六.疑惑
訓練場を一周して、頑張ってくれた馬の背をなぜ、滑り降りる。エッボが笑顔で、上出来ですじゃ、と手布を渡してくれる。乗馬の練習の終わりの、一連の流れ。
しかし騎士たちと雑談していて、振り向くと、エッボがどこかへ行こうとしているのが見える。
「エッボ」
声をかけると、老馬番はさっと振り返る。が、その表情はよく見えない。
「どこか行くのか?」
訓練の時間はもう終わったし、私が構うべきことではないのだが。
「少し出て参りますじゃ。殿下はお気をつけてお帰りくだされよ」
ああ、とその当たりさわりのない返事にうなずく。近頃、これも、習慣になりつつある。内宮へ戻りながら、近衛たちに、
「エッボはどこへ行くのだ?」
と聞いてみるが、判然としない。
「さあ……」
「あの人はよくどこかへ行きますしね」
役に立たんな、むう。
まあ、よい。馬術の先生としては申し分ないのだし、私事にまで口を出しては嫌われよう。そう思って歩いていると、ふいに騎士の一人が、
「殿下、最近機嫌いいですね? 何かありましたか?」
「えっ」
間抜けた感動詞がこぼれた。
まずいな。何かと言われると、理由は一つしか思い浮かばん。
ヘマとの文通が続いているからだ。
「……そうか? 村樹月になって涼しくなってきたからかな。この間はカーリン様のお誕生日もお祝いできたし、姫たちも喜んでおったしな」
もごもごと何とか適当に返事をする。と、カスパーがひそりと耳打ちしてきた。
「ヴィン様、それでは怪しいかと……」
「ええい、お前も怪しかろうが」
先ほど恋人がいるかと聞かれて全力でごまかしておったのを、こちらは知っているのだぞ。モニカとの仲が進展しかけているというのも!
こそこそと主従で口論しているうちに、内宮に着く。
私とヘマの件は内々のことだし、政治がらみだから、騎士たちには話しづらいのよな。カスパーにはヘマと会わせたこともあるゆえ、知らせているが。
机の上の封筒に、頬がゆるむ。ヘマからの返事が来て、これで二通目だ。返事を書かねばな。
私からの質問は、好きな菓子と画家だったのだが、菓子はケーキらしい。前も美味しそうに食べていたしな。画家はファイサンらしい。彫刻家としての方が有名な者を選んでくるとは、渋い趣味だ。
一番きれいな便箋と封筒を選び、ペンを手に取る。
今回の話題は、『これまでの一番』だった。これまで一番楽しかったのは、祖母君が眠る前に本を読んでくれた思い出、とある。私はどうだろうな。幼い頃ならば、まだ十にも満たぬ頃、一の兄上が後宮へ顔を出してくださる度、ジルケとアルマと共に遊んでいただいたことだろうか。最近だと、やはりあの隠し通路探しかな。
これまで一番悲しかったのは、先代の巫女殿が身罷られた時、か。私も同じようなものだ。母上が亡くなった時。あの空虚さは忘れ得ん。……また、墓参りにも行かねばな。
これまで一番嬉しかったのは、王猫の巫女の後継と、指名された時……。私とヘマは、実に似ているところがあるな? 私の場合は、滅多にお目にかかれぬ存在であった父王から、直に王家の印である指輪をいただいき、母上にはめてもらった時だ。あの時の母上はとても喜んでらして、それが何より嬉しかった。
ヘマは昔から、何というか、真面目なのだな。感心する。もっと幼い頃のヘマも見てみたかったものだ。さぞかしかわいらしかったろう。
では、私は、今のことでも聞いてみようか。
今、はまっていることは? 私は、ヴェントゾを
封蝋を押して、一人にやけていると、モニカがこちらを見ているのに気づいた。何だその顔は。微笑ましげにして。
「……モニカ? 何を見ておる」
冗談程度にむくれてとがめると、モニカはいいえ、と首を振りつつ、呟く。
「……離れていても想い合えるというのは、素敵だと思いまして」
そのどことなく切なげな響きに、眉根を寄せた。
どうしたというのだ。悩みでもあるのか?
「恋人の話か?」
モニカに向き直って問うと、彼女はさりげなく黒髪を指で触りながら、
「あら、いいえ。それだけではございませんわ……家族でも、友人でも」
「……郷里で何ぞあったか?」
聞くと黒髪の侍女は寂しげに微笑む。
「いいえ、特にというわけではありませんから」
「そうか」
侍従たちにも、それぞれの生活はあるからな。皆家を離れ、各々の目的のために、ここに集っている。時には故郷が恋しくなることもあろう。
「……今は、二の兄上の歓迎に割く人手がいる故、里帰りも許してやれぬのは心苦しいが」
「あ、あら、ヴィン様、それほどのことではございませんわ」
モニカが慌てた様子で言うのを見上げた。揺れる濃い緑の瞳。
「大切な者がいるなら、手紙でも書けばどうだ。伝えぬよりは、少しでも何か伝えてやった方がよいのではないか?」
実際、私はヘマが想いを伝えに来てくれねば、あきらめてしまっていただろう。
言って小首を傾げると、モニカは束の間驚いた顔をした後、いつものおっとりした笑みを浮かべた。
「そうですわね。……そうしようかと思いますわ。ありがとうございます、ヴィン様」
私もにこりと笑ってみせた。
もしヘマが悩むことがあったら、こうやって、否もっと上手く、なぐさめてやれるとよいのだがな。って、またヘマのことばかり考えて。
カスパーのやつはどこへ行ったのだ。想い人が思い悩んでいるならば、話を聞くくらいするべきだろう。モニカを上手くなぐさめられるとすれば、それは最も心の近い、恋人の仕事なのだからな!
というわけで、モニカが退出した後、部屋の外にいたカスパーに手紙を出してくれと頼んで、後を追わせてみた。どうなるかは知らん。
入れ替わるようにやってきたアリーセは、何やら協力してくれているようだが。
「ヴィン様、ご存じですか?」
とアリーセが頭上から話しかけてくる。
「何だ?」
「少しばかり、侍従以下使用人の拡充がございましたのですが。若い者も多くおりまして」
「ああ……そうなのか」
なるほどな。それでモニカも、故郷に思いを馳せることがあったということか。
喋りながら、アリーセははさみを片手に私をじっと見ている。内宮へ移ってから毎月恒例とはいえ、怖いのだが? 髪を整えるだけのはずだがな。気を紛らわせでもしておくか。
「若いといっても、お前たちも若いだろう?」
「あら、嬉しいことを言ってくださいますね。モニカなどまだ二十代に入ったところの子はそうでしょうが、私はもうすぐ二十三を数えますし」
「十分だ」
言うと、アリーセは楽しそうに、
「あと二年もすれば、女の結婚年齢からは外れる年ですよ?」
まあ確かに、女性の結婚といえば十八から二十四辺りが一般的ではあるかもしれぬが。
「アリーセは、そういった相手はおらぬのか?」
「おりませんね」
そう言う声は、先のモニカとは違って軽やかだ。
「ふむ」
「私はいいのですよ。望むものが違いますから」
「……」
「どうせなら、侍従を束ねる地位の方が、結婚相手より望ましいものです」
ふふ、と笑う声につられ、はは、と笑う。
侍従にも色々ある。アリーセは、恋より出世を望む方だというだけのことだ。
春先の頃、初めて会話した時には、王族や侍従長に気後れするようなところもあったのに、今ではモニカやカスパーよりもしっかりした、信頼できる侍従だと、私も思っている。アリーセにはよく似合う夢だろう。
「お前ならば叶うのではないか」
はい、とうなずいたアリーセが、準備を終えて髪に触れる。
やれやれ、ずっとはさみを握らせておくと怖いから、さっさとしてほしいな。今月は二の兄上を迎える以外予定はないのだし、髪ごとき適当でもいいだろう。
勉強の合間に、図書館へ本を返しに行った。
配下たちは皆慌ただしくしているゆえ、今日は一人だ。カスパーを怒らせるかもしれぬが、あの机の上の書類の量ではしばらく武棟から出てこれぬだろうしな。これから数日はこの調子だろう。
私にできることがあるとは思えぬし、のんびりしておれば迷惑もかからぬだろう、と考えつつ回廊を行く。
ふわりと風が吹いて、首筋に柔らかな毛が当たった。
「ヴェントゾ」
目をやれば、予想通り肩に白い子猫が乗ってきている。
「お前も風を操るのが上手くなってきたな」
のどをなでてやると、ヴェントゾは嬉しそうに鳴いた。ふふ、と笑って、反対の手の指を前方に伸ばす。
「どれ、私もやってみようか」
指差した先から、風がふわりと起こって耳もとの髪を揺らした。すぐ横の中庭から小鳥の声。少し遠くて何を言っているかまではわからんが、どこかで話し声も。
ヴェントゾが不思議そうに耳を動かす。同じ風の力の使い手でも、使い様は全く違うな。ヴェントゾは風を己を自由に運ぶ
おばあ様はどのように風を操っただろう。我が祖父、ハイスレイ公が妻とした、母上の母であったお方は。私を産んだ後、母上が初めて里帰りした時だけ会ったというかの方。記憶にないのが残念だ。
その時の私は、どこか上機嫌で、ひっそりと静かになっていた。足音も軽く、時々風を操って。
「二の——証拠では?」
ふいに運ばれてきた低い声に足が止まる。……どこからだ?
見回すと、前方の戸がほんの少し開いていた。その隙間に目が行く。私はできる限り足音を消して壁際にしゃがみ込み、薄暗い戸の向こうをそろりと覗いた。
戸の内の部屋は空で、さらにその奥にもう一つ、明かりのついた部屋とやはり薄く開いた戸が見えて、慌ててヴェントゾを懐に入れる。ヴェントゾは何をしているのだと言いたげな顔をしたが、私の腕の中に納まった。
どうやら会議をしているらしい。ちらと見た限りでは、文官らしい服装をした者どもが室内に集っていた。
「先王——書類が」
何? よく聞こえなんだが、今、父王のことを言わなかったか?
思わず身を乗り出して、耳をそばだてる。先ほどの二の、というのは二の兄上のことではないか? もしそうなら、王族について話していることに……、
「——の借用書——場所が」
再び聞こえた別の声に息を呑んだ。
違う。借金の話だ。
息を殺して様子をうかがう。風を使っては気づかれるかもしれん……あまり聞こえぬのがもどかしい。彼らが声をひそめて会話しているからだ。深刻そうな声音に、二重構造の会議室。外の音が聞こえるようわずかばかりだけ開けられた扉。怪しいとしか思えん。
もしや、最近文官たちが私に隠している、例の件ではないか?
「保存——というのも——」
「——が、第一王——わっていないのは」
「報告は」
「あの——ていにさせよう」
報告? 誰かの命で何ごとか調査しているということか?
文官に命じられる権限のある者といえば、一の兄上、文官長、宰相たる我が伯父……あるいは文官とつながりのある貴族……いや、一の兄上かダーフィトだろう。今の『報告は』と問うた声、エトガーがごりごりの第一王子派だと言っていた者の、特徴的な甲高い声にそっくりだった。あの者は二の兄上や宰相には加担しそうにない。
「——てい」とは何だ。規定、酩酊、……密偵? いや、まさかな。今の私のしていることも密偵のごときだが、そのようなことをできる人物に心当たりなど……ない、が。一瞬あの神出鬼没の老人が浮かんだ。さすがに物語の読み過ぎだろう。
続く声はぐっと低められていた。
「本と——にふせ、りゅ、よう——が」
聞き取った単語に反射的に固まる。不正な流用? そう言ったのか? 例の借金を?
誰がそんなことをできるというのだ? 否、できるとしたらただ一人、我らが父上のみだ。もちろん、ぜいたくに借金を注ぎ込んだというのは正しくないことには違いなかろうが……そうではないだろう。何かもっと許せぬような使い道をされたのでなければ、不正とまでは言わん。
「どこへ——はっきりと申せ」
次第に声が大きくなり、聞き取りやすくなる。
「それは、こちら——ろくを」
「やはり——の王子に」
「確定的です!」
——⁉ 王子だと⁉
王子の誰かに借金が渡ったというのか? あり得ん。まだ子どもの私に父王が資金援助など考えるはずもない。二の王子も、母君たるヤスミーン様と父王が疎遠になってからは距離があっただろうと思うし、だいたい今では僻地にいるようなものだ。一の兄上は、共に国庫を動かす手であったはずだ。一体どういうことだ⁉
「黙っておれ」
老いたしわがれ声。急に人の声が止み、しんとする。ああ、発言が聞こえぬではないか!
「——かく、次は殿下に——」
「ああ、我らが——て」
「いや、——っていただこう。その方が——だ」
ぼそぼそとした喋り方に、ざわめき出す室内。まずい。
はっとして立ち上がった。会議が終わりそうだ。ここに留まっていては不審に見られる。
同時に、戸が風に揺れてきいと鳴った。一気に辺りが静まり返る。
「誰だ⁉」
怒声にぱっと駆け出した。宮内へ入る角を曲がる。もう一度。念入りにもう三つ先をさらに。
……追っては、来ぬようだな。
ふう、と息をついた途端力が抜けて、ずるずると壁にもたれて座り込んだ。
……うそだろう……何と厄介な。
どれほど、父王の罪は私たちを縛るというのだ。ただでさえ面倒な借金の話に裏があったらしいとは。
まあティエビエンは巻き込まぬ、内のことのようであるのはまだましか。しかし内のこととなれば、私も放っておくことはできぬ。知らずにいるのは決して安全ではない。むしろ危険だ。己の周りを知っておくというのが、私が内宮へ来た時、己自身に課した
「みゃあ」
ヴェントゾが不満そうに鳴く。
「何だ、建物の中は嫌か」
私はヴェントゾを両手で抱え上げ、青空の色をした瞳を見た。
「決めたぞ。大人どもが明かそうとせぬ疑惑、暴いてみせよう。お前も来るか?」
宣言してみせると、ヴェントゾはしばし首を傾げた後、楽しそうににゃあ、と鳴いた。
怒りと消沈。そんな言葉が似つかわしい夜だ。あの気にせずにはおれぬ話を聞いてから、どうも心がふさぐ。ヘマからの返事もまだ来ておらぬし。
半分はやけでセゼム語の難しい動詞をぶつぶつ言って覚えようとしていると、珍しく寝室の戸が叩かれた。
「何だ? 入れ」
声をかけると、アリーセが戸を開けて入ってきた。
「失礼いたします。よろしければ、どうぞ」
その手にあったのは香り立つ暖かそうな香草茶で、レモンも添えてある。
「……どうしたのだ?」
ぽかんとして尋ねると、
「お邪魔でなければ、お勉強のお供に」
とアリーセは微笑んで、茶器を差し出した。珍しいこともあるものだ。受け取って、息を吹きかけて少し覚まし、こくりと飲む。
肌寒く感じることが増え始めたこの頃の夜だ。体が温まることにほっとして、自然頬がゆるむ。
「ありがとう、アリーセ」
見上げ告げると、アリーセは微笑んだまま、
「美味しかったならよろしゅうございます」
「うむ、美味いぞ」
くすりと笑いが零れる。いくらか気分が上向きになった。この程度のことで、とも思うが、単純なことも時には必要だ。
「レモンもあったし」
つけ足すと、アリーセもくすりとする。
「お好きですものね」
初めて会話した時、ミルクよりレモンをと言ったのを覚えていたのか、アリーセはいつもこういう細やかな心遣いをする。私にはもったいないくらいの、よい侍従だ。
少しづつ茶をすすっていると、アリーセがおもむろに口を開いた。
「……ヴィン様、少し、お話があるのですが」
む?
「言ってみろ」
促すと、アリーセはいつもより控えめな声で、
「何日か前に、新しい使用人が入ったとお伝えしたでしょう。覚えておられますか?」
「ああ」
「もう一人、侍従を抱えられる気はございませんか」
は?
突然の提案に目を瞬かせる。
「侍従を?」
「はい。侍従長が選んだ新人から、一人ヴィン様のもとへどうかというお話で」
侍従長の推薦ということか?
「ふむ? ……まあ私は、配属くらい好きに決めてくれて構わぬが」
首を傾げて言うと、アリーセはほっとしたようだった。
「でしたら、このまま進めるよう申し上げておきます。ヴィン様も来年には十四になられますし、侍従の中でも侍女ばかりが世話係というのもと、思っておりましたので。年の近い
なるほどな、そういう配慮か。年の近い召使いを持ったことはほぼない。どうなるやらわからぬが、それも一興か。
「そうだな。では、楽しみにしておく」
答えると、アリーセは優しく目を細めた。
ヘマからの返事が届いた。三通目だ。
ティエビエンでは、刺繍した小袋を作って贈り合うのが年頃の女性たちの間で流行っているのだとか。ヘマもおもしろがっていて、『姉様』——王女殿下に贈ったとのこと。中に何を入れるかは、贈られた者の自由らしい。王女殿下は何を入れられたのだろうか。
ヘマの服はこれまで、派手な刺繍のないものばかりだったから好まぬのかと思っていたが、そうではないようだな。どのような柄の刺繍をするのだろう、私も見てみたい。
そして、恒例の彼女からの話題。将来のこと、夢見ていること、とあった。
ヘマは白の塔の司書だ。蔵書の幅を広げ、塔の造りに少しでも携わること——。書かれていたそれは、まさに彼女らしい一文で。ああ、すごいな、と吐息と微笑みがこぼれる。
将来か……。
特に考えてきたことはなかったな。ヘマとやり取りをすると、ささいな一文だけでこんなにもたくさんのことに気づかされる。
昔は、未来に選択肢があるとは思わなかった。母上が言っていたように、
だが、それだけでよいのか。
後宮にいた頃と違って、外に触れていられるここは、すぐにやりたいことが様々あふれてくる。馬に乗れるようになりたい。街を見てみたい。外国語を学んだり話したりする機会がほしい。ヘマのいる白の塔にも行ってみたい。数多の恩を、仕えてくれる者たちからも、この環境を与えてくれた兄上やエルヴィラ様からも受けている。彼らのために何かしてやれる人間になりたい。
考えてみれば、幼稚な願いごとの羅列だ。具体的な方法も思い浮かばぬ、ぼんやりとした思い。これも夢と呼べるのだろうか?
返事を考えてペンをもてあそぶ。そっと、広げた手紙のヘマの署名に触れた。その上にある、綺麗なつづり字の
『愛を込めて』
ヘマにとってみれば、他意はない、好意のある相手に送る親しみの表現なのだろう。だが、こちらは困る。
……本当、何と返せばよいものか。
「ヴィン? どこかへ行くのか」
執務室の戸を開けようとしていたら、背に声をかけられた。振り返り、会議室の戸口に立っている兄上に答える。
「はい、図書館へ行こうかと……」
手に持った本を持ち上げてみせると、兄上は軽くうなずき、
「そうか。気をつけて行きなさい」
と送り出してくれた。
……? 別に何かあったわけではないのか。
戸を開け、挨拶してくれるベンノに手を挙げて応え、廊下を歩きだす。
戻ってくると、戸の前に王宮騎士の姿はなかった。どこへ行ったのだ?
少し眉をひそめ、静かに戸を押し開けると、執務室の右奥、会議室へ続く扉の前に、ベンノが立っていた。若い騎士は私を見るとひそひそと、
「お静かにお願いしますね」
と合図してくる。そうか、会議があったのだな。
私はこくりとうなずいてみせ、資料室へ戻った。黒い机につき、途中でやめてしまっていた年代史を読み直す。
……読んでいるだけではつまらぬな。
大窓を開け、今日も晴天の下の庭に出る。本を広げ、歴代王の功績を目で追っていると、頭が急に重くなった。
「っこら、ヴェントゾ」
ふわふわの小さい体を頭の上から持ち上げてどければ、ヴェントゾは楽しげに鳴く。
「いきなり乗ってくるな。ヘマにはこういうことはせぬのだろう、もっと私にも敬意をもってだな」
指を突きつけて叱ろうとしたところで、ヴェントゾが可愛らしく小首を傾げているのに気づいた。
「……ヘマにもするのか……まことにいたずらっ子だな、お前? 少しは敬愛の表現というものを」
呆れかけ、言い聞かせようとすると、ヴェントゾが逃げるように宙に舞い上がる。捕まえようと立ち上がって手を伸ばした。
「待て! お前というやつは」
ダン!
唐突な打撃音に、伸ばした手が固まった。ヴェントゾが怯えたようで懐に飛び込んでくる。小さい温もりを抱えて、辺りを見回した。
細い木々の向こう、武棟へ通じる回廊に人気はない。どうやらすぐ横の会議室からしたようだった。
何があったというのだ。三日後には大隊が到着するというこの時に。
会議室の大窓ににじり寄り、中をのぞき込む。ぼやけたガラスの向こうで、人々は皆立ち上がっており、机の真ん中あたりにいる男が何か怒鳴っていた。耳をすますとすぐにわかった。
「——というのです! これでは、二の君が恭順の意を示すかわかったものではない!」
それに別の声が怒鳴り返す。
「だからといって何ができると? これはまだ疑わしいという段階であって、歓迎を取り止めにはできません!」
「疑わしいだと⁉ 決定的だ! 少なくとも、王太子の座を手に入れたいと思っているはずだっ、見ろ、これを! これだけの金額を先王に投資されておいて」
……え?
頭の中が一瞬、真っ白になった。思考が崩壊する。
嘘だ。あり得ん。そんなことはあってはならん。
父王が二の兄上に投資? そんな馬鹿な!
窓に張りつく。たかぶった感情に、音を連れてくる風が吹き荒れた。
「——先王は第二王子を」
「何のために、ふさわしいお方くらい見極められるべきだ!」
「追及せねばなりません! 殿下、どうか」
「駄目だ、駄目だ、禁じられている! 咎人に口を開かせる気か!」
「大隊はどうするのです。処分は」
「いや、待て! これはそもそも機密の」
「そんなものに意味があるか!」
どっと押し寄せてくる声に呼吸を奪われる。かたり、窓が鳴った。
「——誰かいるのか?」
鋭い声に身をひるがえして逃げ出した。とっさに資料室に飛び込み、大窓を閉める。
心臓がどくどくとうるさい。
「……どういうことだ……」
呟いた声がかすれた。まさか父上が……そんなことが?
ざらりとした舌が頬をなめた。
「ヴェントゾ」
はっとして懐から出してやる。ヴェントゾは私をちらりと感情の読めない目で見上げてから、窓のところへ歩いていって、かりかりと縁を引っかいた。
「ああ……」
そうだったな。うっかり連れてきてしまった。小さく窓を開ける。
「いいぞ。出ろ」
白い猫はするりと隙間から抜け出ていく。窓を閉め、振り返ったところで、重い靴音がして戸が開かれた。兄上が難しい顔をして私を見る。
「ヴィンフリート」
「……はい」
硬い口調にそろりと兄上を見上げた。表情が読めない。怒っておられるのか。
「今、会議を覗いていただろう」
「……そのようなことは」
つい、目を逸らして言うと、ため息を吐かれた。
「私でなくてもわかるような噓をつくな、ヴィン」
「……」
やってしまった。とうとうばれた。兄上が隠そうとすることを探っていたことが明るみに出てしまった。
兄上は呆れただろうか? やはり愚かな、言うことも聞けない子どもだと……。
うつむいて、兄上が何か叱るようなことを言うのを待つ。が、兄上はぽつりと、こうこぼすように言った。
「……お前たちに知らせることなく、終わらせたかったのだが」
予想もしなかった言葉に驚いて顔を上げる。兄上は、悔やむような悲しむような、傷ついたような顔をして、目を伏せていた。いつもは私を真っ直ぐに見下ろすその緑の瞳と、目が合わぬのがとても違和感があって、
「……兄上」
戸惑って呼んだ声をさえぎって、兄上が低い声で告げる。
「お前も今聞いた通りだ。第二王子ゲレオンに、不正金を受け取った嫌疑がかかっている。父王がした莫大な借金の大部分が、別のものを買うと見せかけて第二王子の派閥の手に渡ったのではないかという証拠書類が、見つかったのだ」
ふとその瞳がこちらを向く。
「……先王があやつに渡したのか、あやつめが
暗い緑玉の、鋭い眼光に気圧された。重い声に、何も発せられなかった。
「心に抱いているものは、一つではないということだ」
——そんなことがあってはならん……。
「……公表すれば、」
兄上が静かな声で続ける。
「第二妃様も、ジルケの立場も危うい。弟妹たちも傷つけることになると、秘してきた」
そうだ。それが事実だとしたら姫たちはどうなる?
「……事実なのですか、兄上。まだ疑問の余地はあるはずでございましょう」
口早に問うと、兄上は疲れたように、
「そうだな。私とて、あやつが何の気も起こさず、手つかずの金を持ってきてくれると、信じたくないとは言えん。……だが、最悪も想定しておけということだ」
とまたため息を吐いて、
「伝えるべき時が来れば、もっと気遣って言うつもりだったのだが。何故覗いたりなどした」
何か、混沌とした感情がのどもとに込み上げてきて、私はただかすれた声で言った。
「いいえ、兄上。……そんなことは望みません」
この方はお優しすぎる。全てを一人で背負おうとなさって。
「何をだ」
兄上が意外そうに目を上げる。
「気づかいなど、そんなものはいりません。どうせ私がこの力を持っているからには、うわさぐらいならいくらでも耳に入ってくるのです」
ふわりと手の平の上に風を吹かせる。
「何も知らぬままでいたくはありません。私は……」
伝えたいことを表す言葉を探した。何もできぬまま終わりたくはなかった。母上にしてやれなかったように、この方のことも支えることができぬままでは嫌だった。
「貴方様のお役に立ちたいのです。姫たちを守れるような者になりたいのです」
身のほど知らずの願いだとは、思う。まだ学ぶべきことも、至らぬところもありすぎて、会議に参加することすら許されず盗み聞きをしてとがめられるような身分なのに。
それでも、
「そうでなければ、何のための内宮入りでございましょう」
一人前になるための勉強をしに、閉ざされ守られるだけの後宮の住人でいるのをやめたのに。私も一人の王子だということを、兄上はご存じない。
精一杯告げた声は、まだ幼くか細くて、頬に熱が昇る。けれど、兄上と目を合わせた。その目が少し見開かれ、次いで細められる。
「……そうか。そうだったね」
ぽん、と優しく頭に大きな手が乗せられる。
「確かに私が言ったのだったな……お前を求めるのだ、と」
「……はい」
こくりと、うなずく。後宮を出ないかと言われた時に、もらった言葉だった。
ざわざわと戸の向こうの者たちが声を交わし出す。話がついたとわかったようだ。
「だが、ヴィン」
兄上がひょいと私に目線を合わせてかがみ、ささやく。
「盗み聞きはいけないことだよ。わかっているね?」
「……それは」
わかってはいる。だが、私にとってこの王宮で上手く立ち回り、成長するための手段でもあるのだ。兄上たちが隠しごとばかりするのもいけない。何より物心ついた頃から遠くの音や人の会話を聞き流してきた己には、中々意識してやめるのも難しい……というのは言い訳だ。今回は明らかに盗み聞きを目的として能力を使った。非があるのは私の方であろう。
「申し訳ございません。罰は受けます」
おどおどする代わりに堂々と胸を張って言うと、兄上はふは、と噴き出した。
「お前も少しは悪びれた方がいいな」
って、根に持ってらっしゃる。
「よい。これからはもう少し、役に立ってもらおう」
そう言って、兄上はもう一度、くしゃりと私の髪をなぜた。
兄上から下された命は、地曜日、後宮を共に訪ねて、姫たちの相手をすることだった。
「あしたではなかったの、あにうえさま?」
アルマが嬉しそうに見上げてくる。
「明日は迎えの準備で慌ただしいからな、兄上のお供としてきたのだ」
ソファに腰かけ、隣に座るアルマの柔らかな髪に手を置いた。妹の髪をその背後から触りながら、ジルケが言う。
「明後日にはゲレオンお兄様と騎士たちが帰ってくるのでしょう?」
「そうだな」
何と言って伝えたらよいものか……。仮にも同じ両親から生まれた兄にあのような嫌疑がかけられているなど。
「じゅようびにはやかいですね! わたしもちょっとだけ、出ていいのですって」
アルマが大人びた口調を作って楽しそうに言う。
「そうなのか?」
驚いて聞くと、ええ、とジルケがはにかんでうなずく。
そうか、アルマももう八つだものな。今年の誕生日は食事を除けば豪華な贈り物もできなくて、気になってはいたのだが……彼女も祝いごとに参加できると思えば、歓迎すべき成長だろう。
ジルケはちらちらと、妃様方と兄上が話している応接間に目をやっている。
「……どうかしたか? 一の兄上なら、後で二人にも会いに来ると言ってらしたぞ」
と前回——遠い昔のことのようだ——を思い出して告げたが、ジルケは首を振った。
「違います。何だか……お母様たちのおへやが、怖いのですわ」
不安そうな顔に、私は腕を伸ばしてジルケの頭をなでた。話しておられることがことだ……嫌な魔力を感じとってしまうのも当然だろう。
「ジルケ」
「はい」
「母君が何と言おうと……お前もヤスミーン様も、我らにとってかけがえのないすばらしい人なのだということ、忘れてはならぬぞ」
今口にできるだけのなぐさめに、ジルケは不思議そうに首を傾げて、
「……はい……?」
と疑問符付きでうなずく。
「ねえ、あにうえさま、おもしろいおはなしないの?」
アルマがこちらに背伸びして聞いてくる。
「何かあったかな」
苦笑していると、ジルケがぽんと手を打って、
「そうですわ、お兄様、お手紙を書いている方とはどうなりましたの?」
この間、文通をしている相手がいると告げたせいで、ジルケは度々この話題を持ち出してくるようになった。こういう話はジルケの好みに合うのだろうか。
「今も書いているよ。何と返そうか悩んでいるところだ」
「おなやみちゅう?」
「まあ、どうしてですの?」
二人は楽しげに聞いてくる。こちらは割と真剣に悩んでいるのだが。
「夢見ていることは何か、と質問をもらったのでな」
言うと、二人は顔を見合わせ、
「わたしのゆめなら、おかしをいっぱいたべることです!」
とアルマが元気よく言う。
「それじゃ太っちゃうわ、アルマ」
とジルケは妹姫をたしなめてから、
「わたしは……すてきな男の方と、すてきなけっこん式をあげることかしら」
「かっこいい人?」
とアルマが姉を振り返る。
「そうね……やさしい人がいいわ」
ジルケはそう微笑んで返す。
「えーっ! かっこいい人のほうがいいです、あねうえさまっ」
「でも、やさしくないと、どんなにおしゃれでもかっこうよくないでしょう?」
姫たちはそのまま理想の結婚相手論争に突入してしまったので、私は笑いながら、
「叶うとよいな」
と二人の肩を抱き寄せた。
しばらくして兄上が顔を出すと、二人はじゃれつき姫と化したので、後から入ってきた妃様方に挨拶することにした。
「あら、殿下、ごきげんよう」
とカーリン様は声をかけてくださったが、ヤスミーン様はうつむかれたままだ。ヤスミーン様、とそっと名を呼ぶと、かすかに微笑んでくださったが。
「……疑惑があるといっても、まだ真偽は定かではありません。どうか、姫たちと二の兄上をお迎えなさいますよう」
そう伝えることしかできなかった。
後宮を辞し、兄上は政務に戻ってしまったので、文官たちの邪魔をしに行く。すると書棟の一室で、エトガーがのんびりと紅茶を飲んでいるのを見つけた。
「何をしているのだ?」
話しかけるとエトガーはさっと顔を上げ、
「こちらの台詞でございます、殿下。護衛は」
「出迎えの準備に取られただけのことだ」
近衛も大変よな。カスパーは資料室で大人しくしていてくださいね、などと言っておったが、一日中言うことを聞いているような私ではない。
「で? 何をしているのだ?」
セゼム語で問うと、エトガーはジョルベ語で答える。
「書類の確認ですよ。殿下は?」
私か? ……うーむ。
「何をしているのだろうな」
「お帰りください」
ぴしゃりと言われてしまった。
「手厳しいな」
と笑う。当たり前のことです、などと言ってエトガーは不機嫌そうだが。これは退散した方がよいか。きびすを返そうとしたところに、
「あれ、第三王子殿下ではございませんか?」
と何やら大量の書物を抱えた男に声をかけられた。確か、エトガーと同じ外交関係の仕事を担当している文官だったはず。
「そうだが?」
小首を傾げると、つんと立った短い黒髪の文官は笑って、
「いえ、いえ。レームクールなんぞとよく話しておられる、外語のできる王子殿下だと、我ら外交官の間で評判なんですよ」
「ほお」
何と、そのような話は聞いた覚えがないな。おもしろがってにやにやしていると、男もにやけた顔をしながらエトガーを差して、
「レームクールほどの外語狂いについていくことがおできになるとは、三の君は外交官向きだな、とか」
「口が過ぎるぞ、ガルドゥーン」
エトガーが鋭く言う。ガルドゥーンと呼ばれた男は軽く笑って、
「これは失礼。ではまた、殿下」
と奥の方へ消えていった。
「殿下、あれも外国狂いです、お気になさらず」
彼の背を見送り、エトガーが私に向き直って、言う。私はくくっと笑った。
「お前にあんな友がいたとはな。意外だ」
「同僚にございます」
とエトガーはつれぬ様子だが。
くすりと笑って、エトガーの机を離れた。
「じゃましたな」
「いえ。次は護衛を伴っておいでください」
全く正しい言に微笑む。エトガーの言は聞き入れるとよいことがある。
「そうしよう」
答えて歩き出す。回廊に出ると、空は少し曇っていた。
……外交官、か。王子に生まれておらねば、夢にしたかもな。
いや、きっと、そうだ。
涼しくなった空気を吸い込んだ。
私が夢見るのは、兄上をお助けできるようになること。そして、外と接すること。
後宮から王宮に出てきて、それだけではなく、宮から丘に、国に。いつかは外国とも接することができるようになりたいと思った。外国語が好きなだけではない、私は知りたいのだ。
私がまだ知らぬ世界を。
きっとそれが私の夢なのだろう。そして、新しいことを見に行くと同時に、この背を支えてくれる、大切な人たちのことも守りたいのだ。私は欲張りかもしれぬな。だが、決してあきらめたくない。
手紙の末尾をどうしようと考えて、がっかりした。
この頃この身の回りでは暗い話ばかりだ。二の兄上の件など、ヘマへの手紙には書けそうにないしな。
加えて二の王子の帰都やら次の王の話やら、すべきことがたくさんあって、手紙は書けそうにないから控えさせてもらわねばと、書かねばならぬのだ。よいことは一つも伝えられん。知らぬ者の滞在もある。うっかり郵便官が紛失などした場合、ヘマの手紙も私のも、他の者に読まれてほしくはないゆえ、なのだが。
その上、本題は何とか書き上げたが、結びの言葉はまだ考えついておらん。
愛、とつづるには、まだ勇気が足りなかった。
結局署名だけにして便箋を畳む。はあ、とわざとらしくため息をついて、ぽんと封蝋を押した。
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