十四.懐かしくはない道

 どういうことだ、とじっと彼の目を見つめて、ようやく気がついた。

 黒髪に暗青色の瞳、低い背にやせ気味の体型。身体的な特徴はハイスレイ家の男のものだ。

「……貴殿は何者だ?」

 問うと、男はにこりとして、

「オイゲン・ハイスレイと申します。殿下には、ほんのお小さい頃にお目にかかりましたが、覚えてはおられぬでしょうなあ」

 と柔らかな笑い声を立てる。

 覚えてはいない。私は首を横に振った。

 ハイスレイ公爵家の者にしては、先の公や宰相には似ていない。少し見ただけではわからなかった。

「……公領に、と言ったな。私は兄上から何もうかがっておらぬのだが」

「第一王子殿下はどうやら、この事態を治めるには時が要ると思われたようです。殿下には、こうしてお部屋に籠っておられるよりは、王宮を出ていただきたいと」

 む……この男、兄上の旧知であろうか。

「これを機会として見聞を広めさせたい、とも私におっしゃいましたよ」

 少なくとも、この口ぶり、兄上のことを知っている。

 しかし、宮を出るか……追放とも聞き取れそうだが、兄上には外を見て来いとのご命令。

「……なるほど」

 私は一つうなずいてみせた。

「兄上がおっしゃるならば……と言いたいところだが、つい先立ってかどわかされそうになった身の上でな」

 彼の挙動を観察しつつ言う。男は穏やかに立ったままでいる。

「証拠を見せてもらえるか?」

 証もなしにハイスレイの者を信用するわけにはな……。

 じっと見ていると、彼はすっと上着の懐から金の小さな印章を取り出した。それを手に乗せて私の目の前に差し出してくる。

 宰相の印だ。まぎれもなく。

 男の目は笑みの色をしていた。……いたずらな人だ。

「大人しく従えば、説明はもらえるか?」

 聞くと、彼は目を細める。

「もちろんですとも」

 ……なぜ、そんなに優しい目で私を見ているのだろう。わからぬが、信頼に足り得そうだ。

 私は椅子を立った。

「アリーセ、エーミール、支度をしてくれ」

「ですが……」

 アリーセが戸惑った声を出す。私は軽く笑った。

「この者は王宮から来たのだろう? 従うことにしよう」

 はい、と二人は頭を下げ、慌てて廊下を去って行く。

 男をながめていると、彼は言った。

「……利口な方ですね。それに、よい侍従をお持ちだ」

 利口ときたか。そうほめられて喜ぶ年でもないが。

 彼はにこにこと笑っている。

「そう思われるか」

「ええ。そのお年で、よく理解してらっしゃる」

「……まあ、この状況を作ったのは私だからな」

 言うと、彼はうなずいて、

「なるほど、道理でございます」

 不思議な男だ……。何を言っても手応えがない。それでいてしっかりと芯があるように感じる。

 少し待つと、二人が革の鞄を抱えて戻って来た。エーミールが告げる。

「正装以外のお召し物一式と、小道具でございます」

 ありがとう、と私は手を伸ばしてそれを受け取った。見た目の割に重くはない。

 宮を、王領をも出るなど何年ぶりであろうか。前にこの鞄を見たときは、もっと幼かった。

 エーミールは不安そうに、

「ヴィン様、よろしいのですか……?」

 と聞いてくる。

 よいとは言えぬ、が、仕方のないことだな。このまま一室に封じられておっても、何にもならん。

「兄上の仰せだ、構わぬだろう」

 と笑んでみせる。

 アリーセがすっと頭を下げた。

「ご無事のお戻りをお待ちしております」

 うむ、とうなずく。

「行ってくる。留守を頼んだ」

 二人に見送られて、先を行く男について行った。歩きながら彼が言う。

「一、二週のことになるかと存じます。一の殿下は、それだけあれば、とおっしゃっておりました故」

 それは、長く宮を離れることになるな。姫たちに怒られるだろうか。あいさつもなく出て行って、と。

 それにしても親しげな語り口。

「貴殿は、兄上の……」

 何なのだ、と問おうとして思い留まった。失礼になるだろうか。

 彼は気にせぬ様子で答える。

「昔、ほんの短い間でございましたが、兄君の教師を務めたことがあるのですよ」

 教師?

 驚く私をよそに、彼はさっさと表口を出て、

「こちらでございます」

 と用意された立派な馬車を示した。

 馬車は革張りで、年老いたのんびりした風情の御者と、仕え人らしい若い男がいて、若者は私の荷物を預かってくれた。

 少し離れて、二頭の馬に乗った二人の若い騎士がいて、男はこう紹介する。

「公領出身の騎士です。殿下の護衛にと、一の殿下がつけてくださいましたのでね」

 とにこにこして。

 赤毛のくせっ毛でよく日に焼けた肌をした若者と、黒髪を少し長くした切れ長の目の青年だった。

「王宮騎士だったか? 見覚えがあるぞ。よろしく頼む」

 二人を見上げて言うと、彼らは無愛想に軽く頭を下げる。無口なのか、あるいは。

 いや、考えても詮ないこと。

 私は男に近づいて、

「オイゲン……いや、宰相、か?」

 何と呼べばよいものだろうか。新しい宰相と言われても、まだぴんと来ない。

 彼は笑った。

「どちらでも、お好きな呼び方でどうぞ。殿下は私どもの仕えるお方ですから」

 ふむ……今のところは、名でもよいか。

 私は彼、オイゲンの後ろから馬車に乗り込んだ。すぐに車が動き出す。

 席は革張りで、座り心地は上々だった。四角い窓に青い空が見える。少し遠くに王都の街並みも見えた。

 オイゲンはゆったりと、対面する座席に腰を下ろしている。しばらく、道の両側に揺れる初秋の草花をながめながら、ガラガラいう車輪の音を聞いていた。

 だが、やはり気になって、話しかけてみることにした。

「……その、聞いてもよいか?」

 彼は私に目を移し、微笑む。

「何でしょう」

「貴殿は……兄上とどういう関係なのだ? 新しい宰相に選ばれたこと、どう思っているのだ」

 後宮にいたためだろうか、幼い頃に会ったと彼は言ったが、長じて会った記憶はない。いかような者であろうか、この男は。

「教師であったと言っていたが……兄上の宰相になるのだろう?」

 ここで任命されるということは、次王のに宰相になるということだ。

 ふむ、と彼はうなずき、

「そうですね……どうお話しいたしましょうか。先ほど申しました通り、一の殿下との繋がりは、殿下が十六、七の折、教師のようなことをしておりましたこと、でしょうか」

 と遠くをみやるようにする。

「殿下は……学術研究所はご存じか?」

「ええと……王都にある、か? 行ったことはないが、話に聞いたことはあるぞ」

 確か、学者を集めてある施設だったはずだが。

「では話が早い」

 彼はふふ、と笑い、

「私は一時、そこで臨時の教師のようなものとして雇われていまして。そこに一の殿下がいらしたのでございます」

「兄上が?」

 どうした用で、だろうか。

「ええ。研究所には古くからの書物の保管庫があるのです。殿下は成人なさった頃で、国政に携わる前に王家について学ばれるためにいらっしゃいました」

 と彼はうなずく。オイゲンの挙措には品があるな。

「私が案内係のようなものになりまして、話す中で少し、お教えするようなこともしておりました。短い交流でしたが、政の志については気が合っていましたな。その後も手紙のやり取りをさせていただく仲でして。それで今回のお話をいただけたのでしょう……ありがたいことです」

「なるほど。何を教えていたのだ?」

 問うと、彼は髪に手をやりつつ、

「お恥ずかしながら……専門は政治学でございます。古来よりの政を比較し、批判し、後世へ役立てようと思うておりました。自らが関わろうとは思っておりませなんだ。かようなことになるとは、望外のことですよ、全く」

 と照れ笑いする。

「そうか……」

 学者であるお人か。しかも兄上と思想を同じくする政治学者。まだ年若い兄上には理想的な宰相だ。

 しかし、ありがたいと言ってもらえるのは嬉しいが……。

「……まことによいのか? 宰相になるというのは、貴族どもと渡り合い、文官長以下の官をまとめ、兄上をお支えしいさめもするということだぞ」

 少し考えて、言う。

「今、宮は荒れている。私が一因でもあるから大きなことは言えぬが……平穏な生活は遠いものとなるぞ? 今、兄上は本当に大変なのだ。貴方は構わぬのか?」

 すると、彼はふいに真剣な顔をした。

「殿下、私めは、全てを納得ずくの上でこの位をお受けいたしました。一の殿下のお心に沿わぬような真似はできませぬとも」

「……そうか」

 正しいお人だ。疑うことはない……。

 私はこくりとうなずいてみせた。


 八刻の辺りだろうか、昼過ぎに馬車はずっと走って来た街道を少しそれて歩みを止めた。

 一軒の小さな宿があって、馬たちに休みを取らせるということになる。私も降りてよいと言われたので、厠などを借りて、入り口から少し離れてオイゲンを待った。宿の周りは手入れも行き届いていたが、道の傍らには草木も茂り、人の空気というよりは野の香りがした。

 数年前には同じ道を通ったはずだ。もっとも、母上との旅路であったし、もっと大げさに侍従を引き連れて、よく予定されたものであったはずだが。ここも記憶にあるような、ないような。少なくとも、このように一人で動き回れる身軽なものではなかったな。一応、騎士の視線はあるが。

 その騎士——真っ直ぐな黒髪の青年——が寄ってきて言う。

「そろそろお戻りください。ゲッツが昼食をお持ちしますので」

 硬い顔をしておる。何のゆえだろうか。

「……ゲッツというのは?」

 聞くと、彼は目をしばたかせ、

「侍従にございます。オイゲン様の……」

 と、宿から出て来るところの若い仕え人を差した。

「ふむ。馬車に戻ればよいのだな」

「え? ええ、はい」

 母上はどの食事も宿に案内されて取らねば満足しなかったが、確かに車内で食った方が早いな。

 くっと小さく笑う。オイゲンはずいぶんと、あの者どもとは違う……。

「承知した」

 答えて、さくさくと草を踏み分けて車へ戻った。パンを寄越した侍従に、

「お前はゲッツというのか?」

 と問うてみると、若者は目を丸くする。

「はい、わたくしめがゲッツでございますが」

「あそこの騎士が言っておったぞ」

 笑うと、ゲッツも笑んで、

「そうでございましたか。王子殿下に名を呼んでいただけるとは、身に余る光栄でございます。道中、どうぞ御身の従者と思ってお使いください」

 と一礼する。

 同じふかふかした甘いパンを食んでいたオイゲンに聞いてみた。

「礼儀のなった侍従を持っているな、貴方は?」

 彼は笑って、

「あれは年としては見習いでございますよ。態度ばかりは一人前でね」

 おもしろいものを従えておるな。という代わりにくすりとだけして、パンにかぶりついた。


 昼食の後に心地よい揺れが加わったせいだろうか、ついうとうととしてしまった。はっとして身を起こすと、街道沿いの野原と畑の向こうの空に、太陽が低い位置にある。

 しまった……。気を抜いてしまった。なぜだろうか、初対面の人間の前だというのに。

 髪を整えつつ、ちらとオイゲンに目をやると、彼も舟をこいでいた。灰色の髪としわのある頬に陽光が当たり、影を濃くしている。

 疲れているのだろうか。ハイスレイの領館まで、王都から馬車で二泊三日かかる。私が謹慎を守ってから四日も経たず、彼が迎えに来た。これはかなりの強行軍だ。

 ……兄上の命のため? だとしても、まだ老体というほどではないとはいえ、無茶をする。この者にとって、兄上はどういう存在であろう。あるいは私は。

 じっと彼の静かな呼吸に耳をすませていた。

 オイゲンが目を覚ましたのは、空の色が橙に変わる頃だった。目をまたたかせる彼に、

「起きたか」

 と声をかける。彼はかすかに目を見開き、次いで苦笑して、

「ええ。……退屈をさせてしまいましたでしょうか」

「いや」

 私は首を振った。

「色々考えておったしな。景色もきれいだ」

「そうでございますか」

 とオイゲンが笑む。それから問うてきた。

「……どのようなことを?」

「貴方がどのような人かと」

 言ってみると、彼は驚いたようで目を丸くする。

「貴方にとって私はどのようなものか、とかな。……厄介事を背負わされたようなものだろう? 先公の血を引く王子というだけで関わりを持たされて」

 どうも護衛や仕え人には警戒されているようにも思えるし。迷惑をかけていることになるかな。オイゲンの表情をうかがいつつ微笑む。

「おやおや……」

 ところが彼は意外そうに言った。

「関わりならもとよりございますよ、殿下」

 こほん、と咳ばらいをして、

「……私はあのエゴンの弟でございます。いえ、もはやございましたと言っても許されるべき間柄ですが」

「そうなのか⁉」

 思わず聞き返してしまった。オイゲンはくすりとして、

「あやつの娘に子ができた、それも王子だと聞いて、貴方様の幼い頃に挨拶に参ったのですよ」

「……そうだったのか」

 道理で、私を見る目が他と違うわけだ。遠いようではあるが、優しい目。

 親戚の子ども、とか、そういった感覚だろうか。祖父の弟。母上には叔父にあたる人か。

「なるほど、私にとっては大叔父上かな。母上の方の家系図をしばらくたどってなかったのが敗因か」

 ばふ、と背もたれに身を預ける。すぐにわからなかったとは不覚。

 薄いが、近い方の血縁であったとは。母上と同じ家名とはいえ、兄上が遠縁の者を引っ張り出してきたのかと。

「何だか信じ難いな。大叔父に学者がいるなどとは聞いたことがなかったぞ」

 と口にすると、オイゲンは微妙な顔をした。……何だ?

「あ、いや……私はいつも先公のいうことなど話半分と思っておったゆえ、気にせぬがよかろう」

 話の一つも聞かされていないとは、と思われたかと思って告げたが、彼は軽く首を振った。

「いえいえ、構いませぬよ。さ、そろそろ町に着きます故」

 言われて窓の外を見やると、柵と壁で囲われた小さな町が見えた。

 馬車は門をくぐり、人々が端の方で何やら売り買いしている大通りをのんびりと進む。子の手を引く豊かな栗毛の女性や、呼び込みをしているらしい若い商人の姿が見えた。

 この馬車はどうも目立たぬな。大きい革張りの馬車で、旅装束ではあるが騎士も二人ついておるのに、注目を引いていない。道行く町人たちも気に留めない。観察が容易だ。

 大人しく乗っている間に、大通りからは少し離れた宿の前に停まった。小綺麗な白い壁の建物が夕日を反射している。他にも館のような宿や古い宿らしいところもあったが、ここに泊まるのだな。

 オイゲンの後について中へ入る。案内係らしい青年が現れて、オイゲンと親しげにあいさつを交わしながら二階へと先導してくれた。

 階段も通路も広々としていて、やはり白い壁に絨毯の敷かれた木張りの床をしていた。オイゲンが並びの二部屋を差して、

「殿下はこちらの部屋をお使いください。私はこちらにおりますので、ご用があればいつでもお声がけください」

 と笑いかけてくる。

「わかった」

 私はこくりとうなずいた。早速戸を開けてみる。部屋はこじんまりとして、木枠の窓と備え付けの机、清潔そうに整えられた寝台と、足置きのついた椅子があった。居心地のよさそうな部屋だ。中央辺りに立って見上げると、天井は白塗りに淡い緑で花と葉の模様が描かれていた。

 ふむ、と一人納得する。趣味のいい宿だ。

 コト、と軽い音に振り返ると、ゲッツが私の鞄を持って立っていた。

「ああ、ありがとう」

 礼を言って受け取る。箱型なので床に置く。開けようと手をかけると、ゲッツが言った。

「主が、湯殿に向かわれるとよいと。いかがなさいますか」

 主? オイゲンのことか。いつもとは違う順だが……。

「そうしようか」

 立ち上がると、ゲッツは嬉しそうに、

「ご案内いたします」

 と先に立って歩き出す。途中、尋ねてみた。

「ゲッツは、オイゲンに仕えて長いのか?」

「そうですね」

 滑らかな小麦色の髪をした青年はにっこりとする。オイゲンは好かれているようだな。

「お前の主はどういうお人柄だ?」

 聞くと、彼はしばし考えるようにしてから、

「お優しい方です。何と申しましょうか……茶目っ気のある方でもありますが。勤勉な方かとも存じます」

 私はふふ、と笑った。私の受けた印象は間違っておらぬようだ。

 湯屋は広く、脱衣所と洗い場に分かれていた。ゲッツが言う。

「お手伝いいたしましょうか?」

「別にいらぬぞ? そこまで子どもではない」

 断りを入れると、彼はくすりと微笑んだ。

「かしこまりました。では、番をしております」

 ふむ……一人ずつにあるものではなくて、共用の場所のようだな。ありがとう、と答えて戸を閉める。着ていた衣はたたんでおいたが、王宮での衣装をそのまま着て来たことを思い出した。仮にも王族のみに許された上着の形。……この旅では不便がありそうだ。

 湯舟には湯が引いてあるようだった。外で湯を沸かしているのだろうか? 母上と旅行した時は、浴槽のある部屋で、侍女に支度させていたが。

 早々に上がって、シャツだけまとう。髪を拭いた後で櫛を忘れたと気づいた。よそへ泊まるのが久々すぎて、色々忘れておるな。

 ベストだけ着て、上着を手に持って部屋に戻る。ゲッツが不思議そうにするので、

「少々不都合を思いついてな」

 とだけ言っておく。

 彼はなぜか私の肩の辺りをじっと見てきて、

「……着痩せなさるたちですか?」

「よく言われるな。皆そんなものだろう?」

 そんなことか。ついて適当に答えてしまったではないか。

 今度こそ鞄を開けて、上着を見繕う。髪をとかし、耳飾りをつけ直したところで、戸が叩かれた。戸はついと軽く開いて、オイゲンが顔を出す。

「堅くない格好でよろしいので、どうぞ。夕食に参りましょう」

 その服装を見ると、先までの礼装はどこへやったか、紺の上衣に着替えている。私もならって、肩に茶の上着を引っかけるだけにして後について行った。

 案内されたのは二階にある小部屋で、壁は落ち着いた藍色に塗られていて、小さな窓があった。四人掛けくらいの食卓には小瓶に可憐な花が咲いていて、二人分の椅子がある。銀の器と陶器の水差しだけがあり、食事はまだのようだった。

 大人しく待つか、と木椅子の背にもたれると、オイゲンが小さく笑う。

「こうしたところは珍しいですか? 殿下」

「そうだな……」

 言われると、見るもの全て珍しくも思える。

「外へ出たことは数えるほどしかないし、母上と泊まった時ともずいぶん違うな。貴方の趣味なのか?」

 オイゲンがくすっとする。

「そうでございますね」

「よい趣味だ。私は気に入ったぞ」

 と言ってやる。これまでに見たことのない趣向だったのは確かだな。

「殿下、外をご覧になりますか? ここの景色は中々よろしい」

 彼が窓を指さして微笑む。

「見よう」

 ちょうど暇だしな。

 椅子を引いて立ち上がり、木枠の向こうをのぞく。窓のすぐ下に棚のような鉢があって、そこに緑と花が植わっていた。その下には宿の入り口前に、石を敷いて整えられた地面があって、対になった灯火が二本立っている。

 これはよいな。私は勝手にうなずいた。

「火が綺麗だな。朝になって見てもよさそうだ」

「殿下は芸術性がおありになりますね」

 オイゲンが嬉しげに目を細めるので、私もくすりとして、

「ジルケの方があるぞ。私の妹だがな。あの子にぜひ見せてやりたいものだ」

 席に戻ると、間もなく食事が運ばれてくる。豆のスープに、葉野菜と卵のパイ、果物。

「美味いな」

 料理も温かいまま出てくるし、質がよい。

 ぶどうをつまみながらオイゲンが言うには、

「少し早いですが、そろそろ食べられる頃です。料理人が揃えてくれたのでしょうね」

 形を整えて切られたりんごも甘い。

「さては相当な上客だろう? 料理人に感謝せねばな」

 応じるとオイゲンは微笑んで、

「その通りでございますね」

 両方の返しを一つにまとめるとは。

 水を飲もうと器を口もとに持っていったその時、彼はその笑みの質を変えた。

「……毒見は気になさりませぬな」

 私はぴたり、と動きを止める。何を今更。同じ水差しから同じ給仕に注いでもらった水を飲み、同じ料理を食っておったではないか。信用する——信頼して用いる——のかと、問うているわけか?

「疑心が足りぬなどと言ってくれるなよ。貴方は兄上の臣だろう」

 くっと笑う。

「兄上が任命した者を疑うならば、それは兄上を信じきれていないのと同義だ。経験の浅そうな者相手なら、相応の警戒はしようが……」

 器に口をつける。水がのどを滑っていった。

「兄上がその権の一部を託したのだぞ。これを信じないで意志を失うくらいならば——兄上と、兄上に仕える者の心を違えるくらいならば、多少の毒に苦しむ方がましだ」

 タン、と器を叩きつけるように置き、彼の目を見すえる。

「とはいえ、そんなことを言うくらいだ、きちんと対策はしていような? 私はこんなところで死ぬのは嫌だぞ」

 言いたいことは全部言った。腕組みしてちらりと彼の顔を見やると、彼はじっと私を見た後、ふっと笑った。

「……もちろんですとも。失礼を言いました」

 くすくす笑いながら、言う。

「さすがは一の殿下の弟君であらせられる」

 ……?

「どこか似ていたか?」

 首を傾げると、オイゲンは首を横に振る。

「いやいや、肝の座っておられる方々よ、とですね」

「ふむ?」

 どういう感想なのだ、それは。

「はじめて言われたぞ、そんなこと。変なところに目をつける」

 呆れて言うも、彼は笑ったまま、

「異なる目線というのも、よい臣の条件でござりましょう?」

 なるほどな。

「そういうことにしておこう」

 と私は答えた。おもしろい男だ……。


 月の明るい夜なのか、カーテンの向こうから白い光が差し込んでいた。

 シャツだけになって布団を被る。道中に着る寝巻きを入れるほどの大きさはなかったからな、この鞄。

 宮の寝室より小さい部屋はしんとして、隣の部屋にはオイゲンが寝ているのかと思うと、不思議な気持ちだった。

 以前は考えもしなかったことばかり起こる。非常時ゆえのことであろうが……。

 度胸があると言われたが、単に何も知らぬから、何でもかかってこいという気になっているのかもしれん。

 ふふ、と一人、笑い声をこぼした。


 翌朝目を覚まし、ゲッツが洗顔用の盥を運んできてくれなどして、用意を済ますと、昨夜と同じようにオイゲンが朝食に呼びに来た。

 給仕が粥を持って来てくれたというので、招かれるままに彼の部屋に立ち入ると、細長い応接間であった。低い卓に、木の長椅子が並んでいて、机の上の器から湯気が立っている。味は薄いが、温かい粥だった。さじを置くと、オイゲンが言う。

「一日馬車に乗っていただきます故、支度してから声をかけてください」

 忘れ物はないか確かめてから、馬車に乗り込んだ。

 街道に出ると、見飽きはせぬが代わり映えもせぬ、抜けるような青い空と緑の風景が窓の外を通り過ぎてゆく。

 じっとしていたい気分でもなく、昨日と同様に対面して座るオイゲンに、どのようなことを学んでいるのか聞いてみた。彼が生き生きと語ってくれたことの半分はよく理解できなかったが、農業を主体とする政治について研究している、のだそうだ。

 一つわかったのは、君主が主導する農法の開発もあってしかるべきだ、という考え。選定会議で、兄上が農法研究を立ち上げたと称賛されていたな……。この者の影響もあろうか。

 他は経済だの交易だのと、要は双方が納得できるよう話ができればよいのだろう? 難しいことはまだわからん。私ももっと勉強してゆかねばな。

 難解なことを簡単に言うのは中々に苦労だ。優しく説明せねばならぬ子でもおらなんだか、とたわむれに問うと、意外にも彼は柔らかに微笑んで、

「ございますよ? 妻も、子も、昔は熱弁を振るって困らせたこともありましたかもなあ」

「よく結婚できたな。その口ぶりでは、大層できた人だろう」

 からかおうと思って笑って言ったのだが、彼は真剣に返した。

「ええ、本当に。家との付き合いもよくない、裕福でもない一学者に、よく嫁いでくれたものだと思います」

 付き合い、か。

「……家族との仲が悪かったのか? こうなってしまっては複雑だろう、兄と甥の尻拭いをするようなものだ」

「……」

 オイゲンは目を伏せた。

「複雑、などとは。そう言っていただけるような関係ではございませんでした……私と、エゴンめとは」

 黙って続きを促す。彼はしばしためらっていたが、やがて思いの外はっきりした声で語り出した。

「年の離れた兄弟であったせいでしょうか。成人する頃には意見は既にかけ離れていて、対立する存在でありました、お互いに。あれは権勢を望んでおりました。ですが私は、学術の世界に溢れる、真摯に眼差すが故の批判の精神に憧れて参りました」

 と顔を上げる。

「殿下には伝わっておりませぬでしょう。エゴンとヴィルフリートめは、ハイスレイ公爵家が責任を引き受けることと相成りました。公領にて辺土の館を与えられ、そこに囚われることになります」

 永遠に。死ぬまでの長い間。墓も公に建てられることはない。罪を犯した貴族に下される最大級の罰。

「……それは」

 それでは貴方がつらくないのか。

 問いは発する前に、彼の言葉に封じられた。

「当然の結果でございます。あれらの頭の足りぬ目論見も、私めが放置していたために起こされた行動とも言えましょう。正直に申しますと、報せを聞いた時、怒りを覚え申した。私どもが彼らの処罰に責任を持つのはこの怒り故であり、義務にございます」

 きっぱりとした発言に口をつぐまされる。痛みを、長い間懐に抱えるようなものなのに。覚悟を決めてかかっている。そこにかける言葉を、私は知らなかった。

 濃青の目に鋭い光をもって、彼が逆に問う。

「殿下こそ、肉親とも言える者どもを弾劾すること、苦しまれたでしょうに」

 ……そういうことか?

「いや」

 違う。私はそうは感じなかった。

「言葉を返すようで悪いが、きっと貴方が思っている以上に、私たちの間に親愛などなかったぞ。……母上は昔からあの二人を嫌って、遠ざけていたからな」

 それに、と内心呟く。

「……母上の死の顛末を知っているか? オイゲン」

 オイゲンは困り顔に眉を下げ、

「ええ。……痛ましいことでした」

「母上が亡くなった時、」

 あのやるせなさは今でも心の奥底に漂っている。

 そっと袖口を握った。

「私は己を責めたのだと思う。もっと考えていれば事故には至らなかったのではないかと。……先公のことも」

 お任せください、と迫ったくせに、と思わなかったわけでは、決してない。

「白々しい顔で葬式に出て、母上亡き後の私の身の振り方に助言もせぬのに、まだ私が無知で従えやすい子どもだと思っているとは、と、馬鹿馬鹿しかった」

 ——見下した。価値観がひっくり返った後では、過去の私しか知らぬあれらは、軽蔑するしかなかった。

「あの男が父親に操られたまま宰相でいるならば、一の兄上の邪魔になる。だから除こうとしたのだ」

 言葉にしてみれば、くだらぬこと。

「……我ながら醜い感情だな。貴方が心配してくれたような弱く優しい心など、持ち合わせておらぬぞ、私は」

 ふ、と自嘲するように笑った。どうしてか、すらすらと暗いものまで並べてしまえた。この人の前では。

 ところが、そのオイゲンは細く微笑んで、

「……いいえ。お優しい心をお持ちですよ、殿下は」

「……今の話のどこがだ」

 呆れて言う。やはり変なことばかり言われるな。何を見ているのだろうか? どういったことを。

 彼は答えず、代わりに少しの間を置いて、こう言った。

「殿下、ハイスレイの一族の愛をご存じですか」

「愛……?」

 首を傾げる。何の話だ?

「いつの代からのことなのか、初代からでもあったのか定かではありませぬが、古くから、この血筋の者はたった一人を熱狂的に愛する傾向にあるのです」

 私は目を丸くした。オイゲンは薄く笑んで、

「私もそうです。が、……あのエゴンめも、そうでございました。クリスティンという名の妻がおったのです。やつの権力欲も、彼女がいた間は、ましな方へ向いていたように見えました」

「確か……亡くなっていたな」

 私には祖母にあたる女性だ。私も継いだ、風の力を持った人。

「はい。九年前に」

 私が四才の頃か。……五つの頃くらいからしか記憶はないが、その時には、母上と先公の中はすでに冷え冷えとしたものだった。あれが私を駒として見ていることが、わかっていた。

「……そうか」

 わかりたくはないが、わかってしまう。

「言っても詮無いことだが……」

 心の大部分を占めていたものを失って、狂ってしまうほどの愛。

 うなずくと、オイゲンは苦い笑みを見せ、

「心当たりがおありですか」

「……母上もそういう人だった。多分、私も少しは」

 ヘマを、何の前触れもなく失ってしまったら。

 嘆くどころでは済まないだろう。きっと、しばらく立ち上がれなくなる。深まり始めた程度の恋で、この感情だ。

「……少し怖いな」

「そうですか?」

 こぼした弱音に、オイゲンはにこりとした。

「私と妻のような例もありますよ。互いを大切にできれば、これ以上なくよいものです」

「大切……か」

 なるほどな。二人が長く愛し合えるという利点があるとも言えるか。

「それはよいな」

 くすりと笑むと、彼は笑って、

「妻がいつも言うのですがね。家族の健康を保つのが己の使命だと、家の者を管理して回るのです」

 かわいらしい奥方だな。

 ふっと笑い声がこぼれて、車の中が穏やかな笑い声に満ちた。


 昨日と同じように昼に休息を取り、宿を取る街まで車を走らせた。

 オイゲンの子について尋ねてみると、何とその者がハイスレイ公爵の地位を継いだという。若くはないか、と言うと、

「もう三十になりますから、公となってもおかしくはない年齢ですよ。未だ相手もおらぬ独り身であるのだけ、少々心配ですがね」

 とオイゲンは笑って済ました。

「いくつだ? オイゲン」

「私ですか? 六十近うございます。小さな孫がいたっておかしくはない年なのですが」

 本人の齢を聞いてみれば、そんなことを言って呆れたそぶりをしてみせる。

「それにしては若々しく見えるぞ、貴方は」

 彼は妻のおかげでしょうか、と笑ったが、

「実を申しますと、後の人生は後進の育成に捧げようと思っておったのですよ。まさか自分が宰相に任ぜられようとは」

 とぽつりと告げた。

 そういえば、そんなことを言っておったな。権力欲はあまりないのか……その方が兄上の治世にはよいだろうか。

 心の内に呟きつつ、問う。

「後進というのは?」

 ああ、と彼はうなずいた。

「近来ハイスレイ家が担っている、宰相家という役割のことです。血筋でない者が就くのは難しくなってしまった。であらば、本流ではないところからでも優秀なのを引っ張ってきて、一の殿下の御代に宰相としてお付けしようかと、そう、企図しておったのですが」

「ほう」

 それはよい考えだが、人はいるのか。

 問うと、彼は妹の末子が、と言う。

「私どもには妹が一人おりまして、他家の文官に嫁いだのですが、これが子沢山でね。私から見ますと甥ですか。一の殿下よりも年少ですが、頭は回る。研究所に入れたり連れ回したりして鍛えておりましたが」

 急な師の移動にあって、都に置いてけぼりにされているらしい。今回のことは方々に混乱をまいていそうだな。多少の犠牲はすまぬと言うほかない。

 オイゲンの子の方は王都で経理関係の文官の仕事を手伝っていたらしいのだが、兄上の呼び出しにあって公爵に任命され、今は領地で様々なことを片づけているようだ。

 ……私のせいで苦労させているような気がしてきたな。うーむ、まあ、仕方がない。


 今度の宿は大きく、湯殿もいくつもの個室に分かれた広いもので、夕食には食堂の二階席だという場所に通された。

 一階からは吹き抜けで、木や花をかたどった透かし模様の壁で隔てられていたが、人の姿はなく多くの長机が並ぶ一階が垣間見えた。

 この少人数で私のような身分の者を隠して連れるのはかなり大変だろう。この旅の端々に工夫が見える。今宵の食堂はきっとこの一行のために一時貸しきられているのだ。

 湯冷めしないように、とひざ掛けをすすめてくれたオイゲンが、

「ハイスレイ公領が医術に名高いのは、温泉療法に端を発するそうですよ」

 と教えてくれた。

 それもありそうだな、とうなずくと、彼はにこりとして、

「殿下は素直でよろしいですね。私のことを〝おじい様〟と呼んでみませんか?」

 私は椅子を引こうとしていた手を止めた。

「は?」

 見上げると、彼は目を細めたまま、

「素直な孫がほしかったものでして」

「……」

 とりあえず席に着く。彼はにこにことし続けていた。

「……変なことを言う人だな。私にそう呼べなどと言ってきた者は、今まで一度もなかったぞ」

 頬杖をついて下からのぞき込むと、彼は濃青の目を和らげ、

「息子は自力で何でも調べたい子どもでしたので。こんなによい先生が目の前にいるのに、経済の本をねだられた時はどんなに悲しかったか」

 大げさに肩をすくめるので、はは、と笑うと、彼は

「宰相となっても、身近に可愛らしい生徒の一人もいなくてはおもしろくありません」

 と首を横に振る。

「教師なのだな、貴方は」

「第一王子殿下も優れた生徒でございましたが、既に師のもとからは巣立っていらっしゃる」

「では、私はこう言えばよいのかな」

 私はくすりとした。まことに、変わったお人だ。私のしたことを、我が血筋を知っていて、いや知っているからこそ、このようなことを言ってくれるのだろう……優しい人だな。

 なれば、その冗談のような言葉にも、本気でのってやろう。

「どうしたって宰相になったのは変わらぬのだから、兄上のことをよろしく頼むぞ、〝おじい様〟?」

 いたずらっぽく告げると、彼は笑って、

「ふふ……そうおっしゃられては、奮起して仕事に励まぬわけには参りませぬなあ。精進するといたしましょう」

 と言った。


 その晩も一部屋を与えられて、朝日に目を覚まし蜂蜜とパンの朝食を取ると、すぐに出発した。

 昼過ぎに大きめの町の横道へそれ、野原や畑の見えるくねった道を進んだ。豊かな緑の中に建つ、黒い鉄柵に守られた美しい館が見えてきて、そこへたどり着いたころには日が低くなっていた。

 馬車が近づくと、番兵らしい老人二人が御者とにこやかに声を交わし、門扉を開けた。細やかな花の文様の門の向こうは、白い砂利で作られた道が円を描くようにあり、円の中心には整えられた花畑がある。半円を進むと、赤茶のれんが造りで黒っぽい屋根をした館と、その白い大扉が現れた。

 ……古い記憶と同じ……ようにも見えるし、違うようにも思える。

 入り口前に数名の侍従が並んで立っていて、馬車が停まると皆駆け寄ってきた。

 オイゲンが降りてゆくと、口々に

「おかえりなさいませ」

「よくお戻りくださいました、主様」

 などと声をかけ、ゲッツたちと共に荷物などを引き取っていく。

 私も後について降りると、侍従長だろうか、背が高く黒と白を基調とした衣に身を包んだ壮年の男がやってきて、

「ようこそお戻りくださいました、オイゲン様。そちらが報せにございました王子殿下でしょうか」

 と低く朗々とした声で言う。

「帰ったよ、フロトー。そうそう、こちらが第三王子殿下だ」

「よろしく。ええと……」

 見上げると、男は慇懃に一礼して、

「オリヴァー様の侍従長を務めておりますフロトーです。滞在なされます間、ご用がございましたら、何でもお言いつけください」

 と唇に薄く笑みを浮かべた。

「ありがとう、フロトー」

 礼を言うと、彼は軽く頭を下げ、

「案内は侍従に。お疲れでしょうから、夕餉までごゆっくりお休みください」

 と侍従たちに指示を出しに行く。代わりに足早にやってきた女性に、私はあっと言いそうになった。

「! ……ナターリエ?」

 名を呼ぶと、彼女は嬉し気に垂れ目を細め、私をじっと見つめた。

「ヴィンフリート様……大きゅうなられましたね」

 薄い紫色の瞳、黒髪をひっ詰めて、黒に淡茶のエプロンドレスを着ている。白い肌にほんの少し、しわが増えたような気がしたが、化粧も表情も昔と同じと見えた。

「お前はあまり変わらぬな、ナターリエ」

「お別れいたしましてから二、三年のことですもの」

 と彼女は目をうるませる。

「殿下、この者とお知り合いで?」

 オイゲンが言うと、彼女ははっとしたように深く一礼して、

「失礼をいたしました。ヴィンフリート様はかつての主なのでございます。わたくしはナターリエ・クラハットと申しまして、この館にお仕えして参りました者でございます」

 私はオイゲンの横顔をうかがって、

「ナターリエは、私の幼少の教育係だったのだ」

 と言い添えた。

「なるほど、そうでございましたか」

 オイゲンはにこりとしてうなずく。

「お二人に、旦那様が割り当てなさった客間へご案内いたします」

 ナターリエは愛想よく言って、館の戸を押し開いた。

 玄関はがらんとして、飾りの一つもなかった。二階へ続く巨大な階段が真正面にある。

 私は小首を傾げた。前は趣味の悪い肖像画が並んでいたはずだが……。

 案内されたのは二階で、オイゲンは階段に近い広い部屋に入ってゆき、私はナターリエに導かれて庭が見える方の客間へ入った。

 大きめの天蓋付きの寝台に、衣装棚、書き物机に一人掛けの革のソファが一つ。いわゆる客人を泊める部屋という様相だ。

「ヴィンフリート様、お疲れでしょう。さ、お掛けになって」

 ナターリエはにこにこと言ってくる。その言葉に促されるままソファに腰かけ、問うた。

「……絵はどうしたのだ?」

「はい?」

「玄関の絵。前はあったはずだが」

「ああ!」

 ナターリエは得心したというようにうなずき、

「旦那様が外されましたよ。内装を変えるとおっしゃって」

 ふむ……。

「その旦那様、というのは」

 もはや、先の主である先公はこの館へ戻って来られぬ。誰がそう呼ばれているのだ?

「オリヴァー様です。新しい公爵様ですよ」

「オイゲンの息子か」

 名はオリヴァーというようだな。新公として館の管理も引き継いだか。

「ということは……ナターリエ、お前のような先公の使用人たちもそのまま雇われたのか?」

 聞くと、ナターリエは少し眉を寄せた。

「そう、ですね……職場を変えることを望まぬ者は、留まってよいとおっしゃいましたから。ただ、侍従長は変えなさいましたし……皆、戸惑っておりますわ。急なことで」

「そうか……」

 私はこくりとうなずいた。

「これは、大変な時にじゃますることになってしまったな。すまないことを……」

 こぼすと、ナターリエは驚いたようで、

「何故、謝りなさいますの? ヴィンフリート様は王宮の事件に巻き込まれただけでございましょう」

 なるほど、そう伝わっているか。それはありがたいが……。

「私が招いたようなものだ。……驚かせただろう」

「まあ、そんな……」

 ナターリエは焦った調子で、

「それは、驚きはしましたが、先の主の不穏な言動は、皆気づいておりましたもの。ヴィンフリート様が気になさることはありませんわ」

「……そうかな」

「それよりも、わたくしは、急なことでもヴィンフリート様にお会いできるとなって、嬉しくて。滞在中はお世話係をいたしますわ、昔のように!」

 彼女はぱっ、と目を輝かせる。

「ヴィンフリート様は、どうですの? 昔のように、このお館への道をたどっていらして。お懐かしかったのではありませんか」

「……懐かしい?」

 私は目をまたたいた。意外な言葉を聞いた、という気分だった。そうか、同じような道を来はしたな。

「いや。……懐かしくはなかったな」

 しかし、母上との旅程とは、やり方も宿も全く違っていた。見るもの全て目新しいようだった、此度の道は。

「まあ、どうして?」

 ナターリエが口もとに手を当てる。私はくすりとした。

「あれはおもしろい男だ」

 興味深い、丸二日は同じ時間を持ったというのに、気になる点がまだまだある。

「それよりも、ナターリエ、昔のような世話は必要ないぞ。もう子供ではないのだから、わかってくれているだろうな?」

 先ほどから幼い子を相手取るような仕草の彼女に、注意はしておこうと告げると、ナターリエはまあ、と驚いた顔をする。

「そんなことをおっしゃるなんて……でも、そうですね、少し見ないうちにこんなに大きゅうなられましたもの」

 寂しげな声音。

「……」

 その藤色の目をじっと見つめた。彼女は不思議そうにする。

「ヴィンフリート様?」

「……母上のことは聞いたのか」

 彼女は息を呑んだ。幸せそうにしていた表情が崩れる。

「はい、伺いました……本当に、何と、言ったらよいのか……わたくしは、もう、本当に悔しくて」

 と声を震わせて、

「最後に見たお顔は、変わらずお美しいままでしたのに……」

「……すまん。不躾な聞き方をした」

 コンコン、と軽く戸が叩かれた。泣き出しそうに顔をゆがめたナターリエの手をそっと握る。

「一度下がりなさい、ナターリエ。落ち着いたらまた来るがよい。話したいことはたくさんある」

 言うと、彼女は目を大きくして、

「……はい」

 こくりとうなずいた。

「失礼します」

 部屋を出ていったナターリエと入れ替わりに、荷を携えてゲッツが入ってくる。

「殿下? 今のは」

 ナターリエの消えた方を見やって問われる。私は少しだけ笑った。

「古い友人だ」

「はあ……」

 ゲッツは顔に疑問符を浮かべているが、気にせぬことにする。

「ありがとう、衣装棚にでも入れておいてくれ」

 適当に指示を出した。と、彼は急にむっとした顔で、

「そういうわけには参りません」

 と棚へ向かうと、荷を開け整理をし始める。

「そうきちんとせずとも……また荷造りをするはめになるぞ」

「その程度、簡単なことです」

 逆効果か。ゲッツはあれだな、優秀だが、己の信念には融通をきかせぬ質だな。

「まあ、ありがたいが……好きにしてくれ」

 私はそんな信念などは持たぬので、投げ出した。はい、と答えて、ゲッツは荷の中身を丁寧に処理してゆく。私はソファに身を預け、その背に声をかけた。

「お前は、これからどうするのだ?」

「どう……とは」

「ここはどうやら、オイゲンの息子の館になったらしいが。お前はオイゲンの従者なのだろう?」

 ああ、と彼は軽くうなずく。

「そうでございますね。わたくしどもはオイゲン様に従います故、しばらくしたらここを発つかと」

 鞄を奥に入れ、姿勢を正すと、彼は一礼する。

「夕食にはオリヴァー様がお戻りになるそうです。それまでごゆっくりどうぞ」

「……わかった。ありがとう、ゲッツ」

 扉がぱたり、と閉まると、部屋は静まり返って、代わりに館の音が運ばれてきた。ぱたぱたと忙しそうな足音、くぐもった話し声。どこか楽しそうな空気だ。オイゲンの到着は歓迎されているのだな。

 窓の方に目を向ける。庭の緑と、夕日の橙が目に入った。

 ……予想できていなかったな。母上はもういないのに、ナターリエに会うとは。それに、主が変わった館のことも。

 少し様子を見るしかあるまい。


 侍従長、フロトーといったか。彼が呼びに来て、一階の食堂へ案内された。

 食堂の内装は、あまり変わらぬか? いや、母上はいつでも私と二人だけのところに侍女を侍らせて食事するのがお好きだったし、よく覚えているとは言えん。

 奥の上座の方に、オイゲンと、見知らぬ三十代に入ったくらいの男がいた。

「オイゲン?」

 声をかけると、二人がこちらを向く。

「王子殿下をお連れしました」

 とフロトーが告げ、

「ありがとう、フロトー」

 見知らぬ男が返した。

 私は二人に近づいて見上げた。男は背が高く、兄上より少し低いくらいだろうか。明るい茶の髪をオイゲンと似たふうに流していた。

「殿下、紹介いたしましょう。これは私めの息子で、新公爵でございます」

 オイゲンがにこにこして告げる。男は堅苦しく一礼した。

「オリヴァー・ハイスレイでございます」

 オイゲンとはあまり似ておらぬ、ように思える。表情は冷たいほど堅く、真面目そうで背もずいぶん高い。別に、オイゲンが真面目でないなどとは言っておらぬぞ。

 だが、上げた顔に目を引く瞳は、ハイスレイ一族の暗青色で、きらりと一瞬輝いたさまはオイゲンにそっくりだった。

「少しの間、よろしく頼む」

 私は微笑んで返した。

 夕食には薄切り肉のベリーソースがけが出て、食後には甘味まで出された。長旅の疲れを労わろうと考えられたものらしい。甘いものはオイゲンの好物なのだそうだ。

 食事中、親子の会話に耳を傾けていたところ、オイゲンはまだ厳しい予定に追われている身のようだ。明日には公領内に構えている自らの館へ足を向け、新居に必要なものを揃え、整い次第王都の宰相のための屋敷へ向かうという。

 館には奥方が留まっており、引っ越しの支度をしてくれているそうだ。王都には二人で向かうのだと、オイゲンはあのいたずらっぽい笑みをして語った。

「何、私にかかれば、先の宰相の残した仕事の整理など、手っ取り早く終えてしまえる。仕事を回せる段になれば、私のことを宮中が知っていようよ」

 と彼は砂糖を入れた紅茶を銀のさじでかき混ぜながら息子に言う。そして私の方を見て、

「そうなれば、殿下、こちらにお知らせいたしましょう。どうせオリヴァーめも、公領の現状の把握が済めば、国王代理にご報告申し上げねばなりません。保護者たる貴族のおらぬところに殿下を置いておくわけにはゆきますまい。オリヴァーの一行と共に、都へ上られるがよろしかろう」

「なるほどな……」

 事が治まったら、王宮も今ほどは私にとって危うくはなくなる。

「相わかった」

 私は一つうなずいてみせ、レモンを入れた紅茶に口をつけた。

「しかし、父上。どうかお気をつけください。道は公領と王領のみしか通らぬと言えど、宰相という国の重鎮になられた御身は危険です」

 オリヴァーが眉をひそめて口をはさむ。

「かような少人数での旅では、心配でございます。やはり王宮まではもっと護衛をつけた方が……いえ、もはや王宮とても安全とは」

 ……ふむ?

 気になる言にその表情をうかがうが、初対面の者の内を見ることはできん。

 それに、オイゲンはぴしゃりと言った。

「気をつけるのはお前だ、オリヴァー」

 彼は声を荒げたわけではないのに、思わず背筋が伸びる。

「王子殿下をお預かりするのだぞ。もっと心を配り、細やかに行き届いたお世話をなさねば。お前にはそれが足りぬようで心配だよ。護衛のことならば案ずるな、うちの衛士はこれまで私がどこに行っても何をしても失敗したことはないし、お前だって守られてきたではないか」

 オリヴァーはむ、とうなって黙ってしまう。二人の面持ちの差がおかしくて、私はつい、ふふと笑ってしまった。

「殿下」

 オイゲンが困り顔して、咎めるように呼ぶ。

「すまん。いや、オイゲンは心配りが上手いと思ったことを思い出してな」

 口もとに袖を持っていって、にやけそうな唇を隠した。

「互いにそこまで想ってのことだ、余計な心配などする必要はなかろう? 世話をかけるだろうとは思うが、私も迷惑はかけぬようにするゆえ、な」

 言うと二人は顔を見合わせる。その振り向く角度やら唇の突き出し具合やらがこれまたそっくりで、私はまた笑みをこらえきれなかった。

「仲良しだな、貴方たちは。よく似ている」

 私がくすくす笑うので、オリヴァーは返答に困るという顔をして、

「そうでございますか……」

 と呟いた。

 よい心の持ち主であろう、この男は。上手くやってゆけぬことはなさそうだ。

「やれ、殿下、人の説教に口を出すのはいかがなものかと」

 オイゲンはそう言ったが、苦笑した。

「まあよろしいでしょう。オリヴァー、殿下はこうおっしゃるが、お前の責任の話だからな。王宮騎士の二人は殿下の護衛に残していくから、里にも顔を出させることを忘れぬように」

 ……?

 私は首を傾げたが、オリヴァーはわかっていると見えて、諦めたようにはい、と答えた。

 ふむ? ともかく、長い説教を聞かずに済んだだけ、幸いというものだろう。オイゲンは見るからに説教が長そうだからな。

 ナターリエがすっかり湯殿の支度をして待っていたので、余分な暇もなく、その晩はすぐに暗く温かい眠りの中へ落ちてしまった。

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