送ってやりなさい。私は、しない」
燭台をジルケに手渡す。ジルケは私を見上げたが、私も兄上と同じだ。首を横に振ると、今度は胸の前で両手を重ねるヤスミーン様を見上げる。
「……できないわ。あの子は、絶対に、望まないから……」
ヤスミーン様は目をうるませて娘の背を優しく押す。ジルケはこくりとうなずいて、暗い部屋の中へ踏み入った。
黒い棺の傍らに膝をつくと、そっと燭台を置く。小さな影はじっと兄だったものを見下ろすと、静かに棺の縁に手をつき、額を当て、祈りを捧げた。
黄色の光に照らされたその影が、私にはとてもはっきりして見えて、
「さようなら。……ゲレオンお兄様」
かすかな風が揺らされて届いた声。最期の時に呼ぶ名が
ジルケはすっくと立ち上がると入り口まで戻ってきて、兄上に燭台を返した。燭台を壁に戻した兄上がまた案内してくれて、客間へ戻る。
ジルケとヤスミーン様は元のように後宮の部屋を使うことになった。今夜はゆっくりお休みください、と言い合って、私たちも内宮へ引き上げる。
「母上とカーリン様が戻られたら、話し合いを設けねばな」
先王は亡くなった。兄上の即位に異を唱えた者も消えた。
王宮は名実ともに兄上の宮となる。
後宮は、宮の主の妃と、王子・王女のための宮だった。私ははい、とうなずいた。
「調印式はどうなさいますか」
問えば、兄上はすでに決められていたのだろう答えを返してくる。
「星姫様が来られたら。三人目は、ジルケ。よいな?」
「無論です」
沈んでいるだけでは何も進まなかった。仕度を、始めなければならない。
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