第三章 星の定めによりて
一.星の姫、星の海
「皆の者、立て」
兄上が凛と声を響かせる。私はその声に従って立ち上がり、兄上の隣に立って皆をふり返った。
数え切れないほどの人々だった。
「殿下、王宮を賭けるとはいかがなさるのです?」
バルタザールが問うた。王宮騎士団長として見逃せはしないに決まっている。
兄上は剣先の輝くのを見つめ、さっと鞘に収めると顔を上げ、臣たちを見回した。
「……この建物を、
皆がざわめく。
この宮殿を? そう聞けば、あやつが玉座と王宮を要求していたことを思い出す。まさか餌をぶらさげて釣るとでも?
「あの者の要求を叶えるのですか?」
首を傾げ説明を求める。兄上はきっぱりと、
「違う。叶えるかどうかはお前次第だと呼び出して、罠にかけるのだ。幸いあれは砦に籠り、移動するならば監視しやすくなっている。こちらが望むように動かせよう」
その言葉に先日のこの方の呟きを思い出した。あの砦もあやつを誘い込む罠だったのか?
「なるほど……しかしながらそれでは、この宮に住む者たちも危険に晒すことになりましょう。どうなさるおつもりです?」
オイゲンが臣下の礼をとりつつうかがう。
「まず、あれにもう一度文を送り、我が臣に無礼を働いたことを許す代わりに、王宮に出頭せよと告げる。そしてハイスレイ公とクローデル候に兵を送ってもらい、王宮へ通ずる道のみを開いて包囲する。王宮までの道は第二騎士団に見張ってもらおう。そこでこの玉座の間まで呼び出すのだ。あれがここまで来れば、これ以上の人的被害を一切出さず、乱を終息させることができる」
兄上は
「どうやってかは、教えることはできん。王家の、それも王太子にのみ伝えられてきた伝承にこれを成し遂げる仕掛けがある。だから私と、近衛は王宮に残り、あれを捕らえることにしよう。その間……」
一度言葉を切る。
「王宮の者は
再び人々がざわめく。
「ふむ……まことに王宮を賭けられるのですな」
オイゲンがうなずく。
「お前たちの命、私に預けてくれ。これは王としての
ははっ、と皆が頭を下げる。兄上はしっかりとうなずき、私に目を移した。
「星姫様にこれをお伝えする使者として、ヴィンフリート、お前を立てたい。やってくれるか?」
驚きそうになって、ぐっとこらえる。私を立てるということは、重大な仕事を任されたと同時に、王宮から出されるということでもある。
私を認めてくださったのも、安全な場所へ逃がしたいというのも、両方あるのだろう。どちらも兄上のお心が嬉しくて、私には断る理由などなかった。
「貴方様の命とあらば。お受けいたします」
軽く頭を下げる。
「皆、心せよ。これは我らの命運を決める
はっ、と一同一斉に頭を下げ、我らが王に一礼して各々立ち去った。急がねば余計なことを考える時間をあやつに与えかねん。やるべき仕事は腐るほどある。
「ヴィン、
兄上が私の方を向いて聞いた。
「それが私の役目ですから。行って参ります。カスパー!」
了承して私の騎士を呼ぶ。カスパーは頭を下げ、何も言わず私に従った。
持ち場に戻ってゆく者たちとは反対に後宮へ足を向ける。白い屋根の下の渡り廊下を渡り、後宮へ踏み入ると、焦げ茶の長い髪を揺らして、ジルケが立っていた。
「お兄様、王宮が意思を決めましたのね」
薄紫の瞳が揺れながら私を射抜く。
「そうだ」
ただ一言答えて、彼女の背に手を添え妃様方の待つ間へ向かった。カーリン様にしがみつくアルマと、悲しそうな目をしたヤスミーン様が、私たちを見つめた。
「どうか、落ち着かれて聞いてください」
ああ、伝えるのもつらくなる。それでも伝えねば何も始まらない。
「第二王子が、こちらからの使者の言葉を伝えた部下を斬ったそうです」
「……! そん、な」
ヤスミーン様が口元をおおってよろめく。もとから白い顔をさらに青白くして、ソファに身を預けるしかない彼女を見ているのも苦しかった。
「交渉は決裂となりました。話し合いができぬのならば武で、と申し上げねばなりません。……ですが、兄上はそのお力を、あやつ以外の兵を傷つけずこの乱を終わらせることに使うとおっしゃいました」
「どうやって……?」
ジルケが目を丸くする。
伝えねばならん、この覚悟も、決定も。
「兄上はこの騒動を終わらせるため、王宮を賭けると決められました。宮そのものを、おとりにするのです」
「宮を」
カーリン様が呟く。
「私は兄上にハイスレイ公から託された
真っ直ぐに妃様方と姫たちの目を見て告げる。
ジルケはこくりとうなずき、ソファの背に回って母君の肩に手を置いた。
「お母様、もう終わりますわ。こんなこと……」
「そう、ね……もう、終わらせなくてはね」
小さな手に手を重ねて、ヤスミーン様が目を閉じる。
その心の痛みがゆえに、二人の姿はあまりに美しかった。守れるだろうか、こんな子どもの誓い一つで、二人の心を。
「ははうえさま、わたしたちおうきゅうを出るの?」
アルマが不思議そうに聞く。
「そうよ。お
カーリン様は優しく娘の金の髪をなぜ、
「それでよろしいですね、殿下?」
と寂しげな色をした目で私を見つめた。
「……ええ」
ばらばらになる。また一つになるためとはいえ。
だがそんな痛みに構っている間も、私にはなかった。
「私も宮を出ます。兄上から星姫様への
私も旅に出る支度をしなければならない。星姫様のいらっしゃる北のユーズ辺境伯領には、王宮から馬車で片道一週間と見積もるのが常だ。忍びで軽装で行くとしても、五日は見ておかねばならず、余裕をもった旅支度ができるとは思えない。
「そうなのですね……お兄様も、準備をなさってください。私たちも
私の服の裾を軽く引いて、ジルケが私を見上げる。泣き出しそうに揺れる淡い紫、それなのにとても強く見えて、私は初めて、妹を頼もしいと思った。
時を惜しんでいる暇はなさそうだった。
「これからも毎日ここへ顔を出します。私が兄上との連絡係をいたしますから、質問や言うべきことがあればすぐにおっしゃってくださいませ。できるだけ早い出発を、お願いいたします」
言いながらヤスミーン様とカーリン様のお手をそっと握る。前に、沈んでいた私に侍従長がそうして、元気づけてくれたように。お二人は聡い光を宿した瞳に悲しげな表情を浮かべながらうなずいた。
白の間を辞して侍従長を呼ぶ。侍従長は疲れた様子ながら、紫の小さな目を鋭く光らせていた。
「お話は伺いました。第一王子殿下の命でございますから、わたくしどもは疑いません。侍従たちの采配も、妃様方と王女殿下方のご帰省の手配もお任せくださいませ」
と寸分の隙もない一礼を見せる。
「頼んだぞ」
この侍従長の腕を疑ったことこそ、私も兄上もないに違いなかった。きびすを返し行動に移ろうとして、ふと問いたくなってふり返る。
「……ドロテア。お前は兄上のお心を知っていたのではないか?」
侍従長に、ではなく、彼女個人に問うてみたかった。彼女はいかめしい顔を崩さぬまま、目の光だけを和らげた。
「お生まれした時からあの方にお仕えしております。信じておりますだけですよ」
「……そうか」
ふっと笑みがこぼれた。
戻るぞ、と私の騎士に声をかける。急なことで身分を隠す必要のあったオイゲンとの旅、一日だけの早駆け、そうしたものとは違って今回は王子として星姫様にお会いしなければならない。軽装で駆けられる服で、かつ、正装たり得るものを用意し、王宮を離れている間だけの衣装も荷造りしなければ。
私のかわいい仕え人たちには、これまでよりさらに激務を課さねばならなかった。一刻も早く、一日でも早く、と心臓だけがうるさかった。
兄上はまず王都の民に軽率に家から出ぬよう布告し、騎士隊で公道を厳重に警備した。民を守るためもあるが、本来はあやつを誘い込むための布陣。
騎士たちが城から出ていった。作戦の詳細は昨夜の内に話が詰められ、私は報されただけだったが、これが最も重要だというのは理解した。騎士たちの動きが運命を決める。人と人が争わぬよう神々が定めたとはいっても、人を動かすには力が必要なのだろう。
次に兄上は文官たちを故郷や王都の家に帰した。文官たちがその智でもって周囲の人々を納得させてくれたらありがたい、と同時に、戦場にほど近くなる王宮に文人を置いておいて価値ある者を失わせてはならないというのがその理由だった。
一日一日が経つごとに、宮から人の気配が減っていく。風が運んでくる音が少なくなり、私はそれを知った。魔力を感知するジルケはどれほど不安だったろう、そう思ったが、彼女は揺らがなかった。ヤスミーン様は体まで悪くしそうなほど憔悴していたのに。
エルヴィラ様が最初に王宮を出るとおっしゃった。
「不安な思いをしているだろう仕え人たちや、王女たちのため。何よりわたくしの可愛い〝妹〟たちのために、わたくしが先に立って例を示します。ジョルベーリとの境へ参りましょう。困ったことをしそうなジョルベーリの者どもを牽制しておかなくてはね」
先王のためにつらい思いも多かっただろうに、同じ妃たちを妹というこの方は、誰よりも清廉で強かった。艶やかな笑みを見せてその諸外国への力をちらつかせたエルヴィラ様は、専属の侍女たちを引き連れ馬車を連ねて王宮の丘を去った。
「アレクシス、お前を愛しているわ。必ず生きて勝利を掴み取りなさい。お前はわたくしの自慢の息子だから、心配しないわ」
兄上の頬を両手で挟み、愛の言葉を残して。私にも無事を、と祈ってくださった。
格好いい方だと、今では思っている。かつてはよく知らない、遠くにいる人間でしかなかった。今は私にとって憧れる一人だ。私にもかの方のような力が欲しかった。得られるように努力できる日々が、戻ってくるように、ただ祈って行動するしかない。
三日経てば歴代でも上から数えられるだろう早支度も終わりを見せた。カーリン様はアルマを連れ、ご実家のミレネア男爵領に戻ると告げた。
「アルマ、いい子にしているのだよ」
久しぶりに祖父母のもとを訪ねられるのが嬉しいのか上機嫌のアルマを、優しくなでる。やわらかな金の髪はずっと変わらない、後宮に暮らし絵本を読んでやっていた時からずっと。
「わかってます、わたしはちゃんといい子ですよ、あにうえさま」
アルマは幼子扱いが不満なのか、かわいらしく頬をふくらませる。
「殿下、お気をつけて」
カーリン様が気づかわしげに言った。
「カーリン様も、どうぞ旅のご無事を」
よくわかっていないのだろうアルマの無邪気さに救われるような旅立ちだった。カーリン様はもともと純粋な政略で年の離れた先王に嫁ぎ、王女が生まれてからは娘のために後宮に留まっていたようなものだった。もしかしたら心の奥底では、自領の方に信頼があり、危険な政争にまきこまれることもある王宮を離れたかったのかもしれない。
私には考えても答えの出ぬ、詮無いことだが。
ヤスミーン様とジルケは、ウィルマー候家に下がることになった。ウィルマー候、ジルケの祖父に当たる人が、二人を預かると言ってくれたのだ。祝祭で見た時、ジルケは彼をあまり好いていないと言っていたが、大丈夫だろうか。
不安もあって、支度を終えて人の姿もまばらな姫の部屋を訪ねた。
「どうなさいましたの、お兄様?」
ジルケは不思議そうに私を見上げる。
強い子だ、それはずっとわかっていた。私などよりずっと強くて美しい子だ。だがそれでも、身体の弱くはかなげな雰囲気の消えない子で、その心を誰にも言えぬ不安に追いつめられて、命すら軽んじてしまう状態になったこともあることを、私は知っている。
互いに多くを語り合う仲だったわけでも、誰より長く一緒にいたというのでもない。しかし彼女と私は、限りなく近い存在だった。分別のある年齢に達した責任ある王族でありながら、母の親族に縛られ、満足に動くこともできぬ状況を有していた。
「ジルケ、一つ約束をしよう」
背をかがめ、薄紫の瞳を見つめる。
「この戦が終わって、お前も私も無事で、兄上が王となると決まったら、兄上をお支えするのは私とお前であるべきだと、思っている」
「……はい、お兄様」
ジルケは思慮深いその声でささやいた。それに微笑んで、
「お前が王宮に帰ってきた時、力を授けたいと思う。兄上も賛成してくださるはずだ。だから、ジルケ、お前は絶対に生きなさい」
彼女が目をまたたかせるのに笑みを深める。
「母君を守りなさい。お前にしかできぬことだ」
私にはできなかったことだ。胸の内にだけ呟き、かわいい姫の頭をなでて身を起こす。
「わかりましたわ、お兄様」
ジルケは真っ直ぐ私を見て、またお会いしましょう、と告げた。
ヤスミーン様とジルケを乗せた馬車は翌朝早くに出た。エルヴィラ様の豪華な一行やカーリン様のきびきびした一隊とも違う、静かな旅立ちだった。
私も、宮を出る。
「ヴィンフリート、気をつけて行きなさい」
兄上が心配そうに眉をひそめて言う。
「書状だけは決して忘れてはならんぞ。騎士たちに守られるように注意していること。星姫様に敬意を捧げるのだよ」
何度も説かれた注意事項をまた言われる。それほど心配されているのが嬉しくもあったし、子どもにすぎぬ自分が心苦しいとも思った。
「きっと期限内に戻ります。兄上も……どうか、お気をつけて」
一番危険なのは兄上なのだ。兄上がその役目を引き受けたからこそ、皆文句もなく従うし、あやつに対する有効な手となったのも理解している。だがこの方は命まで危険にさらしているのだ。胸が痛くなるほど心配しているのはこっちだった。それを言ってもどうにもならないのも、また理解している。
温もりがほしくて、兄上に少しの間だけ抱きついた。
「私は上手くやろう。お前を信頼しているよ、ヴィン」
本音かどうかはわからない。その温かい言葉だけで充分だった。
「行って参ります」
カスパーとドミニク、もう一人新顔の近衛がついてくることになっていた。四人でエッボの準備した良馬を走らせる。公道沿いの街の宿屋には内密に連絡がついていた。全ては時間との勝負だ。
一日目は何事もなく、皆言葉少なに進んだ。
秋の深まる静かな平原をながめながら、私は一人愛する人からの手紙を思い返していた。出立の前日の夜に届いたその手紙には、私が望んだ以上の愛がつづられていた。
『愛するヴィン、
本当にもう十五通目なのですね。私はこの数字がこれほど早く来るものかと、驚いているわ。どうしてって、お前に書く手紙はいつも心が躍るし、お前が送ってくれる手紙は何度見返してもあきない楽しい言葉があるのですもの。たくさんの愛おしい手紙が積み重なっていくのは、あっという間だったわ。
誕生日に贈り物をしてくれたと知って、その日まで包みを開けるのを待ってしまったわ。子どもっぽくてごめんなさい。朝起きて一番にそれを開けたの。お前の目の色と同じとても美しい髪飾りで、言葉を失ってしまったわ。とてもとても嬉しかった。本当にありがとう。
祖母は実用的な贈り物を好んだし、姉様や兄様は私を幼いものとして扱うから、こんなにすてきな贈り物は他に持っていないわ。その上毎年送れるようになりたいだなんて、嬉しすぎて泣いてしまうかも。
私もお前とそうなりたいわ。
私の気持ちも変わらないわ。愛していると言わせてください。最初は、こんなに仲良しになれそうな人を手放すなんて惜しいと思っていただけでした。でも、今ではこんなに好き。何としても手放したくないなんて考えています。
でも大切な言葉を書面で告げたくもないとも考えているのです。この手紙も、書こうかどうか迷ったわ。今お前は余計なことを考えられないほど、大変な場所にいるのですから。ですがこの気持ちだけは知っていてほしかったのです。
返信はいらないわ。お前が安心して私と会えるようになるまで、私は白の塔でお前を想って待ちます。
だから、私もお前の誕生日に贈り物ができるように、必ず無事でいてください。
抱えきれないほどの愛を
ヘマ』
周囲は悲しみと痛みに満ちているのに、私だけがこれほど幸福でいいのだろうか、と思った。
彼女が愛していると言ってくれた。もうためらうべきことなど何もない。私はすべきことをなし、彼女のもとへゆくだけだ。
どれだけ耳もとを過ぎる風の音が寂しかろうと、思い出せば体の芯が温かかった。皆の愛が私を取り巻いているのだ、などと、子どものような妄想をした。
皆が無事に帰れるかどうかは私にかかっているのだった。そう考えることも私を強くするだけだ。心細いとは少しも思わなかった。
丘をいくつか過ぎると、灰色の岩が露出した丘にたどり着いた。
「星の丘ですね」
とカスパー。
「これがそうか」
聞いていた通りまじないの感じが強い。私もまじない師のはしくれだからわかるが、ここは上手く使えば最高の砦になる。
アルトゥールが星の丘と名付けたのもうなずける。
しかし今はとどまっている時間もない。道を踏み荒らすように駆け抜けた。
——ジークに傷をつけたまじないもここにあったのか。
わずかに燃えるような怒りは無視して前を向いた。
泊まった宿は小さいが清潔なところで、私はすぐに眠り込んだ。夜番をする必要のある騎士たちに申し訳ないほどだ。
心が決まっているとどんなところでも眠れる性格は、何というか、まあ、私らしい。
目を覚ましてすぐ書状を持っているか確認する。兄上のしたためたそれには、星姫様への願状が記されている。これがなくては私が名代になった意味もないというものだ。
朝食は宿の主人のはからいで温かだった。騎士たちに夜番の礼を言いつつ、出発する。
新顔の騎士は緊張しているようで、
「おはようございます、殿下」
あいさつする顔も固い。
「あまり張りつめるなよ。疲れては普段できることもできなくなるぞ」
五日間の強行軍のような旅程を懸念してそう告げたのだが、彼はなぜかむっとしたようで不愛想に一礼するのみだった。
どうして私は初対面の人間に好印象を持ってもらえることが少ないのか。馬具の手入れをするカスパーにぼそりと愚痴を呟くと、
「ヴィン様は誤解されやすい見目をなさってますからね……」
「変えようがないではないか」
どうにもならん。どこがそれほどおかしいのだ、とつめよると、
「顔立ちがきつくて派手な目鼻立ち、と思われるのですよ。ヴィン様は母君によく似ていらっしゃいますから……貴族らしい、という印象を持たれがちなのでしょう」
騎士は武において人間を認めますから、と続けられる。なるほど、確かに私は武よりは文にかたよった人間だが。
「中身は騎士顔負けの気の強さであらせられますけどね」
と私の騎士は笑った。
カスパーもジークほどではないが言うようになったものよな。
二日目は曲がりくねりの多い道を進んだ。丘を登っては下りしなくてよくなったのはいいものの、馬の足もとを気をつけていないと公道からそれてしまいそうだ。自然口数が減る。新顔の誤解を解くには余裕がない。
とりあえず名前だけは聞き出した。名はテオフィル、平民の出だという。そうか、とうなずくだけになってしまったが、馬の扱いを手伝ってくれたので、礼を言っておいた。
今度は大きい街の大規模な宿だったが、出立まで時間がかかりそうだった。早起きすることにして早めに布団にもぐる。薬草のようなすうと通る香りがする枕だった。
三日目。少し疲れが出てきたか、進む速度が遅くなった気がした。無理して進ませるのも本意ではない。荷は大体騎士に持ってもらっているから、私自身は身軽なものだが、そうでもしないと真っ先に倒れるのは私だからな。
木々の多いところを駆けていた。人間以外の生き物の息づかいが耳に届く。鳥だけではない、兎などの小動物でもいるのだろうか。しばらく行って、何か不穏な息づかいが届いて馬の足を止めてしまった。
「殿下?」
「どうかなさいましたか」
カスパーが問うのに、
「いや、今何か……何でもな」
「っ下がってくださいヴィン様!」
答えようとしたのをさえぎられる。カスパーが私を左腕を広げてかばい、右の手で剣を抜いていた。
「なっ……」
「殿下、こちらへ」
ドミニクに腕を引かれ、大人しくそれに従い口をつぐんだ。テオフィルも警戒しつつ剣を抜く。
刃の光の向く先に、紫がかった黒に光る毛むくじゃらの巨大な狼のような化物がたたずんでいた。荒い息をして人間たちをにらんでいる。
魔物。
実際に目にするのは初めてだった。心臓が飛び跳ねる、必死に息を殺した。魔物は人間と同じように魔力を自在に扱う力を持ちながら、理性なく他の生物を襲っては食う。騎士が見つけたら討伐の対象となる。
騎士ゆえカスパーもテオフィルも相手は慣れているだろう、そう己に言い聞かせる。恐怖が口から飛び出してきそうで、袖で口もとを隠した。
じりじりと二人が魔物に近づく。剣がひらめいて鮮血が散った。恐ろしいうなり声を上げて、魔物が地面に身を伏せる。
観念したか、と思ったらそいつは曲げきった膝を思いきり伸ばし、こちらに向けて跳躍した。
「!」
「殿下⁉」
二人がふり返る。まずい、と思った瞬間、体が先に動いていた。
指の先にいつものように魔力を集め、風を呼ぶ。それを力いっぱい目の前に叩きつける。同時に、視界の端でドミニクが剣を抜いたのが見えた。
ざしゅ、と肉が断ち切れる音がして、魔物が地面に落ちた。
その隙を逃さず、カスパーが馬を飛び降りて剣を縦に持ち替えて振り下ろした。狼の首らしきところから、赤黒い血が流れ出る。
「ヴィン様! ご無事ですか?」
狼が動かなくなったのを確かめたカスパーが、私をふり向く。
「ああ……よく守ってくれた、カスパー」
しばし呆然としていたが、カスパーのあまりに心配そうな顔に、小さく笑みが浮かんだ。すると彼もほっとしたように息を吐く。
「よかった。死骸は避けて馬を回してください。こういうのは倒した者が処理するものなんですが、今は無理ですから、木の方にどかしてしまいますね。少しお待ちください」
そうだな、と答えて死体を避け道の先に歩を進める。
ドミニクも手伝うよう呼ばれて、預かった手綱をもてあそんでいると、テオフィルが呆然と私を見ているのに気づいた。
「テオ! 何してる、手伝え」
ドミニクの叱咤にやっとはっとした顔をして、巨大な死骸を道からどける作業に加わる。黒い体毛はどこから血が流れているのか見えなくして、死体だというのにそこまでの嫌悪感はなく、三人の作業を終わるまでながめていた。己が殺すのに手を貸したものを、最後まで見届けなくてどうする、と心の内の声が言っていたのもある。
——だが、人類の敵対者を倒したというのにこうも心が重くなるというのなら……やはり人を斬るようなことは大罪に違いないのだろう。
兄上はあやつの命までとりたいとは決して思わないだろう。それで本当に皆納得するのか。納得しない者も出てくるのではないか。
カスパーが近くの街まで早駆けしてことの次第を伝えてくると言った。それで三人で進むことにしたが、馬の足取りも重い気がした。
うつむき気味に進む中、テオフィルだけはそわそわと私に目をくれているらしかった。気になるから止めろというべきかと、顔を上げて彼の濃茶の目を見ると、彼はたじろいだようだった。
「……何だ?」
聞くと、あの、その、とか何とかはっきりしない声があった後、
「先ほどの……あれは、殿下の魔術ですか」
と彼が問うた。
「そうだな。私は風使いだ」
うなずくと、そうなのですね、と彼もうなずく。考え込んでいるようだったので放っておくと、しばらくして、
「……申し訳ありません」
急な謝罪があった。
「何がだ?」
首を傾げると、彼はどこか申し訳なさそうに短く刈り上げた小麦色の頭をかいて、
「殿下の実力を見誤っておりました。高貴な方の護衛をするのは初めてで、どのようなことがあっても対処できるようにせねばと気を張っておりました……それなのにほとんどお役に立てず」
ははん、と心の中で得心がいって笑う。要するに私が魔物に怯えて逃げ出しそうな貴族の小さなお坊ちゃんか何かに見えていたのだろう。それでこの大役で初護衛任務ときたら、緊張するのもとがめられん。
「まじないができるかは
とくすりとして見せてから、反応が見たくて告げてみる。
「しかし言っておくと、私は夜会にも正式に出席を認められてるからな。信頼できる近衛たちに守られての旅路より、敵も味方もわからぬ諸侯相手の方がよほど怖い」
要するに私も貴族どもの渡り合いを経験してきて度胸はあるつもりだ、という宣告だ。
「は……⁉ いえ、その」
気にするな、と口もとを隠して笑う。こう真面目なのはからかってみたくなる、私の悪いくせだ。
笑ってみると、少し心が軽くなった気がした。
小さな宿の二階の角部屋で寝る仕度をしていると、ドミニクがひょいと顔をのぞかせた。
「どうした、ドミニク? 珍しいな」
笑むと彼も初老のしわの見える口角を上げ、軽く頭を下げる。
「昼間は私めの指導が至らず、テオフィルが迷惑をおかけしまして」
「ああ、テオと呼んでいたのは弟子だったからか?」
なるほど、とうなずくと、ドミニクは苦笑気味に、
「あれは最近入ったのですが……以前は第六騎士団におったのでございます」
思わず目を見開いた。二の王子の元騎士団ではないか!
「それが近衛に?」
いくらあやつの統率がよかったとはいえ、副団長はあやつと心が通っているとは見えなかった。事実第六騎士団は此度の反乱には加勢していない。あやつに兄上のような求心力のない証拠だ。
しかし第二王子の元配下というのは、現在完全に第一王子派となっている近衛に入るには余計な重荷になるだろう。何を思ってか。
「王族の方々には失礼ながら、二の君が気に入らんと申しまして。第一王子に仕えてみたいという理由だったそうです。この程度では到底一の君を任せられんと、訓練期間を終えても護衛任務に就けていなかったのでございます」
「では、なぜ私に」
首をひねっていると、ドミニクは小さく笑い声を立て、
「一の殿下がおっしゃったのです。近衛とは王族を守るための制度。かの方のみでなく、王族に敬意を持つ者にしか任せられんとですね。貴方様ならあいつめの忠誠を手にしてくれるであろうと」
顔が赤くなった気がする。兄上は信頼していると言ってくださった、それにしても言葉が足りん。わざとだろうな、と内心文句をつける。
「それは……忠誠などそやつの心次第だ。私が何かしたからと言って、敬意を持つまで至るとは限らん」
いいえ、とドミニクは笑みを大きくして、
「もうしてくださいましたよ」
兄上とそろって楽しんでおる気か、とふくれて退出させた。寝巻の袖で隠した頬が、己で思うより赤くなっていないことを祈りながら。
四日目。テオフィルが丁寧にあいさつをしてくれた。肩の力が抜けたようで、こちらもほっとする。
一本道を駆け抜けた。途中側に小川が見え、せせらぎの音に癒されながら進む。
「川にも魔物がいることはありますからね。あまり近寄りすぎないでください」
と警戒しているのはカスパーだ。わかっている、と答えてばれないように笑った。彼は意外に心配性だ。前に守らせなかったのは私だから、こういう彼にはあまり口答えできない。
魚を獲ろうとしている釣り人らしき影も見かけた。
「もうユーズ伯領になりますね」
とテオフィルが言った。
「王領との境はどの辺りだ?」
問うと、ドミニクが年の功で川が見え始める辺りだと教えてくれた。わからん……領境は歴史的な何かがあって決まっていることも多いため、一概に自然の目印があるとは言いきれんのよな。
ユーズ伯領の街も王領のとさほど変わらない。小さめだが高級とわかる宿で、寝心地のいい寝台だったのでこてんと寝入ってしまった。
五日目になると、皆の足も自然と速まった。今日中にユーズ伯の領主館のある街にたどり着く予定だ。
馬に負担をかけすぎぬよう、各々注意しながら結局速足だ。公道に人の姿がちらほらとある。ユーズは住人が外出に怯えるようなことにはなっておらんのか。
昼食の時間を過ぎた頃、その街にたどり着いた。かつての王都、九代目までの王の眠る土地。
風に乗って独特な刺激のある香りがした。これは何だ、と問うと、
「潮の香りですよ。海の匂いです」
とカスパーが微笑む。海。そうか、ここは海沿いの街だ。
「こちらです」
ドミニクが慣れた様子で広い道を並足で進む。大通りを歩く人々はこちらを見たりもしたが、気に留める様子はなかった。星姫様のおられる街ゆえ、貴族風の一行も気にならないということだろうか。
真っ直ぐ進むにつれ潮の香りが強くなる。どういう現象かと思いを巡らしていると、急に視界が開けた。
青。
息を呑んだ。
一面の青だ。
空の青とも、池や湖の色ともまた違う。深い、深い色だ。波打つ水面が力強くこちらに迫り、白い泡を作り出すほど浜辺に激しくぶつかる。日の光の照り返しがまぶしいほどで、きらきらと目のなかでまたたいていた。
——美しい。
圧倒された。こんな景色があるものなのか。絵で見たところで、本や詩に聞いたところで、この美しさはわからない。
「これが……
呟くと実感がわいた。知識でしか知り得なかったものを見ている。夢のようだ。
「海は初めてですか?」
カスパーが微笑ましげに聞く。ああ、とかすれる声で答えた。目が吸いつけられて離せないようだった。
莫大な水がうねる。跳ねる。白い飛沫が立つと、青のドレスの中に真珠が輝くようだった。これほど広い景色が、この世に存在していたのか。
「水を差したくはございませんが、星姫様にご挨拶申し上げねば」
ドミニクが困り顔で言う。はっとして、名残惜しかったが目を離した。
「そうだな。行こう」
一度来ることはできたのだ。この乱を終わらせることさえできれば、気兼ねなくまた訪れることも叶うに違いない。
領主館は海をながめることのできる丘の上に、白い壁に金の飾り、青い屋根をして建っていた。王宮と同じ色。十代王は、この景色を思い出せるようにあの色で王宮を飾り立てたのだろうか。
「何者だ?」
守兵の
「ユースフェルトが第三王子ヴィンフリート、我が兄アレクシスの名代として参った! 星姫様にお会いしたい!」
「し、失礼いたしました!」
慌てたらしい返答があって、金属製の門が開かれる。玄関口は目の前で、中に踏み入り馬を降りると、侍従たちが預かってくれた。
ありがとう、と手綱を任せて建物に踏み入る。中はまぶしいくらいの外とは打って変わって、ほどよい暗さを保っていた。初めてなのに馴染み深い感じがする。落ち着く館だ。
「今しばしお待ちください」
侍従の丁寧な一礼があって、出された紅茶を飲みながら待つこと、四半刻もせず戸が開かれた。
「お待たせしました、殿下」
現れた星姫様は、やはりユーザルの衣をまとっていた。白の地に青の文様。海に近く暮らしていた彼らの思いが、やっとわかる気がした。
「お久しぶりです……いえ、思うよりは近いうちにお会いすることになりましたね、星姫様」
頭を下げると、彼女は顔を上げて、とすぐに言い、
「ユーズに来て
目の前の椅子に座り、微笑んで言われる。
「すでに星姫様はご存じでしょうが……こちらが、書状になります」
上着の懐から手紙を取り出す。受け取った星姫様は手早く封を開けると、真剣な顔で目を通した。
「そう、ね。大体のことはわかっているわ。星の丘をわたしの力で守ってほしいのでしょう」
「はい。二の王子のための被害を、これ以上広げぬために」
文に目を落とす星姫様に、声が震えぬよう力を込めて言う。星姫様は顔を上げると、銀に輝く星の瞳で私を射抜いた。
何もかもがこの方の前では見抜かれそうだ。
気づかれぬようつばを飲み込む。
「我が国最高のまじない師である貴方様にしかできぬことです。どうか、我が君のため、お願い申し上げます」
そらさぬようにその目を見返す。
ふ、と彼女が優しく笑んだ。
「わたしは第一王子殿下を王にと望んでいるわ、あなたもご存じの通り。手を貸しましょう」
「……ありがとうございます!」
安堵に力が抜ける感覚を味わう。星姫様がくすりとして、いたずらっぽく笑みを作る。
「すぐには無理があるわ。殿下にはまじない石の装置を持っていっていただきたいの。うちの優秀なまじない師たちでも、今日中にできるか怪しいわ。今日は泊っていってくださいな」
「それは構いません」
もともと到着した直後にまた旅立つような無茶な予定は組んでいない。うなずくと、星姫様はにこにこと年齢不詳の笑みを浮かべたまま、
「その間にわたしと殿下と連名で王宮への書状を書きましょうか。それと……第一王子殿下に一つ、第三王子殿下にも一つ、お願いを聞いていただきたいのだけれど」
「はい……?」
お願いとは? 首を傾げる私には答えず、星姫様は侍従を呼んで紙を持ってこさせた。
兄上の出された条件で正式に合意したことを文につづり、二人の名を書き添える。私のような若輩でも、血筋の力で王宮の代表者となれることに、少し不思議な感じを覚えた。
そちらに封をしようとしたところを、星姫様がもう一通の小さな封筒を滑り込ませた。
「それは」
問おうとした私に彼女は頭を振り、
「こちらは貴方様の兄君に」
なるほど、例のお願いが書いてあるのか。では、私は何を?
少し待っているよう言われ、ソファに身を預けて目を閉じる。眠いわけではなかったが、頭が疲れるとはこういうのを言うのだろう。
部屋に橙色の光が差し込んできて、夕刻になっていたのを知った。やることの多さに気が急いている時ほど時が早く経つのはどうにかならぬものか。
「それで殿下、お願いなのだけれど」
「はい⁉」
急にかけられた声に慌ててふり向く。星姫様が赤子を腕に抱いて立っていた。
「わ……」
短い濃茶の髪に、ふっくらした赤みの差す頬、銀の瞳が輝いている。かわいらしい子どもだ。
「星姫様のお子ですか」
立って近づく。赤子は私を目に留めるとふにゃりと笑った。
「こんばんは」
かわいい。
「初めまして。おかわいらしいお子ですね……アルマの小さい時を思い出します」
思わず言うと、星姫様はおかしそうに笑って、
「そういえば、殿下は下にも二人姫がいらっしゃるものね。紹介しておくわ、私の息子で名はコンラート。もうすぐ二才ね」
星姫様の指が赤子の頬をくすぐる。身をよじる息子を愛情にあふれた目で見る星姫様は、そうしていると年齢通りの母親なのだと見えた。
「それでね、お願いというのは、この子を連れて海を見に行ってほしいの。わたしも夫も一緒に行くから」
「え……?」
その程度、私でなくともできるのでは。頭の中が疑問符でうまった私に、星姫様はわずかに苦笑いして、
「この子は本当にわんぱく坊主で。でも今夜は空が綺麗だから、この子にも見せてやりたいの。殿下と、殿下の近衛をお借りして守っていただけないかしら、っていう、簡単なお願い」
「そうなのですか? ぜひ、私でよければお供しましょう」
くすりとしながら星姫様に従う。玄関に近衛たちと見知らぬ男性が立っていた。
「おつかれ、エーディト。そちらが?」
濃茶の髪に黒い目をしている。がたいがよく日に焼けて、ユーザルの衣装をまとっていた。上衣とズボンのすそに青の文様が入っている。
「ええ、第三王子殿下よ。殿下、紹介するわね、こちらがわたしの夫」
「カール・ラダンと申します。どうぞお見知りおきを、殿下」
男性が柔和に微笑んで頭を下げる。彫りの深い顔立ちで、二十代にも四十代にも見えそうだった。星姫様とそろって、聞いた通りの年齢不詳だ。
「ユースフェルトが三の王子、ヴィンフリートだ。よろしく頼む」
私も微笑んで返す。
星姫様は息子を夫に預けて、楽しそうに
「さ、行きましょう。殿下はお昼の海はご覧になった?」
と聞く。
「ええ、とても広くて……大きくて、深くて。驚きました」
「それはよかった。なら今からのを見たら、きっともっと驚かれるわ」
空が藍色に染まり始めていた。浜辺に着くと橙色が水平線の際に残っているところだった。もうすぐ日が沈む。
「ねえ、ちちうえ、おろしてえ」
橙色が沈んでゆく様をながめていると、コンラート殿が海を見ては父君を見上げて近づこうと催促し始める。
「仕方ないな」
カール殿が砂浜に降ろしてやると、幼子はまだ不確かな足取りで波打ち際に歩いてゆき、小さな手を水につけて遊び出す。神聖そのもののような星海の景色に、無垢な幼子の絵はよく合っていて、私は微笑ましく見つめていた。
彼はいそいそと浜辺へ歩いていって、波に手を浸したり、引く波を追いかけては波に追われて戻ってきて、はしゃいでいる。
「みて! きれいだよ」
幼子が何かを片手に母親に見せる。人懐こい
白い貝殻だった。よく見ると私の足元にも貝の破片らしいものは転がっている。思っていたより簡単に見つかるものだ、と心の内に呟いたが、彼の拾って来たものほど形を留めているのは珍しいようだ。
「貝を見つけるのが上手なのだな」
とほめてやると、彼は調子に乗って波を追って走っていった。転ばぬか心配になって後をついていく。足もとに波が寄せては返すのが面白かった。戯れに水をすくって濡れた指に口づけると、本当に塩の味がした。
「海水はまことに塩辛いのだな」
呟くと、聞きとがめたカスパーが、
「ヴィン様、あまり水に触れては靴を駄目にしますよ!」
と声をかけてくる。コンラート殿や星姫様のようなサンダルを履いているわけではないからな。残念だが海から少し離れる。
やがてとっぷりと日が沈む。小さな銀の光が散り始めた空に目をやっていると、コンラート殿が予想通り前のめりに転げそうになった。私は素早く近づき、風を動かして彼を波からすくい上げてやった。
「油断も隙もないな、幼子は」
彼は私の腕から逃れようと足をばたつかせる。星姫様が楽しそうに笑い出し、私もつられて笑ってしまった。
くすくすと笑いながら、星姫様はすっと海を指差した。
「さあ、よく見ていて」
何だろうか、と夜に沈みそうな濃い青をながめる。ちらちらと波に街の灯が反射してそれだけでも目を奪われそうで、しかし辺りが暗く夜におおわれた瞬間、私は言葉を失った。
海が光っていた。
波の底に何かが埋まっていて、それがきらめいている。魔力を持った輝きだった。
波の線が銀色に光り、消える。また輝く。こちらと思ったらあちらで、そちらと思ったらこちらで銀の線が走る。
「星海……」
テオフィルが呟く。
名の由来が何よりも明白に納得された。
「これが……皆、星なのですか」
小さく問うと星姫様は海を見つめたまま、
「ええ、地上に出る前のまじない石の
とささやく。
「きれい! きらきらだね、ははうえ」
コンラート殿ががはしゃいだ声を上げて、私の腕から逃れると母親のもとへ駆けていく。自由になった私も立ち上がると、目に映る海面は全て、夜空に溶けて消えるところまで一度も銀に輝かぬところはないように見えた。
そうね、と星姫様は微笑んで、
「美しいでしょう。これを素敵だとも、怖いとも思える人間が、王になってほしいものだわ」
「どうしてこんな……本当に、星が海に落ちたのでしょうか」
強烈な輝きに目を離せなかった。暗い青に、銀が走る。夜空と海とが、ともに星を抱いている。
「海の魔力に反応しているのよ。まじない石はまじないを発動させる時光るでしょう、それと同じなの。昼間はこうはならないのだけど、空の星が夜輝くように、石の星も夜に反応するものだから……ほら」
細い指にはっとして指輪を見ると、ほんのり魔力をまとう紫の石があった。
「だから星というのかもしれないわ」
そうか、とうなずく。
星姫様は私にこれを見せたいと思ってくださったのだろう。
「……きっと忘れません」
夜風になびく髪を払いもせず、そのままあきずに海を見続けていた。
星の海。何という力か……。
皆が銀のきらめきを見つめていると、コンラート殿が眠そうにし出したので、まだこの輝きを見続けていたいとも思ったが海を後にすることにした。
帰途、背後をついてくるカスパーに、ふと思ったことをささやいてみた。
「後宮を出た時、これから先の世界はとても広いのだろうと思ったが……本当は思っていたよりもっと広いのだな。海を、書物以外で知るとこれほどなのだとは、思ってもみなかった」
「誰でも海を初めて見た時はそう思うものですよ」
カスパーは穏やかにあいづちを打つ。
「世界は本当はこれほど様々なものに満ちあふれて広いのに。……どうしてあやつは狭い世界にこだわって、命まで賭けようとしておるのか」
頭ではあやつの名誉やら権力やらにしがみつこうとする考えも理解している。だが、心の方では、私はあやつが心底理解できんのだ。
「兄上は世界の広さを知りながら己が道を決められたのだろう。あやつは……兄上のように世界を見ようとしたことがあっただろうか」
「……私には、何とも。ヴィン様がご無事であらせられたら、それで私どもはよいのです」
要は余計なことを考えて情けをかけるべきではないと、騎士らしい考えを彼は優しい言葉で告げた。
領主館に泊めてもらうことになって、ユーズ伯にもお会いした。高齢で杖をついた白髪混じりの金髪の伯爵は、私たちに星海を見たかと聞いて、
「最近は星が騒ぐ。貴方様の兄君が、危うい場所におられる故だろう。私たちの力なら気にせずお使いなさい」
と笑んだ。青い瞳が柔らかい笑みの代わりに鋭かった。
私よりも少し濃い、海の色の瞳だった。
「ありがとう、伯爵」
心からの礼だった。伝わったかどうかはわからんが。
用意された部屋は天蓋付きの寝台に応接間もあって、王族のためのものなのだろうと推測する。星姫にはユーズの一族の中で、最もまじないに優れた娘が選ばれる。ユーズ伯の館に住まうのもその力を悪用されぬため、また王が訪ねることも多いため。
——兄上はずっと、たった一人で、こんな秘密を抱えていたのだろうか。
私はただの王子には知らされるはずのない秘密を教えられているように感じる。きっと王と王太子のみに聞かされてきたものだ。兄上はきっと……今は存在せぬ王太子の地位の代わりに私を置いているのだ。
「……兄上」
ご無事だろうか。宮はもう空になっただろうか。騎士たちは上手くあやつを誘い出せるだろうか。お一人で抱え込んでいなければ、いいが。
ろうそくを吹き消して、布団をかぶった。海辺の街は暑いものと何となく考えてしまうものだが、ここにも秋は来るのだった。
翌朝ユーズ伯に朝食に誘われた。王子という身分があるとはいえ、長年辺境伯を務めてこられた方の前に座って緊張せぬわけにもいくまい。というのがつい固くなってしまっている私の言い訳だ。
「殿下は、兄君が王となられたらどうなさるのですかな」
問われ、何と答えるべきかしばし案じた。今はそのようなことは考えられん、と言ってしまってもよかったが、
「そうだな。全ては兄上のお心次第だが、私にできることならば手伝いたいと思っている。外語ならば多少の心得はあるしな」
結婚などの話をするなら、ヘマがいいと願っているが、それは置いておこう。
「そうですか。安心いたしました」
「……?」
スープを口に運びながら内心首を傾げた私だが、初の正式参加で顔合わせができなかったこの方に、星姫様が伝えられた以上のことを知ってもらえたのなら幸いだろう。
背は低いが足の太い馬の背に、荷包みが括りつけられていた。
「王宮のまじない師に、導線は端だとお伝えくださいな、殿下」
と星姫様が笑顔で言う。
「ありがとうございます。無理を聞いてくださって」
改めて礼を言うと、ふいに彼女は眉を下げて、
「どうか……お気をつけて。わたしは無事を祈るしかできないけれど……」
星姫様に足を運んでほしいなどとは言わない。それは王宮の総意だった。王家の混乱があろうとも、星姫様だけは傷つけるべきではないのだ、その身も、その名も。
「すでに充分以上のことをしていただきました。どうか兄上を信じていてください」
笑んでみせると彼女は手を胸の前で組んで、
「神々のご加護を」
と祈って送り出してくれた。
ユーザルの巫女である星姫に、その仕草はよく似合っていた。
行きよりも帰りの方が皆逸っていた。海を離れることを惜しむ間もなく、川をさかのぼり、ひたすらに道をたどる。星の丘へ帰り着いたのはユーズ伯の館を発って五日目の昼前だった。薄曇りの空模様が、私たちを待っていた人々の顔に影を落としていた。
「待たせたな。首尾はどうなっている?」
「幕の設営は終わりました。把握している人数の収容も済んでおります」
ダーフィトがつかれた顔をしながら報告する。
兄上の策は王宮を空にするところから始まった。侍従も文官も、仕え人たちは皆、実家だろうが王都の宿だろうが身一つで宮を退く。王宮に残るは兄上と宰相、そしてその信頼する近衛たちだけだ。
だが帰る場所のない者も宮にはいる。また、持ち前の責任感から王の傍から離れたくないと願うものも。
そうした者たちは星姫様の魔道具の庇護下に、星の丘で待機するようにと兄上は命じた。私たちが持ち帰った魔道具を、宮仕えのまじない師たちが引き取って持っていく。
導線は端だとご伝言だ、と伝えるとまじない師たちは張り切った。星姫様のまじないに直に触れる機会はめったにないと、こんな時でも喜んでいる。
星の丘はもとよりまじないに適した地。丘の上に天幕を張り、それを取り囲んで魔道具を設置していく。
原理は魔道具師ではない私にはわからんが、あれが魔物を寄せつけぬ結界になるのだ。
だが聞くべき首尾はそれだけではない。
「二の王子はどうなった」
騎士たちは。兄上の策は。
「包囲の一部を三日前に解き、王宮へ向かう以外の道を塞ぎました。第二騎士団の監視下で、きゃつの一行は順調に進んでおります。明日には、宮へたどり着くかと」
「明日、か」
後一日。不安が続く最後の日。
そうなるべきだ。そうせねばならぬ。
「丘を見回ってこよう。ダーフィト、私の天幕に荷を運び入れるよう手配してもらえるか。カスパーとテオフィルはついてこい。ドミニクは他の騎士に報告に行け」
「はっ」
四人が私の命に軽く頭を下げる。
馬に乗ったまま星の丘に残る者の様子を見に行く。あと少し、もう少しでこの苦悩も終わるはずだ。
臣下たちに動揺を移さぬよう、努めて平静な顔を装って王宮の方を見つめたが、心臓は乗馬服の下で早鐘を打っていた。
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