五.贈られた想い

 その書簡は、ティエビエンから兄上のもとへ、様々な確認事項を一まとめにして届けられたものだった。私が執務室を通った時、兄上はダーフィトを使いジークら側近とも話しながら確かめられていて、大変そうだった。

 その多量の書類の底にあった、一通の小綺麗な封筒の手紙。

 昼食の後で、執務室に残れと言われた。いぶかしんでいると、兄上はあっという間に人払いをしてしまい、隣の会議室に文官や騎士はいるものの、執務室には私と兄上の二人きりとなった。兄上はいつもの椅子に腰かけていて、私とは机を挟んで向かい合う格好になる。

 何かあったのだろうか?

 不審に思って眉をひそめる。兄上は机上に、上品な薄茶の、ティエビエンの封蝋がされ、既に封が切られた封筒を取り出した。

「ヴィンフリート、これはティエビエンの王女からの申し出だ」

 兄上の声は常より硬く、顔は窓からの光で影になっていてよく見えない。

 申し出? 私に関係があるということのようだが。

「何でございましょう」

 問うと、兄上は戸惑うような声音で、

「読んでみなさい」

 と手紙を差し出した。受け取って、便箋を取り出し目を走らす。書かれたことを理解し、手が震え、紙がかさりと鳴った。体を硬直させた。

 うそだ。

 こんなこと、あり得るはずがない。

 そう胸中に呟きつつ、もう一度手紙に目をやる。しかし、そこにあったのは、間違いなく、『ティエビエンの白の塔の巫女姫と、ユースフェルトの第三王子の婚約を提案する』——という文面だった。

 婚約? ヘマと、私の?

 そんな。そんなことが……、

「ヴィンフリート」

 兄上が強い調子で問うた。

「何と返事する」

 沈黙が落ちる。定め難くて、視線をさまよわせた。

「……」

 わかっている。何と言うべきかは。

 ぎゅ、と手紙の端を握り締める。

「……少し、考える時間をいただいても? ティエビエンのお方には、前向きに検討するとお伝えください」

 笑って言ったつもりだった。

 視線は手紙に落としたままだったのは、確かにそうだが、私は微笑んで穏やかに答えたはずだ。空気はほっと緩むだろうと思って。

 だが、空気がぴりと緊張をはらむ。

「ヴィン」

 低い声に、肩がびくりと跳ねる。上着で隠すことも、夏の薄い生地ではできない。

「嘘を吐くな」

 思わず指に力がこもり、紙が潰れた。

 兄上は……どうしてこの方は、こんな能力を持ってお生まれになったのだ! なぜ追及なさる!

 かっと頭に血が昇って、気がつけば叫んでいた。

「では、お断りするとお伝えくださいと言えとでも⁉」

 胸がじくりと痛んで、布の上から押さえる。

「できるはずがないでしょう! 兄上、貴方様にはおわかりのはずです!」

 怒鳴ってから、肩で息をして、はっとした。

 私は……今、何ということを。

「も、」

 火照る顔を隠したくてうつむいて、袖口で口もとを覆う。

「申し訳ございません……兄上……」

 ああ、何ということをしてしまったのだ? すぐにかんしゃくを起こす子どものままでは、もうないと思っていたのに。よりによって、尊敬する兄上に怒鳴りつけてしまうなど……。

 体が冷えるのに、汗が一筋流れる。おそるおそる、視線を上げると、目を合わせた兄上は眉を下げて微笑んだ。

「わかっているよ、ヴィン」

 優しい声。

「すまない、私はただ、お前に望まぬ道を選んでほしくはないのだ。……本当は、どうしたい?」

 慈しむような笑みに、恥ずかしくなって目をふせた。兄上がうそをつかれるのを好まぬのは、私とてわかっているのに。私のことを思ってくださっての問いだったのだから、なおさらだ。

 模範解答ではない本音をと、この方は望んでくださるのだ。

「私は……」

 おずおずと、言葉を選んで告げた。

「この文書に返事はしたくございません。ヘマがどう思っているのか、何も書かれておりませんのに……返事などできかねます」

 それが正直な気持ちだった。兄上にも伝わったのか、兄上は気づかわしげに微笑んで、

「では、ティエビエンがそう望むなら、白の塔の意志を示していただきたいというふうに、返事しておこう。下がってよいぞ、ヴィン」

 その笑みを数拍、じっと見つめた。強張った体をほぐすように礼をして、

「はい。……図書室へ行って参ります」

 と告げる。逃げるようにして扉をくぐった。

 どうしてこう、むきになってしまうのか。なるにしてもやりようがあったはずなのに……いたたまれん。

 小走りに廊下を行こうとすると、カスパーが慌てたように後を追ってきた。

「お待ちください、ヴィン様」

 心配そうな声に、両手で顔を覆う。

 ……聞かれていたのか。まあ、あれだけ大声を出せば聞こえるだろうな。

 深く息を吐いて、手をどける。いつもと同じ回廊。気分も少しは落ち着く。

「……ヴィン様」

 カスパーがためらいがちに尋ねる。

「何があったのです?」

「……あんなものを受け取りたくはなかった……」

 私の騎士の方を振り向けない。声もかすれて不格好で。固く握った拳が震える。

 ヘマとの婚約の提案など、されたくはなかった……!

「どうなさったのです? ……断りなさるとまで……私たち配下の者は、このお話を喜ばしいと、ヴィン様もお受けするのではと……。先日のお二人は仲もよさそうに……」

 カスパーが私たちを気にしてくれているのがわかる。だが——私が、ヘマといるのが楽しそうだったから? 急な話ではあっても受けるだろうと?

 喜べるわけがない、こんな話。

「——仲がよくなれたからこそだ、カスパー」

 呟いた。心配そうにしているのが、顔を見なくても背後から伝わってくる。

 カスパーの考えももっともだ。誰だって、気になっている相手の保護役から婚約の話が舞い込めば、浮かれてはしゃぐのが普通だろう。だが、これはそういう類の話ではない。

 せめて、ユースフェルトの貴族同士であったなら、浮ついた気にもなれただろうに。だが、ヘマはティエビエンの聖域ともいえる白の塔の姫君で、私はユースフェルトの王子で、それは私たちが私たちである限り、何としても変えようのない部分だ。

「仲がよいとまで言える彼女を、私のために傷つけたくはない。誇りある白の塔の巫女である彼女が——私のこの感情のために縛られるなど、あってはならん……」

 ともすると叫び出しそうで、息を吸った。

「これは、政略なのだ」

 口に出せばはっきりとする。そうだ、ティエビエンからの書簡に、他の書類と共に入っていた文など、他に何がある?

「父王が、あの時にしたことと同じだ」

 私は怒っているのか、悲しんでいるのか、どうなのだろう、それもよくわからない。

「借金の返済の代わりに、二の兄上とティエビエンの王女との婚姻を申し込んだのと同じ——両国の間の悪感情を、これ以上ひどくせぬように、ティエビエンとユースフェルトは、互いの大切な姫君と王子を結ばせるほど信頼し合っているのだと、民や他国に見せるための」

 息が深く吸えないくらいに、胸が痛かった。

「政略による婚姻のために、決して幸福になれなかった人を、私は既に二人も知っている。一時期王宮騎士として後宮を見ていたお前にはわかるだろう、カスパー? ……母上が、なぜ己から壊れていったのか……。私は、ヘマに、そのようなことにはなってほしくない……」

 こんなにも、心を覆う膜を切り裂かれるような痛みが、私の内に起こるとは。

 こんなもの、知りたくなかった。母上の言いなりの愚かな子どものままであったら。周りの者を思いやる心など、持たないでおいたら。

 私は、ヘマをこれほどまでに想って、息さえ止まりそうになることなどなかったのに。

 恋など、知らなければよかった……。

「カスパー、武棟へ戻っておれ。呼ぶまで姿を見せるな」

 久しぶりに高圧的に命じた言葉だったが、ちっとも力は入っておらず、むしろ弱弱しく響いた。

「……はい、ヴィン様」

 かかとを鳴らし、騎士は立ち止まった。

「お心も知らず、失礼を……申し訳ございません」

「……気にするな」

 端的に答えて、反応は待たずに早足で歩き出した。一人でいたかった。この混乱した感情をしずめられるくらいの長い時間、独りで。

 図書館の、ほとんど一日中人の訪れぬ、知らぬ言葉で書かれた小説の棚の前で、うずくまってじっとしていた。静寂に満ちた空気は、ほんの少し風を動かすだけで全ての音を遮断した。何も聞きたくなかった。

 これ以上心を揺らしたら、泣き出してしまいそうで。

 やっとわかった。どうしようもなく、息ができないようで苦しい時、暴れて人に当たる代わりに、人はどうするのか。

 その時に涙を零すのだ。あふれるもののために人は泣くのだ……。

 じわりと目に涙がにじむ。初めて、ヘマを想うこの気持ちが、つらいと思った。美しくて、かわいらしくて、共に話をしていたくて、また会いたいと思える彼女に、私は、きっとふさわしくないのだ。

 私が王子であり、兄上を助け配下を守り、国のことを考える立場であるというのは、私にはどうしても捨てられないものだ。ヘマの方はもっとそうだろう。王猫の巫女であるからこそ、彼女は彼女なのだ。私が私である限り、私は、彼女を幸せにできない。

 一番正しいのは、何も言わずこの婚約を受け入れ、両国の懸け橋という駒になりきることだろうが、この気持ちがある限り、そんなことはできそうになかった。兄上はお優しいから、どちらにしてもヘマの考えを知りたいという私の甘えを許してくださったが。

 ヘマもわかっているはずだ。政略の意味を多分に含んだ結婚で、彼女が幸福にはなれぬだろうことを。白の塔の司書たる彼女の誇りも、汚されるだろうということを。

 ヘマはそれとなく断ってくるだろう。両国の関係悪化を抑止する方法なら他にいくらでもある。私たちは別々に幸せを求める道を選ぶべきなのだ。

 だが……。

 それでも、こんな形で終わりたくはなかった。初めての恋だ。まだちゃんとした形を取ってもいない、それでも確かにこの胸にある……。

 つまらぬ、先王の馬鹿が原因の政治なんぞで、失いたくはなかった……!

 今ならわかる。なぜ母上が、父上の愛を得られぬと知るや、あれほどすぐに狂ってしまったのか。愛があると信じ続けて、子も産み、国一の栄華も極めた果てに恋が破れたら、狂ってしまいたくもなろう。

 愛に一途に身を焦がすのは、血筋のさがか。こんな淡い恋でも、胸が千切れてしまいそうだ。

 一筋の雫だけが頬を伝って、後は涙も声も出せぬまま、息を詰まらせて泣いていた。


 夕食ではその話は出なかった。兄上もエルヴィラ様も常と変わらず過ごされていて、実際に何と返事したのかも知らされなかった。

 その後の一週間も、何の音沙汰もなかった。兄上はその話題には触れぬし、ティエビエンからの書簡も来ない。ヘマからの手紙も、ない。

 国政に関わることだ、口止めされているのだろう。そうわかっていても、なぜか、心細かった。

 もう何もかも、なかったことになってしまうのだろうか。婚約の話など出されて、ふみも出したくないと思ったのか。

 そんな考えばかり浮かんでしまう。

 わかっている。きちんと理解しているのだ。私は父上や母上のように、愚かでも考えなしでもないはずだ。何が一番いいのか、己で考えて決めたというのに。どうしてこんなにうじうじと……。

 いまさら……もう一度会いたいなどと、馬鹿者め。終わらせるべきだ。もはや会うこともなく、お互いの立場をかんがみて、彼女が不幸にならぬ道を選べるように。

 ……だが、まだ、返事を聞いておらん。

 騎士や文官たちも、私の前ではこの話題に触れなかった。しかし一部のこの話を知る者たちが、やはり政にからめて語らっているのを耳にする度、決意は固めようとして、揺らぐ。

 国のためには受けるべきだ。彼女のためには断るべきだ。私にとっては、彼女と結婚できるなどと幸せ以外の何ものでもないが、この結婚は絶対に彼女の誇りを失わせてしまう。それだけは避けたいのだ。二度と会わぬことこそ、彼女への想いの証明になるはずなのに……。

 モニカやアリーセ、他の侍従も、何も言ってこない。私に最も近い者たちだから、こうした機微に聡いゆえかもしれぬが。

 と、思っていたのだが、実は仕え人たちはそれどころではないらしかった。もうすぐ二の兄上の率いる大隊が帰都きとする。迎えの準備やもろもろの手続きで忙しないようだ。どうしたわけか、エッボも忙しそうにしている。よくふらりといなくなるのはいつものことだが、その回数が以前の比ではない。そして、戻ってくると、少し怖い顔をしている。何をしておるのだ?

 さらに、一部の文官たちからは、極秘捜査中だと言われて、書棟の一角から閉め出しをくらってしまった。王子である私にも秘すものとは何だ、一体。

 何となく疎外感がある。ぽつんと一人でいると、思い悩む時間も増えて。騎士たちに混じって笑い合っている時ですら、あまり上手く笑えない。

 だからなのか、白いのは寄ってくるがな。

 私はヘマと違って会話もできぬのに、そばにいてくれるらしい。確かになぐさめになった。触り心地のいい毛並みをなでれば、気持ちも和らぐ。

 だが、

「お前がヘマのもとへ帰れば、おしまいだな、ヴェントゾ……」

 呟くと、白いのは首を傾げて、空を見上げた。晩夏に入った、深い色の空だった。



 ふうと息をついた。ティエビエン語の本を発見して読んでいたのだが、他言語の文章はずっと読んでいると集中力を切らす。

 一応村樹月に入ったというのに、まだ秋ではない、夏だと言いたげに暑さが主張している。ユースフェルトはトールディルグの中でも北方の国だから、夏でも涼しくはあるのだが、そうは言っても暑い時は暑い。

 一番薄いのではない上着を着てきたのは失敗だったな。ばさりと上着を脱いで椅子の背にかけておき、ユースフェルトの祝典の注意事項について記された本を手に庭へ出た——例によって大窓から。典礼について読みながら礼を失したことをしていると思うと、ちょっと笑えてくる。

 風がさわりと吹く。幾本か中庭に育つ木は青々と葉を茂らせ、影を作っている。その風景をぼんやりと眺めた。

 不思議にしんとした、夏の終わりの昼中。片膝を立て頬杖をついて、揺らめくような世界をただよっていると、時はゆったりと、遅く流れてゆくように感じる。何も起こらぬ、停滞した時だ。

 こういうのを、休憩中の騎士たちは暇だと嘆いておったな。暇か。私には数え切れぬほどやることがあるのにな。とはいえ、これも休息の趣というもの……。

 今日はヴェントゾが来んな。遅い昼飯にでもありついているのだろうか。

 ……む?

 通り抜けていった風が運んできた音が、だらだらとした思考を中断させる。騒がしい。人々の慌てたような声。何事だ?

 風が、ざあと吹いた。髪が視界を遮る。

 開け放っていた大窓から、誰かが飛び出してきて。振り向いた私は、また、あの時のように言葉を失った。

「——ヴィン!」

 白い少女。真っ白な肌は火照り、細い体を弾ませ、光を透かして白に輝く髪が広がり、端正な顔を縁取っている。出会った時とそっくりの、淡い灰色の衣を揺らし、白灰の目で、真っ直ぐに私を見つめてくる。力強いその視線は、いつもの笑みとは全く違って、しかし同じように私を捕らえた。

「……ヘマ?」

 これは夢か? 焦がれた彼女が——会ってはならぬ、離れねばならぬはずの彼女が、目の前にいる。この世の他の何ものでも代えることはできぬ、美しさを持って。

 ずいと彼女が中庭へ踏みだしてきて、私は慌てて立ち上がり、必要なものがない感触にさらに慌てた。

「まっ、上着が」

 上着を置いてきてしまっているのだが……⁉ 何という失態、ヘマが目の前にいるのに!

「衛兵、窓をお閉めなさい! 何者も立ち入らせてはなりません!」

 焦る私を他所に、ヘマは振り返りもせず命じる。

「は、しかし……」

 大窓の向こうにいる兵の声。ヘマはくるりと振り向き、一喝した。

「私とヴィンの話です! わかっておいででしょう⁉」

 ばたんと窓が閉まる。待て、これは一体どうした状況だ?

 なぜ私は略装すらもないまま、想い人と二人きりにされるはめに……というか、

「なぜ……ここに」

 呆然と問うた声が震える。ヘマは私から視線を外さず、一言だけ、

「気に入らないのです」

 と答えた。滑らかな肌の中、眉間に筋が入っている。私を捕らえて離さぬ瞳は鋭く輝いていて。

 怒っている……のか? そんな姿も美しくて、見惚れる。

「どうして……貴方が」

 言葉が出てこない。つたない疑問文に、ヘマは平坦な声音で、

「ちょうど、ユースフェルトの領内に、新しい本を調達しに出てきていたのです。姉様からの報せを受け取って、ここまで来るのは簡単でした」

 それは……いや、わかっている。何が気に入らぬと言うのかも。だが、

「ヘマ、なぜここに……なぜ来たのだ」

「なぜ? それくらい、わかるはずですよ、ヴィン。私は心底気に入らないのです、この話も、進め方も、お前のいらえも」

 彼女が怒涛のごとく言葉を連ねる。

「私の返事を?」

 混乱して問えば、ヘマは耐えかねたように訴えた。

「当たり前です! 何故、私の意向を聞いてから返事したいだなどと、遠回しに断るようなこと……! 姉様がこの話に私の手を入れさせるつもりのないことなど、百も承知でしょう!」

 ヘマの白い手が、ぐっと私の右手を掴む。

「もとからできないことをさせようなど、この話を受ける気がないも同じことです! お前は、私たちが会えなくなってもいいと言うのですか……⁉」

 必死の色を帯びた表情に、静かに息を呑んだ。

 ああ、そうか、そういうことか。

 兄上は私の言葉をそのまま伝えてくださったのだ、その裏にある、彼女に政略結婚などさせたくないという私の考えも汲んで。

 それでヘマは怒って、折しもユースフェルト国内にいたのをいいことに、ここまで押しかけてきた、と。

 言われてみれば、ずるい返事だ。けれど、それで怒るのは、ヘマももう一度、私に会いたいと思ってくれていたということでもあって。

 胸にほわんと熱が広がる。同時に、ずきりと痛んだ。

 思いが同じだったというのは、何より嬉しいが。

「私とて……二度と会えぬことに、したくはない」

 返した声は小さく、かすれる。

「だが……ヘマ。わかっているだろう」

 白灰の瞳を見つめ返す視界も、かすんでしまいそうだ。

「貴方ほどの人なら、なぜ私がそんな返事をしたか、……わからぬはずは、ないだろう……?」

 ざあと風が互いの髪を揺らす。つかまれた手の熱が、痛いほどで。

 私たちは固まったように見つめ合っていた。やがて、ヘマが小さく首を振る。

「……嫌です」

 うつむいた顔に何をしてやることもできぬまま、痛む胸を無視して、ささやく。

「……母上の話を、しただろう。今も宮は不穏だ……周りの思惑で結婚して、不幸に終わった人がどれだけいるか。私と、婚約などして……貴方の誇りが、心が、傷つけられるのは、見たくない」

 正直な吐露。……これで、終わりだ。

 そう思って緩めた右手を、しかしヘマは離さなかった。

「嫌です。……私には、理解できないわ」

 うつむいたままの言葉に、小さく痛みが走る。この心を、理解してはもらえぬのか?

 だが、顔を上げた彼女は、光に満ちた目をしていた。

「どうして、私が傷つけられるだなんて、思うの? どうして、上手く行かせようと考えないのです。……婚約の話を、してもいいと、……私が言ったから、姉様はあの手紙を出したのに」

「え」

 唖然とした。それ、は、つまり。

「もちろん、政略ばかりの形で出して、私に一切のやり取りもさせないなんて、全く気に入りませんけれどっ」

 固まる私を置いて、ヘマは滔々と言う。

「私だって、想いのない結婚をして、幸せを逃した人を知っているわ。この話に、国同士のことが関わっていることも。この際だからはっきり言うけれど、ごたごたの起こっている国の王子と婚約するのは、巫女の権威を下げるかもしれないというのも、わかっています」

「……ずいぶんはっきりしているな」

 わかりきっているとはいえ、そうきっぱり言われるとへこむのだが。

「そうよ。でも、なぜこう考えないのです?」

 ヘマが急に顔を寄せてくる。

「巫女と婚約できるのだからと、そちらの国の威信が回復するかもしれないわ。こちらは落ちかけた国を救ったと称えられるかもしれません。国同士の駆け引きやらが関わっていたって、何も悪いことではないわ」

 その目は自信にあふれていて、きらきらとして、私の目にまるで本物の光のように映る。

「むしろ、事情のある国の王子で、他国との条件のよい結婚など望めないはずのお前と、品位を保つために軽々しく好きな男のもとへは跳び込めないはずの、白の塔の巫女である私が、ユースフェルトとティエビエンが政略の婚姻を結ばせようと思ったおかげで、堂々と一緒にいられるようになるではありませんか」

 そう一息に言い切って、それから困ったような、あの顔をする。

「つまり、私たちは、その……この話を使ってもいいのではないかしら、という、ええと、何て言ったらいいのかしら」

 ふは、とつい、笑い出してしまった。

「つまり、この婚約を利用しようと言うのか?」

 言葉にすれば、何と堂々として開き直った考えか。何と、私には全く思いつかなかった、立派なはかりごとであることよ。

 この人は……これを言うために駆けてきたのか。

「全く……貴方には、かないそうにないな」

 体から力が抜けていく。久しぶりに、自然に笑っていた。まさか、ヘマがそんなふうに思っていてくれていたとは。

 そして、ヘマの両手が、そっと私の両手を取って、包む。

「ヴィン」

 私の名を呼んで、視線を交わらせて、彼女は告げた。

「私、お前が好きよ」

 その頬がほんのり赤く染まっているのに気づいて、同じように熱の昇ってゆく顔に気がついた。

「っ、わ、」

 ずっと、言いたかった言葉だ。大切にしまっておいた心だ。

 短く息を吸って、ちゃんと顔を上げて、優しい笑顔の彼女を見つめて、

「私も、ヘマのことが好きだ」

 告げて、そう気づいた。

 瞬間、ヘマが、本当に嬉しそうに、花開くように笑う。もう何もいらぬと思った。その笑顔が愛しくて、一瞬も目を離せなかった。

 ヘマが微笑みながら口を開く。

「婚約の話、考える気になった?」

 例によって見惚れていた私は、はっとして、絶対に赤くなっているだろう顔が恥ずかしくて、目を逸らした。

「……まことによいのか? まだ会って一月ばかりしか経っておらぬのだぞ。貴方が後悔することになっては」

 懸念を口にする。なのに、ヘマはにこにことして、

「まあ、お前は? 私と婚約しても、後悔しないでくれるの?」

 ……なぜそんなに考え方が前向きなのだ……! その通りだが!

「貴方以上に素晴らしい人など、おらぬと思うぞ……」

 呟き気味に言うのに、ヘマはより頬を赤くして、

「あら。……私だって、お前以上の相手はいないと思っているのですよ?」

 と私を硬直させるようなことを言いつつ、こう提案する。

「でも、よく知り合っているというには、時が足りないのも事実だものね。一つ、方法は考えてきたのですが」

「何だ?」

「手紙を出し合うのです。お互いのことを書いたり、聞いたりする……それが十五通目を数えて、気持ちが定まっていたら」

 なるほど、と私はうなずいた。ヴェントゾの件で、手紙をいとわぬことはわかっているものな。

「なぜ十五なのだ?」

 聞くと、ヘマは少々恥ずかしそうに、

「私の好きな数字なのです。地眠ちみん月の十五日が、誕生日なので」

「そうなのか」

 地眠月の十五日。覚えておこう。ばっちり頭の中に書きつけておいてから、賛成する。

「それはよい考えだな。そちらのお方が、時間を取るのを許してくだされば、だが」

「そこは心配ないわ。急いでいるわけではないもの」

 急な話だったから心配だったが……それなら。

「ね、ヴィン」

 ヘマが包む手を少し強める。小さいのに、温かく、強い。彼女そのもののような温度。

「いつか、この大変なことが終わって、お前と本当に望んだから婚約したのだって、言える日が来ること……願ってるわ」

 そっと目をふせた。彼女の細い指先を見つめるように。

「ああ。……私もだ」

 互いの温もりを感じる穏やかな時間は、突風と共にヴェントゾが乱入してくるまで、しばらく続いた。


 ヴェントゾのせいで騒ぎになったので、私たちは心配した騎士に宮内へ連れ戻されることになった。しかも元凶は大窓が開いた途端逃げた。何なのだ、白いのは。

「必ず、また会いましょうね、ヴィン!」

 ヘマも付き人らしい女性に急かされて連れ出されてしまう。手を振って答えて、下ろした指先に、先ほどまでの温もりを思い出して、袖口を握った。

 ……まだ、胸が鳴っている。

 上着を羽織り直し、執務室を覗くと、兄上と目が合った。手招きされるので、机の横に立つと、兄上はどこか楽しげに問う。

「話はついたか、ヴィン?」

「はい。……」

 答えてから、思いついてじとりと兄上を見上げた。

「……ヘマを資料室まで手引きしたのは、兄上でございましょう」

「そうだね」

 兄上はあっさりとうなずく。

「……問題の渦中の者同士を引き合わす手助けをとは……」

「巫女殿に懇願されてはね」

 懇願。そうまでして、会いに来てくれたのか。

 またも赤くなりそうな顔を袖で隠す。

「もう少し悪びれた素振りでもしてください」

 兄上はくすくすと笑い、

「それで、どうなったのだ?」

「期限を、ということになりました」

 軽くにらんでから答える。

「ふむ?」

「手紙が……あと十五通を数えたら、と」

 ふふ、と兄上が笑う。

「可愛らしい取り決めだな? よいだろう、それまでに心を決めるのだよ」

 なぜか楽しそうな兄上にむっとして、聞こえぬように呟いた。

「……もう、心は贈ってもらいましたよ」

 人の恋路をおもしろがらないでいただきたい。私たちの方は本気なのだから……限りなく。もう、すでに想いを伝え合った仲だと、言えるのだから。

 子どもの恋だと言われても仕方はないが、侮られたくはない。

「む、何か言ったか?」

 にやにやとした、からかうような声音に、

「兄上は悪びれてください! 連絡もなしにティエビエンの姫を迎えるなど」

「失礼します、殿下」

 怒ろうかと思ったところで扉が開き、文官長にじゃまされた。兄上も、時々ずるいお人だ。



 その後、届いた最初の手紙は、本当にいくつもの知りたいことが質問されていて、笑ってしまった。

 好きな色。ヘマは金らしい。王猫の毛の色か? 私は青だな。

 好きな数字。そんなもの、考えたこともなかったが……どうせなら、二十三と言っておこう。私の誕生日は炎芽月の二十三日だから。

 好きな料理。パラク、とは何だ……? 調べたら米に肉や葉野菜を入れて炒めた南の方の料理だった。答えとしてはつまらぬものだが、揚げ魚かな。それとレモンを入れた紅茶。ユースフェルト人には一般的なものだが。

 趣味。……語学? ものすごく笑われそうだが、ふふ。姫たちと遊ぶことは……趣味ではなく仕事だろうか? ヘマは読書と書いてきている。そのままだな。それから乗馬らしい。さすがはティエビエンの姫君だ。……いつか、一緒に出かけられたらきっと楽しいだろう。

 くすくす笑いながら、ペンを手に取った。『親愛なるヘマへ』とつづる。再びその名を書けることが嬉しくて、また笑う。

 どうやって答えようか。私からも何か質問してみたい。

 ……十五通では足りぬほど、知りたいことがある。

 そう考えて赤面した。こんな恥ずかしい話はないぞ……私というやつは。彼女の全てを知りたいだなどと、ちょっと頭を冷やしてくるべきだな。

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