十二.牢獄の王

 昨夜は、時間に気づいた兄上にすぐに部屋に帰されたので、長く眠った。——そう言いたいところだが、さすがに無理があった。翌日のことを考えては、浅い眠りが訪れていたのに目を覚ましてしまう。それを数回くり返して、やっと眠りに落ちた。

 あげくに朝は早く起きてしまって、カーテンの向こうから、薄曇りの日の灰色の光が、室内に差し込むのを見ていた。エーミールが洗顔用のたらいを持って声をかけに来るのを、寝台から動かずに待っていた。

 支度をしながらも、心臓がいつもより速く打っている気がした。

 長く会っていない。全ての答えを知る者に、会いに行くのだから。そう己をなだめようとしてみたが、上手くはいかなかった。

 平静を装って、あまりしゃべらぬまま食堂に入る。驚いたことに、朝食の席に兄上が座っていた。何かの書類を数枚片手に持って、主の席に座ってらして、こちらに目をやると言う。

「おはよう、ヴィン」

「……おはようございます、兄上」

「着替えたばかりで悪いが、朝餉を終えたら乗馬服に替えておいてくれぬか。馬で行くのでな」

 ぼうっと見ていた私に、軽く重要な命が下される。私ははっとしてうなずいた。

「はい。わかりました」

 自席にしている第三席に着く。すぐに給仕が朝食の皿を運んできてくれた。

 兄上は手早く書類に目を通している。いくらか食べ進めてから、問うた。

「……お仕事は」

 兄上は何事かの分別をしながら、こともなげに言った。

「構わん。どうせおらぬのだから、宰相のせいにしておくがよかろう」

 宰相か……。

 私は眉をしかめ、残りのパンを口に放り込んだ。

 私が食べ終えたのを見るや、兄上は立ち上がって、廊下の方で騎士や侍従たちに指示を出し始める。その横をすり抜けて、一度自室へ戻った。

 モニカに言って乗馬服を出してきてもらう。焦げ茶の、余計な装飾のないもので、外出には向いている。素早く着替え、着ていた服はエーミールに預けた。若い侍従は真面目に受け取っている。

 部屋を出るとカスパーが硬い顔で待機していた。

「お前も来るか」

 尋ねると、

「ヴィン様……」

 カスパーは不安げに私を呼ぶ。

「よいのですか? このような」

「そう言うな」

 私は苦笑して歩き出した。

「国王となられるはずの方のご意向だ——と思って、黙ってついてきてくれ」

 後ろを歩くカスパーは眉を下げてうなずく。

「はい。ヴィン様がよろしいのならば……」

 私はうなずいてみせるだけして、廊下を足早に進んだ。食堂の前の人だかりはすでにいなくなっていたので、内宮の出口を目指す。

 思った通り兄上はいて、どうやら文官二人と話していたらしかったが、私に振り返った。

「ヴィンか。早かったな」

 それから文官たちに向き直り、二、三言交わす。文官たちは一礼して去って行く。

 カスパー、ジーク、その他近衛が三人、それだけが周囲に残った。

「……どうなさるのです?」

 問うと、自身も乗馬服に身を包んだ兄上は、それを差しながら、

「今日のことは文官たちに任せた。馬はエッボが用意してくれている。行こう」

 エッボか。

「彼は大丈夫なのでございますか? このところ忙しそうでしたが」

「ああ……よく見ておるな」

 む?

「エッボには今日の案内役をさせる。それ以外に忙しくさせるわけにはゆかぬな」

 と兄上は言うが、要点を得ぬな。どういうことだ?

 悩むさまの私には気を留めず、兄上はさっさと訓練場の方へ歩んでいく。人数も少なく、地味な乗馬服で、馬番が案内人とはまさにお忍びだ。

 公にはできぬことゆえ、な。

 この国に一つ不文律がある。「咎人とがびとに口はなし」というのがそれを表す言葉。王や貴族や、治める者たちは、罪人つみびとと決まった者の言うことを聞いてはならぬ、というのだ。

 証拠もあり、罪を犯したとわかっている者の弁明を王が聞いて心を動かすほど、愚かしいことはない、という戒めである。もちろん、濡れ衣で捕らわれた者を救えなくともならぬから、弁解を聞くのはそれ用の役人がいる。治者の裁きを請う時、つまりその役人が、その罪人とされる者にどのような刑を与えるべきか主に判断を仰ぐときのみ、治者と咎人の言葉が交わされる。

 そうした掟があるから、こうして兄上——次代の王——が罪人とされている先王に直接話をしに行くなど、本当は言語道断なのだ。

 しかし、父王は役人などに口を割りはしないだろうし、役人も、うわさを信じるならば先王に手ひどい扱いなどはできずにいるようだ。加えて、兄上は答えを、それも確信できる答えを求めている。とすれば、兄上のお力も考えると、直に問うのが最もよいというのが、私と兄上の結論だ。

 兄上にはそうできる権もある。光曜日から地曜日まで(時には聖曜日まで)仕事をしている兄上が突然出かけると言ったせいで、もはや公然の秘密となってしまっているが。

 力といえば、あまり気にしていなかったが……兄上の能力は、母君から継いだものではない。だとすると、父上の力は……多分そうなのだろう。気が重い。

 つらつらと考えていたところに、兄上が言う。

「エッボが何かをもたらしてくれるはずだ。ヴィン、お前も聞いておきなさい」

 ……エッボがどうしたというのだ?

 さらに頭を悩ませる私を連れて、兄上は厩舎へ向かった。その手前で、私だけ来るように、と兵たちを外へ閉め出す。焦り顔のカスパーは、何かを知っているらしいジークに止められた。

 扉を閉めてしまうと厩舎は屋根の方の小さい窓からの光しかなく、案外暗かった。馬たちは身動きしているが、大人しい。

「エッボ」

 兄上が呼んだ。小柄な老人は、足音も立てず暗闇から出て来る。

「お呼びですかな、殿下」

 そして私に目を留め、その目を細めた。

「ほう、これは第三王子殿下も……。よろしいのですかな、第一王子殿下?」

 とうかがうように兄上を見る。兄上はうなずいた。

「もう決めた。……報告してくれ」

 どういうことだ?

 頭の中が疑問符で埋まっている私を置き去りに、兄上とエッボとの間では合意が得られたようで、老馬番——と私が思っていた老人——はうやうやしく一礼する。その動作は老人とは思えぬほど滑らかで、確かに、私もこれまで疑問に思ってはきたものだったが。

「かしこまりました。では、報告を——ヤネッカー候の邸宅で動きがございました」

 何⁉ ヤネッカー候といえば、あの怪しい青年の父親、二の王子を支持する頭目ではないか。あやつもその邸宅へ向かったと聞いている。そこに動きが?

「荷物が運び込まれているようですじゃ。若いのの情報によりますと、食料が大半。別の推測ですと、一部は武器かと」

 武器⁉ まさか、本当に戦でもするつもりか⁉ そこまでの間抜けだったか、あやつは?

 いや、——なぜ、彼がそんなことを知っている?

 衝撃に目を見開く私を、兄上が振り返る。

「ヴィン、落ち着いて聞きなさい」

 無茶をおっしゃるな。

「エッボは、かつての密偵だ。今はその長を務めている……王家直属のな」

 くらりときた。少し前に、どこかで密偵とかいった単語を拾った際、私は一瞬彼のことを思い浮かべはしなかったか。

 うそだろう……。この宮には、ただの伝説だと思っていたことの実在が多すぎる。

「馬番、ではなかったのか?」

 呟くように問うと、エッボは苦笑いのような顔をしながら、

「馬番でございますじゃよ。ずっとそれが夢でございました」

「諜者というのは、技術と、覚悟と、環境とがいる」

 と兄上がつけ足す。

「昔から、ユースフェルト王家にはそうした集団が使えておってな。身寄りのない者を育てる代わりに技術を仕込み、ふさわしい環境に置いたのだ。彼らには忠誠心があり、王は深く信頼してきた」

「 わしはもう引退したはずでしたがのう……」

 エッボはあごひげに手をやってわざとらしく嘆息する。兄上は軽く苦笑いして、

「老齢になった彼らには、地位は低いが王に近い、庭番や馬番といった職が与えられてきた。自らは動かずとも、後継からの情報を集め、王に伝える役割として。……私とて今時密偵が必要になることが起きようとは思ってもみなかったのだ。そう責めないでくれ、エッボ」

 そういうことか。エッボが兄上に非常に近く仕え、それでいてずっと馬番になりたがっていたというのは。

「……驚かせましたかの? すまのうてございますじゃ、殿下。ずっと黙っておりまして」

 エッボが実にすまなそうにこちらをうかがうので、私は首を振った。

「……いや。よいのだ」

 それはエッボが忠実に兄上に仕えてきてくれたという証だから。伝わったのかはわからぬが、エッボは目を伏せる。

「ありがとうございますじゃ」

 兄上はあごに手をやり、考えるような素振りをして、

「しかし、武器か……。何のためだ?」

 と呟く。僭越せんえつながら、とエッボが答えた。

「一の殿下に従う兵が皆、かの領へ赴きましたら、乱を起こすことすらできませんことはあちらも承知のはずですじゃ。牽制のようなものと取るがよろしかろう」

「なるほどな……」

 兄上は苦い顔をする。

 私はそれを見上げていた。あれは何を企んでいる……? 食料というならば、館で食べるものをまかなうためか。武器は抵抗の用意があるという牽制……? どこから持って来たというのだ? ユースフェルトでは久しく戦乱がない。そう安値で手に入るものか?

「よい。……ともかく、出発しよう」

 兄上が顔を上げる。エッボが一礼して馬の用意を始める。私はそっと戸を開いて、騎士たちを安心させてやった。

 門をくぐり、壮年の騎士を先頭に丘を下る。兄上は両脇をジークと若い近衛に固められていて、その次に私とエッボ、カスパーは斜め後ろに控え、もう一人の近衛が最後尾にいる。

 空は灰色だ。前回の遠乗りでは青空が見えていただけに、何とも対照的に映る。

 右手には王都の家々の屋根が見えている。王家がごたついて、民は何を思っているのか。さぞ不安だろう。それでも日々を営んでいる。規則正しい朝昼夕の鐘の音が途絶えた日を、私は知らない。

 台地を下りきると、道は二手に分かれている。左手に行くと王家の墓地がある。都の民たちの墓は、街の向こうの丘にあると聞いた。

 此度は右手の道を行く。登り道の間、前方で兄上たちが道について会話しているのを聞き流しながら、私はエッボに従って馬をなだめてやっていた。

 やはり兄上は乗馬ができる。エッボという素晴らしい先生がいたからか? それとも経験が多いのか。……そういえば兄上の遠乗りについては、多いとも少ないとも聞かぬな。まこと、的確な位置に立つのが上手いお方だ。

 丘の上へ出ると皆一息つき、水筒から水を飲んだりした。背の低い草花が揺れる、美しい丘だ。こんな雰囲気でなければ、もっと。

 再び下りの道を行きながら、余裕が出て来たので風をせき止めてみた。こうすると、風上にいるのはエッボだけで、私の向こうは止めてあり、カスパーたちや兄上たちのところには違う風が流れていることになる。

 秘密の話ができるというわけだ。

「エッボ」

 話しかけるとエッボは馬を寄せてきた。

「さすがだな」

 思わず笑って言うと、エッボは不思議そうにする。

「何ですかの?」

「手綱さばきが。……お前は優しいからな。馬たちに」

 エッボは沈黙する。その小さな背をながめて、言った。

「お前にはきっと、馬番というのは天職だったろう」

「……そうですのう」

 エッボは複雑な声音で答えた。密偵、諜者であるとはどのようなことか、私は知らん。というか、実在も知らなかったのでな。

 だが、心情の複雑であろうことくらいは察せられる。

「……お前はいつからそうだったのだ?」

 問うと、エッボは目線で周囲を差して首を振る。

 そうか、これはわからぬか。ヘマがあまりにもあっさりと、私が風使いで遠くの声が聞こえるということを受け入れるものだから、失念していたな。

 私はくるりと振り返って、

「カスパー、聞こえるか?」

 と大きめの声量で呼んだ。カスパーは首を傾げる。私は微笑んで、何でもないというように首を振った。カスパーは首をひねりつつ、距離を保ってついてくる。

 エッボがいぶかしげにするので、私は風を留めておくのをやめた。急に風が吹き、私とエッボの髪を揺らす。もう一度風を止めると、先ほどの状態が戻ってきた。

 驚いた顔をする老馬番に、くくっと笑う。

「まあ、これが私の風の使い方ということでな。前にも後にも、よほどの大声でない限り届かん」

 エッボは目を見開く。

「兄上はご存じのはずだが……聞かなかったのか」

「いえいえ……そうでございましたか。いや、得心いたしましたじゃ」

 と彼はうなずく。私が黙って小首を傾げていると、エッボはもう一つうなずいて語ってくれた。

「わしは、もう何十年前ですかの……王領の端の、貧しい家の末息子でございました。魔物に襲われて、命は守りましたが畑がやられましての、親は子を諦めたんでございます……昔の話ですじゃ」

 その声は淡々としていたが、優しかった。

「迷い子になっておりましたところを、当時の頭目に拾われましての。技術も住まうところも与えられ……心を捧げました。先々代の老王に。若かったわしは熱心に働きましたよ。先王の御代は、現場に出るというより、一の殿下のおそばに侍っておりましたがのう。何しろ、一の殿下がわしを気に入ってくださったんで、その時の長が許しましたのでね」

 老いた者らしい、過去をいつくしむ声。

「数年前、先の長が病を得まして。先の陛下はわしらとは直接関わりなさらなかったのでね、一の殿下がわしを馬番に指名してくださったのでございます」

 そうか、と私はうなずいた。兄上のエッボに対する信頼は、長い絆の所以であるのだな。

「私は知らなかったな……」

「殿下はずっと後宮にいらっしゃいました故。普通は知らせずにおくものですじゃ」

 後宮の者は、まことものを知らん……。

「そうだな」

「……殿下は、わしがそうと言っても、お変わりになりませんなあ」

 エッボが感心したように言うので、私は小さく吹き出した。

「変わるものか? ……私は驚くというより、いやまあ、驚きはしたが、今はむしろ納得がいったな。お前の動きはいつも老いを感じさせぬから謎だったし、この頃忙しそうだったわけもわからなかったものだから」

 くすくす笑って言うと、エッボは頭をかく。

「それに、跡継ぎがどうのという会話の意味もな」

「……はあ?」

 エッボが目を点にする。

「悪いな。前に、エッボとイグナーツが、馬番の跡継ぎとかいう話をしていたのを聞いてしまったのだ。……あれは、馬番の話ではなかったのだろう?」

 かなり前なので定かではないが。謝りつつ告げると、エッボは困ったように笑んだ。

「やれ、殿下がかようなお力の持ち主でしたとはのう。ええ、密偵の方の跡継ぎを、わしはついに成しませんだ。他のが拾ってきた子を共に育てはしましても、孤児を見てしまうと、他の道も選ばせてやりたいと思ってしまう。……わしがこの道に入ったのは、後悔などしておりませんじゃよ。ですが、わしには誰かの道を決める度胸がございませんで。一人敵地に忍び込む度胸なら、分けてやれるほどありますのにのう」

 と笑う。

「なるほどな」

「イグナーツは……あれは私の拾った子でございます。隣町の孤児でございました。直弟子にするなら最後の機会だった」

 彼は乾いた笑い声をこぼした。

「あの子は戦士になりたいと言いました。ならば密偵には向くまい。それに十を過ぎていて、年も大きゅうございました。仕込むには間に合わん、と言い訳をしまして。結局、馬の技術と体術だけを教え、騎士に仕立て上げました」

 苦笑したようだったが、その笑みには特別なものが混じっているように思えた。

「あの子はわしにとって、弟子というより、息子か孫のようなものですじゃ」

 私は軽く笑った。その想いは、弟子にできなかったと悔やむものではなかろう。

「私にはそのように見えたぞ」

 言うと、エッボはしわの深い顔をもっとしわくちゃにして、破顔してくれた。

 先頭の騎士が速度を落とす。最後の登り道に差しかかっていた。その丘の上には塔が見える。石造りの塔が。

 ——獄の塔。

 王宮には獄屋がない。代わりに、王宮に関わる罪人はそこへ入れられるという。

 ……父王もここにいるのだ。閉じ込められて。

 風を解放した。冷たい風が首筋をなでる。手綱を強く握りしめ、乗った馬に合図した。


 一行が丘を登ると、塔の手前に兵が二人立っていた。兄上が声をかける。私も馬から降り、近づくと、兵は黒い衣をまとっているのが見えた。

 黒は影の色。あるいは、夜空の背景だ。

 目立たぬようにするという意味で、黒の衣は着られる。埋葬を手伝う者たちは、全身を黒におおう。

 差し色に使うことは多くとも、主だった色として歓迎されることはまずない。——そうした黒のベスト。牢獄の監守であるゆえだろうか。

 エッボは馬たちを集めて、

「わしは馬を見とります。……お気をつけて」

 と離れて行く。

 私が遠出に慣れていないからついて来てくれたのかと思っていたが、馬の世話役でもあったのだな。

 私は兄上のすぐ後ろについた。

「……よいか」

 兄上が何か問うと、年かさの方の兵士が答える。

「かしこまりました」

 若い方の兵は、なぜか私をにらむように見下ろしてきた。藁色の髪。背は高いが、まだ若く、隣の兵士よりも低いだろう。

 冷たい視線。私はただ彼を見上げた。その冷たさに答える熱を持たなかったから、ただ。

 すぐに彼はため息を落とし、背を向けた。こちらを振り返って言う。

「……ご案内いたします。よろしいですか」

 私は袖の中でそっと手を握った。……とうとう。

 兄上が答える。

「ああ。案内してくれ」

 見上げた横顔は張り詰めたようで澄んでいて。私はすぐさま、歩き出したその背を添うように追いかけた。

 鉄扉の内側は暗かった。長い廊下の果てに窓が見えるが、両壁のろうそくがついていなければ足もともおぼつかない。それは壁も床も、石でできているからのようだった。

「こちらです」

 階段を上るよう示される。兄上が案内の兵について階段に足をかける。上方の暗さに束の間ためらったが、後を追った。

 壁に手を当てると、石は冷たさを持っている。……秋の冷たさだろうか。石そのものか。あるいは、この闇の。

 背後から近衛たちがついて来る。二階分を上ったと思う。多分三つ目の階だった。踊り場のようになったところには窓があり、昼の明るさを取り入れていたが、その先に続く廊下は薄暗くなっていた。

「この先でございます」

 兵が廊下の先を差す。兄上はそちらを見すえ、言った。

「……お前たちはここで待っていてくれ」

「殿下?」

 壮年の騎士が声を上げる。

「——待っていろ」

 静かに、しかしはっきりと兄上が命じた。私はその横顔を見つめる。その視線が真っ直ぐ、闇を見すえているのを。

「わからぬか」

 静かな叱責に、やはりまず動いたのはジークだった。

「……はっ。かしこまりました」

 少し頭を下げると、他の兵に命じる。

「下がれ。我らはここをお守りするのだ」

 力強い声に、近衛たちが皆姿勢を正す。……なるほど、ジークには能がある。

 笑もうとして、顔が強張っているのに気がついた。

 兄上が廊下へ足を向ける。追おうとしたのを、カスパーの小さい声が止めた。

「ヴィン様」

 私はぽん、とその腕を叩いた。私よりお前が心配そうにしてどうする。

 一瞬だけ笑いかけてみせて、兄上のすぐ後ろに並んで歩き出した。

 薄暗闇に足音が響く。はやろうとする足を、何とか押さえつけて歩くようだった。心臓が鳴る。常とは違う感情に。

 長い壁に一つだけ、明かりがあった。近づくとそれは窓とわかった。だがはめてあるのはガラスでも木板でもなく、鉄格子であった。その内から光がもれているのだ。その少し先には鉄の戸があるようだった。

 兄上がその窓の前へゆっくりと歩いて行って、立つ。その少し後ろに立って、思い切って格子の向こうを見た。

 ……金の巻き毛の人が、椅子に座っていた。それがふいにこちらを見る。口がゆがめられて、開いた。

「……アレクシスか。何をしに来た」

 熱のない、乾いた声だった。ついとその茶の瞳がこちらに向けられて、

「……ヴィンフリート。お前もか」

 かすかに驚きの色がこもる。

 見つめ合った……というよりは、互いにながめ合うようだった。

 ——年を取った、と思った。ほとんど外へ出ておらぬだろう白い肌にしわが刻まれている。影が濃く、それを強調しているためだろうか。長くまともに顔を合わせていなかった。かつての、母上が愛していた、数年前のまだ若い顔の方を無意識に思い浮かべていたのかもしれなかった。……そのどれも違う気もした。

 年齢では、老齢に差しかかるには早い人のはずだ。それなのに、少しやせたように見えるだけで、老いが目立つ。その目だけが鋭さと冷たさをもって、私たちを見ていた。

「久しいな」

 かけられた声に、兄上は黙っている。

「……何をしに来た?」

 その態度も調子も、久しぶりの親子の対面だとはとても思えなかった。……そう見ているだけの私も、同じかもしれぬが。

「問いに来た」

 兄上が敬語を使わず話したので、私は驚いて見上げた。

「……何をだ」

 父王は低く、のどを鳴らすようにして笑った。

「全てのわけを。貴方が何故、借金など作ったのか」

 兄上が言うと、父王は椅子に座り直して、

「……もう答えたはずだがな。金が足りなかったからだ。それ以外に何がある」

 格子の向こうに部屋が見えた。

 広くはあるが、本来の王の居室よりはずいぶんと狭いであろう。床は冷たげな、廊下のものとは違って滑らかな黒の石張りで、地味な格子縞の絨毯が敷いてある。壁は単調な白で塗り固められている。小さい机と小棚が一つづつだけ見て取れた。あとは寝台があるばかり。

 手荒な扱いをされているわけではない。だが、王のものにしては貧相な家具。椅子も動く度に音を立てそうな古いものだ。

 ……退位させられた王。

「何に使うための金か」

 兄上が鋭く言う。

「だから……欲したものに、と」

 わざとらしく呆れたような言をさえぎり、

「何を欲したのか、という話だ」

 兄上が追及する。

「二の王子の一派に、金を流したな」

「……」

 父王は黙して、笑みらしきものを浮かべる。

「確かに王宮には、高価な品々とそれを買った記録が残っていた。調査に当たった者どもは、何と愚かな王だと笑ったものだ。私とてそれらを返済に充てたもの故、踊らされたと言えようが」

 兄上が苦々しげに言う。

 五年。五年前、私はまだ八つかそこらだった。身の回りに増やされていった高級な物品。……それらが消えて、私は異変を知った、というわけか。

 父王は低く笑う。

「売ってしまったのか? ……惜しいことを。芸術の価値あるものを集めたつもりだったがな」

「……ごまかせるとは思われるな」

 兄上は嘆息する。

「少し疑えば、別のところへ金が流れて行ったことなど、容易に見つけ出せた。決定的な証拠を掴むには長くかかったが」

「見つかってしまったのか」

 言って、父王は抑揚のない声音で、

「紛れ込ませておいたというのに」

 それは。

「認めるのだな?」

 兄上が厳しい声で問う。父王は笑っていた。低く、不気味なほどに。

「……あれは何と言っていた?」

「あれ?」

 兄上が眉をひそめる。

「……二の王子のことか」

 私が呟くと、父王はそうだ、と言った。兄上が厳しい顔のまま私を見る。

「……貴方を信奉するようなことを言っておったが」

 と告げてみる。

「そうか」

 父王は笑みをゆがめた。いびつな笑みをして、

「愛いやつよ、のう?」

 私は顔をしかめた。兄上がとがめるように、

「何のためだ。貴方は、あれを王にしたかったというのか」

「いいや」

 ……何?

「あの子がそう望んだからなあ。私は与えてやっただけだ。力を望んだから、権を。富を。可愛いあの子にやったのだ」

 ……何ということを。

 その答えに、私は悟ってしまった。少なくとも、真実の半分は。

 この方の〝愛しい子〟は……あの一人でしかないのだと。

 拳を握った。石床をにらみつける。

 兄上も同じようだった。うつむいたのがわかった。それでも、一つ息を吸うと、顔を上げて言う。

「……父上。貴方は、国を捨てたのだ。わかっているのか」

 私には不思議なほど、落ち着いた声だった。恨むのでも怒るのでもない。

 ……少しだけならわかる気もした。兄上は、かの人を父上と呼んだにも関わらず、むしろそれによって、何かを断ち切ったのかもしれなかった。

「……国?」

 はは、と空虚な笑い声。

「そんなものを欲したことはない。私にはお前もあれも理解できん。それほど玉座が欲しいか」

 その声は私に、とある記録を思い出させた。

 この方は。——まさか、私と同じなのか。

 はっとして見ても、しかし、その表情は不気味な笑みのままだった。

「私はあれとは違う」

 この時初めて、ここで兄上の声に力が宿った。

「貴方とも違う。……私が欲したのは豊かな国だ」

 見上げると、兄上の緑の瞳に、力のある光があった。

「何故ティエビエンの国王と、あのような取り決めを交わしたか」

 静かな問いを兄上が発する。父王はくつくつと笑い続け、

「あの小国の王の意志など知らん。私の話に乗ったのだから、使える限り利用してやろうと思っただけだ」

 ……ああ、この方は。何もかも捨ててしまったのだ。

 うなだれる私と反対に、兄上は矢継ぎ早に言った。

「もう一つ問おう。宰相との間に、何を結んだ」

 はっとして、私も父王を見つめる。かの方は笑みを変えず、

「まだ生きておったか、あの虫けらどもが? 訳にも立たぬ癖に、娘なんぞ送り込んできよって」

 どくん、と心の奥が動揺した。……やはり、という声が頭のどこかでする。

 父王は笑って、

「互いに邪魔はせぬと言い合っただけのこと。お前の方がよく知っておろう?」

 二の王子と同じ茶の瞳が、冷たく私を見る。ぐっと手に力を込めた。

「……わかった」

 兄上が告げる。

「もう聞くこともない。父上、貴方に二度と会うこともないだろう」

 ときびすを返す。

 私は動かなかった。……問わねば。ずっと疑問に思ってきた、父王の真の心。

 兄上にとっては、真実起こったことへの答えが重要だったのだろう。だが、私は。

 ……母上。

「ヴィンフリート」

 兄上が私を呼ぶ。それには答えず、父王をにらんだ。

「父上」

 あえて、そう呼びかける。

「一つお聞かせを」

「……話すことなどあるものか。お前に」

 身動きするので、椅子がぎいと音を立てた。一層冷たくなった声音。……私をどう思っているかなど、もう明らかだ。

「私には聞くべきことがございます。母上に何と答えられたのです」

 幼い頃、父母の仲が密だったころを知っている。父に会う度、母上はこう聞くのだ。

『私を愛していらっしゃる? 愛しい陛下』

 好んだこともない甘ったるいあの声さえも、今はもう聞けない。

「そんなもの、聞く必要があるのか」

 嫌そうに表情を崩した父王に迫った。

「ございます。——お答えください」

 父王はしばらく私をにらんでいたが、やがてあきらめたように呟いた。

「……違う、と。それだけだ」

「では」

 問いを重ねる。これを聞くために、私はここまで兄上について来たのだから。

「誰を愛していらっしゃるのです」

 父王の目が見開かれる。色を失った唇が震えていた。

「——誰、を……」

 形にならぬ返答はかすれた。

 ……ああ。やはりそうだ。

 そっと問いかけた。

「……愛した方がおられたのでしょう。なぜ、その方に誠実であらせられなかった? 国のことを……」

「お前に何がわかる」

 こぼした疑問がさえぎられる。父王は表情を落とした顔でこちらをにらみ、

「兄上も彼女も……お前が何を理解し得るというのだ」

 父王には、幼くして死した兄王子がいたと、その記録には書いてあった。確かにアンドレアス四世は王太子として育ち王となり、四人の妃を迎えたのだ。だがその内実は、父王を今の境遇にまで落とした。

「わかりません」

 私はそう返した。わかりなどしない。私はもっと違う先を目指す。兄上と同じように。

 ふいに思った。私は問いたかったのではない。

 伝えたかったのだ。

「ですが父上、母上は、貴方を愛しておりました」

 言うと、父王は目をすがめる。どう思われたかは、知らん。

「もう何も申しません。おいとまを」

 一礼してきびすを返した。

 兄上と共に廊下を戻る。兄上の手がそっと肩を叩いた。

 振り返りはしなかった。


 兄上も私も無言で塔を下った。騎士たちも話さずについて来た。

 鉄扉を出る。外の空気を吸い込んで、やっと握りしめていた拳をほどいた。

 空を見上げる。重たげな灰色の雲の中、少しだけ晴れ間がのぞいていた。偶然か当然か、ひょっこりと裏から出てきたエッボを兄上が呼ぶ。

「エッボ、用意を。出発しよう」

「はい」

 エッボは答えると、すぐに馬を連れて戻って来た。皆騎乗する。

「行くぞ」

 兄上の号令に従って、一同塔の丘を下り出す。

 今度の隊列は定まっていなかった。エッボが先頭を行っているためかもしれぬが。ジークともう一人の近衛が兄上のすぐ前にいるが、私の周りの若兵どもは後尾にたむろっている。

 たわいない。

 軽く腹を蹴ると、大人しい馬は賢く私の意を汲んで、兵の目の前を抜け出て兄上の隣まで駆けてくれた。ほめるつもりで軽く馬首を叩いてやる。

 兄上はちらりと私を見て、目を細めると、すぐに視線を前方に戻した。その白い面を見上げ、

「……兄上」

 声をかける。

「……少しは役に立ちましたか」

 先王との対面。かの人は確かに答えた。だが、兄上の求めた確証につながっただろうか。

「ああ」

 兄上は短く答える。少し黙って、それから、

「心は定まった。……お前は」

 問われて、言葉を探した。

 兄上の苦悩に触れ、共に父王に会おうと志した。彼の口から、その気持ちを聞きたかった。

 結果は、あっけないほどの別れ。

「私は……もうあの方に問うべきことも、言うべきこともございません」

 例えるならば、そう。

「一つ、果たした……と。そう思います」

 兄上を見上げる。兄上が顔をこちらに向けて、目が合った。

 同じ血はあの男を通してしか引いていない。父だけを同じくする、兄弟。それでも、私の誰より慕う……〝兄上〟。

 ひづめが、一応草を刈って整えてある道を蹴り、丘を下る。そのまま登り坂へ入って行く。

 ぼんやりと景色を見ながら、考えた。

 父王、アンドレアス四世は、エドゥアルト五世の次子に生まれた。しかし兄王子は夭逝し、彼は嫡子として育った。

 正妃にモウェル公女エルヴィラをめとる。これは完全な政略の婚姻で、即位の先年に亡くなった老王エドゥアルト五世の遺言、先代モウェル公との約束に基づくものだった。

 彼が恋していたのは第二妃、ヤスミーンの方だ。しかし、様子を見るに、かの方は王宮になじめなかったのであろう。第二王子が生まれた後、二人の仲がよかったとは言い難かったはずだ。

 そこへ当時の宰相が娘ウルリーケを第三妃として送り込む。若い妃は王に恋をし、第三王子を生す。

 それでもヤスミーン様をあきらめきれなかったのであろう。私が生まれた後、父王は母上とヤスミーン様の双方のもとへ通う。よって第一王女が出生する。

 だがその後、第二妃へのおとないはぱたりと絶える。おそらく何かがあったのだ。その何かを私は知らない。

 入れ替わるように入宮してきた第四妃に父王は手を出した。第二王女が誕生する。

 しかしこれは、むしろカーリン様の方にとって政略でしかない結婚であったようだ。実のところ、カーリン様はアルマをほとんど彼女の手一つで育ててきた。

 子どもらが成長してくるのもあってか、その後父王は後宮にもあまり通わなくなる。

 思えば母上は、ヤスミーン様を恋敵と思い、エルヴィラ様の地位を望み、カーリン様の若さに嫉妬して、いつでも荒れていた。

 それを、私がわがままに育ったことの言い訳にしようとは思わん。他の妃様方の目もあった。姫たちとはよく遊んだ。兄上がいらした時は、姫たちと一緒に遊んでとせがんだものだ。外へ目を向けようとせず、姫たちの真っ直ぐな心を手本にしようともせず、母上の言葉に甘えていたのは、他ならぬ私だ。

 ただ異なったのは、父王と二の王子だ。

 聞いたことから推察するだけだが、父王の愛した人とは、幼い兄王子の思い出と、若き日のヤスミーン様だけなのだろう。

 私と同じ、兄が王になるのだからお前は王子として民を支配しなさい、とだけ言われてきた、王権への欲のない男が王となった。結婚は上手くゆかず、嫡子たる一の王子は正妃が養育をほどこしており、三番目以下の子には興味を示さず。

 手もとに残ったのは、愛しい人の血を受け継ぐ二の王子のみ。同じ目を受け継ぎ、母の容姿も受け継ぎ、力があり欲がある『可愛い我が子』。

 幼い頃から乱暴者の気があり、兄の叱責にも耳を貸さず城下へ飛び出し、勉学をせぬ男。

 失った二の妃との愛の代わりに、これを寵愛した。

 ……そういうことなのだろう。長く壮大な、つまるところこちらにとっては非常に迷惑な、先王のゆがんだ感情による計略の末が、今だ。

 ひどく悲劇的だ。先王も母上も。己ではどうにもならぬ感情と運命に翻弄され、その身を崩した。

 一方で、どうしようもなく腹立たしかった。

 何が感情。何が運命だ。

 私でさえ、幼稚な怒りをぶつけずに生きていくことを覚えた。母上が亡くなって途方に暮れた時に、兄上の手を取ることができた。

 殻に閉じこもって、愛した人を本当に救うにはどうすればよいか考えもせぬなど。

 そうはなりはすまい。私は私の道を選ぶ。私は兄上をお支えする。第三王子であり、宰相家に連なる者であるという点から、できることをする。

 丘の頂上が見えてきた。隣で前方を見ている兄上に、問いかける。

「……いかがなさいます」

 抽象的な問いだったが、兄上はふむ、とうなずいて、

「そうだな。まずは……」

 そこへ、先導していたエッボが振り返った。

「殿下。こちらがよろしかろうと思いますじゃ」

「わかった」

 兄上が返事すると、エッボは道をそれて、頂より少し低いところへと馬を進める。首を傾げると、兄上がふふと笑った。

「この辺りで昼を取ろうという話だ。……時の進みがわからぬ気分だけれど」

 それで、もう七刻は過ぎていようということを思い出した。そう言われると腹が空いているような気もする。

「止まれ。昼食にする。お前たちも休むがよい」

 兄上が命じて、皆馬を降りる。今日は余計な荷などなかったので、敷物はなく、草の上に腰を下ろした。

「……またモニカに怒られそうだ」

 服を汚して、と。

 つい呟くと、兄上が包みを二つ手に持ってやってきて、隣に座る。私に包みを一つ手渡しながら、

「誰のことだ?」

「私の侍女です」

 答え、礼を言って包みを受け取る。兄上はふっと笑った。

「なるほどな」

 包みの中身はふかした芋と小ぶりのパンだった。かぶりつくと柔らかく、味は薄いが空腹には美味い。

「用意がよろしゅうございますね」

 兄上が私の分も持っていたらしいのは、私の乗馬技術がまだまだだと思われているということだろうか。

「料理長に感謝するがよかろう」

「料理長に?」

「知り合いだそうだな」

 えっ、と私は固まった。どこからもれた⁉ カスパーか、いや、誰かに聞かれておったか?

「……私に負けずの早耳でございますね……」

 どこから仕入れてらっしゃるのか。じとりと兄上を見やる。

「まあ大体のことは耳に入る。エッボのような者たちもいてくれる故な」

 くすりと兄上は笑った。全く……この方がからかってくるのは少々厄介だ。

 むっと口を尖らせた私の頭に、兄上はぽんと手を置いて、

「責めるのではないよ。私は直接言葉を交わしたことはない。お前の遊行はなかなかよいな」

 やはりからかっておられるではないか。パンにかぶりついた私に、兄上は微笑む。

「文句も言わず、よく食べる」

「?」

 どういうことだ、と眉をしかめると、

「軍の食事だからな。料理長の味つけがよいとはいえ、嫌がるかと心配したのだが」

 との説明。

「ああ……まあ、私は嫌いなものはほとんどございませんから」

 あやつと違って。

 兄上はどこか嬉しげに小さく笑って、包みをたたむ。

「……早くはございませぬか?」

 問うてみると、その瞳がいたずらっぽく光った。

「私は慣れているからね」

 これは……兄上の習慣については、もっと探りを入れてみる必要がありそうだな。

 それはともかく。私は手を止め、騎士たちが少し離れて食事しているのを見る。彼らもあまりしゃべらぬな。先王が獄にいると確かめてしまっては衝撃だろう。

 まだ時間はあると見た。話を戻す。

「それで、どうなさるのです?」

「そうだな……」

 兄上は視線を遠くへやった。その方角には、王宮を囲む他の丘が見えている。しばらくそちらを見やってから、こちらへ目を戻した。

「やはり、まずは宰相を何とかせねば。宰相さえ手のものとすれば、会議も、貴族をまとめることも、ずっと容易くなる」

 まずはそれか。

 今、真実は私と兄上の間で共有された。

 先王が、借りた金を第二王子の一派へ流した。どうやら二の王子の側は、その資金を使ってか、食料と武器を集めている。宰相は、先王と互いにじゃまをせぬという約定を結んだ。先王の目的は達せられたが、道半ばで投獄された。となれば、問題は宰相なのだ。

 宰相の目的は。

 ……私は知っている。簡単なことだ、国王選定会議でのあの発言。なぜハイスレイ公は母上を妃とした。王家のうちに、己の血を引く駒を作るためか。……それだけではないだろう。

 だが、私はやつらの思惑などに乗ってやる気はない。

 パンを飲み込んで、さらに問うた。

「では、第二王子についてはどうなさるのです?」

「まだ決めておらん」

 と兄上は言うのだが、腕を組んで、

「……地祭月の一日には、向かう。絶対に何かを仕掛けてくる。こちらも仕掛けをしておくべきだ」

 と低く続けた。

「民の命を奪わせはせん……そこを、利用を」

 なるほど、と私はうなずく。

 二の王子の言を信じれば、兄上が地祭月の一日に星の丘へやつに会いに行かねば、人死にが起こる。ならば逆手に取り、策に乗るふりをして罠を仕掛けておくということか。

 では、と考えて、ぞっとした。兄上の力……兄上は、あやつの言を信じているのだ。それは従わねば人命も奪うというやつの意志が、本物だということを意味する。

 ……いや。

 私は軽く頭を振って、その怯えを追い払おうとした。

 何にしろ、やるべきことは変わらん。私のできること、すべきことは一つだけだ。

「兄上、宰相に関しては、従わせるより、新たな任命を考えるがよいかと思われます」

 言ったとたん、兄上が表情を変えた。

「ヴィン。……何を企んでいる」

 このようなかすかな不審も見破られるか。ぱくりとパンを食んだ。口を動かす。

「……ヴィン」

 兄上が呆れたように私を呼ぶ。まあ、尋問されているのに食事を続ける者などそうおらぬだろうからな。私のことだが。

 飲み込み、包みをくしゃりとつぶした。

「人聞きの悪い、企むなど。兄上、私は貴方様のため以外には働きませぬぞ?」

 笑って言うと、兄上は変な顔をする。何ですかその顔は。

 心の中で吹き出しつつ、ずいと兄上に近づいた。

「それとも、お忘れか?」

 兄上はじっと私を見つめた。私は微笑んで見上げる。

 むう、とうなって、

「わかった」

 兄上は諦めたように肩を落とした。

「であれば、私を困らせるようなことはしてくれるなよ」

「困らせはするかもしれませぬな」

 ちょっとしたいたずら心が湧いて、言ってみる。

「私は姫たちほど聡くはありませぬから。そうでしょう?」

 兄上が眉をしかめながらも笑んだ。

「仕方のない子だ」

 雑なくらいに私の髪をなぜると、立ち上がる。騎士たちがすぐに続いて立ち上がった。兄上が言う。

「行けるか? そろそろ戻ろう」

 そこから王宮までは、行きとほとんど変わらぬ列を組んだ。エッボは休憩場所を見つける役でもあったのだろうか。


 兄上らしいというかエッボの教育というか、馬をきっちりと厩舎へ戻してから王宮に入った。

 兄上は執務室へ直行した。私もついてゆく。ベンノや、書類整理をしていたらしい文官が、兄上の姿を認めて顔を輝かせる。そこへ、兄上が問いを投げ込んだ。

「宰相は?」

 場にいた者たちは顔を見合わせる。文官の一人が答えた。

「おりません。少し前から病と」

「いかがなさいました?」

 別の一人が不安げに聞く。

「問わねばならぬことができた」

 兄上は深い声で告げた。

「宰相を呼べ。今すぐにだ。……やってくれるか?」

 ひたと若い文官を見つめると、彼は飛び上がって、はいっ、と駆け出して行く。よし、と私は胸中に呟いた。

 兄上は振り返ると、近衛たちに休むよう言い、

「ヴィンも、今日は下がりなさい。遠出して疲れたろう」

 と言ってくれる。

「では、ありがたく」

 一礼して、内宮へと向かった。ついてきてくれるカスパーに告げる。

「お前も休むとよい。代わりに一人、近衛を寄越してくれるか? 後で少し出るから」

 カスパーは首を振った。

「寄越すまでもありません。半刻待っていただければ、お迎えに上がります」

「……よいのか?」

 最近は交代が容易になったようだが、カスパーを働かせすぎているように思う。眉をひそめて聞くと、カスパーは、

「その代わり、私が参上するまで待っていてください」

 と注意するように言った。

「……私を何だと思っているのだ」

 いたずら者か何かだとでも思っていやせぬだろうな。

「ヴィン様」

 が、それにカスパーは心配そうな声音で答える。

「何を考えてらっしゃるのです。私は貴方様をお守りする騎士ですよ」

 全く、聡いやつはこれだから。

 ため息をついてみせる。彼を見上げ、挑戦的に笑った。

「私を危険な目に遭わせたくないのなら、黙ってついてくるのだな」

 カスパーは顔をしかめる。私はさっと廊下を曲がった。騎士の声が追いかけてくる。

「ちゃんと待っていらしてくださいね!」

 ああ、となおざりに答えて、部屋へ戻った。

 乗馬服を脱ぎ、衣一枚になって寝台へ倒れ込む。しばらく、呼吸だけを聞いていた。そうして計画を考えた。

 兄上が宰相を呼び出した。最初は逃げようとしても、きっと王宮へ来るだろう。その時に……。

 起き上がって呼び鈴を鳴らす。すぐに戸が叩かれて、エーミールが入ってきた。

「早いな」

 笑いかけると、エーミールは恥ずかしげに、

「ご用は何でしょうか?」

「着替えを持ってきてくれるか」

 乗馬服を差して告げる。エーミールは一礼して、すぐに用を果たした。

「ありがとう」

 言うと、少年は嬉しそうに笑みを浮かべ、退室する。……彼のような子だったら、寵愛もわかるというものを。

 平服に着替え、カスパーを待つ。予定通りの時刻に彼は現れた。

「私の配下は優秀だな」

 言うと、カスパーは首を傾げて、

「何です?」

「こちらの話だ」

 くくっ、と笑って歩き出す。内宮を出て、右方面に転じる。少し回廊を歩き、複雑になった通路へ入る。どこへ向かっているかがあらわになるにしたがって、カスパーが顔色を変えた。

「ヴィン様」

「——黙って従え。と、言ったろう?」

 騎士は言葉を飲み込むようにして口をつぐむ。

 角を曲がる。細長い廊下の向こうから、風が通って声を伝えた。それを引き寄せる。

「——だそうだ。殿下も無茶をなさる」

「では、先王陛下は正しく第二王子を……」

 それぞれ金と焦げ茶の髪を持つ騎士団長の声であった。

「そのようです……」

 小さくもう一人、男の声が聞こえる。

「待て。では、第三王子殿下は、宰相の件については……?」

 とバルタザールの声。

「何もおっしゃらなかったというのか?」

 ヘンドリックが厳しい声で、彼の疑問を引き継ぐ。

「そのように見受けられましたが……」

 まだ新前の騎士らしい。男の声は気が引けている。今日の近衛に若いのがいたな。

 彼は思い出したようにつけ足す。

「あ、ですが、一の殿下に、宰相の任命を考えた方がよいとおっしゃっていました」

「何?」

 ヘンドリックが渋い声を出す。

「……第三王子殿下は、今の宰相に反対であらせられるのか?」

 バルタザールの呟き。私は足を速めた。残りの距離を一息に詰める。

 一つの戸が細く開いていた。横の小さい看板には、『騎士団長室』の文字。

「ええい、埒が明かん。もっと詳しく思い出せぬのか」

「他には? 何か話されていなかったか?」

「いえ、ええと、その」

 団長が揃って若兵に詰め寄っておるわ。

 込み上げた笑いは抑え込んで、靴音高く戸の前に止まる。鋭く二度、戸を叩いた。ぴたりと声がやむ。

 返事は待たず、私は勢いよく戸を押し開いた。

「——その通りだ。斥候の質はよくなくとも推測は悪くないようだな、バルタザール」

「第三王子殿下⁉」

 兵とヘンドリックが仰天した声を上げる。

「……殿下」

 バルタザールは呆然と私を見つめた。

「じゃまするぞ」

 ずかずかと室内へ入って行って、執務机の前に立つ。座っていたヘンドリックは慌てて立ち上がろうとしながら、

「しっ、失礼を、殿下……! いえ、これはですね」

「よい」

 片手を上げてそれを留める。

「お前たちが兄上に忠誠を捧げているためのことならば、とがめる道理はなかろう……いや」

 指をあごに当て、ふっと笑んでみせる。

「それとも、これを盾に従ってもらおうか」

 ヘンドリックと若い騎士がぎょっとした顔をする。この程度の演技でな。くすりとして、バルタザールを見やる。

 長い茶の髪の騎士団長は硬い顔で、

「……おやめください。私どもは王家にお仕えする騎士。殿下の御命にならば、喜んで従いましょう」

「ほう」

 私は小首を傾げてみせる。

「それは、諸侯の決定に反意ある者よりも、正統な次王である一の兄上やかの方に仕える私に従う、ということに違いないのであろうな?」

 騎士たちのまとう雰囲気が変わる。空気が鋭く引き締まった。

「当たり前のことでございます。何故そのような……」

 ヘンドリックが戸惑い気味に言う。素直なやつだ。

 バルタザールは眉をひそめて、問う。

「……どういう意味でございますか」

 私は彼らを見すえ、言い放った。

「——お前の兵を寄越せ、バルタザール。一部で構わん」

 王宮騎士団の兵を。

「今後常に私の身の回りを見張っていろ、と命じるだけでよい。ただし、常に、だ。私が王宮にいる間中、気を抜くことは許さん」

 言って、ヘンドリックにも向き直り、

「ヘンドリックも、私の警護につかせる近衛がいれば、そう言い含めておくのだ」

 団長二人は目をまたたかせ、

「警備を厳重にせよ、ということであらせられるか?」

「強化というだけならば、すぐにでもいたしますが……。一体何故です?」

「さてな」

 私はとぼけてみせた。

「杞憂に終わるかもしれぬし、必要になるかもしれん」

 二人はいぶかしげに目を見交わす。

「ああ、それと、兄上には言わないでおいてくれ」

「はい?」

 疑問形の返事に微笑んで、

「休めと言われて下がったのにここへ来たと知れたら、兄上に苦言を呈せなくなってしまうのでな」

 これも理由の一つゆえ、構わぬだろう。

「では、よろしく頼むぞ」

 ぽかんとしている一同に背を向け、廊下へ出る。

 容易いことだったな。ふふん、私が計画を他者へもらすわけがないではないか。

 控えていたカスパーは、例に見ない顔をしていた。軽くその腕を叩く。

「聞いておったな? しっかりやるのだぞ、お前も」

「ヴィン様……」

 カスパーは困惑したような声で問うた。

「何を考えていらっしゃるのです」

 言うはずがなかろう。私の考えが伝わりでもしたら、困る。

 代わりにこう告げた。

「手を打っておくというのは、いつでも大事だぞ、カスパー」

「はあ……?」

 カスパーは煮え切らぬ返事をする。それ以上は言わず、内宮への道を戻った。


 部屋の戸を開けると、モニカが立っていた。

「ヴィン様」

 微笑んでいるのだが、細められた目の奥の瞳が笑っていない。まずい、予想が当たってしまった。

「わたくし、申し上げましたわよね。地面にお座りになる時は、ズボンに気をつけてくださいませ、と」

 これは……素直に謝る以外の手がない。

「すまなかった」

 ものの数瞬で降伏を宣言する。もう、とモニカは若い娘らしく怒って、

「反省していらっしゃいますね?」

「反省している」

 本当だから。気をつけようとは思っていたのだが、気にする前に腰を下ろしてしまっただけだ。

 と目でうったえかける。

「仕方ありませんわね」

 とモニカは笑った。

「次は気をつけてくださいませ」

 ああ、とこくりとうなずくと、モニカは侍女用の白い前掛けから手紙を取り出した。

「それでは、こちらを。巫女殿からお手紙がありましたよ」

 ヘマから? そういえば、手紙を出していたな。ヘマも向こうに帰り着いたのか。

 封筒を受け取ると、いつものヘマの筆記で私の名がつづられていた。

「ありがとう」

「いいえ。ごゆっくりお休みください」

 モニカは今度は優しく笑んで、退出していく。

 モニカも私を叱るのに遠慮がないことだな。悪くない。母上と使用人たちを叱りつけていた頃より、今の、すぐに叱ってくれるほどの近しさが、居心地がよい。

 机の椅子を引いて座り、小刀を手に取って封を切った。ヘマの美しく流れる文字で埋まった手紙が出てくる。たたまれていたそれを開いた。

『親愛なるヴィン

 見つかってしまったのね、しおり。こんなに早いとは思わなかったわ!

 気に入ってくれたようで嬉しいです。あの三つは、国境の街の革製品の店で、手土産にと思って選んだものなのです。名前も入れてもらったの。ちゃんと考えて選んだのですからね。

 ぜひ、本を読む時に使ってください。

 そうそう、勇者アルトゥールの話ね。これも会って話そうと思っていたのですけれど。やはり時間が足りないわ。

 お前はアストリッド姫との出会いの場面が好きなのですって? 私もそこは好きですよ。海辺の二人は想像するととてもすてきです。でも、一番の気に入りは、アルトゥールの宣言のところよ。王としての覚悟も夢も込められていて、読んでいてわくわくするもの。

 お前たちユースフェルト人は、寝物語に彼の話を聞くのでしょうか? 私はティエビダの詩を聞いて育ったわ。他の国ではどうなのか、どうも気になるのです。

 ヴィンと出会ってから、隣国の話を聞くのがもっと好きになったわ。それでも、やはり直接会って話したいものです。今の情勢では姉様が許してくださらないでしょうけれど。滞在できる時間が短すぎるわ。

 不満なので、手紙を長くしようかと試みることにしたところです。質問もしますね。

 今度兄様の誕生日があるのです。お前のところでは、男性の方にはどんな贈り物をするのです? それとも、祝いの会を開くのかしら?

 かなり切実な質問ですよ。そういうことで、早い返事を待ち望んでいるわ。

 心を込めて     

 ヘマ』   

 ふふ、と笑って、『心を込めて』と書かれた一文を指でなぞる。同じあいさつを返してくれるのだな。彼女のそれに、私は未だ答えられていないというのに。

 ヘマの手紙はやはりおもしろい。こちらを楽しませようとして書いてくれているのが伝わってくる。

 それに、心情はいつでも率直につづられている。もっと話したいと、余計な飾りの一つもなく言ってくれる。

 ……ああ、ヘマ!

 私がこれからしようとしていることは、彼女を悲しませやしまいか? 私の方は強い気持ちがあっても、運命はそれを許してくれぬこともある。

 だが、それでも。

 彼女が王としてのアルトゥールを応援しているように、私の次代の王に対する気持ちを、わかってくれるなら。

 そっと手紙を机に置いた。

 見つめているうちに、視界がぼやけてゆく。それを抑えようと唇を引き結んで、机の上の両腕に顔を乗せた。

 ……私は望まれない子だ。父王が私を望んだことなどない。母上が、父の子でなく、従順でもない私だったとしたら、望まなかっただろうというのと同じように。

 そうして、臣下たちにとっては、取るに足りぬ存在なのに目障りな、三番目になる。

 けれど、兄上は必要だと言ってくださった。ヘマは恋を教えてくれた。好きという気持ちを返してくれた。

 アリーセも、モニカも、カスパーも、侍従長も、騎士たちも……、こんな私に仕え、支えてくれる者たちもいる。

 彼らのためになるならば、私が、私にしかできぬことをやらないでおく道理はなかろう。

 ……だから、私は。

 宰相どもを、捕らえる。

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