四.心導く
「殿下ー、見えてきましたよ!」
前方を行くイグナーツが、緑茂る丘の頂を差す。
向こうの丘には石造りの塔がかすんで見えた。来た方の丘には王家の墓標が、振り返れば見えるだろう。馬を歩かせるのが精一杯で、そんな余裕などないがな!
騎士二人はさすがだ。その呼び名の通り軽快に馬を駆り、イグナーツが前方を行き、カスパーは後ろからついてきてくれている。隣を並走するエッボが、小柄な馬にちょこんと乗って、話しかけてきた。
「その調子ですじゃ、殿下」
少し調子が出てきたかもしれん。走らせるまではできぬので、ぽくぽくと歩かせているだけだが、宮の門を出た時よりは確実に。
「ああ。あの上まで行くか」
と私は二人に答えた。
風がさっと髪を掻き上げる。頬に当たる風が心地よくて、笑った。
頂上に着くと、先に行っていたイグナーツが、ばさりと大きな布を広げていた。わくわくした顔をしている——この遠足の主役は私なのだが?
馬を滑り降り、薄茶の毛の鼻面を優しく叩く。
「ヴィン様、どうぞ」
これも大きな赤茶の布包みを持ったカスパーに促され、イグナーツが敷いた布の上に腰を下ろした。
「お前たちも座れ」
声をかけると、イグナーツが真っ先に座る。だからお前はこの行事の主催を誰と心得ている。
皆で包みを囲む。解くと、立派な弁当箱が入っていた。蓋を開ければ彩り豊かな料理がずらり。
「すばらしい腕だな、料理長は」
「すげえっすね! 美味そうー」
ヒューッと口笛を吹いて、イグナーツが言う。私はパンを一つ手に取り、他の三人にも好きなように食わせることにした。
「よく晴れてよかったですね」
とカスパー。おもしろいことに、今日の空は街の方には重たげな雲がかかっていて、丘の方は気持ちいいぐらいの晴天だ。
「うむ、だが、いつ雲が来るとも知れぬからな。じゃまされぬうちに楽しんでしまおう」
私はもう一つ、小さなパイ包みに手を伸ばした。エッボがそうですじゃの、と笑う。
明日は聖曜日である。つまり、今日は地曜日だ。エッボと兄上が許可してくれた、遠乗りの日。
「食べすぎるなよ、この大食らい」
焼き菓子の最後の一個をかすめとると、イグナーツがうひい、とか変な声を出す。
「それ俺もちょーっと食べたかったんすけど?」
「お前はおまけなのに、役に立ってるカスパーとエッボよりも食っておるからだ」
美味いな。さくさくしていて、甘すぎない。
「大人げないですよ、ヴィン様、イグナーツも」
カスパーは苦笑している。エッボは自由人の典型で、どこからか取り出したカップに水筒の茶を注いで飲んでいる。
「これももっと食え」
と私は余っている野菜煮込みの膳を差し出した。肉ばっかり食っとるでないぞ、騎士二人。
あれからヘマからの手紙の返事は、翌日、
『親愛なるヴィン
素早い返事をありがとう。ヴェントゾがちゃんとそちらに着いていてよかったわ。もし迷っていたらと思うと、気が気ではなくて。
ご飯も食べさせてくれたのね? 本当にありがとう。ともかく、彼が無事で過ごしているようでほっとしています。今、王猫も感謝の意を述べよと言ったので、書いておきますね。
お前にこの地の祝福があらんことを、だそうです。
王猫は、顔には出さないけれど、実は子猫のことについては、とても心配性なのですよ。だから、私の代筆ですが礼を言わせてくださいね。
私の方は、白の塔の業務に戻っています。といっても、本の整理をしたり、王猫へのお客様の通訳をしたり、といったことですが。私の手からご飯を食べられないことをここにいる三匹が寂しがったので、王猫に一週間は塔にいなさいと命じられてしまいました。ですので、そちらに伺うのはその次の週になりそうなのです。姉様がお前の兄君に手紙をお出しすると言ってくださったので、届いたらお前も見てください。
ヴェントゾばかり自立心旺盛で、他は甘えん坊で困ったことです。私は一刻も早くそちらへ赴きたいのに! ヴェントゾに勝手にいなくなった理由を聞きたいし、お前にもまた会いたいです。ヴィン、お前と話をするのはとても楽しかったから。
話は変わりますが、お願いがあるのです。
よろしければ、私が行くまで、ヴェントゾの様子を見て、また手紙を書いてくれませんか? あのいたずらっ子がどうしているか、不安なのです。さっきほっとしていると書いたのも本当ですが、一つ悩みがなくなると新しい悩みが出てくるなんて、まこと、悩ましいものです。厚かましいお願いかと思いますが、返事を待っています。
猫たちのばらばらな要求に頭を悩ませるヘマより』
ヘマの手紙を読むのは、全く、新たな経験だった。
白の塔や王猫の描写に、彼女の暮らす世界を、そして彼女が暮らしている姿を夢想する。真剣に仕事をしているのだろうか? それとも、子猫たちを叱ったりして?
どの姿も美しいだろうな、という考えが頭をよぎる。
だが、何より、また会いたいという何気ない一文に、どきりとした。私もそう思っていたから。
まぶたを閉じればすぐに浮かび上がる、真っ白な姫君の姿。
もう一度、あの優しい声で語られる、私の知らぬ世界の話を、聞いてみたかった。
そんなふうに好意を持った姫君の願いが、厚かましいなどあるわけがない。それに、当然白いののことは見守るつもりだった。白いのというおもしろいものを観察して世話することで、あの高貴な少女が喜んでくれるなら、望外の幸運だ。
私は風曜日、中庭に出て白いのがやってくるのを見て——兄上たちに見せようとすると逃げられたが——、また料理長のもとへも行って一緒に餌をやり、手紙を書いた。
『ヘマへ
ヴェントゾのことで遠慮することはない。貴方の助けになれるなら、私はいくらでも手伝うぞ。
ヴェントゾは今日も中庭や塔の上に出没していた。あれは建物の中に入ってくることがほとんどない。私に近づくのも、私が一人で外にいる時だけだ。兄上や騎士たちに見せようとすると、すぐに逃げてしまう。王猫の子は巫女以外にはめったに懐かぬというのは本当なのだな。私のことは、きっと力の件で気に入ってくれているのだろう。
それと、料理長のもとにも現れる。魚の切り身をもらって、嬉しそうによく食っていた。塔で出される子猫たちの食事はどのようなものだ? もし教えてもらえたら、参考にする。
どうにも、彼が姿を見せるのは己に役立つ者の前のみという気がしてならん。巫女殿はどう思う?
訪問の話は、まだこちらに届いておらん。決まったら知らせよう。私も日頃は勉強をしているので、返事が遅くて申し訳ないが。そうそう、王猫のお言葉には、ありがたいことだと伝えておいてくれぬか。兄上であればもっと上手く世話してやれると思うのだが、私では至らぬ点も多いだろう。もっとも、あやつには私ぐらいしか会えぬから仕様がないがな。
何かわかったらまた手紙を出す。私も、貴方に会えるのを楽しみにしている。
ヴィンフリート』
その日の夕方に、訪問の話と、ヘマからの短い手紙が来た。
『ヴィンフリート
姉様が昨日のうちに、手紙を出したそうです。今頃届いているのではないでしょうか?
そちら次第ですが、王宮に一晩滞在させていただくことになりそうなのです。姉様や兄様がいないから、身軽な旅になりそうだと思っていたのに、二人が安全な旅程で行きなさいと承知しないものですから。
あの間伺った時は特使館に泊まったのですが、今回は私の私用なのに、外交官の仕事場を使うのもどうかと思って。
本音としては、夜のヴェントゾの様子を見たいだけなのですけれどね? ヴィン、お前ならわかってくれるでしょう? ぜひ兄君を説得してください!
いつでも構わないから、また返事を出してくれると嬉しいわ。お前の手紙が来てくれるのが楽しみなのです。待っているわ。
心から、
ヘマ』
結びの文に綴られた、心の温かくなる言葉に、私は一人小さく笑った。お互い母語ではない言葉で文を送り合っているからか、ヘマは己の心にまで率直に触れてくるのだな、と思って。
待っている、だと。まるで恋人の文のようだ。
……恋?
その単語を思いついた瞬間、何かが弾けたような気がした。
私も待っているのだ。彼女の手紙が来るのを。また彼女に会えるのを。手紙の中で、彼女の心情をかいま見る度、初めて会った日の笑顔を、あの美しさと高貴さを思い出す度、心が躍るのは、心臓がきゅっと縮むようなのは。
全ての答えはそこにあるのだと、わかってしまった。
耳の奥で、胸がとくりとくりと鳴り出す。しばらく、鳴り続けてやまなかった。多くの小説にあるように、心音がその合図なのだとしたら。
私は、ヘマに恋しているのだろうか? ……私が?
恋をするなど、考えたこともなかった。するとしても、ずっと後のことだと思っていたのに……。
兄上に届いた王女からの書状には、来週の流曜日にヘマが再び王宮を訪れること、また一晩の滞在を望んでいる胸がしたためられていた。何はともあれ、私は兄上を説得した。己が心がどうあれ、ヘマの望みは叶えてやりたい。もし王宮に泊まってくれるのなら、あの日よりも長い時間、彼女と話ができるのだし。
内宮の王家の間——他の屋敷なら居間と言うのだろう、私たちの間でも通称は居間だ——の一人掛けのソファにゆったりと座った兄上は、あっさりうなずいた。
「巫女殿の願いとあらば、聞かぬわけにはゆくまいな」
とおかしそうに笑う。
「しかし、私にも仕事があるし、私では王猫の子には会えぬとなると、巫女殿のお相手は、ヴィン、お前に任せるしかないな」
私はここぞとばかりに賛成した。
「ぜひお任せください、兄上。巫女殿をがっかりさせることだけはしないと、保証いたしますよ」
それで、私も短い返事を出した。
『親愛なるヘマ
滞在の報せが届いた。もちろん喜んでお迎えする。
ヴェントゾの生活の謎は、普段同じところで暮らしている私にもさっぱりなのだから、ヘマ、貴方が案じるのも無理はないな。
正式なことは兄上から通達が行くだろう。できれば貴方の姉君や兄君が言うように、安全な旅程で来てくれ。無茶な旅をして、貴方が体調を崩したりしては元も子もない。
兄上に貴方の案内役を任せられたから、行きたいところがあれば宮内を案内しよう。候補を考えておいてくれ。
ヴィン
追伸、ヴェントゾは今日は元気一杯だった。優雅に風に乗っていたくせに、料理長が魚のすり身を持ってくると飛び降りてきて、一皿分食っていたぞ。もう長距離飛行の疲れは忘れたようだ。』
心にあるこの気持ちのことは書かなかった。そも確信もない。会ったのも、実際に話したのも一度切り。そんな相手に、恋などするだろうか。
だが、また会いたいと考えれば、頭がふわりとするような、彼女のことを思い出すだけで胸が弾むような、こんな気持ちは全く初めてだ。
樹曜日の朝は、兄上から執務室へ一緒に行くかと誘われたので、手紙はアリーセに託して、出してもらった。モニカやカスパーに頼むよりはアリーセが一番、丁寧に扱うだろうという点で、信頼できる。
カスパーが私付きの近衛になったので、少し日々のことも変化した。これまで、彼の仕事は内宮で私のいる場所の警護であったのが、内宮での王族の護衛に加え、私が他所へ行く場合の警護になったのだ。夜、内宮で持ってくれるのは変わらぬが、朝夕資料室まで送り迎えしてもらうのもできるようになった。
護衛対象が私に属するもの——要は、内宮で戸外からの警護——から、私自身の護衛に変わったということだな。前は、私が頼まない限り、カスパーは王宮を守るという職務から離れて、私に付いて護衛することはできなかった。私の騎士が常に傍にいるというのは、心強いものだ。
ちなみに、私が資料室で勉強している間は、近衛騎士団の方で働いてもらっている。私だって一人でいる時間はほしいし、塔に行く以外はほとんど動かないのに、私の護衛に縛りつけているのはかわいそうだからな。護衛してくれるのは、朝夕内宮との行き帰りと、訓練場に行く時だけでよい。馬術の授業の後、カスパーがいるとたまに体術を教えてくれたりする騎士が出てきたりするしな。暇な時は己の鍛錬をしてもらっておけばよいし、まあヘンドリックが仕事を回すだろう。
そんなわけで、カスパーを後ろに付き従えて、私は兄上と、明日の遠乗りが楽しみだのといった話をして、執務室へ向かった。
扉の前に立っている、まだ年若い薄茶の髪に薄緑の目の騎士が、人懐こく挨拶してくる。
「おはようございます、殿下方!」
ヨルクが兄上付きの近衛に昇格したので、後輩のこやつが執務室の警護を引き継いだらしい。母上が公爵領へ向かった後のあの日、執務室まで私を案内してくれた、ベンノだ。
時々ヨルクと交代で番をしているのを見かけていたので、事実後進なのだろう。無愛想なヨルクの顔ではなく、ベンノの若々しい笑みを見られるようになったのはよいことかもな? ……くく。
執務室にはジークとヨルクが待っていて、兄上は二人を従えて仕事に向かった。兄上の近衛は、カスパーと逆の時間帯が職務時間なのだな。兄上は仕事中、色々な者に会われる。日中、あり得る危険から兄上を守るのが、その近衛の仕事だ。
私は真っ黒な机につき、カスパーを下がらせて、昨日の続きを始めた。王宮の建築について書いてあるのだ。隠し通路もぼかして書いてあっておもしろい。この辺はいくつか発見したな。
それと歴代の王宮の扱いについても。この台地の上の王宮に王家が暮らすようになったのは、十代目からだ。それまではもっと北の方に王宮があったのだが、海に近く、主に木造だったために痛んでしまったのだ。今もまじない石の生産地として有名なかつての王都シュテルナーデは、海沿いの街である。
それで今の王宮は台地の上に、都を見下ろす形で、基部を石造りにして建てられた。私の気に入りの抜け道、塔への隠し扉が、石積みの基部によってなし得たものであるのは疑いようもない。
王宮は拡張されたり一部壊したり再建されたりと、結構形を変えている。特に後宮はそうで、ヴェンデル二世王の大改造が有名だ。いくつもの色の名を冠する間を造ったのも、この頃だから。
降の二刻を過ぎ、カスパーが戻ってきた時に、手紙も一緒にやってきた。
朝早くに遠乗りに出ることにしていたので、早めに自室へ引き上げ、封を開けた。
『ヴィンへ
ヴェントゾを見に行けることになって、それにまたお前と会えることになって、本当に嬉しいわ!
ヴェントゾについて、たくさんの報告、ありがとう。あの子たちが己に近しい者にしか会わないのは本当です。私は、多分、人見知りの時期なのではないかと思っているのだけれど。ほら、人の子も小さい時、人見知りするでしょう?
ですが、人見知りの時期と変化の時期が重なるなんて、困ったものですね。心配はないようですけれど。もう少し大きくなったら好奇心旺盛になると、王猫が言っていますから。
王猫はとても賢く、知恵を得るのが大好きなのです。知的好奇心のために、今はばらばらな子猫たちも白の塔へ帰ってくるのでしょう。それはそれで大変そうですけれど。
食べるものは魚をあげているとのこと、感謝します。四匹にも好きなものがあって、特にテルセル、ヴェントゾは、魚が好きだったわ。どうぞそのままでと、料理長さんにお伝えください。できれば私も会ってお伝えしたいです。
それから、行きたいところね?
実は、とても、ユースフェルトの王宮の図書館を見てみたかったのです! 白の塔は、少し違うけれど、図書館みたいなものですから、興味があって。それで、できれば、ユースフェルト語の本でいいものを教えてほしいのです。塔には本なら数え切れないほどあるのだけれど、何から読んでいいのかわからなくなるものですから。
光曜日には発ちますから、返事は会った時でも大丈夫です。
ヘマ
追伸、早くそちらに着いて、やりたいことがたくさんあるわ。お前が案内してくれるとわかってほっとしました。お前と話ができるとわかったのですからね!』
ああ、もう。
私だって会えることになって嬉しいし、話だって、してやりたいことだってたくさんある。違う言語の話ができるのも、本の話ができるのも、何と胸躍ることか。
もしかすると、本当に好きなのかもしれない。ヘマのことが。頬が少し熱くなった気がした。
駄目だ、こんなことを考えていると明日に響く。さっさと寝てしまおう。
いつもより早い時間に風呂に入って出てくると、モニカに微笑ましげに見られた。
「明日が楽しみなのですわね、ヴィン様?」
まあそうだな、とあいまいに答える。布団に入ると、モニカがろうそくを消した。
「おやすみなさい、ヴィン様」
「おやすみ、モニカ」
ぱたりと扉が閉まる。戸の向こうでカスパーとモニカが何か声をひそめて話しているらしい。そういえば、あの二人の恋路はどうなったのだろう?
早く寝ようとしている理由は、本当は違うのだがな。こんなに何か一つのことをずっと考えているのは、心に深く潜り込むようにして考え続けているのは、母上が亡くなって以来だ。眠るには何も考えないことが必要なのに。
つぶった目の奥に、ヘマの輝くような笑みが映って、そして束の間、幸せだった頃の母上の面影がひらめいて消えた。
愛されているのだと、母上も、私も、信じていたあの頃。まだ私が、母上や教育係に手をかけられて育てられていた、何も知らなかった頃の明るい記憶の断片。優しくなでてくれた手の温かさ。
温もりにまどろみが訪れる。いつの間にか眠りに落ちて、地曜日の朝すっきりと目を覚ました。
馬に乗って、行ったことのない道を通るのは、少し怖かったがとても新鮮で、楽しかった。
王墓の丘は、あの時と違って快晴で、静かで穏やかな雰囲気だった。夏の草花の間で、風が遊んでいる。一番新しい、丸い縁取りの墓標に刻まれた名を、じっと見つめた。
ウルリーケ・ハイスレイ=ユースフェルト。
ハイスレイ公爵家に生まれ、宰相の娘として、王に嫁ぐために育てられ、父上に恋し、第三王子を産んで、そして、愛憎に狂って死んだ人。
私の母上。
ずっと己の望みこそが唯一の世界に生きて、それを崩されて、壊れてしまった。体まで壊してしまうのもあっという間だった。
それでも、私が世界で最初に愛した人だった。誰より大切な人だった。己の心に、あの頃は気づいていなかったが、誰よりも守りたかった人だった。……だから、私が気づいたものに気づいてくれなかった時、嫌ったのだ。私が抑えると決めたわがままな叫びを抑えてくれなかったから、うとんだのだ。認められなかったのだとは、夢にも思わずに。知らされてしまったら壊れてしまう人なのだと、私は少しも知らなかった。
救えなかった。意を
今はこうして分析することもできる。だが、あの時、言葉にすらできなかった激情は、私の体まで蝕んだ。立ち直れたのは、心配してくれる者たちがいたからだ。大切なものは他にもできていたのだと、気づかせてもらったから、私が必要なのだと伝えてくれたから、母上を失った私でも生きていていいのだと、教えてもらったような気がしたから。
そして、私は生きることを選んだ。強くなりたいと願って。もう大切な人を私のせいで失うことがないようにと誓って。あれから、変わったことを、できるようになったことを、得たものを、母上に伝えたかった。
墓前に花束を供える。白い大輪の花に、青の小花を添えたもので、水色の紙で束ねられていた。後宮の青の間を支配し、青い鈴蘭を愛した、誇り高いあの方にふさわしい。白か青、その色を伝えただけでこれほどのものを用意してくれた花屋には、素晴らしいの一言しかないな。
つなぎを取ってくれたのは侍従長で、出がけに受け取った時そう言っていると、珍しくまだ内宮にいた兄上が肩を震わせていた。やはり兄上の笑いのつぼはわからん。
ひざまずき、両手の指を組んで目を閉じる。
母上、と語りかける。
母上、色々な者に出会いましたよ。貴方がくだらぬとさげすんでいた者たちにも、すばらしい者たちが数多くいるのを知りました。
貴方の考えのもとから離れたことを、後悔はしておりません。ですが、もう母上に会えないと思うと、しんと冷たいものが胸に広がるのは、ずっと変わらない。これから永く付き合ってゆくのでしょう。ですが、生きると決めました。気が強いのは、きっと貴方譲りでしょう。
馬に乗って、ここまで来れるようになりましたよ。勉強もしております。世の中、思い通りに行かぬことの方が多いのだという言葉が、納得されるようになりました。後宮で、思い通りにしてくれぬ使用人たちに怒鳴りつけていた私たちは、愚かだったのだという考えは、今も変わっておりません。それでも、母上、貴方を愛していました。
とりとめのない言葉が、浮かんでは消える。アリーセにモニカ、カスパーが私の騎士になってくれたこと、ダーフィトやエトガーといった文官たち、個性の強い騎士たちの顔なども。ふいに、ヘマの姿を思い出す。
母上、私にも好きな人ができたかもしれません。
そう胸の内に呟いて、母上にこうした話を聞いてみたかったな、と思った。
母上、貴方は、幸福でしたか? 一番に愛されていると信じていたとはいえ、他に三人も妻を持った王に嫁いで、最後にはそのために心を病んで。
恋のために不幸になる人もいるのだ。
苦しい、つらい思いも、恋はもたらすのでしょうか。ただあの少女を想って、ぼんやりと会いたいと思うこの気持ちは、恋と呼べるのでしょうか? 今はまだ、初めてで始まったばかりのこの想いは、私たちを幸せにできるのでしょうか。私はどうでもいいから、彼女の笑顔が見たいなどと、この頃、そんなことばかり考えているのです。
母上の生きた道を思えば、単純にヘマのことが好きだなどと言うことはできない。だが、彼女に会いたいというのだけは、本当なのだ。
母上、貴方はどんな気持ちで、父上に恋をしていたのでしょう。
かつての母上を思い出す。私を愛しげに見る顔、侍女を叱る声、父上の来訪を歓迎する甘い態度、贈り物に喜ぶ姿……。母上の一生が、少なくともあの日まで、私が最後にきちんと母上と話した時までは、幸福であったことを願うしかない。
母上の全てが終わった今、私にできることはもうない。ここに来て、死後の冥福を祈ることだけだ。
今はその魂が、自由であらんことを。ずっと少女のようだったあの方が、父上のことも私のことも忘れて、魂だけになって、本当に少女だった頃のように、解放されていてほしかった。
ざあ、と大きな風が吹いて、私は目を開けた。金の髪が吹かれて、上を向かせる風だった。母上と同じ青の目に、真っ青な空を映させる風だった。
ああ、まことにそうだったら。
私は立ち上がり、焦げ茶の乗馬用のズボンについた土や草を払った。カスパーたちが気づいて、馬の用意を始める。
……しかし、母上なら、自由になっていたとしても己が墓が手入れされていないと、文句を言いそうだ。
そう考えてくすりと笑い、こう告げた。
「……また、来ます」
微笑みかけた花が、そよそよと揺れた。
「お参りできましたか、ヴィン様」
カスパーが優しく言う。
「雨が来る前に行きましょ! 俺、もう腹ぺこなんすよー」
イグナーツは相変わらず腹立たしい。が、それがやつなりの思いやりであるのもわかっている。
「馬たちは準備万端ですじゃよ、殿下」
エッボは年相応に落ち着いた声で告げた。年を重ねている分、私たちより何度も多く、大切な人を送ったことがあるのだろう。
「ああ。出発しよう」
と私は皆に答えた。この者たちに出会えた己が誇らしかった。
私は母上の血を継いだ、風の魔術の使い手だ。私は本当は何者にも縛られない。母上にも、過去にも。私を縛るのは、唯一、私であるべきだ。誰かを不幸にしないように、大切な者たちを守れるように、その思いだけが私を縛るのだ。
私は私だけの人生を歩まねばならない。
エッボが私のために用意してくれた淡茶の毛の小さめの馬に跨ると、視界が開け、背筋が伸びる。私は馬を丘を下る方へ向け、歩かせようと軽く腹を蹴って合図した。馬がぽくりと一歩踏み出す。
弁当箱を空にした頃になると、黒雲がごろごろ言いながら近づいてきた。
「そろそろ行くか?」
「そうですね」
横に座っていたカスパーを見上げると、すぐにうなずかれる。
「殿下はぬか道を行くにはまだ早いですじゃ。早いうちに戻るとしますかの。じゃがお忘れなきように、厩に帰り着くまでが遠乗りでございますでの」
そしてやはりエッボは厳しい。イグナーツが素早く敷物を畳みにかかり、
「さっさと撤収しましょー」
「撤収!」
とか言いながら馬に乗り、私たちは丘を下って、王宮のある台地を登り出した。ごろごろという音に、不吉に思ってちらと空を見やった途端、ぽつんと雨粒が額に当たった。
「まずいっすね」
イグナーツが小さく舌打ちし、
「急ぐぞ」
カスパーが同輩に声をかける。私もできる限りの速さで馬を駆り、門兵が通用門を開けてくれて、何とか軒下に入ったところで、ざっと勢いよく雨が降り出した。
「間一髪でしたね」
とカスパーが乱れた髪を掻き上げて、空を見上げつつ言う。
「急変だな」
言いながら私は銀の布のように降り注ぐ雨と、重たげな雲を見つめた。前半が晴天で、後半は土砂降りとは。
「何考えてんすか?」
イグナーツが焦げ茶の目を煌めかせて顔を覗き込んでくる。
「おもしろい天気だと思ってな」
答えて、ふと思いついて、呟いた。
「四大神よ、この天気がこの先の四週にも当てはまるよう」
イグナーツが当然聞きとがめて、
「ちょっ、殿下」
言いつつおかしそうににやにやする。
「えっ、何ですか?」
カスパーが身を乗り出してくるので、私もにやりとした。
「ヘマが来る時はよく晴れて、二の兄上は大雨に降られたらいいのにってことだ」
「ちょっと、ヴィン様」
同じ反応をするな。実は仲良しだな、お前ら?
イグナーツが静かに大笑いしていて使い物にならんので、カスパーがとがめ役に回ったらしい。
「いくらなんでもそれは、第二王子殿下にお供する若手が可哀そうですよ」
ってあの男の方については止めぬのか。まあしかし、
「確かにそうだな。あやつは雨ごときではこたえぬかもしれぬし、撤回しよう」
平然と言ってみせる。イグナーツがとうとう笑いを堪えるのをあきらめた。
「本っ当……、いや、俺殿下好きっすよ」
「それはありがとう」
彼が笑い転げて再び使い物にならなくなったので、私はにまりとした。
「私もお前の反応は好きだぞ」
「ええ⁉ 俺は? 俺自身はどうすか、殿下!」
「もう少し態度を改めろ」
「ええー⁉」
イグナーツで遊んでいると、門兵と話していたエッボが戻ってくる。
「雨具を借りましたでの、馬を連れて行きましょうか」
しわのある手から外套を手渡される。羽織って、じとりと老馬番を睨んだ。
「お前厳しくないか、エッボ?」
「まだ遠足は終わってございませんじゃ、殿下」
飄々として歩き出すエッボの後を、私たちは三人、ぶつぶつ言いながら馬の手綱を引いていった。
内宮へ戻ると、モニカが湯殿の支度をして待っていた。
「お帰りなさいませ、ヴィン様」
上着を預かってくれるので、ありがとう、と礼を言う。
「モニカは気が利くな」
私は上機嫌で言った。雨に降られた後に湯に浸かれるのはありがたい。
「カスパー、お前も一旦戻れ。風邪をひくぞ」
振り返り、戸口に立っていた騎士に告げる。
「はい。では後ほど」
カスパーが軽く礼をする。ベストや指輪を寝室に置いていると、声が聞こえた。
「お疲れさまです。これを」
「ありがとうございます。モニカ殿は、まことによく気の付かれるお人ですね」
モニカとカスパーか。
「あの、先日はありがとうございました。とても助かりましたわ」
「丁度暇していたので。あのくらいならお安い御用ですよ」
「それならよろしかったですわ。あの後、わたくし、どうしてもあの木のことが気になって」
「……それでしたら」
何だか、二人の声はとても大人らしく、穏やかに聞こえた。
「もし貴方がよければ、見に行きませんか? 今なら、花の落ちる頃です」
「まあ、カスパー殿、本当に?」
おお? これは、よい雰囲気というやつなのでは?
「ぜひ! お願いいたしますわ!」
「では、次の休みにでも」
二人の優しい笑い声が、耳に心地よく響く。私はふっと笑って、ぱたんと風呂場の戸を閉めた。全く、早く着替えでもせねば風邪をひくだろうに、あやつめ。
その日の夕食は、兄上が少し遅れるそうだったので、エルヴィラ様と食卓についてお待ちしていた。
「雨のせいで予定が狂ったと、皆が不平を言っていたわね。ヴィンフリート、お前の遠乗りは大丈夫だったかしら?」
とエルヴィラ様は眉をひそめて小首を傾げる。いつも通り、優雅でお美しい仕草だ。
母上はこの方を、立場における問題で嫌ってらしたが、この方は何を思って、父上に嫁いだのだろう。遠いモウェルから、この王宮へやってきて。
「危ないところでしたが。エッボは、例え雨が降っても最後まで馬を世話しないと承知しなくて。エルヴィラ様も彼をご存じですか?」
「ええ、よく知っていてよ。アレクシスを預けた時から変わらないのね」
エルヴィラ様がくすくすと上品に笑う。
「アレクシスは、でも、そういうところが気に入っていたようだったけれど」
「なるほど……」
兄上らしい。兄上は、人一倍、ご自身に対して厳しいお方だ。それを理解してくれる者を好むのだろう。私は気分によってむらがあることが多いから、兄上のお役に立てるようになるには、もっと研鑽を積まねばならんな。
かつりと靴音がして、兄上が入ってきた。
「遅くなったな。すみません、母上、ヴィンも」
「いえ、大丈夫でございますよ」
さっと否定した私と違い、
「待ったわよ、アレク? お座りなさい」
エルヴィラ様は微笑んで息子をからかっておられる。
「何の話をしていたのです?」
兄上が椅子に座りながら聞く。
「ヴィンフリートの遠乗りの話よ。ほら、あの馬番の」
「ああ、エッボですか」
兄上はうなずいて、私の方を向き、
「ヴィン、遠乗りは上手くいったか?」
「はい、兄上」
私はにこりとした。
お二人が話しているのを見ると、失った遠い日の会話を思い出す。私の王子、可愛いヴィンフリート、とそう呼んで、私の話を聞いてくれていた母上と、まだ幼く何も見えていなくて、傲慢だったけれど、幸せだった私のことを。
目の前の、血が繋がった家族であるお二人が、その会話に私を入れてくださる時、失ったものを思い出す寂しさの代わりに、家族の一員として扱ってくださる嬉しさがもたらされるのだ。
「騎士たちと遠足するのはおもしろいものでしたよ。花束も持って行けましたし、それに、きちんと馬にも乗れました」
つい身を乗り出して言うと、お二人が笑う。
「また行ってもいいですか、兄上?」
見上げると、兄上は優しく笑んだ。
「もちろんだ。だが、日を決めて、報告を上げるのだよ」
「はい!」
私は勢いづいてうなずいた。まだ行ってみたいところはたくさんある。川や森にも行ってみたいし、街も見てみたい。そして、ゆくゆくは、私が学んだ言語を使う人々の暮らす、外国へも……。
というのは、少し気が早すぎるか。
願い通りかはわからぬが、ヘマの来る日は本当によく晴れていて、空が青かった。
「ヴィン!」
ヘマが馬車を身軽に跳び下りるなり、私を呼ぶ。今日はくるぶしまである長いスカートの、茶色の旅装束で、背後の青空を背景に彼女の白の美貌がよく浮かび上がっていた。
駆け寄ってくる笑顔は溌溂として、微塵も旅の疲れを感じさせない。思い出してばかりいた出会った時の笑顔より、こうして再会したこの笑顔の方が眩くて、目がくらんだ。
「今日はよろしくお願いしますね!」
真っ直ぐに見た笑みに、心臓がどくんと跳ねる。それを押し隠して、私は再会の喜びの方を笑みに載せた。
「ようこそ、ヘマ。早速案内しよう」
片手を差し出すと、ヘマがすぐに手を重ねる。私より少し小さくて、細い手。
反対の手に荷物があることに気づいて、それを取り上げた。
「預かろう。ずっと持ち運ぶのは重いだろう?」
くすりと笑って言ってみせたが、ヘマは少々困り顔だ。
何故だ? 女性や己より小さい者の荷を持ってやるのはこの国では当然の礼儀だし、私は特に母上から厳しく言われたものだが、ティエビエンでは違うのだろうか。
「お持ちしますよ、殿下」
先刻からヘマを待っていた私の後ろで控えてくれていたカスパーが、手を差し出してくれる。
「そうか? 助かる」
カスパーに手渡すと、ヘマは恥じるようにうつむいてしまった。
「どうした、もしかして嫌なのか? それならそうと言ってくれ」
「いえ……そういうことでは」
問うてみるも、ぶんぶんと首を横に振られる。よくわからんな。仕方なく、こちらだ、と手を引いた。
正面の大扉をくぐると、天井の高い玄関広間が広がっている。壁も床も穏やかな薄茶の色調の石張りで、つるりと磨き上げられていた。ヘマが目を輝かせる。
「ここ、きれいね。前の時も思ったのですけれど、よく手入れが行き届いていて」
私は軽く笑った。
「私も、ここを通る度そう思う。今は、本当に王家や王宮に仕える気のある者しか、兄上が雇っておられぬからな」
足を止めて天井を見上げる。球形になった天井も滑らかで、客人を迎える場として申し分ない。いつか掃除人に会ったら礼を言いたいのだが、未だに一度も姿を見たことがないのだ。
「今は、なのですか?」
ヘマが不思議そうに、横目で私を見る。
「ああ、昔はもっと大勢の、色々な仕え人がいたものだが、一時期混乱があって、多分その隙に」
「ヴィン様、隙というのはちょっと」
カスパーが口を挟んでくる。
「む、そうか? 兄上の頭のよさを示せるかと思ったのだが……」
難しいな。ヘマがくすりとして、口もとに手を当てる。
「ヴィンは兄君が好きなのね。私も、こんなにいいお仕事ができる人を雇っているのはすごいと思うわ」
私は嬉しくなって、にやっと笑って再びヘマの手を引いて道を進み出した。正面の戸を開けると、ずらりと白地に金の取っ手の扉が並ぶ廊下に出る。
「ヴィン、この廊下は何と言うのですか?」
「特に名はないが、ここは全部応接間だから、応接間のところと言えば通じる」
「そうなのですね……飾ってある絵が素敵だから、名があるのではと思って。ティエビエンの城は、主要な廊下には置き物や飾りにちなんだ呼び名がついているのですよ」
なるほど、文化の違いというやつか。
「それはおもしろいな。私もいつか行ってみたいものだ」
戸を三つくらい行ったところで、右に曲がり、さらに数歩行ったところにある戸を叩く。
「ここだ」
「どうぞ!」
明るい声に戸を開ければ、中ではヒルデがとてもいい笑顔をして立っていた。白壁に暗めの赤の線で模様があり、赤茶系で統一されたソファと椅子に、同じ暗色の木製の低い卓と小さい机のある応接間。
「客間の一室だ。今日と明日は貴方の部屋になる」
告げると、ヘマは白い頬をほんのり赤く染めて、
「なんてすてきなの! ありがとう、ヴィン。やはりユースフェルト人は芸術性があるわね」
と声を弾ませる。
カスパーも入ってきて、卓にヘマの鞄を置いた。
「どうぞ、巫女殿」
「あっ、ありがとうございます」
ヘマが慌てたように言う。
「慣れぬか? ジョルベーリからの文化なのだがな」
首を傾げると、ヘマは両手を振って、
「えっと、その……我が国の城でもないのに、私のためだけにしてくださるというのに驚いただけなの。塔では、己のことは己でと躾けられましたから……」
「それは、祖母君が?」
問うた声は感嘆のように響いた。
なるほど、彼女の高貴さは、丁寧に扱われたために身に着いたというのではないのだ。彼女自身の高潔さの素質を、正しく磨かれたために現れた結果。私とは正反対だ。
「あの……おばあ様に憧れて、振る舞いを心がけてはいますけれど、まだ私はそれほどのものでもないし……」
とヘマは恥ずかしそうにする。その仕草がとんでもなく可愛らしくて、心の臓がぎゅっと掴まれたような心地さえした。
……これは、まずい。重症だぞ、私?
何とか気を取り直して、ヘマに微笑みかける。
「貴方のようなすばらしい方になら、私だけでなく仕え人たちも、皆こぞってすると思うぞ?」
「そうでしょうか……?」
かわいい。ではなくて。
「そうだぞ? まあ、まずは貴方にお仕えする騎士を紹介しよう。こちらはブリュンヒルデだ、彼女が身辺警護を担当する」
短い銀髪に茶の瞳、すらりとして背が高い美しい騎士が、ヘマに一礼する。
「初めまして、巫女様。お目にかかれて光栄です。私はブリュンヒルデ・ポーラ、この度の護衛を担当させていただきます。どうぞヒルデとお呼びください」
ヘマは少々驚いてから、にこりとして、
「あら、私を? ありがとうございます、……ええと、ヒルデ。よろしくお願いしますね」
とユースフェルト語で挨拶し、丁寧に一礼した。ヒルデが顔を輝かせて、はい、とうなずく。
「ユースフェルト語、上手くなってないか?」
思わず尋ねると、ヘマは振り返って私に近づいてきた。
「実は、姉様に少し見てもらったのです。せっかく一人でユースフェルトへ赴くのだからと」
「ほお」
いたずら心が湧いてきて、聞いてみる。
「私ともユースフェルト語で会話してみるか?」
「それはちょっと……大変だと思うわ?」
ヘマが苦笑するので、私はふっと笑った。
「冗談だ。私はジョルベ語で話せるのは楽しいしな。そこのヒルデは、ジョルベ語は聞くのはできるが話すのはまあまあというようだから、よい話し相手になってくれると思うぞ」
「そうなのですか?」
ヘマがヒルデを見上げる。
「はい」
とヒルデはきらきらした笑顔でうなずいている。何故先ほどからそんなにいい笑顔なのだ? さてはヘマのかわいさに落ちたな。
「こんなに歓迎していただけるとは思っていませんでした」
と片手を胸に当てるヘマに、私はにやりとした。
「いつでも歓迎すると送っただろう? ユースフェルト人が複数回言ったらそれは社交辞令ではないぞ」
実際、私はヘマへの手紙に二、三回は書いている。
ヘマは絵本の妖精のように部屋を身軽にきょろきょろと見回し、
「奥の部屋も見ていいですか?」
「もちろん。貴方に用意したものだ」
ヘマがたたっと小走りに駆けていく。ヘマを形容する言葉がもう一つ増えたな。猫のようで、妖精のような少女。
「ヴィン! 来てください!」
奥の部屋から弾むような声。
「いや、女性の寝室に入るのは礼儀に反し」
「すごい! 見てください、これ!」
ためらったのだが、ヘマが何度も言うので、ひょいと部屋を覗き込んだ。寝台の天蓋がレースに飾られ、広い窓には白でひだのたっぷりあるカーテン、暗色の木の衣装棚も大きくて、その白と光の美しさの中で、ヘマがふわふわしたクッションに頬ずりしていた。
「これは、侍従たちも頑張ったな」
「すてき!」
ヘマが楽しそうに言う。
「こんなにレースが一杯のところに泊まるのは、私、初めてだわ」
「皆張り切ったらしいな。十代の若いご令嬢の部屋を整える機会なんて、このところなかったろうから」
くつくつ笑って言うと、ヘマはクッションを寝台に放って、戸口へ戻ってきた。
「そうなのですか? でも、ヴィンには妹君がいるのでしょう?」
「二人ともまだ十にもならぬゆえな」
「まあ」
くすくす笑い交わしながら、応接間の方へ戻り、二人でソファに腰かける。ヒルデが、
「私は外で見張りしております。ご用があればお呼びください、巫女様」
はきはきとしたユースフェルト語で言って、廊下へ出ていく。私はヘマの整った横顔を見、
「何かしたいことがあるか? 少し休む時間がほしければ、また後で訪ねるが」
気遣うつもりで言ったのだ、が。
「そんな、時間がもったいないわ! 今日のために昨夜はしっかり寝たし、旅装束で来たのですよ! さあ、ヴェントゾを探しに行きましょう!」
ヘマが目を煌めかせて握り拳を作って言うので、すぐさま気が変わった。
「よし、行こう。中庭へ案内する」
立ち上がり、手を差し出す。ヘマは冒険小説に出てくる姫のように、私の手に手を重ねて腰を上げた。戸を開けると、立っていたヒルデが私たちを見る。
「ヒルデ、あの、少しお散歩してきますね。王猫の子を見に行くの」
「すぐ戻るから、荷の方を頼む」
それぞれに言うと、ヒルデは小さく笑んでうなずく。
「はい、いってらっしゃいませ。七刻までにはお戻りください。ハス、頼んだぞ」
「はっ」
カスパーが短く返事をする。私たちは廊下をてくてくと歩いた。
「前は、ここに来た時、どうやって抜け出そうかと思いながら歩いていたのです。お前が案内してくれると楽でいいですね」
「ヘマ……」
ひそひそとささやいてくる彼女を、私はそっと止めた。
「悪いが、後ろのはジョルベ語ができるのだ。静かに」
「聞こえておりますよ、お二方」
カスパーが少々呆れた調子で笑う。
「ヴィン、この人は? まだ紹介してもらってないわ」
ヘマが後ろを振り向いて、カスパーを見上げる。私はああ、とうなずいた。
「こやつは私の近衛で、カスパーという」
「カスパー・ハスと申します、姫君」
カスパーが優しく微笑んでヘマに軽く頭を下げる。
「私はヘマ・ガートです。初めまして、カスパー」
ヘマがぱっと私の手を放し、スカートの裾をつまんで持ち上げる、簡易だが丁寧な礼をした。
「ご丁寧にありがとうございます」
カスパーが答えると、ヘマが微笑む。何となく優しげな光景に笑みが浮かんだ。
「こちらに曲がるのだ」
二人を引き連れて細い廊下に入り、その先にある窓付きの鍍金の戸を押し開く。眼前に、黄金色に光る庭が現れた。
「まぶしいですね」
とヘマが手で日光を遮る。
「台地の上で、太陽の恵みも星の光もすぐに受け取れる場所だからな。きっと昔から建築家の自慢だったのだろう」
「お前にも自慢の場所?」
私ははは、と笑った。
「貴方と同じで、出る度にまぶしいと思う私には、どちらとも答え難いな」
「まあ」
ヘマがくすくす笑う。そよ風が三人の髪を揺らす。私たちは少しの間黙って立っていた。
やがて、ヘマがあの困ったような顔で私を見る。その白灰の目と目が合って、イサアク殿のおてんば姫説を思い出した。まあ、もとよりこうするつもりだったしな。
「カスパー」
騎士を見上げる。
「どうやら、王猫の子は警戒心が強いらしいのだ。お前がいるから現れぬのかもしれん。宮の方へ戻って、窓から見ていてはくれぬか?」
「なるほど」
善良な我が騎士は疑いも持たずにうなずいた。
「でしたら、あちらの窓から見張りしております。どうぞ王猫の子をお捜しになってください」
と背を向け、宮へ戻ってゆく。すまん、カスパー。無茶はせぬ故、許せ。
扉が閉じられたのを見届け、私はもう一度ヘマと目を見合わせた。
「行ったぞ。どうする?」
「よくやりました、ヴィン。行きましょう!」
小声で聞けば、目に不穏な光を宿し、頼れる答えが返ってくる。おもしろいな、ヘマは。噴き出しそうになるのを堪え、私は空を振り仰いで、一点を指差した。
「あれ、白いのではないか?」
ヘマが一瞬の隙もなく話を合わせる。
「あっ、本当です!」
「追いかけるか?」
「ええ!」
私は空を見上げるふりをして走り出した。ヘマが猫のような走りでついてくる。裏大路を通り、今日は抜け道の方へは行かず、外へ突っ切る。
「あそこに厨房があるのだ」
「もしかして、料理長さんにお会いできる?」
説明すると、ヘマが嬉しそうに言う。私たちはそろそろと厨房の裏口の方へ歩いていった。風が首筋をなぜ、あっと思った時には、渦風に巻かれていた。みゃあ、と横から泣き声がする。
「ヴェントゾ!」
ヘマが笑いながら子猫を呼んだ。白いのはヘマの肩の上に乗って、彼の巫女を見上げている。
「まあ、お前、少し大きくなったかしら? 風の力も使いこなしてしまって!」
「やはり現れたな。静かな外におれば、すぐヘマを見つけてやってくるだろうと思ったのだ」
私は腕を組んで高々と言った。
「このいたずらっ子、」
とヘマはかわいらしく白いのをにらむ。
「今日という今日こそは、話をさせてもらいますからね」
その台詞をさえぎるように、私たちの立つ石畳の上の戸が開いた。壮年で、ふくよかな体の白い衣の男が顔をのぞかせ、私たちを見て丸い目をさらに丸くする。
「おや、これは、これは」
彼が皿を持って出てきて、後ろ手に戸を閉めるのを見て、私は片手を上げた。
「やあ、料理長」
会話はユースフェルト語になるが、ヘマは大丈夫だろうか? 横を見ると、白いのがするりとヘマの手を離れて、皿に向かって大きく飛んだ。
「あっ」
ヘマが手を伸ばすが、白いのは料理長にじゃれつきに行ってしまう。
「おお、ちび、早く来たね、今日は」
料理長が白いのをなでるのを見て、ヘマはぱっと笑顔になった。料理長に駆け寄り、
「お前が、その子のご飯を世話してくれたの?」
と聞く。料理長は目を瞬かせ、しつこくまとわりつく白いのに餌の皿をやってから、ヘマに向き直った。
「ええ、お嬢さん。私はここの料理長をしておりまして、猫好きなものですから、この白いちびちゃんにも、つい餌をやってしまっていまして……」
と人好きのする笑みで言う。
「貴方は? もしや、この子のご主人で?」
「ええ、ええと……」
ヘマが言葉に詰まるのを見て、私は口を挟んだ。
「そうだ。前に話したが、この白いのの世話主のお嬢さんだよ。貴方のことを話したら、礼が言いたいと言っていてな、こうして連れてきたのだ」
ほう、と料理長はあごをなでて、
「それはまた、何ともありがたいことで。いや、いや、礼には及びませんよ。私など、ただこの子が愛らしいんで、やったことでしてなあ」
「あの、本当にありがとうございます」
ヘマがゆっくりとだが、ユースフェルト語で言う。
「この子、いたずらな子で、
いくらかたどたどしいが、礼の言葉に料理長は笑んで、いやいや、と手を振った。
「この子を世話するのが楽しいものでね、かえって、後一月でいなくなってしまったら、寂しくなりますよ」
「一月、お願いします……?」
ヘマがぺこりと頭を下げ、少し困った顔でこちらを見るので、私はつけ足してやった。
「後一月の間、よろしく頼んでもよいか、ということのようだ」
料理長がにこりとする。
「もちろんですとも、お嬢さん」
「ありがとう!」
ヘマはほっと息を吐いて胸に片手を当てた。そこへ、厨房から、
「料理長ー! どちらですか?」
若い男の声。
「おや、すみませんね、若いのが呼んでおります」
料理長は厨房を振り返った。
「ちびが食べ終わったら、皿を隅に寄せておいていただけませんか? 私は戻りますので」
申し訳なさげな料理長に、そうしておく、早く戻ってやれ、と請け合い、彼が軽く頭を下げて戸に入っていくのを見送った。その間に白いのは皿をほとんど空にしてしまっている。すぐに残りも食べ終えると、白いのは楽しげに鳴いて、ヘマのしゃがんだ膝に跳び乗った。
ヘマが頭や背をなでると、くるくると甘えるように喉を鳴らす。ヘマの手は優しくて、白いのは幸せそうだった。
「ヴェントゾ、何て冒険をしてくれたのかしらね、お前は!」
叱るような声。白いのがにゃあと鳴いたとしか、私には思えなかったのだが、ヘマは返事を聞いたように言う。
「無断でかごなんかに入れるからだ、ですって?」
白いのが肯定するように鳴く。
「まあ、何て子なの、お前? 私は本当に心配したのですよ、テルセル! 困った家出息子ね!」
ヘマは叱っているのだが、その間も白いののふわりとした毛並みをなでていたので、白いのにこたえた様子はない。
「本当に後一月も、ここにお世話になるつもり?」
白いのがみゃあみゃあと答える。
「あと一月だけだから? 厚かましいわ、ヴェントゾ! もう力は十分蓄えたでしょう、さっき見たわよ。そろそろ王猫と兄弟たちのもとへ戻ったっていいはずよ?」
もう一声鳴いて、白いのはぴょんと私の肩に乗り移った。そっと純白の毛並みをなでる。
「もう! わかったわ、一月以内に帰っておいでなさい、ね?」
ヘマが顔を見つめると、白いのは元気よく鳴いた。
「返事ばかりは、というやつか?」
聞くとヘマは噴き出して、両手で口を覆ってくすくす笑う。
「そうに決まってるわ!」
私たちは空になった皿を隅によけて、またこそこそと中庭へ戻った。裏大路には数人、遠目に人影があったが、見咎められてはいないだろう。影のあるところへ座り込んで、彼女に話しかけた。
「貴方の能力はおもしろいな。まことに会話しておるようだったぞ」
「あら、本当? 私、猫の通訳ができるのですよ、試してみる?」
ヘマはにこにこと微笑み、
「そうだわ、ユースフェルト語でヴェントゾに話してみて? この子がユースフェルト語も理解しているかどうか、調べられるわ!」
それで、私はこう問うた。
「ヴェントゾ、お前が私の力を気に入ってここに留まりたがっているというのは、本当か?」
どうにも不思議だと思っていたものでな。ヴェントゾがにゃあと言って、首を傾げる。どちらなのだ?
「ここの風が好き、ですって」
ヘマがおかしそうに言う。
「お前のことも気に入っているのだそうですよ、ヴィン?」
自然な上目づかいにどきりとして、私は白いのの方に目を移した。
「本当か?」
額を指でなぜる。くすりと笑みが零れた。ヘマが小さく笑う。そうしていると、ざ、と足音がして、背の高い影が差した。
「ヴィン様! 巫女様、このような場所にいらしたのですか? お姿が見えないので探しに来てしまいましたよ」
「ふ、ここは盲点だったろう? だが、それでヴェントゾも……」
カスパーにしらばくれて顔を戻すと、あっ、とヘマが声を上げた。びゅうと強い風が吹き、白い物体がカスパーの肩をかすめて飛び去るのが見えた。
「わ、えっ? 今のは何です?」
カスパーが戸惑って背後を振り返る。
「逃げたな」
「まだ人見知りの時期なのか、いたずらなのか、警戒心が強いのか……どれでしょうね?」
ヘマとそれぞれ独り言のように呟く。首をひねる若い騎士に、
「今のが王猫の子だ。あまり人には慣れぬようでな、知らぬ者がいると現れぬし、すぐ消える」
そう教えてやると、
「それは……、私が邪魔してしまったのでしょうか」
眉をひそめるので、いや構わん、と笑ってやる。カスパーは少々申し訳なさげにしていたが、気を取り直したのか、姿勢を正して告げた。
「じき昇の七刻になります。そろそろ戻られてはいかがです?」
「そうですね! 私、お腹が空いたわ」
ヘマがぴょこんと立ち上がる。私も立ち上がり、草を払って顔を上げると、ヘマがこちらを振り返っていたので、そっと目配せした。ヘマは声を立てずに笑うと、目配せし返してくる。
少しの間の冒険は、内緒、だな?
昼食に出されたのは肉のパイ包みで、ヘマは料理長を絶賛していた。前と同じで、彼女は一口が小さいが、ぱくぱくとよく食べる。私は当然のごとくヘマと昼食を取ることを予定に組み込んでいたので、応接間の卓で彼女の目の前に座って共に食事をした。
部屋の端で、カスパーとヒルデがひそかに交代する。ヒルデが壁際に立ってこちらを見ているのを視界の隅に認めつつ、ヘマに尋ねた。
「他に何かご希望は、姫君?」
「手紙にも書いたけれど」
とヘマが卓上に身を乗り出す。
「王宮図書館を見ることはできますか? ユースフェルト語の本と、本の並びも見たいのです」
いくらか興奮した様子に、私は軽く笑ってうなずいた。今から向かうか、と提案するとすぐにうなずかれる。私たちはグラスの水を飲み干して、ソファを立った。
ヒルデが戸の前に衛兵——彼らは王宮騎士団の配下だ——を二人置き、後をついてくる。文官たちを刺激せぬよう、回廊から続く廊下を通っていく。図書館の前の広めの通路に出ると、わあ、とヘマが感嘆詞を発した。
ずらりと並ぶ、巨大な額縁に入ったものや、片手で持てるほどの小さいものもある、幾人も対象を変えて描かれた絵画の飾られた壁。
「これは、肖像画ですか?」
ヘマが絵に見入って問う。
「そうだな。歴代王室の肖像画だ」
私もそれらを眺めて答えた。
「この一番手前が、この王宮を建てた十代目の王エドゥアルト二世と、その妃マルレーンの肖像」
まあ、とヘマが息を呑む。これが、あれが、と言いつつ順に見ていき、まだ空間を残した壁の最後に当たる巨大な肖像画を、ヘマは立ち止まって見上げた。その背後に立って、同じように見上げる。
金と白の毛皮をまとった、肩上までの金の巻き毛で少し疲れた顔をして椅子に腰かけた男を中心に、五人の子どもらがそれを囲んで、その後ろにそれぞれの母が立つ構図。
「当代ユースフェルト王家の絵だ。いや、もう先代と言うべきか……、当世の名工、ヘルツィバインの筆で描かれたものだ」
ヘマが細い指で、男の椅子の右側に、肘掛けに片手を置いて青の礼服を着た、派手な色の金髪に濃い青の目の、幼い少年を差す。
「これがお前? 小さい頃ね」
「うむ、確か八つの時だ」
言って、椅子の左側、クッションに座らされた、父と同じ金の髪のとても幼い女子を差す。その目は母君と同じ赤茶だ。
「末の妹が二つになって、やっと座っていられるようになったので描かせたのだな」
「そうなのですね。あれがお兄様方? もっと若い頃のものね」
肖像の中の一の兄上の顔は、大人になったばかりの、まだ幼さを残した顔で、けれど力強い目をして笑みを浮かべている。兄上は私の後ろに立っていた。椅子を挟んでその反対に、一の兄上より肩幅が広いが少し背は低く、勇ましい顔つきをした、母君の焦げ茶でぴょんと跳ねた髪に、父王とそっくりの茶の目をした青年が立っていた。
「そうだ」
短く答える。
「真ん中の方が王様ね、あれは本物の毛皮?」
ヘマは別のところに目をつけたらしい。
「そうだろうな。偽物とは聞いたことがない」
うなずくと、ヘマは嫌そうな顔をした。
「金の大犬のではないのですか? 悪いけれど、趣味が合わないわ」
私は苦笑した。私とて、前はこの父と同じ感覚を持っていたのだ。この頃とみに変わってきていて、今はそうとも言えぬが。
そして、ヘマは、幼い私の真後ろに、真っ青なドレスを着て立つ女性をじっと見上げ、
「この方が、お前のお母様?」
「……ああ。亡くなった母上だ」
答えて、私もじっと、かつての母上の姿を見つめた。
「きれいな方ね」
とヘマが言う。事実、その通りであった。輝くような金の髪、宝石のような深い青の瞳、はっきりした目鼻立ちで、自信に満ちて前を見据え、色の薄い唇をきゅっと吊り上げて。
「お前と同じ目の色をしてる。ヴィンはお母様似なのですね」
そうかもな、と私は吐息混じりに応じた。ヘマはじっくりと絵を眺めていたが、ふいに振り返って、
「ヘルツィバインの筆のどこが、名工たる所以なのです?」
とからかうような笑みで聞く。ふっと吐息だけで笑って、私はユースフェルト王家の芸術に長けるところを見せようと答えた。
「彼の場合は色だろうな。特に、人の髪色を繊細に書く。肖像画家としては、滅多になく有用な才能だ」
なるほど、とヘマがくすりとする。
「お前の好きな画家?」
問われ、私はしばし、考える素振りをした。
「私の好きな画家は別にいるが、まあ、彼の絵も上手いと思うぞ」
「あら、誰なのですか?」
唐突に、ヘマにリーネルトの絵を見せたいと思った。私がイサアク殿に、彼女がその絵を思い出させると口を滑らせた、彼の作を。
「リーネルト、という画家だ。見るか? 図書館に一つあるぞ」
「見たいです!」
ヘマが目を輝かせる。
「行こう」
くるりと私は五年前の肖像画に背を向け、図書館入口の大扉へ歩き出した。重そうな外観とは裏腹に滑らかに動く戸を押し開くと、静謐な空気が肺を満たす。一、二歩と先に進んだヘマが、そびえ立つ本棚の群れを見上げ、立ち止まった。横からその顔を覗き込むと、彼女は静けさの下に興奮をひた隠しにした声で、
「……すごい」
とだけ、呟いた。何かに吸い寄せられるように、ヘマがふらりと、しかし優雅さは失わぬ足取りで本棚の列の中に入っていく。私とヒルデは、見守るようにその後を追った。
彼女が何とはなしに本を手に取り、ぱらりとめくると、書物の香りが漂い出す。背表紙の題を眺め、ここは歴史書ね、とか、料理の本かしら? こっちは物語? などと言って、彼女は妖精のように飛び回る。少し広く間を取った通路で、彼女はやっと振り返って、
「すてきね! これが、全部、ユースフェルトの本! いいえ、当たり前のことなのだけれど、でも、信じられないわ」
とうっとりと言った。ヘマはとても本が好きなのだな。ここまで喜んでもらえるとは。
だが、自慢したいものはもう一つある。
「ヘマ、そのまま向こうの窓がある方へ進んでみろ」
「こう?」
ヘマは少し首を傾げて数歩進み、本棚の向こう、厚い窓ガラスから光が柔らかに広がる空間に出て、目を丸くした。
まさに完成された空間だった。棚と似た色調の焦げ茶のソファが、丸い低い卓を囲んでいる。奥の壁には、庭と長椅子を描いた絵。そこに、分厚い本を広げ、茶を基調に紫のひだ飾りをつけたドレスをまとった、片眼鏡の女性が座っている。窓に和らげられた日の光が、三つ編みをまとめ上げた黒髪の上で踊っていた。女性は一呼吸の後にすっと顔を上げ、私たちを見てしとやかな笑みを浮かべた。
「第三王子殿下。それに、……巫女様かしら」
「じゃましたか、イングリット?」
声をかけると、イングリットは首を横に振り、立ち上がってヘマに近寄った。
「ようこそ、白の塔のお方。巫女様がこの図書館を訪ねていらっしゃるなんて、光栄ですわ。わたくしは司書をしております、イングリットという者ですの」
ヘマが美しい司書を見上げ、白い手を差し出す。
「私の方こそ、お会いできて嬉しいです。ここはとても美しい場所ですね。本を大切にしているのがよくわかります」
イングリットは両手でヘマの手を包み、それに応じた。
「本を見せていただいてもよろしいですか?」
「どうぞ、心ゆくまでご覧くださいな。巫女様がここにいらっしゃるなど何代ぶりかしら。図書も皆、貴方様を歓迎しておりますわ」
さすがはイングリットだな。流暢なジョルベ語だ。心ゆくまで、などという語、私には思いつかぬぞ。
ヘマは嬉しそうにうなずき、戻ってきて私に言った。
「さあ、ヴィン、お前のおすすめを教えてちょうだい」
私はくすりとして、では、まずあれを、と彼女を奥の絵まで誘った。イングリットは読書に戻ったが、片眼鏡の奥の目が、こちらを観察しているようだ。
その絵は、何ということもない、この世にありふれた美しい風景の一つで、しかし目が離せぬ魅力を持っていた。
「リーネルト……これが、お前の好きな画家? 確かに、何だか……」
ヘマがしげしげと絵を見つめ、言葉を探すように口をつぐむ。
「不思議な雰囲気があるだろう」
私は歌うように言った。
「花の色が、ぼやけて見えるのに印象に残る。どこにでもありそうな朽ちたベンチなのに、誰かの宝物のようだ……とまあ、批評家の言だが。神々しいというか、強いというか、そういった感じの」
ほう、とヘマは嘆息して、
「私も、この絵は好きかもしれないわ」
と呟いた。私は微笑んだ。私がこの雰囲気にヘマを重ねたということを、彼女はきっと知らぬだろう。彼女もリーネルトの絵を気に入ってくれたのなら、私は美しいものを二つ、並べて見ることができるかもしれん。
「ユースフェルトはまこと、芸術の国ですね」
ヘマが思慮深げに頬に指を添える。
「芸術の国、広漠たる農業の国、星くずの伝説の国」
指折り数えて、にやりとする。
「ユースフェルトは、ジョルベーリにこそ及ばぬが、広大な土地もたくさんの伝承も長い歴史もある国家だ。国の特産から、勇者アルトゥールの国造り、大昔のユーザルの言葉、今の世の政まで、貴方は何をご所望だ、姫君?」
「全部!」
とヘマは勢いよく言って、
「……と言いたいところだけれど、やっぱり、まずは物語が知りたいわ」
私はははっと笑って、
「初代王の話を読んだことは?」
「ええと……あらましは」
「ではそれをおすすめする。今の言葉で書き直されたおもしろいものがあるのだ。こちらだ!」
私はヘマを小説の棚に連れてゆき、いくつも本を見せた。これがユースフェルトの初代王、勇者アルトゥールの冒険劇だの、これはユーザルの伝承を集めた本だのと言って。ジルヴェスター三世時代末のどろどろの戦争ものも教えたが、今はすすめんとも言っておいた。それから、絵本も。ジルケとアルマの気に入りの『わるい王さまと、かんむりのかけら』は、見せると彼女は感心してくれた。
見せた私が言うのもなんだが、絵に感心してくれたことを願う。ヘマは白いの関連の悪だくみも含めて、察しのいいことは証明済みだが、察しがよいということは、知らずともよいことを知ってしまうこともあるということだ。
他に、前に読んでよかった詩集などもすすめた。王宮図書館にはティエビエン語の本はあまりないのだが、ヘマにも何かおすすめを教えてほしいと言うと、快く紹介してくれた。イングリットに出してもらった紙に、びっしりと一覧表ができ上がる頃、カスパーが呼びに来た。
「もうすぐ降の刻になりますよ」
もうそんな時間か。私はペンを止め、彼女に顔を向けた。
「ヘマ、そろそろ戻るか? 夕食をぜひ共にと、エルヴィラ様……王妃様がおっしゃっていたが」
「まあ」
ヘマがぱっと顔を上げる。
「どうしましょう? 私がお伺いしてもいいのですか?」
「もちろんだ」
「それなら準備をしないと……」
ほんの少し眉を寄せる彼女に、私は微笑みかけて席を立った。
「部屋まで案内しよう。時間になったら迎えに上がる」
ヘマをヒルデたちに任せて、私も部屋に引っ込む。夕餉は降の三刻からだから……私も支度するか。
一覧表を机の上において、寝室の鏡の前に立つ。夏物の白い上着や、その襟の木のボタンを直し、茶のベストと淡い茶のズボンに綻びがないか確認する。装飾品はというと、いつもつけている透明な石の耳飾りは変わらぬし、指輪は常と同じく中指にある。髪を直すだけで問題ないな。
少し髪を整えて、机に着いて本を読む。空が暮れてきたのを見て、部屋を出た。
「カスパー」
「はい」
「そろそろ行くぞ。時間だ」
歩き出すと、カスパーは戸の傍を離れ、私の後ろにつく。応接間の廊下を歩き、ヘマの部屋の前に立つ衛兵に来意を告げると、少ししてまずヒルデが出てきた。
「ヘマ様、第三王子殿下がおいでですよ」
ヒルデが振り返って声をかける。かつかつと靴音がして、
「お待たせしましたっ」
ヘマが廊下へ踏み出してくる。前の時に着ていたような、縦のひだが数多入ったスカートの、白灰のドレス。真珠のような色合いのヒールの靴を履いて、細い首に華奢な銀の飾りをつけている。ほの暗い蝋燭の灯りの下で、一部編み、これも銀の髪飾りで留めていた白に近く見える白金の髪が煌めいていた。白灰の瞳が私の視線を捉え、その淡い色の唇がにこりと笑みを形作る。
雪や雨のような美しさ。初めて会った時は名工の石像のごとき少女だと思ったが、今夜の彼女は銀細工のように可憐だ。見る度に違う美しさを味わうことになるのは、なぜだ? 呼吸さえ忘れて、見入ってしまいたくなる。
「この服装で大丈夫でしょうか? ユースフェルトのお方にお会いするのに……」
とヘマがそのドレスを見下ろす。部屋の中から、
「もちろんですとも、巫女様」
「よくお似合いでございます!」
侍女たちらしき声がわいわいと言っている。が、ヘマは不安げな目でちらと私を見上げた。
きゅんと胸が意味不明な音で鳴いて、思ったそのままに美しいと口に出してしまいそうになった。それをぐっと抑えて、そっと告げる。
「きれいだ」
心底、これほど美しいものが存在し得たのだと、感動していた。彼女は輝いて見えた。今まで美しいと愛でてきた服や宝石や道具や、そうした何よりも。
「お手をどうぞ、姫君」
ちょっとふざけて手を差し出すと、ヘマは手を重ねて、
「ありがとう、ヴィン」
とはにかむ。口もとが緩むのを抑え切れなかった。こんな気持ちになるのは初めてだ——本当に。
ヘマがかかとの高い靴を履いているので、ゆっくりと進む。目だけ横に動かして、ヘマの澄んだ瞳が少し上にあることに気がついた。
「かかとの高い靴だと、背が少し高くなるな」
ヘマが同じように目だけでつとこちらを見て、驚いたような顔をする。
「本当ね。……お前は嫌?」
む?
私は首を傾げた。
「何がだ?」
「え? その……」
ヘマが戸惑った声を出す。ああ、背の話か?
「貴方は嫌なのか? 実を言えば、あまり背の高さなど考えたことがなくてな。騎士たちにはよく言われるのだが。むしろ、」
微笑んで意外そうな顔をしているヘマを見やる。
「視線の高さがいつもと違って、おもしろいと思ってな」
言うと、彼女は嬉しそうにふふ、と笑った。
「そうですね」
「イグナーツにはよく小さいだのと言われているのに、お気になさらないのですね、ヴィン様」
カスパーが軽く笑いながら言う。私は振り返って、
「不便したことがないからな。だが、あやつの減らず口を減らせるものなら、減らしたいと思うが」
皆がふふっと笑う。穏やかに笑い合いながら進み、ヘマが外部の者が後宮に立ち入ってよいのかと気にするので、内宮にならば王家に近い者が招かれることは度々あるし、私的かつ公的な性格を持つところなのだとなだめてやる。それでもヘマが心配そうにするので、こうつけ足した。
「エルヴィラ様ご自身が、白の塔のお話を伺いたいとおっしゃって設けた席だ。気兼ねせず参加してほしいな」
笑いかければ、ヘマは困り顔ながらもうなずく。
「塔のお話くらいしか、私、できませんけれど。ユースフェルト語もあまり話せないし。読み書きばかり上達しても、ですよね」
何だ、そんな心配か?
「そこはジョルベ語で問題ないぞ」
ヘマがこてんと首を傾げる。可愛らしい仕草にふと笑った。
「エルヴィラ様はモウェル公国からいらしたお方だからな。学ばれたのはユースフェルト語よりもジョルベ語の方が先だろう」
「そうでしたね!」
とヘマが髪飾りを揺らしてうなずく。
「上手くお話しできるかしら」
「それよりも楽しんでくれ。今日の晩餐はいつもより少し豪華だからな」
と私は笑った。
内宮へ入り、食堂の手前まで来ると、侍従たちが戸を開ける。騎士二人が立ち止まり、私は手を放してヘマを中へと促した。先に座っておられたエルヴィラ様が、微笑んで口を開く。
「ようこそいらっしゃいました、白の塔の巫女殿」
ヘマがドレスの裾を摘まんでお辞儀する。
「お招きいただきありがとうございます、王妃様。王猫の巫女、ヘマ・ガートと申します。お会いできて光栄です」
「こちらこそ、ですわ」
エルヴィラ様はゆったりとした所作で、客方の上座の席を差した。
「どうぞお座りになって。ヴィンフリート、ご案内してくれる?」
はい、と私はうやうやしくうなずき、ヘマの椅子を引いてやってから自分の席に着いた。
「まだ第一王子が来ていないの。あの子が遅れるのはよくあることだけれど、ごめんなさいね。失礼を許してやって?」
とエルヴィラ様が嘆息する。
「いいえ、お気になさらず。多少のずれは構いません、私の国の王女様も、よくお食事を忘れて仕事をなさるものですから」
ヘマはちょっと笑んで、しっかりと答えた。全く心配などいらなかったな。身に着けた品が簡単に損なわれるなどあり得ぬのだ。
「そちらの王女殿下もそうなのか?」
と口を挟む。ええ、とヘマはうなずいた。
「前は本当に仕事が大変だったのだけれど、最近、あの子の性格なのではと思い始めたわ」
エルヴィラ様はもしや、兄上に怒っておられるのでは。ヘマがくすりとする。
「性格ですと、仕様がありませんね」
「そうなのよね。巫女殿のお国では、どのように対処なさって? 呼び出しでもした方がいいのかしら」
やはり怒って……。
エルヴィラ様の言葉の最後に被さるようにして、戸が開かれる。入って来た兄上は、私たち三人が既に着席しているのを見て取ると、いささか眉を下げた笑みになった。
「これは、どうも遅れてしまったようだな。……いや、どうぞそのままで。申し訳ない」
ヘマが立ち上がろうとするのを手で制して、兄上は席に腰を下ろす。
「ようこそ、巫女殿。ヴィンフリートの案内は楽しんでくれたかな?」
何ということを聞かれるのですか、兄上。思わず兄上をじとりとにらんだが、
「ええ。とても楽しかったです」
ヘマがそう答えたので、一気に嬉しくなる。我ながら単純な精神だな……。
夕食は和やかに始まり、侍従がグラスに泡の立つ透明な液体を注いだ。
「これは?」
とヘマが首を傾げる。
「蜜入りの発砲水だ。あちらは発泡酒だが」
と兄上たちのを指差し、次いで己のを差して、
「こちらは水だな。香草も入っているが」
なるほど、とヘマがこくこくとうなずく。
「ティエビエンにはないのか?」
「あまり見たことはなくて……十四にもなれば酒を飲めますし」
「早いな? ユースフェルトでは十六からということになっているが」
言うと、ヘマは苦笑した。
「水のようにして薄い麦酒を飲むのですよ。昔は綺麗な水が貴重でしたから。薄いものなら成人でなくともよいと……文化ですね」
確かに、戦士たちは酒好きという印象があるな。
「それでは、白の塔の巫女殿の来訪に、乾杯」
兄上が微笑んで言って、チン、と小気味よい音を立てて私たちはグラスを合わせた。
夏野菜のスープ、肉と野菜炒めの前菜に、白身魚の揚げ物を主菜として、彩りよく盛りつけられた皿が運ばれてくる。ヘマはユースフェルトの食事作法も完璧だった。私は他国のものはできているかどうか怪しいな。今度復習しよう。
クリームと果物のケーキもついて、ヘマと私は目を輝かせていたが、兄上とエルヴィラ様は少ししか召し上がらなかった。お二人は甘いものはあまり好まぬな。
エルヴィラ様が王猫について知りたがったので、ヘマは王猫のことを色々話していた。王猫の〝交代〟や、子猫についての説明も、私が話した時とはお二人の反応が違う気がするのだが。本物と伝聞の差か。他にも、王猫はヘマの身長の二倍くらいあるとか、子猫はそれぞれ食の好みにうるさいとかと教えてくれた。王猫というのはおもしろい聖獣だな。
「私も会ってみたいな」
言うと、ヘマは楽しげに、
「だったら、白の塔に招待するわ! ヴェントゾも王猫も、お前なら歓迎すると思うのです」
と言ってくれる。それが本当になったら何より嬉しいな。
食後の紅茶が運ばれてきた時、詩集の話になった。ヘマが、近頃王猫が詩を好んでいると言ったので。
「カスターニェ、という詩集は中々おもしろいぞ?」
と兄上が紅茶を口にして言う。
「ばらばらな詩を集めたように見えるのだが、実はそれぞれ副題があるという、ね」
「栗、というのもいい題ですね」
ヘマはしばらく皆のすすめる詩の話に耳を傾けていたが、ふと首を傾げて、
「そういえば、一つお伺いしたいことがあったのですが」
「何だ?」
問うと、彼女は考えつつ、
「アヴェ・コロというティエビエン語の古い詩集なのですが、ユースフェルトでいくらか売られて、ですがティエビエン国内ではほんの少ししか発売されず、今ではもう手に入れ難くなってしまったものなのです。珍しいティエビエン語の詩集ならばこれだろう、と旅の本商人が教えてくれたのですが、見つからなくて……。どうしてもというわけではないのですが、もし何かご存じでしたら」
「ティエビエン語の? それは申し訳ないが、知らんな……王宮の図書館はユースフェルト語のものが中心であるし。王都の本屋になら、あるいはあるかもしれぬが」
兄上は思案顔だ。
「ごめんなさいね、わたくしも知らないわ。ジョルベ語やモウェルのものなら、お手伝いできると思うのだけれど」
とエルヴィラ様も言う。その間、私はとても信じられぬ思いでじっと考え込んでいた。まさか、そんな都合よく?
「アヴェ・コロ? ティエビエン語の?」
「ええ」
呟くと、ヘマがうなずく。
「装丁が茶の布張りで、五〇七年の?」
「え? そこまでは知らないけれど……」
「持っているかもしれんぞ、それ」
「え⁉」
ヘマが叫んで、ぱっと手で口を覆う。兄上も驚いた顔でこちらを見た。
「よく持っていたな、ヴィン? 私が生まれるよりも前のものではないか」
「まあ、見せてもらってもいいですか? 形がわかったらぐっと探しやすくなると思うのです!」
ヘマが期待に満ちた目で見つめてくる。いいぞ、と私はうなずいたが、
「ただ、本棚の奥にあるだろうから、少し時間がかかるかもしれぬが」
「そうですか……」
ヘマが残念そうに身を引く。
「子どもはもう、寝る支度をする時間だろう。明日にしなさい」
そう兄上が言うので、私はうつむいたヘマの顔を伺った。
「ヘマ、明日の出発は?」
「昇の五刻には」
割と早いな。明日でもよいが……。
「すばやく寝る支度をして、届けに行こうか?」
ささやくとヘマは顔を上げて、笑いながらうなずいた。
「なら、私も早く支度をして、待っているわ」
「あまり遅くならぬようにな」
と兄上は、私たちの会話を冗談と思われたかくすりとして言ったが、子どもの約束は冗談ではないのである。おやすみなさい、と挨拶して、一旦自室へ戻った後、私はでき得る限りの速さで『アヴェ・コロ』を本棚の一番奥から抜き出して、湯浴みし、寝巻の上から上着を肩に引っかけてヘマの部屋へ向かった。
カスパーはついてきてくれているが、少し呆れ顔だ。アリーセに至っては、
「友人と悪戯を企む子どものようですよ?」
などと不遜なことを言ってきた。そう言いつつ協力してくれるアリーセも、昔はいたずらっ子だったのではなかろうか?
「少なくとも、友と呼んでくれる程度には仲よくなれたかもな」
と実際には答えたが。ヘマといるのは楽しくて、未だちゃんと続いたことのない友人というものと遊んでいるような心地もした。
小走りであの客間まで向かうと、なぜか、ヒルデがぽいと扉から放り出されるところだった。
「どうしたのだ?」
尋ねるも、ヒルデはわけのわからないという顔をして首を振る。
「ヘマ?」
戸の隙間から覗き見ると、ヘマは夜の庭へ窓を開け放って、身を乗り出していた。淡い黄がかった白の、ゆったりとした長い寝巻きの上に焦げ茶の肩掛けを羽織っている。
「ヴィン?」
ヘマが顔を上げ、私を見て手招きする。
「ヴィンだけ入ってきてください、静かに!」
私はカスパーを見上げ、少し待っていろと言いおいて、そっと部屋に踏み入った。
「何が……」
ひょいと彼女の後ろから窓の外を覗いて、私は目を丸くした。星の散らばる夜空の下、暗くなった草の間に、白っぽい毛玉がある。ではなく、いる。
「……ヴェントゾ?」
呟くと、白いのは耳をぴくりとさせたが、動かなかった。ヘマが困り顔して、
「今夜はここで寝ると言って聞かないのです。中に入ったらと何度も言ったのですが」
「ああ、こやつは部屋に入ろうとせぬからな」
私が一人で外にいるとついてくるのに、建物に戻ろうとするとどこかへ行ってしまうのがヴェントゾだった。
「風の子だろう。閉じ込められたくないのだろうな」
「ですが、ずっと外では……」
心配なのか。ヘマは思いやり深いな。私など、獣の自由なのだから、外で寝させておけと思ってしまう。
「うーむ……」
顎に手を当て、考えて、言った。
「しばらくこのままにしておくか? 窓が開いているとわかれば、入ってくるかもしれんぞ」
「では、ここで陣取りましょう!」
ヘマが拳を作る。私は笑って、クッションを二人分引きずってきた。一つをヘマにやって、もう一つに座る。
「それ、もしかして」
「そう、アヴェ・コロだ」
私は茶の表紙の本を手渡した。
「かなり古いのですね」
「まだ十分使えるが、二十五年は経っておるようだしな」
ヘマが興味津々の顔つきで頁を繰る。
「あら」
ぱらぱらとめくって、ヘマがくすりと笑った。何だ?
上から覗き込んで、あ、と思った。
「しまった、書き込んであったな」
ぼやけばヘマは愛らしく笑う。
「お前の字? いつのものなのです?」
「八つか九つかな」
気恥ずかしくて、額に落ちる髪を掻き上げごまかした。
「丁度あの肖像画の頃だ。それは、私の二番目の教師がティエビエン語の授業に使っていてな。辞める時、長い旅をして戻らねばならぬから、本をいくつかやると言われて」
あの時は残念だったな。私はあの教師のことはよく気に入っていて、彼の授業ではそれほどわがままも言わないでいた。元から好きだった外国語を、より鍛えてくれたのも彼だったから。
「その時母上が、詩集や物語なら私もまた読み返すだろうから、それをもらうといいと言って」
ふと本を寄越した時の、彼の大きかった手が浮かんだ。唇に自然と笑みが浮かぶ。
「懐かしいな」
コンコンと手の甲で拍子を叩く。昔よりずっと、この本が小さく見えるようになった。
「この布地も、表題の詩も気に入っていた。ティエビエン人の詩人なのだが、ユースフェルト風の作品集でな。確かに、ティエビエン語の詩としては珍しいと思うぞ」
「そうなのですね……」
ヘマはこくこくとうなずいて、それから私の手に目を留めた。
「その指輪は? 一の殿下もなさっていたような」
「ああ、王家の指輪か?」
私は右手を持ち上げた。金の輪に、底に六角星の刻印された、紫の宝石のはまった指輪。
「貴方でも知らぬのか。秘事だものな……これはユースフェルト王家に生まれた者が、十の辺りまで成長したらもらう、王家の証とも呼ばれる指輪だ。身分を表すものでもあるし、重要な書類に、血判などの代わりにこれで印を押すことにも使われる」
「これで? どうやってやるのですか?」
ヘマが目を丸くして聞く。
「まじない石、と言ってわかるか?」
「……ええ!
「さすがだな」
と笑う。
ティエビエンは国土が小さい上に、〝狂い森〟に接していて、ユースフェルトのように農業を主産業にはできない。それに代えて、狂い森の魔物を相手にすることで周辺国から援助をもらい、また倒した魔物から得られる材料や森の木で工芸品を作って輸出している。加えて、
まじない石を人工的に作り出すことはできぬ故に、その数は少ないが、対魔戦の兵器としてや、厳しい生活を送るティエビエンの民の負担を減らすのには役立っていると聞く。
「まじない石は、普通、見目はただの石ころだが、時折、大きな石の中心部に別のものが発見されることがあるのだ。それが」
「その石ですか⁉」
回答が速い! 全くヘマは……。
「本当、さすがだな? そう、この石は、所有者がその魔力を用いて石を使う時、ここに刻まれている印を刻むよう命じられているのだ。こうぽんと印綬のように押すと、青白く光る六角星が刻印される」
コン、と表紙に当ててみせる。今は魔力を込めていないから、ただの宝石と同等だがな。
「すごいのですね……どうして六角星を?」
「ユースフェルトの、そしてその王家の印だというのは知っているだろう?」
「ええ」
「ユースフェルトの北には、星海がある。星海に面しているのはもう一つ、
「そうね」
「そして我が国は、
「ええ⁉」
ヘマががばりと身を起こす。
「そんな、それのどこが理由なのです? 星と関りがあるから六角星というのはわかるけれど……そういえば、
「私の口からは言えんな。だが、ちょっと資料をひっくり返せばすぐわかるはずだ。貴方ならあっという間だろう」
笑ってみせると、ヘマは悔しげに、
「絶対解いてみせるわ、この謎。わかったら答え合わせさせるのですよ、ヴィン!」
そこへ、みゃあ、と間の抜けた鳴き声。白いのがいつの間にか入ってきていた。とことこと気ままな足取りで、私の膝の上に乗ってくる。
「やった、とうとう入ってきたわ!」
ヘマは顔を輝かせてぱちんと手を合わせ、
「ヴェントゾの寝るところを作らないと」
といそいそと寝室へと消える。
私は白いののふわりとした毛をなでて、その右手にある指輪を見つめた。
「……この指輪には、別の型がもう一つあってな」
私は白いのにささやきかけた。誰にも聞こえないだろうと思って。……なのになぜ口にしたのだろう、いや、誰にも聞かれずに思いを吐き出してしまいたかったのかもしれん。
「王妃、王の妃の中でも唯一公に役目のある王妃にも、この指輪の、金の細いのが与えられるのだ。……母上はこれを欲しがったな……。渡したままにしていたから、私の手もとに戻ってきた今、母上の遺品でもある」
この部屋の周囲にいる誰も喋れないはずのセゼム語で、小さな子猫に語りかけるように。
「お前は、母上が亡くなる前の私のところへも、訪ねてきてくれたな?」
白いのはくるくると喉を鳴らした。
「お前、本当に人の意志を解しているのではないか?」
なぐさめられたようで、ジョルベ語に戻してそう笑い、顔を上げると、寝室の戸の境に立って、ヘマがこちらを見ていた。
不思議な瞳だった。私だけを見つめる、優しさと冷たさが同居したような、同情ではなく共感の色だと直感する目だった。
「……ヴィン、お前のお母様は、どんな方だったの?」
ヘマはそう言って、こちらへ歩いてきて、私の前のクッションにまた腰を下ろした。
「……聞こえたか?」
己でやっておきながら、座りが悪くて身じろぎした。ヘマは抱えた膝の上の手に顎を乗せ、微笑んでいた。
「猫って耳がいいのですよ。私、猫にそっくりなのです。それに、セゼム語は話せないけれど、読むことはできるわ」
「……」
私は無言で額に手をやった。本が大好きな白の塔の司書が、セゼム語を勉強していないわけがなかったな。
「ねえ、ヴィン。私も母はいないのです。父も」
ヘマは呟くように言った。
「でも、彼らが、私にどれほど影響をもたらしたか。最後には、正反対の道を私は選んだけれど。……久しぶりに、眠る前のお話を、してみたくなりました」
声は優しかった。目をふせる姿も美しくて。彼女のことをもっと知りたくなる——同じようにヘマも思ってくれているというなら。
「……それは、貴方のご両親の習慣か?」
「いいえ」
ヘマが首を振る。白い髪がさらさらと揺れる。
「ずっと仲がよくなかった祖母から、母が受け継いだ唯一の習慣です」
そう言われては、話さないわけにはゆかんな。私はそっと白いのをなでて、口を開いた。
「母上は、この国の王の第三妃で、宰相家である公爵家の姫で、輝くような美貌を持った人だった」
これを語るのは、ヘマと、白いのと、真っ暗な夜だけが聞き手だと、そう思って。
「王に一番愛されていると言われていた。誰より贈り物をもらって、多く渡りがあって、王子を産んだ後もそれが続いていて」
だが、と呟く。
「王が最も愛していたのは、別の妃だったのだ。皆ずっと気づいてはいたが、言わないでいたことを、王の口から告げられて、心を病んで、壊れてしまった。体も壊して……二月持たずはかなくなってしまった」
ヘマはじっと私を見つめたまま、こくりとうなずく。その態度に救われるようだった。
「私にとっては……誰より正しい人だった。偉くて、必要なことは全て知っているのだと。大切に思っていた。けれど、この……炎華月に発覚したことで、私は考え方の根本を崩されて、変わらねばならぬと思った。母上は……客観的に見て、高慢な人だった、と思う。使用人が至らぬと思えば、怒鳴って首を切るのも、ほしい服や宝飾品をねだるのも、己がいつも一番に優先されるのも、私たちが王族であるが故に当然だといつも言っていた。……わがままだったのだ」
淡々と続けて、目を上げてヘマを見た。
「貴方は……私が、ついこの前まで、わがままでかんしゃく持ちの、無知な子どもだったと言ったら、どうする?」
ヘマはくすりと笑った。当たり前のことだとでも言うように。
「信じるわ。だって、少し見えるもの。お前の人に命じる態度の、慣れているところとか、人にものを頼む時のぎこちなさとか、その後ろに」
何と。私は指で頬を掻いて視線をそらした。
「努力しているつもりなのだが」
「それもわかるわ」
ヘマは笑った。
「命令するのではなくて、頼むようにしているのとか。それに、侍従にもちゃんと礼を言うでしょう。私、そういう人しか、信用しないようにしているのです」
ああ、彼女は気づいているのだろうか?
今、私が内宮に移って以来続けてきた努力を、認めてくれたのだということに。彼女が信用してくれたほど、私が己が意思で決めた道はよいものだったのだ。
それに、と彼女は言った。
「無知な子どもなのは、私も同じです。ずっと塔で暮らしてきて、本当に世間知らずで……その分頑張って勉強しているけれど」
「同じだな。私もほとんど王宮で育ってきた」
苦笑すると、ヘマが微笑んでくれる。
「だから、過去のお前がどれだけ小さな暴君だったとしても、お前を嫌いになったりしませんよ」
……好きだな。
ヘマが好きだ。この美しい笑みが。
つられるように微笑んだ。
「ありがとう、ヘマ」
「いいえ」
「……あの方は、鈴蘭のような方だった」
ぽつりと言葉を零す。
「根に毒があって、けれど見目はとても綺麗で、少女のように気高い方だった。愛した花にとても似た、青の似合う方だった。考え方を違え、母上が心を壊して亡くなった後……救えなかったと己を責めた夜もある。だが、今の私には、他にも大切なものがあって」
白いのがくあ、とあくびする。私たちは目を見合わせて、くくっと笑った。
「私の力は、母上から継いだものなのだ。我らが信じる四大神は、死者の魂の行方をあいまいに伏せてばかりだが……私は、あの方が風のように解放されていたらいいと、願っている」
口をつぐむと、沈黙の帳が落ちる。夜風が草花を揺らす音と、二人の呼吸の音だけがする。
「ヴィン」
「何だ? ヘマ」
名を呼ぶ声に問い返せば、彼女はうつむき気味に静かに問うた。
「私の話も聞いてくれる?」
ああ、と私は彼女を見つめた。するりと手の中からヴェントゾが抜け出て、ヘマの膝に移って丸くなる。私は片膝を抱えて、聞く姿勢を取った。
「私の母も、わがままな人でした」
ヘマがヴェントゾをなでてやりながら、唇に笑みを乗せる。
「己が人生が己の思い通りであるべきだと言って、祖母のもとを飛び出し、賭博師と結婚するような」
賭博師? そんな職業の者がヘマの父親なのか。……とてもそうは見えぬが。
「料理とうわさ話が大好きで、本は読まないし、猫と話をしても優しく構ったりはしませんでした。私と、髪も目の色も同じなのに、私は幼い頃から本ばかり読んで、料理は下手だし他の人の話もあまり興味がなくて。父も子どもが寝る前にはあまり帰ってこない人でした。ずっとお互いに不思議だと思っていたのかもしれません、少し距離を感じたこともあります。ですが、二人の特有の愛情で、接してくれていたのです」
ヘマの語り口は、深い水底の色合いをしていた。落ち着いた、古い記憶。
「私が王猫の巫女になったのは、何も決まったことではなかったのです」
彼女は、私を真っ直ぐ見てそう言った。
「二人が、事故で亡くなってしまって、おばあ様に引き取られたというだけ。私は……二人とは違って、塔での礼節と学びに満ちた生活が性に合っていて、それを王猫が認めてくれたというだけ」
その口調に、かすかな苦い味が混ざっているのに気づいて、私ははっとしてその目を見返した。
「おばあ様は、二人のことは認めませんでした。ティエビエンでは、私の血筋は巫女にふさわしくないと、言う人もいました。けれど、私、負けたくなかったのです……本当に、塔も王猫も大切でしたから」
白い毛をなでる指が、わずかに震えていた。
つまり、ヘマはこう教えてくれているのだ。彼女は、勘当者だった両親の間に生まれたのだ、と。
それが何の問題になる?
私は頭を振って、白いのに手を伸ばし、小さな額をなぜた。彼女は、己の身の内にあった高貴さを表す道を選んだのだ。前代の巫女と王猫にも承認されて。
「貴方の周りの者が何と言おうと、」
私は小さく笑んだ。
「貴方が、高貴な賢者であるのは間違いない。少なくとも、私は私の審美眼を疑う要素を見つけられなかったがな」
そうにやりとしてみせると、彼女はふにゃりと柔らかい笑みを浮かべた。初めて見る類の笑顔だった。
ヴェントゾに視線を戻すと、彼はヘマの腕の中ですうすうと寝息を立てていた。
「……こうして寝ているところは、初めて見るかもな」
指差すと、ヘマが静かに笑う。
「奥の部屋へ連れていくわ」
私はクッションから腰を上げた。
「そろそろおいとましよう。ヴェントゾを起こしてもいかんし」
「あ、待って」
ヘマが白いのを抱え、立ち上がって、反対の手で茶表紙の本を差し出す。
「これ、ありがとう」
じっとそれを見つめた。
「……貴方がよければ、もらってくれぬか?」
「そんな、もらえないわ。思い出の品なのでしょう?」
言うと、ヘマが目を見開く。私は低く笑った。
「それを本棚の奥へしまっておくような者が、有効に使えると思うか? それは私がもらった時点でも珍しいものだったから、今から見つけるのは難しいだろう。子どもの書き込みを気にせぬと言ってくれたら、喜んで差し上げよう」
「あら、そんなもの! 可愛らしいものですよ」
ヘマが声を弾ませる。
「ありがとう、ヴィン。王猫に土産ができたわ」
古い詩集も、彼女の手もとに渡れるなら喜ぶだろう。あのまま棚の底で眠っているより、絶対にいい。
「おやすみ、ヘマ。頑張ってヴェントゾを捕まえておくのだぞ?」
戸の隙間から言うと、ヘマは笑って手を振った。
「任せておいて! おやすみなさい、ヴィン」
ヒルデに王猫の子の警戒心を説明して、警備を任せて内宮へ戻る。今夜はカスパーも眠たげだな。一人でふふ、と笑っていると、不思議そうに見られたがどうでもよい。重要なのは、ヘマが私と母上の過去を知っても私を嫌わないでくれたこと、そしてヘマの生まれのことを知っても、この想いが何ら変わらないということだ。
翌朝、朝食を済ませ、ヘマを見送りに行った。ヘマは荷支度を終え、優雅にソファに腰かけていたが、私を見ると、
「ヴィン、ヴェントゾを見なかった?」
と不機嫌そうに問うた。おもしろい顔をしておるな?
「いなくなったのか?」
「ええ! ぐっすり寝ていると思ったのに、油断ならないったら」
髪を背に払い、ヘマは怒った顔をしたが、すぐに笑い出した。
「でも仕方ありませんね、あと一月だけなら許すと約束してしまったもの。お前のくれた詩集で、王猫には我慢してもらうほかないわ」
「役に立てばよいのだがな」
「立つわよ。例え王猫の気に入らなくとも、私の帰りの旅を楽しくしてくれるわ」
私たちはくすくす笑って、とりとめのない話をした。
馬車は予定通りにやってきた。
「ティエビエン人の御者は優秀だな」
「ユースフェルトでは違うのですか?」
旅装束を風になびかせて、ヘマが首を傾げる。
「ユースフェルトを旅するなら、ゆとりを持つのが大切と言うだろう、ヘマ?」
言うと、彼女は口を開けてあはは、と笑った。馬車の方へ行きかけて、くるりと振り返る。
「私、帰り着いたら手紙を送るわ。お前も返事を出してくれる?」
「もちろんだ」
私はしっかりとうなずいた。
「また会いましょう、ヴィン!」
馬車の窓から顔を覗かせた彼女に、私も
「また!」
と返して、手を振った。それは、互いの希望が込められた別れの挨拶だった、それだけのはずだった。
三日後、無事に着いたという短い手紙が来て、私がヴェントゾは元気で飛び回っている、貴方のおすすめの本を一つ手に入れた、と送った、その翌々日に。
仰天の書簡が届いたのだ。
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