十五.果樹月

 体に温かい手が触れた。

「……様、ヴィンフリート様」

 女性の声にはっと目を開けると、青紫色の目と目が合った。

「ナターリエ?」

 目をまたたかせ、身を起こすと、彼女は伸ばした手を引いて、

「起こしてしまって申し訳ありません。あの、オイゲン様が朝食を終えたら出発なさるとおっしゃっていて」

「何⁉」

 私は布団をはねのけた。慌ただしく何とか着替える間に、ナターリエが上着を持って来てくれる。

「よく知らせてくれた、ナターリエ」

 礼だけ言って、上着をはおり、私は廊下を駆けだした。玄関広間の方から複数人の声がする。大階段を少し下ると、きちんと上着までまとったオイゲンと、むすっとした顔のオリヴァーに、朝から隙のない立ち姿のフロトーが見えた。足音に反応してか、三人がこちらを向く。

「殿下」

 オイゲンが私を見てにっこりとする。私は足音軽く階段を駆け下りた。笑顔の彼を見上げ、問う。

「もう行ってしまうのか?」

 もう少しゆっくりして行くのかと思っていた。これでは本当に強行軍だ。

「おや、ご心配召されるな。大丈夫ですよ、館には妻が待っております故。短い間でも古い家に帰っておきたいものでね」

 私の心配をよそに、オイゲンはにこにこして言う。

「……そうか。無理はせぬ方がよいぞ」

 心情の問題では仕方あるまい。言葉を贈るだけでも、と言えば、

「ありがとうございます。私はちょっとの無理くらいなら愛情を押し通す主義ですのでね」

 とオイゲンは目配せしてきた。

「わかった。好きにしろ」

 私は呆れて、腕を組んで改めてその笑顔を見上げた。茶目っ気のある表情が似合うものだ。

「父上、くれぐれもお気をつけて」

 オリヴァーがしかめ面のまま言う。心配性なのだろうか、というかこの男、笑うことがあるのだろうか。

「わかっている。結局またすぐ会うことになろうよ。それでは」

 オイゲンはにこにこしたまま、鞄を持ったゲッツを供に、若い御者の操る馬車に乗り込み去って行った。

 門を出るまで見送った。オリヴァーはすぐにきびすを返し、屋敷の奥へすたすたと歩き去る。その背を見やってたたずんでいたところへ、フロトーが

「朝食の準備ができてございます。いかがなさいますか」

 と言うので、私は微笑んで答えた。

「いただこう」

 フロトーはかすかに笑んで、食堂へと私を案内する。彼は侍従長というより、ジョルベーリやティエビエンふうの言い回しだが、執事と言った方が似合うな。心の中でならそう呼んでも構わぬだろう。

 ここの新しい主はすでに朝餉を終えてしまっていたようで、食堂には現れなかった。仕方ない、フロトーに問うてみることにしよう。

「……オリヴァーは?」

 背の高い白髪混じりの黒髪の男は、茶を入れる手を止めぬまま、顔だけ上げて答えた。

「旦那様でしたら、このところ公務にお忙しく、今朝ももうすぐ町の領主館へ向かわれると思いますが」

「そうか、爵位を得たばかりだったな? ……ああ、ありがとう」

 白磁のカップが手渡される。少し息を吹きかけて冷ましてから口に含むと、ほんのりと甘い味がする。

「淹れるのが上手いな、フロトー」

 ほめてみると、彼は特に表情も変えず、

「茶葉がよいのです。ここは有名でこそありませんが産地ですから」

 そうだとしても、下手な者が淹れては不味くもなろうに。私はふふ、とだけ笑った。

「忙しいのならば、私は邪魔をせぬ方がよいだろうな? 私はどのように振る舞えばよいかと、聞こうかとも思ったのだが」

 フロトーはふむ、とうなずき、

「この館の中でしたら、厨房と侍従たちの部屋、それと旦那様のお部屋以外でしたら、お好きにしてくださって構いません。庭へ出なさるなら、だれかお付けになった方がよろしゅうございましょうが。王宮騎士たちもおりますので」

「そういえば、彼らはどこに?」

「裏口横の衛兵の詰所で、うちの番兵と待機しているはずですよ」

 ふむ、私は自由に動いてよいということか。

「なるほど、では久しぶりに館の中でも回ってみるかな」

 空になったカップを置く。

「ごちそうさま」

 フロトーが細く笑みを見せた。


 では、主の変わった館がどうなったか見てやろう。

 一階は後回しにして、玄関広間の階段まで戻ってきた。やはり、先公の時にはかかっていた意味不明なほどたくさんの肖像画はなくなっている。踊り場から見ると、壁には絵をかけた跡が残っていた。

 うーむ、一枚もないのではかえってもの寂しいな。近世の公爵ではなく、初代の肖像画でも飾ればよいのに。

 二階へ上がり、まずは客間の方へ向かう。この辺りは全て客間か。進む左手には大きめのものが、右手には小さな部屋がいくつも並んでいる。

 通路があって、光が差し込んできていたのでそちらへ足を向けた。窓があり、近づくと音が聞こえてくる。……何だ?

 のぞくと、眼下に玄関口が見え、小さな革馬車と侍従たちが見えた。オリヴァーが仕事に行くようだ。ずいぶん早いな。

 領主館といって、事務仕事が行われたり相談が持ち込まれたりする館は、ハイスレイ公領の場合エルツィンという街にある。この私的な邸宅とは離されているのだ。

 後宮を一歩出ればすぐそこに文官がいる王宮とは対照的だ。もっとも、後宮ほど王宮から離された場所はないとも言えるが。

 領主本人が領主館に住まうかどうかは、領の性格によるのだろう。ハイスレイ公領は学術と商売のための街が点在し、あとは村と畑だ。情報が集まるのは街の方だ。が、広い庭と静かな夜を得られるのは郊外だろう。領主が一々屋敷から街へ通うことも、珍しくはない。

 オリヴァーはあっという間に門を出て行った。行動が素早いな。

 さて、散策を再開しよう。

 さらに廊下を進むと、薄暗い通路に出た。あまり進みすぎてはならぬかもな……。フロトーに注意を受けたことだし。

 耳をすます。が、風も通らぬし、仕え人だちの足音もせぬ。もう少しだけ進んでみよう。

 暗い中に、ほんの一瞬、油のような匂いがした。首を傾げ、見回すと、戸が一つ開け放たれている。不用心な……。

 何があるかとのぞくと、布におおわれた、不自然に出っ張った塊……否、額縁の山だった。

 何と、こんなところに放っておかれているとは。オリヴァーは芸術には興味がないのか? それとも忙しくて、趣味の悪い内装を手直しする暇などない、全て取り払えとでも言ったのだろうか。

 いずれにしろもったいない。あるだけ並べて誇示するような飾り方はいかがなものかと思っておったが、一つ一つの作品自体はよい出来なのに。

 部屋に踏み入り、布をはいでみたが、暗さでよく見えない。ぼんやりした風貌の、長い黒のくせ毛の壮年の男が微笑んでいるようなのが、何となく見て取れるだけだ。どこかに光源はないものか?

 山にぶつからぬよう奥に回って、縦長の窓が黒いカーテンにおおわれているのを見つけた。絵を駄目にせぬための遮光なのだろうが、ここに火を持ち込むのは怖いし、まじない石は王宮に置いてきてしまったからな……持ってくればよかった。慌ただしい出発だったせいで忘れておったな。

 しゃっとカーテンを開く。白い光が差し込んできて、まぶしさに目を細めた。窓の外には大木が揺れ、緑の葉が日を反射している。振り返ると、額が光を浴び、きらきらと金や銅色に輝いていた。

 私は目を丸くしたが、ふっと笑ってしまった。無造作に積まれたものが、意外な美しさだな。

 山の外周に積まれたものを見て回ったが、めぼしいものは見当たらなかった。代々の公爵や夫妻の顔など見てもな。奥にある大きな絵だけでも見れぬかと、数枚無理やりに引っ張り出して息を切らした。ここ数日あまり動いていなかったせいで体力が落ちたか? ……それは何となく悔しい。これらを見たら外へでも行こうか。

 光のもとへ出してみると、壮麗な絵だった。黒髪の若い男と茶の波打つ髪の女性が、手を取り合って立っている。場所はどこかの広間だろうか? 窓とカーテンが背景に描かれている。同じような構図がもう一枚。不思議に思ってさらに別のに手を伸ばし、答えを見つけた。

 初代の絵だ。それほど破損していないところを見ると、複製かもしれぬが。初代ハイスレイ公は背もそこそこ高く、肩幅ががっしりした三十代くらいの男の姿で描かれている。髪は黒っぽくて短い。むすっとした顔をしているが、目には力がある。勇者アルトゥールの友で、剣をよく使ったと伝えられるからな。戦士らしい風格がある。

 隣には妻で、やはりアルトゥールの仲間であった女性が、初代のたくましい腕に手を添えて立っている。夫が大柄だからか、かかとの高いブーツを履いていてもずいぶん小柄に見える。髪はふわりとした茶で、肩より上の短さだ。女性にしては珍しい髪形……いや、最近の貴族の女性は長髪が主流であるだけか。顔は大人らしく優しく、それでいていたずらっぽく微笑んでいた。

 二人とも、目は暗青色ではない。

 いつ頃から暗青色の目が受け継がれるようになったのだったか。確かこのくらいの大きさの額の絵だったが、と山をあさって、いくつか引っ張り出した。

 目当ては意外にもすぐ見つかった。六代くらい前の公爵だったはずだが、長い茶の髪に暗青の目をして、もの憂げな表情をした若い男が描かれている。

 最近の絵はこの辺りのようだ。額を何枚かぱたぱたと引き倒していて、一つの絵の前で手が止まった。

「これは……」

 おばあ様の、絵だ。

 つい眉をひそめた。すでに五十は越したであろうが、なお美しい女性の姿。なぜ一人だけで、と思ったことがあったが。オイゲンの話を聞いた後では、複雑だな。

 ——あの先代の公爵に、特別な一枚をと望まれるほど、愛された人。

 母上と同じ金髪をしていた。淡い色だが、よくきらめき、瞳の色を映すような。瞳は、私と同じ青だ。空の色よりは濃く、衣を染めるための青よりは薄い。

 何の色だろうか。風の力を継ぐ印だろうか。

 おばあ様の微笑みは、優しげというよりは自信ありげなもので、細い腕にショールをまとい、指をそえるさまは気品があった。母上によく似ている。母上があと二十年くらい生きておれば、このようであったかもしれん。

 先公は、これほど愛する妻によく似た娘を、なぜ可愛がらなかったのだろう。彼に関するオイゲンの考察は、これも説明するものだろうか。

 しばらく、その瞳を見つめていた。

 散らかしたものを何とかもとのように戻して、館の二階の半分を探索し終えてから、一階へ下りた。

 一階には食堂、応接間、居間、広間がある。食堂には侍従たちがいるようだったので入らず、居間に昔気に入っていた小さなソファがまだあるのを確認して、人気のない広間をちらりとのぞき、最後に応接間に侵入した。

 食堂は広々として、大きな食卓だけでなく食器の飾り棚があり、大きな窓の向こうには緑が見える。

 居間は暖炉があって、ソファやいす、低い机もいくつか無造作に置かれている。内宮のと似ているな。違いは基調としている色で、王宮は赤が多いが、ここは木の色や白が中心で、違った落ち着きをもたらしている。

 広間は大勢の客を呼ぶ時や折々の行事に宴を開き歌い踊るための場だから、今は何もない。布をかけられた楽器と、庭へ続く戸が見えるだけだ。

 応接間は壁に所狭しと絵がかかっていて、他の部屋より豪華な調度品と相まって威圧感がある——はずが、ここの絵も外されていた。おかげでがらんとして見える。オリヴァーは絵が嫌いなのか……?

 あまり家具は変えられておらぬな。若干居間の椅子が増えていたり、壊れかけだった棚がなくなっているような気はするが。この館も調度も、歴史ある芸術品だ。前の持ち主があれだったせいで使われなくなるのは残念だ。オリヴァーがそうしたことを気にせぬ男だとよいのだが。

 応接間にも飾り棚があり、これはガラス張りで、由来の知れない小物がたくさん入っている。

「ああ、これは……懐かしいな」

 青く塗られた、人形らしい粘土細工を見つけ、手に取った。いつだったか忘れてしまったほど幼い頃、少し年上の少年と一緒に、こうしたものを勝手に持ち出して遊んだことがある。侍従長に叱られてむくれていた彼は、下級貴族の家の子で、父について来ていたのだったか。

 ふふ、と笑って棚に戻す。そうしているうちにフロトーが呼びに来た。

 昼食の後、庭に出てみることにした。裏口の横にあると聞いた衛兵の詰所を訪ねると、老兵がうたた寝していた。

「すまぬが……庭を案内してくれる者はおらぬか」

 声をかけると、細い目をした老人は驚いた顔をして、

「これは殿下、久しゅうございますなあ」

 と言った。

「大きゅうなられた。ほんのちょっと前までは、こおんな小さい赤子だったのに」

 手で球を作るようにして言われるので、笑ってしまった。

「一体いつの話だ。私はもう十三だぞ」

「わたしも年を取るはずですねえ」

 と彼は一人うなずく。話したことはなかったと思うが、顔に何となく覚えはある。幼い頃の私を見ていたのだろうか。

 外へ出るための護衛について尋ねると、彼は楽しそうに、

「今はあちこちの木も実をつけておりますから、ご覧になってくださいまし。好きに歩き回るのがよろしゅうございましょう」

 と立ち上がると、奥の戸を開け、ラルフ、スヴェン、と呼ばわった。あの王宮騎士の二人が出て来る。

「出番だぞ。殿下に庭を案内して参れ」

 老人に言われ、赤髪の騎士はむすっとした顔で、黒髪の方は同僚に目を走らせてから、おずおずと微笑んで近づいて来た。

「庭が見たくてな。護衛してくれるか? フロトーにそうした方がよいと言われたのでな」

 軽く笑い返して小首を傾げる。黒髪の方がうなずいて、かしこまりました、と答えた。赤髪の方は不機嫌そうに目を合わせもしない。

 やれやれ……どうやら、私の境遇や性格は、誰にでも一目で気に入ってもらえるものではないらしいな。これまでだって何度もあったことだ。気にはせん。

 裏口から庭へ出ると、心地よい涼しさの風が髪をなびかせた。複雑な模様を描く緑の生け垣に、秋の花々や色とりどりの実をつけた植物も見える。ここも散策と行こう。

「道を覚えているか不安だな。お前たちのどちらかでも、この庭に馴染みがあるか?」

 歩き出しながら振り返って問う。まっすぐな黒髪の青年はくせ毛の男をちらりと見てから、あきらめたように、

「……いえ。私めはハイスレイ領の出身だというだけで、公爵の私邸にまで立ち入ったことは……」

「……まず、名前を聞いておこうか」

 私は小さく苦笑した。これはまた打ち解けぬ反応だ。

「あ、そうですね。私はスヴェン・クーンと申します。それでこっちは……」

 黒髪の方、スヴェンが隣を黙って歩く赤毛の男を見やるが、彼はふいと顔を背ける。……私はこの者に何かしたのだろうか?

「ラルフ!」

 スヴェンが小さく、鋭い声を上げるが、彼は目を合わせようとしない。

「まあ、いい。スヴェンにラルフというのだな?」

 苦笑して言うと、スヴェンは恥じるように頭を下げた。

「申し訳ありません。頑固者が……」

「よくはわからぬが、話したくないというのなら仕方ないな。だが、私はともかく、王の前でそうしたら首が飛ぶぞ? 気をつけた方がよいぞ」

 言ってみたが、ラルフは口を引き結びそっぽを向いている。私は本当に何かしたかな。

「まあ、お前たちが知らぬなら適当に歩き回ってみるとするか。ついて来てくれ」

 くるりと前を向いて、きれいに整えられた土の道を進んだ。館の正面の方へ行くと、噴水と、その周りに花が植えられていた。右の方へ行けばバラのアーチが。左側には菜園がある。

「典型的なマルレン様式だが、素晴らしい出来だ。家主が替わっても腕を落とさぬとは、よほど優れた庭師だな」

 ええ、と私のこぼす感想にスヴェンはあいづちを打ってくれるが、ラルフは結局一言も話さぬままであった。

「つき合ってくれてありがとう。また呼ぶと思う」

「お一人で外出は控えてくださいね、私どもは正式な護衛ですので」

 詰所に戻って言うと、スヴェンは真面目な顔でうなずく。ふむ……。

「お前たちも災難だろう。急に長く仕事を離れることになって」

「そんな、とんでもない」

 スヴェンは慌てたように手を振った。

「故郷の地を踏めるだけでもよいことですから、何より王族の方の護衛ができるとは光栄です」

「そう言ってもらえるとありがたいな」

 出身がここだというのを、兄上とオイゲンにいいように使われただけだろうに。実直そうな青年だ。


 まだ見ていない部分がある。二階に上がって右手の方だ。左側と建物の形はほぼ同じだが、こちらの方が明らかに扉が少ない。その上、どの戸もこった造りになっている。

 玄関のように叩き金のついた戸。繊細な花模様が彫られた白い扉。小さなのぞき窓のある扉。歴代の家主の私室のはずだ。オリヴァーはどこを使っているのやら。

 どの扉にも鍵がかかっているか、簡単に動かぬ仕掛けになっている様子。たわむれに取っ手に手をつきながら廊下を進んでいると、一つがするりと開いてしまった。

 驚いて手もとを見つめ、次いで顔を上げると、インクの香りがした。空きの多い本棚に、古い大きな机。

 オリヴァーの書斎。……だろうか?

 主の私室には触れるな、とフロトーが言っていたな。私はそっと戸を閉めた。勝手に入るような場所ではなかろう。

 気を取り直して、さらに奥へ。こちらには反対側にはない大きな黒ずんだ木の扉がそびえている。昔と変わっておらねば……。

 軽く押すと滑るように開いた。先の部屋よりもずっと濃い、紙とインクの匂い。

 書庫、と呼んでいただろうか。この暗く、三方の壁全てに棚がある狭い場所に、幼い私は怯えていたが。

 今はどうだ、と部屋を見回す。天井近くの小さい窓から入ってくる光の中でちりが舞っていた。よく見ると右の棚は政治学などの本で固められている。目をこらせば、懐かしい絵本もあった。ふふ、と笑みをこぼす。

 結局りんごについて書いてあるらしい本を抜き取って、書庫を後にした。埃っぽくてかなわん。

 あてがわれた客間に戻り、ソファに寝そべって読むことにする。おもしろいことはおもしろいが、まあ暇つぶしだな。ヘマがいれば、埃など気にせずあの狭い部屋に居座って、よいものをいくらでも発見しただろうに。

 ……ヘマにも、この状況を知らせられておらぬな。

 日が傾く頃に、開けた戸の向こうがざわざわとし始めた。主人の帰宅らしい。しばらくして、夕食を共に、と呼ばれた。

 オリヴァーは親しくない相手には無口な質らしい。あいさつを交わした後は黙々と食事を進めるので、こちらから話しかけてみた。

「今日、館の中を色々と見て回ったのだが」

「ほう。いかがでしたかな?」

 彼は優美に手を止め、応じる。

「飾られていた絵が、皆片づけられていたな。装いを変えるつもりなのか?」

「ああ……そうでございますね。騒がしいほどに飾り立ててあるのは、趣味も悪う見えましょうかと思いまして」

「なるほど」

 簡素なさまを好む男のようだ。

「見事に取り去られていたから、絵画を好まぬのかとまで疑ったぞ」

 からかってみると、彼はそんなことは、と首を振る。

「殿下は絵を好まれますか」

「そうだな。……見る方専門だが」

 くすりと笑われた。

 おお、笑うとオイゲンにより似るな。残念なことにオリヴァーはすぐ真面目な顔に戻ってしまった。

「大体の者はそうでございましょう」

 私も微笑んだ。また真面目な返答だな。

 どうせ片づけるなら私にも選別を手伝わせてくれと申し出てみると、意外そうに片眉を上げてから、考えましょうと答える。まことに真面目なやつだ。

 夕餉の後はどうしているのか尋ねると、いつもは本を読んでいると言われた。

「では、私は部屋に戻るとしよう。今度気に入りの本でも教えてくれぬか、私も本は好きだから」

 と告げて、食堂を出た。


 階段のところからナターリエがついて来て、風呂だの寝所だのの支度はできております、と言う。

「ありがとう」

 答えると、ナターリエは一拍、私をじっと見つめ、

「……いいえ。ヴィンフリート様にもう一度お仕えできるのは、至上の喜びですわ」

「相変わらず大げさなことだ」

 くく、と笑う。

「まだ歌は歌っているのか?」

「! ええ、歌っておりますわ。今夜は子守歌にいたしましょうか?」

 ぱっと嬉しそうな顔をするので、苦笑した。

「私はもう十三だと言ったろう?」

 そうすると急にしゅんとする。変わっておらぬな。

「だが、懐かしいな。お前は私が絵本を読めとせがんでもいつもごまかして、歌って寝かせようとしておった」

 くすりとして言うと、彼女はまあ、と頬を染める。

「拍子のないものは苦手なのですわ」

 私はふふふ、と笑い声を立てた。

 風呂は丁度良い湯加減で、寝巻きもきちんとたたまれて置いてあった。髪を雑に拭いていると、乾かしましょうか、と声をかけられる。

「……いらぬと思うが」

「髪を痛めてしまわれたら大変ですわ」

 断ろうと思ったが、彼女は言いつのってくる。では今夜は、と任せれば、愛おしそうに髪に櫛を入れた。

「お綺麗な髪ですもの、大切になさいませ」

「ああ……」

 生返事も、ナターリエは気にしない。……母上の姿が思い出された。その日の肌に合う湯加減に、先回って用意された寝衣、決まって肌や髪に手入れをさせる。一方的に話しかけ、約束を守ったこともほとんどないのに、ナターリエはそんな母上を慕い、いつも嬉しそうにしていた。母上が、そんな彼女を親友と呼ぶ度に……なぜだ?

 母上が一番偉いのだから、と幼い私は二人の関係のいびつさから目を背けていた。今になって、何となく気味が悪い。

「……まだ母上の言いつけを守っているのだな」

 口にすると、彼女はまたたいて、

「ええ。ウルリーケ様は、わたくしの愛する主でしたから、ただお一人……若い頃にまみえてより、誰よりもお近くに侍らせていただきましたもの。忘れることなどできませんわ……殊に、忘れ形見であるヴィンフリート様が、こうしていらしてくださる今などは」

 その愛情のこもった言葉が、かつてのように胸に響いてこぬのは、どういうことなのだろう。



 翌日も、朝食に下りてゆくとオリヴァーは先に済ませて自室に消えていた。何か悔しいので、明日は早起きしてやろうか。

 食堂を出て、オリヴァーが出る支度をしているところに出くわしたので、気をつけて、と声をかけた。彼は一瞬目を見開いてから、ふと目を細めて礼を言う。本当にあまり笑わぬ男だな。

 昼まで居間を占拠して本を読んでいたのだが、ふらりと食堂近くに立ち寄った時、声が届いた。女性のもので二人分。オリヴァーに従って越してきた召使いらしい。館が広くなったり、扱うものに古く大事なものが混ざったりして、掃除が大変になったと愚痴をこぼしているようだった。使用人たちにも苦労があるようだ、と思っていたら、

「でも、お館付きの人たちと仲良くするの、思ってたより大変ね」

 そんな声が聞こえて、耳をそばだてた。

「そうよね。門兵さんなんか、可愛い子が多くなったとかって喜んでいたけど、同じ主の側仕えなのに、使用人との方が難しいわ」

「だって、旦那様のやり方をわかってくれないもの。仕方ないわよ」

「旦那様のお父上のお世話も、結局私たちが指示したものね。昔からいる方に新参者が言いつけるのって気を遣うわ。ほら、今いらしてる王子様にご熱心な、あの方とか」

 ナターリエのことか……。

「そうそう! 私たちの言うことより、お館の方法に従ってしまうみたいね。困るわ」

「そうね。あら、銀器なんだから丁寧に置いてちょうだい。ちゃんとしてないと他の方に示しがつかないわよ?」

 二人は仕事に集中し直したようだった。私はまたふらりとその場を離れたが、ナターリエめ、迷惑をかけておるではないか! そも、なぜ館に留まっておるのか、聞きそびれていたな。これは少し考えが必要そうだ。


 昼食後、詰所へ行くと、老人の大きな笑い声がしていた。ずかずかと入ってよいものかどうか、再び風の出番だ。

「……はっはっは、そうか、とうとう捕まりおったか、ラルフのやつめ」

「兵長殿、人聞きの悪い! 連れ出されただけでございましょう」

 大笑いする老兵に、スヴェンのとがめるような声。

「ラルフがどうかしたのか?」

 ひょいと中をのぞくと、老兵はいっそう笑い、スヴェンは私に一礼した後老人をにらんだ。聞けば、ラルフはオリヴァーに街の方へ連れて行かれたらしい。

「あやつの態度はまこと無礼千万。公爵閣下に焼きを入れていただくのがふさわしゅうございます」

 スヴェンは腹を立てたという調子だ。よくはわからぬが、あの男はオリヴァーの言うことは聞くようだな。

 前庭へ散歩に行かぬかと誘うと、スヴェンは快くついて来てくれた。

 正面口から表門の間には、芝生の中に円形の砂利道が敷かれており、円の中心には花が植わっている。涼しい風の中を門まで歩いてゆくと、かわいい娘が好きだという例の門兵は、元気よくあいさつをくれた。

 戻る途中で花壇に寄った。ここのも、花を咲かせているものと実をつけているものがある。少しだけ休んで、まだ見ていない裏とでもいうべき場所へ立ち入ることにして、厩を見つけた。

 勝手に入ったのだが、空きが多く日の光が差していて、穏やかな中で二頭の馬が飼い葉を食み、人間の老人がうたた寝をしていた。私たちの足音に目を開けるとはっとして、

「これは殿下。よういらっしゃいました」

 と笑む。

「オイゲンの御者ではないか。ここの馬番だったのか?」

 問うと、彼がのんびりと答えるには、彼はもともとオイゲンに仕える馬番だったが、オリヴァーが成人して家を出た際について行ったのだそうだ。此度はオイゲンの都合で馬車を走らせたが、これからはこの屋敷に落ち着くという。都合というのは、彼の名はフーゴというのだがここからわかるように、オイゲンが近頃従者にしているゲッツの祖父なのだ。昔語りにある名をつけたのだと、彼は楽しげに笑った。

「わしはハイスレイを離れる気はございませんでなあ。ゲッツはオイゲン様に心酔しとりますから都なんぞへもほいほいついてゆこうが。別れに一仕事の間でも語らいをと、オイゲン様はほんにありがとうお心遣いをしてくださったのよ」

 それにオリヴァー様も一時の出向を許してくださいましてなあ、と親しみのこもった声で言う。

 私は空の囲いの柵に腰掛け、スヴェンは立ってフーゴの話を聞いていた。彼の一族は公爵家に仕えて長いのだという。フーゴがオイゲンに仕えることになったのは、次男だったからで、長男の方は私の祖父エゴンにずっと仕えていた。この館の主が替わると知ると、家族を連れて引退を決め込んでしまったそうだ。代替わりに際しては、どこの仕え人も同じようになる、と彼は老人らしい深みのある声で言った。

 ……ナターリエは、なぜ?

 馬番が彼の生涯の仕事で、ここの馬のことなら何でも知っているらしい。私が王宮の馬番とも仲の良いことを話すと、ここで一番若くて大人しいという灰色の小柄な馬を差して、

「こいつと友になって帰ればよろしゅうございます。色々な馬を知れば、自分の馬のよさもまたわかりましょうよ」

 と触れさせてくれた。

 王宮ではエッボがその日調子がいいという馬に乗せてくれるから、自分の馬というものは持ったことがないのだが、ともかくその馬の目はつややかだったので、私は気に入った。


 散歩を切り上げてスヴェンを解放し、ここにも隠し扉などないものか探すという無謀な遊びをしていると、オリヴァーが帰って来た。

 付き従うラルフはつかれた顔をしていた。あやつは私のどこが気に入っておらぬというのだろうな。問い正してもよいが。

 夕食で、またもオリヴァーはしゃべらぬので、一方的に灰色の馬をかわいがった話をし続けていたのだが、ふと気になって問うた。

「兄上には、私が無事着いたということは伝わったかな」

 オリヴァーは手を止め、

「父が王都に着けばすぐ報告するでしょう。今第一王子殿下の身辺を騒がせるのは得策ではございません」

「そうか。……他の者にもきちんと伝わるとよいのだが」

 こぼした言葉に、オリヴァーの返事はあまりに予想外であったので、私は目を丸くした。

「報せたい方がおいでなら、手紙を書かれてはいかがでしょう。謹慎の身の殿下には王宮への手紙はお許しできませぬが、それ以外なら。明日……は難しゅうございますが、明後日でよろしければ、私も暇がございます」

 私は喜んで礼を言った。これでヘマにも報せてやれる! 明日一日を使って文面を考えようと、浮き立ちながら寝室へ下がったのだが、そこでいけなかったのがナターリエだ。私が浴室で服を脱いでいる時に、何の合図もなく戸を開けたのだった。

「気をつけろ、ナターリエ! もう幼子を相手にしているのとはわけが違うのだぞ」

 すぐさま彼女を追い出して叱りつけたが、彼女は肩を落として、より私の世話をしようと近づいてきてしまう。やれやれ。

 髪を乾かそうとしてくる彼女の手を適当なところでやんわりと止めておいて、問うた。

「ナターリエ、お前どうしてこの館に留まることにしたのだ?」

「え?」

 彼女は目をまたたかせ、

「それは……昔から、わたくしの仕事は、ここの旦那様にお仕えすることですから」

「もう、前の主とは違うのにか?」

「ええ、主が変わるくらい……」

 不思議そうに彼女は首を傾げる。

「それは、主人が娘から父親に移っただけだろう。今からの主は母上と何の関係も持たぬのにか?」

 見すえると、その青紫の瞳が揺れた。

「……それは……」

 彼女は迷うようにうつむき、口をつぐんでしまう。

「……お前の夫はどうしたのだ」

 さらに突っ込んだ問いを発すると、ナターリエはさっと逃げた。

「夫ですの? 今はそのの家におりますわ……さ、ヴィンフリート様、そろそろお休みなさいまし。湯冷めしてはいけませんわ」

 やれ、そう世話をしようとする限り、私からは逃げられぬというのに。



 と、余裕をこいていたのが悪かったか。ナターリエの世話ぶりのあまりの改善のなさに、私はついに彼女を部屋から放り出した。

 十三の男子が着替えている部屋に、女性が断りもなく立ち入るか、普通⁉

 身支度を終えて先ほど思いきり閉めた戸を開けると、ナターリエが呆然と突っ立っていて、周囲がざわめいていた。私はくるりと振り返ると、大げさな身振りで椅子に座り、足を組んだ。

「入りなさい、ナターリエ。それでそこにひざまずけ。説教だ」

 呼ぶと、彼女は縮こまりながら入って来て、私の前で膝立ちになる。

「あの、ヴィンフリート様……わたくし、何か失礼を」

「失礼だと? 礼儀というより、倫理としてどうかと思うぞ。お前、私を五つかそこらのがきだと勘違いしてないか?」

 なじると彼女は焦って、

「そ、そんな……わたくしは、もっとお近くに侍ることで、ヴィンフリート様のお役に立てるのではと」

「全く……だとしたら、やり方をことごとく間違えておるな! 私がもう十三で、兄上のもとで勉強している男だということを、すっかり忘れてしまったのか? 仕様のないやつだ」

 私はわざとらしくため息をついた。彼女をじっと見下ろし、告げる。

「もう母上の時代ではないのだぞ。……言いつけを守っているからといって、ほめる者ももうおらん」

 ナターリエが怯えた目をするのを見つめた。そこへ馬車の音が届く。

「ああ、もうオリヴァーが出てしまうではないか。せっかく早く起きたというのに……」

 小さく嘆息して、椅子を立つ。

「よく考えるのだ、ナターリエ。何がいけなかったのかお前でわかったら謝りに来なさい。それまで部屋に立ち入るのを禁じる。もし、本当にわからないというなら、昇の最後の一刻に訪ねて来るがよい」

 言い捨て、部屋を出ると、そこここに使用人たちがいてこちらをうかがっていた。

「こら、散れ。私の説教は見世物ではないぞ!」

 怒ったように軽く大声を出すと、見物人たちはぱっと散らばった。ふん、と鼻を鳴らして階段を下りると、主を送り出したらしいフロトーが、探るように私を見る。ちょっとした騒ぎをいぶかっているようだ。

「おはよう、フロトー。今日の朝餉は?」

 何も言わせぬよう、にこりとして声をかけると、彼は不思議な色をした目で私を見下ろし、

「粥があります。甘い方がお好みでしょうか、それとも?」

 もちろん私が好きなのはそれとも、の方だ。まこと有能な執事だな。


 オリヴァーの持ち物の中から便箋を取り出すことさえできれば、好きに使ってよいと言付けをもらったので、ちょっと書斎にじゃまさせてもらった。オリヴァーの便箋の束は、端がきちんと揃えられていて、いかにも彼らしく、私は微笑んだ。

 封筒は王家のものとは違っていて、柔らかい手触りだが角ばっている。ふとある考えが浮かんで、私は取るつもりのなかったもう一枚を手に取った。

 鐘前の刻一杯を部屋にこもって文面を考えた。一週間ぶりか、それくらいであるのに、ヘマに手紙を書くのがとても久しぶりという気がする。旅をしてきたからだろうか?

 親愛なるヘマ、とつづる。思わず笑みがもれた。ただ無事だと報せられるだけで、こんなにも心が躍る相手は他にない。

 兄上のはからいで、ハイスレイ公領にいること。新しい宰相はオイゲン・ハイスレイという男になり、それがおもしろい男だということ、新公はその息子でオリヴァーという真面目そうな若い男になったこと。ここ数日は館で大人しくしていること。

 とにかくよい点だけを書こうとした。私は無事だ、心配するなと伝えたかった。彼女の力強い、安心した笑みを直接見られたらどんなにいいか。

 それでも、貴方も無事でいるといいのだが、と書き添えずにいることはできなかった。己がこのような変転のただ中にいると、恋しい人の身も案じられてしまうものだな。

 いつ頃戻れるかはわからぬが、帰ったらすぐヘマに会いたい。

 そう思うと帰りたくてたまらなくなった。私にとって、兄上のもとに暮らし、ヘマとも会いやすいあの内宮が家であったらしい——これは驚いた!

 だが、文句を言うことはできまい。私がここにいさえすれば、私も、兄上も、オイゲンも、安全なのだから。……これほど帰りたいと思う場所があるとは、思ったことがなかった。昔は母上の隣が帰る場所だった。今は違うのだ。

 ヘマには、きっと半月のうちには戻れると思う、この返事は王宮に出してくれと頼んだ。彼女の声までも聞こえてくるようなその手紙を、遠く離れていることを強く想いながら読むなど——耐えられそうにない。

 ヘマへの手紙を、封まで愛おしみながら仕上げて、もう一通も書き上げることにした。

 それは、ナターリエの夫に出すのだ。彼女の夫は、彼女と同じで公領出身で、熱心な教師だった。ナターリエは恋物語が好きなので、いつか教えてもらったのだが、彼女の暮らしていた街で子どもたちを教えていて、学び舎の手伝いをしていた彼女と知り合ったのだそうだ。恋が芽生えたが、二人ともまだ若く、彼は貯金のためにとある男爵の息子の家庭教師をしに旅立ち、ナターリエも商人の父親の伝手で、この館に仕事を得た。そして母上の友となったのだ。

 私が、幼時の教育係ではなく王宮に呼ぶ家庭教師にものを習う段になった後、ナターリエは地元に引き取った。丁度彼も帰ってきていて、二人はお互いに成熟したことを確かめて結婚した。この辺りはよくわからぬが、二人は互いの好みがしっかりした人であることを知っていたらしい。

 その後も、母上は帰省の度に彼女を呼びつけたし、夫の方が伯爵家の教師をすることになって旅立つと、慣れ親しんだこの館に仕えることに生活の喜びを見出していた。

 しかし、すでに母上はこの世を去ってしまい、どうやら夫も家にいるらしい今、彼女がなぜこの館に留まっているのか、私にはさっぱりわからぬのだ。

 伯爵家の仕事の報酬に得た小さな庭付きの邸宅を、ナターリエは『園の家』と呼んでいる。宛て先もこれで合っているはずだが、どうも不安だ。それもこれも、ナターリエに気持ちを変える気がないらしいのがいけない! しつこく私の世話を焼くし、館に居座るし、しかもその理由を話す気がないようだった。

 現に、偽りの謝罪すらしに来ない。もう昼も済んでしまったぞ?


 ナターリエは、本当に昇の十刻に訪ねてきた。

 私の頑固なところは、この教育係からも受け継がれたものであるらしいな? 困ったことだ。

「申し訳ありません、ヴィンフリート様。わたくしにはわかりませんわ……」

 彼女はすっかりしょげてしまっている。

 私はほんの少し微笑んだ。ナターリエのことが嫌いなわけではなかった。嫌えるはずもなかった——母上と同じように。ただ、母上のような、一つのことに固執して身を滅ぼすようなことには、なってほしくなかったのだ。

「お前は時は過ぎ去るものだということを忘れたのか、ナターリエ? 私はもう、お前がかわいいと言い続けてくれた幼子ではないし、もう……母上の考えが全て正しいと言いきれる、無知な子どもでもなくなってしまったのだよ」

 ナターリエはじっと私を見つめた。かつてはもっと高いところにあったその視線を受け止めて、私も見つめ返した。青紫色に光と影が混じる。

「……お変わりになりましたね、ヴィンフリート様」

「そう見えるか?」

 肩をすくめる。ナターリエは茶化さなかった。

「ええ。本当に、お変わりになりました。お懐かしいご命令もないのですもの。……何だか、目を離したすきに、一足飛びに大人の男になられてしまったようですわ」

 それは、私にはもう、親というものがなくなってしまったからだ。

 その言葉を発する前に飲み込んだ。彼女の揺れる瞳は、彼女が母上の死に涙してくれたのであろうことを示していたので。

 その代わりに、私はできる限り優しく言った。

「私が言いたいのは、お前も変わることを考えねばならぬということだ、ナターリエ。母上はもういないのだから。……母上のために泣いてくれたのだろう。ありがとう」

 彼女は瞳をうるませ、うつむいて、変わりました、そんなふうに大人のようにお礼を言うところも、とかもごもご言って、

「考える時間をくださいませ。わたくしのように年を取った者には、急に心を変えるなんて、恐ろしゅうございますし、それほど大変なのですからね?」

 お前は母上より二つばかり年上であるだけなのだから、大して年寄りでもないだろうに、という文句は心の中に仕舞った。

 その夜、ナターリエは言葉少なに仕事をしていた。



 聖曜日である。オリヴァーが、驚いたことに、遠乗りにと誘ってくれた! 街により、私の手紙を出してくれて(先ほど気づいたのだが、私は現金の一枚も持っていなかった)、その後この辺りの畑と野原の続くところを走ろうと言う。

 私は喜び勇んで乗馬服に着替えた。フーゴが貸してくれたあの灰色の若馬に乗れることになり、名を聞くとホインというらしい。愛らしい名だ。

 護衛はスヴェンとラルフと、オリヴァーの侍従だった。眼鏡の背の高い無口な男で、にこりと穏やかに笑うのだが、仕事が第一という感じだった。友は同じ空気を好むというが、まことかもしれん。スヴェンは嬉しげにしていたが、ラルフは不機嫌そうにして、侍従にぽかりとやられていた。……いたずら者のがき相手の扱いをされているようだな。何なのだ。

 街には表門と裏門があり、表門では立ち入る者が改められているのだが、裏門は小高い丘の上の領主館にそのまま通じ、オリヴァー以外には開かぬようになっている。

 私たちは裏門から入り、オリヴァーは、私のことを親戚の子と言ってあるから王子と疑われるようなふるまいはさけてほしいと言い含めた。なるほど。

 領主館は飴色の木を基調に建てられたどっしりした建物で、天井が高く、人が暮らすところというよりは街を治めるためのものだった。聖曜日は休館だということで、緊急の時のために控えているという公爵の官吏が、慌ただしく出てきた。

 オリヴァーが正しかったのは、実際、この官吏は私について尋ねてきたからである。

「親戚の子だ。短い間だが預かってくれと頼まれてな、私の客人だと思ってくれ」

 オリヴァーはさらっと返答した。官吏は首を傾げつつ、

「お客人、我らが主の館ではよいもてなしを受けておりましょうか? 何分、このところ公領は慌ただしく、公爵閣下を毎日こちらへ引っ張り出す次第でして」

 私は口もとの笑いを袖で隠した。

「ええ。そのことは承知しておりますゆえ。オリヴァー様からはよい待遇をいただいておりますよ」

 そうでしょう? と一瞥をくれてやると、オリヴァーは一瞬ぎょっとしたような目をしたが、平静な表情の下にそれを包み隠した。

「そうですな。そちらの部屋でしばらくお待ちなさい。昨日忘れていった手帳を取らねばなりませぬので」

 はい、と私はにこりとし、スヴェンとラルフと横の部屋へ入った。他の三人の足音が遠ざかる。

 スヴェンのむずがゆそうな顔と、ラルフの意味のわからぬ眉間のしわを見て、私は笑い出した。

「はははっ、そう変な顔をするな! オリヴァーのあんな顔はめったに見れぬだろうとしてもな!」

「殿下にあんなことをさせて……」

 スヴェンが恥じ入るように呟いた時、ラルフがやっと口を開いた。

「殿下も……」

「む?」

「……敬語はお使いになれたんですね」

 ふは、と私は吹き出した。ラルフの複雑そうな顔に、こやつの無礼な態度の意味が知れたので。

「私がそのようなこともできぬように見えおったか?」

 くすくす笑いながら言う。こやつの忠誠心は王家にはないのだな! こやつはオリヴァーを慕いすぎているのだ。私のオリヴァーへの言いようは高慢にでも映ったかな。

「使えるに決まっておろう! だがな、私の敬意は兄上や他の国の高貴なお方に表すべきものであって、王家の臣下に対して使うべきものではないのだぞ。むしろ諸侯たちに私を敬う義務があって、怠れば首が飛びかねぬのだ。お前、王宮に仕えるならば、この程度覚えておくべきだぞ」

 ラルフはより眉根を寄せる。まあ、これほど意見の違うものを説き伏せるのは難しいな。

「オリヴァーは肝がすわっておる。理解した上で危険を冒せるのだろう。兄上が任じただけはある」

 独り言のように言うと、二人の騎士は顔を見合わせた。


 館を出、オリヴァーが大通りを行かぬかなどと言ったので、私は目も口も丸くした。

「よいのか?」

「どこに悪いわけがございましょう?」

 この街の大通りは馬車も騎馬もよく通り、貴族ふうの一行も気にせぬのだという。というのも、ハイスレイ公領は王都より北にあり、避暑や温泉の効能、また公爵の庇護などを求めて、この大都市を訪れる者も少なくないからだ。

 オリヴァー自身、何度もその道を通っているというので、信用してついてゆくことにした。

 それは人の群れの中にいるようだった。馬上には涼しい風を感じられたが、足元にはにぎやかな人の声があった。大通りの横にいくつも並ぶ細道には店が並び、上品な服装の婦人もいれば駆け回る商人の子らもいた。

 私たちは騎馬で駆け抜けたので、その感じはほんの短い時間だったが、街というものに対する私の印象を一変させた。

 公の印であっさり表門を通過し、しばらく道を走らせてから、オリヴァーが問うた。

「我が街はいかがでしたでしょう、殿下」

「そうだな……」

 考えながら答える。

「これほど街に近づいたのは初めてだった。だから良し悪しなど言うことはできぬが……人が皆、生き生きとしていたな」

「そうですか」

「活気がある、とは、ああいうのをいうのだろう? 不思議な感じがしたな、私がその中にいるというのは。王都はもっと人が多くて、活気があるとは知っていたが……それを味わったことはなかった。ずっとながめているだけだったからな」

 王宮のにぎわいとも違う。あれは一つの空間に、互いを知る者同士が作る雰囲気だ。見知らぬ人間をも飲み込んでしまう街とは異なる。

「おもしろかったよ。貴方がこんなにもてなし上手だとは知らなかった」

「ああ言われてしまっては、張り切るしかないでしょう」

 皮肉にも取れる私の言葉に、オリヴァーは真摯に返す。私はくすりとした。とうとうこの男が好ましくなってきた。

「では、次はどこに連れて行ってくれるのだ、オリヴァー?」

 畑の中の道を、と言うので、わくわくしてその後を追った。

 オリヴァーは馬を軽快に走らせた。追うのにも風が心地よく吹きつけてくる。ホインはよい馬で、私を友と思ってくれているようだった。フーゴに感謝せねばな。

 騎士たちは背負う名に違わず馬を操り、侍従の男も劣らず上手だった。真っ直ぐに続く道の両側には、豊かな土が見えていて、遠くには森が見え、遠くの空に山も見えた。曲がり角のところでオリヴァーが速度を落とし、

「ご覧になりますか、殿下」

 示す方を見ると、深い緑に赤紫が茂っていた。ぶどう畑だ。オイゲンと食べたぶどうのことを思い出し、少し笑った。

 ハイスレイ公領は何かの栽培に秀でているとは言われぬが、この時期実るどの果物も領民の自慢なのだと、オリヴァーは言う。向こうにはりんご畑もあり、オイゲンの農業に対する考えから関わりを持ったこともあるそうだ。広い、今は土がむき出しになっている畑の部分は、ユースフェルトの多くと同じく小麦を植える用で、もうすぐ種をまくという。私がこの一面が黄金色に染まる時を思い描いた。きっときれいだろう。

 屋敷に戻るまで疾走し、新鮮な風を思いきり吸い込み、その上機嫌のよさそうなオリヴァーから昼食を共にと誘われたので、私は昨日のしめっぽい気分をすっかり忘れてしまった。



 次の日の昼過ぎ、空はすっかり暗くなって、雷でもなりそうな空気になった。

 オリヴァーは無事に帰れるのだろうか、と二階の窓から外をながめていた私は、銀色の雫がぽたりぽたりと落ち始めるのを目にした。すぐに本降りになる。これは無理そうだな、と階下でざわつく侍従たちを気の毒に思った時、馬車の音を聞いて、私は驚いて階段を駆け下りた。勝手に白い玄関扉を開ける。

 外は嵐の前兆のように、横殴りの風と細い雨が吹きつけていた。背後で若い侍女が声を上げる。

「あら、殿下、そちらは危のうございますわ! お閉めになって」

 私は外に耳をすませた。やはり、小さいが車輪の音がする。

「お前たちの主が帰るようだぞ?」

 告げたことに侍従たちは目を見交わし、それからひどい騒ぎになった。待つほどもなく入ってきたオリヴァーは馬車から降りて屋根に入るまでに髪を乱していたし、中年の御者はずぶぬれで、荷物が大急ぎで運び込まれる。

 侍従らの右往左往を、私は階段に腰掛けてながめていた。手布を受け取ったオリヴァーがつかれた顔で階段を上がってきて、私に軽く一礼して引き上げる。

「フロトーはおらぬのか? 誰か、閣下を湯殿に入れてやるのがよいのでは。あのままでは風邪を引きそうだ、その御者もな」

 執事が見当たらなかったのでいらぬ世話を焼いてみると、侍従が数人慌てて二階へ上がっていった。御者はこちらに笑いかけて奥へ消える。玄関の後始末を横目に、私も部屋に引っ込んだ。あそこは寒い。


 嵐におおわれたようになって、窓の外の暗さを見透かそうと張りついていたところへ、侍従がやってきた。オリヴァーの呼び出しを告げられる。私は片眉を上げたが、大人しく従った。

 オリヴァーは居間にいた。暖炉に火が入っていて、部屋が温まっていた。座るよう言われて暖炉横の彼の正面に腰を下ろす。まるで夜のようだった。

「私が帰った時用意が整っていたのは、殿下のおかげだったそうですな。ありがとうございます」

 オリヴァーが珍しく微笑む。

「いや、あれは侍従たちが貴方を待ち受けていたからだぞ」

 私はしらばっくれてみた。特に何をしたわけでもないのに、礼を言われるとは。

「謙遜なさらず。その侍従のマイケが申したのですぞ」

 私から最も遠いと思われる言葉に眉をしかめる。

「そのマイケとやらは、人の手柄を己がものにするくせをもう少しつけておくべきだったな。私は風を聞いていただけだ」

 文句をつける代わりに冗談にして笑うと、オリヴァーはじっと私を見つめ、

「風がお好きで?」

「む? そうだな、私は風使いゆえ。風は私に役立つ音を拾ってくれるのだよ」

 ああ、と彼はうなずいた。

「貴方は風の能力を継いだのでしたな」

「そういえば、貴方の力は何なのだ?」

 気になって問うと、彼は口の端を上げ、

「私のは母と同じですよ。生まれついてとても目がようございまして。幾ら書物に顔をうずめても、空高く舞う鳥の羽も盗みを働こうとするこそ泥も、見逃したことがございませぬ」

「ほお……」

 それは便利だな。

「弓使いの血筋だそうで。生憎私は弓は不得手ですがね」

 私はけらけらと笑った。率直なもの言いをする。

「私とて勇者の子孫だが、兄上のように剣ができるでもなし。普通のことだろう」

「剣……そうでございますか」

 ふむ、とオリヴァーは思案するようにあごに手をやる。

「どうかしたのか?」

「いえ、殿下がその話題を出されるとは、巡り合わせというものもあろうかと思いまして」

 聞くところによると、彼がこうも早く帰ってきたのは、嵐のせいばかりでもないらしい。もちろん雲の様子から臣下たちにも早い帰宅を促したのだが、もう一つ、この私に剣の話を持ってくるためだった。

「継承のつるぎ?」

 私は彼の言葉をくり返した。勇者アルトゥールの時代から伝わる儀式の品の一つで、金杖や冠と同様に王の印だ。こんなところで聞くとは思わなかったが。

「ええ。初代王の御代には、初代ハイスレイ公がその剣を忠誠の証に差し上げたという、そのような縁が我らにはございますでしょう? 実は、今その剣が領主館にあると発覚いたしまして。先王陛下が退位なされる際、前宰相めがその宝物の管理を任されておりました。剣のみが手入れのためと宮外に持ち出されており、正統な書類もございましたので気にしておりませんでしたが、手入れも終わったものが許可なく置かれたままで」

「何……?」

「殿下には申し上げにくいのですが……先公めが貴方を立てるために使おうと、画策していたのかもしれません」

「——! ……そうか」

 そうだったな、と呟いた。

「剣は王が自らの軍も諸侯の軍も率いることができる立場にあると示すものだったな?」

 考えつつ言うと、オリヴァーは真剣な顔でうなずく。

「そうでございます。第一王子殿下には報せ参らせましたが、これは先公めの罪を重くすること。殿下にもお知らせするべきであろうと」

「ああ、なるほどな……うむ、ありがとう、オリヴァー」

 覚悟を、ということかな。優しい心遣いをしてくれる。

「それに、剣の柄の緩みも見つかっておりましてね。通例、剣を預かった代表者が王宮へ戻すべきですが、私も多忙な身です。しばらく後、殿下に剣を迎えに来ていただくのもよいかもしれません。殿下もハイスレイ家の血を引くお方ですからね」

 思いを巡らしているといった声音に、私はくすりとした。

「確かに私は大人よりは暇しているが、代表者は貴方だろう!」

 ひそやかな笑い声が居間を満たす。

 窓が風にがたがたと鳴った。枝が打ちつけられて、ピシ、という音も聞こえる。オリヴァーは笑みを消し、窓の方を振り仰いだ。

「こんな日には不安になるものです。己の不安ばかりか、他の者のことも」

 それで、私を呼んだのだろうか? 珍しい言動に私は首を傾げた。私自身は風の吹き荒れるさまを快く思うが、姫たちはいつも怯えるものな。

「他の者?」

「ええ、もうすぐ収穫のはずの果物畑など……」

 私は目を見開いた。そうか、この辺りの者は農作で生活している。彼は己が民を心配するのだ。

「貴方が言っていたりんご畑か? 書庫から借りた本に、丁度この時期実ると書いてあったが」

「あんな本を読んでいらっしゃるのですか?」

 今度は彼が目をしばたかせた。次いでかすかに笑み、

「殿下くらいの年の頃は、鳥と旅をした男の話を好んだものですよ。しかし、かようにりんごに興味を持ってくださるなら、どうでしょう、明日昼から視察についていらっしゃいますか」

「ほお……よいのか?」

 次はその本を借りようと記憶に留めつつ、新しい提案に目を輝かせる。

「ええ、殿下は馬も苦手としていらっしゃらず、知識や体験を求めていらっしゃることがわかりましたから」

 私が心配事を解消している間、殿下は農民から学ばれることがございましょう、とオリヴァーが言うので、私は勢い込んでうなずいた。

 オリヴァーが少し私のことをわかってくれたようで、何よりオリヴァーのことを知れたようで嬉しくなっていた。その気分は和やかな夕食まで続き、私は寝室へ引き取るまでに鳥と旅した男の話を手に入れた。



 オリヴァーが帰ってきて共に慌ただしい昼食を取り、館を出た。オリヴァーはスヴェンとラルフを呼び、しっかりついてくるのだぞとよく言い含め、私の護衛につける。

「オリヴァーは何をそんなに注意しているのだ?」

 ホインを並足で進ませながら首を傾げていると、スヴェンが答えた。

「今から向かう農場は、私とラルフの郷里なのですよ」

「……ああ! それでオイゲンがお前たちの里を気にかけていたのか」

 私が納得して言うと、ふくれ面をして先を行っていたラルフがこちらを気にするように振り返る。

「ええ、ありがとうございますお心遣いで。公領の農民が王宮騎士になれたのは久々なのでございます。まだ新人なもので、仕事でもないと里帰りも難しいだろうと、気遣ってくださったのですよ」

 ところが、スヴェンが誇らしげに言うと、ラルフはまたむくれてしまった。

「……あやつはオイゲンの気配りが気に入らぬのか?」

 前方を差してささやく。スヴェンは笑って、

「いえ、いえ。あいつにも事情があるんです」

 ふむ? 私は再び首を傾げた。


 たどり着いたりんご畑は、林のようにしっかりした木々が立ち並び、青々とした枝に赤い果実をつけていた。

 籠を背負った大人たちがはしごを使って高いところの実を取り、下の方ではジルケやアルマくらいの年ごろの子らが手伝いに走り回っている。オリヴァーが入っていくと、年寄りたちが集まってきて何やら報告を始めた。次に幼子らが寄ってきて、それからこちらを見つけたようだった。

「あーっ、スヴェン兄ちゃんだ!」

「ラルフー!」

 わっと子どもらが駆け寄ってきて、騎士たちに飛びつく。何人かの少女たちは私を取り巻いてじっと見てきた。

「ねえ、王子さまなの?」

「そうだな」

 応じると、少女たちはきゃーっと愛らしく騒ぐ。皆スカートに白いエプロンをして、頭巾の下に柔らかな髪と日に焼けた肌を輝かせていた。

「すごい! ミアたち、こうしゃくさまのお家に王子さまがいるって聞いて、ほんとかなって言ってたの!」

「ほんとだったね!」

「オリヴァーさまは、こうしゃくさまになってもうそつかないんだわ」

 オリヴァーはここの者たちと親しいらしいな。

 スヴェンは少年たちと拳を合わせたりしていて、ラルフは幼い赤髪の男の子によじ登られている。

「にーちゃん、おっそいぞ、かえってくるのー! そんじゅづきにはかえるっていったくせに!」

 幼子はラルフの髪を引っ張っているが、二人ともそっくりな赤毛だ。弟だろうか。

「おい、放せよ、ライ! 痛いっての」

 ラルフはその子を引きはがしたが、ライというらしい子はきゃらきゃらと笑っている。ふふ、と笑うと、ラルフは今私に気がついたようにばつの悪そうな顔をした。

「ねえ、王子さま、ごあんないしてあげる!」

「オリヴァーさまがいいって!」

 元気のいいちびたちに袖を引かれ、私はスヴェンを振り返った。

「スヴェン、この子らについていっていいかな?」

「ああ、私も参りましょう」

 スヴェンが顔を上げると、周りの子らがその腕に飛びつく。

「そーだ、スヴェン兄ちゃん、いっしょに遊ぼうぜ!」

「競争だ!」

「遊ばないよ、兄ちゃんは仕事中なんだ。でも途中までは一緒に行こう」

 すげなく言われ、子どもたちは不平を鳴らしたが、女の子たちを先頭に畑の奥へ進み出した。

「今日は早い収穫の日なんです、みんなで手伝ってるのよ」

 私を案内してくれた気の強そうな金髪の少女が言う。

 昨日の嵐で、じき収穫のはずだったりんごがいくつかやられてしまったのだそうだ。村の大人たちは、今年は熟しかけのものも早いうちに採ってしまおうと決めたという。よく見ると、足元にもいくつか傷ついた赤い実が落ちていた。

「また雨がふるかもしれないもんね」

「朝からずっと手伝ってるのよ!」

「年上の子どもたちは手伝わぬのか?」

 姿の見えぬ、私くらいの年ごろの子らについて尋ねてみると、彼らはぶどう畑や羊を手伝っていると言われた。どうやらこの子らの年齢でもできる籠持ちをさせられているようだ。

「秋は学校もないんです、収穫しなきゃいけないから」

 と女の子たちのまとめ役らしい少女が言う。

「学校は村にあるのか?」

「村? ううん、あっちにかねが見える、王子さま? ないでしょ!」

 その少女に手を引かれた妹らしい子が指差す方を見ると、りんごの木々と土の見える畑の向こうに屋根屋根があった。言われた通り、鐘は見当たらん。

「ないな」

 笑うと、年上の少女が、

「学校は、街にある神殿の中にあるんです。起きて鐘が鳴ったら学校に行って、お昼の鐘が鳴ったら帰ってくるの、それでこの子は鐘のある建物が学校だと思ってて!」

 とくすくす笑いながら教えてくれる。

「もっと年上の子たちは、お勉強しに街へ行っちゃう人もいるけど」

「王子さまには、学校はないんだろ⁉」

 急に少年が口をはさんできた。

「確かに学校はないがな」

「いいなー!」

 私はくすりとした。いたずら心が出そうだ。

「学校は好まぬか? その代わり、王族は教師を呼んでものを学ぶのだよ」

 なんだ、つまらない、とか少年たちが叫ぶ。私はくすくす笑った。元気のいいやつらだ。平民出身の騎士たちの気のよさのわけがよくわかる。

 そのうちに畑の端まで来てしまう。はしごに上った女人が、

「ほれ、あんたたち、もういいだろう! いくら王子様のお相手を許されたからって、仕事を投げ出しちゃズベーレンの子とは呼べないよ!」

 と叱りつけたので、子どもらは笑いながら方々に散っていった。ただライという子だけが、未だラルフにしがみついている。

「ライナー、降りろ。手伝わなきゃ親父にどやされるだけだぞ」

 ラルフが軽く叱るが、ライナー(が本名のようだ)は首を振ってがっしりと離れない。くく、とつい笑ってしまった。

「久しぶりに会えて離れ難いのだろう。連れてくればどうだ。その子を抱えていても警戒くらいできるだろう」

 言うと、ラルフは目を丸くする。

「は……その」

「意外に、殿下は小さいのには甘くてらっしゃるのですね」

 にこにことスヴェンが言う。

「何が意外なものか、私にもあの年ごろの妹たちがいるのだぞ。その子など、姫たちが兄上に会った時のさまにそっくりだ」

 これを甘いというのか? そうかもしれぬな。

「そ、……そうですか……」

 反応に困った様子でラルフが呟く。

「可愛がっておられるのですね」

 とスヴェン。

「ああ。今ごろどうしているやら……顔が見られるとよいのだがな」

 私は小さく嘆息して、空を見上げた。あまり歓迎されそうにない、もう一雨来そうな曇り空だ。

 その下で忙しく立ち働く農民たちの姿は、見ていて快い。なすべきことを知っている姿ゆえだろう。……私はすべきことをする場所にさえ立っていない。

 だが、兄上は外を見て来いと言われたのだから……。

 私は木々の合間をぬってオリヴァーの方へ戻り始めた。農民たちの仕事ぶりは手慣れたもので、枝からりんごをもいでは籠に集めてゆく。道々話し声を聞いていると、村の傍の川や森のこと、次の食事のこと、家族や友のことなどが共有されていた。彼らはとても近しいのだな。一つのところで同じ仕事をするためだろうか。

 金茶の巻き毛を頭巾に押し込んだ姉とお下げにした妹を連れた母親が、優しく笑んであいさつしてくれたので、いくつか尋ねてみた。どうやって果実の熟す加減を見極めているのか、採る時にこつはあるのかなど。妹の方が実演しようとしてくれたが、一番低い枝にも彼女の背では届かなかった。

「おねえちゃん、おんぶ!」

「無理よ、もう重すぎるわ、カチヤが持ち上げるには……」

「ならおかあちゃん……」

「お母さんは今籠をしょってるのよ、ミア」

 しょげる幼子に、私は笑って抱き上げることを申し出た。風の助けがあれば軽いものだ。私の腕の中で見事に赤い実を採ってみせてくれた子は、降ろしてやると、私にその実を差し出した。

「どうぞ、王子さま」

「よいのか? お前たちで作ったものだろう」

 驚いて聞くと、姉の方も

「ぜひ、こうしゃくさまも王子さまがうちのりんごを知ってくだすったらよろこぶわ、きっと」

 と勧めてくる。

 ミアにカチヤというのか、と尋ねると、二人は嬉しそうにうなずいた。

「ではいただこうかな。ありがとう、ミア、カチヤ」

 二人が食べてみてほしいとせがんでくるので、さっそくつや光る赤い皮にかじりつくと、じゅわりと甘い汁が染み出した。

「みずみずしくて甘いのだな。なるほど、確かに美味い」

「ほんとう⁉」

 ミアが目を輝かせる。

 そこへ黒髪の兄弟二人がやってきて、二人を駆け比べに誘った。納屋へ道具を取りに行くから、らしい。

 ライナーも参加したがり、とうとう兄の肩から降りた。私も来るかと聞かれたが、決まりを知らぬからと断った。ずっとつき合っていると息切れしてしまいそうだな、この子らには!

 五人は楽しそうに駆け出した。ラルフが気をつけろよ、と声を送る。

「よい兄だな、ラルフ」

「は……」

 ラルフをからかってみてから、私はりんごを食みつつオリヴァーのいる道の方へ歩いた。彼はまだ老人たちと会話している。歩き回って乾いたのどにりんごの味は快かった。

 そうだ、私は木に生ったりんごをどのようにして採るかも、こうして見るまで知らなかったのだ。オリヴァーが今話していたり、オイゲンが言っていたような知らぬことが、もっとたくさんあるに違いない……そんなことを考えていた。

「殿下は……」

 ラルフのぽつりと呟かれた声に、顔を上げる。

「どのような者相手でも、態度を崩しませんね。貴族であろうと、農民の子であろうと……」

 考えながらしゃべっているようだった。ふむ? と私は小首を傾げる。

「私が態度を変える必要があるのは、まことに高位の者である方々の前でのみであるゆえな。……兄上は、相手が私であっても小間使いであっても同じように礼を言う。そういうことを言いたいのだろう? 同じものを相手に、違う態度を取る必要はないだろうということだ」

 私も、兄上のもとに来るまでは知らなかったことだが。——ナターリエは私を、変わったと言った。

「そう……なんですね」

 ラルフが考え深げにこちらを見つめてくる。私は期待を込めて見つめ返した。意見の異なる彼が、これまでになく近くに来てくれていると感じた。

「同じなもんか」

 そんな無遠慮な声が飛んでくるとは思わず。

 驚いて振り返ると、畑の端の木にもたれかかり、一人のやせた少年が腕を組んで座り込んでいた。不機嫌そうにこちらをにらんでいる。

「……なぜそう思う?」

 問いかけると、少年は言い放った。

「かけっこのきまりもしらないなんて、王子さまの方がよっぽど下だい」

 さて、これほど率直な暴言を受けた経験は一度たりともなかった。敬語だけは崩さぬよう訓練された騎士二人が石のごとく固まったのが見える。

 ふは、と私は吹き出した。

「っははは、それは考えなかったな! よろしい、訂正しよう」

 石どもを置いておいて、ざかざかと少年の方へ歩み寄る。その木に寄りかかって見下ろせば、少年はきっとにらみつけてきた。心意気だけは一人前だな。

「では、お前は決まりを知っておるのか?」

「あたりまえだよ」

「ならば、なぜあの子らに加わらぬのだ?」

 にやにやと問いかけると、少年は急に頬を赤くして、

「そんなの、おれのかってだろ! うるさいぞ!」

 と叫ぶ。

 ……おもしろい……。からかってやろうと、

「そう怒鳴ることはなかろう。何が気に入らぬのだ?」

 そう言った時、ふいに過去の己のことを思い出した。気に入らぬことがあれば、関係のない使用人に当たり散らしていた時分。同じ臭いがした。

「言ってくれたら考えるぞ」

 少し言葉の調子を和らげると、少年はふん、と息を吐き出して、

「……りんご」

「む?」

「そのりんご、おれにくれるんならゆるしてやるよ」

「ほう」

 りんごとな。ミアとカチヤがくれただけの、何の変哲もない美しいものだが。

 半分は食べてしまっていた。食べかけでよいのかと思いつつ、私のものなのだからこやつにやるのも自由だと渡してやった。

 少年は苛立たしげにりんごにかぶりつく。それをながめていると、やはりどこか痛々しく、寂しい感じがするのだった。

「……なぜ、お前は収穫を手伝わぬのだ?」

 そっと問う。少年がかじるのをやめた。

「……」

 しばらく迷うように目を泳がせてから、答えが返ってくる。

「……父さんがいないからだよ」

「ふむ?」

「村の兄ちゃんたちと、むこうのはたけに行っちまったんだ」

「それなら、こちらにいる村の者たちを手伝えばよいではないか」

 言うと、少年は何かをこらえるようにぐっと口をつぐむ。少しして、小さな声で言った。

「……いやだ」

「なぜだ?」

「おれはみんなとはちがうんだよ。同じなんかじゃないんだ。てつだったっていいことない」

 言ううちに、段々激しい口調になってくる。

「みんなにはあるじゃないか! おれがてつだっていみなんかあるのかよ。おれにはないのに!」

 りんごを掴むのと反対ので、ぎゅっと膝頭を握る手が震えていた。やがて、彼は私を憎々しげにねめつける。

「王子さまなんて、ぜったい、ぜったいあるんだろ。それとも、もっともってるんだ。でも、みんなのほうが、おれよりわるいんだよ! だから、てつだわないでだってりんごをもらうんだ!」

 私はわずかに目を見開いた。ああ、この子は何かを失くしたのだ。

「……一体、何がなくなってしまったのだ?」

 ささやくと、彼はまたぎゅっと口を結び、それからがつがつとりんごを食べきってしまうと、芯を遠くへ放り投げた。それは広い大地に暮らす子らしい立派な線を描いて飛んでいった。

 私は待った。得も言われぬ心地がしていた。私とこの子は同じなのだ、と。

 そして再び口を開いた彼の言葉で、それは証明された。

「……母さん」

 少年が途切れ途切れに言う。

「母さんが……もう、いないんだ。みんなに、は、いるのに。まえは、みんな、同じだったのに……っおれだけ……」

 そして小さな黒い頭を細い腕にうずめてしまう。その後に続く言葉を、私は知っていた。もう、頭をなでてくれる手も、つたない話をじっと聞いてくれる時間も、なくなってしまったのだ。

「お前は思い違いをしているよ」

 私はできる限り優しく声をかけた。

「それなら、私とお前は全く同じだ」

「……なんで」

 涙声に、微笑みを浮かべる。

「私の母上も、いなくなってしまった」

 え、と少年が顔を上げる。涙にぬれた丸い瞳がきらめいていた。

「お前がそんなふうに苦しむのもよくわかるよ」

 どんな母君だった、と聞くと、少年はぽつりぽつりと、優しかった、とか、ご飯が美味しかった、寝物語をしてくれた、と語る。そんな人がいなくなってはさぞ辛かろう、と私は評した。

「それでずっとそこにうずくまっておるのだな」

「……うん。でも……」

「でも?」

 少年はすんっと鼻をすする。

「……ずっとこうしてるわけにいかないのは、わかってるんだ」

 話ができたことで溜まっていたものが薄れたのか、声に静かな力が戻ってきていた。

「なら、立ち上がる理由を見つければよいな?」

 私は微笑んだ。

「私の話でもしてやろう。母上がいなくなった時、私には兄上がいた。賢く正しくあろうと常に努めているすばらしいお方がな。その兄上が、私の力がほしいと言ってくださったのだ。傍へ来いと呼んでくれた」

「へえ……」

「だから、私は兄上のもとで生きようと決めたのだ。お前にはおらぬか、そのような者が? お前を気にかけてくれる大きな存在が?」

 少年はふとうつむいて、じっと考えて言った。

「……いるよ。父さんが、おれに、いつもてつだってくれっていう」

「では父君のために立ち上がる気は?」

「……あるよ」

 少年の黒い瞳が真っ直ぐに私を捉える。私は笑って手を差し伸べた。

 土に汚れた小さな手が重ねられ、引くとすぐ彼は立ち上がった。まずはあの子らの手伝いをしたらどうだ、と畑の向こうの騒がしい声を差せば、うん、と少年は走り出した。それから振り返って、叫んだ。

「……ありがとう!」

 私はただ笑って軽く手を振った。なぜだか晴れやかな気持ちがした。

 振り返ると、ラルフとスヴェンがこちらへ来ていて、赤毛の騎士が頭を下げていた。

「……俺は、貴方を誤解していたかもしれません」

 ふふ、と私は笑って、

「どのように?」

「身分の差があろうと慈しみを与えてくださる貴族など、オイゲン様やオリヴァー様ばかりだろうと思っていました」

 ラルフの明るい目が私を見つめている。先代のことを考えた。オリヴァーの前にこの地を治めながら、王宮の政変のみを企み、愛した妻以外を駒と扱っていた、母上をあのようにした男。

 私を信用できなかったのも当然か。

「私も先公のような者だと思ったか」

「は……」

 ラルフが頭を低くする。スヴェンが口を開いた。

「殿下、こやつは幼いころより、オリヴァー様にお仕えするのを夢見て参ったのです」

「おい、スヴェン」

 ラルフが止めようとするが、彼は続けて、

「こやつの才、地方の一貴族の護衛で終わらせるには惜しいと、私が王都へ引っ張っていったのです。それが此度、めでたくもオリヴァー様が新公におなりになって、この先どうするか悩んでいたのですよ」

「はっ、それでずっと不機嫌だったわけか?」

 私はけらけらと笑った。

「それはじっくり考えてもらわねばならぬな。オリヴァーもこれから公爵として移動することが増えるだろう。その時に熱心な護衛騎士がいるかどうかは重要だ。しかし、スヴェンがそうまで言うほどの才、公爵の騎士以上には活かせぬようになるということも考えに入れねば」

 腕を組んで赤毛の騎士を見上げる。

「……お前は今こうして私を見てくれているが、そうだな、私が昔からオリヴァーたちと似た考えを持っていたかというと、違う。私を変えたのは兄上だった。この先兄上の御代になるだろうと思うが、お前が私に対する意見を変えて王家に仕えるのもいいと思ってくれたなら、私は、新しい王に仕える優秀な騎士が一人減るのは残念だと言おう」

 にこりとすると、ラルフははい、とうなずいた。考え込むような顔をしている。

 オリヴァーが話を切り上げる気配がないので、私は騎士たちに向かって独り言を続けた。

「それにしても、王子の方が下だなんてのは初めて言われたな! いや、しかし本当かもしれん。育てられた人というなら、あの子の母はとても立派だったのだろう」

 母上とは違って。対価の要求も気まぐれもない優しさも、寝物語もなかった。

 それでも、失った痛みは同じものと感じた。

「……同じ、か。生まれた場所と、そうして得た義務と生活が異なるだけ。民は皆同じなのだと思って政治を行える者が王になるべきなのかもしれん」

 そうだとすれば、やはり兄上しかおらぬのだ。暴君の気配を見せるあの男でも、愚かしさを知ったばかりの私でも、幼い姫たちでもなく、臣を大事にする兄上こそが……。

「何と、思いの外考えさせられるものだ! 少なくとも、王宮にいるだけでは見えぬ景色が見えたわ。お前たちにも感謝せねばな?」

 言うとスヴェンは微笑んで首を横に振り、それからまた黙り込んでいるラルフに、今夜はここに残るのかい、と聞いた。ライナーたち彼の家族が帰りを待ち望んでいたようだから、と。

「それはよいな! お前、家族のことも考えねばならぬぞ?」

 と私は便乗する。ラルフは初めて微笑みを見せ、よく考えようと思います、と告げた。

 やっとオリヴァーが村の者と話をするのを終えた。

「お待たせしてしまいましたね」

「構わん。おもしろい経験ができたゆえな。そうそう、親切にもミアとカチヤという子らからりんごをもらったが、美味かったぞ」

 報告するとオリヴァーはちょっと驚いた顔をして、

「それはよろしゅうございました。日の当たり方を計算して整えられた林なのですよ。娘たちも喜びましょう」

 と暗い青の目を笑みの形にした。


 再び馬に乗って館へ戻ったが、スヴェンは村に残らずついてきた。なぜと問うと、

「私は村に家族がおりませんので」

 と優しく笑む。

「故郷と言っておったではないか」

 目を丸くして問えば、彼はこう語ってくれた。

「私は幼いころは神殿の子でした。孤児だったのでございます。それがあの村の独り者のじいさんに引き取られて、ラルフたちと一緒に育ちました。その人は数年前に亡くなってしまって、私は剣と馬術で身を立てようと王都へ出たのでございます……あいつを連れてね。オイゲン様が研究のためと村を気にかけてくださったおかげで、私は立身の術を知っていました。ズベーレンが故郷であったことは幸運に思います」

 厚い雲の間から白い光が彼の真っ直ぐな黒髪を照らしていた。スヴェンも家族を失う痛みを知っているのだ。彼の方が近しいように感じられたのはそのためだろうか。痛みを知る者は同じ痛みを持つ者がわかると、誰が言っていたのだったか。

 ぼんやりとした考えが浮かび、白い光が雲に隠れるように消え去った。



 翌朝スヴェンを連れてホインとフーゴに会いに行き、一人と一頭に礼を言っていると、ラルフが戻ってきた。騎士の剣を肩に斜めがけにした革帯で吊っていた。珍しい帯剣の仕方だな、と騎馬を入れる彼に声をかけると、

「思うより便利なのですよ」

 と抜き方を見せてくれる。

 軽々とやるものだ、と言うと持ってみるかと言われた。

「久々に手にするな」

 大人用の長剣は抱えるにしても重みがある。

「殿下は、剣を習われたことは?」

 スヴェンに聞かれ、私は剣をラルフに返しながら答えた。

「私は剣を扱わん。私は魔術使のようなものゆえ」

「……それにしては、立ち姿ができておられますが」

 ラルフが剣を腰に帯びつつ、私を見下ろして言う。

「ああ、長剣を抱えられても揺れませんしね。王宮では馬術の他にも何か?」

 スヴェンが興味ありげに聞くので、体術を見てもらっていると答えると、二人して見ようかと言ってくれた。

 上着をフーゴに預けて、裏庭らしい開けた場所で練習をした。王領の戦士の型だとか言われたが、そんなものはよく知らん。ただ久しぶりにそれを目的として体を動かせたので、爽快な気分になれた。

 ラルフが剣の構えくらいは知っておいた方がよいのでは、などと言うので、数年ぶりに構えてみた。正直に言うと、重いし辛いし、余裕をもって動けぬのが性に合わぬのだ。そういったことを告げると、向いてないですねと言われた。うむ、私もそう思う。

 スヴェンは私の魔術が剣の代わりになるかと問うてきたので、普段はしない風の魔術の危険な用法を見せてやった。鋭く吹かせて草を切ったり、剣の先に強風をぶつけてそらしたりするのだ。ついでに二人に強風をぶつけて髪をぐちゃぐちゃにしてやった。

「殿下、魔術はそう簡単に人にぶつけるものではありませんよ……」

 と自慢の髪を乱されたスヴェンが悲しそうに言う。私は大笑いしたが詫びもした。どうも親しくなるとすぐからかいたくなっていけない。


 昼からは小雨が降り続いていたので、物語を読み進めた。夕餉にオリヴァーが私宛てだと手紙を渡した。裏にシュテファン・クラハット、と署名がある。ナターリエの家名と同じ、彼女の夫のものだ。

 部屋へ戻って早速封を開けてみる。手紙は謝罪から始まっていた。妻が迷惑をかけたようであること、我が身の至らなさが申し訳ない、と。

 何と、事の発端は二人のけんからしかった。春、人手が要った折に主のおらぬこの館に呼ばれて忙しくしていたナターリエと、何やら恩師の論文を手伝って忙しくしていたシュテファン。互いに気が張っていた時に、ナターリエが母上の訃報を受けてしまったのだという。嘆くナターリエを、彼は上手くなぐさめてやれなかった。ナターリエは母上の記憶を求めてか、この館に居着いてしまったと。

 ……これは、すぐに目をうるませるわけだ。私は嘆息した。

『幸い恩師の手伝いを終えたところですが、どうも迎えに行き辛く、思い悩んでおりましたところです。殿下にはご迷惑をお掛け致しましたが、お手紙は大変ありがとう存じました。』

 シュテファンの字は教師らしく几帳面で読みやすい。小麦色の巻き毛で、豊かなひげをして眼鏡をかけていると聞いている。本来は穏やかな人なのだろう。文面から後悔の念がにじみ出ている。

『私たちの間には子がおりません。仲を取り持ってくれる者もおらず、参っていたのです。』

 本当に困っているのだろう、彼はそう書いて、私から彼女に彼が謝りたがっていると伝えてくれぬかと頼んできていた。考えてみれば、私は彼女に幼時の思い出を与えてもらった身、子のようなものではある。

 くすりとして、湯殿の支度に来ていたナターリエを呼んだ。

「お前、夫とけんかしたから家に帰りたがらないようだな?」

 彼女はぎょっとして、どうしてそれを、と呟きながら近づいてくる。私は手紙を渡してやった。読むうちに彼女の顔色が変わり、表情が穏やかだが寂しげなものになっていった。

「……いつの間にこのようなこと。ずるいですわ」

 恨みがましい目を向けられる。私は笑った。

「これもお前を想ってのことだよ。お前の夫と同じようにな」

 彼女は手紙に目を落とし、呟いた。

「シュテファンったら。……わたくし、怒っているのではないのよ」

 心のこもった声に、微笑んだ。想い合う二人のすれ違いほど見ていてやきもきするものはないのだし、口を出すことにする。

「お前はもう一度考え直した方がよいな、ナターリエ。彼は心配しているようだよ。謝りたいとも言っているのだし」

 彼女は便箋をそっと胸に抱いた。

「それは持って行きなさい。お前のためのものだ。……幸せがすぐそこにあるのに、みすみす逃すのは愚か者だぞ」

 この身の横に置いておきたい幸福を壁なしにつかみ取りにはゆけぬ立場になって、まことにそう思う。

「わかりましたわ、ヴィンフリート様。……ありがとうございます」

 ナターリエは青紫の瞳に深い色を宿して一礼し、手紙を抱いて退出していった。



 次の朝、数日ぶりに空は青く日が昇っていて、厚手の上着では暖かすぎるほどで、その上珍しくオリヴァーが朝食の席に留まっていた。

 私は驚喜して、さっさと朝食を済まし、オリヴァーに話しかけにかかった。嵐の件もひと段落ついたので、今日は昼から出るのでいいらしい。彼が言っていた本を読み終えたと告げると、彼は懐かしそうに感想を聞いてくれ、小一時間ほど語り合った。

 オイゲンが彼を自学好きだと言っていたが、オリヴァーは万事につけそうなようで、物語に出てくる小鳥を見に森へ行ったと教えてくれた。

「当時はここから近い別の屋敷におりましたが、森はすぐでね、半ばほどに湖があるのです。その周りに数多の鳥の音が聞こえましたよ」

「貴方も子どもの時分は冒険をしたのだな! うらやましいな、私も聞いてみたいものだ」

 淡い望みを口にする。すると彼はあっさりと、

「護衛をつけるなら行ってもよろしゅうございますよ。あの二人はこの辺りの地理に詳しゅうございます故」

 それで予定を変更して、昼から庭に出るのではなく森へ入ってみることに決めた。

 スヴェンとラルフが案内してくれた森には小道ができていて、木漏れ日が行く先に踊っていた。湖まで館を出て半刻もしない。馬に乗って出かけるには丁度よい。

 木々の間から何か出てきそうだな、と言うと、この小森は畑に囲まれているから魔物もほとんど出ぬし、動物たちは馬蹄の音に怯えて悪さはせぬとスヴェンに笑われてしまった。森に入ったことがないのかとラルフが問うので、ここまで奥へ少人数で乗り込んだことはないと答える。

「殿下は……田舎のことにはお詳しゅうないと」

「大人たちに言わせると、私のようなのは世間知らずらしいな」

 ラルフに答えて言うと、スヴェンに遠慮なく笑われた。

「殿下は箱入りと言うには、度胸がありすぎる気がいたしますけどねえ」

 それの何が悪い、と言い返すとラルフまで小さく吹き出したので、私も笑い出してしまった。

 小さな湖面は凪いでいて、日の光をちらちらと反射していて、深い底は青黒かった。一つの宝石のようだ。小さな桟橋のような木板がこしらえてあって、小舟でもつなげそうな棒が突き出ている。

 桟橋の上にかがみ込んで手を伸ばせば、冷たい水に触れた。今日くらいの日なら心地よく感じられる。

 スヴェンが、ここは昔公爵一家の舟遊びに使われたのだと教えてくれた。魚も釣れたのだが、数十年前に鳥のような魔物が食い尽くしてしまったという。

「魔物は出ぬと言ったではないか」

 にらむと、細身の騎士は笑って、出るとしても十数年に一度、凶暴な野兎のようなのが幅をきかせる程度だと言う。体格のよい方も、おかげで噛みつく魚もいなくなってやんちゃ坊主どもの遊び場になっている、足だって浸しても怒られぬから、とつけ足した。

 私もやっていいか尋ねると微笑ましげに見られる。むかつくぞその顔。が、好奇心が優先だ。

 靴を脱いでしまって足先を浸けると、ひやりとしておもしろかった。ぱちゃ、とやると波紋が広がってゆく。くすくす笑ってそれが消えるまでじっと見ていると、ふいに甲高く長い声が響き渡った。

「殿下、あれを」

 スヴェンが差す方を見ると、細い枝の上に、灰色で胸のふっくらした小鳥がとまっていた。

「あれが淵鳥か?」

 ええ、と彼がうなずく。その鳥は行動を観察し終わるより早く飛び去ってしまったが、長い声は何度も聞こえて、耳をすましていて飽きなかった。


 帰って森の話をしようと勇んで夕食へ下りてゆくと、オリヴァーが真剣な顔つきで私を呼んだ。

「何だ?」

「殿下、御身の謹慎が解かれたそうです」

 私は驚いて足を止めた。

「今日父が印の入った手紙を寄越しました」

 宰相印にオイゲンの名が連ねられた書類で、国王代理が第三王子の嫌疑は晴れたとして謹慎の命を取り下げた旨がしたためられていたという。

「……そうか。もう、王宮へ帰っても許されるのだな?」

 やっと、と頭の中の声が言った。私の本来の居場所へ帰れる。ここでの滞在はすばらしかったが、それでもここでは私はただの客人だ。私のすべきことがある場所へ帰るのだ。

 熱のある目で見上げでもしただろうか、オリヴァーは私を見下ろしてゆっくりとうなずいた。

「ええ。私の方も、差し当っての目処はつきました。三日ほど準備にいただきますが、四日目の早朝に出発いたしましょう。その間に殿下も、別れを告げたい者がいれば済ませておくとよいでしょう」



 とうとう帰る。長かったようで、日を数えれば存外短くも思えた。新しい経験ばかりだったゆえに、たくさんのことが起こったような気がするのだ。この好ましい思い出の礼として、やり残すことだけはないようにせねば。

 残り三日、この日はフロトーに頼んで侍従たちを貸してもらい、初めに言っていた絵のことに片をつけた。玄関からすぐ見える階段の踊り場の上方の壁中央に、初代の夫妻の絵をかけてもらった。それから、応接室にどこぞの湖を描いた絵と、鷹と共に影で描かれている男の小さな絵も。

 どれもオリヴァーが好みそうなものを選んだ。この館では重んじられてこなかった風景画を活かせた上に、余計な肖像画どもを取っ払えて私は大満足だ。

 ささやかな礼だ、気に入らなかったり気が変わったりしたら私を送った後で好きにしろ、と押しつけると、オリヴァーはそれらに目を注ぎ、

「……いえ。いつか気が変わるまで、このままにしておきましょう」

 と言ったのだが、これは、気に入ってくれたということか? 私は一人にまにまと彼の横顔を見上げた。


 その夜、ナターリエが訪ねてきた。

「ヴィンフリート様、王宮へお戻りになるのですね」

「ああ。……私は帰るよ。私の仕事は宮にあるのだ」

 暗い窓の外を見やって答える。

 ナターリエは、寂しそうな、それでいて嬉しそうな不思議な笑みをして、

「わたくしも決めましたわ。わたくしも、園の家へ帰ります。……ヴィンフリート様、貴方様が言われたことが正しゅうございましたわ。わたくしは失われてゆくものに目を向けてばかりおりましたわね。おっしゃる通り、とても近しい幸せを、あの人を、逃すことだけはしますまいと、お約束いたしますわ」

 話すうちにその顔から影が薄れてゆくのを見て、私は心から笑みを見せた。

「きっとそう言ってくれると思っておったぞ、ナターリエ。どうか幸せでいてくれ、ずっとだぞ、そう願っているから」

 彼女をかがませて、その額に親愛と別れの接吻をする。ナターリエは少しうるんだ目で、

「ヴィンフリート様、王宮へもお手紙をお送りすること、許していただけましょうか?」

「何を遠慮する?」

 私は笑い飛ばした。この人は変なところを気にするのだから。

「お前は私にとって、母上の親友でもあり、最も古い友でもあるのだよ。きっと返事を出す。お前の様子を聞かせてくれ」

 はい、とナターリエはぬれたまぶたを閉じてうなずいた。



 残り二日、オリヴァーに言われたのは、りんご畑のあの子が、私に会いたがっているということだった。

 今は折よく興味深い、と意味不明なことを言われて村へ連行される。村の木造の家々の真ん中に広場が作られていて、そこに村中のほとんどの者が集まり、敷物を敷き道具を広げて、何かを作っていた。

 私より年上だろう成人に近い子らは、大人から金属も使う飾りの作り方を教わっており、それより小さい子らは藁で籠や輪のようなものを編んでいた。そこかしこの小屋からは大人たちの笑い声がし、甘い香りがただよっている。

 オリヴァーを見ると青年たちが集まってきて羊の話題をし出し、置いてけぼりをくらった私は、広場の隅の低い木の下にミアとカチヤの姉妹を発見して、話しかけた。

「何を作っているのだ?」

「あっ、王子さま!」

「オリヴァーさまといっしょに来てくだすったの?」

 二人はぱっと笑顔になり、

「あきのおまつりのじゅんびなの!」

「実りのお祭りがもうすぐあるんです。王宮でもあるのかしら?」

 と言った。

 秋の実りを祝う、豊穣祝祭のことか! 私は目を丸くし、そして輝かせた。村の者たちはこんな支度をするのか。

 二人によると、祭りには娘たちが着飾り、代表の少女が一番大きい籠に神々への捧げものを目一杯詰め、それを青年たちの中で一番の力持ちが、そのために建てる祭壇に掲げるという。空の女神のために少女たちが歌を捧げると、後は踊りと飲み食いの騒ぎになる。娘たちは編んだ輪に花や色糸を差して冠にし、時には踊りの中から恋も生まれるのだ。

 アルトゥールの伝説やユーザルの伝承にもありそうな、素朴な祭りだな。

 二人がしつこく王宮の祭りについて聞いてくるので、王の前で無礼は働けぬからもっと大人しいが、同じように歌が捧げられ美味い酒と食事がふるまわれて踊りを楽しむと教えてやった。

「ところで、私を呼ぶ子がいると聞いたのだが」

 言うと、二人は顔を見合わせ、そうだそうだと言い合って、

「ディーター!」

「ディーターはどこ? 王子さまが来てくだすったのよ!」

 と周りの子らに叫んだ。子どもらがぺちゃくちゃとしゃべる口伝えにまもなく広場の向こうまで話が伝わって、やせた黒髪の少年が駆けてきた。

「ディーター、というのか?」

 あの少年だった。彼はこくんとうなずくと、ぐいと私の袖を引っ張る。私はミアとカチヤに礼を言って、彼について広場の少し外へ出た。

 彼は何かためらうように、背中に手を回して何回か口を開こうとし、それから急に手を差し出すと、握っていたものを私に押しつけた。

「これっ」

 それは、藁で編まれた小さな籠だった。ふたがついていて、両手に収まる丸い形をしている。

「お前が作ったのか?」

 驚いて問うと、ディーターは顔を赤らめて早口に、

「うまくできたから! あの、ありがとう! って、ちゃんとしようとおもって、あの、おれ、おれな、父さんとなかなおりできたんだよ!」

「……これを私に?」

 ぽう、と胸に熱が灯るようだった。こんなに手と心のこもったものをもらうのは全く初めてで、それは彼の言うほど上出来だったわけではなくいくらか形はいびつだったが、私は言葉を失くしたように思いさえした。

「……ありがとう。こんなすてきなものをもらっては、私の方がそう言わねばなるまいよ。お前、器用なのだなあ」

 私にしては不器用な感謝の言葉に、少年は真っ直ぐな目をして、

「おれ、王子さまにあんなこと言って、わるかったよ」

「構わん。これは大切にするよ」

 感動に震えそうな吐息を乗せてそう告げれば、少年は目を輝かせた。

「ありがとう。おれ、王子さまのこと、わすれないから」

「私もだ」

「……じゃあな!」

 言うと、彼は急に身を翻し、赤くした顔を隠すように走り去った。私は温かな気持ちを抱えて、オリヴァーのところに戻った。

 オリヴァーは私の手の中のものを見て目を細めると、

「あの子には会えましたかな? では、そろそろ戻りましょう。護衛が機能できていないのでね」

 スヴェンは村の囲いの入り口で馬をつないでいたが、ラルフは途中の畑のところで母親だというかっぷくのよい女人に引き留められてしまっていた。役に立たん。

「あっ、お待ちください、オリヴァー様」

 私を促すオリヴァーに、青年が焦ったように声をかけた。

「あと一つだけ、ご報告しておきたいことが」

「何だ?」

 オリヴァーが足を止める。

「実はこの前の雨の日、旅の神官と名乗る男が宿を求めてやってきまして。ヤネッカー候領の印を持ってましたし、礼儀正しかったので小屋を一晩貸したのですが、怪しい話をしておりまして」

 候領でまじない石を小さく割って細工に入れ、細工が長持ちするようにまじないをかける手法があるのだそうだが、最近危ない話があるという。間違って火のまじないをかけたものを使ってしまったと、とある細工師が大慌てしているのだとか。

「事故になるかも、とのことで……。何分又聞きですので、嘘か真かというところですが、一応お耳に入れておこうかと」

 ちかり、と頭の中で、何かが危うい光を発した。

 ……何だ? 今の話は全く聞いたこともない。だが、何か思い出しかけたような……?

 騎士たちを拾って戻る道中、しばらく何か関わりのあることを知らぬか考えにふけっていたが、オリヴァーが村の祭りの準備はりんごの収穫の後行われ、一月かけてゆっくりと出来上がってゆくのだという話をしてくれたので、一旦頭の隅に置いておくことにした。



 残り一日。明朝には出発する。

 館はオリヴァーと私の支度で慌ただしかった。ナターリエ自身も私が発った後すぐに出るということで忙しいのに、ゲッツが無駄に整えていった棚の中身をきちんと鞄に移し替えてくれた。

 このばたばたした中では私の操る風に気づく者もおらず、少しばかり会話が拾えた。ナターリエの出立に関しては悪い噂はなく、むしろ夫のもとへ帰ると話したようで好意的に捉えられていた。やれやれだ。

 主のためによく働く使用人たちのおかげで、いわゆるお茶の時間には支度が整ってしまい、オリヴァーは居間をずっとうろうろしていた。せっかく茶と菓子も用意されておるのに、落ち着かぬかうっとうしい。

 旅程をぶつぶつと確認している彼に、再三の茶の勧めをして、ふいに問うてみたくなった。

「……貴方は、公爵となったことに不満はないのか?」

 彼はぴたりと足を止め、またたいてこちらに目を向ける。

「不満など。どういった質問でしょう、それは?」

 やっと腰を下ろして、彼は私に目線を合わせた。

「単に気になっただけだ。貴方の任命は急なものであったに違いないのに、文句一つなく動くのはなぜか、とな」

 紅茶をすする。ううむ、とオリヴァーはうなってしばし考え込み、唇を引き結んだ。やがて、こんな返事がある。

「……先公には子がおりましたが、その子——元宰相には妻も子もなく、私より十は年上であったためでしょうか。公爵位を私めが継ぐ可能性は十分にございました。それに、一の殿下の先の宰相への不信は耳に入っておりましたから。……おっしゃる通り急な報せに驚きはいたしましたが、それなりの覚悟はできていましたので。それが故でございましょう」

「なるほどな……。幼い頃より覚えはあった、というわけか?」

 オリヴァーは笑った。

「幼少からとは、とても申せませぬが。先公に殿下以外の孫ができている世もあったかもしれぬのですよ。私はハイスレイ家に連なる一貴族として育ちました。一度は、父のように学者の道をと志したこともあったのですが……」

「ほう! なぜそうしなかったのだ?」

 問うと苦笑される。

「一生を学問に捧げるには、私の意思は実地を求めすぎていると思われまして。そう気づく頃には、不確かながら次期公爵、そうですね、候補と申しましょうか……その位置におりましたので。王宮の文官ではなく、王領王都の官僚になろうと思い立って、しばらくそこで働いておったのですよ」

 私はうなずいて、

「オイゲンが、貴方は経理の仕事をしていたと言っていたが」

「ええ、ようご存じで。公爵に任ぜられて、最初の面倒な予算やらの話が、おかげで短時間で済みましたよ」

 そんな話を聞いているうちに夜がやってきて、私たちは早めに床についた。オリヴァーを上手く落ち着かせることに成功した私を、誰かほめてはくれぬものか。



 早朝の白い光の中を出立した。

 私は、ナターリエと抱き合い、手紙を固く約束した。彼女の青紫の瞳はぬれていたが、もう影は見えなかったので、安心して別れを告げた。馬をつなぐフーゴに礼を言うと、ゲッツに会うことがあれば彼をよろしゅう、と言われた。私はもちろんと受け合った。

 フロトーは私たちの荷物を積ませると、私の告げた礼にやはり執事らしい一礼で答えてくれた。絵をありがとうございます、と彼は私にささやいて、唇に淡い笑みを浮かべてみせた。

 壮年の御者とオリヴァーの侍従を乗せ、騎士たちをあの二人の他にも公爵の衛士から何人か引き連れ、黒い門を出た。


 私は手の中にディーターのくれた小籠をもてあそんでいた。たかが二週ほど前に同じ道を通った時とは、何と景色が違って見えることか。畑を見ればズベーレンの者たちのような人々が耕したのだろうかと思い、森を見れば鳥の声を思い出した。

 兄上はいつでも正しいのだな。まこと得難い体験をした。

 滞在の間にオリヴァーが沈黙も好むことは知っていたので、気詰まりな静けさというものはなかった。流れてゆく窓の外の景色に二人それぞれ物思いをめぐらし、時々声を交わすだけで十分であった。

 オリヴァーは私がなぜあの絵を選んだのか問うてきた。私は抵抗したのだが——贈り手の心は受け取り手が考えるものだ、言わせるな恥ずかしい、と——彼は聞かない。車の中には逃げ場もなく、オリヴァーならば歴代公爵の顔ばかり意味もなく並べるより、初代の伝説の中のたたずまいや、彼も冒険したという森の絵の方を好むと思ったこと、あと鳥が好きそうだと思って、ということを白状させられてしまった。

 くう、贈り物の意図を解説させられるほど恥がましいこともないというのに! オリヴァーの珍しい笑みに免じるが!

 私はどの辺りがハイスレイ公領と王領の境なのか聞いてみたり——オイゲンと泊まった初日の宿の少し王宮側だった——、彼が兄上をどう思っているのか尋ねてみたりした。兄上は、年若いが王にふさわしい度量があると見え、その即位を支持していると……なるほど。

 そのついでに、オイゲンは学者らしい誠実さと茶目っけを兼ね備えた男と見えたと話すと、オリヴァーはおもしろがって、オイゲンの失敗談なんてものを話してくれた。北の方で牛耕の研究をしていたら牛に引かれかけたとか、村の子らのいたずらに見事に引っかかったとか。機会があればこれでオイゲンをからかってやろう。

 宿は、行きとは違い人も多いので、質素な見目だが質のよいところに二晩とも泊まった。オリヴァーの性格に合っていたように思う。

 三日目の日暮れに王都に入った。まともに大通りを通ったのは初めてで、前は宮から見下ろした街並みがそこにあることに目を輝かせていると、オリヴァーが色々説明を加えてくれた。

 あれは都一の大商館、向こうには王と都を結ぶ役割を担う官僚の館が、その道を行くと神殿で、王宮の台地へ近くなってゆく坂の上に貴族たちが屋敷を構える一角がある、と。

「もう降の鐘が鳴ってしばらくですから、王宮へ通じる門は閉められてしまったでしょう。余程の事情がなければ夜は宮へ登れぬようになっているのです。今宵は宰相の館へ参りましょう」

 貴族街と呼ばれるらしいその一角に、宰相のために用意されたという館があった。

 オイゲンと、オリヴァーと同じ色に白が入り始めた髪に穏やかな表情をした、その妻が出迎えてくれた。

「殿下、ようこそいらっしゃいました。お疲れでしょう、さあお入りになって! オリヴァー、お前もまあ、疲れているのではない?」

 かいがいしく世話を焼いてくれ、温かい料理までふるまってくれた彼女の名は、カミラというらしい。オイゲンが話していた通り、家族をよく気づかう女性で、夫と息子と同じく読書が好きなのだとわかった。趣味は貴族の者にしては珍しく料理だという話で、オイゲンの彼女の健康管理説は本当のようだ。

「息子のもてなしに失礼はございませんでしたか、殿下?」

 オイゲンがいたずらっぽい笑みをして聞いてくる。

「全く。思っていたよりずっと楽しく過ごせたよ」

 謹慎の間、つらいばかりということもなくいられたのはこの父子のおかげであろう。微笑んで答えると、

「それはよろしゅうございました。朝になったら私どもと登宮いたしましょう」

 と目を細めて返された。

 食後、私がカミラ殿の紅茶をほめている横で、二人は宰相の仕事の話をしていた。

「急遽ハルトに官の試験を受けさせねばならなくなってな。あれが一番の苦労だったよ」

「仕方ありますまい。王宮の官吏の資格を持たぬ者に文書を任せることはできませぬよ」

 試験とは、王の文官になるために課されるもののことだろうか? 誰の話なのだろう。オイゲンは実力を認められて宰相に任ぜられたのだし、違う者のことだろうが……。明日になればわかろう。

 あくびをかみ殺していると、カミラ殿が休息を勧めてくれたので、甘んじることにした。ゲッツが風呂の支度などをしに来てくれたが、フーゴに会ったことを話すと苦笑していた。違う人生を選んだ孫としては、祖父の心配より目の前の仕事が大事らしい。それでも背を向けたすきに微笑んでいたのを私は見逃さなかった。かわいらしいやつめ。

 館は二階建てで、目を閉じていると階下から三人の穏やかな話し声と静かな笑い声が伝わってきた。家族水入らずの会話だからだろうか、こちらまで落ち着いた気になるようなのは。私も帰ったら姫たちに会いにゆかねば……。

 白く清潔な布団がふかふかと日向の匂いをさせていて、いつの間にか夢も見ぬ深い眠りが訪れていた。

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