十三.謀り事

 翌朝は資料室へ向かった。執務室を通らねばならぬので、入ると兄上と顔を合わせる。

「おはよう、ヴィン」

 すでに執務机についていた兄上が、書類から顔を上げて言った。おはようございます、と返すと、うなずいて紙面に目を戻す。

 どう考えても早い。昨日のことがあって、少しは休まれるかと思ったのだが、逆だな、この方は。

 控えていたジークに、早すぎぬか? と目配せしてみたが、伝わらず眉をしかめられてしまった。

 資料室の黒い机につき、今日は珍しくいくさについての資料を広げる。と見せかけて、次に取り出すのは便箋なのだが。今のうちにヘマへ手紙を書いておかねば。

 早い返事をご所望のようなので、とつづる。ユースフェルト人がアルトゥールの伝説を寝物語に育つか、とは。確かにそうだな。だが、母上はあまりよい語り手ではなかったし、幼い頃の教育係は子守歌の方が得意だった。だから、大きくなってから読んだ本の方が記憶に残っている。

 それから、男性への誕生日の贈り物……。ユースフェルトでは、誕生日を大々的に祝うということはあまりせぬな。基本は内々で祝う。豪華な夕食を用意したり、日用品を贈ったりする。

 今年はアルマには冊子を贈ったな。ジルケには何を贈ろうか……妃様方には通例花を贈っているが。子どもの私に大層な財力があるでもなし。兄上の誕生日は、私が内宮に出る前だったから、今年は直接祝えておらぬな。前は、姫たちと一緒にカードを贈ったと思う。

 これでは参考にならぬか。逆に、私がもらったものだと、タイや金のボタン、十の祝いでは、母上がこの耳飾りをくださった。他には詩集や、質のよいペンなどかな。

 うーむ、やはりイサアク殿の好まれるものや、普段使えるものを贈るのがよいのでは? 無難に過ぎる答えで申し訳ないが。

 ……珍しい食べ物や、置き物を贈るという手があったな。書き添えておこう。武人には特に、食べ物は喜ばれると思うしな。

 それから質問。そうだな……ヘマの一日のことなど尋ねてみようか。こちらが普段通りとは言えぬこの状況、彼女が何をしているか知りたいというのは……ぜいたくだろうか。

 まあ、書くだけなら罪にはなるまい、とそのままペンを走らせる。どうなるかわからぬが、便りを待つ気持ちは変わらぬぞ、と格好つけてみてしめくくった。封筒に入れ、蝋を押す。

 手紙は置いておいて、勉強を始めるとするか。

 戦というものには、二種類がある。対人の争いと、対魔の戦いと。

 ユースフェルト王国においては、初代王アルトゥールの対魔の旅の伝説、ジョルベーリ王軍との戦がまず挙げられる。

 ティエビダが狂い森の横の荒れ地に国を建てるまでは、台地とそこに連なる丘以外に守るための壁もなかったから、対魔の戦は数多く歴史に残っている。対人の戦は、ジルヴェスター三世王の代末の内乱が挙げられる。

 どちらにも出てくるのが、星の丘だ。私のいるここ、王宮は、国の端の台地の上に建っており、そのふもとにはあまたの丘が連なった地形がある。丘の帯の中に、王家の墓地のある丘や、獄の塔がある丘があるのだ。

 連なる丘の最北を、星の丘という。アストリッド妃がそこで占いの儀式を行ったためとか。当時王たちの住居は海辺の町にあり、そこからはその丘が最も近い。

 しかし、なぜ二の王子がこの星の丘を指定したかは謎のままだ。やはり早いうちに兄上が力を握っておかねばならん……。

 ふと、廊下の方から慌てたような軽い足音がした。

 ふむ。私は何気なさを装って、置いておいた手紙を手に取り、そっと資料室の戸を開けた。兄上と文官が一人、話し込んでいる様子。

「兄上——」

 声をかけ、兄上がこちらに目を向けたその時、執務室の戸が音高く叩かれた。

「第一王子殿下はいらっしゃいますか?」

 都の向こうで若い声が言う。兄上は私に手を振って、後で、と小さく告げてから、答える。

「入ってくれ」

 扉が開き、緊張した様子で入ってきた若い文官は、一礼して述べた。

「昨日、第一王子殿下が宰相をお呼びになるとのご伝令を、拝命仕った郵便官でございます」

 と硬い口調。

 私は隅のほうで、込み上げてきそうな笑いを押し込めていた。かわいらしいものだな。兄上はお優しいから、そう怯えることはないというものを……まだ経験も浅そうであるし、無理もないが。

「ご苦労だったな」

 と兄上は微笑む。

「宰相は何と?」

「それが……」

 郵便官は小さくのどを鳴らして、

「長く病が続きました故、静養が必要と医師に言われたとのこと……。本日もいらっしゃいません。こちらが、殿下に宛てられた手紙でございます」

 と小さな封筒を取り出し、机に歩み寄って兄上に差し出す。

「なるほどな……」

 兄上はあごに手をやって少し考えるしぐさをしてから、封筒を受け取る。机上の小刀を手に取り、開封してざっと目を通すと、すぐに顔を上げた。

「そうだな、それでは宰相に、それほど具合が悪いならば、私のもとへ代理を寄越せと伝えてくれ。手紙ではなく直接問うべきことのある故、とな」

 美しい微笑をしてらっしゃる。

「はっ、かしこまりました」

 郵便官は一礼して去った。生真面目そうな文官だったな。

「……国王代理の呼び出しにも答えぬと」

 扉のほうを見やり呟く。兄上は少し笑った。

「そう急くな、ヴィン。あちらにも多少の面目くらいは立てさせてやろうではないか。まだ一日目であるしな、ふふ」

 宰相どもも、これまで断ってきた登宮とうきゅうを一度の勧告で為すはずがない、ということか。

「そうでございますね」

「何か用があったのではないか?」

 微笑みと共に問われる。実を言えば、宰相からの返答を聞く場に居合わせるために用意しただけの方便だが。

「ああ、いえ。手紙を出しに行こうかと。一度出て参ります」

「そうか。……昼食までには戻りなさい」

 はい、とうなずき、廊下に出ると、いつでも元気のあるベンノがいるのを除き、辺りはしんとしている。

 ふつう、ああ答えたら——なんだ、それだけか? 宰相の件にじゃまをされたね、とでも言いそうなところを。これが兄上の能力と、洞察力の恐ろしさだな。

 ……先王は他人を観察することも、理解することもやめていた。同じ力を持ちながら、惜しいことをするものだ。

 一人王宮の廊下を行く。視線がある。私を、見ている。幾本もの視線だ。

 よろしい。

 先ほどの若い彼とは別の郵便官に、すっかり慣れた手順で手紙を託す。戻る道の角のところで、茶のベストの兵士を発見できた。真っ直ぐな目で辺りを見ている。私に目を留めると、軽く頭を下げた。

 彼に近づき、言う。

「よく働いてくれている」

 先日の命をよく果たしている、と言外に含ませたところ、兵は

「は、ご命令の通りに」

 とすぐさま答える。まだ若い方だが、隊長格であろうか。私は微笑んでみせた。

「感謝する。頼んだぞ」

 礼を受けて、再び廊下を戻り出した。


 翌日、同じように兄上を訪ねてきた若い郵便官は、蒼白の顔色をしていた。

「申し訳ございません……! 本日も、宰相も代理もいらっしゃらず……」

 と焦った様子で頭を下げる。

 昨日のように足音を聞きつけ、軍事の用語について尋ねるという名目でそこにいた私は、何だと、と呟きかけて思い留まった。兄上が任命した郵便官を怯えさせてはまずい。

 対する兄上は、穏やかに、よい、と取りなして、

「彼らの言い訳は何であったかな?」

 微笑が怖いです、兄上。

「は……その、重要な案件を代理などに任せるわけにはゆかぬ故、直接出向くためどうぞお待ちを、と」

 郵便官は言って、手紙を差し出す。読んだ兄上は椅子に掛け直すと、

「さて……命を二度も無視して、次に如何様な弁明があるものだろうな」

 と独り言のように呟く。郵便官が身じろぎした。私の配慮の意味はどこへ行ったのか。

 兄上は怒っておられるのだろうか? どうにも内が読めん。

 その兄上はふむ、と一つうなずき、

「ヴィン、そこのインクを取ってもらえるか?」

 私ですか? とまたたくが、兄上は優しげな目でこちらを見ているだけ。謎だが、場にいるからには使われるのも筋だろう。すぐ横の棚から小壺を取って手渡すと、兄上は白い便箋に何やらしたため始めた。

 ちらと見ると、郵便官は慌てている。……うむ、もっと己を使ってもらえるよう努めるのだな。

 書き上げた手紙に封をし、兄上はそれを郵便官に渡した。

「それを宰相に届けてくれ」

「はいっ」

 彼は受け取ると、失礼いたします、と一礼し退出して行った。若いと苦労するな。……いや、真面目なだけでは、か。イグナーツのやつなど、ふてぶてしいのもおる。

「何と書かれたのです?」

 問うと、兄上は手を組み、

「国に貢献する気がないなら、職権剥奪も辞さぬ、とな」

 ……!

 目を見開く。見つめた先で、兄上はどこか遠くへ目をやるようにしながら、言った。

「明日来い、と」

 私は深く息を吸った。ならば、明日。私は。

「……ヴィン?」

 顔を上げると、兄上がこちらを見ていた。私は軽く微笑んで、

「いえ。教えてくださって、ありがとうございます」

 兄上は一瞬眉をひそめたようだったが、すぐに笑んだ。

「非常時だけれどもね。学びを怠ってはならぬよ」

 わかっておりますよ、と答えて、資料室へ逃げ帰った。兄上は私の計画をどこまで見抜いてらっしゃるのか……。わからぬが、わかっていることもある。私の計画は必要になる。確実に。

 資料室の黒机には、昨日から戦についての資料が広がっている。ユースフェルトでは、王と、諸侯がそれぞれ軍を持っている。軍は騎士団とも呼ばれる。歩兵もいるが、指揮するのは伝統的に騎兵であるゆえだ。頭目を団長という。

 王の軍は、王宮を守る第一騎士団を筆頭に、王都を守護する第二騎士団、さらに四方の国境を守る騎士団などから成る。諸侯の軍は基本的に一騎士団だ。いずれも、魔物、あるいは敵軍から自領を守るために存在し、治安維持にも用いられる。

 近衛騎士団は第一騎士団とは独立して存在する。王族は王だけでなく、王子、王女や妃にも専任の騎士隊をつけることがあるからな。第一騎士団の一隊の扱いでは足りぬのだろう。

 対外戦の折は、王の軍と、敵地に隣接する諸侯の軍が協力して戦う。トールディルグの国際法に沿うならば、もうそのようなことは起こり得まいが。

 内戦となると、諸侯がいくらか王権の担い手と認められぬ方につくこともある。その時は周囲の領主と王軍とで圧力をかけることになっている。

 対人の戦をするなど、たいがい愚かなことだ。人が争っているうちに魔が侵攻してくる。二の王子も、それくらいはわかっているはずだ……と思いたいが。

 ところで、戦の資料を探っていて、おもしろそうな書物を見つけた。策戦論、と表紙にあり、歴史上の有効だった策などをまとめたものであるようだ。

 初めの方に、有名な戦で使われた策がのっていた。ヨアヒム王の回避策、マンフレート王の壁対策など……総じて、どうやらだまし討ちというのは有効である。相手にだまし返されぬ限りは。

 一頁、策に必要なものの表というものもあった。

 頭脳。それはそうだな。あるいは、策士。なるほど確かに。

 信頼に足る中心人物。ふむ、兄上はそうだろう。

 情報。あるいは、諜報の術に長けた者。こちらにはエッボたちがおる。

 技術。そう変わりはなかろう。

 兵力。元も子もないな? ともかく、国の大部分はこちらについている。

 負けるはずもないな。必要なものはほとんど揃っている。ただ一つ、欠けているものがある。

 ——信頼に足る中央、本部。あるいは臣下。どうしても信の置けぬ、悪い芽は取り除いておく必要がある。でないと、今はある時さえも、失われてしまう。


 夕餉にはエルヴィラ様も兄上も揃っていた。お二人は食後の紅茶を手に、四公についての話を始めるようだったが、私は早々に引き上げることにした。夕食前に、ヘマからの手紙が届いていたのだ。

 一人ソファに腰掛け、小刀を取って封を切る。

『ヴィンへ

 早速の返事をありがとう。助かったわ。兄様にはペンを贈ることにしようかしら。この間、よさそうな文具店を見つけたのです。しおりを買ったお店と同じ通りの。

 質問は、私の一日の予定ですか? ことに書くべきところもないかと思うのですが、お前の方は、塔を訪ねていないのですものね。私はそちらの王宮を訪ねて何となく想像はついたけれど、本当のところはよく知りませんし。お前はもっとそうでしょう。

 常は、白の塔の司書として書物を管理したり、来訪者に応じて案内したり、ですね。朝夕と、王猫と子猫たちに食事をやるのも巫女の仕事です。時には姉様に呼ばれて王城へ出向くこともあるけれど。

 夜は塔の傍の、巫女に与えられた屋敷にいるのですが、主は私だけですから、広すぎるとも思うわ。料理人と、馬番兼庭師と、護衛兼侍従はいるけれどね。

 ヴィンはもっと多くの仕え人がいるでしょう? 王族ってどうやっているものなのです? こちらの王城と似ているのかしら。』

 そこで一枚目は終わっている。まだ空白もあるのに珍しいな、と思って二枚目を表に出すと、その内容は打って変わっていた。

『ヴィン、ここからは秘密の話です。

 ティエビエンの城でも動きがあるのです。姉様が私を城に呼ぶのをやめたのです、何かあったのはわかっているわ。

 実は、姉様は、この件で父君を疑っていらっしゃる節があるのです。今はまだ何も、定まってはいないのですが。

 こんな話をしていいものかどうか、迷ったの。でも、伝えておくわ。お前の方に影響があってはいけないから。』

 何と……ティエビエンでも不穏な影があるのか。

 眉根を寄せ、その文を見つめた。結びには、彼女らしい、いつものように私に響く言葉。

 ——それでは、ヴィン。私も、いつだって便りを待っているわ。

 わざとそうしてくれたのだろうか、と考えるほど、明るくまとめてある一枚目。真っ直ぐな末尾の一文。

 これは、七通目だ。互いに送り合う手紙が十五通に至れば、と私たちは決めた……。

 そっと便箋をもとのように封筒に収め、机に置いた。

 それから小卓の上の鈴を鳴らした。モニカがひょいと戸口から顔をのぞかせるので、風呂の用意を頼む。モニカはエーミールを呼んで浴室へ入って行った。二人のくぐもった声を壁越しに聞いていた。


 翌朝、私が資料室から出て行く隙もなく、駆け込んできた郵便官が告げた。

「宰相から返事がございました。本日、いらっしゃるとのこと」

 ついにか。

 私は机を立ち、扉に張りついた。聞き耳を立てる。

「いつだ?」

 兄上の声。

「はっ、九刻には参られるとのことです」

「……なるほど」

 何かを思案するような一拍の後、兄上が告げる。

「よくやってくれた。戻る時に、文官長を呼んでもらえるか」

「はい!」

 郵便官は嬉しそうに答えた。あいさつの後、足音が遠ざかる。……ふむ。

 読みかけの『策戦論』を持って来て、扉に背を預けて座り込む。そうしてじっと待った。戸の向こうからは、兄上が書類をめくっているらしいかすかな音がしていた。

 やがて靴音がして、ダーフィトが入って来た。

「お呼びに従い、参上いたしました。殿下……」

「宰相の件だ。お前も同席してくれるな?」

「は、いかがいたしましょう」

「九刻に——」

 二人の、少しばかり低められた声での会話に耳をそばだてたところによると、宰相が来たならば書棟に通し、そこで話をするらしい。

 そうなると、ここにはおれぬな。

 ダーフィトの退出を合図に、机に戻る。騎士を呼ぶか。

 本をめくっているうちに、七刻になった。昼の鐘の音が鳴る。

 そっと戸を開けて執務室をうかがうと、ちょうど侍従が昼食を運んできていた。いつものように机の横で椅子に腰掛けて、パンを食む。

 兄上が告げた。

「ヴィン、私はこの後、文官長の方へ行ってくるから。きちんと勉強をしていなさい」

「はい」

 私はこくりとうなずいた。

 ……兄上は、私が隠れて聞いていたことに、気づいておられるかな。

 ともかく、宰相と対面するのはご自身のみと決めてかかっているようである。まあ、よい。そうでなければ私の計画も成り立たぬゆえな。

 侍従が皿を片づけに来たので、捕まえた。

「すまぬが、後で近衛を一人呼ぶよう、騎士に伝えてくれぬか?」

 年配の穏やかそうな侍従は、はい、と答えて去って行く。

「……どうかしたのか、ヴィン?」

 書類をまとめていた兄上が不思議そうに問うた。

「いえ、後で図書館に行こうかと」

「……?」

 まずい、気づかれそうだ。

「それより、早く準備をなさった方が。……会議なのでは?」

「……そうだな」

 取りつくろおうとすれば、兄上は眉を寄せつつうなずいた。これは、絶対に気づかれておるな。少なくとも、私が何か企んでいることは。

 それでも問いただされねばこちらの勝ちである。私はさっと資料室へ引っ込んだ。

 いや、危ない危ない。

 あれだけの違和感でばれそうになるとは……私は、普段、図書館や手紙を出しに行くくらいでは護衛をつけない、という事実。さて——今ならばさすがの兄上でも、そこまで思い至りはせぬと思うが。

 兄上の足音が去る。しばらく本に目を通してだけいると、別の早い足音がして、やがて資料室の戸が叩かれた。

「入れ」

 振り返って言うと、遠慮なく戸は開き、私の騎士が姿を見せる。

「よく来たな、カスパー」

「どうなさいましたか? 今日は訓練もないと伺っておりましたが」

 と彼は小首を傾げる。

「何かの最中に呼び出したか? 悪かったな」

「いえ、どうせ、書類仕事が嫌いな団長に巻き込まれるところでしたから」

「ヘンドリックか?」

 くく、と笑う。

「あやつらしいな」

「できないのではなく好まないというのが、何とも。それで、どうなさったのです?」

 とカスパーは不思議そうな顔をしている。私はくすりと笑った。

「災難を回避したところ悪いが、私に付き合ってもらうぞ」

 微笑んで、声を低める。

「私の命が聞けるだろうな?」

「は……」

 カスパーは戸惑ったようだったが、すぐに姿勢を正した。

「もちろん、私はヴィン様の騎士にございますから」

「では、ついて来てくれ」

 私はカスパーを連れて、執務室を出た。

「ベンノ」

 今日も扉を守っている若い王宮騎士に、伝言を頼む。

「もし兄上が聞いたら、私は図書室にいると言っておいてくれるか?」

「はいっ、殿下!」

 ベンノは元気よく答える。それに笑いかけて、廊下を進み出した。書棟の回廊を行くと、何となくざわついているのが、風を使わずとも伝わる。

「……何かあったのでしょうか」

 カスパーが呟く。

「宰相が来るようだぞ」

 言うと、彼ははっとしたように、

「……ヴィン様」

 私はそれには答えず、回廊を通り過ぎた。図書室へ入る。カスパーは入り口で待たせておいて、イングリットに言って紙をもらう。

 棚の間を縫って歩き、これまで気になっていた本を書き留めた。表面が埋まったところで、宮の玄関口の方へ人が向かう音が聞こえた。

 ……そろそろかな。

 受付台にイングリットは座っていたので、覚え書きを渡した。

「これを預かっておいてくれるか?」

「……ええ、殿下。もちろんですわ」

 イングリットは片眼鏡の奥の目をしばたかせて、受け取ってくれる。

「行くぞ、カスパー」

 騎士に声をかけ、廊下へ出た。開けた戸から手を放す。

 文官たちの仕事場から届くざわめきが大きくなっていた。そちらへ向かっていく。途中、茶のベストの騎士を多く見かけた。いつもなら開いているはずの、書棟の大扉が閉められていて、兵が二人立っていた。

 ふむ、兄上がいるための警備か……。

 直進はせず、横道にそれる。記憶通り、小さいが品のいい扉があった。取っ手に手をかけ、中をのぞき込むと、小部屋が一つ。人はいない。

 正面にもう一つ扉があった。そっと入っていって開けると、思った通り、机の並ぶ部屋が見え、無人の机の列の向こうに、人だかりがしていた。音を立てぬようにして、隙間を開けたまま廊下へ戻る。壁にもたれて腕を組み、待つ姿勢を取った。

「……どうなさるのです?」

 警戒する様子のカスパーに、静かに、と合図する。

 かすかに流れてくる風に乗った音を拾う。宰相が参上したことへの驚きの声が強いな。……全く。

「——さて」

 そこへ凛とした声が響き、人々が静まった。兄上だな。さすがだ……。

「宰相ヴィルフリート・ハイスレイ、並びにエゴン・ハイスレイ公爵よ……いい加減に、答えてもらおうか」

 久しぶりに本名を聞いたな。

 それはいいとして、兄上の声は冷ややかなものだ。やつらはどう反応するつもりか。

「何の故あって、私の命に逆らい続けたというのかな。この二週ほどもの間、断りなく登宮をせず、催促も拒みおって」

「先に申し上げた通りでございますれば……。連絡が遅れたのも、病によるものでございます」

 これは宰相か。ふてぶてしく言ったものだな。

「ほう……? 随分軽い病だったように見えるがな」

 冷笑を含んだ声。兄上が皮肉を言うとは……、珍しい。

「我が領の医師は優秀でございます故」

「なるほどな? 確かに、お前たちの領は医術で名高い。それで、その優秀な医師は、主の王へ報告することを忘れたと?」

「それは」

「そも、いつから病であったというのかな。私は、宰相、お前に選定会議の調停役を任せたはずだ。翌日の夜会から姿が見えなくなったが、あの日ならいつでも報告できただろう。急に体調を崩したというなら、な」

 言い訳する暇を与えず、兄上がよどみなく告げる。

「お前が何の断りもなく登宮を拒んだことで、業務に支障を来したのだぞ?」

「……お言葉ですが……」

 宰相は不気味な落ち着きを見せるばかり。

「まるで、私が病でなかったとでもいうことを前提に、話を進めておられるご様子」

「おや、そうではなかったのか」

「そのようなこと、あり得ません。一体どこに証拠を見つけられたと言うのですか」

 馬鹿にした調子で……聞いているこちらがいら立つのだが。

 それに、兄上はぽつりと、

「……私の中に、だが」

 ! 兄上は、目の前の相手が嘘をついているとわかる! やはり病などしておらぬではないか!

「お前がはぐらかす気なら、こう問おう。……何故、あの夜会にわざと現れなかった」

 人々が息を呑む気配。

「先王陛下が囚われてから、度々業務を休んでおったな? 公務に呼べば参るものだから、くだらぬ男かと思っておったが」

「……」

「どうやら違ったようだな。先王陛下と宰相が密約を結んでいたとの情報を手に入れた。……何が目的だ?」

 宰相は無言のままだ。どうせあの、不愉快な笑みを浮かべているのだろう……!

「何の故だ、と聞いている。私に従う気があるのか」

「……」

 嘆息。

「正統なこの国の次王に、従う気がないのか?」

「いいえ……ございますとも」

 不気味な笑みを含んだ声が答える。

「では、従ってもらおう」

 と兄上の重々しい声。

「これほどに責務を果たさぬのでは、任を解くことも考えねばならん。もしも、特別な故あってのことと言うのであれば、明日から宰相の職に復帰せよ。一考してやろう。明朝お前の姿が見えなければ、それが答えと思って職権を剥奪する」

「は……寛大なお言葉、ありがとう存じます」

 く、やはりこうなるか。

 私は壁から背を離した。

「カスパー」

 そっと騎士を呼んで、廊下を図書館の方へ戻り出す。風を引き寄せた。もう見つかっても構わん。

「……殿下、よろしいので?」

 ダーフィトだろう。悔しげな声音。

「今はこれまでだ。明確な証拠を掴めているわけではない」

 兄上は抑えたような低い声で応じた。

 再び、文官たちがざわめき出す。急いで戻ってゆくと、衛士たちが集まっているところに都合よく当たった。

「少しいいか?」

 声をかけると、隊長格らしい金の飾りをつけた茶のベストの騎士が、

「は、何でございましょう」

 と代表して答える。

 ……足音。遠ざかって行く。王宮の奥の方へ……。

 ちらとそちらに目をやって、告げる。

「……これから宰相が、この辺りを通るだろう」

「はっ、そう聞いております」

「その時に、横の通路に隠れて、見つからぬように控えておいてくれぬか」

「はっ……?」

 兵士たちが顔を見合わせる。

「ヴィン様! 何を考えていらっしゃるのです。危険なことは」

 カスパーが慌てて口をはさんでくる。

「よいか、私は企んでいるのだ」

 ぴしゃりと言うと、彼は口をつぐむ。

 すまん、カスパー。お前の忠義を利用する主を許せよ。

 衛士たちに向き直り、

「やってくれまいか。重要なことなのだ、国に関わる……人のないところで宰相と話がしたいのだ。だが、私を守ってくれる者たちと離れていたくはない」

 こちらも焦っている。本来の目的だけを隠して言いつのれば、若い衛士の一人がうなずいた。

「殿下がおっしゃるなら……」

 隊長らしい騎士も、それにうなずく。

「そうだな、構わぬだろう。かしこまりました、殿下。我らは姿を隠して御身をお守りします」

「ありがとう」

 私はほっとして礼を言った。

 隊長の指示で、兵たちは見事に向こうから来る者の死角になる場所に身を潜めた。

 素晴らしい。これなら気づかれまい。

 最後に隊長格の騎士が一礼して行くので、声をかけた。

「頼んだ」

「はっ」

 短く答えて、彼も身を隠す。

「カスパー、お前も隠れておいてくれ」

「……はい」

 カスパーは迷うようにして、それでもうなずいてくれた。私が口を割ることはなかろうと悟ってくれたようだ。

「……すまん。頼りにしている」

 彼はこくりとうなずいて、実力ある騎士らしい動きで、横道の影に入った。

 ……かすかな声。

「——は、——らっしゃる?」

「——でしたら、——書館へ」

 ……かかったな。

 きょろりと辺りを見回す。大きな、森の中を描いた絵があった。その前に立ち、絵を見上げるふりをして、耳をすます。……靴音と、会話。

「——とは……易しいものですね」

「——だろう? 私の言ったとおりになったではないか」

「父上の前には、あのような若造など、取るに足りませぬね」

「はは……さあ、人もおらぬ、後すべきは一つだけだ」

 ……油断してくれおる。くく、と小さく笑う。

 靴音が近づいて来る。できる限り自然な立ち方をして、絵に視線をやった。

 美しい木漏れ日が描かれている。この美しいものにふさわしいはずの空間に、足りぬ考えで踏み入るくだらぬ者どもが。兄上とて、真実全てを見抜けぬこともあるわけだ。こやつらなど、くだらぬ下衆に過ぎん……!

 カツリ、と広い廊下に足音が響いた。

「——これは、第三王子殿下! このようなところにいらっしゃいましたか。お探し申し上げましたよ」

 大仰な手振りで、細身の老人が言った。その後ろに従うように、片手に書物を抱えた、脂っぽい黒髪の中年の男が立っている。双方とも背は高くはなく、嫌味たらしい笑みをして、濃い青の瞳に不気味な色を浮かべている。

「ハイスレイ公——それに、宰相か」

 今気がついたというふりをする。

「そういえば、お前たちが兄上のもとへ参ると騒がれておったな。久しぶりに見た気がするぞ……このところ見かけなかったからな」

「お気にかけていただけておりましたか。息子が少しばかり病を得ましてな」

 とハイスレイ公は優しげに言う。

 やれ、私はそんなことも知らぬと思われておるのか?

 呆れた気分で宰相へ目をやる。ちょっとばかりたるんだ肌に、嫌な方にではあるが生気のある顔。なるほど、これは兄上の気持ちもわかる。

「全くの健康体のように見受けられるがな」

 嫌味の一つくらい言いたくもなるわ。向き直って吐き捨てる。

「我が領の医師は優秀でございます故。ご存じでしょう?」

 言い訳も一つしかないのか。くっとこっそり笑う。ハイスレイ公は気にした様子もなく、

「殿下にお話がございましてね。我らと共に来ていただけましょうか?」

 ……全く、私も馬鹿にされたものだ。

「どんな話だ?」

「それは、共にいらしていただければ……」

 ふふ、と私は笑ってみせた。

「嫌だ。うそつきにはついてゆくな、と母上はおっしゃっていたぞ」

 とわがままを言うように、からかうように言ってみせる。

 ハイスレイ公は大げさに首を振って、

「何をおっしゃる? 私どもが、いつ殿下に嘘など申しましたか」

 あっさりとだまされることだ。

 わがままも、母上のことを引き合いに出すのも、こやつが知るかつての私の常。今はもうそんなことなどないとも知らず、油断したな。——聞き出す。

「兄上にうそをついたではないか」

 くすくすと笑いながら言う。

「宰相が変な理屈で登宮せぬと、うわさになっておったぞ」

 お前たちの魂胆は見抜いておるぞ、と言外に告げながら。

「どうなのだ、ハイスレイ公?」

 迫ると、公爵は苦笑のような顔を作り、

「どうして抵抗なさるのでしょうか。殿下にとってよいお話なのですよ?」

 こやつに対する反抗的な態度も、かつての私にあったものだからだ。今も、だが。

「ふうむ……私によい話をするために、お前たちは兄上にうそをついたのか?」

 言うと、やつらは目を見交わす。食いついたか?

「いや、素晴らしい洞察力ですな、殿下」

 と宰相めが下手なほめ方をする。

「ふん……当たり前だ」

 応じる、が、恥ずかしいなこれは……反応が馬鹿すぎるだろう、昔の私は。

 宰相が言葉を連ねる。

「やはり、殿下でしたらおわかりになるのでは。私どもは、ある計画を持っているのでございます」

「一の王子は、私どもの話を鵜呑みにしております。……どう思われますか?」

 とハイスレイ公があの不愉快な笑みを浮かべる。

 兄上を一の王子と呼んだか。狙い通り、と思うと同時に、苦々しい気持ちが胸に広がった。

「一の王子にできぬことを、殿下ならできると……思われませぬか」

 嫌らしい笑みを広げ、公爵が言葉を重ねる。

「……何?」

 わざとらしいが、目を見開いた。

「どういうことだ……お前たち、私をどうしようと言うのだ」

「誰よりも高い地位へ、お即けしましょう」

 ——引き出したか。

 空気が緊張したものに変わるのがわかった。騎士たちの気配。

 目の前の二人はにたにたと笑っている。気づかぬままだ。いける。

「何だと……」

 惹きつけられたとでも言うように身を乗り出して、それからはっとしたように身を引いてみせた。

「いや、ならん! それは……兄上に反するということではないか! 正統な次の王に反しては……!」

 ハイスレイ公がにたりと笑った。

「違いますよ、殿下」

 暗い色に染まった瞳を私に近づけ、

「貴方様こそが、正統な次王。能力のない第一王子や、戦頭の二の王子なんぞを玉座に即けてどうするのです。この名宰相家、ハイスレイの血を引く殿下こそがふさわしい……!」

 そして、手を伸ばしてくる。

「さあ、殿下……」

 あと、もう一押しか!

「いや、私は……」

 防御するように片手を前に出して後ずさる。と、ハイスレイ公が一歩を詰めてきた。

「怯えなさいますな。一の王子に何の遠慮がある」

 ——言え!

「我らと共に反するがよろしい! 殿下が王となり、我らを一の臣として任ずれば、素晴らしい時代を築けましょう……意味のない会議など、お気になさるな」

「私に触れるな、待て……!」

「共に一の王子を廃しましょう! 殿下!」

 ——言わせた!

 力強い手で、がしりと手首をつかまれる。それを勢いよく叩き払った。乾いた音が響く。

 間抜けた顔をしたハイスレイ公と宰相に、怒鳴った。

「触れるなと言っている! この——無礼者が!」

 周囲が殺気立っているのを感じる。それを頼りに叫んだ。

「衛兵!」

 衛士たちが物影から飛び出してくる。カスパーがさっと私の前に出て、かばうように立った。

「聞いたな⁉ 反逆者だ! この者どもを捕らえよ!」

「な……っ⁉」

 やつらが仰天して飛び上がる。逃げ出そうとするのを、見る間に槍やら拳やらで衛兵たちが取り抑えた。

「何をする! で……殿下! これは何かの間違いでは⁉」

 見苦しくわめくのだが、両手を背の後ろでしばられ、眼前に槍を突きつけられた状態では、もう何の効力もない。

「間違い? ……この私が兄上に離反するようなふるまいをするなどということが、間違いだな」

 私は先ほどまでの幼子おさなごじみた言動を捨て去って、冷たく言った。

「私がいつまでも御しやすい後宮の子のままでいるとでも? 母上のことだけ見ている愚かな子どもだと?」

 ふん、と鼻で笑う。

「それこそあり得ぬな。……母上は風になったのだ。その後、立派に生きるための道をくださったのは兄上だ」

 二人は呆然とした顔をしていた。ハイスレイ公の一つにくくった灰髪も、やつなりに整えていたらしい宰相の黒髪もぼさっとして、形無しだ。

 どんな暗躍も策謀も、一つ怠ったり一つ罠にはまれば泡と消えるいい例だな。

「兄上のために陥れさせてもらうぞ。牢の中で覚悟でもしておくことだ」

 怖い顔をしてやつらをにらんでいる兵たちに指示を出す。

「兄上にお知らせしてくれ。……そやつらは獄へでも連れてゆけ。兄上が指示をくださろう」

「はっ」

 隊長らしい騎士がうなずき、若い兵が走り出す。やつらを引っ立てながら、騎士が言う。

「殿下はどうなさるので……」

 私は苦笑した。

「私は内宮に戻る。……このようなことに関わってしまった以上、なかったことにはできぬだろう」

 うわさは広まる。第三王子と宰相家のつながりは明らかで、こんな演技をしたからには、おかしな方に曲がった話が出てもおかしくはない。……それが兄上のじゃまになることも、想像がつく。そのつもりで準備はしてきた。

「上手く処理してくれ。任せる」

 宰相どもを指して言うと、騎士は頼もしく、

「お任せを」

 と一礼した。

「……戻るぞ、カスパー」

「はい、ヴィン様」

 付き従ってくれるカスパーと、回廊へ出る。歩くうちにも、書棟で騒ぎが大きくなっていった。

 内宮の部屋へ戻ると、アリーセたちが不安げな顔で出て来た。

「何があったのです? 王宮の方が騒がしく……」

 心配そうにアリーセが私を見下ろす。

「騒ぎのもとは私だからな……」

「え?」

 苦笑して、告げる。

「私の部屋に立ち入る者を制限してくれ。アリーセ、モニカ、エーミール、お前たちには世話をかけるが……」

 彼らは顔を見合わせ、困ったようにしつつうなずいた。それに微笑みかける。

「感謝する。……カスパー、お前は駄目だぞ」

 言うと、騎士は困惑の顔で、

「どういうことですか、そんな……それでは謹慎のようなものでは」

 私は肩をすくめた。

「……そういうことだ。兄上の沙汰を待つ間、な」

 皆の顔を見回す。モニカは不安そうに胸の前で両手を組んでいる。エーミールは戸惑い顔で他を見上げている。

「ヴィン様、そのような……こんなことになるとわかっていれば……」

 カスパーは呟いて、うなだれた。私はそっとその腕を叩いて、

「よく、命を聞いてくれた。案ずるな」

 となぐさめる。

 アリーセが表情を引き締めて、言った。

「……わかりました。私たちは、変わらずヴィン様にお仕えいたします」

 ありがとう、と答える。

 アリーセはこくりとうなずき、他の者に退出を促した。皆一様に悩ましげな顔のまま出て行き、扉が閉まった。

 一気に部屋がしんとする。

 ……さて。策戦論は役に立った。おとりを掛けて罠にはめるのは常套手段だな。

 後は、ただ待つのみ。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 調度品のほとんどない部屋に引きずり出された宰相とハイスレイ公爵に、冷然とした表情で第一王子は向き合った。

「ち……違う! こんなつもりでは! なかった、なかったのだ!」

「放せえ! 私を誰だと……! 宰相だぞ⁉ この国の! 父上は公爵、四大公が一なのだぞ⁉」

 暴れる醜い男どもに、感情を映さぬ声で、言う。

「黙るがよい……」

 ひっ、と息を呑む咎人ども。

「全て聞いた。衛士八名、それに王宮図書館司書の証言を根拠とし、エゴン及びヴィルフリート・ハイスレイ、両名の職と爵位を剥奪する」

「や……やめろ! そのような……っ」

「わ、私たちがおらずに国が回るか!」

 取り抑えられながら発される妄言を、アレクシスは黙殺した。

「新しい宰相とハイスレイ公爵を任ぜねばな……。お前たちの処分は一族に任せよう。それまでは牢だ。兵よ、この者らを獄の塔へ。身分にふさわしい獄へ入れておけ」

「はっ!」

 茶のベストの騎士たちが動く。

「立て!」

 無理やり立たされた老公爵——否、罪人は足掻いた。

「馬鹿な……! 我らを捕らえるなど……後悔するぞ!」

 そこへ、カツリと高い踵の音が響く。戸口に立ったのは、美しい黒髪に片眼鏡の女性。

「殿下、聞いてはなりません。国家反逆の大罪を犯した咎人に、口はございませんわ」

「連れて行け!」

 近衛隊長であるジークベルトの号令に従い、咎人どもは運び出された。

「イングリット……ヴィンフリートは」

 表情を崩し、眉をしかめたアレクシスに、イングリットは首を振る。

「殿下、わたくしは見ておりました……第三王子殿下が、いつもは開け放しにしない戸を放ったのです。お戻りになるおつもりなのかと思ってそのままにしておりましたが、どうしても気になって……廊下へ出ましたら……あの者どもが、第三王子殿下に迫って」

 言葉を詰まらせる。

 アレクシスはうなずき、兵を見やった。衛兵の一人が心得て、

「全て、第三王子殿下のお考えにございます。あれらから証言を得ようと、自ら身を差し出したように見えました……」

「おいたわしい。頼りになるはずの母君の血筋が毒と、そうお気づきになって、ご自分を犠牲になさるなんて……」

 とイングリットはうつむく。

 アレクシスは振り返り、赤のベストの兵を一人呼んだ。

「ハス。ヴィンはどうしている?」

「お部屋に。……殿下のご沙汰を待つと……私まで遠ざけてしまわれました」

 カスパーはぐっと拳を握る。

「……悔しゅうございます。……主のお優しさと聡明さに任せて、私は……」

「……あの子も、馬鹿なことをしたものだ」

 アレクシスが呟いた。一同は驚いたように彼の方を向く。

「だが、これ以上ない助けであったのは、事実」

 続けて呟く。顔を上げると、鋭く面々を見回し、

「——我らは、たかだか一人の子どもにしてやられたわけだ。それも己が価値を削らせてまで」

 告げる。

「ここにいる者は、彼に報いるためにどうすべきか、わかっておるな? 心せよ」

 一同は一斉にうなずいた。

 アレクシスは身を翻し、呟く。

「……犠牲になどさせぬぞ、ヴィン」


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 椅子に腰掛けて目をつむり、呼吸の音を聞いていた。

 どのくらい経ったのか、届いた早い足音に目を開ける。すぐに戸が叩かれて、涼しげな声がした。

「ヴィン、いるな? 私だ、アレクシスだ。話がある……出てきなさい」

 私はぱっと立ち上がり、扉へ駆け寄った。戸を開けると、廊下に兄上が立っていた。私が出てゆくと、兄上はじっと私を見つめる。深く、包み込むような視線。

「ヴィン……」

 つらそうな顔。

「……申し訳ありません」

 思わずそう言っていた。……こんな顔をさせる。わかっていたはずなのに。

「出過ぎたことと思いました。ですが、私のこととわかっていて、何もせずにいるなどできなかったのです」

 兄上は首を横に振る。

「……謝るのは私の方だ」

 そして、手を回して私の肩を抱いた。驚いて兄上を見上げる。

 暖かく、力強い……抱きしめられるなどいつぶりだろう?

「すまん。……つらい役目を負わせた……」

 ああ、そう言ってくださるなら、それだけで私は、

「構いません。私のわがままでもございました」

 あれらと血のつながりがあった、だからこそこの身を兄上の役に立てたかった。

 そっと兄上の腕に手を添える。兄上は少し身を離して、

「第三王子を利用した反逆を、元宰相と元公爵が企てておった。お前は利用されかけた、ということになる」

 と静かに言う。

「わかっているね?」

〝第三王子〟は火種として認識される。少なくともしばらくの間は。何も知らぬふりをしてこれまで通りに過ごすことは、もはや叶わん。

 私はこくりとうなずいた。

「わかっております」

 目を閉じて身を寄せた。ほんの少しの、温もりを感じる時間。私の頭を軽くなでて、離れると兄上は私を見下ろし、告げた。

「第三王子、ヴィンフリート……宮廷を騒がせた事件に関わったことへの対処として、しばしの謹慎を命じる」

 王宮の主としての言葉。その緑玉の瞳と目を合わせて、答える。

「はい」

 兄上はうなずき、眉根を寄せながら、

「なるべく早く解けるようにする。……待っていてくれ」

 私は深く一礼して、背を向けた。部屋に入り、戸を閉める。

 これでもう、くつがえることはない。


 机に便箋を広げた。その上にペンを走らせる。

『ヘマ、

 私は貴方に謝らねばならない。すまん。手紙を送ることはできなくなってしまった。

 母上の生家が宰相家であったということは、前に話しただろう。宰相とその父である公爵が、第三王子を王にしようと企てていたことが発覚した、そういうことになった。

 私は謹慎の身となる。しばらくこちらから連絡はできぬだろう。

 貴方にだけは本当のことを伝えておきたい。宰相と公爵は、兄上が王となる道の妨げとなっていた。彼らは私の実の伯父と祖父だった。彼らの意図していたことは、幼い頃より何となく勘づいていたのだ。』

 先王は第二王子に、やつの望む全てを与えたがっていた。宰相と公爵は、一族の娘が産んだ第三王子を駒とし、権を握りたがっていた。

 「互いに邪魔はしない」という密約。先王は囚われ、宰相家が動いた。あの長い無断欠勤、相応の準備はしておったろう。私が握りつぶしたがな。

 ほんの半年ほど前まで、私はやつらの駒となり得る、幼稚な子どもに過ぎなかった。私が内宮に出、兄上の教育を受けたことがやつらの誤算だ。

『こういうことにすると、私が計画した。彼らは見事にも罠にはまってくれたが、私が関わったことは事実だ。

 本当にすまない、ヘマ。記念すべき八通目の手紙なのに、こんなことしか伝えることができぬとは。』

 ちょうど半分の、本来なら幸運なことと書き伝えられるはずだった八通目。情けない。私が至らぬばかりに。

 第三王子はただ利用されかけただけだと、宮の者の意見が落ち着いてくれればよいが……利用された馬鹿者と言われ、広まってしまえば、それは汚名だ。

 隣国の王城にもうわさは届くだろう。ほまれある白の塔の姫君と、悪いうわさのある王子……ということになれば、ヘマとの婚約の話だって、ティエビエンの方々は考え直さなくてはならぬということになるかもしれん。

 国の事情に挟まれた話だ。茨の道になり得るとは知っていた。けれど、乗り越えればよいのだと、彼女はそう言ってくれていたのに。

『私の胸の中の、この気持ちは変わらん。それだけは知っていてくれ。

 何とかできるように、努力を続けていく。約束する。

 愛を込めて       

 ヴィン』    

 そうしてつづった。

 ずっと避けてきたが、こうでも書かねばきっと、この想いの丈は伝わらん。気恥ずかしいとは感じなかった。ただこのあふれ出しそうなほどの感情だけがあった。

 一つ息を吸って、便箋を封筒に滑り込ませた。


 夜のとばりが降りてくる。誰がそうした表現を考え出したのか知らぬが、この空の色の変化にはふさわしい。

 寝室の窓を開けて、またたく星の光を探していた。コンコン、と叩く音がして、次いで、かちゃりと取っ手を押す音がする。応接室をのぞくと、銀の配膳車を押して、エーミールが入って来ていた。

「エーミールか。悪いな、仕事を増やして」

 歩み寄りつつ言うと、若い侍従は顔を上げて、

「いえ……。このくらい、何でもありませんよ」

 そう言って、部屋の中央の低めの卓に碗を置いていく。ありがとう、と礼を言ってソファに座ると、エーミールは頭を下げて、

「すみません、僕も長く留まってはならないと言われて……後で食器を下げに参ります」

 そうか……長話はできぬようだな。

「構わぬよ。気にしないでくれ」

 微笑みかけるが、彼は申し訳なさそうな顔のまま退出する。

 卓に並べられた料理はどれも温かくて、料理長の気づかいが感じられた。昔は母上と、部屋で食事を取ることもよくあったが……こちらに来てからこのように独りで、というのは珍しいな。大体は護衛か侍従がいるし。

 静かだ、と思いながら、料理を口に運んだ。食べ終わって少し待っていると、再びエーミールが入って来て、黙って食器を片づける。

「エーミール」

「はい」

 何ですか? と若い侍従は不安げな顔のまま首を傾げる。私はその手に封筒を握らせた。

「これを」

 ささやく。

「白の塔へやってくれぬか。もし金が必要とあったら、お前の費用として報告してくれてよい」

「それは……」

 エーミールは黒い瞳を揺らす。時もあまり経っていない、監視も整っていないだろう今が好機なのだ。

 私は彼を見つめた。

「頼む。折を見て、で構わぬゆえ」

 迷うように手紙に目をやり、それからエーミールは私と目を合わせてこくりとうなずいた。

「かしこまりました。きっと届けます」

 ありがとう、と私はほっとして言った。

 エーミールは顔をきりりとさせて、配膳車を押して退出して行く。

 ……難しい役目を任せることになってしまった……。水の豊神にでも祈るしかないだろうか? 幸運を、と。

 湯殿の支度にはモニカが来てくれた。彼女は落ち着いていたが、やはり口数が少ない。

 早くに布団に入った。起きていてもすることがないのだ……今必要なのは時を待つことだ。


 翌朝、エーミールが朝餉を運んで来てくれたのだが、こっそりと耳打つには、

「お手紙を出すことはできましたが……どうなるかはわかりません。すみません」

「お前が謝ることではないだろう?」

 私は苦笑した。

 彼はうつむき加減に、今度もすぐに退出してしまう。

 仕方のないことだが……本当に、することがないな。適当に本棚から歴史書を抜き取って、頁をめくる。次はどうするか、と考えていると、扉が開いた。

 入ってきたのはモニカだった。

「お掃除に参りましたわ、ヴィン様」

 手に箒とはたきを持ち、なぜか、いい笑顔をしている。見ていると、戸と窓を開け放ち、くるくると動き回って掃除を始めた。

「……これでは謹慎も何もあったものではないぞ、モニカ」

 くくっと笑って声をかけると、彼女は振り返り、

「よろしいではありませんの、ヴィン様がお部屋にいらっしゃればよいのでしょう? 風を通さなくては、具合が悪くなってしまいますわ」

 普段とはちょっと違う、早い調子の口調。……どうやら、何かに腹を立てているらしい。怒ってくれているのかな。私は小さく笑った。

「……カスパーはどうしている?」

 問うと、モニカは私に向き直って、

「沈んでおりますわ……。ヴィン様が大変な時に、何て体たらくかしら。他の子たちも! 上辺ばかりの噂をして」

 とため息をつく。

「……そうか」

 やはりそうなるか……。悪い話も出ようとは覚悟していたが。

「カスパーにも、申し訳のないことをした」

「そんな、ヴィン様」

「モニカ……」

 見ると、彼女も困ったように眉を下げている。

「あの……」

 とモニカはためらうようにしながら、

「彼にとっては、主に仕えることが全てでございますわ。何もできなかったと悔やんでいるんですのよ……」

「何もさせなかった私が悪いというのにな」

 風が流れてゆく。

 内宮の奥のここまでは、王宮の人々の声も届かない。私の騎士の声も。

「モニカ、カスパーに伝えてくれぬか」

「はい」

「私を信じ、守ってくれたこと、感謝する……と」

 束の間のためらいすらなく、私の目の前に飛び出してくれた背を思う。彼への信頼がなければ、あんな無茶な策は成し得なかったに違いない。

「お伝えしますわ」

 聞くと、モニカはやっといつもの彼女らしくふわりと笑った。

 しかし腹立たしさは消えぬようで、寝台のシーツを勢いよく引っつかんで去って行った。

 やがて七刻の鐘を聞く。

 昼食を運んで来てくれたのはアリーセで、その夕餉には、レモン入りの紅茶をくれた。礼を言う間くらいは与えてくれるものの、彼女は目配せだけしてすぐに退出する。

 ……アリーセはよく理解している。


 謹慎二日目、朝の支度に訪れたのはアリーセで、そのため一つ頼み事をしてみることにした。

 昨日過ごして思ったのだが、言うまでもなく、この状況は退屈でしかない。食事時に仕え人が来てくれる他は、誰とも話すことがないなど。

 ……実は、本の表をイングリットに託してある。数冊でよいから、寄越してくれぬか、とな。

「かしこまりました」

 アリーセは微笑んでうなずいた。

 昼前に掃除だと入って来たモニカは、やはり窓も戸も開け放してしまったので、笑わされた。しかし長居はするなと釘を刺されたそうで、不満そうにしながら短く切り上げていった。

 ……カスパーと上手くやっているのやら。

 その昼に来てくれたエーミールは、腕に三冊の本を抱えていて、私は目を丸くした。

 アリーセに頼んだはずだったが。不審に思って問うと、

「アリーセ殿が、僕が行った方が怪しまれないだろうと」

 そうか、と私は受け取って、

「ありがとう。世話をかけたな」

 どれも、表の上部に書いておいたものだ。机の上に置くことにして、落ち着かぬ様子の侍従に笑いかける。

「お前も気がきく。できた仕え人がいて、本当に助かったよ」

 この者たちがいなければ、この日々ももっとつまらなくて、逃げ出したいほどのものになっていたであろうな。

「……」

 だが、エーミールは顔をうつむけて、

「僕は……僕なんかでは、何も」

 何を言う? これほど多くのことをしてくれているのに。

 私は眉をひそめた。傷ついたような声音……。彼に近づいて、見上げる。

「……何か言われたか?」

「! いえ、そのようなことは……!」

 素直さは彼の美点だがな。わかりやすいぞ?

 傷つけさせたか。ふがいない主だな、私は……。

「何と言われたかは知らぬが……。悪いのはお前たちではないのだぞ? 他人の批評などに耳を貸すことはない。お前たちはまこと、よく仕えてくれている」

 そっと手を伸ばして、触れられる位置にある彼の髪をなでた。私の方が年下なのだが……どうも姫たちを思い出す。優しく純真な子だ。

「ヴィン様」

 エーミールは動揺したように目を見開く。私はくすりと笑った。

「もう少しだけ待つのだ。必ず変わる」

 今は忍び耐えよ、というわけだ。

 エーミールはゆっくりとうなずいた。

「はい。……あの、ヴィン様」

 何だ、と答えると、彼は言う。

「僕は、ヴィン様を主とお呼びできて、……光栄だと、思っていますから」

 どういう意味なのか、何となく見当はついたが、あえて聞かずに笑った。

「私もお前のような近侍を持てて幸運だよ、エーミール。頼りにしている」

 はい、と彼は真剣にうなずいた。


 初めて動きがあったのは、その夕刻だった。

 こつん、と澄んだ硬い音が続けてして、私は本から顔を上げて部屋を見回した。戸を叩く音ではない。寝室の方から……窓?

 そろそろと窓に近寄る。特に異変はないが……。窓の外はいつもの、内宮の裏庭だ。

 どこからした? 気のせいか?

 そっと窓を押し開け、そこでようやく、窓枠の下に身をひそめた、白髪を一つにくくった小柄な老人を見出した。

「エッボ!」

 ぽかんとして彼を見つめれば、エッボはにやりと笑む。

「どうやってここに……」

 内宮は後宮と同じ塀に囲まれている。入り口は一つしかないはずだが。

「いや、聞くのは意味がないか。どうしたのだ?」

 密偵と言っていたからな。私の知らぬ抜け道でも使ったのだろう。

 問うと、彼は笑って、

「ほっほ、わしは伝言係ですじゃよ……一の殿下が知らせてほしいとおっしゃいましたでのう」

「兄上が」

 驚いているうちに、老馬番が告げる。

「新しい宰相殿と公爵の選定が済んだそうですじゃ。今しばらくお待ちくだされよ」

 そうか……仕事が早い。兄上は私を気にかけてくださっているのだな……。

「わかった」

 しっかりとうなずく。

「兄上に、感謝をお伝えしてくれるか?」

 エッボは微笑んで、

「承知でございますじゃ。……では」

 と静かに窓を閉め、姿を消す。

 これで上手くゆくとよい。新しい宰相が立派な人物であれば……。

 夜はアリーセがいてくれたが、すぐに独りになる。寝る前の寝室は肌寒くて、ぞくりとした。……早く眠ってしまおう。


 三日目の朝、エーミールが複雑そうな顔で、

「その、モニカ殿が……」

「どうした?」

 首を傾げる。彼は言葉を探しながら、

「あの……かなり大変なことをしていたのが見つかってしまって、侍従長に叱られて、雑用を言いつけられて……今日は参れないと……」

「……まあ、ばれない方がおかしいな。ドロテアか?」

 あんなに派手に開け放っていればな。いくら掃除中だと言っても。

「はい」

 とエーミールはこくこくうなずく。侍従長は怒らせたくないものな。

 モニカには気にするなと伝えてもらうことにして、ソファに座って本の続きを読んだ。

 部屋は静まり返っている。

 アリーセが昼食を寄越したが、動いていないからかあまり腹も空かず、量が少なめでちょうどよいくらいだった。

 食後も机につき、本をめくった……が、少し疲れてきて姿勢をくずした。ひんやりとした木肌に頬をつけて、ちらと背後の部屋に目をやる。

 ずっと使っている気に入りのソファ。金の装飾が少し入った白い壁に、金の額に入った絵が掛けてある。縦長の年代ものの本棚と、この机は赤みがかった木。どれも満足がいっているものだが、見慣れているゆえに、今更よく見ようとも思わん。

 代わりに椅子を立って、絵の前に立った。白い砂浜に小花が咲き、波が打ち寄せている図。ずいぶん前から内宮にある絵らしい。越してきた時、気に入って掛けたのだが、他にはどんな者が見ていただろう。

 私のように海にあこがれていただろうか。それとも、懐かしい思い出を呼び覚ますものとしていただろうか。

 海の青。まだ本当には見たことのない、青。青を好んでいた母上は、海を見たことが数えるほどでもあっただろうか……。

 ……取るに足らぬことばかり考える。

 急な客に備えていつもは閉めておく寝室の戸を開け放しにしておいても、誰も怒りに来ぬさまで。

 独りの時というのは、長いな。待つ時、というべきか。

 少し息苦しいような気がして、小さく咳払いをした。


 風呂の用意に来たはずのアリーセが、手に一枚の封筒を滑り込ませてきた。はっとして見上げると、彼女は薄い青灰の目を細め、

「内緒でございますよ」

 と告げる。

「……ありがとう」

 私は封筒を大事に持ってうなずいた。アリーセの去った後で封筒を裏返すと、ヘマの名がある。

 寝室に引き上げてから、燭台の炎を頼りに手紙を開いた。

『ヴィンへ

 姉様に、そちらの方で動きがあったと聞きました。お前のおかげで、私だけはどうなっているのかよくわかっています。

 この手紙が届くかどうか、わからないけれど、どうしても伝えたいので送るわ。

 今、とても心苦しいです。お前のせいではないというのに、つらいことになってしまったわね。心配だけでどうにかできるわけではないけれど、お前が悲しい思いをしないように祈っています。ヴェントゾと一緒に。

 どうか私のことは心配しないで。私だって、こんなことくらいで気持ちは変わりません。きっとどうにかなると信じているわ。だって、ヴィン、お前は私の見込んだひとだもの。

 もうすぐ姉様がいらっしゃるの。私のことは呼ばないで、嫌になりそう。ここまでしか書けないわ。今すぐこれを出しに行かなくては。

 とにかく、ヴィン、こんなことしかできなくて悔しいですが、ありったけの愛を込めて。

 ここに同封しておくから。

 ヘマ』  

 胸が痛くなるほどに真っ直ぐな言葉。

 私はどう返せばよいのだろう? これほどのものを贈られては、私などの心では足りん。

 悔しいくらいだ。ヘマは本当に正しい。力がなくてこんな約束しか贈れぬことが、悔しい。

 会って触れたかった。直接声を交わして好きだと言いたかった。今は返事の一つも送ることができぬのに。

「……会いたい」

 痛切に思った。焦がれるほどに、ヘマ、貴方に。

 かすれた声を闇に溶かして、ぎゅっと目をつぶった。


 四日目になった。

 朝食の後、また机について別の本をめくっていた。

 それを中断したのは、人の音が近づいてきたからだ。穏やかな調子の男の声と、焦ったような女性の、それに駆けてくる足音もある。

 ……何だ?

 じっとしていると、それらの音は私の部屋の前で止まった。礼儀正しく二度、戸が叩かれる。

「失礼してもよろしいかな?」

 聞きなじみのない声が届いた。誰だ? 兄上でも仕え人でもない男性のようだが、なぜ。

 だが、柔らかな声音をしている。

「どうぞ」

 返すと、取っ手が動き、ゆっくりと戸が開かれた。

 立っていたのは壮年の男。廊下にアリーセとエーミールが戸惑い顔で並んでいるのが見えた。

 男は、波打つ黒髪が白くなってきたのであろう、灰色の髪を短く切ってまとめ、流していた。貴族のものである高襟の衣は白、内に着たものは薄茶でまとめていて、どうやら王宮にふさわしい清潔そうな装いをしている。

 背は高いとは言えず(アリーセより少し高い程度だろうか)、細い体つきをしていたが、堂々と胸を張り、しわのでき始めた顔に優しげな笑みを浮かべて、品のある人と見えた。

 男はにこにこと私を見つめ、

「ヴィンフリート第三王子殿下、でしょうか」

「そうだが……?」

 答えると、彼はさっと貴族式に一礼し、

「突然お邪魔いたしまして、失礼を。私めは第一王子殿下に、新しい宰相にと任命された者でございます」

 私はまじまじと彼を見つめた。

「貴方が?」

 兄上はどうしてこの者を選んだのだ?

 内心首をひねっていると、男は言う。

「ここへ参ったのは、第一王子殿下の命でございます」

 何?

 首を傾げると、男はその深い青をした瞳に、いたずらっぽい光をきらめかせ、

「殿下におかれましては、これから一時いっとき、私と共にハイスレイ公領へいらしていただきたいとの仰せです」

 私は目を丸くした。

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