七.第二王子の帰還

 人々の慌ただしい声が、内宮の中にまであふれ返っている。首もとの黒いタイを結び、鏡を見ていて気づくと、アリーセが寝室の戸口に控えていた。

「ヴィン様」

「何だ」

 短く返すと、彼女は微笑んで、

「新しい侍従をご紹介したく」

 ああ、と私は振り返った。そういえばそんな話が出ていたな。うなずいてみせれば、アリーセが廊下に向かって手招く。

 真新しい焦げ茶のベストとズボンに身を包み、暗い色合いの金髪をなでつけ、緊張した様子の痩身の少年がそこに立っていた。

 思っていたよりも若い。背も私よりは高いが、カスパーなどと比べるとずいぶん低いだろう。

「本日からお仕えします者です」

 アリーセが彼を促すように言う。少年は固くなりながら、

「本日よりお世話になります、エーミールと申します。誠心誠意お仕えいたしますので、どうぞよろしくお願い申し上げます」

 ととても丁寧なあいさつをした。

「エーミール、というのか。年は?」

 緊張をほぐしてやりたくて微笑みながら見上げると、エーミールは青白かった耳を赤く染め、

「十六でございます」

 と言う。年下の私が言ってはおかしいかもしれぬが、初々しいな。かわいらしいものだ。

「では私の三つ上だな。今日から忙しい日々が続くだろうゆえ、慣れぬうちからかわいそうなことではあるが、よろしく頼むぞ」

 にこりとして言うと、エーミールは身を縮こめてうなずいた。

「はい、殿下」

「それでは、夕方の支度から参らせますね」

 とアリーセが穏やかに告げる。

「アリーセならば任せて問題はないな。頼んだぞ」

 笑顔で言って寝室を出る。

「はい、いってらっしゃいませ」

「っ、いってらっしゃいませ」

 アリーセの落ち着いた返事に続いて、焦ったような声が届く。これは、見どころのある侍従を手に入れたようだな。

 食堂へ着けば、朝食の皿はすでに私一人分しか残っていなかった。パンとスープを手早く口に入れる。紅茶も今朝はあまり時間をかけずに飲んだ。片づけてくれる侍従たちに軽く礼だけ言って食堂を出る。彼らも忙しそうだ。

 ぶらぶらと廊下を行くと、大窓のところに人だかりができていた。中心は、と見るとエルヴィラ様である。

「おはようございます、エルヴィラ様」

 声をかけると、エルヴィラ様はくるりと振り返って、目を細め笑みを浮かべた。

「ヴィンフリートね。おはよう」

 今日の装いは、薄緑のスカートの裾と袖口がふくらんだドレスで、彼女の動きに合わせてふわりと揺れ、目を楽しませる。

「モウェル風のドレスでございますか」

「そうよ。お前も正装ね、似合っていてよ」

 言われて、己の服を見下ろした。布地は全て白で、金糸の縁取りもあるが、ボタンは木製で渡した紐は白、使っているタイも黒だ。

「略式ではありますが」

 と答えると、エルヴィラ様はおかしそうに声を立てて笑った。

「本式は晩餐会まで取っておいでなさい」

 機知に富んだ返事にくすりとする。

「そうですね」

 応じて、侍従たちが飾りつけをしている大窓を見上げる。ゆったりとひだをなすカーテンを飾り紐で留めたり、赤紫の六角形の紋章を飾ったりしている。描かれていたのは紅のバラと棘のある鞭の紋だった。

「……第六騎士団の印でございますか」

 問うと、エルヴィラ様はさらりと、

「ええ、ゲレオン殿の率いる師団ね」

 二の兄上に与えられた、王家の騎士団のうちの一つ。あまり趣味のいい紋章ではないが、歓迎の証なのだから仕方なかろう。そう思ったのを読みとられたかのように、エルヴィラ様が言う。

「本当は、他の紋を使いたかったのだけれど」

「……そうなのですか?」

 驚いて彼女の方を見上げると、軽くうなずかれた。

「ええ。祝いごとの飾りなのだし、〝王の紋章〟を使ってもよいと思ったの。でも、あの子は己が絵は分不相応だなどと言って辞退してしまったし」

 ああ、と私も納得してうなずく。祝いごとに際して、王が祝福を込め己で定めた図案を飾りつけの紋章に用いることは、我が国の伝統なのだが。

「一の兄上は、絵を描かれるのもお好きだと思っておりましたが……」

 幼い頃描きかけの絵を見せてくださった思い出からそう信じ込んでおっただけで、直に聞いたことはなかったな、と思って聞いてみると、エルヴィラ様はふふ、と笑って、

「そうよ、それに実のところ上手いのよ。けれど、頑固なのね……お前も知っているでしょう」

 私は呆れた顔をして首を横に振ってみせた。悪感情の現れか……二の兄上はむしろ、己が騎士団の紋を喜ぶだろうに。

 エルヴィラ様は笑みながら、

「お前は描かないの?」

 なぜ矛先が私に⁉

「わ、私でございますか?」

「ええ」

「あまり……描きませぬな、不得手なもので。絵画は見ること専門でございます」

 袖で口もとを隠しつつ目をそらす。エルヴィラ様はくすくすと笑った。また一つ不得手なものがばれてしまったな。どうにもこの方は人の口から話を引き出すのが上手い。

「では、次の時は一緒にアレクシスを説得して頂戴ちょうだい

 なるほど、兄上が絵を描いてくだされば、私は描かずともよいと。

「そういたしましょう」

 と笑っていると、背後からかつかつと靴音がして、振り返ると珍しいことに、カスパーとヒルデが並んで歩いてきていた。二人とも近衛の赤のベストに金縁のボタンをつけ、上等の靴を履いている。いわゆる礼装というやつだな。

「カスパー」

「ブリュンヒルデ」

 私の騎士の名を呼ぶと、エルヴィラ様も同じようにその騎士を呼んでいた。何だかおもしろく、ふふっと笑ってカスパーに近づく。

「おはよう、カスパー」

「おはようございます、ヴィン様」

 カスパーがぴしりとあいさつをする。いつもと変わらぬはずのそれから、少しの緊張と興奮が伝わってくる気がした。私もこやつも祝賀の気にあてられているようだと思うと、何となく笑いが込み上げてくる。

「準備はよいようだな?」

 ざっとその装備を上から下まで眺めて、たわむれに言う。はい、とカスパーは落ち着いた声で答えた。

「よく来てくれたわね、ヒルデ」

「本日は不肖の身ながら精一杯務めさせていただきます、王妃様」

 隣でエルヴィラ様とヒルデも声を交わしているのが聞こえる。

「あら、名で呼んでくれてよくってよ」

「はい、エルヴィラ様」

 おや、私がたまにカスパーとするやり取りと同じだ。王族のさがというものかな。信頼する配下を、より近くに置いておきたくなるのは。

 そう思って口の端を上げた。

「では行くか? カスパー」

 見上げ言うと、私の騎士がうなずく。歩き出そうとした背に、声をかけられた。

「ヴィンフリート、昼餉には戻っていらっしゃい」

「はい」

 振り返ってうなずき、ついでにつけ足す。

「承知いたしました」

 エルヴィラ様は優美にお笑いになった。このいたずらな返答を許してくださるのは、兄上の母君ならではだな。

 さくさく宮の廊下を進む。カスパーは後ろから歩調を合わせてついてきてくれた。すれ違う使用人たちの礼に、笑みやあいさつで答えながら訓練場を目指す。武棟の横の回廊から外へ出ると、今日に限ってはだだっ広い訓練場に人も馬も姿がなく、がらんとしていた。

「中々見るかいのある眺めだと思わぬか?」

「ええ、私も今朝そう思いましたよ」

 雑な感想に適当な答えが返ってくるのに満足して、足を速める。がらんどうで砂ぼこりの立つ地面を横切って、正門の方へ宮壁を伝って行くと、巨大な門の傍らに小さい戸が見えた。その前に兵士が二人立っている。近づいてゆけば、右側のが反応して顔を上げた。

「これは、王子殿下ではございませんか」

「また会ったな」

 と笑いかける。以前、訓練場でイグナーツと共に鍛錬しているのを見かけ、二、三言交わした間柄である。知り合いの友は何というのだったか? ……まあ知り合いでよかろうな、うむ。

「上へ?」

 と門番。まとっている衣は海老茶色のベストで、手にしているのは配給の槍だ。騎士と呼ばれ、名の通り騎馬の兵士である者たちとは一線を画すが、彼ら一般の衛兵も宮を守る立派な衛士であり、王宮騎士団の一員である。つまり、大ざっぱにいえばバルタザールの部下だ。

 イグナーツに聞いたところによると、王宮騎士の隊長のもとに若手の騎士と一般の兵士がまとめられ、一隊として任務を与えられるのだそうだ。

 ただの兵士と比べ、騎士の方が権能を持ち、帯剣を許可され、将来の栄達も見込める。が、責任も重く、馬術の技能、すなわち主君に命じられればどこまでも遠くへもお供するという決心もいる。

 そこにはいくらかの身分差もあり、武門に生まれたのでもない平民が武を志した場合、騎士ではなく兵士に志願することが多い。騎士という職はほとんど世襲のようなもので、騎士家などという言葉もあるくらいだ。イグナーツのように平民出身で騎士を名乗り得た者は存外少ない。一般兵から騎士隊長への叩き上げ、という事例もあるにはあるが。

 と、昨日までに詰め込み直した騎士団の知識を振り返っている場合ではない。

「ああ。上がってよいか?」

 門の上方を指差して尋ねると、衛兵たちはにこやかに戸を開けてくれた。

「もちろんでございます。どうぞ」

 戸の内側は折れ曲がった階段が螺旋を描く、塔のようになっていた。靴音をできる限り小さくする遊びにさりげなく挑戦しながら上っていく。

「ヴィン様、よろしいのですか?」

 ふいにカスパーが不安げに聞いてきて、私はくっと笑った。

「何がだ?」

「これですよ」

 と彼は石壁をコンと叩く。

「兄上にも言っておいたゆえ、支障はなかろう」

 くつくつ笑いながら返すと、カスパーは眉を下げて微笑んだ。

「そうですか」

 上り切ると扉があって、開けると心地よい風が吹いた。涼風が頬に当たる。階段のせいで身体が火照っていたので、そのままにして目を細めた。

 宮壁の上に狭い通路が造ってあって、漆喰の塗られた両壁のてっぺんには一段高く積んだ石が一つ飛びに連なり、矢を射かけるための穴ができている。石造りの床をこつこつと音を立てて歩いた。視界の隅、通路の奥の方に見張りの兵が立っているのが映る。

 壁に片手をかけて、王宮の外を見下ろした。正門から伸びる曲がりくねった道、それがたどり着く街壁の門は開かれていて、その向こうの大通りまでよく見える。大通りの街灯には旗が飾られ、時折吹く風にたなびいている。赤紫と白の線が、街というキャンパスの上に描かれたかのようだ。

 街の人々も忙しなく動き回っているのが見える。……帰ってくる騎士を子に持つ親も、配偶者に持つ若者も、あの中にはいるのだろう。

 しばらく街を見つめていると、背後が騒がしくなった。振り向くと正面扉が開き、兄上が出てこられるところだった。正門から宮まで続く白い石畳の広場の中ほど、三段分上に造られた壇上に、兄上と護衛や文官たちが並ぶ。

「見てみろ、カスパー。兄上はさすがだな」

 兄上は白と金の正装をして、右の手に大きな杖を持っていた。細い金の柄で、上に金細工の球がついており、その周りを小さな輝きのような玉が輪に乗って取り囲んでいる。星の光や輝きを表すものだという、上から見れば三重に交差しているとわかる輪の上の玉は、六角星を描いているそうだが、ここからでは遠すぎるな。

 ユースフェルトの王権の象徴たる金杖。

「あの杖もよくお似合いだ」

「ええ」

「……後は冠さえあればな」

 呟く。カスパーはこちらを見つめるだけで答えなかった。今言っても詮ないことか。

「お、ジークもおるぞ? からかいに行ってやればよかったな」

「おやめください」

 苦笑された。

「ヨルクがおればまず行ったろうがなあ」

「それは可哀そうですよ……ヨルクめも今ばかりは、儀礼の場に参列できる位がないのを喜ぶべきですね」

 私はそれほどひどくはないはずだが?

 くくっと笑って、少し身を乗り出す。大扉からエルヴィラ様がいらっしゃるのが見えた。後についているのはヒルデだな。おお、文官長も見えておる。

「エルヴィラ様がこうした場にいらっしゃるのは珍しいものよな……む」

 量の少ない黒髪をした、痩せて他よりいくらか背の低い男。深緑の衣をまとって、いやに堂々とした態度で立っている。

「……宰相もおったか」

 ぼそりと呟く。私の視線を追ってか下を見ていたカスパーが、顔をこちらに向け、問うた。

「ヴィン様、その……此度の式典に、参加なさらないのは」

 言い、言葉を探すように口をつぐむ。

 ああ、と私はうなずいてみせた。

「案ずるな、特に意図があってのことではない」

「では、何故……」

「単に年の問題だ。姫たちもこの、帰還報告の式典には参加せぬだろう? 私はまだ正式な場に参列したことがないゆえな」

 ユースフェルトでは、王族が出席を求められる様々な催しがあるが、私は後宮にいたためほとんど経験していない。新年の挨拶や、貴族との晩餐会などは何度かあったが、正式な公の場への参入はまだなのだ。そして大抵、初回の参加は、大きな式の時であることが多い。

「私の場合は、このままいけば豊穣祝祭の時になるだろうな。とはいえ今回も夜の食事会には参加するし、樹曜日の晩餐会にも出るしな」

 と告げて微笑む。

「何も心配することはない。こうしてこのようなところから式を見物できるのも楽しいだろう? お前のことは連れ回してしまってすまぬが」

「いえ」

 ふっと笑んで、私の騎士は、

「それを聞いて安心いたしました。私はどこへでもお供しますよ」

 と言うので笑んで返した。

 遠くからぼんやりとラッパの音が高く、低く響く。街の方からだ。兄上の背後に並ぶ、控えていた侍従が同じ音色を響かせた。

 合図だ。

 街の大通りがわっと沸き立つ。少し待つと、騎馬隊が列をなしてやってくるのが見えた。

 先導する二頭は、首から赤紫の地にバラと鞭が描かれた飾り垂を下げている。騎手も背筋を伸ばし、磨き上げられた黒い鎧をまとっていた。

 そのすぐ後ろに、一際立派な体格の栗毛の馬に乗った、銀に輝く鎧の男があった。金の房のついた黒い兜をかぶっており、顔は見えぬが。

 あの威張りくさった、腹が立つほどに王者然とした態度、間違いようもない。

 一年半……いや、まともに顔を合わせるのはそれ以上ぶりかもしれん。よくもかように戻って来られたものだ——二の兄上!

 その背後にはずらりと黒鎧の騎兵たちが列になって行進している。街の人々に手を振って挨拶する者もあった。

 台地の坂のふもとまで来ると、前方の一部以外は立ち止まり、整列する。少数になった一隊が馬蹄をとどろかせながら丘の道を駆け上り、正門をくぐっていった。

 足もと近くを多くの騎馬が通っていくのは壮観だったが、銀鎧の男が、正門をくぐる一瞬顔を上げ、ちらとこちらを見たのと目が合った。茶色の鋭く強い瞳と視線が交わる。やつがにやりと笑むのが見え、つい眉をしかめて睨み返してしまった。

 やつはふっと笑い、そのまま正門を抜けていく。その後をどどっと本隊が追っていった。それを追いかけるように、体を門のうちへ向ける。

 銀の小手をつけた手が挙がる。それを合図に、騎士たちはいっせいに馬から降りた。よく統率されている。こういう才だけは認めざるを得ん。

 やつが馬から降りる時にも、光が反射して銀の輝きが走った。男がかぶとを脱ぐ。後ろになでつけて固めてある、真っ直ぐで少し跳ねた焦げ茶の髪に、精悍な顔立ちがあらわになる。

 こつこつと靴音を鳴らして階段を上り、一の兄上の前まで来ると、二の兄上は右手を心臓の辺りに添えかかとを合わせて軽く頭を下げる、騎士の礼をした。一の兄上が促すようにうなずくと、顔を上げた二の兄上が声を張り上げる。

「第六騎士団、帰還致しました!」

 報告を受け、一の兄上が金杖の底で床を打つ。シャン、と鈴が鳴るような音がして、ふっと空気が変わった。

「務めご苦労」

 兄上の声が広がって響く。

 ……まじない石か! 私はさっと右手を上げ、風を集めた。ここでは少し、大きく聞こえすぎる。

「第二王子ゲレオン・ユースフェルト騎士団長麾下、第六騎士団。よくぞ戻った。次回のセゼム国境派遣兵選抜まで、しばしの休息を与える。時を無駄にせず、英気を養うように」

「はっ!」

 凛と涼やかな一の兄上の声に、騎士たちが一斉に踵を踏み鳴らしざっと礼をする。

 式典の終わりを見て取り、風を解放した。ひゅうと風が吹き、髪を抑えたカスパーが言う。

「ありがとうございます、ヴィン様」

 その目が不審げにすがめられるのが、視界の端に見えた。

「……ヴィン様?」

 もう一度呼ばれ、ああ、と表情を意識して和らげる。

「何だ? カスパー。興味深いものだったな」

 眼下では騎士たちが予定されていた通りに散開していっている。一の兄上とエルヴィラ様は大扉から宮内へ退出なさり、二の兄上は隊員の後を悠々と歩いて行ったのが見えた。

「……そうですね。境に遣わされるだけあって、優秀な兵なのでございましょう」

 カスパーが戸惑った様子で会話をつなぐ。

 すまぬな。お前には今の私の思いなど知らせたくないのだ。少しだけ、許してくれ。

「お前たちも優秀だろう?」

 そう言って笑うと、私の騎士は苦笑して、それからふふっ、と笑ってくれた。

「戻られますか」

「……いや、もう少しだけ見てゆこうではないか。今下りても混雑に巻き込まれるだけだぞ」

 一時いっときに移動していく兵と馬たちを見やる。エッボら馬番も苦労するだろうな。一週間程度の滞在の予定でよかったと言えよう。

 はい、とカスパーがうなずく。七刻を知らせる鐘が鳴る少し前に城壁を下りた。


 昼食は結局、兄上のおられぬ執務室で、簡単につまめる小さなパンを食べていた。これではいつもとあまり変わらん。

 大きな机の横に木の小さな椅子を持ってきて、机に片肘をついて掛けていたので、どうやらつまらなそうに見えたらしい。ベンノがちらちらとこちらをうかがっていた。

「……どうした?」

 くすりと笑って問うと、淡茶の髪の若い騎士は飛び上がり、

「いっいえ! 何でもございません!」

 と挙動不審になる。おもしろいのでからかってやるとしよう。

「暇だと思わぬか、ベンノ?」

「そのような……わ、私は職務についておりますので」

 『私』とは言い慣れておらぬのか? ふむ、確かに私のように幼い頃から儀礼だの何だのを仕込まれでもせねば、最も正式な自称詞は扱いにくかろう。まだまだ可愛らしいところがあるものだ。

 ふふ、と含み笑いしていると、ベンノは気恥ずかしげに、

「その、ただ、なぜそちらの椅子にお座りなのかと気になってしまって」

 何だ、別に私の態度のことではなかったのか。

「ああ、まあ、ついいつものくせでな。考えてみれば、主のない椅子というのもおかしなものだ」

 兄上の大きな椅子を振り仰ぐ。常はそこに兄上が座り、私はその隣で今のようにして昼食にしているから、気にもしておらなんだ。よく考えると机の横に座っている図というのは中々奇妙だ。

「律義ですね」

 とカスパーが微笑んで口を挟む。

「……そうか?」

 と私は首をひねった。主のない時に勝手に人のものを触らぬという点では、まあ、そうかもしれん。

「そういえば、椅子というとおもしろい話があったな」

 ふと思いついて、ついでに口にしてみると、ほお、と二人が聞く姿勢を見せる。

「王の椅子には、認められた者以外掛けられぬのだそうだ」

「王の椅子……ですか?」

 ベンノが小首を傾げる。

「……どこかで聞いたような。ヴィン様、どこからそんな話を?」

 カスパーは眉を寄せて疑っているようだ。さてはよくある侍従の与太話だと思っておるな?

「私は玉座かと思うのだが、な。認められぬまま掛けたらどうなるかと思うと、確かめるわけにもゆかぬし」

「玉座はだめですよ⁉」

 真面目だな、ベンノは。

「ううん……王家や貴族の子女をたしなめるための詭弁にも思えますが……」

 とカスパーは苦笑気味だ。

「夢がないな、カスパー。古い魔法やもしれぬぞ」

「古いと言いましても、千年の四半分ほどでは」

「それは我が国の宮の話だろう?」

 などと言い返してみるが、特に意味はなかったな。

「ともあれ、この椅子には呪いも魔法もなかろうが」

 と兄上の椅子を見上げる。

「今は一の兄上以外に座ってほしくはないものだな」

 例え私であっても。

「……そうですね。これからどちらかへ行かれますか?」

 ややあってカスパーがうなずいてくれ、そう聞いてくる。

「しばらくは動かん。暇つぶしに付き合ってくれ、二人とも」

「何故……」

 うむ、我が騎士に呆れられている気がするが、私は聞き入れぬぞ。

「祝いの紋章に浸食されておらぬのがここぐらいのものだったのだから、仕方なかろう」

 ふんぞり返って言うと、騎士たちは無言で私を見つめてきた。そんなことで私が動くとでも?

「……ヴィン様……もしや、二の」

「エルヴィラ様が張り切ってしまわれたからな。飾り付けとなればあのお方の領分ゆえ……だがもう少し赤紫は減らしていただきたかったな」

 カスパーの言をさえぎる。いつものように呼んでくれようと、その質問には答えぬからな。

 開きかけた口を閉じたカスパーに代わり、ベンノが懐っこく問うてくる。

「王妃様でございますか? 祝いの飾り付けとは」

「おや、知らぬのか?」

 私は何となく指を空中に掲げ、円を描いてみせた。

「あの方のお力だ。空間を把握する、とか、距離を感じ取るとでも言えばよいのかな。祭りに際しての装飾は、この能力を活かせるとおっしゃって、お好きらしい」

 この王宮全体を思い描いて飾り上げられるのだ、と聞いたことがある。おかげでエルヴィラ様はどこへ行かれても迷わない。一度中庭でもお会いしたことがあるが、あのように神出鬼没と言っても過言では……言い過ぎか。長年暮らしている後宮でさえ道に迷われるヤスミーン様とは対照的だ。

「そうでしたか……祝いの席の華やかなのは、王妃様のお力もあってのことだったのですね」

 ベンノは感心してうなずいてくれる。カスパーはヒルデにでも聞いておったのか、後輩の素直な様子に微笑ましげにうなずいていた。

「そういうことだな。……しかしすることがない。訓練場が開いておれば」

「今日は無理でございましょう」

 無茶な希望を言うとあっさり無下にあしらわれた。仕方あるまい。

「では何かおもしろい話でもないか? カスパー」

「私ですか? そうですね……」

「ベンノでもよいぞ」

「えっ⁉ ええ、何かございましたかね……」

 とりあえず雑談に興じておくとしよう。


 降の刻になると侍従が捜しに来たので、内宮へ戻った。部屋ではアリーセとエーミールが待っていて、

「ヴィン様、お仕度を」

 と告げる。エーミールは緊張した様子で、細い面を白くさせていたので、私は微笑みかけてみた。

「よろしく頼むぞ、エーミール」

「はいっ」

 エーミールは微妙に跳ねた声で返事をする。……私も少しは周りに優しくできる者になれたかと思っておったが、まだまだということかな。

 上着やベストを整え直してもらい、その間に顔や髪の手入れをした。靴もいつも履いている淡茶色のものから、より上等な白いものに替える。ぴしりとした白いベストの茶の布のボタンを留め、上着のボタンに白い紐を渡し、結ぶ。タイの位置を調整し、鏡を見る。

 略式の正装の己が、そこにいた。

 矛盾しているように思えるが、本式の白の正装は金のボタンと紐を使う。タイも白だ。これから開かれる夕食会に礼を尽くしつつ、若干くだけたものでよいという姿勢の表れ。

 本式の正装は別にある。母上が作らせた青の衣装と、式典などで使いがちな白の衣装の二つだが、こればかりは豪奢なものが減った衣装部屋にも残されていた。やれやれだ。

 鏡の中の己の見た目は、まあ、悪くないだろう。さりげなく後ろに流した金の髪も、自賛ではあるが似合っている気がする。

「どうだ?」

 ちらと後ろを振り返って確認をとる。よく似合っておいでです、とアリーセは言ってくれ、エーミールもなぜか赤くなりながらこくこくとうなずいた。彼も靴を持ってきてくれたり、櫛を渡してくれたりと、

「手際よくしてくれたな。ありがとう」

 礼を伝えると、二人とも満足げに軽く頭を下げる。

 ちょうど二刻を過ぎたところだ。部屋の戸を開け、声をかける。

「カスパー、いるか?」

「はい、ヴィン様」

 すぐ横から返事があった。その顔は優しく笑んでいる。ふいに、すまなく思った。

「……苦労かけるな。終わったら休んでよいぞ」

 今日は思っていた以上に彼を引っ張り回してしまった。明日からもずっと護衛を担当させるのに。

「いえ。この程度でへこたれませんよ」

 が、カスパーがそう言うので、笑ってしまった。

「全く。頼りになるな、我が仕え人たちは」

 くすくすと笑う。騎士を背後に引き連れ、廊下を進んだ。赤紫の紋章が飾られた大窓が、ずらりと並んでいる。

 ……いや、我慢ならん。はっきり言って趣味が悪い。誰だ、第六騎士団の紋を決めたやつは!

 一瞬眉をしかめたが、すぐに目的の戸が見えてきたので、表情を変えた。目線は大人しめに、少し下げる。口もとは引き締め、かすかに笑みを浮かべ、背筋を伸ばす。

 そうしながら、気づいた。この公の顔だけは、母上がいた頃のものから変えそびれていた、と。

 しかし……一の兄上の隣ならともかく、二の兄上の目の前に座ることになるというのに、違う顔も選べん。迷ったのは束の間。表情を作り、扉の前に立つ侍従にうなずいてみせた。侍従が礼を返し、戸を開ける。

 常用の食堂とは段違いに広い、国賓のための食堂であった。

 天井は高く、壁と同じ白に塗られ、柱と梁は金。いくつもの風景画が掛けられ、華を添えている。巨大なクロスがおおう長机には、人数分の椅子と銀器が並べられていた。中央でゆらゆらと揺れるろうそくの炎に、小さな花瓶に咲く色とりどりの花々が色味を変えている。

 既に兄上とエルヴィラ様は席についていた。それが常と異なり、お二人が向かい合わせになっているのを見て、やはりな、と胸の内で落胆のため息を零す。

「席につきなさい、ヴィンフリート」

 兄上が落ち着いた声で、私の愛称でなく正式な名を呼ぶ。

「はい、兄上」

 私もその調子に合わせて答えた。エルヴィラ様の隣に腰を下ろす。

 厄介だ。今宵の席に、王はない。

 当然か、これから次代の王について話し合う者が集う席で、王がいるなど言語道断だ。

 続いて開かれた扉からは、後宮の方々が入ってきた。金の巻き毛を一部編んで黄色のドレスを着て、目を輝かせて、けれど大人しく黙っているアルマ。長い髪を頭飾りで留め、深緑のドレスをまとい、妹とは逆に目を伏せるジルケ。深緑は大人っぽすぎる気もしたが、ジルケにはあの生来の思慮深さがある。彼女の好みなのだろう。姫たちを促すようにして入ってきたのは、気に入りの紅と朱のドレスのカーリン様。広く開けた胸もとに赤い宝石が光る。そして、ヤスミーン様。青緑と茶という渋い色合いのドレスだが、その文両耳の不思議な色をした——銀の中に青や緑や黄が遊んでいるような——耳飾りが目立った。

 ヤスミーン様は私の予想に反し、優雅に微笑んでおられた。息子のことについてどう思っておられるだろう……とは思うが、問うわけにもゆかん。

 四人が侍従たちに引かれた椅子に座る。私は隣のアルマと向かい合うジルケに、少し笑いかけた。

「今日はおしゃれだな、二人とも」

 末姫は嬉しそうに満面の笑みになり、ジルケも恥ずかしそうにはにかむ。

 空席はあと一つ……私の向かいに。

 次に戸が開かれた時、その男は入ってきた。銀の鎧はどこかへ脱ぎ捨ててきたらしい、王族の正装、白と金の衣をまとっている。

 久しぶりにしっかりと顔を見ると、ジルケとも同系統の彫りの深い目鼻立ちに、父王に似た角ばった輪郭をしていた。髪は後ろになでつけた、短めの真っ直ぐな焦げ茶。瞳は父王と同じ茶で、鋭い光を放っている。一の兄上よりも少し背は低いようだが、肩幅があり、体格がしっかりしているので引けを取らない。王家の中で唯一の騎士である賜物だろう。戦士らしい堂々とした足取りで踏み入ってくると、二の兄上は私たちに軽く頭を下げた。

「もうお揃いだったとは、遅れ申したか」

 色の薄い唇に不敵な笑みが浮かんでいる。

 見る度、かつて誰かが言っていたように、鷹のような男だと思う。獲物を狙うがごとき眼光、自らが主とでも言うかのような不遜な態度。それを誇り高き者として見て取る者は多かろうが、私はそうは思わん。こやつは確かに、肉食の猛禽が如き男だ。だが、本物の鷹が持っていると言われる高潔さなど、一つも持ち合わせておらん。強く格好よさげに見えはしても、内に巣食うものは荒々しいだけだ。

 などと考えつつ、私は作った表情を動かさないでいた。一の兄上が隣の空席を目線で差し、言う。

「定刻通りだ。まずは座るとよい」

 二の兄上は機嫌よく目を細め、席についた。対面する形になる、が、やつは私を見てはいない。一の兄上がその視線に答えるように口を開いた。

「よく戻ったな、ゲレオン」

 さて、二の兄上は何と答える?

 以前から予定されていた帰都の折まで、宮に戻れという催促をのらりくらりとかわし続けておった訳は何だ?

 一の兄上の一言にその問いが込められていることは考えるまでもない。しかしやつは微笑んだのみだった。

「ええ、戻りましてございます。大隊を率いてというのは初のことでした故、苦労致しましたよ」

 二の兄上を代表に大隊が帰都するのは初というのも、例の言い訳にありはしたな。……一の兄上も顔色を変えてはおられん。嘘を言っているのではないからだろう。

 そう簡単に尻尾を掴ませてはくれぬか。……これは疑惑がまことと仮定しての感想だが。

 侍従たちがグラスに飲み物を注いでゆく。見た目ばかりは穏当な夕餉だった。盛り付けも味も普段より豪勢な食事。姫たちには久しぶりのことだったのだろう、楽しそうに食べている。

 食事の最中にも会話が成された。

「境の様はどのようでして? 兵たちを取りまとめるのは大変だったでしょう」

 エルヴィラ様が尋ねる。

「境は静かなものでしたよ。おっしゃる通り、兵をまとめるのには努力を要しましたが……私の指示のもと動く者どもを見ると、甲斐あったと思えましたね」

 返事におかしなところはない。ただ、兵たちを意のまま動かすものとして見ていることに、違和感があるのはなぜであろう。

 二の兄上が変わったのか、私が変わったのか?

 兵を手の内の駒としてしか見ておらぬ。こやつは、一度でも、今朝の私のように衛士と会話したことがあるだろうか。

 他に、国境派遣の任務について上座の三人が問答を交わした後、ついにヤスミーン様が唇を開いた。

「……久方ぶりの帰省だけれど、ゲレオン。母に帰宮の挨拶の一つもせぬとは、何事ですの?」

 変わらぬ微笑、静かな声音、そこに秘められた怒りの気配にはっとする。私は斜め前のジルケと目を交わし合った。ヤスミーン様が、怒っていらっしゃる? 何とも信じ難い。平生清らかな流水のように穏やかなこの方が?

 ジルケは細い眉をひそめ、薄紫の大きな瞳で私に語りかけるように瞬く。母君がお怒りのようだ、と。

 ヤスミーン様の怒気をたたえた微笑に少しも気づかぬように、二の兄上は口角を上げたまま答えた。

「おや、これは母上、ご連絡差し上げたではありませぬか。今日のうちではいささか性急、明日参りましょうと、遣いを」

「あら」

 ヤスミーン様の控えめな紅を引いた薄い唇に、不思議な笑みがひらめく。

「時間はありましたでしょうに、不精な子ね」

 これまでヤスミーン様と二の兄上の会話をまともに耳にしたことはなかった。ヤスミーン様の口調は、以前聞いた母上への独白と同じ、優しいものだ。なのに語気はまるで違う。

「これは手厳しい! 母上には敵いませぬな」

 が、やつはわざとらしく哄笑する。卓の者は他に一人も笑っておらぬというのに。大きな声に、ジルケがかすかに嫌そうに身を引く。

「そう思うなら、詫びを入れるべきではありませんの、ゲレオン?」

 ヤスミーン様はカトラリーを動かす手を止め、優美に笑む。怒っている時の笑みが美しい人というのは、初めて見た気がするぞ……。

「いや全く、その通りでございますな」

 二の兄上もまた、厚顔な笑みを崩さない。

「お約束通り、明日にはお伺いいたしましょう。どうやら我が遣いはお役に立てなかったようで、申し訳ない」

「任を果たせなかった、とお言いなさい。長らく手紙も寄越さない筆不精も叱って差し上げましょう」

 ヤスミーン様の答えは、やはり不思議な色を帯びていた。

 デザートが運ばれてきて姫たちが喜んだので、話は流れ去り、食事が終わると、二の兄上が真っ先に席を立った。一の兄上が、お前は疲れていることだろう、しっかり休養せよ、と告げたからではあるが。

 他の者より広い白の背中が扉の向こうに消えると、一同に流れる空気がほんの少し弛緩する。……やはり、あの男は歓迎されておらぬのだ。

「おなかがたくさんですー」

 アルマが眠そうなとろんとした声で、可愛らしいことを言う。ふふ、と笑って、私とジルケはアルマの柔らかな頬をつついた。

「それはおもしろいことになっておるな、アルマ?」

「たくさんとは言わないのよ、アルマ、そういう時はいっぱいと言うのですわ」

 言葉と指の両方でつつかれたアルマは、薔薇色の頬をふくらませ、

「いいの! たくさんいっぱいなのです!」

 と主張した。私もジルケも笑ってしまい、紅茶が飲めなくなる。アルマの細く柔らかい金の髪を、編み込みを崩さぬようになでながら、私は改めて二人の装いをほめた。

「二人ともよく似合っておるぞ。樹曜日の夜会でも同じ格好か?」

「いいえ! もっとかっこういいかみがたにしてもらいますっ」

 アルマが元気よく答える。

「なるほど、この髪は侍従たちの練習か」

「ええ。私も髪型を変えますわ。それに首飾りもしますの。明るい紫の石にするつもりですわ」

 とジルケも笑む。

「それはよいな。お前の瞳に合う。……衣は、深緑で行くのか? もう少し明るい色でも似合うと思うが」

 さりげなく心配なことを尋ねると、ジルケはどうしてか顔を明るくさせた。

「もう一つ、ひみつがございますの! 楽しみにしていてくださいな、お兄様」

 その笑みが楽しげだったので、私はそうか、とだけ微笑んで返した。

 食後の茶を飲み干し、寝る刻限も近い姫たちを連れてお二人の妃様方が退出なさると、食堂はしんとした。兄上もエルヴィラ様も難しい顔だ。この夕食会での二の兄上への探り入れは上手くゆかなかったのだから、私の予想通りではあった。可愛い姫たちもいなくなってしまった以上、このだだっ広い食堂に私が留まる理由もない。

 お二人にあいさつして、カスパーを伴って部屋へ戻った。彼にも、湯殿の支度をしてくれていたモニカにも、最低限の礼以外口を利かずに寝てしまったが、彼らは何も言わずにいてくれた。



 翌日は、平服をまとって図書館へ出かけた。一の兄上からは執務室立ち入り禁止令が出ている。執務室を通らねば資料室にも行けぬから、勉強もできん。強制的休みである。そして私は、日常していること以外に、これといった趣味もなければ、惰眠をむさぼる性格もしていなかった。何ということだろう。

 昨日からずっと言っているような気がしてきたが、暇だ。気のせいだろうからもう一度言っておく。

 今日は第六騎士団のための休養日となっている。明日は、私は参加できぬが次の派遣隊への引き継ぎの会議、明後日にはとうとう、王位に関する話し合いがもたれる予定だ。その間、私のような子どもが侵入でもして必要な書類を荒らしては困るといった判断だろう。

 前科のある身だ、この処遇には納得している。しかし暇だ。私は二の兄上のように長い騎馬で疲れている訳ではないのだ。

 暇をつぶすのによいのは、やはり本であろう。知識を与えてくれる上に、飽きん。今している勉学に関係ない物語を読んでもよかろう。そう考え、私は適当に本棚の林の中をうろついていた。

 ふと手が伸びたのは、青に染められた革の装丁の本であった。表題は『ジルヴェスター三世の王冠』というものである。

 以前にも読んだことはあるゆえ、ぱらりぱらりとめくっていった。百年ほど前の世に流行った戯曲だった。場面の説明と登場人物の台詞のみで進んでゆく書き物。当時は実際に劇として上演され、王都を沸かせたという。これは、二百年ほど前の歴史的な事件を如実に語るものであった。

 時の王ジルヴェスター三世は、その御代を穏やかな気候とそれによる豊かな実りに恵まれ、何とも情けないことに、食べ過ぎで病床についた。倒れた彼の手から王冠はこぼれ落ち、回復した時には、王宮は様変わりしていた。

 彼には四人の子がいた。皆男児で、王子である。上の二人は初めにめとった妃に、下の二人は先の妃が亡くなった後迎えた後妻に生ませていた。上の二人が年が近く、後妻の方が先妃より身分が高く貴族の支持があったために、王太子は定まっていなかった。王が倒れた途端、王子たちは冠を奪い合ったのだ。四番目の末子はまだほんの赤子で、彼を擁立しようとする者はいないも同然、わずかな勢力も三の王子に取り込まれたので、実質三人の王子による内乱であった。

 もうわかると思うが、あの『わるい王さまと、かんむりのかけら』のもととなった史実である。

 二の王子は軍隊を掌握し、西のナベルト山脈に近い土地を占領、武によって己を主張した。三の王子は生まれの高貴さから貴族の支持を得、豊かな南方の地を拠点に声高に正当性を語った。一の王子だけは王宮に残り、王を助けると申し出た。王が下した命令は、岩渚クイシェへ赴け、というものであった……。

 私は本をぱたりと閉じ、棚へ戻した。戯曲は一の王子の活躍を中心に展開する。後のことは絵本を読むだけでもわかる。代わりに、赤みを帯びた表紙の太い本を手に取った。

 図書館の入り口にカスパーが立ってくれていた。彼に声をかけ、廊下に出る。宮には祭りの感じがただよい続けている。二の兄上の帰還報告という一大催しが終わっても、実は樹曜日の晩餐会こそが、主な行事であるのだった。

 使用人たちは久々の華やかな雰囲気を喜んでいるようだ。私は、主役があの男であるという点で、喜べん。

「ヴェントゾが来ぬかもしれぬし、お前は回廊で待っていてくれぬか、カスパー?」

 ささやかな頼みごとに私の騎士はあっさりうなずいてくれ、私は一人で庭へ出た。今日は執務室の横の芝生へは行かず、謁見の間の窓が見える木陰の長椅子に腰を据えた。

 本を開く。あの青い本のようなうっとうしい話ではなく、悲しみもあるが喜びもある、勇者アルトゥールの冒険譚だ。書かれた難しげな単語も理解できる歳になってからは何度も読んで、流れはすっかりわかってしまっている。

 ヘマにもすすめたな。私が彼女に教えてもらったティエビダの将軍ペルカの行軍誌を読んでみたように、ヘマも頁をくってくれただろうか?

 ひっそり笑って真ん中辺りの頁を開いた。勇者アルトゥールと、星の民と称される民族ユーザルの姫アストリッドが出会う場面だ。

 文字を追おうとした時、風が吹きつけた。本を手で押さえる。風が止むと、いつものごとく、ヴェントゾが目の前に浮いていた。

「やあ、ヴェントゾ、お前も読むか?」

 誘えば青い目を輝かせて膝に飛び乗ってくる。私は笑って本を見せてやった。

『美しい女性が、海の縁に立っていた。夜色の波打つ髪、ユーザルの衣はくるぶしまであり、白い足の指と薄紅の貝殻のような爪が波に浸っていた。彼を見つめるその瞳は銀の輝きにして、星の煌めきであった』

 各地の人々を救いながら旅を続け、その道中女の色香には戸惑う様もあった若きアルトゥールが、恋に落ちる場面だ。

「舞台は、細かくどことは伝えられておらぬが、星海の浜辺だろう」

 とヴェントゾに教えてやる。本当にわかっているのかは知らぬが、ヴェントゾはうなずいて聞いている。

「おもしろいのは、この物語は、ユースフェルトの名所が多く出てくるのでな、人々がそこに旅行し伝説に触れる気分を味わうこともあるというのだ」

 ヴェントゾは不思議そうに首を傾げた。

「私も見てみたいものだがな」

 にゃあ、とあいづちが返ってくる。

「お前、よい聞き手だな?」

 私は笑って白い毛並みをなでた。

『静けさと、何にも代えられぬ時が、そこに流れていた。黒土の瞳と星の瞳は、互いを捉えて離さぬ。幾らかも分からぬ刻の後に、勇者はようやく問うた。

「ここで、何をしているのだ」

 答えは明瞭であった。

「星を集めようとしているのです」

 伝説は真実であり得るだろうか? 若き戦士は一歩を踏み出した』

 ヴェントゾが考え深げに——そう見えるだけだが——小首を傾げるので、私は解説してやろうと指を掲げた。

「これはな、彼女は、『星くずを集める者』として、〝星の姫〟と呼ばれておったのだよ。姫は、」

 そこへ耳に届いた声に、口を閉ざす。

「——お前らは、ここで待て」

 何者をも寄せつけぬ命令口調、昨夜聞いた声。姿勢はそのまま、本に目を落とし、早口の小声で告げた。

「ヴェントゾ、後ろに隠れろ」

 声が焦りを含んでいたのが伝わったのだろう、白い毛玉は私の背と長椅子の背もたれの間にその身を滑り込ませる。じっと本を読んでいるふりをした。願いが叶うものなら、来るな。

 が、祈りむなしく、本に黒い影が落ちる。心の中で舌打ちして、渋々顔を上げた。

 猛禽の顔つきをした二十歳と三つの男が、私を見下ろしている。兄上のたった一つ下とは思えぬ、がきのように非礼な男だ。無礼者が歪めた口を開く。

「久しいな、ヴィンフリート。帰った兄に挨拶もなしとは、失礼なやつめ」

 鋭い目も口元もにやりとしている。会話を始めて即刻、私の中で何かが切れた。

「お久しぶりでございます、二の兄上。失礼とは、昨夜私や姫たちにもお声をおかけくださらなかったのはそちらでございましょうに、何をおっしゃるやら。久しく離れて、王宮の流儀も忘れなさったか」

 思わず舌戦の先鋒に打って出てしまった。二の兄上は大声を上げて笑う。

「はははっ、変わりないな! 後宮を出て少しは従うことを覚えたかと思ったが」

 沈黙で答える。従う心があったとしても、それはお前に向けるものではない。

 笑いを収めると、やつは本に目を留めた。

「それはアルトゥールの本か? いや、まこと、変わらぬものだな。相変わらず……幼い」

 ……一々、気に障るやつだ!

 きっとにらみつける。私のできる限りの鋭い視線を受けても、男はその薄ら笑い一つ動かさない。そして、火の種を落とした。

「婚約者ができたと聞いたから、女くらい覚えたかとも思ったのになあ。見事に子どもだ。がっかりだよ」

「……っな⁉」

 動揺が黙って座っていることを許さなかった。がたりと音を立てて立ち上がり、叫ぶ。

「何を言っている! どこでそれを、……っそもそも間違っておるぞ。婚約が成ったわけではない」

 途中でそれを呑み込み、ごまかした。ヘマのことを事細かにこやつに知られてはならん。どこのどいつだ、漏らしたのは!

 二の兄上は私の疑問に答えるように、

「どこで? ……口の軽い女くらい、どこにでもいるだろう?」

 その暗い悦びを宿す目に、顔をしかめてみせる。風に乗った女のつける甘い香水の匂い。なぜ顔にだまされる女性などというものがいるのだ? こやつはそれ以外に美の要素など持っておらぬし、表情はそれすらも打ち消しているのに。内宮の侍女たちの中にそれほど口の軽い者がおるとは、思いたくなかったぞ。

 暗い茶の目が、ふいに矛先を変える。

「お? 何だ、そいつは。お前、猫なんぞ飼っていたか」

 止める間もなく、ヴェントゾがひょいとその手につままれていた。ヴェントゾが四肢を振り回し暴れて鳴く。

「っ返せ! それは預かりものだ!」

 慌てて手を伸ばした私に、やつは酷薄な笑みを浮かべ、

「ふうん? ……壊したら、お前は困るのだろうな。一つやってみるか?」

 さっと血の気が引いた。思考停止した頭と反対に、体の方がとっさに動いた。手に持った本でその腕を殴りつけ、もう一方の手で白い子猫をかっさらう。

「……!」

 つかんだものを失った片手をにらみつけるやつに怒鳴りつけた。

「からかうのもいい加減にしていただこう! これに手を出せば国際問題になるぞ、貴様の斬首も確定だ! やってみるがいい!」

 くるりと背を向け、失礼する! と言い捨て、私はヴェントゾと本を懐に抱えて、宮へ駆け戻った。回廊の出入り口にいた騎士とぶつかり、すまん、とだけ謝ってひた走る。

「ヴィン様!」

 カスパーの呼ぶ声、彼の追ってくる足音。それにも足を止めなかった。庭から二の兄上の哄笑が響く。

「——あの程度の冗談で逆上しおって、つまらぬ餓鬼だ!」

 何という……! 油断していた。あれは昔から私や姫たちを見る度悪い冗談を言ってきたものだが、此度は度が過ぎる。知らぬのだろうとはいえ、あれが考えなしに婚約話に乗ったせいで、大変な問題になりかけたティエビエンの大事な王猫の子だぞ! 私の周りのものが槍玉に上げられることも考えておくべきだった……!

 ヴェントゾは大切な子だ。私だけではない、ヘマにとっても、ティエビエンにとっても、すなわち我が国にとっても。何かあれば彼女に、皆に申し訳が立たん。

 駆け入ったのは内宮の自室だった。書き留め用紙にしている古い紙を破って小さくし、ペンを掴む。乱暴に椅子を引き、乱れた字で手紙を書いた。それを握り、部屋を出て裏大路へ行き、物置部屋の戸を開ける。確か、あの木箱の中に。

 がたがたと箱を持ってくる。追いついたカスパーが、呼吸を整えながら問うた。

「ヴィン様……? 何をなさっているのです」

「少し待っておれ。すぐに済む」

 以前の王宮探検が、とんでもなく役に立った。輪のついた、銀色の小さい筒がすぐに見つかる。赤い紐も。紐を輪に通し、懐の中のヴェントゾを抱え直して、物置を出る。足早に塔のある方の出口に向かい、そこにカスパーを立たせた。

「見張りをしていてくれるか? 少し出てくる」

 私の持ったものに、何をしようとしているか悟ったらしい。優秀な騎士は何も聞かず頭を下げてくれた。

 土を踏む。大きな建物の影になったここは、肌寒いくらいだった。

 丸めた紙を銀の筒に入れる。

「ヴェントゾ」

 名を呼ぶと、彼は大きな瞳で私を見つめた。その小さな頭をそっとなでてやる。ヴェントゾはのどを鳴らして応えた。その首に紐を結わえ、ほどけないのを確かめて、言う。

「どうすべきか、わかるな?」

 ヴェントゾは悲しげに鳴いた。

「……急ですまん。もっと前に帰しておくべきだったのかもな。許せよ、二の兄上のしたことは。お前は悪くないのだから」

 みゃあ、と返事は寂しげであった。温かい白いのを抱きしめて、そっと放す。これで、別れだ。

「ヘマのもとへ、白の塔へお帰り、ヴェントゾ」

 微笑んで、その額を指でなぜてやる。

「もう、それができるだろう? 今までのこと、感謝する。お前がなぐさめてくれたから、やってこれたこともある。だが、今からは、ここにいては、お前が傷つくかもしれん。その前に、うちへお帰り」

 ヴェントゾは返事の代わりに、ぺろりと私の手を舐めた。次には風が巻き起こり、遥かへ飛んで行く。小さな後ろ姿を見送って、私は手を振った。ヘマに振った時とは違って、遠く会えなくなるだろうと、知っていながら。

『ヘマへ

 急なことですまぬが、ヴェントゾを帰す。

 先の手紙に、二の兄上が戻るゆえごたついて手紙は出せなくなるだろうと書いたが、案の定、ごたつき始めたようだ。ヴェントゾに何かあっては、取り返しがつかん。よって帰すことにした。あれからちょうど一月経っている、体の方も大丈夫だろう。

 片がつけば、また連絡する。これは十五通に数えなくてよい。

 ヴィン』


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 彼女は蒼白な顔をして言葉を失くしていた。

 長い焦げ茶の髪、高い背とほっそりした体。先王の第二妃ヤスミーンは、相対する焦げ茶の髪の青年に、清流の如き声を波立たせた。

「お前……今、何と言ったのです」

「言葉の通りですよ、母上」

 青年は上辺ばかりの笑みを貼り付けたまま、答える。

「何ということを……! 許しませんわ! 許されるはずもありません! お前……」

 怒りに震える美しい母に、青年は微笑み、

「何もご心配召されるな。全ては上手く行きましょう……」

 それだけ告げて背を向け、戸の向こうへと消える。

 残された女は、呆然と閉まった戸を見つめていた——。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦

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