八.揺すぶり

 体から緊張が抜けなかった。ヴェントゾを送り出してから一夜が明けた、今となっても。

 あの時、なぜ、あやつは中庭に現れた? 考えるに、答えは一つ、やつが後宮へおもむいたためであろう。二の兄上は今のところ、兵舎に泊っている。主に国境へ派遣される第六騎士団の長に任命された際に、内宮の部屋から荷を引き取っていったからだ。それが王宮に現れたのは、その先夜約束したヤスミーン様へのあいさつをしにゆくためだろう。

 昨日は後宮の方々には会えておらん。何事もなかったことを願うしかない。

 今朝も一人の朝食を終え、カスパーを呼び出した。私が鏡の前で黒のタイを整えている間、彼は戸の外でモニカと立ち話をしている。そちらをうかがう様子の若い侍従に、

「エーミール、少し耳を貸せ」

 と袖を引くと、暗めの金髪をもつ少年は素直に腰をかがめた。あの二人は恋仲といううわさなのだぞ、と耳打ちしてやると、彼は目を輝かせ、

「お二人が?」

 と問うてくる。

「秘密だぞ?」

 にやりと笑って言うと、エーミールもくすりと笑って、ええ、とうなずいた。やはりあの心優しい二人の仲は、誰からも好意的な目で見られるもののようだ。

 頃合いを見計らって戸を開け、踏み出す。

「カスパー、来い。出かけるぞ」

 割りに近い位置にいたらしい黒髪の侍女がさっと離れ、私に一礼するのを見て、騎士は束の間寂しげな目をする。が、すぐに私に笑いかけた。

「はい、ヴィン様」

 わかりやすいな、カスパーは。まあ、これくらい伝わりやすい方が余計な恋敵も出て来ぬかもしれん。

 そんなカスパーを連れて、ゆったりとした歩調を心がけつつ訓練場へと向かった。円形闘技場を覗くと、見慣れぬ顔の騎士がいくらかいる。二の兄上とともにやってきた本隊——団長に次ぐ精鋭たちであろう。大隊の残りは、王都にある第二騎士団の兵舎に泊っているはずだ。

 ちなみに、王宮騎士団のことを第一騎士団とも言う。王の政の象徴である宮を守るがゆえの称号だ。近衛騎士団は少々別格であり、数字は持たない。

 いつもより静かだが、興奮している空気があった。知り合いではない者同士、会話は弾まずとも、手合わせは頻繁に行われているのだろう。バルタザールがほかの騎士たちの話に耳を傾けている。その背に、何となく声をかけるのをやめた。

「大隊帰都の時はこのようになるのだな。よいものが見れた」

 呟くと私の騎士はうなずいて、

「時には外と接触するのもよい刺激になります。私も隊長のお一人に稽古していただきましたよ。……今日はこちらを見にいらしたのですか?」

「そうだな……」

 暇を解消するために来たのだが、訓練用の服を着ているでもなし、騎士たちの邪魔をしたい訳でもない。

「まあ、雰囲気はわかったな。……そうだ、エッボのもとに顔を出して行こうか」

 カスパーが賛成したので、私たちは闘技場を回り、厩舎へ歩いて行った。馬の数のふくらんだ建物の中で、エッボ、と呼ぶとしばらくして長めの白髪をくくった小柄な老人が姿を見せた。

「誰かと思えば、第三王子殿下でございましたか」

 私たちを認めて、エッボはほっほっ、と笑う。

「世話するのが増えて大変だろう」

 本隊の騎馬も収められているようで、前はがらんとしていた空間が馬でいっぱいだ。ねぎらうための言葉に、だが、老馬番は笑んで、

「儂には楽しい仕事ですじゃよ。見てゆかれますかの?」

 見たい、と答えると、エッボは身軽な足取りで奥へ案内してくれた。背の高い栗毛の馬が柵に入っているところへ。

「……二の兄上の馬か」

 昨日見た時はこれに乗っておった。そう言うと、エッボは馬首をなでてやりながら、

「そのようですの。よい馬です」

「確かに、立派な馬だ」

 見上げると、馬は円らな黒い目で見返してくる。筋肉があってがっしりした体つきなのに、愛らしい目だ。私が馬と目を見かわし合っている間に、エッボは毛並みを整えてやって、ぼそりと言う。

「……この子は、ちゃんと手入れもされておるな」

「この子?」

 聞きとがめて、尋ねた。『は』とはどういうことだ?

「いえ、いえ。前の帰都の折は、手酷く扱われた馬がおりましての、思い出しただけですじゃ」

 エッボは言葉を濁す。その意味はすぐに思い至り、私は眉根を寄せた。

「……前の馬か?」

「まあ、そうですかの」

 二の兄上は、十代の頃、乱暴者で有名だった。これまで見聞きしてきた話では、家庭教師に反抗し、隠し通路から宮を抜け出し、騎士のくせに馬を丁寧に扱わず……今のこの馬は違うようだが。

「あれも少しは変わったか?」

 と呟いてみる。私は己でも変わったと思うくらいなのに、幼いだの変わらぬだのと言ってくるあやつの、目の曇り様は変わりないが。

「……いや、お前がよい馬だから下手に扱えぬのかもしれぬな」

 言ってみると、栗毛の馬はそうですよ、と言うように鼻を鳴らした。エッボが小さく笑う。

「そうかもしれませんのう。他の馬も上等ばかりですじゃ」

 その声が弾んでいたので、私は安心して、馬たちの世話は彼に任せることにして厩舎を出た。

 ——時に、うわさをすれば影が差すという。

 この場合、影とはほの暗いあれではない、うわさの的の当人の影だ。先人の言葉を軽んじた私に罰でも下ったのか。カスパーを振り返り、

「次は、また図書館にでも行くか——」

 言いかけて、彼の固まった表情に驚いた。灰がかった緑の目が見開かれている。その視線を追って、私は同じように体を固くした。

 王族の平服に、帯をつけて剣を佩いている、焦げ茶の髪に暗く鋭い瞳の男。背後には、貴族様式の上着をまとった、黒髪で眼鏡をした冷たげな顔の男が、書物を手に控えている。二の兄上……それに、従者か副官か。

「よお、ヴィンフリート。馬小屋から出て来るとはな、何の用があったのだ」

 あの不気味な笑みに、小馬鹿にした調子。己が怯むのを感じた。それを隠し、虚勢に胸を張って問う。

「……貴方には関係なかろう。そちらこそ、ここで何をしているのです」

「何、単なる時間つぶしだ」

 とやつは肩をすくめた。

「会議の前に、久しぶりの宮だ、散歩でもしようかと思ってな」

「……そうでございますか」

 身構える私に、やつはふっと笑い、

「いざやってみると、これが中々に広くて、飽きん。お前もやってみたらどうだ、……それとも、今から共に行くか?」

 はは、と中身を伴わぬ笑い声。

「……遠慮いたします。散策ならばお一人で」

 断る。散歩にしてもこやつとなど。

 という内心でも伝わったか、二の兄上はにやりとして、

「そうつれないことを言うな。実を言えば、回廊を通らずに武棟の会議室に向かう道を忘れてしまってな。案内してはくれぬか? こやつは王宮のことでは役に立たなくてなあ」

 と背後の貴族らしい青年を指す。

「詭弁を」

 眉をしかめる。

「貴方が母君と違って道を覚える能力があることくらい、私でも存じておる」

 二の兄上の力は、母君ヤスミーン様のを継いで周囲の魔力を把握できるというものだ。しかし、方向音痴までは受け継いでいなかったはず。

「……何を企んでおられるか」

 低めた問いに、やつは顔を近づけてきた。

「しばしの時くらいあるだろう。来い」

 ささやかれた声の暗さに、ぞっとした。何かが、違う。これは昨日のような悪い冗談などでは済まぬことではないのか。震えを押し込め、わざとその顔をにらみつける。

「ふん、この程度の道を忘れるとは、貴方も衰えでもなさったか」

 皮肉を込めて言い、一歩踏み出した。黙って聞いていた私の騎士がついてこようとする。

「待て。お前はここに残るのだ」

 それを二の兄上がさえぎる。

「⁉ 何故です、私は第三王子殿下の近衛です!」

 カスパーが目を丸くして問う。答えは、脅迫じみた命令だった。

「俺の命に従えぬか? 残れ」

 カスパーは絶句したようだったが、これでわかった。こやつ、私に何かを話そうとしている。それも、他の者には聞かれぬように。

「……カスパー、すぐ戻る。ここで待っていてくれるか」

 二の兄上をにらみつけたまま声をかけると、カスパーはためらいの後に、はい、とかすれた声で応じた。

 やつを一にらみし、先頭に立って歩き出す。いっそさっさと済ましてしまおう。どうせからかおうとしているだけだ、きっと。

 早足で進む。やつはしかし息一つ乱さず追ってきた。

「案内をする気があるのか? やはり従順さに欠けるな、お前は」

 何がおかしいのか、くくっと笑う。

 お前に従順になる予定は一欠片もない、というのは飲み込んで、代わりに言う。

「貴方も、悪趣味はお変わりないようだ」

 はははっ、と乾いた笑いが返ってくる。数歩空けてついてくる青年は何も言わない。どうなっておるのだ、この状況は。

 武棟の戸を開ける。中は、外から見て思うよりは複雑な構造になっていて、迷うというのもあり得なくはないのだが。

 二の兄上は感情の読めぬ笑みのまま、言った。

「俺は嬉しいがね。何も変わってはおらぬ、というのは」

 思い出した。二の兄上の私的な自称詞は騎士や町民にありがちな『俺』であった。別段変わった呼称という訳でもないが、妃様方の前では『私』と言っていることを思うと、表面的なものが剥がれ落ちている感じがする。

「……そう思われるか? 私には、何もかもが変わったように思える」

 この春先のことだった。国王が罪に問われ、全てが変わったのは。己の変化は、数え上げればきりがないほどだと、そう思っている。

 それなのに、この男は、変化がなくてよい、と?

「そうか? 俺の周りは変わりないがな。……いや、そうか」

 ふいに二の兄上は声音を変えた。

「お前の母親は死んだのだったか。侍従どもから聞いたぞ」

 舌打ちしたくなるのをこらえた。何という語り口か! 震える拳を袖に隠してきつく握り、やつをにらみ上げる。

「……無礼であろう。母上は我らが父王の寵妃であったお方だぞ。その上亡くなった者に対して……」

 声を低める。このような非礼、一年前に使用人が口にしたらすぐに首にしておったわ。怒鳴り出さなかった己をほめたいくらいだ。

 しかし、怒りの底で一瞬、不吉なひやりとした風を感じた。以前の二の兄上は、これほど踏み込んだ言葉を投げかけてきたことはなかった。からかってくるといっても、せいぜい品のない冗談程度で。私が『預かりもの』とまで言ったものに手を出そうとしてきたのも、母上——つまり父王の妃を軽んずるような発言も、思えば異常だった。

 何が変わった?

 母上という、表立って守ってくれる者はもうなく、そして内宮へ出て来たということ。やつには十分な理由だったのだろう。

 尻すぼみになりかけた言葉に被せるように、二の兄上は嘲笑した。

「はははっ、寵妃だと? やはり子どもだな、ヴィンフリート、母親の無様さにも気づかぬままか? ならば教えてやろう。あの女は寵愛されてなどいなかった! 金と貢ぎ物に眩まされた偽物の愛よ!」

 一息にあざけりが続けられる。

「愚かなことだ、真に寵愛を受けた者も知らぬままにな! その者がその特権を捨てたのと同じほど、愚かだ! 誰もわかってはおらん、国王陛下の御心を! 全てはかの方のお手もとにあるのに!」

 一瞬、呼吸を忘れた。理解に一拍を要し、次の瞬間には頭に血が昇って、叫んでいた。

「——母上を愚弄するか、この下郎が!」

 感情の昂りに応じて魔力が統制を失い、強風が吹きつける。他に人の姿は見えぬ廊下を強い一陣の風が吹き抜け、ごおと音を立てた。それを抑える気はおきなかった。

 今、こやつは、母上も、己の母までも蔑んだのだ! 許されまい!

 激情のままに、言葉を叩きつける。

「私とて、そのぐらいのことは知っておるわ! だが、貴様などが母上を貶めるような口をきくのは許さん!」

 鋭く息を吸い、ほとんど殴りかかるようにして言った。

「貴様のしたことは死者への冒涜だ! 死後の静穏を乱すとは、礼節を忘れたか⁉ その上、己が母君までも悪く言うとは! ふざけるのも大概にしろ! 愚かは貴様であろうが!」

 息が切れて肩を上下させる。これまでどの使用人も怯えさせてきた私の啖呵にも関わらず、やつは不気味な笑みを崩さぬままだった。

「わかっておらぬな、ヴィンフリート」

 その茶の瞳をおおった影に、不覚にも鳥肌が立った。真横から日の光が当たっているのに、その目は暗く、淀んですら見える。

「俺が言いたいのは、何者も、俺より上にある者はないということだ。陛下ただお一人を除いてはな」

 目に走った不穏な光、開かれた口の紅が恐ろしかった。意味のない問いが零れる。

「……父上は、既に先王であろう……何を言っているのだ」

 二の兄上は、それには答えなかった。

「妃どもも、アレクシスも、お前も、俺よりずっと愚かだ。何せ、真実を知らん。故に、ヴィンフリート、黙っておるがよいぞ」

「何を馬鹿な……」

 反射的な言葉に、チャッ、と響いてはならぬ音が返答であった。二の兄上の手が、腰の剣にかかっている。

 脅しだ。

 その文句が頭にひらめいたが、とっさに答えられなかった。

「邪魔をしてくれるなよ。明日の会議ではもちろんのこと、これから先ずっと」

 愕然とする私を眺め、やつは意地悪い笑みを浮かべる。

「俺の手がすぐにでもお前を黙らせることのできる範囲にあること、承知しておけよ」

 ずい、と大股一歩でもって迫られる。

「な……」

 正しく絶句した。声が出なかった。

 迫力に呑まれ、思わず半歩後退する。兄弟喧嘩——というにはあまりにも一方的な脅迫。それを、冷ややかな声が中断させた。

「殿下、お戯れはその程度に」

 二の兄上のお付きらしい、貴族衣装をまとった男。黒髪を先の風に乱れさせもせず、白い細面に鋭い眼光と眼鏡をきらめかせ、こちらをちらとだけ振り返る憎たらしい態度。

 よくよく見ると、整った顔立ちをしていた。しかしそれがゆえに、鋭さが目立つ。こちらに背を向け、目しか向けぬとは。二の兄上の配下であろうに。

 その男の言に、意外にも、二の兄上はゆっくりと身を引いた。

「つまらぬな。もう時間か」

 腰の剣から手を放し、さっと私に背を向ける。そのまま二人は廊下を行こうとする。はっとして、その背に叫んだ。

「ま、待て! 何を……何を企んでおるのだ!」

 会議だと? こやつ、何をしようとしているのだ。嫌な予感がして止まない。

 やつは振り返り、にたりとでも表現すべきような笑みをして、

「餓鬼は引っ込んでいろ、と言ったのだぞ、俺は」

 と言い放った。

「な……っ⁉ 貴様っ」

 反論しようとした時には、既に二つの背は遠くなっている。しばし呆然としてつっ立っていた。

 ……置いて行かれた。無意味な案内の上に、脅され、馬鹿にされ……?

 状況が飲み込めると同時に、衝撃から回復してくると、代わりに沸き立ってきたのは震えるような怒りだった。

 黙っておれ、だと? 母上も、ヤスミーン様もそしっておきながら、この私に、がきは引っ込んでいろ、だと……信じられん!

 怒りが口から飛び出してきそうで、私は身をひるがえして床を蹴った。廊下を駆け戻り、武棟を飛び出して、人気のない方へとひたすら走る。訓練場の一角の、しんとした土がむき出しの地面にたどり着いて足を止めた。

 ぶはっ、と、抑えていた息を吐き出す。全力疾走のせいで息が切れて、私は少しの間膝に手をついて大きく呼吸しなければならなかった。息ができるようになると、声を抑えてはおれなかった。

「……っあ————!」

 この身の内には収めきれぬ感情を吐き出すように意味もなく叫んだ。それでも収まらぬ。

「あの……っ馬鹿野郎が!」

 とにかく思いつくまま罵倒する。

「愚かはあやつであろうが! 何なのだ! 言うに事欠いて母上をっ、侮辱するとは!」

 苛立ち紛れに土を蹴りつけた。長靴の踵に手応えがあり、土煙が立つ。

「黙っておれ、だと……? この私に! 私があんな脅しに屈するとでも思っておるのか……⁉ なめられたものだ……」

 ぎり、と痛むほど拳を握りしめた。

「許さん。許さぬぞあの男……見損なったわ! あんなくず! その辺の石ころに転びでもして、地に這いつくばうがよいのだ!」

 まさかヤスミーン様まで貶めるとは。息を切らして口をつぐむ。このような怒りを覚えたのは久方ぶりだった。かつては少しの憤りもすぐに人に向けていたが、今はそんなことは望まん。代わりに人のない場所で怒鳴り散らしてみたはいいのだが……胸中のもやは晴れん。

 人の代わりに土に当たってしまった、と気づいて、くすぶるような苛立ちに顔をしかめる。

 と、笑い声がした。

「‼」

 慌てて振り返ると、馴染みのある茶髪茶眼の男が立っている。くつくつと、低く抑えた笑いを止めぬので、ためらったが声をかけた。

「イ、イグナーツ?」

 するとやつは笑いながら答える。

「珍しいお姿を見られましたなあ」

 ……見られておったのか⁉

 その背後に、息を弾ませるカスパーも発見する。その灰がかった緑の瞳が複雑そうに私を見つめるのを見て、私は悟った。頬に熱が昇る。

「いや、えっ? まっ……」

 言い繕う言葉も見出せずにうろたえていると、あっと声を上げる間もなく騎士たちに連行された。


 応接間のような殺風景な部屋だ。最低限の調度である小卓といくつかの椅子はあるが、壁には飾りの一つもない。

 一言も発する隙を与えられぬまま、椅子の一脚に座らされた。私の騎士は無言で目の前に立っている。顔が影になっていて、表情が見えない。

「……カスパー?」

 そっと声をかけるが、身動きもせん。

 急に情けなくなった。二の兄上に気を取られて置いてけぼりにして、どれだけ心配をかけたか。

「……す、すまなかった。気にしないでくれ、カスパー。実際に危害を加えられたでもなし、お前は王子の命を聞いただけで、何も悪くないのだから」

 カスパーは伏せていた目を上げ、大げさにため息をついた。

「肝を冷やしました。申し訳ございません、私が戦士として至らぬばかりに、理不尽な命を聞いてしまうとは……」

 おや。これは、心配させてしまったというだけではないようだ。彼は怒ってくれている、あの厄介な野郎が私を少しばかり危険なところへ連れ去ったことについて。……その危機は、身を守る兵を遠くに置かせたというだけでなく、やつ自身による脅しというものだったが。

 このことは、黙っておかねば。

 あの気まぐれの目的はわからん。私がここで脅されたなどと言ったら、次は何をしてくることやら。脅しが冗談であったとしても——無論、そんなことはなかろうが——第二王子と第三王子の間に不和があると知れたら、無用の混乱を招く。

 警戒を強めねばなるまい。もう不用心にあやつの誘いには乗らん。十分こりたわ。私は安全な場所からあれをせせら笑う位置にいるべきだ! 騎士たちの傍を離れぬようにしよう。

 心なし肩をうなだれさせたカスパーの腕に、手を伸ばした。

「お前が至らぬなど。至らぬのはあれの頭のほうであるべきだ。すまぬな、今回は私が軽率だった」

 嘆息する。まさか、あんなことになるとは思わなんだ。怯えるよりも怒りに駆られ、冷静さを欠いていた私も私だ。あんな気違い、まともに受け答えせずにきちんとカスパーのもとに戻っておれば、否、それよりも前にきっぱり断って彼と共にいておれば。彼に疲労を重ねさせることなく、平穏の内に今日を終えられたかもしれぬのに。

 感謝と気遣いを込め、カスパーの手に触れた。カスパーはゆるりと微笑んで、それから身を離す。

「……いえ、私も反省をいたします。ですが、ともかく、ご無事でようございました」

 よかった、あまり尾を引かずに済んだようだ。ほっとして微笑む。カスパーはいつもの彼の落ち着いた顔に戻って、

「ヴィン様、体が冷えていらっしゃいますよ。何かお持ちしましょうか」

 って、つい先立って己を探し回らせることになってしまった騎士に、くだらぬ用を頼めるか!

「いや、私は」

 言い終えぬ内に、戸が大きく開いた。銀の鎧を身に着け、長い焦げ茶の髪を一つにくくった王宮騎士団長が立っている。イグナーツが軽く礼をし、私と目が合うといたずらっぽく笑いをひらめかせた。

「第三王子殿下」

 バルタザールは苦笑するような微笑をして、告げる。

「第一王子殿下からのご伝言です。『あまりうろつくな、牙にはかかるな』と。昼食は内宮でお取りになってください」

 お見通しか。赤くなりそうな頬を袖で隠して、ふいと目を逸らした。

「そうは言われてもな……」

 口の中で呟く。不審げな顔を向けて来る騎士たちに、吐き出した。

「もう遅い。が、反省はしておる。おっしゃる通りにしよう」

 バルタザールがほんの少し眉をひそめる。カスパーが問うた。

「何が、あったのです?」

「人気のないところにお一人、っていうのは割と目立ちましたよ、殿下」

 イグナーツも口を挟んでくる。あの現場を見られるとはな……何たる失態。

「……ただの喧嘩だ。お前たちは気にせずともよい」

 爪先に目を落とす。土がこびりついていた。……感情を御せる人間になるのは、こうも難しいか。

「喧嘩?」

 バルタザールが疑うように言う。ちらと彼を見上げ、しわの寄った眉間を見やった。

「殿下、何があったのですか。お話しください」

 少し厳しくなった口調に、私はふん、と鼻先であしらった。

「特に何も。とにかく、悪いのは二の兄上だからな、あの礼儀知らず」

 一度口を開くと、閉ざす気はしなくなった。なぜ私が詰問されねばならない? 問い詰められるべきはあちらではないか。この件に関して、私は正しい反論をしただけのはずである。

「口が悪いだけならまだしも、侮られるべきでない方々に失礼をしてくれたわ。大体、あやつが兄上や私に勝るところなど腕力だけなのだぞ。能力、指揮、人望、全て一の兄上ならば勝るとも決して劣りなどせん! それをよりによって、不愉快な口をききおって」

 不機嫌なのを隠さずぺらぺらと喋った。むかつくのだ、あの男!

「私よりも劣っているところだっていくらでも挙げられるではないか。外語はできぬし、礼節もわきまえぬし、人を敬う気がないのか? 麾下の将兵や、文官の名もいくつ挙げられるか怪しいものだぞ。私でも五十は挙げられるというのに。それに服装の美意識も低いし。何だあの、いかにも侍従に適当に揃えさせたという服は。今日もあれには会議があるというのに、王族として装いの意味を考えたことがないのかな。もともと、食物の好き嫌いが激しいあたり、わがままな本性が見えるというものだ。瓜だの茎だの、食事だけはきちんと平らげる私の方がよっぽど偉いだろう。そもそも、家庭教師とのことにしても」

「……ヴィン様」

 カスパーにやんわり止められる。

「何だ。取り消さぬぞ」

「いえ、だんだん本筋と関係ない方へ向かっている気が」

「……」

 確かに。むう、とうなっていると、イグナーツが唐突に口を開いた。

「殿下は、下の兄君がお嫌いなので?」

 言われた途端冷水を被ったように気持ちが冷えて、鋭くやつをにらんだ。下の、とは二番目の、ということだろう。答えるまでもない、が。

「……イグナーツ」

 真っ直ぐその茶の目を見つめて、たしなめるように告げる。こやつは貴族や騎士階級の出身ではなかったな。

「お前にカスパーほどの洞察力を求めようとは思わん。ゆえに言うが、私はその問いに答える口を持ち得ん」

 ぽかんとした顔をする若い騎士に、一言だけ教えてやった。

「私も王子だ」

 それから、残りの二人に向き直る。

「悪かったな、今言ったことは全て忘れてくれ。全部たわごとだ」

 一つ、息をつく。まこと厄介だ、あの男の存在は。叙情的なものとは程遠い意味で、心乱される。あやつがおらねばもっと簡単につく話もあるものを。

「一の兄上のご忠告通り、内宮へ戻ろう。世話をかけたな」

 椅子を立つ。そこにバルタザールから声をかけられた。

「殿下、提案なのですが、護衛を増やされてはいかがです? ハスも秀でた衛士ではございますが、ずっと任につけている訳にもゆきますまい」

 名指しされたカスパーを見上げれば、意外なところからの案に、二人して似たような顔をしていた。そうなのだ、カスパー一人に与えられた任は重すぎる。苦労をかけてばかりだ、と心配していたところだ。

 私はうなずいた。

「そうだな。バルタザール、よければ近衛の方に話しておいてくれぬか。ヘンドリックを呼んでもよいのだが、お前もあやつも、今から会議だろう」

 バルタザールは優しげに目を細めて、かしこまりました、と頭を下げた。背後でカスパーとイグナーツが後で、などと言い合っているのが聞こえる。

「ではな」

 一声かけ、私の騎士を連れて内宮に戻った。



 夕餉は、兄上とエルヴィラ様とご一緒したが、お二人とも口数が少なかった。無理もない。明日の会議で、正式に後継者を定める予定なのだから。

 何の障害もなければ、一の兄上が王位にくはずだ。王太子位を返上なさったと言っても、それは〝裁き〟を下した各国に従う意思を示すため。その後国王代理として政務を処理している以上、事実上の王権は兄上の手にある。

 だが、二の兄上だけが、大きな不安要素だ。

 私に対する脅し。『黙っていろ』『誰も真実を知らん』『餓鬼は引っ込んでいろ』——さもなくば剣にかけるぞ、と。あれは、何を意味している?

 引っ込んでいる気はない。その気になればあやつが剣を抜くより速くあの面に傷をつけることはできる。私の魔術は母上直伝だ。

 だが、様子を見ておくべきだ。挑発に乗ると痛い目を見るというのは、今朝すでに味わった。もう腹がいっぱいだわ。

 早々に退出し、早々に布団に入った。

 答えの出ぬことをいつまでも考えていては寝つけん。考えたくないことがある時は、何も考えずに眠ってしまえ、というのが私の持論だ。

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