三.求めるは白

 その話が上がったのは、流星月りゅうせいづきの最初の週だったと思う。

「ティエビエンの姫が、内密にこの宮を訪ねられるのですって」

 エルヴィラ様の侍女たちが重大な秘密を告げるようにささやきあっていたのを耳に挟んで、私は危うくペンを落としかけた。

 その翌日、兄上に呼ばれた。

「ごく内密に、ティエビエンとこちらの王家の間で会談が持たれることになった。例の件に関して、ジョルベーリを介して交わした条約の確認、そして我らが次の——言わずともわかるな?」

 ヴィンフリート、と兄上は硬い口調で私の名を正式に呼んだ。

 もちろんわかっている。我らが次の——王。未だ新たに王太子は就任していない。この王宮におる者のほとんどの総意は、兄上を王にと決まっているはずなのに。

 このままでは国の方針もはっきりと定まらぬというのは、政治にはまだ明るくない私でもわかる。

「はい、兄上」

 私はこくりとうなずいた。

「私は何をすれば?」

 問えば、兄上はふっと表情を緩め、

「お前はいつも通り勉強してくれていればいいよ、ヴィン。もしかすると挨拶に呼ぶかもしれんが……お前はティエビエン語もできるし、いらぬ心配だな」

 ふふ、と笑う。私はもう一度うなずいてみせた。

「では、ティエビエン語の挨拶だけはさらっておきましょう」

 そう言って退出したのに、何故か不安そうなジークの背を小突く。

「大人しくしておくぞ? 応接間には何かない限り近づかん、それでよいのだろう」

 それは私の本意だった。少なくともその時は、な? そうだろう、白いの。


 その日、私は朝から機嫌がよかった。昨日馬術の出来をエッボにほめられた高揚感がまだ残っていたのだ。

 兄上とエルヴィラ様がいつもより早く内宮を出てゆかれるのを見送り、私とその周りの侍従たちはいつもの調子で朝食の時間を過ごしていた。といっても、私が大人たちのように食後の茶を楽しんだりすることはあまりない。今日も食べ終えるとさっさと席を立ち、自室で勉強道具を揃え、アリーセに後を頼んで一人資料室へ向かった。

 執務室は慌ただしげだった。白を基調に金糸の縁取りをした正装で、金の髪を整えた兄上が、文官たちに何やら指示を出している。

「おはようございます、兄上」

 一言挨拶しておこうとその背に声をかけると、兄上は振り返って私を見た。

「おはよう、ヴィン」

 今日の兄上はいつにも増して輝き、威厳を感じさせる。やはり兄上こそ我らの代表としてあるべき方だ。

「今日はどこに行くつもりだ?」

「一日この辺りで勉強するか、本を読んでいるかと。客人が見えられるのは応接室でございますね? とにかくこの執務室から見える辺りにはおりますから、ご心配なさらず」

 念を押してよい子にしていると告げたので、兄上はくすくすと笑った。

「そう警戒せずともよい。だが、まあ、私が呼ばない限りは、この辺りで大人しくしていなさい」

「はい」

 うなずいて、ふと気づく。私がティエビエンの王族にお会いする可能性も少しはあるな。

 資料室の机につきながら、今日は各国の礼装やら礼儀やらについて細かく見ようかと考える。

 今日の服装は乗馬服でこそないものの、正装というには略式だ。ユースフェルトの王族の正装は基本白か青なのだが、白の上着でこそあれ、ベストは薄茶だしズボンは焦げ茶だ。もう少し考えて選んだ方がよかっただろうか。だが、私のような若輩が重要な会談に呼ばれるとも思えぬし……。それに、私が今持っている一番の正装を引っ張り出しに行くには、少し面倒だ。

 兄上が国王代理となられてから、無駄づかいという言葉は王家の財政に少しも当てはまらなくなったに違いない。どうやら、まずは必要ないほど多くなっていた高価な小物や着物を担保にし、そして人員削減——特に豪華さが重視されていた食事の、運ぶ係など——というようにして、当座の返済金を確保したらしい。

 時折、兄上は借金返済にかこつけて、王室を改革したのだという気がする。おかげで、といっていいかは知らんが、肥満状態だった王家の生活と王宮の仕え人は、随分と痩せて健全になった。

 何より、私が我が国と家の危機を認識したのも、衣がきっかけだったのだと思うと、今の衣装部屋がああなのはかえってよくなった印とも見える。

 私が衝撃を受けたほどがらんとしていた衣装部屋は、しばらくそのままにされていたが、再び見た時腹が立ったので、内宮に越したのを機に、新しく自室に近い小さな部屋に移動させた。あんなでかい部屋は雨期の物干し場にでもすればよいのだ。

 かつては毎日、侍従が持ってくる豪奢な服を気にせず着ていたもので、急に地味な肌触り悪いものになったのが気に入らなかったが、近頃利点を見つけた。動き回って汚したりほつれたりしてしまっても、直すのに手間がないし洗濯もしやすいとモニカが言っているのを聞いたのだ。それから弟の服に似ているので仕事がやりやすいとも——モニカは下級貴族家の出身らしい。

 そういう服だと、あちこち出かけても不便がないし、何より群衆に紛れ込みやすいのだ。私の最近のもっぱらの隠密活動は、兄上が面と向かっては教えてくださらない情報を集めるためであるが、色味の薄い服だと城に来た中流貴族の子だと勘違いしてもらえるらしい。宮で働く親に連れられてくる者がたまにいるのだ。おそらく、料理長も私をそんなふうに考えたのだろう。数か月経っても己が宮の王子の服装が大人しめだとは覚えられぬと見える。密偵もどきになりかけている私には、非常に好都合だ。

 それに、馬術の練習を始めたので乗馬服を手に入れたのだが、どの日にそれを着るかはモニカたちに教えておかねばならない。服が少ないということは把握もしやすいということで、侍従たちも探す手間が省けて効率的だ。

 ところで、ティエビエンの王家の正装は私たちとは少し違って、縦の線を重視した衣が多いらしい。ティエビエンの王女が如何様いかようなドレスを着てこられるのかは、見てみたかったところだな。

 ドレスといえば、姫たちの正装は今のところ、王族としてのものではなく貴族の姫にふさわしいものになっている。つまり白や青に限らず様々な色のドレスをまとうということだ。普段着の品質が下がったようなのは見てとれたゆえ少し心配になる……正装はきちんと取ってあるはずだが。茶会や夜会を開く雰囲気もないし、正式な挨拶など滅多に出ないからには、特に案じる必要もなかろうが。

 後宮は置いておくとしても、エルヴィラ様は華美な服を多く持てなくなって気になさらないのだろうか……私の目にはそのように映るが、着飾るのを好む心はわからなくもないからな。

 つらつらと考えている間に時が過ぎてしまった。

 私は気分転換でもしようかと、昼過ぎに例によって大窓を開け外に出た。日の光のもと、芝生の上に座って本を開く。セゼムとジョルベーリの礼装を復習してしばし、風が私に、草を踏む軽い音を届けた。

 私は顔を上げて、その方角を見やった。この時間に王宮の中庭に、こんな執務室の近くまで立ち入るとは、エルヴィラ様以来の闖入者ちんにゅうしゃだ、と思いながら。

 果たして、現れた姿に、私は言葉を失った。

 膝下丈の、縦にひだをいくつも入れたスカートの白灰のドレスに、白がかった薄茶の短めのブーツ。袖のない衣から出た細い腕も足も健康的に白く、小さい鼻に愛らしい薄紅色の唇、淡い灰色の目をしている。銀か白のようにも見える、日に透ける肩下までのふわりと波だった白金の髪を、そよ風に揺らしていた。

 全身がほとんど白に近い、まるで芸術品のような同年代の少女。その唇がいたずらっぽい笑みを形作っていなければ、どかかの名石工の生涯一の作が命を得て動き出したような、人でないものではないかと疑い続けていただろう。

 その時、それまで同年代の少女を見てきた中で、美しいと初めて思った。

 風が新しい感触をもって、さあと私と彼女の髪を揺らした。淡い灰の目と見つめ合って、私はほんの少し唇を開いたまま、何も言えなくなっていた。

 彼女がふいに困った顔になって、口を開くまでは。

「お前、名は?」

 そのユースフェルト語の響きに、空気がぴりと、清らかな快い緊張を持った——まるで儀式の時のような。

 彼女は私より高位の者だと、すぐに直感した。普段兄上とエルヴィラ様、かつては母上と、愛し敬う者以外に許したことのない「お前」という他称詞を、自然に受け入れていたほど。

「我が名は、ヴィンフリート・ユースフェルト」

 二つの理由から、ゆっくりと発音する。無論一つは、彼女と美しさと高貴さが、私に緊張を強いてきたからだったが。

「貴方は?」

 また自然と、私の方からも彼女を貴ぶ他称詞を選んで問いを発していた。彼女は端的に答えた。

「ヘマ」

 それが彼女の名らしい。私はその響きを胸の内で繰り返した——ヘマ、と。

「ヴィンフリート。お邪魔してごめんなさい」

 ヘマはゆっくりと言葉を紡いだ。

「誰もいないと思って、来たから。驚かしたでしょう」

「いや」

 私は衣の裾を払って立ち上がった。ヘマは細身で、スカートが広がっているのはあっても、背も私よりわずかばかり低くて、小さな娘だという印象を他者に与えそうだった。

「私は音をよく拾うから、貴方の足音が聞こえた。驚かされてはおらぬゆえ、謝らないでよい。ところで、ここは中庭で、許しのない者は入って来られぬはずなのだが、貴方はなぜここに?」

 本題に入ると、彼女は少し考える素振りをして、

「えっと……」

 困った声を出して口ごもる。ここまでわかりやすい侵入者に会ったのは初めてだな。

 一つ小さなため息をつき、私はジョルベ語で話しかけた。

「ジョルベ語で話そうか、侵入者の姫君。貴方はティエビエンの王女殿下ではないか? どうやってここへ?」

 すると彼女は急に流暢なジョルベ語になって、

「どうしてわかったのです? いいえ、でも、私はティエビエンの王女ではないわ」

 王女ではない? 束の間戸惑った。

「そうなのか? いや……貴方はユースフェルト語を話すのにためらいがあるようだったし、丁度勉強していたティエビエン王家の正装に近い服を着ているから」

「それは、その、私は王家に近い身分にいるものですから」

 彼女は眉をひそめて困った顔のままだ。

「ええと、失礼かもしれないけれど、お前は先の名乗りからすると、ユースフェルトの王子なのですね? 私のようだったら違うかもしれないけれど」

 このままお互いに隠しごとをしながら探り合っても、何も得られぬだろう。私は正直に答えた。

「そう、ユースフェルト王国が第三王子だ。貴方が王女でないとしたら、ここへ何をしに来たのだ?」

 彼女は少しためらい、やがて決心したように顔を上げた。

「子猫を……子猫の行方を捜しているのです。白金の毛並みに金の瞳をした子で、きっとこの王宮にいるはずなのです! 心当たりはない?」

 両手を不安そうに組んで、ずいと私に近づいてくる。私は驚きに目を瞬かせた。

 子猫? 色は異なるようだが、子猫なら一匹、知っている!

「白い、しかも不思議な子猫なら知っているが……」

「本当ですか⁉」

 整った顔にあふれんばかりの喜びが浮かぶ。私は彼女を落胆させるのを残念に思いながら続けた。

「だが、どうやら貴方の言う猫とは目の色が違うようだが……毛色も」

 しかし、予想を裏切り、ヘマは少しの間首を傾げると、すぐ私に向き直って真面目な顔で言った。

「いえ、大丈夫よ。実は色はさほど重要ではないのです。急にこんなことを言って不躾と思うでしょうけれど、これは本当に大切なことなのです! お願い、私をその子のところへ連れていってください!」

 私は目をぱちぱちとさせた。つまり……これはどういう状況だ?

 美しい不審な少女が、子猫を探して私に助けを求めている。ふむ。本来ならば応接室へ道案内してやって、ティエビエンの者たちのもとへ帰すところだが、彼女は真剣だ。

 そして白いのは兄上やジークの前には現れない。人に見られぬ場所で、料理長を除けば、私が一人の時だけだ。そして彼女は身が軽そうで、時間はありそうである。

 そう考えて、私はヘマの白灰の目を見返した。

「私もあれがどこにいるかは知らんのだ。だが、日に一度は必ず訪れる場所を知っている。もし貴方が、とんでもない場所まで来る勇気があれば案内しよう。どうだ?」

 本当は「案内するが、どうだ?」と言いたかったのだが、さすがにそこまでの長文をジョルベ語で作るのは面倒だ。

 ともかく、ヘマは顔を輝かせた。

「もちろんあるわ! だって私がここにいるのも、そもそもとんでもないことだもの。案内してください、ヴィンフリート」

 ヘマに名を呼ばれると、少し異国風の響きがあって不思議で、半ば命を聞く形なのも何とも思わない。

 彼女は何者だ? そうだ、彼女は王女ではない。王女ならば私と同等だ。貴族の社会的な階級よりも、もっと高位な何か。国という形で見れば王族より身分は低いだろうが、全ての民に命じることができる存在——そんな者は賢者くらいだ。

 だが賢者にしては若すぎる。どんなに年上でも、私より一つか二つ上といったところだろう。

「こちらだ」

 背を向け、歩き出そうとして私は振り返った。

「少し迷いやすいだろうから」

 と手を差し出す。ヘマは私の手を見つめ、なぜかとても嬉しそうに言った。

「ありがとう」

「当然の礼儀だ」

 そう答えたが、笑顔がかわいらしすぎて直視できん。妹姫たちとはまた違ったかわいらしさだな……。

 私はヘマの手を引いて、中庭を突っ切り、回廊から裏大路へ入った。普段の裏大路は忙しそうに足早に通り過ぎる仕え人たちや、ひそひそとうわさ話をする通りすがりの騎士や文官がちらほらといるのだが、この時は全く人気がなかった。

 ヘマが天井近くの窓を見上げ、呟く。

「日が入ってくるのですね。きれい」

「ここは裏大路といって、王宮の者たちの通り道だ。……今日は珍しく誰もおらんな」

 説明しながら、足を速めて角の部屋まで連れてゆく。

「客人が来るためかもしれん。今のうちに行ってしまおう」

 そっと部屋の戸を閉め、ヘマの手を離して壁際にしゃがみ込む。

「ここは?」

 ヘマの不思議がる声。涼やかな、小鳥のような声だ。

「少し待ってくれ……っと」

 かたりと石を外す。鉄棒を持ち上げると、ゆっくりと飾り戸の向こうの壁が開いた。もう何度目かで、慣れたものだ。石段を乗り越えて振り返れば、ヘマが目を丸くしている。

「秘密だぞ?」

 私は小首を傾げ、にやりとして手を差し伸べた。ヘマはおずおずと手を重ね、次いでおもしろがる顔になって、塔に踏み入る。螺旋階段を見上げぽかんとした顔がおかしい。

「この上だ」

 指差すと、ヘマは迷わず階段を登り出した。次第に駆けるようになる。私も風を利用して身も軽く段を踏み、後を追った。

「猫のように走るのだな」

 つい声をかけた。彼女の駆け方は幼い獣のように優美だったから。

 ヘマはちらりと私を振り向いて、眩しい笑みを見せた。

「よく言われるわ。私は猫みたいなのですって」

「ふむ?」

「お前も身が軽いのね」

 言われて、ふふと笑う。

「私は風使いだからな」

 答えると、ヘマはふいに考え込むような顔つきになった。

 塔の頂上、見張り台に出る。

「わあ!」

 ヘマが歓声を上げた。瞳がきらきらと輝き、走ったのもあって白い頬が紅潮している。

「なんてきれいな空! あら、ユースフェルトの王宮が皆見えるのでは? さすが、きらびやかなのですね」

 まこと、夏の日に青い屋根瓦や白の壁、金の飾りなどが煌めいて見える。

「ティエビエンの城は違うのか?」

「ええ……城というより要塞に近いものですから。漆喰塗りの壁ではなく、石造りのものばかりです」

 なるほど。やはり対魔の要と言われるだけはあるようだな。

 ヘマが細い体を乗り出して景色に夢中になっている隙に、私は屋根に出られる木戸を開けた。木戸に手をかけて、たわむれに言う。

「貴方が高いところを怖がるご令嬢でなかったのは、幸運だな」

 ヘマは返答に困ったように眉を下げて振り返り、私を見て目を見開いた。

 風を操って青い屋根瓦の上に悠然と立ち——彼女の前で格好つけたかったのかもしれない——私は手を差し伸べていたのだから。

「とんでもない場所へようこそ、ティエビエンのご令嬢」

 淡い灰の瞳に興味一杯の色を浮かべて彼女が伸ばした手を引き、隣に座らせた。

「すごいわ!」

 ヘマが興奮した声音で言う。

 私は指を空に伸ばし、屋上に吹く風を少し和らげた。王宮の人々の話し声は届かなくなるが、ヘマの声は聞きやすくなる。

 いつもと同じように腰かけているのに、隣にヘマが座っていると、途端にこの空間が一つの芸術品になったように美しく見えた。

「あそこが先までいた、中庭だ」

 日光を浴びてきらめく草花を指差す。

「星か刃のようなきらめき」

 とヘマがティエビエン語で呟いた。なぜティエビエン語はそうも一々物騒なのか、未だに理解できん。

「星と言ってくれた方がよいな。我が国は星の国であるし」

 ジョルベ語で返すと、ヘマは風に流れる白い髪を抑え、目を上げた。

「ティエビエン語もできるのですか? 博識なのですね」

 と少し、感心してくれたような声。

 私は急に恥ずかしくなって、少々早口に言った。

「語学は好きだから。だがまだまだ勉強中だ。難しい単語はすぐ忘れてしまうし、実際のところ……」

 はっとして、一つ息を吸う。

「貴方だって素晴らしい二言語話者だろう? ティエビエンの者は、ティエビエン語もジョルベ語も生まれ持ったように扱うと聞くが、本当だな」

 何だか調子が狂う。同年代の子と話すのは久々だからだろうか。

「だってジョルベ語は、ティエビエン語にない言葉を持っているのですもの」

 ヘマがあはは、と軽やかに小さく笑う。

「確かにな」

 私もつられてくつくつと笑った。こんな話ができる相手は、かつての先生以来いつぶりだろう?

「貴方も言葉が好きなのか?」

「ええ」

 問えば、ヘマは夢見るような目をしてうなずいた。言葉というのは、彼女にとってどんな意味を持っているのだろう。賢そうな白い額や長い指を観察していると、ヘマはまた困った顔をして視線を逸らした。

 しまった……。美しいものは遠くから眺めるのが一番だというのに、私というやつは。

「すてきなところね、ここ」

 ヘマがぐるりと辺りを見回し、感想を呟く。膝を抱える姿も愛らしい彫刻のようだ。

「そうだろう? 私の気に入りなのだ。そう、それから、あの白いのもな」

 そこで私はやっと本題を思い出した。

「白いの?」

「子猫のことだ。名がわからぬのでそう呼んでいて……」

 横目で彼女をうかがう。彼女が白いのの飼い主だろうか? だとしたら、私はあれの侵入経路を問わねばならぬのだが。

「あれはよくここに来る。あやつの気に入りなのだろうな」

 ヘマはこくこくとうなずいた。

「その子がここに?」

「ああ。私がここに来れば大抵はやってくるから、きっと現れるだろう」

 答えながら、好奇心が湧き上がるのを感じる。耐えかねて、とうとう問うてしまった。

「貴方は何者だ? なぜ子猫を捜しているのだ?」

 ヘマはこちらをうかがうように小さく笑んだ。

「それは……言っても信じられないと思うわ」

 一層興味をそそられる。

「信じるかもしれんぞ? 飼っている猫なのか?」

「そうですね。飼っている、と言っていいかはわからないのですけれど……」

 彼女も白いのと同じくらい謎だな。そう見ていると、考える仕草をしていた彼女が、私の方へ身を乗り出す。視線を追って振り返ると、風が吹きつけた。白い毛並みに青い目の子猫が、屋根に降り立つところだった。

「白いの」

 呟くように呼んだ。白いのはきょとんと私たちを見上げている。

「まあ」

 ヘマが嬉しそうに声を上げた。両手で白いのを抱き上げ、ヘマに見せる。

「こやつだ。貴方が捜していたものか?」

 ヘマはにこりと笑って、両の手を広げた。

三番目テルセル! 風のヴェントゾ、おいで」

 ティエビエン語だ。それを聞くと、白いのはするりと私の手を抜け、ぴょんとヘマの腕の中に飛び移った。

「よかった! この子です。ありがとう、ヴィンフリート!」

 ヘマが白いのを抱え上げ、ぱっと私に笑いかける。花のような笑みに目を奪われた。白い子猫を抱いた少女の姿は、一つの絵画のようだった。

 ぽかんとして見惚れていたことに気づいて、はっとして笑みを形作った。

「そうか、ならよかった。おめでとう」

 祝えばヘマは女神のような笑顔を見せる。くらりとくる。こんなに美しいものが存在していたと、初めて知った。

「ええ! この子を捕まえておかないと」

 ヘマが弾んだ声をして立ち上がる。その時、何かが聞こえて、私は風を操って下の方の音を拾おうと手を動かした。ヘマが風にあおられた髪を抑える。

「……!」

 何か言っているようだが、何だ? 耳を傾けるとすぐにわかった。

「姫君ー! どちらにいらっしゃいますか?」

「ティエビエンの姫様ー!」

 私はヘマを見やり、片眉を上げてみせた。

「貴方が王女ではないとしても、姫なのは間違いないようだな? 捜されているようだ」

「えっ」

 ヘマが片手を口に当てる。

「そんな、どうしましょう! 姉様ねえさまったら!」

 あまりにあたふたとした様子だったので、私は助けてやることにした。

「見つかってはまずいのだな?」

「ええ」

 ヘマがこくりとうなずく。

「であれば、中庭を抜けるのがよい。先ほどと同じだ。案内しよう」

 立ち上がり、木戸を開けて手招く。塔に戻るのを支えてやって、私は言った。

「ここのことは秘密にしてくれるか? 私も、貴方と同じで、ここに来たことは知られたくないのだ」

 ヘマは微笑んで請け合った。

「もちろんです。秘密、ね?」

 と口を閉じる真似をして。

 塔を下り、隠された入り口をもとに戻して、裏大路を駆け抜ける。人はいなかったが、注意して中庭まで連れ出した。

「どこへ行けばいい?」

 問うと、ヘマは焦った様子で、

「捜すよう言っているのは姉様です! 誰かに見つかる前に、会議をしている部屋へ行かないと」

「なら、こちらだ」

 花の茂みや芝生の上を走り、部屋の窓を確かめていく。一つ、開いている部屋があった。

「ここから抜け出したな、ヘマ?」

 にやりとして指摘すると、彼女は頬を染めてうつむく。

「なぜわかったのです? でも、そうよ」

 大きな窓を開け、枠に足をかけ飛び乗る。その応接室は十五以下の令嬢向けの部屋で、薄緑に塗られた壁と薄紅のクッションのソファがあった。小さい円卓にカップと茶菓子が置かれている。

「つかまれ」

 ヘマの手をつかみ、引き上げる。部屋に転がり込み、窓を閉め鍵をかけると、ヘマが笑い出した。

「すごい! こんな——冒険みたいな——一体いつぶりかしら?」

 私は声を立てぬようにしようと思っていたが、結局噴き出してしまった。

「そんな、いや本当だな——なんて無茶な姫君だ!」

 抑えた笑い声が続く。やっと静まると、私は衣を叩いて髪を整えた。ヘマもならうように白い髪を梳かし、白いのを抱え直す。

 戸を開け、誰もいないのを確かめて、私はうやうやしく手を差し出した。

「さあどうぞ、姫君」

 ヘマがくすくす笑いながら手を重ねる。とても楽しい気分で、私たちは廊下の一番奥の、重そうな扉の前まで小走りで行った。戸を叩く。

「何だ」

 くぐもった兄上の声。私は笑い出さぬよう一息ついてから、告げた。

「兄上、ティエビエンの姫君をお連れして参りました」

「ヴィンフリート? 入れ」

 兄上の驚いた声が返ってくる。私は戸を開き、うながすようにヘマの背を軽く押した。ヘマが一歩、部屋に入り、白いのを掲げて満面の笑みになる。

「姉様、ヴェントゾを見つけました!」

 室内にいた誰もがぽかんと口を開けるのを見て、私は堪えきれず、自慢げなヘマの背後で噴き出した。


 一拍置いて、応接間は大変な騒ぎになった。

 ティエビエンの王女殿下は、

「ヘマ、どこへ行っていたの? 王猫の子を見つけるのは頼んでさしあげると言ったでしょう!」

 と呆れたように頭を振り、その隣に座っていた男も、

「約束しただろう? 心配させて! ここの兵士たちに捜してもらったんだよ」

 などとティエビエン語で言い聞かせるのだが、ヘマは落ち着いてください、と笑顔で取りなそうとするばかりであったし。

 兄上は「どういうことだ、ヴィンフリート? 何があった」と問い詰めてこようとするし、護衛の騎士たちも口々に疑問を呈し、ダーフィトに至っては目を丸くして「姫君はどちらにいらしたのです?」などと的外れた質問をしてくるのに、私の方はくすくすと笑ってばかりで、まともに答えてなどいなかったのだから。

 だが、兄上がぱんと手を打ち鳴らすと、場は静まり返った。

「皆、落ち着いてくれ」

 眉をしかめてソファに身を沈め、一同が傾聴の姿勢を取るのを待つ風格を見せて、兄上は口を開いた。

「ヴィンフリート、説明しなさい」

 この場において最も尊重されているのは兄上であるらしい。矛先が私に向いたので、皆が私の方を見た。私はうなずいて、もっともらしい顔をする。

「私はそちらのティエビエンからいらした姫君が、道に迷われていたのを偶然見つけて、ご案内申し上げたのでございます」

 別にうそは言っていない。それで兄上は渋い顔をしている……これは後で小言を食らうのは確実だな。せめてここは切り抜けさせていただこう。

「そうなのか、巫女みこ殿?」

 と兄上がジョルベ語で問う。

 巫女? ヘマのことか?

 ヘマが兄上に軽く礼をして、言った。

「はい、殿下。私は庭に出てみたくなって、部屋を出たのですが、帰り道がわからなくなってしまって……ご親切な王子殿下に案内していただいたのです」

 正しくは、子猫を捜して庭に出たくなって、窓から部屋を出、王子にとんでもないところへ案内されたのだが。

「その猫は?」

「ええと、話せば長いのですが……この子は長い間、行方不明になっていて、捜していたのです。それが、この王宮にいるようだと王猫おうねこが言われたので、実は、そのために私は今日ここを訪れたのです。後でそのことをお願いするつもりでした。ですが、案内していただく途中、この子が王子殿下のところへやってきたのです。それで慌てて連れて参りました」

 王猫? 巫女? ……まさか!

 ひらめきがあり、私はその答えに思い至った。彼女は、それならば、まことに賢者であるのでは?

 ヘマをじっと見つめる。彼女が上手いこと説明をつけたので、兄上は思案顔になっている。と、ティエビエンの王女殿下が動いた。

「申し訳ありません、殿下。こんなおてんばを連れて参ったのが間違いでしたわ。よく言って聞かせますから、少し、お時間をくださいませんこと?」

 怒りに燃えた顔も美しい方だ。木の実色の髪を三つ編みにして冠のように後頭部に巻きつけ、豊かな唇に紅を差している。ドレスは髪の色を暗くしたような茶色で、ヘマのドレスと同じように、帯から下はたくさんのひだが作られていた。背が高い上に踵のある靴を履いていて、美女というにふさわしい貫禄がある。

「いいでしょう」

 兄上がうなずく。

 ヘマの手首を掴み隣の部屋へ消えてゆく姿を見ると、その判断は正しいと感じずにいられない。部屋に残された男どもは、めいめいに顔を見合わせた。

 ティエビエンの側で残された、焦げ茶の髪の二十代半ばほどの男性は、あきらめた笑みをしてソファに沈んだ。

「もう一杯、紅茶をいかがです?」

 ユースフェルト語で、黒髪の中年の、瘦せ型で背の低い男が聞く。

 あっと思った。めったに兄上のお傍に姿を見せぬ宰相めが、今日に限って書棟から出てきているとは。この男には二年ほど前、母上の帰郷の折に会ったきりだが、どうしてかすぐにわかった——いや、理由はわかりきっている。こやつは、今は灰髪のあの祖父に似すぎているのだ。

「いえ……」

 若い男は苦笑いしてジョルベ語でそれだけ答え、首を振る。

「宰相、そちらの方はユースフェルト語に不慣れなのでは?」

 思わずひややかに声をかけてしまった。もちろんジョルベ語で。

「第三王子殿下、ではどうぞわたくしめの代わりを」

 宰相はハイスレイ公爵とそっくりなうさんくさい笑みをしわの刻まれ始めた顔に浮かべ、引き下がった。このハイスレイ公の笑みのたぐいを、私はどうも好きになれたことがない。ふん、全く。

「兄上、こちらの方は?」

 引き続きジョルベ語を使い兄上にうかがうと、兄上はダーフィト、と呼んだ。ダーフィトが真面目な顔でひげをなでながら、

「第三王子殿下、こちらはティエビエンのラーゴ侯爵のご子息にございます。イサアク殿、こちらは我が国の第三王子殿下です。ティエビエン語がおできになりますので、どうぞお声を」

 とティエビエン語で——直訳すると大変なことになるが、まあこんなことを言って——紹介する。

 若い男性が嬉しそうにうなずいたので、私はジョルベ語でも不十分であったことを悟った。この人はティエビエン語しか話せぬのだ。

「どうぞ、ユースフェルトの三の君、ここへ座って」

 と男がにこやかにソファの空いたところを指し示す。

「ではお言葉に甘えて」

 私は腰を下ろし、定型文の挨拶をした。

「お初にお目にかかる、私はユースフェルトが三の王子、ヴィンフリートと申す。貴方は?」

 男はにこりと笑った。背が高いのに猫背で、垂れ目を細めていて、優しそうな人だ。

「僕はイサアク・ラーゴ。ラーゴ侯爵の次男で、ペルペトゥア……我らが次期女王の婚約者だ。イサアクと呼んでくれて構わないよ」

 なるほど、イサアク殿か。

「ティエビエン語はあまり使ったことがなくて、そこまで滑らかに話せないのだ。遅い調子の会話が嫌でないといいのだが……ようこそ、ユースフェルトへ、イサアク殿」

 ティエビエンの者を相手に喋るとなると緊張するな。ゆっくりと話すことになってしまうのだが、イサアク殿は大らかだった。

「とても上手にティエビエン語を使われるね。僕は幼い頃ティエビエン語しか使わない環境で育った上に、語学も苦手で、ジョルベ語も満足に話せないから。他の国に行くと周りに迷惑をかけてばかりで、いつも申し訳なくなるよ」

 と長い指で頬を掻く。

「だから異国で貴方のような、母語を話してくれる者に会えるととても嬉しくなる。お会いできて光栄だ、ヴィンフリート殿」

 差し出された手を私はしっかり握った。握手は傭兵の一族であったティエビエンの者には、武器を持たないことを示す友好の印であると聞く。

「それはよかった」

 見上げると、イサアク殿は機嫌よく話し始めた。使い慣れない言語で会話する時は、聞き役に徹すると上手く関係が築けることがある。二番目の先生の受け売りだが。

「本当はペルペトゥアには、付き添いなどいらないのだけれどね。ヘマがどうしてもついてゆくと言うから、護衛も兼ねて一緒に来たのさ。僕は武術だけはできるから」

「武人なのですか?」

 意外に思って聞く。失礼ながら、強そうには見えぬのだが。

「これは僕の〝血の力〟のようなものだね」

 とイサアク殿は肩をすくめる。血脈によって受け継がれる魔の能力。ティエビエン流の言い方だな。

「なるほど」

 うなずくと、イサアク殿は微笑んだ。

「ヘマを案内してくれたとか。ありがとう」

「いえ、彼女が必要としていると思ったので……」

 実際には連れ回した故に何とも答え難い。お二人の様子を見る限り、ヘマは大切に扱われているようだから、彼女がそれほど叱られるとは思わんが。

「本当に困ったおてんばだ」

 きらりとイサアク殿の焦げ茶の目が光る。

「普段とても大人しくて賢いのに、突然思いもつかないことをするから」

 ううむ、と私は首を傾げた。

「彼女はとても、その……」

 何と言うのだったか?

「優雅に見えたが」

「そうだろうね」

 イサアク殿がふふふと含み笑いをする。国にいる時のヘマは、それほど行動的なのだろうか。先ほどの好奇心がまた首をもたげた。

「彼女は誰なのです?」

 イサアク殿がにやりとする。背後でかちゃりと小さな音がした。

「それはあの子から聞くべきだな。ヘマは身分の高い者として扱われるのは好きではないから」

「そうでしょうが、彼女の……ええと、貴い雰囲気は本物でしょう。例えば、リーネルトの絵のような」

 意図せず好きな画家の名前を出してしまって、束の間後悔した。私はヘマのまとう高貴さを、思いの外気に入っていたのかもしれない。イサアク殿に反論するようなことを言ったと、少し居心地が悪かったが、

「おもしろい意見だ」

 と彼は上機嫌にうなずいた。

 きぃと戸の開く音。足音に振り返ると、王女殿下がヘマを連れて立っていた。私はすばやく立ち上がって、

「失礼を、殿下」

 ティエビエン語で言って手を差し伸べると、王女殿下はさっと手を重ねてソファに腰を下ろした。

「問題ないわ。ありがとう、小さな王子殿下」

 赤い唇が弧を描き、薄茶に緑が混じる瞳の、大きな目を細められる。己が美しいと知っている者のふるまいだ。この方には似合っている。私も決して嫌いではない。

「大体のことは聞きましたわ。子猫のことには、わたくしからも礼を言わねばなりませんね」

 と彼女が微笑む。

「ヘマ、与えられた部屋へ戻っていなさい。どなたか案内をつけていただける?」

 ちなみに以上、ユースフェルト語である。非の打ちどころのない。私は内心舌を巻いた。これは確かに、付き添い人など必要ないな。

 感嘆しつつ、私はその声に名乗りを上げた。

「私が参りましょう。大事な会議の最中、おじゃましたかと」

 王女殿下が我が国の言葉を使ってくださるので、ユースフェルト語で。彼女は私を見て、

「そうしていただけて? よろしければ、この子を見ていてくださるとよりよいのだけれど」

 むしろこちらからお願いしたい。

 心の声は黙らせておいて、私は兄上を見上げた。

「ではヴィンフリート、巫女殿のお相手を務めてくれ」

 兄上は会議の方へ意識が行っておられるらしい。承諾も得て、私はヘマに向き直り、ティエビエン語で話しかけた。

「ご案内しましょう、姫君。貴方がよければ、お茶でも」

 ヘマが小さく笑う。

「ティエビエン語も上手なのですね。それで話してくださったりする?」

 私は苦笑した。格好つけようとすると失敗するのは、この世の真理か何かか? 失言ばかりしている気がする。

「そこまでできないな。ジョルベ語でお願いしよう」

 ヘマがおかしそうに笑った。

「ご迷惑をかけたお詫びに、何でもお話するわ。ユースフェルトの美味しいお茶をくださるなら、なおすてき」

 つまり返事は『はい』と。宮廷らしい会話に満足して、私は室内の者たちに一礼し、ヘマのために戸を開けた。

「では兄上、皆様、失礼いたします。姫君、こちらへ」

「おじゃましてごめんなさい。姉様、兄様、また後で」

 ヘマが丁寧にお辞儀して出てゆく。私も戸をくぐり、真面目くさってヘマを案内した。ヘマは両手にかごを抱えてついてくる。

 薄緑の壁の部屋に入り、戸を閉めると、ヘマは洪水のように話し出した。

「ああもう姉様ったら、守りたがりにもほどがあるわ! ありがとうヴィンフリート、兄様のお相手してくれて、きっと姉様も機嫌を直したと思うわ、それに子猫もきちんとかごに入れてこられたのです、これで安心だわ」

 怒涛の言葉でも顔は輝くばかりの笑みである。私は微笑み返して、

「大しておとがめなしでよかったな?」

 椅子を勧めると、ヘマは丸いかごを隣に置いてソファに腰かけた。私は壁際に行って鈴を鳴らし、椅子を引っ張ってきて彼女の前に座る。

「何から話したらいいかしら」

 ヘマが膝の上に手を揃えて小首を傾げる。さあ答え合わせの時間だ。私はにやりとして、

「貴方の正体を教えてほしいな。ちょっと待ってくれ、当ててみせるから」

 話の中に出てきた、王猫、巫女という単語、王女ではないが身分の高い、ティエビエンの姫君。

 ユースフェルトの王都から、足の速い馬なら三日ほどだろうか、ティエビエンの国境の街に近い森の中に、高名な塔がある。

「貴方は白の塔の司書だな? そうだろう?」

 ヘマは少し驚いた顔をして、次いで微笑んだ。

「ご名答、ですね」

 それまでのものより大人っぽい微笑。彼女の公務上の顔なのだろう。

「その通りです。私はトールディルグの書物の結集、〝白の塔〟の司書。あるいはかの主たる〝王猫〟の巫女です」

 白の塔には、大陸中の書物が納められているという。司るは一頭の聖獣せいじゅう、巨大な体に金の毛並みを持つ猫のごとき獣、王猫。その獣の知恵を伝える血の力を持つ娘を王猫の巫女といい、白の塔の司書の役割も果たすと言われる。

 王猫の言葉を解す賢者の姫君。

「やはりな。貴方を見た時、特別な者だとすぐにわかった」

 私はヘマにうなずいてみせた。

 扉が軽く叩かれ、侍従が一人入ってくる。私は新しい紅茶を持ってくるよう言った。間もなくポットが交換される。

「お注ぎいたしますか」

「いや、いい。ありがとう」

 私は礼儀正しく侍従を追い返した。ヘマの話をもっと聞きたかったから。

 二つのカップに紅茶を注ぐ。湯気が立ち、よい香りが広がった。

「ミルクはいるか?」

「いいわ、いらない」

 ヘマは興味津々という目で私の手もとを見つめている。

「熱いから気をつけろ」

 とカップを渡した。

「それで、ヘマ、貴方はなぜその白いのを捜しに?」

 私も先のヘマと同じ目をしていたのだろう。彼女はふふ、と笑った。

「それには、王猫のことをくわしく話さなくてはね」

 まず、と指先で円を空に描く。

「王猫はずっと一頭です。聖獣ですから、当たり前のように思えるけれど、彼も生き物だから、力の衰えというのは訪れるのです。実は、王猫は百歳になると、交代するのです」

 私は驚いて声を上げた。

「交代? 人の王のように、か?」

 いにしえから白の塔を司る聖獣、と聞いていたから、永久の生命を持つものと決めてかかっていたが、違ったのか。

「それとは少し違うのですが……いえ、似たようなものかもしれないわ。王猫は、七十五年を生きると、分身となる子を四、匹、生み出すのです。前代の王猫が百歳を迎え、眠りにつくと、彼らの中で選ばれた子一匹を除いて、他の子も眠りにつきます。そしてその子が、眠る全てをその身に受け入れて、王猫となるのです」

 まるで神話のような話だが、そこから察するに、

「まさかその子が……白いのか?」

 唖然として問えば、ヘマは嬉しげにうなずく。

「ええ。昨年の春、四匹の子猫が生み出されたのです。一年ほどは何事もなく大きくなってきていたのですが、三月くらい前にこの子、」

 彼女はちらと籠を見やった。

「三番目——テルセルと呼んでいたのですが、急にいなくなってしまったのです。一番いたずらっ子だったもので、最初は気にしていなかったのですが、一週間経っても姿が見えなくて……」

「それは、心配しただろうな」

「ええ! あの時は本当に焦ったわ」

 ヘマが紅茶をすする。私も一口飲んで続きを促した。

「それで、どうやってここにいるとわかったのだ?」

「それが、王猫が言ったのです。『境を超えた土地の一番豪奢な建物に、テルセルがいる』と」

 王猫というのは聖なる獣のはずだ。私は少し身を乗り出して問うた。

「王猫は人の言葉を話すのか? 白いのは、まるで私の言うことをわかっているかのようだったが」

 もしかすると、白いのも? だが、ヘマは笑って首を振った。

「いいえ。王猫の意思がわかるのは私だけ。私の血の力は、猫の気分がわかるというものなのです。昔に、この地に王猫が降り立った時、猫と話ができると言っていた少女を世話係とし、王猫の望む知恵を与えたのが、白の塔と、そして巫女の始まりだと伝えられているわ」

 それから、何かを考えるように少し首を傾げて、

「ですが、王猫は私たちのティエビエン語を解するのです。ジョルベ語も。長い年月の間に学んだのだと言われていましたが……この子がユースフェルト語もわかっているようなら、もしかすると、私が王猫の意思を汲み取るように、王猫も人の言葉に込められた意思がわかるのかも。……王猫に関する書物に書き加えた方がいいからしら?」

「新しい発見なのか?」

 私はくすりと笑った。私も貢献したことになるだろうか?

「ええ……そうだわ、話の続きでしたね。私はすぐにでもこの子を捜しに行きたかったのだけれど、国王陛下が、ほら、あの頃は……」

 ああ、そうか。

「私が初めて白いのを見たのは、まだ炎華月だったかな。確かにあの頃は複雑だったから」

 あの時は、白いのがこれほどすごい生き物だとは全く思わなんだな。そういえば、体もそれほど大きくなっていない気がする。子猫なのにおかしいとは思ったのだ……百年も生きるために、成長が遅いのだな。

「それで今日王女殿下とここへ来たのか。菓子はいるか?」

 大皿に盛られた焼き菓子も勧めてみる。

「そうですね」

「好きに食べてよいのだぞ? どれがいい?」

「えっと……それはどう?」

「これは姫たちもよく食べるな」

 小さいケーキやクッキーを小皿に取り分けて、ヘマの方に滑らす。ヘマは頬張って、幸せそうな顔をした。私もクッキーをつまみながら椅子にもたれる。ずいぶんちょっとずつ食べるのだな。

「うちの姫たちとは違うな? 姫たちの前に菓子を置くと、すぐに消えてしまうのに」

「姫って、王女様?」

 ヘマが小首を傾げる。そうか、これは身内の呼び方だったな。

「私の妹姫たちのことだ。二人はまだ小さいからな、貴方は私と同じくらいのようだし……違うか? 私は十三だが」

「まあ、そうなのですか?」

 ヘマがぱっと顔を輝かせる。

「私も十三です。一緒ですね」

 弾んだ声に私も何だか嬉しくなる。微笑みかけ、他に気になっていたことも聞いてみることにした。

「ティエビエンの王女殿下とは、ご親戚なのか?」

「ああ!」

 ヘマはうなずき、

「実は、王家とは血のつながりは何もないのですけれど。先代の王猫の巫女は私の祖母で、ペルペトゥア様の教育係もしていたのです。私の母は巫女の素質はあったのですが、奔放な人で……私は八つまで白の塔も、王家も知らずに育ったのです」

 少しうつむいた面に、苦いものを含んだ笑みが浮かぶ。それがなぜかを聞くのは、してはいけないことだろうな。

「十二まで、おばあ様に巫女のことを習って。おばあ様は空の女神にお呼ばれになったので、今は私が巫女となったのです。私が……白の塔に来られたのは、私に巫女の素質があって、それに……事故で両親を亡くしたからです」

 静かな声に、こちらも息をひそめた。

「ペルペトゥア様は、幼いうちに親を亡くし、巫女の修業を始めた私を気づかってくださったわ。おばあ様が巫女の生涯を終えた後は、親代わりのようなこともしてくださって。そして、姉様と呼べと、言ってくださったのです」

 ふわり、と花開くように笑みが広がる。やはりこの子は美しい。見惚れたような気になった。

「イサアク殿も、姉様とよく白の塔を訪れてくれて、兄様と呼ばせていただいているわ。今の私には、大切な家族のような方々です」

「なるほどな」

 私は深くうなずいた。

「私にとっては、一の兄上はまさにそのような存在だ」

 ヘマが不思議そうに見てくるので、こうつけ足す。

「私も母は亡い」

 この話を知らぬ者にするのは、初めてかもしれん。

「兄上がいつも必要なことをしてくださるから、こうしていられる」

 言って、思いついてくすりとした。

「私たちは似たところがあるかもな、姫君?」

 ヘマが花のほころぶように笑う。

「そうかもしれないわ。ふふっ」

 可愛らしい。

 茶を口に含む。まだ会話を終わらせたくないな。ソファの上のかごがわずかに動く。それに目をやって、ヘマがケーキを食べ終えるのを待って話しかけた。

「まだ重要なことを聞いていなかったな」

「あら、何かしら」

「その白いのの本当の名のこと。ヴェントゾ、というのは、ティエビエン語の風……か?」

「あっ、そのことね!」

 ヘマは笑い声を立て、かごをおおう布をめくった。中には予想通り、白いのが入っていて、ぐっすり眠っている。

「こやつも眠るのだな」

「見たことはない? この子、いたずらっ子だから、きっとずっと動き回っていたのでしょう」

 とヘマが肩を揺らす。

「ああ、それも風に乗るようにして……王猫の子は皆、そのようなことができるのか?」

 あら、とヘマが片手を口に当てる。

「私、本当に大事なところを言い忘れたのですね? とても信じられないような話なのですが、四匹の子猫は、生まれた時は王猫と同じ白金の毛並みに、金の目をしているのです」

 ああ、それで最初そう聞いてきたのか。だが白いのは、私がそう呼ぶ由来になった純白の毛に、青の目をしている。ということは?

「色が変わるのか?」

「ええ、そうなのです! 四匹皆、違う色に。一匹は薄茶に赤の瞳、一匹はほとんどそのままの毛に緑の瞳、もう一匹は毛に黒の縞模様が入って瞳は金のままで、そしてこの子は、真っ白の毛並みに青の瞳」

「ほお」

 感心してあいづちを打つ。何と興味深い話か。ヘマのいる世界は、私の知らぬものばかりだな。

「四匹が変化した色は、文献にあったものそのままでした。でもこのテルセルは、まだ白金の毛に金の瞳の時行方がわからなくなって。それで、名前のことですが……彼らは、自然を表す四種の名で呼ばれるのです。四大神と同様それぞれ自然を操る力を持っていて、それは色が変化すると同時に備わります」

 四大神か。トールディルグで自然の四大素というと、

「光と炎、水、緑と地、風、か」

「ええ。他の子はこの子がいなくなっている間に変化したから、多分風の力を持っているだろうと思っていたのですが、当たりだったわ。これからはヴェントゾと呼ばれるのです。ちなみに、『風の』ですよ」

「『風の』か。よい名だな、ヴェントゾ?」

 手を伸ばしてふわりとする毛をなぜる。白いの、否ヴェントゾは、全く起きる気配がない。

「お前には本当になついているのね」

 ヘマが感嘆するように呟く。

「あのね、王猫の子は普通、私たち巫女以外にはほとんど姿を見せないのですよ。だから私が見つけるしかないと思って、勝手に庭に抜け出したのですけれど」

 と悪さが見つかった幼子のようにちろりと舌を出す。

「本当にありがとう、ヴィンフリート。白の塔からあまり出ないものだから、ユースフェルトの王宮がこんなに広いと思ってなくて。とても助かったわ」

「お気になさらず。ヘマ、貴方との冒険は〝とんでもなく〟おもしろかったからな」

 私はにやりとして答えた。

「それから、私のことはヴィンと呼んでくれてもよいぞ。兄上や親しい仕え人たちはそう呼んでいる」

「まあ、すてきね」

 とヘマが目を細める。

「私の名は短いし、皆巫女殿とか姫様とか呼ぶの。家名もガートといって、まあ猫という意味で王からいただいたという栄えある名なのだけれど、あだ名にするにはあんまりでしょう? そういう呼び名には少し憧れるし、素敵だと思うのです」

 そう言って優しい声で名を呼んだ。

「今日はありがとう、ヴィン」

「どうしたしまして、ヘマ」

 少しだけ仲良くなれたように感じて、名を呼び合うのに心が踊った。私はヘマのカップに茶のお代わりを注いだ。ちょうど降の一刻の鐘が鳴った。


 間もなく兄上の近衛の一人が呼びに来た。後について応接間に向かい、ヘマは王女殿下方の傍へ行く。

 兄上の視線が、後で白状しなさい、と強く言ってくるので私は努めてそれを無視した。それで宰相の嫌味な笑みが、内宮へお戻りなさい、と言ってくるのも見て見ぬふりをして見送りについていった。

 正門に立派な、革張りの馬車が停まっていた。兄上がティエビエンの方々にあいさつをする。御者が戸を開く段になって、ヘマが私の方へやってきた。

「ヴィン、白の塔へ帰ったら、きっとお礼の品を贈るわ。王猫もテルセルのことをとても心配していたから、きっと贈りなさいと言うと思うのです。だから、私から何か届いても、驚かないでね」

 とささやかれる。

「何が届いても、私はきっと驚いて喜ぶでしょう——」

 とせっかくなのでティエビエン語を使ってから、ジョルベ語に直してささやきかえす。

「本当だぞ。貴方と知り合えてよかった、ヘマ。——無事の旅を」

 ティエビエン語の常套句を口にすると、ヘマも同じようにして答えてくれた。

「私もよ。お前も、人生のよい旅を!」

 ヘマが手を振り、白いの、ヴェントゾの眠るかごを大事そうに抱えて馬車に乗り込む。私は片手を上げ、馬車が王宮の建つ台地を、特使館の建つ都の方へ去っていくのを見送った。

 『人生のよい旅』は、ティエビエン語の中でも私の大好きな単語の一つだ。旅から旅へ、戦いから戦いへ、いつ来るとも知れぬ終わりを想いながら、そう言って別れを告げたティエビダの古の戦士たちが想像できるから。

 馬車が坂道を下り切ると、兄上は大勢いた近衛兵や文官たちを散らせ、ジークとあと二人だけ伴って王宮へ踵を返した。夕日が綺麗で、名残惜しくなって街へと去ってゆく馬車を眺めていた私の襟首を、がっと引っつかんで。一瞬息が詰まって、私は兄上の手を振りほどき、ずんずん進んでゆく兄上の後を憤然と追った。

「何をなさいますか、兄上!」

 ひどい、私は少ししか悪いことはしておらぬというのに。

「腕を上げたな、ヴィン」

 兄上は少し疲れた声で、にやりとして言った。何だ、怒っているわけではないのか。それならなぜ弟の首を締めましたか兄上。解せん。

「言っておきますが兄上、私は巫女姫の意に添うようにしただけですからね?」

 何か言われる前にと思って腕を組みそう告げると、笑われた。

「別に叱ろうというわけではないよ。ただ、巫女殿の真意は話してもらおうかな」

 くう、逃げられぬか。

 仕方ないので都合の悪い部分は省くことにしようと決めて、私は腕を解いて兄上を見上げた。夕食の後にでも話せば、兄上もお疲れのようだから追及されぬのでは……。

「会談はどうなったのです?」

「概ね和議に達したと言っていいだろう」

 嘆息する兄上に、私は苦労をねぎらえるよう笑みを浮かべた。

「それはようございました」

「このまま内宮に戻ろうか」

「はい」

 私は大人しくうなずいた。勉強道具を取りに行くのは明日でもよいだろう。

 兄上を見ていると、王とはどういうものか思い知らされる。民を想い、国を想い、勤勉で努力家で、誠実であろうと努め……。

 私はまだ幼いのだろうか。わがままなかんしゃく持ちの子どものままなのだろうか。王家の本当の姿を知り、他者の心に触れ、わがままも言わずかんしゃくも起こさない大人になりたいと思うようになった。

 これはわがままだろうか。兄上に王になってほしいと思うのは? 私は王になどなりたくないと思うのは。

 兄上の代わりなどいない。このユースフェルトを治めるのは兄上でなくてはならない。だが兄上がこんなにも苦労なさっているのがわかっていて、何もする力がないのに兄上のようにはなれぬと言うのは、傲慢だろうか。

 ヘマは美しかった。ティエビエンの王女殿下も。己の為すべきことを己の限り成すことを常としているから、あんなにも輝かしいのだ。

 私は……私も美しくあれるだろうか。もっと周りを見て、兄上を気遣って、己を磨けば……。

「兄上」

「何だ?」

「いえ。お疲れさまでございます」

 兄上はおかしそうに笑った。

「そうだな。ありがとう、ヴィン」

「ヴィン様がご苦労を増やしたところもあるのを、お忘れになってはいけませんよ」

 ジークが苦言を呈してきた。しまった、伏兵がいたか。説教の本命はこっちだな?

「そもそも今朝、大人しくしていると約束なさったではありませんか。今回の会談はまことに重要なものだったのですよ。お二人がいらしたのが小休止の折だったからよかったものの、会議が途切れていたとしたら」

 ジークが滔々と小言を垂れ流し始める。あー聞こえん聞こえん。

「というかヴィン様が姫君を真っ直ぐお連れしなかったのがいけませんよ」

 なぜばれている。

 兄上を見やれば、兄上は少々意地悪い笑みでこちらを見ていた。この説教男を解き放ちましたね、兄上⁉

 これだから兄上の能力は厄介だ。嘘を見抜けるお力の前では、いたずらの一つも隠し通せぬではないか。

「もうなさらないことです。いいですか、ヴィン様」

 ジークが念押ししてくるので、私は開き直った。

「いいかジーク、原因はあの白いのだぞ。子猫が引き取られていった以上、何かする理由はもうなかろう。それに、あのような高貴な方に用だと言われて、それを緊急事態でないと言えるのかお前は」

 まだ子どもの年なのだし、美しいものを長く見ていたいというわがままくらいよいではないか。前言は撤回だ撤回。

 と思ったのだが、ジークに容赦はなかった。

「今のは自白ということでよろしいですね?」

 うっと詰まる。兄上が笑って遮った。

「ジーク、その辺りでよい。ヴィン、その白い子猫は、王猫に関係するものだったのだな?」

 助かった! 私は兄上の方に体を反転させて、うなずいた。

「はい、兄上。それがもう大ありだったのですよ」

「詳しく話してもらおうかな」

 近衛が食堂の扉を開ける。私は同意して、兄上についていった。

 さすがに塔の上に姫君を連れていったことは伏せた——あそこは秘密の気に入りなのだ——が、あらましを話して、王猫の不思議を伝えると、兄上もエルヴィラ様も感心しておられた。お二人も王猫のことまではよく知らなかったようだ。

 それにしても、王宮のうわさの広まりの速さよ。夕食とその後のお茶の時間で話をして、お二人が私には六割しかついてゆけぬ政の話を始めたので寝室に引き上げると、アリーセとモニカが聞いてきた。

「姫様とお会いなさったのですって、ヴィン様?」

 とモニカがにこにこして、

「猫を助けられたそうですね。ジークベルト殿が、ヴィン様がたまに話に出す白い猫が姫君のものだったとは、などと言ってうなっておりましたよ」

 とアリーセが微笑む。情報源はジークか。明日とっちめるしかあるまい。明朝には内宮中に広まっているだろうがな。

「白の塔のお方だったのでしょう? 素敵な方でした?」

 モニカがなぜか楽しそうに問う。

「まあ、そうだな」

 私はヘマの姿を思い浮かべた。中庭で、光り輝くように立っていたあの姿が、脳裏に焼きつけられたかのようにはっきり思い出せる。聖獣に仕える、高貴な賢者の、真っ白な少女。

「美しい方だった。一つ上かとも思ったが、同い年だと聞いたな」

 そう話すと、二人は顔を見合わせ、何やらしゃべっていた。

 布団にもぐり込みながら、考える。明日からあの場所に行っても白いのが来ないのは、少し……寂しいかもしれない。もうあの毛並みに癒されることはないのだ。料理長にも、飼い主、というか巫女だが……が見つかったと告げなければ。伝え聞くかもしれぬが。

 それに、ヘマにはもう会うことはないだろうと思うと、残念な心地がした。あのように話していて楽しい人は、なかなかおらぬだろうに。

 眠ろうとするまぶたの裏にちらちらと、白い色が踊っていた。



 聖曜日に後宮を訪ねると、姫たちがむくれていた。

「よく晴れた日に似つかわしからぬ顔だな、お前たち?」

 二人は頬に怒りの空気を一杯に詰めてふくらませたまま、私を見上げた。愛らしい顔が台無しだな。

「りすのようになっておるぞ?」

 柔らかな頬をつつくと、アルマは嫌がってぷいと顔を背けた。ジルケも一緒になってつんとしている。

「これはどうしたことです?」

 妃様方に尋ねる。夏らしい涼やかな装いをした二人は苦笑していた。

「困った子たちね。ほら、お兄様がいらしたわよ」

 ヤスミーン様が言うが、二人は口をとがらせる。

「い、や、です!」

「そうよお母様、ひどいですわ! わたし、アルマといっしょうけんめい計画を立てていましたのに」

 何が何やら。

 目で問いかけると、ドレスのスカートをつかむアルマを手でいなしながら、カーリン様が答えた。

「再来週の里帰りを取りやめにしたのです。それで怒っているのよ」

 帰郷を? 里を遠ざけていた母上と違い、お二人は毎年、夏と新年には帰郷なされていたはずだ。姫たちもそれぞれついてゆくのを楽しみにしていたのに。

「何かあったのですか?」

 戸惑って問えば、妃様方は大人の笑みで答えた。

村樹月そんじゅづきに二の君の大隊が帰都なさいますから。今帰っては出迎えに遅れてしまいますもの。此度は席を外してはなりませんからね」

 とカーリン様は紅茶をすすり、

「ええ、あの子に会わなければ……もうしばらく顔も見せないで。母のことを忘れたのかしら?」

 ヤスミーン様は少し怒ったように言い、それから二人をなだめにかかる。

「それに、陛下の許可がなければ、里帰りはなりませんもの。二人とも、仕様がないのですよ、このことは。こちらをお向きなさいな」

「なんで、どうしてちちうえさまはゆるしてくれないの? ははうえさまもヤスミーンさまも、ちちうえさまには会えませんってばっかり!」

 アルマは小さな獣と化していた。母君の衣の裾をぐいぐいと引っ張り、叫んでいる。

「三のあにうえさま、あにうえさまならちちうえさまに会えるでしょ? おねがいしてください!」

 私は妃様方と顔を見合わせた。カーリン様が首を横に振る。

 私はアルマの髪をくしゃりとなで、さとした。

「それはできぬのだ、アルマ」

「どうして?」

「では聞くが、なぜ父上にお会いできぬのか、知っているか?」

 アルマは不満げに首を振った。ジルケが不安そうに眉を寄せる。

「知りませんわ、お兄様。お父様に悪いことがあったとしか」

 本当はその方がいい。後宮では、何も知らずにいる方が幸せに生きられる。だが、私には予感がする——できることは全てして、姫たちを守らねばならぬという予感が。つらい真実も、少しだけは知らせねばならない。

 妃様方はいくらか暗い顔をしたが、私を止めはしなかった。姫たちにとっても、母から聞くより、外に出ている兄から聞く方がよいと思ってくださったのだろう。

「そうだな。確かに悪いことがあった。父上は悪いことをして、それを見つかってしまったのだ」

 姫たちは幼い目を見合わせた。

「今、父上は王宮とは別の場所に行っていて、一の兄上でも簡単にはお会いできん。私にも」

 二人はよくわかっていない顔で、小首を傾げている。

「だが、どうしても行きたいなら、兄上に頼めば果樹月かじゅづきになれば許してもらえるかもしれんぞ。村樹月には二の兄上が王都へ戻ってくるから、妃様方も迎えねばならんのだ。お前たちもずっと会っておらぬだろう?」

「べつに会いたくなーいっ。二のあにうえさまはわたしとあそんでくれないもの!」

 アルマは憎まれ口を叩いている。

「ゲレオンお兄様は、ヴィンフリートお兄様みたいに会いに来てくださらないし、アレクシスお兄様みたいに優しくないものね。お母様を怒らせて、だめなお兄様!」

 ジルケは芝居がかった仕草でため息をついた。全く機嫌を直してくれんな。仕方ない、最終手段だ。

「そうか……そんなに文句ばかりをいうような子らには、これはこれはやれんなあ」

 私は上着の懐から紙包みを取り出して、わざとらしく振ってみせた。

「何ですの、それ?」

「あにうえさま、それなあに?」

 姫たちが俄然興味を持って近寄ってくる。私はそっと包みを解いた。

「わあ、お菓子!」

「かわいい!」

 二人が歓声を上げる。私は笑ってそれを手渡した。

「ティエビエンの王女殿下ご一行が、手土産にとくださったものだ。母君方とも分け……無理そうだな」

 小さな二人があっという間に赤の間の低い卓にお茶の用意をし出すのを見て、あきらめる。もう一袋持ってきておいて正解だったな。こちらは妃様方に、と渡すと、お二人は残しておこうかしら、すぐに無くなりそうね、と笑ってらした。

 しかし外国の菓子の効果も食べ終えるまでで、すぐにまた不平をさえずり始めたので、一の兄上に手紙をかいたらどうだ、と提案する。これは、今日は一日中言っているだろうな。手紙を受け取ったら早めに退散するか。

 楽しそうに薄桃色の紙を出してきてふみを書く姿を眺めていると、妃様方に呼ばれた。

「殿下、少し……」

 お二人が座るソファの隣に立つ。

「殿下、陛下が本当はどちらにいらっしゃるか存じていて?」

 ヤスミーン様の問いに、顔をしかめるしかなかった。声をひそめて答える。

「私もよくは知らぬのです。ただ、誰かが獄中になどと……」

「やはりごくとうに?」

「一の殿下はどうお考えなのかしら……」

 王宮には牢獄はない。その代わり、王宮の建つ台地の周囲にいくつもある丘の一つに、塔が立っていて、獄の塔と呼ばれていた。それは王宮や王族に関わる罪を犯したものを裁判まで入れておく場所で、どこかの階は、昔の王弟を閉じ込めた豪奢な造りの部屋になっているとか。王はそこにいるようだ、と誰かが言っていた。父上は私たちの知らぬ間に、そこへ移されたのだろうか。

「殿下、できればまた後宮を訪ねていただきたいと、一の殿下にお伝えしてくださらない?」

 とカーリン様が赤茶の目を鋭くして言う。

「お伝えします」

 答えた私に、姫たちが小さな封筒を二つ押しつけてきた。

「お兄様、必ずお届けしてくださいね?」

「ぜったいですよ!」

 四人からのお使いを預かって、私は後宮を辞した。中庭の渡り廊下を過ぎる。

 兄上は今日はお部屋でお休みのご様子であったし、今から行ってお渡ししようか。そう考えてふと青い空を見上げ、私は固まった。白い、雲ではない、ここにいてはならぬものが浮いている。

「白いの⁉」

 どうみても白いのだ。ヘマのかごに入って、帰ったはずの! この三日、中庭に出ても塔や屋根の上にいても来なかったのに!

「なぜここに」

 呟いた私の頭上を、白い子猫は悠々と風に乗って通り過ぎる。

「待て! 白いの……ヴェントゾ!」

 名を呼ぶが、一切こちらを見もせず去ってしまう。うそだろう⁉

 私は動転して駆け出した。内宮の廊下を駆け、戸を叩くのももどかしく兄上の部屋の戸を開ける。

「あっ、兄上!」

「どうした、ヴィン」

 兄上はベストだけの気楽な格好で本を読んでいらしたようで、私の慌てように目を丸くしてソファに身を起こした。

「兄上、し、白いのがっ、ヴェントゾが」

 息が乱れて舌がもつれる。兄上が眉をひそめて、

「落ち着きなさい。何かあったのか?」

 私は一つ深く息を吸って、姿勢を正した。

「あの、先日姫君にお返しした王猫の子が、またいたのです!」

 一息に告げると、兄上も驚いた顔をする。

「また? 一体どうしたことだ」

「私にもどうしたのやら……」

 確かにヘマは籠を持って戻ったはずなのに。いたずらな子だと言っていたが、また迷い込んだのか? まさか王宮にこっそり居残っておったのでは。

 やきもきして身じろいだその時、開け放たれた戸を遠慮なく叩く音が響いた。

「失礼いたします、殿下、火急の便が」

 簡素な封筒を銀の盆に乗せている。

「ティエビエンからでございます。宛て先は……」

 彼は封筒をひっくり返し、顔色を変えた。

「これは、その……失礼を」

 口ごもるのをいぶかって見ていると、侍従は何と、私に封筒を差し出した。

「第三王子殿下にでございます。一の殿下にはご無礼を……」

 私はほとんどその封筒を奪い取るように受け取った。小刀を取りに行く間も惜しく、私は風の魔術の不正な使用方をした。風を鋭く小さく吹かせて小刀の代わりにし、封を切ったのだ。

 兄上が穏やかに侍従を下がらせるのを横目に、手紙を取り出す。手紙はこう始まっていた。

『ヴィンフリートへ 

 急に書いたので、字はきれいでないけれど許してください。姉様が火急とまで書いたから、あの子がそちらに着くまでには転送されると思うのだけれど。』

 ヘマだ。白いのがこちらに来ることはわかっていたようだな。

 それでほっとして、私は先を読み進めた。

『実は、今朝ヴェントゾの姿がまたしても見えなくなったのです。私たちは昨夜国境の街に宿を取り、その時にはあの子もかごの中で眠っていたのですが、今朝エンデンの町に着くといなくなっていました。急ぎ馬を駆り、白の塔へ戻って王猫に聞いてみても、戻っていないとのこと。後はお前たちの王宮くらいしか当てはなく思って、こうしてお便りした次第です。』

 その文字を使い慣れた者の、焦った時の走り書きをされたジョルベ語が、少し間を開けて整った字に変わる。

 というか、ヘマは馬に乗れるのだな。さすがは元傭兵国の姫だ。

『ところで今、書いている途中に王猫が、テルセルは風のために境の向こうの建物へ向かっているとおっしゃったわ。これでそちらにいくのは間違いないようですね。

 王猫が珍しく語ったことによると、四匹の子猫は、変化が起こる半年の間、それぞれの力の源を得やすい場所へ行くのだそうです。王猫もかつては緑と地の子であり、白の塔を囲む森で変化したと。光と炎の子も、日に照らされ暖炉もある塔は居心地よく、水の子も近くの川辺で涼んでいるのだけれど、風の子は従来気ままで、遠くの丘や岩渚クイシェまで飛んでいってしまうというのです。風のよく吹く場所を求めて。

 ヴィン、お前は風使いだと言っていたわね? どうやら、お前が風の力を持つおかげで、そちらの王宮は今のヴェントゾにとって過ごしやすい場所になっているようなのです。

 申し訳ないのですが、あと一、二か月、ヴェントゾの面倒を見ていただけないでしょうか? 私も、王猫が離れていた間の用事を言いつけ終わったら、またそちらへ伺って様子を見るつもりです。

 何かわかったら、白の塔へ、私ヘマ・ガート宛てに手紙を出してください。返事は急がなくて大丈夫です。

 急なことでごめんなさい。お礼は改めてさせてくださいね。

 ヘマ』

 読み終え、私はほっと息を吐いた。よかった、大変な騒ぎになったりはしていないのだ。白いののことで、会談の始末が悪くなってしまったらと……。それにヘマも心配はしていないようで、安心した。

 ……安心?

「ヴィン、何と書いてあった?」

 兄上の声にはっとして顔を上げる。

「ヘマの方でも子猫がいなくなったとわかっていたようです。焦る必要はございませんでしたね。お読みになりますか?」

 手紙を見せると、兄上は一読して、私に微笑んだ。

「名を呼び合える友ができたようだね」

 うっかりしていた。白の塔の巫女殿と兄上が呼んでいるから、軽く名を出していけないのではと思って気をつけていたのに、今、ヘマと呼んだような。

 どこか気恥ずかしく思いながら、うなずく。

「はい……そうかもしれません」

 友、というのは少し違うような気もするが。浮かんだ不安定な心を、小さく頭を振って消し去った。

「白いのを捜しに行って参ります。夕餉までには戻りますので」

 と出て行きかけて、封筒を懐に仕舞おうとし、もう二通手紙を持っていたことを思い出した。

「そうでした、兄上、これを」

 振り返り、薄紅色の小さい封筒を渡す。兄上はくすりと笑った。

「おや、これは姫たちか?」

「はい。どうやら不満があるようでございますよ?」

 わざとらしく深刻そうな顔をして告げると、兄上が声を立てて笑い出す。

「きちんと読もう」

「それと、妃様方が、今一度後宮への来訪を、とのことでしたが」

 今度の心配げな顔は本物だ。兄上はぽんと私の頭に手を置いて、私を送り出した。

「わかった。務めご苦労、ヴィン。行っておいで」

 はい、と私はしっかりとうなずき、行儀のことは忘れて駆け出した。

 まず料理長のもとへ行く。料理場の裏へ出ると、若い見習いの料理番がごみを持って出てきたので、そやつを捕まえた。

「すまぬが、料理長を呼んでくれぬか?」

「坊ちゃんじゃないすか。いいっすよ」

 料理番たちとは、あれから料理長を二度訪ねた時に多少顔見知りになった。料理長の勘違いは放っておいているので、皆坊ちゃんと呼んでくる。これはこれでおもしろい。

 料理長はすぐに顔を出した。

「料理長、一昨日子猫は帰ったと話しただろう? あれからここに来たか?」

「ちびですか? 見ておりませんが」

 料理長が藍の目を見開く。

「まさか」

「そのまさかだ。また舞い戻って来たのだよ。しかもあと一、二か月はここにいるつもりらしい」

「そりゃ大変ですよ! それじゃ、しばらく餌も食ってないかもしれませんね。少し待っててください」

 料理長は厨房へ引っ込み、何かかごを持って出てきた。

「魚のすり身の皿と、ミルクです。私、今夕飯前で手が離せなくてですね、坊ちゃん、ちびを捜してやってくれませんか? 返すのはいつでもよろしいので」

「もちろんだ」

 私は喜んで請け合った。料理長はいつも、してほしいことを私が言う前にやってくれる。猫のことなら考えることは同じ、ということだろうな。

 塔を登り、屋根の上に出ると、思った通り、白いのが丸くなっていた。

「白いの。……ヴェントゾ」

 名で呼ぶと、うっすら青い目が開く。私はかごから皿と瓶を取り出して、白いのにやった。白いのはぴちゃぴちゃと音を立てて、嬉しそうに食べる。ずっと飛んできて、腹が減っていたのだろう。

 それにしても、馬で二日の距離を一日で。突風でも起こし続けてきたのか? 通ったところに畑がなければいいが。作物が一部だけ折れているとか怪奇現象だろう。

「こんなことになるとは思わなんだぞ。な、白いの?」

 言って背をなでると、白いのがあくびをする。

 皿が空になったので、塔を下りた。窓から覗くと料理人は皆忙しそうだったので、かごだけ戸口の横において、内宮へ帰る。


 夜、手紙を書いた。引き出しの奥から、ユースフェルトの文様である六角星が刻印された封筒と、真っ白な便箋を取り出す。親族以外に、しかも事務的な連絡でないことを書くなど、初めてではないか?

 何と言って書き出すのが一般的だろう? 親愛なる、とか。

 モニカに相談すると、「まあ、姫君にお手紙を? 王室の便箋! 素敵ですわ、見せてくださいませ!」などと言われたので寝室に逃げた。先に風呂には入っておいたゆえ問題はない。

 王家の紋の便箋は本当に公的な文にしか使わぬというのに。王室のは封筒だ封筒。というか書き途中のものを見せられるか。

 とりあえず、半刻ほどで短めのものを書き上げた。

『親愛なるヘマ・ガート殿

 急いで便りをくれてありがとう。おかげで白いのを発見した時慌てずに済んだ。貴方の考え通り、ヴェントゾは王宮に戻ってきていた。私の力があるがゆえというのには驚いたが、貴方方のお役に立てるなら悪いことではなかろう。

 ヴェントゾにはうちの料理長が餌をやっていて、今日もそれで飯にありついていた。私も見ておくから大丈夫だと思う。

 それから、やはり風に乗ってここまで辿り着いたようだ。王猫の子はすごい力を持っているのだな。私なら一日中風を操っていては疲れきってしまうだろう。彼も少し疲れた様子だったが、食べていたし幸せそうに寝ていたから心配ないだろう。

 もし王宮を訪ねられるのなら、日程を決めて知らせてくれ。ヴェントゾがどうしているか貴方も気になるだろうし、巫女と話せるならヴェントゾにとってもその方がいいだろうから。いつでも歓迎する。

 それでは、必要なことを皆教えてくれた貴方の慧眼と思いやりに、感謝を込めて。

 ヴィンフリート・ユースフェルト』 

 綴り字を練習しておいてよかったな。誰かに宛てたもので恥ずかしい思いをすることはないだろう。

 封筒に宛名を書き、封をした。飾り気のないものだが、ヘマならこちらの方を喜んでくれるだろう……多分。


 翌朝、乗馬服をまとい、図書館のすぐ横の、書棟の一角にある受け付けに行った。廊下を歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められる。

「第三王子殿下?」

 振り返れば、金茶の髪に赤茶の目の、眼鏡をかけた若い男。

「エトガー。おはよう」

 エトガー・レームディール。文官の出世頭だ。この間、月に一度の対外貿易対策会議を、まとめきっていない資料を残して欠席し、私の諸外国語に触れる機会を与えてくれた男。あの時は妹君が急に病になったとかで休んだらしい。

「おはようございます。どちらへ行かれるのです?」

「手紙を出しに」

 答えると、彼は眼鏡の奥の目を少し大きくした。

「ご自分で?」

 使用人を使わぬのか、ということらしい。まあ、後宮にいた頃は侍従を使っていたがな。後宮から出てはならなかったから。

「まだ行ったことがなかったのだ。おもしろそうだろう?」

 セゼム語で言うと、エトガーは、

「なるほど。仕組みを説明してもらってはいかがです? この時間なら郵便官は暇をしていると思いますよ」

 とジョルベ語で言った。顔を見合わせ、微笑み合う。二人とも外国語が好きだとわかって、会うとこうして謎の会話をするのが、ひそかな流行りだったりするのだ。互いにおもしろい相手だと思っているのは間違いない。

「それはいいな。ありがとう」

 とジョルベ語で。

「どういたしまして。よき経験とならんことを」

 エトガーは王宮の文官で一番、ティエビエン語が上手いのではなかろうか。

 受け付け台の前で別れ、中をのぞくと、三十代くらいの文官が一人寄ってきた。

「手紙を頼みたいのだが」

 言うと、黒髪の郵便官は愛想よく、

「どちらまでです?」

「ティエビエンの、白の塔へ」

「かしこまりました。では、こちらに」

 欄がいくつもある書類が出てくる。

「お名前と宛て先を」

 言われるままに書くと、郵便官が手紙を受け取って、笑った。

「王子殿下、お一人では危ないのでは?」

 まあ、名を書けばわかろうな。

「案ずるな。そこらの衛兵たちが見ているから」

 そろそろ顔を覚えられてきたようで、王宮騎士団麾下の騎士や衛兵たちがそれとなく見守ってくれるようになった。近衛は言わずもがな。

「そうですか」

「転送装置は見れないのか?」

 興味本位で聞いてみると、驚いたことに郵便官は台の戸を開けてくれた。

「ご覧になりますか? 今は人もおりませんし」

「見る」

 即答したら笑われた。

 転送装置は四角い箱だった。四隅に磨かれたまじない石が埋め込まれており、対角線上に光を放って結びついている。

「どうやって送るのだ?」

「これらは、箱に入れたものを、指定した同形の箱へ送るようまじないがかかった石です。さっき紙に宛て先を書いていただいたでしょう。あれを指定して魔力を流すと、入れたものがその場所の箱に送られます。あっちは受け取り用の箱になりますね」

 なるほど、確かに同じ形の箱がもう一つある。

「ご覧に入れましょうか」

「よいのか?」

 見上げると、郵便官はあっさりとうなずく。

「ええ、白の塔への便は少ないものですから」

 と箱に私の手紙を入れ、書類を四隅のまじない石に触れるように置いて箱を覆う。郵便官が手を触れると、交差した光がぱっと強くなり、紙を取ると手紙が消えていた。

「これで送れたのか?」

 興味深い仕組みだ。エトガーの言を聞き入れるとよいことがあるかもな。

「紙にまじないがかかっておるのか」

「特別な用紙です。郵便官にしか扱いを許されていないんですよ。使用後は記録として保管します」

 と郵便官は書類を普通の箱に仕舞いながら、自慢げに言った。仕事に誇りを持っているのだな。

「これは、箱より大きなものは送れぬのか?」

 尋ねてみると、男は首を振った。

「今のところ、これが最大ですね。これ以上大きくすると、まじない石で繋げた魔力の光が届かなくなって、一部分だけ送れないといったことが出てくるそうです。大きな荷は馬に任せた方が確実ですよ」

 そしてにやりとし、

「人間なんか入れたら……真っ二つ、でしょうかね」

 何だそれは⁉

「怖いのだが」

 ぞっとしたぞ。にらんだが、郵便官はいたずらが成功した子どものように笑っていた。

「おもしろかった、ありがとう。また来よう」

 礼を言って立ち去る。男は人好きのする笑みで手を振ってくれたが、またあやつが担当だと怖い台詞を言われそうだ。

 その足で武棟へ向かった。今日は馬術の練習に行く前に、近衛の団長の執務室へ行けと、兄上に言われている。

 近衛騎士団の団長か。『恐怖の扉』事件の時に遠目には見ているが、しっかり顔を合わせるのは初めてだな。

 今回は表口から入る。回廊をすれ違う騎士たちにおはよう、と挨拶して、品のある木戸を叩いた。

「入れ」

 知らぬ声。団長だろうか。

「失礼」

 声をかけて踏み入ると、騎士の面々で知った顔が勢ぞろいしていた。バルタザールに、ヨルク、そしてカスパー。エッボまでいる。机に座っているのが近衛の団長だろう。肩上の長さの跳ねた金髪、目は切れ長で黄土色の瞳、がっしりとしていて背も高い。年は四十代か五十か、そこらだろう。背後に副官らしき、銀髪に茶の目の人物が控えている。

 皆、喜ばしげな顔をしていた。ヨルクはむっつりとし、カスパーは緊張した面持ちだが、それでも。

「おお、よくぞいらした、三の君」

 団長がとどろくような低い声で告げる。

「我が名はヘンドリック・シャウエテ。ユースフェルトが近衛騎士団、団長でございます」

 堂々とした名乗り。格好いい男だ。

「お初に。よろしく、ヘンドリック」

 微笑んで返す。

「今日は、いや、まずは紹介を。こちらは我が副官、近衛騎士団一の女傑」

 ヘンドリックが後ろの人物を振り返る。

 彼女はすっと私の方へ進み出た。他の男性の騎士たちよりは少し長く、滑らかだが短く整えられた真っ直ぐな銀髪。背が高く、周りの男どもと比べても遜色ない。体つきはすらりとして、胸当てをして武装し、ズボンを履いているから、男装の麗人といったところだ。紅を引いた唇が色を添えている。

「女傑などと……まあいいでしょう。私はブリュンヒルデ・ポーラ、シャウエテ様の副官のようなこともしておりますが、常は公の場に出られる際の王妃様の護衛でございます」

 茶の目を細めて、彼女は手を差し出した。エルヴィラ様の護衛なのか。私は握手に応じた。

「よろしく。ブリュンヒルデと呼んでも?」

「ヒルデでよろしゅうございます、殿下」

「では、ヒルデと」

 彼女は微笑んでうなずく。強く優しい華、というのがぴったりな表現だな。

「殿下、本日は素晴らしい報せがあって、こうしてご足労願った次第」

 とヘンドリック。

「それは——」

「早く言え」

 バルタザールが急かす。ヘンドリックがそれをじろりと睨んだ。

「うるさいわ、そう急くな」

 バルタザールの方が年下に見えるのにな。

「殿下、では申し上げましょう。流葉月末から流星月初めにかけての試験の結果、二名の異動が決定いたしました」

 そう言って、ヘンドリックがカスパーとヨルクを差す。それは、つまり?

「この二人が新たに近衛騎士となります。そしてこのカスパー・ハスを、殿下の専任護衛としてお付けいたします」

「本当か!」

 私は嬉々として叫んだ。

 カスパーは常々、きちんと私の護衛につける地位になりたいと言ってくれていたからな。

「カスパー」

 呼ぶと、カスパーが騎士の礼をする。

「殿下、これから誠心誠意務めさせていただきます」

 私は最大級の笑顔でうなずいてみせた。

「よろしく頼む、カスパー」

 そこに、エッボが一礼して口を挟む。

「殿下、少しよろしいですかな」

 エッボも顔中が笑みになっている。

「そっちの若いのが付いたことで、わしもこれを言えるようになり申した。殿下、最近の馬術の進歩は、上出来にございますじゃ。遠乗りに出なされるのを許可いたしますかの。その若いのを連れて行きなされ」

 一瞬、息をするのを忘れた。

「エッボ」

 感動して、言葉が上手く出てこない。おかしい、私は語学は得意なはずなのにな。

「ありがとう。お前のおかげだ」

 やっとそう言うと、エッボはしわくちゃの顔をもっとくしゃくしゃにして、笑んだ。

「殿下のお力じゃよ」

「ハス、これを以って命じる。任に就け」

 ヘンドリックの声に、カスパーが私の背後につく。そうだ、これが正しかったのだ。カスパーを私の騎士にすると、兄上が言った時から。

 とてもしっくりくる立ち位置。

 くるりと振り向き、自信に満ちた笑顔をした、焦げ茶の髪に緑眼の、私の騎士を見上げた。

「カスパー、お前は、私の剣であり盾であるか?」

 歌うように言えば、カスパーは嬉しそうに、

「はい、殿下。貴方様をお守りいたします」

 と答える。

 くすくす笑っていると、バルタザールが言った。

「ベルズの方は兄君の護衛にお付けしますよ」

 ヨルクはと見ると、相変わらず不愛想な面だが、嬉しそうなのは伝わってくる。とうとうこやつが兄上の近衛か。何にしろ、命に代えてもお守りしてくれるだろう男ではあるな。

「よかったではないか。おめでとう、ヨルク」

 祝福してやろう。これは、私にも、カスパーにも、彼にも、新しい門出だ。

「励むがよい。兄上のお傍は厳しいぞ? まあ、お前ならやってゆけるだろうがな」

 言うと、ヨルクはやっと相好を崩した。唇が笑みの形を描く。

「その心づもりでございます、第三王子殿下」

 おお。やっと呼んだか! こやつ、敬称で私を呼んだことすらほとんどないのだからな。何という頑固者か。だが、それゆえに信頼できる。兄上にはそういう者が必要だ。

「ではそろそろ参りましょうかの」

 とエッボ。そうだ、馬術の時間だったな。

「そうだな、ではヘンドリック、失礼しよう。カスパーは連れて行ってよいのだな?」

「無論でございます。よい日を」

 私たちは三人、連れ立って執務室を出た。カスパーが口を開く。

「殿下、地曜日に遠乗りに出てよいそうですよ」

「いつものように呼べ」

 私はまだ嬉しい気分で言った。カスパーも同じだったようで、笑顔で答える。

「はい、ヴィン様」

「どこか行きたいところはございますかの? 練習の一環だと思ってくだされ。わしもついて参りますでの」

 エッボに聞かれ、考える。

 行きたいところはあった。ずっと行きたいと思っていて、だが言い出せなかった場所。

「一つ、あるのだが……」

 おずおずと口に出す。二人は耳を傾けてくれている。

 ヘマに話せたのが、一つのきっかけかもしれなかった。それに新しい世界の広がりが、背中を押す追い風のように、私をぽんと飛ばそうとしていた。

「母上の……墓参りに行きたいのだ」

 二月半ほどだろうか。環境も、考え方も、することもできることもぐんと変わって、行く暇がなかった。それに、行くと思うと、ほんの少し怖かった。母上の棺を埋葬したあの日の、壊れかけた心を思い起こすと、足がすくむ。

 だが、もう、今なら行ける。私は母上のいない世界で、生きてゆく力を手に入れ始めている。出会いがいくつもあった。再び勉強を始めた。馬にも乗れるようになったし——エッボが助けてくれていれば、だが——体術も上達した。風を意識して操り、世のことを知ることができるようになった。

 そうして、ヘマに、自然に母上の亡くなったことを話せるようになったのだと、気づかされた。

 二人は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「よいお考えです、ヴィン様」

「王宮の裏の丘へ向かわれるのですな。他に一人か二人、連れてゆける騎士がないか打診しておきますかの」

 私は何だか胸が一杯になって、厩へ歩きながら頭上に広がる青空を見上げた。深い青をした、夏の空であった。

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