十一.内緒話

 次の朝食の席に、エルヴィラ様も兄上も現れなかった。

 私は兄上に直接話を聞きに行くことにした。朝から何となくざわついた空気の内宮を出る。

 私の近衛は眠たげにあくびを隠していた。昨夜は遅かったろうゆえ、許すが。

 執務室前の円形になった廊下に着くと、戸をベンノが守っているのが見えた。

「ベンノ」

 声をかけると、若い王宮騎士は驚いて喜び、それから困った顔をした。くるくると表情が変わるやつだ。

「第三王子殿下! 申し訳ございません、只今ここは閉め切りと第一王子殿下が」

「そうか……」

 会議中のようだな。予想通りではある。

 ではどうしようか。執務室に入れぬのでは、地曜日とはいえ、資料室に行って勉強もできぬゆえ、な?

「また昼頃にうかがう、と兄上にお伝えしてくれぬか?」

 言うとベンノは真摯にうなずいた。

「わかりました。お伝えします」

 ではな、と来た道を引き返す。

「どうなさるのです?」

 カスパーが問うてくるのに、にやりとして返した。

「動けぬならば、できることはしてしまおうかと、な」

 部屋に戻り、机に着く。

 主が急に帰ったせいで雑事を中断した(私は構わんとは言ったのだが)モニカは、カスパーと廊下で会話している。付き合っておるのかそうでないのか、気配り屋のあの二人では婚約発表はいつになることやら。

 机上に広げたのは上等の紙。一週間以上ぶりに、ヘマに手紙を出すことにしよう。

『親愛なるヘマ

 ヴェントゾは無事に帰り着いたか? 本当に急なことになってしまって、すまぬ。あの時は動転していて、十分な食料も与えてやれなかったゆえ、腹を空かせていないといいが。

 第二王子のことで、危険があるかもしれぬと思った私の勘は当たってしまった。彼を危ない目に遭わせず済んだことだけはよかったけれども。』

 あやつが一の兄上を王と認めず、人命を盾にとって逃亡したのだということを簡単に記す。

『こうしたことで、そちらに混乱がないとよいのだが。貴方とヴェントゾたちが安全であることを願う。』

 ふと気づいたのは、ティエビエンの王にとっても、ほとんど秘密裏に貸した金が大きな問題になっているのは醜聞なのではないかということだ。それだから、王女がこちらを訪ねるようなことを許しているのであろうが。

『貴方の方ではどうだ、ヘマ? また質問を再開しようか。浮かない話をしてしまったから、楽しい質問でも。

 夜会では王家の者は正装をまとうし、皆華やかな装いをしていて見ごたえがあった。私の正装は珍しい青でしつらえてあるのだよ。いつか貴方にも見せよう。

 ヘマはよく白や灰のドレスを着ているが、こだわりなどはあるのか? また貴方の美しい姿もお目にかかりたいものだ。』

 ……手紙ならあっさりと言えるのだがな。ヘマの本当に美麗な姿を目の当たりにすると、美しいよ、と伝えるのが気恥ずかしくなってしまうのはなぜだろう?

 また結びの部分で筆が止まった。

 だから、愛などとそうあっさりと書けるか、あっさりと!

 結局、返事を待っているとだけ書いた。恋心というのは厄介なものだ。人のことを笑えん。


 封筒を持って郵便官を訪ね、書棟の前を通って戻る。文官たちの間でも噂が広がっているようだ。声は拾わなかった。どうせ話されていることは一つだ。

 運のよいことに、今度は執務室の扉は開かれていた。

 兄上は執務室の卓に腰を下ろしていた。卓の前にジークが立っている。大窓からの光を受けて端正な顔に影が落ち、その表情はうかがえぬが、兄上は硬い顔をしていると見えた。

 大変なことになった、と、その時ようやくわかった。一の兄上でさえもここまで動揺する。

 時が解決してくれるならどんなによいだろう。これは我らが向かってゆかねば、決して解決できぬ問題だ。

 ……今の兄上に事を強いるのは気が進まぬが、兄上が苦労しているならなおのこと、私は己の責を果たさねば。

 ベンノが通してくれたので、遠慮なく卓まで歩む。

「兄上」

 かけた声に、兄上はゆっくりと顔を上げた。

「……ヴィンか。どうした?」

「少しお時間をいただけますか」

 言うと、少し考えて、

「もうすぐ昼だ。そこへ掛けなさい」

 と机の横の椅子を示される。

 いつものようにそこに座ると、すぐに侍従が昼食のパンを持って現れ、兄上に食べなさい、と手振りで言われた。しばらく無言で咀嚼する。

 兄上の顔を見つめた。あまり眠られていないのではないか。石膏像のように白い肌が、少し青白く見える。パンの欠片を飲み込んで、尋ねた。

「……二の王子の処遇について聞いても? ジルケに約束したのです。情報を伝えて安心させてやると」

 兄上は何か考えるように目を泳がせてから、こちらに目を向けた。その緑の瞳が明と暗をないまぜにしたような色合いをしていて、束の間息がつまる。

「そうだな……。一晩では十分な情報もないが、あれはどうもヤネッカー候の邸宅に向かったようだ。何かを隠しているのは間違いない。何か、といっても、例の金の使い道、何故地祭月の一日を指定したのか……星というならば説明はつくが、本当に使う気か……夜会での発言の意図は何か……」

 やつの不可解な行動を上げ連ね、嘆息する。

「といったところだな。調査せぬことには始まらん。あれの動向と、魔法について調べる者を派遣した」

「魔法?」

 何の魔法だ? 問うと、兄上は深刻な顔でうなずいた。

「一人の命を奪う、とあれが言ったことだ。虚言かどうかもわからぬまま行動はできまい。大広間に魔法がかけられておったのか、あれ自身が剣にものを言わす気であったのか、いずれにしてもはっきりせぬままでは人命が失われるかもしれん」

 そうか……! ただの脅しと思っていた。根拠がないとは限らぬのだ。何かしかけがあったのかもしれん。

 何も言えずにうなずく。

「ヤスミーン様は一度、あれと会っていたはずだ。何か不審なところがなかったか、お話を伺いたいのだが……私では余計な心配をさせてしまうかもしれぬし……」

 兄上の能力は、相手がうそをついているか見抜く力だからな。それを知る者がこうした話をされるとなると、尋問されるように思えてしまうかもしれぬ、というのはある……なるほど。

「私がうかがって参りましょう」

 言えば、兄上は思った通り眉をしかめる。

「しかし、ヴィン……」

 お優しい方だ。お一人では成せぬこともある。そうしたことを私ができるならば、率先して手を挙げるべきだ、と私は思っている。

「私ではうそも見抜けませぬし、政における信頼も寄せられませぬでしょう。ですがそれゆえに、安心して伝えられるものもあるかもしれません。話を聞くくらいならできましょう」

 兄上を見上げ、言いつのる。

「だが」

「兄上、私は貴方様の後宮との連絡係でございますよ?」

 それでも渋る兄上に、微笑んでみせた。

「ジルケとの約束もありますから。行って参ります」

 さらに言って、やっと兄上をうなずかせた。わかった、と苦笑される。

「よろしく頼む、ヴィンフリート」


 執務室を辞し、廊下を歩きつつ考える。

 これだけの情報を手土産に訪ねるのでは、なぐさめにもなりようがないな……うむ。

「カスパー、ここで少し待っておれ」

「はい? どうなさったのです」

「料理長に会ってくるのでな!」

「料理長? いつお知り合いになったのですか⁉ ヴィン様!」

 慌てるカスパーを裏大路に置いて、厨房の裏へ駆ける。わずかに開いた戸をそっとのぞくと、今日はやはり少しばかり運がよいらしく、料理長の藍の目と目が合った。

「坊ちゃんじゃありませんか。どうしたんです?」

 料理長は恰幅のいい体を揺らして歩いてくると、心配そうに言った。

「そういえば、少し前からちびの姿が見えんのです。何かご存じじゃあありませんか」

「そう、今日はそのことで来たのだ」

 としっかりうなずき、私はことの次第をかなり省略してだが、伝えた。約束の一月が経ったので、彼は主人のもとへ帰っていったのだと。

「貴方に別れのあいさつをさせてやれなかったな。すまないことをした」

 謝ると、気のいい料理長は微笑んで首を振る。

「いやいや、いいんですよ。ちびが無事と聞けて安心しました」

 私は軽く頭を下げた。この世にはこんなに、身分がどうだろうと尊敬できる人がいるというのに、位ばかり高い馬鹿の多いことよ。

「重ねてすまぬが、もう一つ頼めるか?」

 尋ねると、料理長はにこにこと受け合ってくれる。

 ……というわけで、砂糖がけのクッキーと、最近の私の自分勝手に慣れてきてしまったと呆れ顔のカスパーを手に入れ、私は後宮へ向かった。


 後宮は静けさの中にあった。来訪を告げると、何と出迎えたのは侍従長で、抑えた声で言う。

「第二妃様が今朝、体調を崩されまして……。王女殿下方をお見舞いくださいませ」

 ヤスミーン様が。……無理は言えぬな。使命よりは人身であろう。

「わかった。姫たちはどうだ?」

「第一王女殿下は母君に付き添ってらっしゃいます。二の姫様もお二人を心配して……」

「そうか……」

 後宮は閉ざされておるゆえな。何も聞かされぬままでは心労もつのるだろう。

 侍従長に案内され、白の間で待っていると、姫たちが転がり込んできた。

「あにうえさまー!」

 アルマが膝に飛びついてくる。

「元気そうだな、アルマ」

 その頭をなでてやって、後から入ってきたジルケの方を見やる。

「ジルケは大丈夫か?」

「ええ、お兄様……」

 ジルケは不安そうに胸もとの首飾りをつかむ。あの赤の石……よほど気に入りなのであろうか? 昨夜はせっかくの装いだったのに、惨事になってしまったからな。

「ヤスミーン様はどのようなご様子だ?」

 ジルケはうつむいて、ささやくように答えた。

「お母様は眠っていますわ。きっとおつかれなのでしょう」

「そうだな」

 安心させてやりたくて微笑んだが、上手く笑えた気がしない。かくなる上は物質援助だな。

「二人とも、そちらに座ったらどうだ。よいものを持ってきたから」

「なんですか?」

 アルマが目を輝かせ、姉を引っ張って言う通りにする。かわいらしいクッキーにはジルケも微笑みを浮かべ、私は侍従を呼んで茶の用意を整えてもらった。

 クッキーをつまんで穏やかな時間になったが、カップを一杯空にすると、ジルケは両手を膝に置いて私を見すえた。

「お兄様、どうか教えてくださいまし。ゲレオンお兄様は、一体どうなりましたの?」

 毅然とした口調に胸をつかれる。

 この子は強い子だ……。守ってやりたい私たちをたやすく凌駕するくらいに。

 それでも、スカートをつかむ手は白く血色を失くしている。手を伸ばし、その小さい両手をそっと包んだ。

「まだ確かなことはわかっておらぬのだ。動向を調査している、と一の兄上が言っていた。ヤネッカー侯爵、と言ってわかるか? その者の館へ行ったそうだ」

 ジルケは不審そうに形よい眉をひそめる。

「……ぞんじませんわ。どなたかしら……」

 その薄紫の瞳をのぞき込んで、言い聞かすように告げた。

「ともかく、あやつのためにお前たちが害されることはない。案ずるな」

 ジルケはためらうように、かすかにうなずく。ふいに気づいて、私はちょっと口調を和らげつけ足した。

「それに、何の説明もなく逃げるなど、許されぬからな。必ず真相を聞き出す。だから、それまでお前たちが暗い顔をしていると、我らも困ってしまうぞ」

 ジルケはちらりと私を見上げる。長い焦げ茶の髪が、はらりと頬にかかった。その一房を優しく耳にかけてやり、言う。

「お前が沈んだ顔をしていては、ヤスミーン様もお気持ちが晴れぬぞ。心配するな、我らが何とかする」

 薄紫の目が私を見つめる。それを見つめ返した時、戸の外で足音がして、顔を上げた。

 姿を見せた背の高い人は、戸の枠に手をついて微笑む。

「殿下のおっしゃる通りよ、ジルケ」

「お母様」

 ジルケはぱっと立ち上がり、母君に駆け寄る。ヤスミーン様は幼い娘の頬を細い手で挟んだ。

「そんな顔をしないでちょうだい、可愛い子。大丈夫よ……」

 清らかな声が流れる。

「これから殿下とお話をするわ。少しの間外へ出ていてくれるわね?」

 私はソファの上で姿勢を正した。ヤスミーン様が御自らいらしてくださるとは……。

 はい、とジルケは答えて、こちらを振り返りつつ出て行く。私はアルマに残りのクッキーの袋を持たせた。

「向こうで姉上と、母君にもわけてやりなさい」

 アルマはジャムクッキーで口をもぐもぐさせながら急いでうなずき、飛び出して行った。

 部屋に二人だけが残される。

「どうぞ、そちらに」

 ヤスミーン様に席をすすめ、侍女に新しいカップを出してもらおうとした。

「ヤスミーン様にも、」

 と言いかけたところで、本人に断られてしまう。

「いいえ、構いませんわ。貴方も少し出ておいで」

 と人払いまでされてしまった。ヤスミーン様は対面するソファに腰かけ、重ねた手に目を落とす。

 しばしの沈黙。ゆったりとした服装は、先ほどまで休まれていたのだろうと推測させる。まずはこちらから報告すべきだろう、と私はおずおずと口を開いた。

 調査が行われている、と伝え、もう一つの方にも触れる。

「一の兄上が、あの者にお会いになった時、もしお気づきのことがあればお聞きしたいと」

 それまで静かに耳を傾けていたヤスミーン様は、首を振るような仕草をして、

「ええ、あの子は確かに、わたくしを訪ねましたわ……ですが……」

 再び口を閉ざす。

 ——何かを、隠しておられる。

 勘、ではあったが、この方が言葉を濁すなどめったにないこと。追及せねばならん。

「ヤスミーン様。人の命がかかっております。少しでもお力を貸していただけませぬか」

 身を乗り出して言う。

 ヤスミーン様は何かを言いかけ、すぐに口を閉ざした。思案するように下を向いた後、呟く。

「……ごめんなさい。わたくしには言うことができませんの。わたくしには……」

 それは答えといってよかった。あやつはヤスミーン様に何か言ったのだ。この方の声が震えるようなことを!

「そうでございますか……」

 言ったきり次が続かない。母御をかように怯えさせるとは!

 そう思ったのだが、ヤスミーン様はか細い声でこう言うのだ。

「殿下。わたくしにはあの子を許すことができませんわ」

 違う、と悟った。

 この女性を震えさせているのは怒りなのだ。

「何故……あの子を引っ叩いてでも、叱ることができなかったのでしょう……」

 と、白い手で顔をおおう。

 ああ、この方は強いお方だ。それが動けなんだのは、後宮の者と扱われたゆえであろうか……。

「兄上にお伝えいたします」

 そう言うしかないのが歯がゆい。

「私は使いに過ぎませぬが、兄上をお助けできるよう力を注ぎますから……」

 ヤスミーン様はじっと動かない。一礼して席を立った。責は果たしたのだ、これ以上ヤスミーン様を苦しめたくはない。

 取っ手に手をかけた時、

「殿下」

 呼び止められ、振り返るとヤスミーン様は、決意の表情で告げた。

「一つだけ……謁見の間には、そのような魔法はありませんでした。わたくしが言えるのはこれだけですわ……」

 ヤスミーン様の魔力を感じ取れるお力ならば、うそでない限りそれは確実。

「……わかりました」

 答え、改めて部屋から退出する。戸を閉めるパタン、という音が、やけに寒々しく響いた。


 夕食の後、話したいことがある、と兄上を引き留めた。内宮の居間で、兄上と対面する一人掛けのソファに身を沈める。

「ヤスミーン様にはお会いできたか?」

「はい。体調が思わしくないとのことで、伏せっておられたご様子でしたが、お話をうかがわせてくださいました」

 答えると、兄上は心配そうに眉をひそめたが、ただうなずき続きを促した。どうお伝えすればよいのか……。乾いた唇を湿らせる。

「ヤスミーン様は……わたくしには何もお伝えできぬ、と」

 兄上の目が鋭さを増す。それを押し留めるように、私は言葉を継いだ。

「ただ、大広間にはそのような魔法はないとおっしゃっていました」

 ふむ、と言ったきり、あごに手を当て兄上は何やら考え込んでしまう。その秀麗な横顔をながめ、考えつつ告げた。

「……謁見の間の方の調査はおやめください。それよりもあれの足跡を追うべきでございます。そうすればおのずから手段もわかりましょう」

 あやつが何を以って、一の兄上の即位に反対などしようとしているのか。それさえわかれば封じることもできよう。

 ここにいる者だけでは真の狙いの見当もつかん。我らがあやつに会わずにいた一年半、あるいはもっと長い間、あれは何を考えていた?

「ヤスミーン様は……これ以上のことはおっしゃいますまい。何かを案じておられる。例え兄上が向かわれてもお答えにならないでしょう」

 私の所見だが、兄上はうなずいた。

「そうだな。……ご苦労、ヴィン」

 唐突に立ち上がり、くしゃりと私の髪をなぜると、兄上は王家の間を出て行った。


 手紙が届いたのは翌朝だった。

 聖曜日というのに、兄上は慌ただしく王宮へ出かけた。何があるのやら、と今日とて一人の朝食を取っていると、返事が届けられたのだ。

 自室に戻り封を開ける。

『親愛なるヴィン』と始まったその文は、こちらで起こったことを聞いたと始まり、とんでもないことが書いてあった。

『姉様と兄様がそちらへ赴き、第一王子殿下を直接問い詰めると息巻いているのです。どういうことか、よくは知りませんが、一の君に王となっていただかないと計画が狂うとか何とか……。

 私は止めようとはしたのですよ、ヴィン。ですがやはり、姉様には勝てませんでした。だから馬車に同乗して行くことにしたのです。まあ、私はお前に会いたいだけですが。

 二人の暴走は止めますから、許してくださいね。』

 なぜ当然のように破壊力のある台詞を挟んでくるのだ。会いに来てくれるとは……うむ、こちらの心臓が持たん! おかしいぞ、母上は女性の喜ぶ台詞を言うのが男の役目だと言っておったのに、こちらの方が踊らされているなど。

 ま、よいか。ヘマの考えあってのことなら、私はいかなることも許そう!

 ……というのはおいて。

 これは大事になったな。決して兄上のせいではないが、二の王子の起こしたことさえ兄上が責任を取らねばならぬのか。

 手紙の末尾には、質問への返事。

 白の塔、という名から受ける印象や、己の色から白や灰色を選びがちである、と。確かに似合っているものな。

 ティエビエンの衣装は刺繍に凝るという。旅装をして行くから見せられるだろう、とのことで、楽しみだ。

 返事を書くべきか、と考えながら後宮へ向かう。今日は本来の役目である、聖曜日の訪問なのだが、姫たちの表情は暗い。やはりなぐさめ程度では駄目か……。

 つらく思いながらも、二人の求めに応じて本を読んだりしてやる。その途中に思いついた。

「そういえば、前に、文通をしている方について話したことがあったな」

 ぱたりと本を閉じて言うと、ジルケがうなずく。

「ええ! 白の塔のお方、でしたかしら?」

「二十五日に訪ねてくることになったのだが……」

 それは突然のひらめきだった。が、よい考えのように思われた。

「お前たち、会ってみるか? もちろん、あちらが承知してくれたらだが」

 姫たちは顔を見合わせる。私の方を向くと、その瞳は輝いていた。

「よろしいんですの? ぜひ! お会いしたいです!」

 とジルケが食いついてくる。

「わたしも! おあいしたいです!」

 アルマも姉の真似をして一生懸命に言う。私は笑って二人の頭をなでた。

「では聞いておこう。楽しみにしておれ」

 内宮に戻り、急いで返事をしたためる。

 このところ色々あって、妹姫たちが沈んでいるということ。姫たちと会って気晴らしさせてやってくれぬか、と。後は、 すすめてもらった本を読んだことも書いておくか。

 封をし、手紙を抱えて執務室へ押しかける。兄上はちょうど休憩にしていたところで、この案を話すと、あっさりと承諾してくれた。

「よいだろう。姫たちももう少し外と関わらせてやりたいものだな」

 と。ずっとこもっていると、変化を見いだせず落ち込むものだ。私は内宮に出てそれがわかるようになったが、姫たちにはそれを感じるすべもない。

「それにしても兄上、聖曜日には休まねばなりませんよ」

 苦言を呈したが、兄上は苦い笑みを見せるのみ。

「王女殿下がいらっしゃるのだ、非礼はできぬ」

 それはそうですが、とぶつくさ言っていると、反撃を食らってしまった。

「私が伝えるより先に情報を得ているとはな」

 からかう調子の声。うっと詰まる。

 ヘマとのことをからかわれてはたまらん。退散して手紙を出しに行った。

 返事は早く、そのまた翌朝に来た。

 ヴィンへ、とあいさつは省略して呼ばれる。姫たちのことは了解してくれた。むしろ会いたい、とまで。

 ヘマが心の広い人でよかった。姫たちに会わせられる、しかも元気づけてやれるような外の知り合いなど、ヘマくらいしかおらぬからな……。やれ、私も人脈の狭い。

 ヘマは丁寧にも、本のことまで答えてくれたようだ。本当にかわいいな、この人は。

『セボジャの日誌はおもしろかったでしょう。私も初めて読んだ時は笑ってしまったわ。王女様たちにもお話したらどうかしら。笑うと嫌な気分というのは晴れるものです。もしかすると、あまり笑えない空気なのかもしれないから。

 お前はどの部分が好き? 私は長尾鳥のところです。直接感想を聞くのが待ち遠しいわ。もうすぐ出発ですけれど。

 そうそう、私も本を一冊読み終えたわ。

『ジルヴェスター三世の王冠』です。とうとう突き止めたわ、お前の言う星の謎を!

 答え合わせをさせるのですよ。どうやら直に尋ねるべきことのようですから。

 早くお前に会いたいわ。どちらの話でも!

 心から

 ヘマ』             

……が、最後まで読んで、私は愕然とした。

 何と時機のいい……。そうだな、ヘマにも知らせておくべきだ。彼女は正しい。どちらの意味でも会いたいとは、くすりとしてしまったが。

 何だか、人前に出せぬ話ばかり、この頃している気がするな。



 三日間は表面上、何事もなく過ぎた。文官は会議を繰り返し、衛士たちは警備を強化し、兄上のお顔の色は日増しに悪くなり、宰相が病だとかで参上していないといううわさが聞こえても。

 私のするべきことは変わらない。資料室で新旧の記録を漁り、光曜日までにはそれぞれ引き取って行った第六騎士団の騎士たちのためにがらんとした厩舎を訪ね、エッボに教えを請う。しかしエッボまでもが、これまでにも増して忙しくしている。

 本当に、何もできぬ己が歯がゆい。

 そういう日々だったから、ティエビエンの要人を乗せるための大きな馬車から白い髪の少女が降りてきた時、笑みを抑えきれなかった。先に降りていらした王女殿下とイサアク殿に下げていた頭を上げ、名を呼ぶ。

「ヘマ」

「ヴィン!」

 ヘマは身軽に駆けてくると、私の目の前で立ち止まり、白灰の目で私の目をのぞき込むようにした。

「そこそこ久しぶりに慕う人に会ったら、ユースフェルトでは何と言うのです?」

 私は吹き出した。

「そんな慣用表現は思い当たらぬな。——そこそこ久しぶりだな、と言うのではないか?」

 口もとを袖で隠して、くすくす笑いながら言うと、ヘマもふふふと笑って、

「『引き合わせの強いこと』とティエビエン人は言うのですよ」

 意味を理解すれば、心音が耳に届く。よく巡り合う、引き合っているのだ、とかつての旅の民は言うのであろう。

「……会えて嬉しいぞ、ヘマ」

 照れ笑いなんぞ似合わぬので、あえて上物の笑みを浮かべる。ヘマはさらりと、

「私もよ、ヴィン」

 なぜ私の口説き文句はヘマに三倍ほどにもなって返されるのか誰か教えてくれ。どうしても勝てん。

 言うことに困って口をつぐみ、彼女を見つめていると、横から声がかかった。

「ヴィンフリート殿、今日はヘマをよろしく頼むよ」

 イサアク殿がおもしろがるように言う。

 ……ヘマはお二人に、この関係をどれだけ話してあるのだろうか? 妙な緊張が生まれ、硬くなって一礼した。お二人はヘマの兄姉のような方。己がこのような緊張をする日が来ようとは。

「ご案内、務めさせていただきます。まずは、応接間へお通しします」

 ティエビエン語でのあいさつに、イサアク殿は嬉しげに目を細め、王女殿下——確かペルペトゥア様——も笑む。

「礼儀を知る方ね、ユースフェルトの小さい王子殿下は」

 それがかの方のあいさつ代わりのようだったので、ありがとうございます、と答えて、先頭に立って王宮へ入った。

 やはりティエビエン人も、仲間内ではティエビエン語を話すようだ。戦士という職業柄、固有の言語を持つことで生まれる連帯感が、この特異な言語を保持させたのだろう。それが今に至るまで続いているのは、この外語狂いの身には興味深いし、ありがたい。

 文官たちは嘆くがな。

 ティエビエン語は耳も口もよくは働かぬので、口は挟めず、耳だけ傾けていたのだが、

「——駄目ですよ。姉様は過激なのです。兄様もちゃんと止めなくては」

「でも、ペルペトゥアがね」

「戦いの時と思ってしゃっきりしてください。……戦う相手は姉様の方ですからね?」

「大丈夫よ、ヘマ、わたくしも阿呆ではなくてよ」

「信用ならないのです。この間、ついに城の馬番を辞めさせた原因はどなたです? 国の外で争いだけは起こさないでくださいね」

 ヘマははっきりとものを言うな。

「心配せぬことよ。そうですわよね、殿下?」

 急に話を振られる。私は白い戸の前で足を止め、振り返った。

「どうぞ、お手柔らかに。この事態には、我らも苦しんでおりますゆえ。……こちらでございます」

 戸を叩くと、入れ、と声がある。

 兄上は私たちに微笑んで、下がりなさい、と言ったので私とヘマは戸を離れた。

「……さて。姫たちのもとへ行くか」

 ヘマの方をうかがうと、彼女は笑う。

「ええ。お会いできるのが待ちきれないわ」

 護衛の騎士を二人(カスパーは今日は昼まで非番だ。最近皆働きすぎなのだ)引き連れて廊下を行く。

「内宮に、小さいが趣味のよい一室がある。そこで会うことになっているのだが」

 と話すと、ヘマはうなずいて、

「わかったわ。後宮にいらっしゃる方には、内宮でお会いするのね?」

 私はうなずいた。後宮の者にかけられる制約は、度を超すほどだ。

「後宮に立ち入れる者は、王、王族、家庭教師、後宮専属の使用人たち……くらいのものだからな。友人だろうが親戚だろうが、普通は立ち入ることを許されん。内宮で顔を合わせるのが一般的だな」

「ヴィンは、そういうお友達はいるのですか?」

 ヘマが首を傾げる。

「……」

 私はしばし黙考した。ヘマがいつ訪ねてきても即答で了承するという事実で、納得してはくれぬものかな。

「いや……昔はいたこともあったがな。母御同士が仲良くさせようとするから……しかし父王も、友を呼んだりなどせぬお方だったから、あまり続かなくてな」

 とため息を落とす。

「姫たちもそのような感じだし……」

 返ってきたのは軽やかな笑い声だった。

「ごめんなさい。意地悪な質問をしたわ。……私だってそうです。気を落とさないで」

 私が首を傾げると、彼女は困った笑みをして、

「何でもないのです。私、王女様方のよい話し相手になれるかと、そう思って」

 そういうことか? 私は微笑んで言ってやった。

「何も心配いらない。二人も楽しみにしている。優しくかわいらしい子らだが、外を知らん。会ってやってくれ」

 ヘマの求めるままに、これは何の絵だの、ここは何の部屋だのと解説して、裏大路からすぐの一室に連れてゆく。

 コンコン、と戸を叩き、

「ヴィンフリートだ。入ってよいか?」

 問えば、幼子らしい高い声が答えた。

「どうぞ!」

 戸を内へ開くと、ソファに座っていた二人が立ち上がる。その目をきらきらさせているのに笑って、ヘマを招き入れた。

「どうぞ、姫君。——二人とも、ごあいさつなさい。こちらは白の塔の姫巫女、ヘマ・ガート殿だ」

 姫たちがぱっと顔を輝かせる。

「ヘマ、これは左から、ユースフェルトが第一王女ジルケ、二の王女アルマだ」

 アルマは元気よく——残念ながら優雅の域には達していない——礼をする。

「はじめまして! アルマ・ユースフェルトともうしますっ」

 教師に仕込まれた通りの立派な礼だな。

 ジルケは白い頬を紅潮させて丁寧に頭を下げる。

「初めまして、巫女殿。ユースフェルトが一の王女、ジルケと申します。今日は、来てくださってありがとうございます」

 まあ、とヘマは声を弾ませた。

「お初にお目にかかります、王女様方。私はヘマ・ガートといって、白の塔にて王猫の巫女をしている者です。今日はお招きありがとうございます」

 とにっこり笑う。

「お二人とも、とても素敵なあいさつね。ありがとう」

 実を言うと、私はほっとしていた。三人が笑顔になってくれたこともだが、ヘマがユースフェルト語で相手してくれたことに。まだ幼い姫たちは、ジョルベ語に長けているわけではない。

「よいか、二人とも、ヘマはティエビエンから来たのだから、ゆっくりしたユースフェルト語で話すのだぞ。他国からの客人にはそうするものだ、わかってるな?」

 言い聞かしていると、ヘマがくすりと笑う。

「そうね、そうしてもらえると助かるわ」

 ありがとう、と私は苦笑して、三人と共に席に着いた。菓子皿の乗った低い卓を囲み、ヘマを隣に姫たちと対面する。

「もう食べているではないか」

 皿の上の数を揃えられたはずの菓子がいくつか消えているのを見て、呆れて言った。

「今日はよいが、人が揃うまで手をつけぬことだぞ」

 アルマがぷいと横を向く。

「わたしじゃありませんっ」

「おや、ではジルケか?」

 からかうとぶんぶん首を振る。

「あねうえさまでもありません!」

 ヘマとジルケが吹き出す。

「では、誰がクッキーをさらっていったと?」

 私も笑いをこらえながら問う。

「えっと。……えっと、ようせいではありませんか?」

 ヘマが明るい笑い声を立てた。

「妖精は、」

 と言葉を探しながら言う。

「もうずっと昔のお話ですね。けれど、世界にはいるということですから……今も」

 いたずらっぽい笑みで、こう締めくくる。

「妖精に困らせられないように、気をつけるのが大事ですよ」

「はーい」

 アルマは失敗した、というように、笑いながら首をすくめた。ジルケはその横で口をおおって肩を震わせている。

「よくそんな古い話を思い出せるな」

 私が感心して言うと、

「ティエビダの古い話には、妖精や精霊のいる陸地があると書いてあるのです。大昔には、このトールディルグまで出て、旅をした強者も、いたようなのです」

 とヘマは語ってくれた。姫たちは目を輝かせ、ジルケが興奮気味に尋ねる。

「白の塔には、そんな古い記録までございますの?」

「ええ」

 とヘマはうなずく。

「王猫は、何でも読むものですから。色々な本を集めるのですよ」

「そうやって塔ができましたの?」

「そうよ」

「王ねこって、どんな生きものですか?」

 アルマも勢い込んで聞く。

 話は盛り上がって、白の塔や王猫について、ヘマはたくさんのことを教えてくれていた。

 神秘的な場所は、教師から聞いたり本を読んだりするだけでも心惹かれるから、そこに暮らす者から直接教わるのは、姫たちにとってとてもよい体験だろう。

 私はカップに紅茶を注ぎ足したり、話に茶々を入れたりして三人をながめていた。皆愛らしいから、まこと絵になる。

 王猫の子の話になって、私たちの出会いにまで話が及んだ。

「……それで、ヴィンが、お二人の兄君が助けてくれたのですよ」

「そのあと、どうなったのですか?」

 アルマは興味津々の体だ。

「それが、何と、塔へ連れ帰ろうと思ったら、ええと、飛んで戻ってしまったのです」

「ええ⁉」

「仕方がないので……ヴィンにお世話をお願いして」

 ばっ、と勢いよく二人がこちらを振り向く。おかしくて笑ってしまった。

「そんな、お兄様! なぜ教えてくださいませんの? わたしも子猫に会ってみたいですわ」

「そうです! ひどいです、あにうえさまっ」

 二人の批難に、それを苦笑に変える。なるほどな。

「すまん。そこまでは考えが至らなかった」

 二人がむっとした顔をするので、それぞれの頭にぽん、ぽんと手を置く。

「悪いな。あやつは建物に入るのを嫌がるし、人が来るとすぐ離れていってしまうしで、お前たちに会わせる暇がなかった」

「なかった? ですか?」

 不思議そうにするアルマに、ああ、と答えた。

「そう、もう預かる期間は終わってしまったからな。お返ししたのだ」

 不満げな声を上げる姫たち。その向こうから、ヘマが視線を寄越す。私はかすかに首を振って返した。ヘマが小さくうなずく。

 よかった。ここで二の王子の話は出したくない。

「大丈夫よ。お二人とも、よろしければ、大きくなったら、白の塔へ来てください。そうしたら、子猫たちもお二人に会えるわ。きっとその頃には、子猫も大きくなって、もしかすると普通の猫より大きくなっているかも!」

 とヘマが姫たちをなぐさめてくれる。

「本当ですの? わたし、ぜひ、行きたいです」

 ジルケは嬉しそうに何度もうなずく。が、アルマは頬をふくらましていた。

「あにうえさまばっかり、ずるいですっ」

 どうしたものか、と思っていると、ヘマも頬に指を添えて、

「そうですね……。後で、しようかと思っていたのですけれど」

 とベルトにつけた小さな鞄を開ける。見守っていれば、取り出したのは細長い包み二つ。

「これを、王女様方に」

「よろしいんですの?」

「ありがとうございますっ」

 おずおずと受け取るジルケと、ころっと態度を変えたアルマだが、開けてみると入っていたのは、革製のしおりだった。ジルケのものには、美しい青と緑の羽をした鳥の刺繍。アルマのには白と紅色の糸で模様が入っていた。

「まあ、なんて……ありがとうございます……」

「すてきです!」

 はしゃぐ姫たちに、二人目を見交わして微笑んだ。

「たくさん本を読んで、白の塔にも来てくださいね」

 とヘマ。

 そこで侍従が入ってきて七刻を告げた。姫たちは残念そうな顔をして立ち上がる。

「またお会いできますか、ヘマ殿? お昼はお母様たちと食べるんですの。もうおしまいなんて」

 ジルケが姉らしく代表して尋ねた。ヘマは少しかがんで、小さな姫たちに目線を合わせる。

「もちろんです、ジルケ様。また、ヴィンを訪ねてくると思うのです、その時にも」

 二人はわかりやすく顔を輝かせた。

 それでも名残惜しげに、また、と手を振って去って行く。ヘマは見えなくなるまで手を振ってくれていた。

「ありがとう。ずっと質問攻めにされて、つらくはなかったか?」

 ジョルベ語にして問う。彼女はただ笑った。

「いいえ。お二人とも、本当にかわいらしいのですね。どこへ出したって、誰もがかわいがりたくなるような子らだわ」

「ヘマは優しいな」

「まさか。——気に入ったのですよ、お前と同じように! 私もまたお会いしたいわ、ヴィン、考えておいて」

 ほ、と吐息がもれる。

 嬉しかったのだ。好いた人が、私の大切な者たちをもまた好いてくれたという、そんなことで心がこんなにも浮上する。

 やはりお前の妹君ね、などと言っているヘマに、もちろん考えておく、と答えた。

 別の侍従が入ってきて、菓子の皿を片づけ、昼食のパンを持ってきた。ヘマがぽつりと、

「あのお菓子はどうするのです?」

 私は首を傾げたが、思い当ってうなずいた。

「問題ない。あれは姫たちの気に入りだから、取っておくこともあるし、あるいは料理番のものになるかもしれん。無駄にはなるまい」

「ああ、そうなのですね……ごめんなさい、差し出がましいことを」

 いや、と答えて、その横顔を見つめた。

「ヘマのところではどうしているのだ?」

 ヘマは昼食の膳をにらみながら、

「私のところは、屋敷に料理人が一人いるだけですから……王宮のように何人もは」

「屋敷?」

「ええ、塔のそばに館があって、いつもはそこで寝起きするのです。ねえヴィン、これはどうやって食べればよいのです?」

 へえ、と私は新しい情報にうなずいて、それからヘマの困り顔を解決した。

 皿には野菜を挟んだパンと、小さい器に甘辛い肉のソースが入ったのが乗っている。パンごとソースに浸したり、ソースをかけたりして食べるものだった。

 ヘマはぱくぱくと食べていきつつ、尋ねる。

「これは何という料理ですか? ティエビエンのとは違うわ」

「……はて、名があったか……?」

 ソース付きのパン、と子どもの頃喜んでいた覚えしかない。というとヘマはおかしそうに言う。

「ティエビエン人が何にでも名をつけたがるのか、ユースフェルト人が気にしないのか、気になるところですね」

 お前知っているか、と侍従に問うてみると、彼も戸惑ったようにいいえと答える。お国柄かな。

 昼餉を片づけてもらい、問うた。

「さて……いかがする? 手紙にはああ書いてあったが」

 今度は私が困り顔になる番で、それを見たヘマは微笑んだ。

「セボジャの日誌はまだ持ってる?」

「ああ、手に入れたものだから……」

「一緒に読まない?」

 なるほど? ……そうか。

 私はうなずき、立ち上がった。

「少し待っていてくれるか? 取ってくるから」

 ヘマはいってらっしゃい、という。何だか家族のようなやり取りだな……って何を言っているのだ、私は。

 小走りに部屋へ行って茶がかった緑の表紙の本を持ってきて、企みを告げる。

「庭へ出ぬか? この時期、部屋の中より外で日に当たっている方が心地よくてな、私など夏より庭で過ごしている」

 実際には、外にいてももうヴェントゾは飛んで来ぬと思うと、留まる時間は短くなったりもするが。

「いいですね。参りましょう」

 ヘマは満面の笑みで立ち上がった。本当、頼もしい。

 こちらに、と手を差し出せば、温かい手が重ねられる。並んで歩き、何気ないふうを装って庭へ出た。

「どこへ行くのです?」

「あの辺りの、木の根元でも」

 言うと、ヘマはずっと左側にある長椅子を差す。

「あちらでなくてよいのですか? 私は木が好きですけれど」

 私はその横の少しせり出した王宮の壁を差した。

「あそこに大窓が並んでいるのが見えるか?」

「ええ」

「あれは、王宮で集まりがある時、庭へ出てくる客用の椅子だ。応接間の方に近い」

 つまり、人の多いところで語りたい話とは少し違うのだ。

「——よほどの秘密ね。そんなにひどいのですか?」

「少なくとも、ひどかった、と伝えられている。……こちらへ」

 ヘマの手を引いて、一本の木の根元に腰を下ろす。ヘマが寄り添うように座って、その腕の熱が伝わってきた。こんなにも温もりが近くあるなんて。……心臓の音を聞こえなくできるなら。ずっととくとくと鳴っている。体の内に響く音は、風ではさえぎれぬのが恨めしい。頬まで染まっているだろうことを自覚してしまうではないか。

 ちら、と横に目をやると、白灰の瞳と目が合った。ヘマがふふ、といたずらっぽく笑う。

 ……敵わぬな。

 ヘマの手が伸びてきて、私の手から本を抜き取って広げた。

「これ。この場面、覚えてる?」

 ヘマは本を見せようとしていたが、なぜか手こずっているので、片膝を立てて背のところを乗せた。ありがとう、と微笑んで、彼女は指を頁に滑らす。

「ほら、ここ。せっかく捕まえた長尾鳥の——しかも真っ青の、なのに逃がしてしまうのよね」

 その指先が示す一文にふっと吹き出した。

「全く、かわいそうなことだったな。それにしたってこの悲鳴はないと思うが」

「『ぎゃおん』ですって、彼の方が火吹き鳥ではないからしら?」

 ヘマが芝居がかった口調で言うので、私たちは盛大に笑い出した。

 くすくす笑いながら、

「でも、長尾鳥だって捕らえられているより、大空の方がよいでしょうね」

「青かったから、海と空に溶けてしまったと思った、と。何とも大げさな人物だな」

「そこがおもしろいでしょう?」

 楽しげな声に、うむ、とうなずく。

「彼が船出したのは朱海しゅかいの方だったか?」

「そう聞くわ。酒好きが過ぎて、〝酒海しゅかい〟と呼びたかったとか」

 くつくつ笑っていると、彼女が問うた。

「ヴィンは、海を見たことがある? 船に乗ったことは?」

 いや、と私は首を振る。

「まだないな。いつか見たいものだが……小舟には水遊び程度の覚えがあるが、本当の船はどんなものか」

「そうなのですね……私は、舟の経験はないわ。川の深いところへ遊びに行ったら、おばあ様に叱られたくらいだもの」

 と少し遠い目をして、

「海は、一度だけ。岩渚クイシェの向こうの海を、姉様が見せてくださったのです」

 彼女は見事に話を誘導した。

「あの青く白波が立ち、真夜中には星々の光を映す、あれを星海というのだと」

 彼女の腕に触れない方の左の指を、私はすっと高く上げた。呼べば、風が収束する。風が集まり、私たちの音を消す。

「……そうだ。我らの国の北にある、あの海を星海という」

 静かに言う。隣でヘマが緊張したのがわかった。

「なぜだか、貴方は解いてきたと言ったね」

 ヘマはこくりとうなずく。

「……ええ。『ジルヴェスター三世の王冠』を読んだわ。王は、一の王子に岩渚クイシェへ赴き、星を持ち出せと命じた。王子は星の力で、二の王子相手の戦争に勝った。星が魔法を起こしたと彼らは言っていたわ。三の王子とは賭け事をし、星の導きに従ってこれも勝ったと」

 まじめな顔をして言葉を紡ぐのに、ああ、とあいづちを打つ。

「勇者アルトゥールの物語にも、星は登場していました。ユーザルは星の民、その姫アストリッドは星くずを集める者、〝星の姫〟であったと。星の冠を戴いたから、アルトゥールは王となり、ユースフェルトは星の国の別名を持ったのだと」

 一つ息を吸い、強張った面持ちで言う。

「——星とは、魔力石なのですね?」

 息を詰め、こちらを見つめてくる強い瞳に、うなずいた。

「そうだ」

 ヘマがほう、と息を吐き出す。もたれてきた体温に少し安心しながら、私は語った。

「そもそもの始まりから、答え合わせとしよう。いにしえより、ナベルト山脈とケルジュ山脈に挟まれ、星海に面したこのユースフェルトの地には、ユーザルという民が住んでいた」

「ええ」

「川や海沿いに、石造りの街や城があったという。その王女は代々、巫女と呼ばれていた。ものに言うことを聞かす力があり、勘が鋭く、予知夢を見ることもあった」

「……魔術使まじゅつしだわ……」

 ヘマが呟く。

「ティエビエン語ではそうだな。ユースフェルト語では、まじない師という。が、ユーザルの時代その存在は珍しくなかった。そのため特に名を持たなかったのだ。巫女と呼ばれたのは、姫の力が相当に強大なものだったからだと言われている」

 本は閉じ、両手をその上で組んだ。

「そうなのですね……」

「しかし、ある頃から岩渚クイシェの方より魔物があふれてくるようになり、そこにあった王朝は滅んだ。アルトゥールが、ジョルベーリに離反して新天地を求め、仲間と共に魔物のはびこる古地を踏破して、沿岸に到達し、彼らと出会った時——ユーザルは、もはや王ではなく長を持つ、一部族となっていた。王朝はユーザルにとっても伝説になってしまっていた」

 まあ、とヘマがため息をつく。

「残念なことです」

「そうした伝説をつづった本もあるぞ?」

 と笑いかけておいて、続ける。

「その当代の姫アストリッド、これは実はユースフェルト語読みなのだが。ユーザルの民は、古い型だがジョルベ語に近い言葉を持っていたそうだ。だから二人も恋に落ちたのだろう」

 一人うなずいていると、ヘマに笑われた。

「言葉が好きですね、お前は」

「……すまん、話がそれたな」

 こほん、と咳払い一つ。

「アストリッドの力は、星海から星くずを集める力だ。この星くずを、普通の灰色のまじない石と、今私たちは呼んでいるようでな」

 ヘマが首を傾げる。

「そこがわからないのです。確かに、ユースフェルトの海沿いや岩渚クイシェには、魔力石の大きいのがごろごろあるようですが、海から来たものなのですか? 海沿いの魔力が特殊で、このような石を長い年月をかけて作り出すものと習ったのですが」

「そうだな。その特殊さが何なのか、という話だ」

 唇をゆがめた。

「これも伝説でしかないが、大昔、本当に太古の昔、星海は流れ星が降る海であったそうだ」

 ヘマがぽかんと口を開ける。その顔もかわいい。

「それが海の中で割れ、特殊な魔力が海底に行き渡り、岩々が魔力を持つようになったのだと。それらが波に削れたものを、力の大きいまじない師であった巫女姫が海から拾い上げることが儀式となった。その跡が岩渚クイシェの、まじない石やその他の岩ばかりの不毛の地なのだそうだ」

「……まあ」

「ユーザルの魔力紋、というのがって」

 彼女が小首を傾げるので、私は宙に紋を描いた。

「円の中に、六つの角を持つ光を描く。ユースフェルト人は六角星と名づけた。——これがもともとは、まじない石の中にまれにある、紫の石を指していたのだという」

「ええ⁉」

 叫んで、ヘマはぱっと両手で口を覆う。

「そんな……ああ、いいえ、それならば納得です。石の中の輝き、なのですね」

 とこくこくとうなずく。

「ユーザルの巫女が普通のまじない石、星くずにこの紋を描くと、命じた通りの魔法が行われたという。後にユースフェルト人や、岩渚クイシェの横に住んだティエビエン人の研究で、紋というよりは姫の能力だったと知れたわけだが、ユーザルの民にはまじない石の印だったようだ」

「なるほど……」

 ヘマは感嘆詞を発した。

「引き上げた星くずを、民が割る。中から紫の輝きが出てくる。魔力の結晶だと言われていて、いつでも角張っていた。その角や大小で、吉凶を占った。この輝きを星という」

 右手を上げる。中指の金の太い指輪に、紫の宝石がはまっている。

「……これが」

「アルトゥールはこの、星の欠片にずいぶん助けられたのだな。ユーザルは星の民と呼称されるようになった。ついでに、アルトゥールに平定されたユースフェルトは農業国になったのでな。夜空の星をよくながめるといつが種まきや収穫にふさわしいか、見定められるだろう? こうしたことから、ユースフェルト語では〝星〟は運命を定めるものという意味も持つ」

 ヘマはじっと紫の石を見つめ、呟いた。

「……それだけですか? あの本を読んで、もっと怖いものかと」

「そう、怖いものだ」

 私もささやき返す。ヘマの視線を感じながら、もう一つの〝星〟の意味について説明した。

「この石は、さすがはまじない石の中核というべきか、命じられた魔法を実行するだけではないのだ。——制限と拡張。魔力のな。これをする」

 右手を振って指輪を示し、

「この石は小さいから、そこまでの力もない。だが、私がこの名においてこの石を使った時だけ、六角星を刻印するよう命じられている」

「制限……ですか?」

「そう、その人の魔力においてのみ、という制限だな」

 とうなずいて、吐息とともに告げた。

「もう一つの力は、その星の欠片が何も命じられていなければ、持ち主の魔法を拡張するというものだ」

「……では、ジルヴェスター三世の長子が戦に勝ったのは」

「星を岩渚クイシェから持ち出したのだ。星くずも。兵に星くずを持たせ魔法で相手を攻撃し、もとから魔術が使える者には星を持たせた。効果は言うまでもない、私のように音を拾ったり体を支えたりするくらいの風の魔術の使い手でも……拳大の星一つがあれば、十兵を切りつける巨大な風の刃を起こせるだろうということだ」

 ヘマがはっと息を呑む。

「これだけでも十分に危険だが……使った者にも害があった。星に魔力を拡張されるというのは、魔術を酷使するも同じ、命を削るに等しい。能力の大きい者から倒れていった」

 視線を足もとの草花に落とす。この地の向こうに、どれだけの犠牲が眠っているだろう?

「 敵も死んだが、味方をも殺した。星を兵器に使うというのがどういうことか、やっとアンドレアス二世は学んだのだ」

 多すぎる犠牲だった。

「彼は再び王国を統一したが、残りの半生は星を悪用から遠ざけようと必死だったようだな。三人の王子による内乱の顛末を物語にまとめ、子孫がそれとなくことの危険性に気づくよう働きかけた。そして、隠しきれなかった星を、この王宮に封印したといううわさだ……私は知らぬが」

 顔を上げると、白い壁に青い屋根、金の装飾を持つ宮が見える。ヘマもつられたように王宮を見上げていた。

「そも、アルトゥールですら長命とは言えなかったのだ。六十代の半ばで命を落としたと伝え聞く。彼もかなり星を使っていたからな」

 何てこと、と傍らの少女は呟く。

「なぜ……秘されているのです。民も知るべきではないのですか」

 それを聞かれるとな。困って、とにかく笑みらしいものを作った。

「大勢に知られては悪用を考える者が出るかもしれぬと、恐れたのではなかろうか。十二にもなれば『ジルヴェスター三世の王冠』も読めるし、大人が教えることもあろう。貴族の子であれば、遠いものではあっても危険はわかっているし、それで十分ではないかな……」

 なるほど、とヘマは重い息をつく。それから、困り眉で私を見つめた。

「……私に、知らせてよかったのですか?」

 私は笑った。

「貴方なら、悪用などしないだろう」

 だが、その笑顔を長く保ってはおれなかった。どうして彼女に知らせようと思ったのか、思い出させられて。

「……二の王子が」

「はい?」

「言ったのだ。星が明らかにするだろう、と……星に次の王を決めてもらうべきだと」

 ヘマが動揺したようにこちらを見る。

「大丈夫だ、戦にはなるまい。この国は人同士の戦をしなくなって長い……だが、あの本で、一の王子と三の王子がどういう賭けをしたか覚えているか?」

「ええ……。まさか——」

 星空のもとに札を広げて行う賭け事。カードをめくり、三枚を揃えて、同時にそれを相手に見せる。書かれた数の多い方が勝ち、それを決まった回数か、どちらかの賭けられるものがなくなるまで続ける。

 だがもちろん、用意したのは三の王子、しかけがしてあった。魔力を多くたたえた者の方に、数の多いカードが引き寄せられる、と。三の王子は力の強いまじない師だったのだ。

 しかし一の王子は星を持っていた。実力以上の魔力を使えた一の王子は、しかけを逆手に取りゲームに勝った。

 三の王子は逆上した。星を奪い取り、あふれるほどに思えた魔力で、全てのものに一の王子を襲えと命じたのだ。

 一の王子は優秀な臣下のおかげで助かった。三の王子は命を削った。乱の後、長い幽閉生活もあって、十年経たず亡くなっている。

「いくらか後のに、このことを研究して、月のない星ばかり輝く夜は、紫の石の方の星が暴走するのではないか、と唱えた学者がいた」

 遠くを睨みつけた。光満ちた庭にいて、世界が暗く感じるほどの——これは怒りだ。

「あやつは、地祭月の一日を指定したのだ」

 毎月の一日は、新月。

「この話にちなんで、天運とでもいうべきものを星が明らかにするというが……しゃれたつもりか?」

 吐き捨てた。

「己の配下に星を使わせる気か、一の兄上に星を使わせようとするか、いずれにしても外道だ。脅しとして言っただけとしても、人の命を軽んずる悪趣味」

「ヴィン……」

 ヘマがそっと、私の名を呼ぶ。彼女に顔を向けて、告げた。

「だから——ヘマ。きっと、これからここは荒れる。己の身だけは危険にさらさないでくれ」

 真剣に言った言葉に、ヘマは身を起こして、私の目をのぞき込んだ。

 美しい。白灰の、淡い瞳に、強い光。

「わかっているわ。私は馬鹿ではないもの」

 うなずいて、少し泣きたくなった。本当はこんなことを言いたくはない。ヘマが会いに来てくれる度、どれほど胸が躍るか。

 けれど、それ以上に、彼女が危うい目に遭うのは耐えられないというのも、本音だった。

 ぽふ、とヘマは再び私に身を寄せて、

「ヴィン、そんな重要なことを話してよかったのですか?」

「ああ」

 私は肯定したが、重ねて言われる。

「私は、姉様たちに伝えるかもしれないわ」

 少し考えた。確かにそうだ。

「……それで、よいのだと思う」

 考え考え、言う。

「兄上が、考えあってあちらの方に伝えぬこともあろう。その時に、真実が少しでも貴方から伝わっているというのは、悪いことではないのでは……」

 私は途方に暮れた。

「……どうなのかな」

 ヘマは困った顔で笑う。

「そのための婚約でも、あるのかもしれないわ」

「そう……だな。嫌だ、とは思うが、そういう……諜者のようなのは」

 言うと、ヘマは首を振りつつ、

「意義が必要なこともあるものです。私だって、お前には何でも伝えておきたくなるもの、仕方ないわ」

 二人で庭をながめていた。

 そよそよと穏やかな風が草花を揺らす。握っていた風の手綱を放した。ざあと音を立てて、風が駆けてゆく。

 それをながめていると、ふいに足に添えた右手に、温かい手が重ねられた。驚いてヘマをうかがうと、彼女は前を見たまま言う。

「大丈夫です。問題なんてないわ。私たちがどんな言葉を交わし合ったっていいように、そんな話、解決してしまえばいいのですから」

 え、と思わず間抜けた声を出して、それから吹き出した。

「……そうだな。貴方は何もかも前向きにしてしまう」

 度量の大きい前向きさよ。何度惚れ直させたら満足なのか、この方の美しさは。

 ヘマもつられたように笑い出した。その手を握り返す。するりと指をからませて、彼女は私の肩に頭をもたせかけた。

「……努力するしかあるまいな」

 呟くと、彼女は吐息で笑って、

「そうよ。努力は大事なものです。……時には努力だけで全てをひっくり返してしまうこともあるのですから」

 とささやく。

「努力とは友達関係になっておいた方がいいわ」

 ふは、と私は笑った。おもしろい言い方をする。

 ヘマも笑う。互いの振動と、一緒に体温が伝わって。手をつないだまま、ただ目の前を見ていた。こんな穏やかな時間はいつぶりだろう。……もうしばらくないかもしれん。

 じわりと、胸の奥底に冷たい水が広がるような心地。こういうのを切ないというのだろうか。

 からめられた指が少し動いて、ヘマがとぎれとぎれに言う。

「……温かいのですね」

 そうだな、と私は答える。

「お前の手は大きいのね……これまでも、思ってはいたけれど」

「そうか?」

 これまで、というのは、私がヘマの手引きたさにさんざん案内の手を差し伸べていたことだろうか。

 意識してみると、ヘマの手は小さくて、指まで優雅に使われて、……大切にしなければならないものだ、と感じた。

 初めて彼女に手を握られた時は、強い手だと思ったけれども。

 ——どちらもヘマだ、と、そう思う。守ってやらねばならぬ、大切な壊れやすいもののような少女であると同時に、強くしなやかな意志を持っている。

「……貴方は指の先まできれいだな」

 言うと——やはり美しいとまでは口に出せぬのだが——ヘマはかすかに身じろいだが、返答がない。

「……ヘマ?」

 そっとのぞき込むと、彼女は目を閉じていた。白い頬の上に、柔らかなまつげがほんのりと影を落としている。

 眠ってしまったのか? 長旅に、朝からのもろもろ、無理もないか。

 今は気候もよい。もうすぐ秋だ……まだ夏の温度を残しつつ、涼風の入ってくる時期。日当たりのよいこの庭は悪くない。

 右側の温もりを感じながら、弱い風に揺れる草木を見ていたが、思いついて本を手に取った。ぱらりと頁をめくる。

 冒険者、とでも呼ぶべき、セボジャという人物。流浪の傭兵の民、ティエビダに生まれながら、一山当てようと朱海へ漕ぎ出た。その旅路はかなり伝説風の虚飾に満ちたものだが、笑えて、自由への憧れをかき立てる。

 冒険に憧れたことがないとは言わん。私もヘマも、旅の話や遠い地の記録を好むようなのは、そこへ行く自由を望んでいるゆえだろう。

 だが、逃亡は望まん。この背に守りたいものを負っている。……この手も、離したくない。

 隣で規則正しい小さな呼吸音が聞こえる。彼女の息する音さえ耳に届けば、私は幸福であれるかもしれぬのに。

 それでも、投げ出しなどしない。兄上を、姫たちを守りたいし、この少女だって守りたい。

 ヘマの吐息に耳を傾けながら、決意を心に刻んだ。そうして頁を繰った。

 少しして、草を踏む音が届いた。顔を上げ、その方を見ると、焦げ茶の髪の騎士が歩いて来ていて、私たちを見て立ち止まる。私は本に置いていた手を離して、静かに、と合図した。彼は口もとをほころばせ、一礼して立ち去る。よくできた衛士だ、カスパーは。

 再び本に目を戻す。またも滑稽な場面に差しかかって、ふふ、と肩を震わせると、隣で彼女が頭を起こした。

「……ヘマ?」

 声をかけると、ヘマはまたたいて、それから恥ずかしそうに笑う。

「……私、寝てしまっていたのかしら」

 起こしてしまったかな。

「気にするな。疲れていたのだろう」

 笑って告げる。ヘマは困った笑みで襟を直して、気づいた様子で言った。

「そうでした、せっかくこの衣装にしたのにまだ話していなかったわ。私ったら……せっかくの日なのに」

「二度も言っておるぞ。私は楽しかったがな」

 寝顔が見られて。

「私は残念ですよ。お前といられる時間は短いのに」

 何やら腹を立てているのが、かわいらしいやらおかしいやらで、くくっと笑って私は話題を変えた。

「衣装というのは?」

「これです。手紙で言ったでしょう?」

 とヘマはその茶の旅装束を指差す。ああ、とうなずいた。

「刺繍、だったか?」

「ええ! ほら、これです、見てください」

 とヘマが見せるのは、高い襟に縫われた不思議な模様で、

「……どういう意味なのだ?」

 首を傾げると、彼女は得意げに微笑む。

「旅の無事を願うものです。道や植物の図案だそうですよ」

 よく見れば、植物らしい形ではある。なるほど、と言っているとヘマが本に身を寄せ、

「ああ、この場面ね? 船員の……。お前が好きなところですか?」

 翻弄されるな。だが、それが決して嫌いではない。猫のような気ままさで、それでも確かに私を見ていてくれるのだと思うと、嬉しくなるから。

「そうだな。つい笑ってしまった」

「やっぱり笑うわよね? 兄様が昔、笑わずに読み通してみなさいなんて言ったことがあったのですよ……無茶だわ」

 その後は、二人、騎士が呼びに来るまで本のことで笑い合っていた。


 夕刻、迎えの馬車を待つ玄関は、橙の光に照らされて影が濃かった。

 兄上と、イサアク殿とペルペトゥア様は、ずっと低い声で何やら話し合っている。私たちは入れずに、少し離れて小声で、また手紙を書くとか言い合っていた。

 未練がましく、今は添えるように重ねただけの手に温度を求める。今日はずっとヘマがそばにいたのに、もう別れなくてはならない。……遠い人だ。

 特使館からの迎えの馬車は、やはり定刻通りに来た。兄上たちは慌ただしく別れのあいさつを交わし、お二人が車に乗り込む。入口に上るヘマの手をそっと押し上げて離した。

「……また」

 呟いた言葉に、彼女は強い視線を寄越した。

「必ずまた、よ、ヴィン。……約束です」

 ああ、ヘマはわかっているのだ。顔がゆがむ。けれど、笑んでみせた。

「約束した」

 きらめくような微笑をひらめかせ、ヘマが馬車に乗り込む。

 その車が点景になるまで、見送りの最前列で夕日の中にいた私は、振り返って己が目を疑った。

 兄上がいない。

 代わりに、壮年の男の近衛が立っていて、言う。

「一の殿下からご伝言です。夕餉は遅くなる故、先に始めていてくれ、と」

 ……。わざとらしくため息をつく。

「他に何か、言うことはないのか?」

 最も好きな母語であるはずのユースフェルト語が、変に空っぽに思えた。彼女の温度がないことに。

「いえ……」

 近衛は眉を下げて困り顔だ。こちらも眉をひそめる。

「給仕が困る。エルヴィラ様も悲しまれるだろう……早くお戻りください、と兄上にお伝えしてくれぬか」

 はい、と彼は頭を下げる。軽く頭を振って、きびすを返した。

「……戻るぞ、カスパー」

「はっ」

 短く答えて、私の騎士は苛立ち紛れの早足について来てくれた。

 自分勝手と、自由は違う。彼女は自由な人だが、私はまだ自分勝手から抜け出せていないようだ。幼いな、……私は。

 兄上も、自由ではない。


 とうとう兄上は夕食に現れなかった。

 エルヴィラ様はため息をつくばかり。しまいには立ち上がって王宮へ行くことにしたようだ。

 私は一人、自室に下がった。

 宮の雰囲気はちっとも明るくならん。ヘマがいてくれた一時が夢か幻のよう。

 机の上にはセボジャの日誌が放られてある。しまい忘れていたな、と何となく表紙を開いた。すると、底の方に何やら、ふくらんだところが見える。

 何だ?

 裏表紙をめくると、そこにあったのは、革のしおりだった。縦に細長く、つややかで、上に黒い糸がつけてあり、銀糸の蔦模様が刺繍されている。美しい造形だった。

 ぽかんとして呟く。

「……ヘマ?」

 彼女のものか? だとしたら、なぜこんなところに。

 手に取って裏返し、下の方に彫られた文字を見つける。驚きと喜びのあまり、動きを止めた。

 ——ヴィン、と。

 ティエビエン語の角張った文字。そういえば、呼びに来た騎士に相対していた時、ヘマに本を預けていた。まさかあの間に?

 ……何と、すてきなことをしてくれる。

 知らず笑みがこぼれる。妖精のようないたずら心。かわいらしくて、——嬉しくて、鼓動が弾む。

 心のままに便箋に書きつけた。しおりを見つけたこと、いたずらな人だ、という文句。

『此度は本当にありがとう。姫たちにもよい経験になったし、私もとても楽しかった。感謝する。

 しおりのことも。貴方は芸術の才まであるのだな。気に入った。大切に使おう。本を読むのが、より楽しみになりそうだ。

 本といえば、アルトゥールの物語も読んだそうだな? 感想を聞く暇もなかったが、次はその話はどうだ。私はアストリッド姫との出会いの場面が好きだな。

 返事を楽しみに待っている。

 心を込めて           

 ヴィン』       

 結びの言葉をくすぐったく思いながら、封をする。明日出せばすぐ届くだろう。ヘマが白の塔に戻れば、すぐに受け取れるはずだ。

 その晩はどこか幸せな気分で布団を被った。右手に、彼女の温もりを思い出して。


 ……けれども、それは長くは続かない。

 兄上の様子がおかしいからだ。

 早く内宮を出て、夕餉に遅れて戻ってくるのはいつものことだが、会話がない。仕事の最中でもある昼はともかく、唯一しっかりと顔を合わせる夕食でも上の空。目もあまり合わぬし、こちらが問うとちゃんと答えてはくれるが、話しかけてこない。目もとには疲労の色が濃かった。

 ティエビエンのお方と話して以来、こうだ。多分あまり寝ておられない。

 文官は何をしている、仕事を助けるはずだろう。

 と、探りを入れてみれば、一番聞きたくなかったことが聞こえる。宰相が参上せぬのだ、と。

 では騎士は、と見て回れば、二の王子のせいで調査やら警備の編成やらと右往左往。

 どいつもこいつも役に立たん!

 ……この私も!

 勉強して大人しくしている、それだけならばずっとやっておる。このままではどうにもならん。

 焦りに、自然、私も口数が少なくなる。宮はどんどん暗くなってゆく。……影が濃い。闇が黒さを増す。星月の光も、かの方の夜に届きはしない。

 聖曜日、後宮を訪ねたが、ヤスミーン様が沈んだままでいらっしゃるので、カーリン様も姫たちもつつましくしていた。私では何もできぬのか……。

 その夕餉でも兄上はただ黙っていて、休息の日というのにお顔に影があって、……気がめいる。

 部屋に戻っても、何も手につかない。カスパーが夜番の兵と交代すると戸を離れ、アリーセたちもおらず、一人になった。辺りはしんとして、机上の本は開いてすらいない。

 椅子を立って、そっと扉を押し開けた。暗く、壁に並ぶ金の台のろうそくだけが照らす廊下。少し先の、居間のところの灯りがまだついていた。

 ……兄上かもしれん。

 そっと踏み出した。よく磨かれている床に、こつり、こつりと小さく足音が立つ。

 居間、正確には王家の間だが……その開かれた戸の内をのぞき込んだ。

 兄上が座っていた。緑の椅子はこちらに背を向けていて、顔は影になっていて見て取れない。部屋は常より薄暗かった。いつもはつけてあるはずの暖炉台の上のろうそくに火がなく、天井からの明かりだけであるせいだろうか。そうしてうつむいていらした。光も音も乏しい部屋に、ただ一人で。

 ちり、と横のろうそくの炎が揺れた。

「……兄上」

 ささやくほどの声に、兄上は反応を示した。ちらりと緑の瞳がこちらに向けられる。

「……ヴィンフリートか」

 名を呼ぶ声が重く、苦しげで、ぎゅっと心の臓がつかまれたような心地さえした。

 引かれるように部屋に踏み入った。のろのろと兄上の座る目の前まで行って、立つ。

 兄上は下を向いたまま、一言も発さない。私も言うべき言葉を思いつかず、呼吸の音だけがしていた。

 整えられた真っ直ぐな淡い金の髪が、夜のせいか、少しくすんで見える。いつもと違うのは座り方もそうで、両肘を膝につき手を組んで体を支えているものだから、背が丸まっていた。

 それが無性に悔しかった。痛ましかった。

 どうしてか口にもできないのに、ただ、何かしなければとだけ、強く思っていた。

「……兄上」

 やっと発した声は、思いもかけず震えた。

「どういうおつもりです」

 兄上はゆるゆると顔を上げる。乱れた前髪の下にのぞく目は、色がわからぬほど暗かった。

「……何がだ」

「この頃のことにございます」

 声を整えることができなかった。強い口調になってしまって、顔をしかめる。

「この頃の貴方様は、私たちに向かって何も言ってくださいません。二の王子のことで、ティエビエンのお方とお会いしたことで、何かあったのは存じております。ですが、兄上は何もなさいません……何もおっしゃいません」

 兄上は答えずにうつむく。

「何ゆえです。……お答えください。私には耐えられません」

 首を振ると、その髪はさらさらと弱く音を立てる。

 答えになっておらん! 思わず一歩詰め寄った。

「兄上! なぜなのですか! どうして何もなさろうとせぬのです。忙しくしておられても、その実何も進んでおらぬではございませぬか……これを成し得るのは、貴方様だけでございますぞ。貴方様しか、どうにもできぬのです」

 それでも、兄上は黙ったまま。胸に小さく、鋭い痛みが走った。どうして何も言ってくださらない……もしや。

「それとも……私には伝えられぬと……?」

 自ら呟いたことにうなだれる。そうだとしたら、私は本当に何もできん。

 はっとしたように兄上が顔を上げた。

「——ヴィン、それは違う」

 片手が思わずといったように伸ばされた。

「違うのだ……」

 戸惑って見つめていると、その手は行き場を失ったかのように膝の上に落とされる。

 その手をじっと見つめて、兄上は、反対の手を額につけた。うめくような声が言う。

「私にはわからん……わからぬのだ、ヴィン……」

 どうしようもなく痛みが増して、私は椅子の前の足置きに膝をつき、手を伸ばした。先ほどは取れなかった手を包んだ。力のない手が、私の手の中に預けられたようだった。

「……何故……あれがかような反心を起こしたのか、いや、何故反抗するに至ったのか。何が可能にさせているのか……何一つわからん……いや、信じたくないのかもしれん」

 ぽつり、ぽつりと雫が垂れるように、告白の言葉が続く。

「文官たちの調査が正しいとするならば、先王陛下があれに何らかの資金を与えたのだ。……私はペルペトゥア殿に答えられなかった。未来を確約することも……」

 ため息は重苦しく、私はただその手を握る。

「……本当は……何も起こさせる気などなかった」

 声が揺れた。

 私は知らなかった。この方の痛みを耐える声を。この時まで。

「先王の過ちを止められなかったと知って……覚悟したはずだった。お前たちを守るのだと。この国の民も守ると……。実権は私にあって、証拠も手に入れていた。……何も起こさせぬはずだった」

 苦しんでいるのだ、と。痛いのだと。私も本当にはわかっていなかったのかもしれん。

「だのにあれは星まで話に上げる。あれだけならば浅知恵と言えたものを、諸侯の数人もついている。宰相の尻尾を掴むこともできずに……権の全ても使えん……」

 私は唇を噛んだ。兄上は吐き出すように言う。

「私は未熟なのだ。何もかも足りん……。己が正しいなどと到底思えなくなってしまった。どこかが間違っているかもしれぬとばかり、このところ考えて……」

 ああ、と私は兄上を見つめる。そんなことを言わないでください。だとしたら私など、本当に愚かだ……。

 薄い唇を引き結び、少しの沈黙のあと、兄上はこうこぼした。

「確信がないのだ」

 迷うような数瞬があって、

「本当は……わかっているのだ。どうすれば確信が得られるか。……だが、私には勇気がなかった。どれほど細い繋がりであるか、これほどにわかっているのに……それを失うのが怖くて……逃げた。咎人に口をきかせるのは掟にもとるからと言い訳をして……どうすればよいかわからなかったのだ……」

 その言葉を聞いて、私にも合点がいった。兄上が何を考えていたのか。

 そうするべきだ。そうすれば確信が生まれる。今の兄上にはそれが必要だ。そして、動くことができるようになる。私も。

 心が定まったのを感じた。具体的にどう動くかは、今は思い描けん。だが、決めた。

「……では、私も共に参ります」

 言うと、兄上が額の手をどけて、私をまじまじと見る。

「ヴィン」

「私と参りましょう。それなら少しは怯えずに済むでしょう」

「だが」

 包み込んだ手を引き寄せた。宝玉のような緑の瞳を間直に見る。

「おそばにいさせてください。私にも、大切な方々を守らせてくださいませ」

「ヴィン……」

 兄上の瞳が、揺れながらでも、以前のような光を映し始めているのが嬉しかった。ぐっと力を込めて、言う。

「必要なことです。私も、父王に問うべきことがございます」

 父王に会い、問いただす。そもそもの元凶、始まりであった借金にまつわる事件は、何のゆえあってのことか。今のゆがんだ政情の由来を。

 ——それが確信になる。

 兄上の手が、力強く握り返してきた。驚いた私に、兄上は背筋を正し、決意の表情で言う。

「……わかった。明日、塔へ行こう」

 ——獄の塔へ。

 はい、とうなずいた。兄上がわずかに表情を緩ませ、私の手を取り、コンと額に当てる。

「ありがとう、ヴィン……」

 柔らかい声に、もう一度はい、と答えた。

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